2012年11月29日

奈良葛城「風の森」について

金剛山の東の麓に風の神を祀る神社がある。神社といっても鎮守の森の中に一対の石灯籠と祠があるだけの簡素なものである。祀り神はシナツヒコ(志那都比古)。
シナツヒコは日本神話で風の神とされており、この風の神を祀る杜(もり)がいつの頃か風の杜と呼ばれるようになり、それが「風の森」と転化したものと考えられる。

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 風の森神社の祠と風化激しい石灯籠

風の森神社の石灯籠を見て驚かされた。この凝灰岩(?)でできた石灯籠の風化のすさまじさはどうだろう。金剛山から吹き付ける風雨に晒されて石の表はもうボロボロである。確証はないが平安時代以前に造られたのではないかと思いたくなる。
石灯籠というより石灯籠を模した石造物としか見えない。確かに石灯籠の形はしてはいるが肝心の火袋の部分のどこにも火口が無いのだ。これでは灯篭の役目を果たせない。しかも灯篭の各パーツをセメントでつなぎ合わせかろうじて原型を留めているという感じである。哀れというか侘しいといか・・・ほんとうに灯篭なのか迷う。

御所市教育委員会が設置した案内板には「風の森神社」を社号としているようだが、その名称、起源など由緒についての説明はない。近くの高鴨神社と一対と云う説もあるが祀り神が全く異なるし、末社でもない。正名は志那都比古神社。

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風の森神社は観音寺の裏手の茂みに隠れている 

伊勢神宮に風の神を祀った「風神社(ふうじんのやしろ)」の記録(804年)が残る。このことから平安時代にはすでに風の神に対する信仰があったことが知れる。また神話ではあるが崇神天皇の時代(紀元前97−29年)に龍田山にアメノミハシラノミコト(天御柱命)を祀ったといういいつたえ(延喜式)がある。シナツヒコの別名であり、つまり風の森の祀り神シナツヒコの分身を龍田山に遷座した、移し祀ったということであろう。

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 風の森から見る金剛の山並

古来、日本人は、水の起源であり〈生命の源〉と考えた山岳に対して人知を超えた畏敬の念を抱き、神聖な場所として崇めてきた歴史がある。
弥生時代に稲作とともに葛城の地に渡来した風の神(ヨンドン「(霊登))信仰が、この地で育まれた山岳信仰と結び付き、金剛山の麓に拡がる御所市鴨神の森を神籬(ひもろぎ)としたということであろう。勝手であるが「風の森」が風の神シナツヒコ降臨の地として考えても差し支えあるまい。

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 高鴨神社付近から風の森を見る

風の森神社のすぐ東を国道24号線が通るが、この森の辺りの地点を風の森峠という。「風の森」は奈良の地名では無いものの、峠の名称として今に残った。
この道古くは高野街道とも言われ京都、奈良方面から高野山へ向かう参詣道として用いられた歴史がある。高野山に向かう旅人はこの風の森神社に立ち寄り旅の安全を祈ったことであろう。現在の24号線は昭和の時代につけられた新たな道だが、風の森神社のすぐ西を通る小道が当時の高野街道であっただろうと考えられている。風の森峠を5~6q南に下れば吉野川に行き着く。

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 高野街道 風の森峠近くの鳥井戸の家並

「風の森」という名称に魅かれこの地に何度も足を運んだ。風の森の正体が何であるか今ではおおよそのところを理解できたが、逆に、風の神を祀る由緒あるこの神社が何故ここまで歴史的に埋没し忘れ去られてしまったのかということに興味をそそられている。

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 すっかり黄昏てしまった風の森あたりの景色
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2012年10月10日

紫苑の花

「雨そぼそぼ紫苑の花の盛り哉」という正岡子規の句がある。紫苑は中秋(9月下旬から10月上旬)の頃が花の見頃だが、この頃はちょど秋雨の時季にかかる。どちらかと言うと紫苑の花は、晴れた日よりも雨の日や夜露に濡れた早朝に見るほうが、薄紫色の花びらがしっとり落ち着いた色合いを示し、ずっと美しく感じる。なるほど、子規はいい句をつくるな、よく見ているなと感心させられる。

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 明日香村冬野にて

 シオンはふつう「紫苑」と漢字表記するが「茈菀」という字を用いることもある。この場合の「茈」は、むらさき(むらさきそう)を示し、「菀」は、しげる、さかんにしげるさまを意味する。秋、長い茎の上部に薄紫色の花が密集して咲く紫苑の姿を思えばこの「茈菀」の字の方が適当とも思える。実はシオンのこの二つの異なる表記は、「紫苑色」という色の変遷にも表れている。
 
平安時代中期頃の紫苑色は「紅(くれない、紅花)と藍とを重ねて染めた青味のある紫色」であったが、鎌倉時代初期頃までには「紫草(むらさきそう、茈草)で染めた薄い色」を紫苑色と呼ぶようになった。その後、素性の違う二つの色が混同されてというか意識されることなく今の「紫苑色」になったといういきさつがある。同じムラサキでも「糸=布」としての紫(むらさき)と、草としての茈(むらさき)の違いがあることに気づかされる。紫苑の名前はどちらからつけられたのだろう。

紫苑は日本在来の植物ではなく奈良時代以前に中国から渡来したと考えられており、鎮咳と去痰の薬効がある生薬として今も利用されている。シオンの名は花の色から付けられたものではなくその根が紫色を帯びていることからつけられたという説もある。シオンの導入は薬用が主であったが、その後花が美しかったので、観賞用に栽培された。古来より紫が至上の色とされてきたことから、平安の貴族社会において、紫苑の花姿は大変愛された。

