2012年03月15日

山の辺の道 一本の木

山の辺の道の天理と桜井の市境に一本の気になる木がある。株元から三本に幹分かれしているが一本
の木である。冬でも葉を落さないところを見ると常緑樹と分かる。葉の色形や木肌の模様から推して
クスノキと思う。

初めてこの木の存在に気が付いたのは一昨年の春四月のこと。景行天皇陵後円部の壕端近くの山の辺
の道で菜の花の咲く景色を撮った時だった。初めてそこに一本の木が立っていることに気付いた。

 s-P4214995景行天皇陵の一本の木.jpg
 一本の木 春

かつては畑地であっただろうと思われる荒野原に独り立つその姿に何か惹かれるものを感じた。あれ
から二年、春夏秋冬そこを通るたびに写真を撮り続けているが、何故こんなに惹かれるのかその理由
をいまだ見つけることができない。ただ何故そこに立っているのだろうかという思いは一段と強くな
っている。

 s-P2160106景行天皇陵地殻の独り木.jpg
 一本の木 冬

初めは、飛ぶ鳥の落とした種子から一人生えしたものと思っていたが、どうもそうでもなさそうだ。
その木の株元を見ると、直径2m、高さ1mくらいに盛り土がされていて、その中央からその木は生え
ているのだ。つまり、誰かが、意識してその場所に植えたということになる、のではないか。

地元の人にこの木のことを聞いてみたが、その木の存在すら知らなかったり、あることを知っていて
もそれ以上のことは知らないようだ。

 s-PA192922一本の木.jpg
 一本の木 秋

クスノキは楠とも樟とも書くが、楠の字はその木の分布が日本列島の南、本州西部から四国・九州の
地域にひろがっていることに由来する。樟の字の方は、「薬(樟脳)の木」を語源とする説もある
が、枝葉に特異な芳香を持つことから、「臭し(くすし)」が「クス」の語源となったという説の方
が適当と思う。実際に木の葉をちぎって臭いを嗅ぐとニッキのような香りがする。嫌な臭いではな
い。防虫剤の樟脳(しょうのう)の臭いとは違う。
  s-P3140419白梅と一本の木.jpg
 一本の木 梅花早春

樟の字のつくり「章(しょう)」を辞書でひくと、「死霊が家に戻ってきて入るのを防ぐため、出棺の
あと門戸に注連縄(しめなわ)を引き渡すこと」という意味がある。必ずしも樹の臭いをあらわす字で
はないことが分かる。
どうもこの「章」の字に、その一本の木がそこにあるわけをひも解く鍵があるような気がしている。
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2012年02月29日

春隣り 二月の奈良

先の週末久しぶりに奈良を訪れた。週間天気予報に反して土日は時おり雪も混じる冷たい雨降りの天
気になった。この冬の寒さは全国的なことではあるが、調べてみるとこの二月は奈良でもここ3〜4
年のうちでも最も寒い2月となった。

 s-P2240050二月冬木の朝.jpg

あと数日で二月から三月に変わるが、葉を落としシルエットだけになった野山の木々も、よく見ると
真冬とは違うけぶるような赤みを帯びた色あいに変わってきている。まだまだ冬景色と言ったほうが
適当だが、路傍の石仏に供えられた菜の花や水仙の花を見ると、季節が冬から春に移りつつあること
を教えられる。
こんな時季を「春隣」と言うのだろうか。言葉は目にする景色とはまた違った情景を伝えてくれる。
確かによく見ると自然は春の装いの支度をしているように見える。

 s-P2250173村のご本尊さん.jpg 

2月24日(金) 山の辺の道 天気:曇りのち晴
山の辺の道に梅の花を撮るつもりで来たのだが、この寒さで里の梅の開花は例年に比べ大幅に遅れて
いる。花はまだ開かず固い蕾のままだった。去年の今頃はもう白梅は盛りの時期を過ぎようとしてい
たのに。
梅ばかりではない。椿も遅れている。やはり昨年の今頃、景行天皇陵から東に入った山中で「侘助」
の大きな樹を見つけた。その時は椿としてはやけに小さな花だなという程度の印象だった。後日その
花が有名な?「侘助」と知ってから、もう一度撮りたいと思っていた。今回改めて当時の記憶を頼りに
やっとの思いでその樹のある場所を探しあてたのだが、残念、これもまた固い蕾だった。

