2013年03月11日

奈良多武峰 西口墓地の謎


■ 戦国時代末期の墓地
 「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた六基の板碑には天文二十一年・永禄三年・元亀三年・天正二年の年号が認められる。これらの年号は1467年(応仁元年)に始まり1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いまで150年近く続いた戦国時代の内最も戦闘苛烈な期間にあたる。戦国時代とは文字通り日々列島全域のどこかで戦争が行われていた時代であり、同じ民族同士が戦争を繰り広げた内戦の時代である。

 s-P3043696南無阿弥陀仏.jpg

 それぞれの年の出来事を年表で確かめて見ると、その一つ永禄三年(1560年)は織田信長が全国制覇に一歩を踏み出した桶狭間の戦いの年。また天正二年(1574年)は長島一向一揆が収束した年であり、この戦いの結末には二万人以上の一向宗(浄土真宗)の信者や僧兵・武士団が織田軍団により虐殺された。また戦いに勝利した側の織田家臣団も一万人以上の将兵が命を落したという。多くは足軽といわれる農民であった。

 永禄十年(1567年)には戦火に因り東大寺大仏殿が消失しここに避難していた僧侶・民衆数千人が焼死した。戦場では耕地が破壊され、家屋は放火され、人と物の略奪が繰り広げられる。また寺院は前線基地となり攻防の的となる。
 また元亀三年(1572年)一月二十日奈良は大地震に襲われ相当な死者・被害が出たと記録(多門院日記)に残る。戦国時代はまた旱魃、洪水、大雨などの災害をはじめ、疫病の流行、さらに飢饉といわれる天変地異が最も多く見られる時代でもあった。この時代人々は男も女も子供たちも常に死と隣り合わせの日々を送っていたのだ。農民も町人も僧侶も侍も皆命をつなぐために戦った。

「南無阿弥陀仏」は浄土経系仏教宗派の念仏である。その意味は「阿弥陀様に帰依します、どうか、私を救って下さい」というようなことを指すと聞く。戦国時代は人々の宗教意識が異様に高まった時代であり、当時の人々の念仏に込める思いは心の奥底から発する叫びであり、切実なものであったに違いない。

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 この墓地は、奈良県道155号線を明日香村の石舞台から桜井市に向かう、多武峰・談山神社の少し手前の春井橋近くの山中にある。地名は西口になる。墓地と言っても猫の額と言っても良いような狭い場所に板碑と大小さまざまな墓石が足を踏み入れる隙間もないほどに乱立する。

 県道155号はつい最近平成21年12月に開通したばかりの新道で、それまで明日香村から談山神社に抜ける自動車道はなかった。今でこそ石仏好きが人伝に知り訪れるが、最近までこの墓地は人里離れた山の中腹に忘れられたようにしてあったはずだ。墓石の形から推して、江戸時代初期までこの墓地は使われていたと思われる。

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■ 生前に建てられた供養塔のようだ

 板碑や地蔵石仏をよく見ると逆修の文字が目につく。
逆修は生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことをいう。地蔵十王経に死後の追善供養で死者に達する功徳は7分の1と説かれ、逆修は七分の徳すべてを得ることができると説かれているのをうけて、平安中期以後天皇・貴族から民間に至るまで広く行われた。
 そもそも庶民が墓を持つようになるのは江戸時代後期以降のことと言うから、ここにある墓石や板碑は全て逆修供養のためのものであり我々がよく知っている墓石ではないのかもしれない。そう考えると人目につかない墓参には不便極まりない山の中腹の小高く盛り上がった瘤(こぶ)のような場所にあることも頷ける。

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 奈良は盆地という地形ゆえに四囲を山に囲まれ、そのためか集落の裏山や遠く離れた山の中腹に墳墓や墓場がある。古代の人々が死者を埋葬する場所として山を選んだ理由は山中を他界とする観念が存在していたからであり、死後の霊魂を信じるに至って山は里に福を授ける先祖霊の眠る場所として尊ばれてきた歴史がある。

■ 西口墓地は一向宗信者の隠れ墓地か

 墓地が人里離れた山中に存在するのは先にあげた理由に因るが、この西口墓地が死者の霊を弔う墓地ではなく、本願寺のみを至上の権威とする本願寺門徒(一向宗信者)が死後の極楽浄土行を願う生前供養、逆修の場であったとするならば、この場所を敵対する戦国大名や他宗派の信者に知られることは絶対に避けなければならなかった。見つかれば墓石は谷底に投げ込まれるか、城や砦の石垣の石材にされてしまう。だから墓地は山の中腹の狭く険しい獣道のような急峻な崖道を上がった決して人目につかない一際小高い山の背にあったのだろう。その存在を知っていなければ決して辿り着けない隠れ墓地なのだ。