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 シオンの咲くころ 奈良弘仁寺 '11,10,3

紫苑は一般家庭でも容易に栽培できるが、その草丈が2m以上にもなり場所をとるせいか都会ではあまり見かけない。かつて「鬼の醜草(おにのしこぐさ)≒でかくて邪魔な雑草?」とまで揶揄されたことが少しは理解できる。
小林一茶の「栖(すみか)より四五寸高きしおにかな」 という句があるが、まさに紫苑の人の背丈より大きいことに驚いているようでおかしい。
どこか影の薄い紫苑の花も、歴史的な経緯を思い浮かべて見れば感慨一入である。

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2012年10月08日

莫山先生を偲んで 明日香村冬野

十月三日、榊莫山氏が逝去されて二年が過ぎた。
莫山氏を知ったのは著書「大和千年の路」(文春新書)を読んでからで、ちょうど奈良に写真を撮り始めた2009年の夏の頃だった。その本文中「明日香」の章に登場する「冬野」という地に行きたいものと思って来たが、氏の三回忌にその地を訪ねることができた。

冬野の里、奈良県明日香村は石舞台古墳の東南3qの山中。莫山氏の言葉を借りれば「石舞台から冬野への山道は2里。うねりくねって、とても険しい。いわゆるつづら折りの山道」を上る。 石舞台との標高差500m、県道155号線の登り口からは平均斜度25°の険しい山容である。道は深い森の底を突き抜けるようひたすら走る。雲に覆われた空の光りは薄く頼りない。

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莫山氏が冬野の地を訪れたのは、その地にある亀山天皇皇子「良助親王冬野墓」に立つ墓標を見るためだったと思う。松尾芭蕉が歌枕を訪ね紀行「奥の細道」をものしたように、莫山氏もまたよく道標や墓標、歌碑などの石碑などを訪ね歩き「野の書」「路傍の書」などの著作を残した。

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「両脇の刈込がきれいな石段をのぼりつめると『良助親王冬野墓』と彫った、さして大きくはない石標がたち、あたりはしめっぽい山の空気につつまれていた。(中略)それにしても。墓標の楷書の文字がよい。ものほしげさはみじんもなく、鋭い目をして淡々と、爽快このうえない気分を宿しているのだ。気韻清浄。この山に棲む苔むした字に魅かれる。明日香の野を歩いても、これほど透明な楷書の字は、見当たらないのである。」ああやっと莫山氏が教える冬野の墓標を目の当りにすることができた。

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墓標は意外に小さなものだった。およそ150p。上の四文字は染みのようなカビのような苔に覆われて読み取ることが難しい。下の三文字「冬野墓」は読める。あっさりとした涼しげな、石碑や墓標ではあまり目にすることのない軽快な楷書。


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良助親王の墓は道際の小高い山の頂上に造られている。盛り土をしたものではなく自然の地形を利用したもののようだ。墓所の裏側の急な石段を登れば墓石のすぐ近くまで行くことができる。
墓石は花崗岩で造られた五輪塔。それよりも石柵に寄りかかるように置かれた一対の小さなちいさな石造物が気になる。確信はないが多分、一石五輪塔と思う。こちらは安山岩に彫られたもののようだ。いつの時代に造られたものかわからないが、良助親王は亀山天皇の第四皇子で鎌倉末期の皇族である。風化の具合から見てその頃に造られたものと考えてもよさそうだ。中央の五輪塔とどのような関係にあるのだろう。わからない。

良助親王の墓を更に100mほど進むと冬野の里に着く。舗装道はここまででその先は多武峰へ行く道と、竜在峠へ向かう道とに分かれる。冬野の集落を外れると人一人がやっと通れる程度の道幅で一人で分け入って行くのはやや心細い。

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ここまで登ってきた山道は、今では人も車も滅多に通ることのない道であるが、昔は吉野へのぼる本街道であったという。『冬野の里には、行者を泊めたり旅人を憩わせたりする宿も民家とて沢山あったことだろう』
明治時代まで人や物資が頻繁に行き交い最盛期には30戸ほどの家があった。しかし、大正元年(1912年)に吉野軽便鉄道(今の近鉄吉野線)が開通すると次第に衰えたという。ちょうど百年前のことである。今も三〜四軒の民家を見るが、人が住んでいるのかどうかもわからない。

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 路傍に咲く釣船草

莫山氏は言う。『わたしは、明日香の原風景は、冬野の里にある、と思っている。』莫山氏の言う明日香村の原風景がどんなものであるのか自分には謎ではあるが、冬野の里を目指すのは莫山氏の文に親しみ良助親王の墓標を確かめに来る人たちだけである。莫山先生の心の風景を見ることができたのだろうか。

追記 「冬野」地名の由来
冬野はもともとはタヲノで、これがトウノに転訛し、冬野と書き、フユノと訓読したと思われる。タヲは地形の窪んだところをいう。

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2012年09月05日

影に惹かれる 奈良心象 


影に心惹かれる。意識して影を追い探しているわけではない。フッと目に映った影に惹かれる。なぜ心惹かれるのかそこのところはよく解らないが、同じ感覚を持つ人は自分だけではないようだ。

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 「桜樹」

写真「桜樹」は奈良県道50号線桜井市穴師の道際に立つ民家、昨年の春(20011.4.14)の朝に撮影。土壁の肌の風合いと泥水ぶつけたような色染みの上に、薄曇りの弱い陽の光りが描き出す桜樹の朧なシルエット。二度シャッターを切ることができたが、その後日は陰りもう桜樹の影は出なかった。
太陽の光がつくりだす影の出現はその日その時の気象条件に左右される。そこにそのような桜樹の影ができることを知ったとしても再び同じ影を見ることは難しい。二度と見ることができないかもしれない。影の造りだした絵は、実在しない絵であり、幻影である。