 s-P2240079櫛山古墳冬木.jpg 

山の辺の道を挟んで崇神天皇稜のすぐ東隣に櫛山古墳がある。この古墳は宮内庁の指定から外れてい
るので、ありがたいことに墳墓内へ自由に立ち入ることができる。しかも下草はきれいに刈り取られ
ていて、とても歩きやすい。里山の雑木林のようだ。
この古墳にはもともと周濠は無いが、墳墓の周りを取り囲む養魚池や水田があたかも濠のようにこの
古墳を守る。墳墓の内から見ると水田はまるで湿原のように見える。冬木立と重なり絵になってい
る。見通しのきく冬ならではの風景だ。

 s-P2240146渋谷町農家庭先.jpg s-P2240155割大根.jpg
 

崇神天皇稜と景行天皇陵の間に柳本町の集落が広がる。その集落に、山の辺の道を歩くとき必ず立ち
寄ることにしている一軒の農家がある。黒色のトタン板に覆われた茅葺屋根を持つ旧い家である。奈
良ではそれほど珍しいものではないが、都会ではけして目にすることはできない情緒あふれる家なの
だ。
その軒先に何やら白い簾のような何かが吊り下がっている。丁度買い物から帰って来たお母さんに聞
くと「わりぼし」と教えてくれた。大根を割って(縦に切って)干したものである。家に帰ってから調
べてみると、大根の産地では当たり前の一品のようだが、見るのも聞いたのもこれが初めてのことで
あった。

 s-P2240142どれでも百円.jpg 
 山の辺の道沿いの無人店舗 猫柳の花芽が春を告げる

2月25日(土) 田原本町 天気:雨
朝から雨。国道24号を唐子・鍵遺跡に向かう。田原本町(たわらもとちょう)に入る少し手前で大和川
を渡る。渡るといっても川幅10mにも満たない細い川にかかる橋である。
しかしこの川の両岸は枯れた蘆か葦に覆われていてなんだか郷愁を誘う魅力的な景色に感じた。車を
降り、堤防道を歩いて戻る。晴れていればこの川の先に大和の青垣と言われる山々の連なりが見える
はずである。山並みを入れるのは又の機会にするとして、とにかくシャッターを切る。

 s-P2250168大和川冬景色.jpg 

 2月26日 西ノ京 天気:曇り時々晴
ひどく寒い朝。平城京跡に寄ってから西の京へ向かう。山の辺の道では蕾でしかなかった梅が薬師寺
ではすでに花開いていた。山の辺と比べてもそれほどの高度差があるわけではないがそれでもここら
は幾分暖かいのか、こんなに蕾が開いている。
とりあえず梅の花を写真に撮った。今回の奈良の旅はこれで終わり。

 s-P2260271薬師寺の白梅.jpg s-P2260288紅梅薬師寺.jpg 




 
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2012年02月07日

残柿あるいは木守柿 冬の季語に写真

崇神稜の近く山の辺の道の傍にかつては果樹として栽培されていた大きな柿の木がある。いつもは足
もとを見ながら通り過ぎる階段道だが、今日は瑠璃色の冬空を背景にしたこの残り柿が目に入った。
どこか心惹かれるものがあって撮った。

 s-PC149800冬木.jpg
 「残り柿のある道」

俳句の冬の季語に「木守柿(きまもりがき)」という語があることを、最近よんだ句集で知った。
「木守」とは木の番人、木に残しておく果実、最後に残ったもの。本来は人が意識的に残した柿の実
をいうが、今では「木の上に残った柿」を指すようになったと。
「木守柿」なか含蓄のある語だと思う。残された柿に「来年も実るように」という、人の思いが込め
られていたとは。※「残り柿」も冬の季語に分類される、らしい。

 s-P2019845木守柿奈良山添.jpg
 「山里の木守柿」

この一枚は奈良市に向かう名阪国道の途中、山添村で撮った一枚。
稲田の畦道や山里に独り立つ赤い実を残した柿の木はいかにも田舎らしく風情豊かに感じる。柿は今
では全世界で栽培されていると聞くが、茅葺屋根に柿の木といえばいかにも日本の原風景のようで写
真の素材としても魅力的。こちらは「木守柿」を(タイトルに)加えてみたくなる。