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 「再生」

写真「再生」は奈良市白毫寺の境内で撮った。(2011.4.1) 石仏の裾から台座にかけて投影された椿の樹影に重なるように赤い花がポツポツ落ちていた。役目を終えた椿の花が再び違う世界に咲いた。超自然な宗教的な構図である。
影は純粋な自然現象であるが、光りの影が創る光景を心理現象として感性化することができる。影は、それを見る人の心の影なのかもしれない。

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 「大神神社」

写真「大神神社」(2010.7.8)は境内南口の小さな木橋に落ちた樹影。光りを主体にとらえれば木漏れ日となる。
「かげ」という語は影と同時に光を意味する、不思議な語である。『影が光によって生み出されていることは言うまでもないが、同じく、光りもまた影によって光としての輝きを得ている。「つきかげ」は月の光を指し「月影」と書く。「日影」は日の光り、日ざしを意味する。光りと影を同一ととらえる感性が古来より日本人にある。』(日本的感性 佐々木健一著) 光りが木樹に遮られてできた形状は光りの影である。つまり影は光りである。なにかこのあたりに、影に惹かれる理由があるように思えてくる。

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 「流影」

影は水の流れの上にも落ちる。しかし不思議なことに流れ去ることがない。いやもしかすると水に溶け、水泡とともに流れ下っているのかもしれない。写真「流影」は宇陀市の室生古道沿いの深谷川源流で撮影。(2012.7.2)

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 「手水石」

人の手によって造られた手水石も風雨に晒され太陽の光に焼かれ、摩耗しいつの間にか人の作為を消し去り自然に同化する。その岩肌に落ちた常緑広葉樹の葉影が、手水石を生命あるもののごとく豊かな表情に変える。影の創り出す形態はその落ちた場所、背景と重なり合うことにより何かを語り始める。影が過去を語り始める。影が何かを語り始めればそこに含みを持った情景が滲みだし、見る者の心に新たな像を結ばせる。写真「手水石」平群町三里の船山神社にて撮影(2011.7.10)。

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 「鑑真和上御廟」

写真「鑑真和上御廟」(2009.12.2) 唐招提寺の伽藍は高い木樹にすっかり覆われ外の通りから見ると森としか見えない。鑑真和上の御廟(墓所)は境内北東角の一際濃い緑の中にある。御廟へは開基のものとは思えない質素な造りの小さな門から入る。ふと足元を見ると敷居のあたり木漏れ日の中に森の影が映しだされていた。常に森の静寂が支配する唐招提寺を象徴する残像である。

影はそこにあるはずのない光景を見せて、消える。はかなくてそしてかげろう影。カメラはその一瞬の光景を残像として捕える。その残像が自分の心の奥深いところにある記憶を呼び覚ますようだ。影は自分の心に潜む意識を揺さぶり起こす。影に心惹かれるのはきっと、影のつくる光景に原初の記憶が共振するからだろう。
それは心象としての奈良、光と影が教えてくれる奈良の面影。
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2012年09月02日

伊勢本街道 高井の千本杉

旧い神社の多い奈良の地では、巨樹、巨木に容易に出会うことができる。奈良で写真を撮り始めてすぐに、自分は、そんな人の寿命をはるかに超える巨大な樹木を前にする時その存在感にいつも言いようのない畏怖の念に襲われるようになった。心が吸い込まれるようなそんな思いに囚われる。

高井の千本杉を見に行こうと思ったのはネットでその写真を目にしたことによる。写真の中とはいえ初めて目にしたその木の不思議な姿というか異形にただ驚かされた。ただならぬエネルギー、神秘な力を滲ませていた。なんという存在感。

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高井の千本杉は奈良県宇陀市榛原区赤埴(あかばね)にある。赤埴は江戸時代までは大阪から奈良猿沢の池を経て伊勢に向かう伊勢本街道の宿場街だが、主に室生寺へ参詣する信者たちの宿として多く利用されていた。今でも当時の宿屋(旅籠)の建物が数軒だがみごとな大和棟造りそのままの姿で残されている。明治14年以降は近くにバイパス(国道369号線)が整備されて、今では通る人も車も滅多にない。しかしそれが幸いしてかつての街道の姿がほぼそのままに残されている。

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千本杉は井戸の周りに植えられた5本の木が癒着した杉の木で井戸杉ともいわれる。徒歩の旅に飲み水は欠かせず、昔の街道には適当な間隔でよい水場が設けられ、村人も大切にし、また旅人も助かった。この高井の千本杉の根元には今も小さな井戸の口が覗き溜り水が光って見えるが、もう湧き出してはいない。

千本杉は地上1mくらいのところから16本の支幹に分かれる。樹齢は推定700年、幹周/25.0m、樹高/45m。幹回り25m、根回り35mという値は日本全国にある巨樹の中でも最大級の太さではないのか。45mの高さも人家近く道路際に生える木としてはトップクラスである。近くに見るまでは小さな森としか思えない。車で行った時、つい案内板を見落として通り過ぎてしまった。

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実際にその木を目の当たりにした印象は、その不思議なというか異様な姿かたちに唖然とさせられた。なんと形容したらよいのだろうか、巨大ダコを逆さまに置いたような不気味な姿に言いようのない恐怖感すら覚えた。化け物である。700年という年月が元とは全く異なる生物を創りだしてしまったようだ。六つの別の生命体が一つになって巨大化し生き続けるなんていうことが他にあるものだろうか。
空海が室生山へ登った際にこの場所で弁当を食べ、その箸を地にさしたところ生育したという逸話もあるが、そんな話が戯言にしか聞こえない存在感、生命力を発散する木である。

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千本杉という呼称はちょっと誇張しすぎではないかと思ったが、それぞれの支幹(主幹から分かれて出ている幹)から更に太い枝が四方八方に伸びた、もう杉とは思えない暴れ木である。千本には及ばないとは思うが「千本杉」と呼んでも差し支えない迫力ある枝振りである。

はるばる見に来てみたものの、千本杉の迫力にすっかり写真をとる気力が失せてしまった。負けた。巨木の霊に逆に写真魂を吸い取られた?
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2012年08月31日

草壁皇子の菩提寺 粟原廃寺のある村

以前は小学校だった建物で今は地区の公民館となっている駐車場に車を停めて、標識に従って坂道を上る。粟原(おうはら)廃寺跡は集落の果ての道が山の中に消えしまうところにあった。わずか500m程度の道のりだが随分歩いて来たように感じるのはそこまでずっと上り坂だったからだろう。

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伝承によれば粟原廃寺は、28才の若さで亡くなった草壁皇子(662〜689年)の追福のため(冥福を祈り)飛鳥時代の694年に着工され奈良時代に入った715年に完成した。20年以上の時日を費やして造営された。694年は丁度都が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都された年にあたる。寺の創建については中臣大嶋の誓願によるとある。大嶋死の前年の事である。順当に考えれば、持統天皇(女帝)が早世した我が子を偲んで建てた寺と言えるが、或いは大嶋の罪滅ぼしだったかも知れない。
残された三重塔の礎石は心礎は直径1.822mほどの巨石で直径82.7p、深さ3.7pの円柱孔がある。このデータから推し量るに塔は法輪寺三重塔に匹敵するほどの規模であり、伽藍の規模も相当なものであったと考えられる。
寺の名前はわかっていない。中臣大嶋も持統天皇も寺の完成を見ることなくこの世を去る。寺はその後水害にあい礎石のみを残して流れ去った、と考えられている。嗚呼、諸行無常。

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奈良の地を巡っているといつも思うのだが、今では過疎の村と言っても良いような辺鄙な土地に、信じられないような歴史が眠っていることを知らされる。その地に立つと突然に千数百年前の時代にタイムスリップさせられる。その時代に降り立ってなにをどう受け止めたらよいのかいつも戸惑う。

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寺の跡地に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている。言うまでもないが役行者(役小角 634〜701年)は修験道の開祖と伝えられる飛鳥時代の呪術者である。粟原廃寺のあるこの音羽山は仏教伝来のはるか昔から飛鳥の地に住む人びとに霊山として崇められていた。山の名の「音羽」は天狗の飛行音を表わす。天狗は、元来は中国の物の怪で、聖人は山に住まうという仙人思想とともに日本に伝わった。音羽山に連なる経ケ塚山、熊ケ岳を結ぶ縦走路は修験者の霊場である。天狗は修験者の化身である。1300前、今自分が歩いている粟原のこの道を役行者も歩き登った。

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粟原廃寺が何故羽黒山の北麓粟原の地に建立されたのかはわかっていない。だが、実際にこの地を訪れ粟原廃寺へと川沿いの道を登るにつれ感じたことは、なんと穏やかな心地よいところだろうという思いだった。飛鳥京や藤原京からは10qと離れていない近場ではあるが、秘境と言っても良い四囲を山に囲まれ外界と隔絶された霊山の麓に拡がる桃源郷のような土地である。皇位継承をめぐる骨肉の争いのさなか不慮の死を遂げた草壁皇子の菩提を弔うに相応しい山麓ではないか。

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2012年08月29日

俳人 武藤紀子氏 写真附句 八月の奈良

武藤紀子句集(現代俳句文庫――66 フランス堂)より
私自身句作はしないが、いつも言うように俳人(詩人)の視点が、自分が写真撮影に際して見過ごしてきた景色の妙味というか、異なる見方を教えてくれる。武藤氏の作品の多くは一読してイメージ(景色)の湧き出る(了解できる)句が多く自分にはとても馴染み易い。即座にイメージが湧いてこなくても、或いは意味がつかめなくとも言葉=語感の美しさに魅せられる句も少くなくない。風景詩とでも言おうか。

「 稲の花 神の不思議な 足拍子 」

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なにか魅かれるものがあって何度もなんども思い返しては口ずさんで見るのだが、なかなか読み解けなかった。
秋の季語でもある「稲の花」は、品種によって異なるが真夏の七月下旬から八月下旬の頃、六日七日かけて稲穂の上の方から咲き下りる。花と言っても白いおしべが数ミリ飛び出しているだけで、知っていなければ気づかない小さなちいさな地味な花だ。日の出から二時間くらい咲く。

「足拍子」を辞書(大辞泉)で引いてみると「足を踏んでとる拍子。能楽・舞踊・文楽などでは、足の裏全体で床を強く踏んで音を立てる。リズム感や型のきまりの効果を強調するもの」とある。
しかし、考えてみるのだがそれでも「稲の花」と「神の不思議な足拍子」が繋がらない。感覚的にはOKなのだけど、しっくりこない。
偶然とはいえないかも知れないが、稲の花を撮っていた時、突然に大粒の雨が落ちてきた。気が付くと真っ黒な雲が水に墨を流すように西の空からこちらに広がって来ていた。赤い稲妻が走った。
わかった、雷(かみなり)だ。「足拍子」は音そのもの、雷鳴なのだ。