 s-P2109531冬霞.jpg 
 「冬木立かすむ」

霞といえば春のイメージが強いが「冬霞」は言うまでもなく冬の季語。奈良盆地はその地形が故に霞
のたつことが多いと思える。
奈良県出身の歌人前川 佐美雄(まえかわ さみお1903 年2月 5日〜 1990年7月15日)に
「春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ」
という歌がある。霞なのか靄なのか霧なのか天気は良いはずなのに遠く近くが白くかすんでしまう日
が奈良ではほんとうに多い。
たださすがに真冬の間は曇り日が多いものの霞はたたない。冬霞は寒さがわずかに緩んで、なにかど
こか春の訪れの近さを思わせる時季に発生する。同じ霞でも、景色そのものはいまだ冬景色そのまま
である。
 
 s-P2019567冬枯れ車谷.jpg
 「雲走る冬枯れの水辺」 

最後の写真、山の辺の道沿い桜井市の檜原神社近く車谷の溜池を切り撮ったもの。
「雲走る妖し水影冬の空」。さてこれにはどんなタイトルをつけようか。
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2012年02月05日

真冬の奈良 高取山の五百羅漢

壺阪寺から高取城跡に登る山道の途中に「香高山(こうこうさん)石仏群」といわれる千体近い磨崖仏
がある。五百羅漢や菩薩、如来、明王、明神などの神仏を彫り出したもので、別名「香高山異石霊
像」とも呼ばれる。

s-P2029878二月二日朝壺阪寺.jpg
二月二日壺阪寺の朝


この日、高取山は強風に乗って日本海から押し寄せるように運ばれる雪雲に覆われていつまでも夜が
明けきらないような朝を迎えた。落葉した冬の山とはいえ雑木の間を抜けて通る細道は薄暗く、木々
を渡る風の音はゴーゴーとなにか空恐ろしく響く。前にも一度来たことのある道だが独りで行くには
なにか心細くさせるものがこの山にはある。

 s-P2029981高取城跡五百羅漢.jpg
 高取山の五百羅漢磨崖仏


山道を分け入ると初めに目にする磨崖仏は安山岩の山肌に彫られた百体ほどの羅漢像。雨風にさらさ
れ続けた石仏たち今はもう目鼻もはっきりしないのに、レンズを通してなお強い視線を感じる。数十
体の羅漢が皆こちらを窺っているのだ。
こいつらは生まれてから五百年以上経っているだろうに未だ息を密め訪れる人間を見つめている。
菩薩になれないまま岩に貼りつけられ、声にならない声をあげ、道行く人に救いを求めているかのよ
うだ。

 s-P2029934高取山の石仏群.jpg s-P2029946弔いの谷.jpg
 

先に進んで行くと突然に明るく開けた場所に出る。崖といってもよい急峻な山肌に彫りこまれた無数
の石仏たち。おそらくかつてはこの崖全面が石仏に覆われていたのだろう。岩肌に浸み込む雨水の侵
食を受け長い年月の間に岩肌は深く分断され、大きな岩塊となってずり落ちあるいは転げ落ちたりし
ている。崖の上から目の前にまで展開するこの膨大な数の小さな石仏たちもいつかは全て消えてしま
うかもしれない。

 s-P2029952兵どもの霊なのか.jpg 

この石仏群は高取町観光案内によれば「1596〜1614年に本多因幡守が、高取城築城の頃、石工等に
作らせたものとされている」とある。因幡守とは高取城主本多俊正(1551〜1614)のことと思われる
が、五百羅漢像の著しい風化の具合から見て、作られたのはもっと古い時代に遡るのではないかと思
える。比較的柔らかな安山岩に彫られた石造物とはいえ、四五百年でこんな姿になってしまうものだ
ろうか。

 s-P2029880高取山の羅漢磨崖仏.jpg 

しかしそれよりも、豊臣秀長の命を受けて城郭の拡大整備に当たった本多俊正が、工事の合間に石工
に命じて五百羅漢をはじめとする神仏像を作らせるだろうか。近在の石仏や寺院の基壇、古墳石室の
石材を収奪してまで城塁造りを急いだ秀長や俊正が、改めて石仏を作ろうと思うはずがないと思える
のだ。
或いは下剋上の世とはいえ殺戮と裏切りの我が人生をはかなんだ俊正が鎮魂の願いと自身の浄土行を
願って作らせたものであろうか。いやそんな余裕があったとも思えない。
そもそも野や山に残る石仏たちは貧しい庶民層のものであり、武士や貴族など富裕層のものではない。