「かみなり」の日本語の語源は、昔、雷は神が鳴らすものと信じられていたため「神鳴り」と呼ばれた為と言われる。また雷の光り「稲妻」は『稲の夫(つま)』という意味で,雷光が稲に当たると稲が妊娠して子を孕む。つまり雷光は稲の夫であると考えられていた。

詩人は「雷光が稲を実らせる」という言い伝えを知っていたのだろう。雷鳴は神の近づく足音、不思議を為す神の足拍子、そして稲妻の予兆。稲の花神の不思議な足拍子を。

「 ことばに 匂いありとせば 早稲の花 」

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残念ながら自分は未だ稲の花の匂いを知らない。判らない。臭覚は五感の中でも個人差が大きい感覚で、また匂い物質に対する感受性にも個人差があり特定の匂いはよく感じるのだけど、ある匂いに対しては感受性が低かったり、あるいは全くなかったりするような場合もよくあるといわれる。逆にある年齢になってこれまで感じなかった匂いを知ることもある。

稲の花の匂いについては、農業経済学者大槻正夫氏(1895−1980)の著書「稲と杉の国」の中の文章で了解したい。『湿度の高い空気の中に遠慮がちにほのかに漂う匂いである。柔らかい甘みを帯びた、そしてどことなく清新な気のこもった郷愁を誘う遠慮がちな匂いである。』どんな匂いなのだろう。

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夏の朝、詩人は緑一面に広がる稲田の中にいた。緑色の田表を照らす朝とはいえ強い陽射しが、夜のうちに降りた稲の花の朝露を温め霧に変えゆっくりゆっくりと大気の中を漂い広がる。そして稲の花が醸し出す命の根源のごとき匂いが詩人の全身を包み込む。

言葉には匂いがあると言う人がいる。たしかに言葉から匂いを連想することは不思議なことではない。しかし、本来言葉に特有の匂いがあるわけではない。また匂い(という言葉)に特有の匂いがあるはずもない。
この一句は「匂いありとせば」と「ことば」を条件句として示しているので、稲の花そのものの匂いと言うよりも、「稲の花の匂いという言葉」が紡ぎだす記憶に結びついてゆくのであろう。
「早稲の花の匂い」は詩人にどんなブィジョン想起させたのだろう。

「 烏瓜 ゆるくわがねて 運び来し 」

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晩秋の奈良の野道を歩いていると道ばたの草むらや、木の枝に絡みついた朱色の卵形の実をよく見かける。つる性の植物で、実が朱く色づく秋になるまではなかなか気付かない植物だ。

この句を読んですぐさま一枚の写真を思いだした。東大寺二月堂で撮った写真。この烏瓜、散歩の途中に刈り持って帰ったのだろう。無造作にわがね、戸口にの柱に飾りつける僧侶の姿が目に浮かぶ。「わがねる」は「綰ねる」と表記する。「細長いものを曲げて輪にすること」で日常的にはあまり使わないと思うが、綺麗な響きを感じる。

他者の詠んだ俳句を読む面白さは、知らない言葉や熟語を知る楽しみ、更に季語を知ることによりその時季ならではの景色を予測できるようになることだ。それにより自分の感覚や感受性を鋭敏にし、意識をも高めることができる。その意識を目の前の景色に投影することによって、目に見える景色の幅と奥行きが広がり深くなる。

「さまざまな花を詠み来てさくらかな」

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「武藤紀子句集」には398の作品が収められている。数えてみたのだがその中で詠んだ花の種類は24あった。意外に少ないことに驚く。当然句集にある以外の武藤氏の句にはもっと多くの花が登場すると思うが、この句集では多くは木花で、草花は「朝顔、菊、昼顔、庭石菖、松虫草、ふじばかま、文字摺花、桔梗、蓮」と意外に少ない。

俳人に限らず自然写真を趣味とする人びとも好んで「花」を撮る。写真を始めた頃自分は「花」を撮ることに抵抗感があって避けて通っていたのだが、いつの間にか求めて撮るようになった。木花では梅、桃、椿、桜、卯の花、蝋梅、石楠花、牡丹、紫陽花、芙蓉、槿、百日紅、稀に薔薇など。草花は、スミレ、タンポポ、蓮華草、杜若、蓮、桔梗、ユリ、ギボウシ、菊、朝顔、向日葵など目についた「さまざまな花」を撮ってきた。それらの花を撮る理由は深く考えたことはないが、綺麗、美しいからという動機もあるが、それ以上に季節や地域性の中での自然の状況を現すのに都合がよいからだと考えている。
そしてそれらの花の中でもやはり「さくら」は別格と思う。

百花繚乱というように春はさまざまな花が咲き競う。足元の花、目線の先にある花、川の向こうに咲く花など季節から溢れ出るように咲く。その花の中でも、桜は冬の終わりの緋寒桜に始まって、染井吉野、山桜、牡丹桜といちい名前は知らないがその種類が多く、早春から晩春まで意外に花の時季が長い。春と言う時間の流れの中にあって草の花、他の木の花が忙しく咲き散ってゆく中で、桜は悠然と咲きつないで行く。

「さまざまな花を詠み来てさくらかな」という気持ち、確かに共感できる。野山で山桜の樹の下に独り来て天を覆うさくら色の花絵傘を仰ぎ見たとき、なにかほっとさせられる。こんな雰囲気持つ花はさくらの他にはない。
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2012年07月20日

奈良毛原・長久寺「大師山」の開基「智龍」を追う

長久寺は奈良と三重県との県境、笠間川がえぐり取った大和高原の深い山峡の谷地に展開する
奈良県山添村毛原集落の中にある。

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 朝日に光る笠間川 向かいの山の先に毛原集落がある 
 
この寺の創建、由緒等は定かではないが江戸時代の終わり頃には住職不在の破れ寺だった。 
寺から200m程西へ行った集落の中央あたりに、奈良時代以前に建立されたと推定される古代寺
院の巨大な伽藍礎石がほぼ当時のままの配置で残り、礎石群を取り込むように家屋や畑地が広が
る。毛原集落の歴史の深さをうかがい知ることができる。

 s-P7031970毛原廃寺礎石.jpg
 毛原集落の残る巨大廃寺の礎石

長久寺の裏山に四国八十八所霊場を模した「大師山」(だいしざん)というミニ遍路がある。
ミニ遍路といっても、平均斜度が45°以上もある急峻な長久寺の裏山の、崖に沿った獣道のよう
に狭いつづら折りの道を登るハードなコース。手摺もロープも無い、30〜50p程の高さの石段が
この遍路の厳しさを見せつける。足腰の衰え始めた自分のような年寄りや、脚の短い者にはかな
りきつい。
山の斜面に屹立する樹木が空を覆い、日暮れた森の中のように薄暗い。梅雨のこの時季、風のな
い山内は蒸し暑く、気が付けば全身汗だくになっていた。ミニ霊場などとあなどってかかっては
ならない。長久寺の遍路道はむしろ修験の道と言った方が適当かもしれない。

 s-P7042077二尺石段.jpg s-P7021754巡礼道.jpg
 40pもある石段が続く         昼なお暗い遍路道 
     
明治七年(1874)、無住となっていた集落の菩提寺長久寺に、奈良・初瀬寺(長谷寺)で「仏教の
奥義を修めた」ひとりの僧侶が住職として就任した。宝山智龍という僧名を持つ33歳の青年僧
である。
この青年僧、天保12年(1841)出羽の国(現山形・秋田県)遠藤家に生まれた。詳しいことは分か
らないが、16歳の時(安政四年、1857)に出羽の国湯殿山注連寺に出家。その後諸国を行脚し、
28歳になった明治二年(1869)初瀬寺(長谷寺)で修業に入り、明治七年(1874)に無住荒廃した
長久寺に住職として赴いたとある。

 s-P7042026本堂への石段.jpg
 長久寺本堂への石段アジサイが飾る 

驚くべきプロフィルではないか。智龍は、幕末という日本が不気味に揺れ動き始めたその端緒
に出家し、300年間続いた江戸幕府が消滅し明治という新たな時代が立ち上がる激震のさ中に日
本を行脚するという危険極まりない行動に出た。そして続く廃仏毀釈というかつて仏教界が経験
したことのない苦難の時を、智龍は体験する。それまでの国教であり智龍自身の拠りどころでも
あった仏教は否定され、日本の寺院の大半が潰された激変の時をである。出家した智龍にも思い
もよらぬ事態、展開であっただろう。 

 毛原集落.jpg
 長久寺から見る毛原集落

長久寺の住職となった智龍は寺域に開設された毛原小学校で教鞭をとったとある。江戸から明治
に変わった明治五年(1872)、時の政府は学制を公布し、全国に小学校をつくり6歳以上の男女が
身分に関係なく通うことを目指した。長久寺の住職となった智龍が(寺小屋に変わる)小学校に容
易に職を得、とにかく生計の糧を得ることができたことは、僧侶の還俗、帰農を意図した明治政
府の思惑があったとしても、僧侶が大量リストラされた時代にあって、幸運であったかもしれない。
 
 s-P7021722長久寺発心門.jpg
 大師山への入り口「発心門」 

長久寺の住職に就いてから6年後の年明治十三年(1880)、智龍は病の床にあった。出家し長久寺
の住職となった二十有余年というもの、仏教は否定され、僧侶としてアイデンティティを保つこ
とが困難な年月の中、智龍は傷つき疲れ切っていた。
そんな或る夜、智龍の夢枕に金色輝く弘法大師が現れ、「本境内ノ裏山ヲ開キ仏法ノ興隆ニ一身
ヲ捧ゲヨ」との、お告げをうけた。壮年期を前にした39歳の智龍は、崇拝する空海に自身の力を
試されているのだと、瞬時に悟った。空海のお告げは僧侶とし無力感に焦燥し追い詰められる智
龍の心の叫びがもたらしたものだったに違いない。

 s-P7042082奥院磨崖仏.jpg
 奥の院の磨崖仏 右が開山智龍坐像 

明治十五年、智龍は三年足らずの期間で霊場「大師山」を創建した。自力で山を開き、自然を生か
しつつ四国八十八所に倣って多数の石仏を創り安置したという。
自力で・・・ということは組織の力を借りずに、ということであろう。長久寺の(当時の)本山であ
った東大寺も廃仏毀釈の荒波をかぶり、末寺の面倒を見る余力はなかった。

 s-P7042061特異な石仏.jpg s-P7021758静座緑陰.jpg

大師山の遍路道を辿ると大小さまざまな石仏に出会う。この長久寺の石仏の大きさはまったく不揃
いなのだ。至極大きく立派な石仏もあるが、中には自然石の上に頭を載せただけのように見える石
仏もある。きっと信者からの寄進を受けては、大小、見た目に拘らず一体、また一体と造っていっ
たのであろう。本山の助力に頼ることなく、自らの托鉢行脚のみで得た浄財でもってこの険しい山
を切り開き、道を整備し、八十八体から百体の石仏を揃え、安置することは並大抵のことではなかっ
たはずだ。
 