では、誰が作らせたのか。
戦にかり出され、命を懸けて戦い、生きて地獄を見てそして殺されていった者たちの無念を、残され
た者たちの無念が作らせたのではないのか。勝者であるものが作らせたのではない。思いは巡る。

 s-P2029998高取城跡.jpg s-P2020011高取城本丸石垣.jpg
 高取城跡の石垣

香高山石仏群を撮っていた3時間ずっと雪が降っていたようだ。高取城跡は今降り積もったばかりと
わかる雪にすっかり覆われていた。
奈良盆地を見渡す標高583.3m高取山の頂きに残るこの壮大な石垣を含む城郭は安土桃山時代の
1858年から江戸時代初頭にかけて構築された。その後300年の間、威容を誇った高取城も明治24年ま
でには取り壊され石垣のみが残った。この城に起居した人の気配はどこにも感じられない。ただ風が
吹いているだけだった。
急に、先ほどまで撮っていた香高山の石仏群たちは妙に騒々しかったなと思い出された。

 s-P2020001高取城跡からの吉野眺望.jpg
 城跡から吉野方面の眺望
 
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2011年12月16日

春日山の冬紅葉 稲畑汀子の句に寄せて

季語に「冬紅葉」がある。紅葉といえばふつう秋の風物だけど、初めて「冬」という字を頭に添えた
俳人の感性に敬服する。

稲畑汀子の句 『冬紅葉こぼれし夕日集めけり』

 s-PC129781いろは楓.jpg 

「こぼれし」は木漏れ日のことだろうか。或いは雲の切れ間から覗いた夕日ことだろうか。冬の夕暮
れ、時折雲間から差し込む陽の光を受けてさらに色鮮やかに燃えるもみじ葉の輝きを思い描くことが
できる。

『冬紅葉絵巻山路の九十九折』
『ようやくに色ととのへり冬紅葉』

 s-PC129766春日山遊歩道五色もみじ.jpg 

春日山遊歩道の登山口から500mほど上がった初めてのヘアピンカーブのあたりに「五色もみじ」の見
られる場所がある。11月の初めに通ったときに知った場所だ。
12月12日、もう遅いかもしれないと案じつつ、春日山の坂道を登った。行く道に厚く積もった土色の
山もみじの落葉を見るにつけ、ちょっと心が揺らぐ。
それでもヘアピンカーブに近づくにつれ行く先々に色づいたヤマモミジが見える。五色もみじは一本
の木ながら葉が五色に変化しながら染まって行くらしい。見ればたしかに複雑な色合いをしている。
紅葉した幾本かの木それぞれもまた異なった色を見せている。まだ緑色の葉を見せている木も目立
つ。きっぱりと朱にそまった紅葉に比べなんだが情けないようなちょっと残念な気もするが、これが
「五色もみじ」の紅葉なのだろう。

 s-PC129742春日山遊歩道紅葉.jpg 

『散り尽くすまでの変幻冬紅葉』
『同じ赤なかりしことも冬紅葉』

葉の落ち切るまですこしずつ色変わりしてゆくという冬紅葉だが、その変わりようを「変幻」とすると
はなんと美しく気ままな表現だろう。
冬紅葉の美しさは、すでに終わったと思っていたものを再び見つけたときの喜びであり、つかの間と
はいえ、色を失ってしまった冬の野山の味気なさを救ってくれる時季遅れり紅葉への感動であろう。
同じ赤い色を見せる草木が見えない野山に独りあるからこそ冬の紅葉は美しいと。

 s-PC129723冬紅葉地蔵院.jpg 

『極めるといふは狭路の冬紅葉』

「狭路」とは細い道或いは小道のこと。多分、家の前やごく身近な生活道路のこと。外出の行き来に
毎日のように通る小道の際に植栽された紅葉を詠ったものだろう。初秋から晩秋、そして仲冬の時季、を通したもみじ葉の色変わりを見つめた一句。極めるというのはそういうことにちがいない。