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 十六番観音寺

注連寺のこと
智龍が出家した注連寺は山形県鶴岡市にある真言宗智山派の寺院で山号は湯殿山。芥川賞作家森敦
の受賞作「月山」の舞台である。無論森敦が智龍のことを知るはずはないが、何十年も国内外を放
浪して注蓮寺に辿り着いた森敦と、注蓮寺を出て十年近くの歳月諸国を行脚した智龍の、入口と出
口いう裏表の関係の中心に注連寺があることに興味を覚える。

湯殿山の開祖は空海とされる。出羽三山が女人禁制であった江戸時代までは「女人のための湯殿山
参詣所」として信仰を集め、門前町の中心として大いに賑わった。智龍はその注連寺に出家するも
間もなくして諸国行脚の途につく。

 s-P7042073松幼木に囲われた.jpg
 やがてこの石仏も松や檜に覆い隠されてしまう

何故智龍は出家しその後間もなく注連寺を離れたのか。16歳から28歳という最も多感な青春時代を、
日本の国が激変激動した逆風の時代を智龍は諸国行脚した。何を考え、何を見たのか。そして何を
目指したのか。(そしていかなる経緯で奈良は長谷寺に辿り着いたのだろうか。)今はまだ何も分か
らない。

●参考URL
智龍上人
http://www.ne.jp/asahi/yuhi/net/chokyuji/chiryu_syonin.htm
湯殿山注連寺
http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/
posted by ハマー at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月29日

梅雨の室生古道 六月の奈良

室生古道は室生寺から仏隆寺を経て本伊勢街道に合流する宇陀市高井の集落に至る7〜8q
の山の道。古道と言っても今では完全舗装された林道に変わっっているが、かろうじて
仏隆寺から唐戸峠までの1.1qの間には旧道も残り、古道の雰囲気を十分に感じ取ることが
できる。

s-P7021616室生古道仏隆寺寄.jpg
仏隆寺から室生古道に入る

唐戸峠は室生古道の途中にある一番の高所(665m)で最も眺望の良い地点(と思われる)。
この日の午前中は梅雨のさ中の雨降りの天候で、あいにく遠くまでを見通すことはかなわなかったが、
深い谷を隔てた目前に聳える山々に霧のような薄く雲が流れ行、まるでミニ山水画を見るようだった。
天候や時間が変ればきっと、もっとさまざまな景色を撮ることができるに違いない。

 s-P6251440室生古道唐古峠から.jpg
 唐戸峠あたりから見る山谷

この唐戸峠の「からと」という名称だが、「唐戸」は建築用語では両開きの板扉の総称。
奈良時代から平安までにはこの峠に関所が設けられ、その門が唐戸(板扉)で閉じられていたこと
から名付けられたに違いない。
仏隆寺は空海(弘法大師)が唐から持ち帰った最古の茶を栽培した所といわれ、大和茶発祥の
地とされている。唐戸峠の関所はこの茶の種の他国への流出を取り締まっる監視所だった。
よそ者(特に隠し所の多い女人)の往来を制限していたのではないか。(と、考えてみても見たたが
関所の存在はまああり得るとしても、お茶の種の流出防止が目的ではなく、もっと他の理由だった
のかもしれない)※ 追記

 s-P6251449唐戸峠.jpg
 唐戸峠 完全舗装された新道

室生古道を行くのは今回が初めてのことだが、三余年前に仏隆寺までは一度だけ来たことがある。
冬の雨の日で、その時に目にした雨にかすむ山並みが忘れられず、いつかまた訪ねたいと思いつつ
今日になった。

 s-P6251463雨滴(タケニグサ).jpg s-P7021618山アジサイ雨光.jpg
 道ばたで良く見かけた「タケニグサ」に梅雨が      古道沿いに点々と山アジサイが咲く    

本伊勢街道と室生寺を結ぶ「室生古道」。むろおこどう、なんと美しい響きだろう。
今では休日ともなれば歴史と自然が大好きなシルバーウォーカーが群れを為して通り過ぎるが、昔は
(多分戦前あたりまでは)決して気楽に通行できる道ではなかったと思える。昼日中でも鹿や猪に遭遇
する深山の険しい山道。物見遊山の旅人が室生寺への近道として気軽に行き来できる道ではなかった
はず。
修験者や杣人の道、時には表街道を歩けない訳あり者の抜け道だった。
室生古道はそんな思いに浸りながら歩いて行ける雰囲気を持った道である。

 s-P6251403古民家.jpg
 宇陀市榛原区赤埴(あかばね)の古民家

仏隆寺から少し山に上がったところに茅葺の旧い民家があった。まるで向井潤吉氏(1901~1995)
の描く古民家のような佇まいだ。保存民家ではない。今も居住者が生活する現住家屋である。
この地区でも現存する茅葺屋根の家屋の殆どがトタン葺に変わってしまっているのに、これは
ほんとうに珍しく貴重なモノと思う。古民家ブームではあるが、生まれて以来住み続けるこの家の
住人にとってはそれなりの不便や苦労もあるだろうが、今後も是非現状を維持してもらえたらと
願うばかりだ。

 s-P6251488深谷川源流.jpg
 「深谷川」源流 室生湖に流れ込む

唐戸峠から1.5qほど室生寺方面に進むと、道の左手に細い水の流れが現れる。室生湖に流れ込む
深谷川の源流だろう。流れは川の両岸を覆う笹や木々に隠されてややもすると見逃してしまいそう
だが、所々に垣間見える川を包む景色にはなにか心惹かれるものがある。
錆色の河床と笹の葉や苔色に染まった木肌との緑の対比が心地よいバランス感を創りだしている。
この流れは5,6百mくらいの間、道の左や右を並行して流れていたが、突然消えてしまった。