稲畑貞子は「冬紅葉」の句を実に多く詠んでいる。数えたことはないが30句以上あると思う。
稲畑汀子は子規や祖父である虚子の流れを汲む写生派の俳人であるので、その句は写実的であり、あ
りがたいことに詠まれたその光景を容易に思い描くことができる。しかしまれに、どうにも絵の浮か
ば句がある。

『これよりはあるがままなる冬紅葉』

他の俳人の句にしても、なんか気になるのだがどうにも腑に落ちない解らない句というもりがある。
解らないから余計に気になって忘れられない句のひとつになる。しかし、ある日突然にその句そのま
まの景色に遭遇し、一瞬にしてその意味の解ることがある。「冬紅葉」の時季はもう幾日もないが、
「これよりはあるがままなる冬紅葉」の句、どんな景色の中にみえるのだろう。
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2011年12月14日

平城山の晩秋から初冬の景色

照葉樹の雑木に覆われた平城山(ならやま)は11月の下旬から12月初旬までに麓から頂上まで朱赤に染
まる。この時季、この山に限らず奈良市街地周辺の道を走ればどこまでも続く紅葉の山々を見ること
ができる。

 s-PC039585ならやま初冬.jpg

その紅葉も冬の寒波にあえばたちまちに色褪せた枯れ色になる、そして冷たい風が一枚一枚と衣服を
剥いでゆくように枝の色葉を徐々に落として行く。
しかし葉を落としてすっきりと明るさを取り戻した雑木の森は、今度は暖かな淡黄色の彩りに満たさ
れる。クヌギ、エノキ、針桐、タカノツメやまだ多くの黄葉が平城山を彩る。
平城山の晩秋から初冬にかけての紅葉黄葉に変わる様を見る時、自然の持つ不思議さというか奥の深
さみたいなものに圧倒させられまた魅了される。

 s-PC039613コナラの森.jpg s-PC029575錦葉.jpg

尾根と尾根の間に広がる谷地田の景色もまた独特のものがある。谷地の真ん中の小山は元明天皇陵
だ。千数百年前に造られた陵墓も今では自然の一部になってしまったように見える。だがしかし平城
山は佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)と呼ばれる4世紀末から五世紀前半に造られた王墓を
含む皇族・豪族の古墳の広がる地域で、奈良では「小山をみたら古墳と思え」といわれているくらい
古墳の多い土地だが、そういう視点で見るとまるでここが死者の谷のようにも思えてくる。

奈良山は、紅葉、黄葉そして枯れ色と変わる晩秋から初冬にかけての景色がもっとも見ごたえがあ
る。

 s-PC109661ならやま谷地田.jpg



 
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2011年11月30日

山の辺の道 奈良市鹿野園の景色

奈良市鹿野園町にある奈良春日病院に、鹿に囲まれる仏陀の像がある。悟りを開いたのち初めて説法
をした鹿野園(サナルート)の伝説をデザインしたものと思う。
この像は、確かめていないが、1980年(昭和55年)に病院ができた時に建てられたものと思う。鹿野園
町の中で唯一町名の由来を教えてくれる貴重な建造物と言えそうだが、病院敷地のもっとも奥に位置
しているため外部には全く知られていない。

s-PB279411托鉢菩提僊那像.jpg

最近奈良市(観光企画課)が奈良市内を通る「奈良道」と名づけた新たな山の辺の道のルートを決たよ
うだ。山の辺の道が鹿野園町の何処を走っていたのか実際のところは分からないことなのだが、試し
にこの「奈良道」を歩いてみた。

s-PB279378鹿野園町奈良道.jpg

町名以外、目に見えるこれと言った名所や旧蹟のない町と思うが、さすが奈良だけのことはある、道
端に古い墓所を見つけた。

s-PB299483鹿野園町古墓地.jpg


歴史地理学者・千田稔氏は著書「風景の考古学」の中で、山の辺の道を「葬送の道」と捉え持論を展
開している。
要点だけを抜粋すると、『「山の辺」の道、つまり、山の上でもなく中腹でもない、おそらく山のふ
もとあたりを走っていた道があって、その辺りに死者を埋葬する墳墓がつくられた。「山の辺の道」
というのは、もしかしたらふつう日常生活者が歩くような道ではなく、死者を弔うための「葬送の
道」だったのではないか。』と