その先しばらく杉や檜の植林の間の道を行くと、唐突に室生の集落に出る。


※追記 2012.9.8
唐戸峠に関して
大阪・奈良方面から室生寺への参拝は室生口大野から室生川沿いの道を車で行くのが普通だが、昔はこの道(奈良県道28号)はなく、大野寺の参拝後、今は東海自然歩道となっている山道を歩いた。しかしそれも昭和五年(1930)に参宮急行鉄道(現在の近鉄大阪線)の室生口大野駅が開業された以降の事である。それ以前は伊勢本街道の高井から入る室生古道を行くのが最短ルートであった。
唐戸峠は、室生古道を、仏隆寺を経て室生寺へ行く入り口にあたり、そこに関所が設けられていた(と思う)。『関所は、古代では軍事防衛上の目的で設けられたが、中世になると、軍事警察より、経済的な作用を持つ関所が主となってくる。すなわち私的な交通の増加に伴って、道路や港などの開発や維持警護に要する費用を利用者から徴収するという趣旨であったが、やがて朝廷や寺社が、領地からの収入の減少を補充するため、関所の通行料(関銭)に新財源求めるようになり、さらには土豪がその上前をはねるようになって、おびただしい関所が作られた。(中略)伊勢本街道の通行者が増えるにつれて、通行料を徴収するための関所が十五世紀中頃各地に設けられた』『仏隆寺のある赤埴(あかばね)は、鎌倉時代から見える荘園名で、興福寺大乗院領であった。当時の地頭は赤埴殿と古文書にある。赤埴は当時から伊勢街道の要地であったから関所が四か所も設けられた。』
唐戸峠は、室生古道を通って室生寺に参拝に行くには通らざるを得ない峠道で、峠を越える人々から関銭を徴収するための関所を設ける場所として最適であった。
室生古道の「唐戸峠」については伝聞や資料が(いまのところ)見つからないので、由来について本当のところはわかっていない。唐戸峠の南東に唐戸山がある。


posted by ハマー at 18:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 長谷・室生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月20日

室生寺 シャクナゲを植えた人たちの

室生寺 5月12日
時季としては遅かったのだが、それでも境内のところどころにシャクナゲの花が残っていた。
参道から伽藍を囲む密生したシャクナゲの木を見れば、満開の頃の見事さを容易に想像すること
ができる。
室生寺はシャクナゲの寺としてよく知られているが、なんとその数3000株もあるという。
このシャクナゲ、自生していたものではなく、昭和9年(1934年)以来信者の移植奉仕により、
山門から奥之院までの参道を埋め尽くすようになったという。

s-P5121173室生寺シャクナゲ.jpg

この移植の経緯はあまり知られていないようだが、「私の古寺巡礼 奈良」――室生寺の章のなかで
田中澄江氏(1908−2000)が次のように記している。

『〜開花期は(牡丹に比べ)普通シャクナゲの方がすこし早いのだけれど、樹齢50年は越えようと思わ
れる樹が多く、海抜400mの山気の冷たさが幸いして、十分にまだ、満開の花を楽しむことができた。
杉や檜の老樹の間を埋める、うす紅や鮮紅の花のあでやかさは、息をのむばかりで、昭和九年から発足
したという信徒たちのシャクナゲ講の丹精が見事に実っていた。 室生寺の南には吉野、大台ケ原の
峻嶺険嶺が連なり、その山腹や渓谷には、ツクシシャクナゲやホンシャクナゲが群生している。(中略)
十人ばかりで組織するシャクナゲ講のひとたちは、自身、スコップをかつぎ、唐鍬を持って、吉野や
大台ケ原の深山に入って採取し、室生寺の境内まで運んで来て植えつけるのである。その力業を必要と
する仕事には、女も進んで参加し、祖母から母へ孫へと手入れを受けついでいる。女人高野にふさわし
い床しい奉仕と思われた。』

s-P5046356.jpg

はたして女人高野にふさわしいのかどうか自分には分からないが、講のひとたちがシャクナゲの植栽を
決意したのには、なんらかのきっかけか理由があったはずだ。

今風に言えば「村おこし」みたいに、観光客招致を目的としてシャクナゲの植栽奉仕を決意したとはと
ても考えられない。昭和九年という年は、日本が戦争に向けて暗黒のトンネルに二歩、三歩と確実に踏
み込んで行った時である。世相的に必ずしも明るい時代ではなかった。

今では車やバスを使えば楽に室生寺に辿り着け、参詣もできるが、昭和九年の当時、室生寺へは近鉄
室生口大野駅から室生川沿いのおよそ7q道のりを徒歩で登りきらなければならなかった。
帰路も同様である。
室生寺は太古の昔もその当時も気軽に行けるような場所ではなかった。山岳寺院である。訪れるのは、
篤い信仰心を持った人々や仏像愛好家や修学旅行の女学生などに限られていた。花見遊山には厳しすぎ
る所だった。

奉仕といえば、室生寺の奥の院へ続く700段に及ぶ石の階段も明治時代に入ってから整備されたものと
いう。それまでは険しい崖のようなところを這うようにして登って上がったという。登るだけではない、
下りてくるのも命がけだった。
現在の奥之院に進むまっすぐな石段も(登り下りは苦行に近いが)信者からの寄進と奉仕で造られた。

 s-P5121157.jpg 

シャクナゲ講の人たちが何故室生寺の広大な境内にシャクナゲの花木を移植することにしたのか、その
理由は分からないままだが、一株、一株と植え続けて行くに従い、自分自身の心の内がシャクナゲの
うす紅や鮮紅の花で埋まって行くような、そんな充足感を得ていたのではないのか、そんな気がする。
そして、それが信仰というものなのかもしれない。


posted by ハマー at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 長谷・室生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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