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鹿野園町のこの古い墓所は後方に高円山を見る場所にある。この古い墓所の前を南北に走るこの道は
まさに、葬送の道としての山の辺の道だったのかも知れない、と思えてきた。
posted by ハマー at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

東大寺26年ぶりの授戒会について

奈良・東大寺で去る11月7日から9日まで「授戒会」が26年ぶりに行われた。授戒会(じゅかいえ)は
僧侶に戒律を授ける儀式で、東大寺の僧侶7人は3日間かけて「沙弥戒」「法同沙弥戒」「具足戒」
と呼ばれる戒を受ける

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 受戒する七人の僧侶の草鞋

「沙弥戒」は出家した者(沙弥 しゃみ)が持つべき十戒のことで、@不殺生(生き物を殺さない)、
A不倫盜(盗みをしない)、B不淫欲(淫欲に耽らない)、C不妄語(うそを言わない)、D不飲酒
(酒を飲まない)、E不花髻瓔珞香油塗身(装身具や香を付けない)、F不歌舞作唱故往観聴(歌や
踊りを見聞しない)、G不坐臥高広大床(広く高い寝台に寝ない)、H不非時食(正午以後食事しな
い)、I不捉金銀銭宝(金銀財宝を蓄えない)の戒(いましめ)のことである。
「具足戒」は出家した者がその教団内で守るべき戒律条項のことで、通常、比丘(男)は250戒、比
丘尼(女)は348戒とされた。内容を知らないが、会社の就業規則のようなものであろうか。
「法同沙弥戒」は調べてみたがどういうものなのかデータがなくわからない。 ※3 戒律

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 戒壇堂の山門をくぐる僧侶たち

日本の仏教は明治以後妻帯、住職の親族への世襲が許されているから沙弥十戒の全てを実践するのは
非現実的であろう。また250もの戒律遵守というのは更に無理があるだろうし、この具足戒は鑑真が中
国から日本にもたらしたが当時にあっても環境、風習の違いから全く根付かなかったものという。

 s-PB089265戒壇堂授戒会.jpg 
 戒壇堂に向って整列するする七人の僧侶

東大寺の授戒会は約1250年前、唐から来日した鑑真和上が聖武上皇や光明皇太后らに授戒(菩薩戒)
を行って以来の伝統で、かつては一人前の僧侶(奈良時代にあっては「官僧」)として認められるため
の大切な儀式だった(時代もあった)。
今回授戒を受ける僧侶は東大寺の塔頭住職試験「竪義」(りゅうぎ)にパスした面々である。という
ことは、一人前の僧侶というよりも将来東大寺境内にある子院・僧坊つまり塔頭の新住職になること
を承認しますというような形式的儀式と考えた方が妥当と思う。多分授戒は「巻物」の授与というこ
とであろうと(勝手に想像している)。※2 授戒の手続き

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 塔頭・龍松院 住職は筒井寛秀氏

しかし「26年ぶり」ということはどういうことなのか。伊勢神宮式年遷宮の20年よりも間が長い。
東大寺境内には住職およびその家族が生活する○○院、○○坊と呼ばれる塔頭(たっちゅう)が15ヶ所以上
ある。※1
その家屋、敷地については殆どが世襲というか親から子に相続される。もし男子がいなければ養子を
とって家名を継がせるが、例え子供がいても僧侶になることを拒めばその塔頭は無縁の僧侶が継ぐ。
後継者がいない時は、住職が亡くなった後、残された家族は寺を出なければならない。東大寺の授戒
会が26年ぶりに行われ7人の僧侶が受戒したということは、七所の塔頭において新住職への世襲、交
代の時期が近いということであろう。

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 僧侶入山の後戒壇堂の山門は閉められてしまった。

26年ぶりに行われた授戒会であるがマスコミを含む外部の人間をシャットアウトした戒壇堂で行われ
た。東大寺の授戒会は奈良時代から続く伝統ある儀式であるが、今では塔頭の継承儀式のような観が
ある。
としても、1200年以上前の様式を今に継承している点はすごいことと思うし、垣間見ただけだが
実際に厳かで美しく緊張感あふれるセレモニーだった。
それ以上に「授戒・受戒」ということを知ることにより僧侶というものがどういう人たちであるべき
かの本質を知る良い機会でもあるので、是非公開の場で行って欲しかった。この日自分は、たまたま
戒壇堂前の桜紅葉を撮りに来てこの儀式に遭遇したのだが、次の機会はないだろう。

 s-PB089247戒壇堂授戒会の朝.jpg
 受戒会儀式を待つ戒壇堂

※1 『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂
宇をもたないものもある。真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に竜松院、竜蔵院、持宝院、宝厳
院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北
林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ
残っている。

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 平成23年戒壇堂前の桜は紅葉することなく葉を落としてしまった、22年秋の桜紅葉

※2 授戒の手続き 『(前略)聞くところによると、具足戒の授戒でも、一々たくさんの戒を挙げるの
ではなく、基本となる不殺生などの五戒について、命のある限り守ることを誓うか、と受戒者に尋
ね、受戒者は一つ一つを守ることを誓うという形式なのだそうです。(中略)考えてみると、これは戒
律の基本とはいっても、そればかりを僧になる人に改めて誓わせて終わるというのは、単純すぎるよ
うです。総じて日本では授戒が盛んだったとはいえず、古代末から中世初めには全く絶えた時期もあ
ったわけですから、いまの授戒の作法は、戒律が復興された時点で採用された、簡略なやり方ではな
いでしょうか。』東野治之「鑑真」(100〜103頁)

※3 戒律は、道徳的な戒めと僧たちが共同生活を営むための規律であり、仏教の本質と切っても切れ
ない関係にある教えだが、日本のように僧侶の無戒が公認されている仏教は世界に類がないことを、
日本人は自覚しておくべきことである。東野治之「鑑真」(178頁)

※参考図書
「東大寺辞典」、「誰も知らない東大寺」、東野治之「鑑真」岩波新書


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2011年11月03日

明日香村 猿石と欽明天皇

猿石は元禄15年(1702)明日香村・欽明天皇陵のある平田地区の田んぼから掘出された四体の人面
石像である。猿石と名づけられるだけのことはあって、両脚を折り曲げて座す姿はよく目にする猿が
くつろいでいるときの形に似ていると言えないこともない。現在は天皇陵に隣接する吉備姫王(欽明天
皇の孫娘)の墓内に置かれている。

 s-PB018957欽明天皇陵日暮.jpg
 夕景欽明天皇陵

それぞれに「女」「山王権現」「僧(法師)」「男」と名前(ニックネーム)がつけられている。いつ、
誰がそう命名したのか知らないが、あまり感心したものではない。山王権現は天台宗の守護神である
が、神の使いとして猿を崇拝することからこの石像が猿に似ているので安易にそう呼んだものと推測
できよう。

 s-PB018931猿石・女.jpg s-PB018920猿石.jpg

 s-PB018925猿石・法師・男.jpg

猿石が吉備姫王の墓に置かれるようになったのは明治初年ごろのことで、それまでは欽明天皇陵の南
側に置かれていたという。吉備姫王の墓の鳥居の鉄柵の中に置かれたその光景にはなにか異様な感じ
を受ける。猿のように見えなくもないが、渡来人を象ったものといわれている。性器を強調している
像(山王権現)を見ると、土偶が変化した石偶(という言葉があるかどうかわからないが)そのようなも
のかも知れない、と勝手に想像する。

 s-PB018987道標石仏.jpg s-PB018968石仏道標.jpg 
 飛鳥歴史公園舘から欽明天皇陵に向う四つ辻に立つ

なぜ天皇の墓近くに渡来人の石像が置かれていたのかその理由はわからないが、当時(6世紀)の飛鳥
(明日香)の人口の八〜九割までが渡来人(帰化人)であり、彼らが技術、文化をリードしていたという
から、渡来人の石像があったとしても特に不思議なことではない。真偽の程は不明だが、現天皇家の
祖といわれる欽明天皇が渡来人であったという説もあるらしい。
※ http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai36-Kinmei.html  「欽明天皇の真相」参照

 s-PB018817高松塚古墳.jpg
 高松塚古墳秋景色 

明日香村には、製作年代や用途不明な不思議な石像物が多くある。明日香村の高松塚地区を訪れたの
は1972年に高松塚古墳が発見された年に訪れて以来40年ぶりのことである。「アァ あれから40年」
なにを見られるのか、何を撮れるのか・・・また訪ねてみたくなった。
posted by ハマー at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

ならまち十念寺・お化粧地蔵 

この地に旧くから住む人の間では厚化粧した女を「金比羅さんの地蔵さんのようだ」と云ったそうだ。
今でもそう言われるのか知らないが、語源となった金比羅さんの地蔵さんは、ならまち(奈良市南風呂町)
の十念寺に祀られている。この寺の正式名称は「忍性山愛染院金比羅十念寺」と号し、それで金比羅
さんとも呼ばれる。

s-PA223346化粧地蔵.jpg
 お供えのリンゴとコーヒーはわかるがジャガイモは?

化粧の風習は古墳時代(4〜6世紀)に遡るが、女性の化粧が当たり前になったのは明治時代以降のこと
で、現代の女性のように顔面全てに化粧を施すようになったのは昭和も戦後のことと聞く。
子供の頃(昭和30年代)中学校の美術の先生がアイシャドウやラインをしているのがとても珍しくて話
題になっていたことを覚えている。今思えば多分東京の美術大学を出てすぐに赴任したのだろう、お
姉さんのような年齢だった。
当時の名古屋では濃い(派手な)化粧をするのは映画女優や夜の職業に従事する女性に限られ(ていたと
思うが)、周りの大人たちは一般女性でそのような化粧をした女性のことを何故かいまいましそうに
「パンパン」と呼んでいた。(どういう意味かわからなかったがなんとなく良い意味ではないと感じて
いた)

 s-P1070770十念寺地蔵尊.jpg
地蔵菩薩の性別は不明だが様ざまな人や生き物の姿に変化する

「金比羅さんのお地蔵さん」という言い方、気位の高い奈良の人々においては、金比羅さん=花街=
遊女=厚化粧と揶揄した物言いであろう。『十念寺のお地蔵さん』とは決して言わない。
興福寺の南、猿沢池あたりから十念寺あたりは東大寺や興福寺の門前町として栄え、西寺林町や東寺
林町あたりは寺社詣での夜の遊び場としての面影を今に残す。
十念寺界隈は「木辻の郭」とも呼ばれる遊里として繁盛し南東の鳴川(なるかわ)町とともに遊廓
(ゆうかく)を形成したという。

s-PA223350十念寺山門.jpg
 小さな山門でつい見過ごしてしまいそうだ

十念寺のお地蔵さがいつの時代からお化粧をしていたのかは不明だが、享保三年(1718)の銘があり、
彫られた当初はピカピカの石地蔵さまのままであったはずだ。ところが十念寺を含むこの町一帯は僅
か二年後の享保五年の火災により全て焼失した。石で造られたこのお地蔵さま姿こそ残ったものの光
背は頭上のあたりで割れ落ち、炎火に焼かれた岩肌は煤で赤黒く変わり果ててしまった。

s-P1070764十念寺.jpg
 1729年(享保14)再建の本堂屋根はさすがに歴史を感じさせる

その九年後享保十四年に本堂や愛染堂は再建された。長い間風雨に曝されていたお地蔵様は、当時京
都で流行っていたお化粧が施されお堂に祀られることとなったと推測しても、場所柄そんなに的外れ
なことではないだろう。粋な仕様ではないか。

このお地蔵さんもともとは瘡(くさ:できもの)を直す菩薩さまであるが、一つだけ願いを聞いてくれる
「一言地蔵」とも呼ばれる。何かと忙しい現今では(扉の奥に隠れたご本尊よりも)このお地蔵さまへ
のお詣りのほうが人気があると聞く。
posted by ハマー at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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