 地蔵石仏や板碑に名を連ねた人々は生前に建てたその供養塔を依り代に極楽浄土に旅立って行たのだろう。一向宗は江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とされた。

 s-P3043712多武峰西口墓地入口.jpg

〈追記〉
浄土真宗においては五輪塔、宝篋印塔、多宝塔、地蔵尊墓、観音尊墓、◎◎家之墓と言う偶像崇拝の塔墓を建てないという事をブログアップ後に知った。板碑は可としても、地蔵石仏は否ということになるのか。
一向宗および地蔵信仰について詳しく調べてみたが、平安時代末期以降地蔵菩薩は宗派性を超え民衆から帰依されて来た歴史がある。「口には念仏、心には地蔵菩薩」という言い回しがその事実をよくあらわしている。信仰心(宗教性)はその時代時代により変化して行くものであり、教団が常にコントロールできるものではない。 3月19日
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2013年03月08日

奈良高取 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』

「街道に残る旧家や雛まつり」
これは 樋口みのぶ氏 の一句。三月三日に訪れた奈良高取町の『町屋のひなめぐり』の印象にぴたりと嵌るので使わせてもらった。

ひなめぐりの舞台である奈良県高取町の土佐町は江戸時代までは高取藩の城下町であり、高取城の大手門へと続く道沿いには油屋、鋳物屋、呉服屋など500棟もの商家が建ち並びんでいたというから、往時の繁栄ぶりが想像できる。城は明治六年に取り壊され今はないが、ほぼ原形を残す石垣が城跡を訪れる人に日本三大山城と言われた高取城のそのスケールを教えてくれる。

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飛鳥時代から続く土佐町
その城の大手門に続く街路を土佐街道と呼ぶのは、今より千数百年前大和朝廷の都つくりの労役に駆りだされて来た土佐(高知)の人がそのまま住み着いたことから「土佐」という地名になったと考えられている。街道と呼ぶには(3qと)やや短い気がしないでもないが、はるか海のかなたの故郷土佐に続く道と考えれば街道と呼んでもまあよろしいか。それにしても驚かされることは、飛鳥時代の出来事が今に語り継がれ、町の名として、道の名として守られていることだ。

俳人武藤紀子氏に捧ぐ

三月三日、高取町の行事『町屋のひなめぐり』に出かけたのは私の好きな俳人武藤紀子氏の詠んだ次の二句に強く心動かされていたからだ。

「息はいて息吸うてをり古い雛」 
「方丈というくらがりに雛まつる」

“方丈” は寺院の居間のことだが、寺と雛というなにか相容れない関係と、更に暗がりと雛まつり、暗と明という対比が気になる。また、もう一つの句、息はいて息を吸うつまり呼吸する古い雛とはなにか。この二つの句を写真にしたいと思い、ひなめぐりの日を心待ちにしていた。

 s-P3033606いちまさん.jpg  s-P3033656琴・雛段.jpg

 上左の写真、二体の人形は雛人形ではなく「いちまさん」(市松人形)だが、人形とは思えないリアルさがある。人家のほのかな明かりの中に置くと幼い姉妹が立っているように見える。子供の甘い息の匂いが漂っているようだ。
 右の写真、寺の居間と見るには赤い絨毯が少しあでやかに過ぎるが「方丈というくらがり」と言われればそんな風に見えはしないだろうか。今回『町屋の雛めぐり』を体験して思ったことだが、雛人形は障子を通したくらいの光り加減で見た方が美しく見える。明るすぎる窓際ではただ雛人形を鑑賞することだけに終わってしまい、雛祭りという古い時代より伝わる行事や文化を味わい感じるということが難しい。またこの暗がりの中でこそぼんぼりの灯りや背後の金屏風が活きる。

町屋の雛めぐりもう一つの楽しみ

 雛飾りを見せてくれる土佐街道沿いの町屋は江戸時代から明治時代に建てられた旧家が多い。『町屋のひなめぐり』の面白さは普段ならば決して入ることのできない町屋の中を勝手に ? 見せてもらえることだ。博物館ではない、現在人の生活する居住空間である。このお宅の娘と孫娘の雛飾りの豪華さもさることながら奥の部屋の屏風や掛け軸、鎧兜などの美術品もなかなかのものである。

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酒牛乳店の木目込み雛人形

 下の写真は的場酒牛乳店の店頭に飾られた木目込み人形の雛飾り。芥子雛と呼ばれる小型の雛人形。酒屋さんらしく酒樽の上に飾られている。
 この雛飾りを見て小林一茶(1763〜1828)の「掌に飾って見るや雛の市」という句を思い出す。江戸時代中期元禄・享保期の頃に、商家の間で競うように豪華大型化した雛人形を規制するため幕府は雛人形のサイズや諸道具の素材(金銀の使用など)を事細かに規制した。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」(けしひな)と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形が流行する。一茶の句にあるような掌(てのひら)に収まる小型の雛人形が誕生する。一茶の句は雛人形にまで及ぶ幕府の経済統制に対する批判を込めたものである。酒牛乳店の店頭に飾られた雛飾りはこの江戸中期の流れを汲む木目込み細工の雛人形である。昨今の住宅事情に合わせてスケールダウンしたものではない。

 s-P3033626酒牛乳店の雛飾り.jpg s-P3033628雛人形.jpg

 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』は街道とその周辺の町屋、しもた屋など約百軒もの展示があり、それが町内に散在しているのですべてを見るには相当な時間がかかる。今回は見て回っているうちに刻限の午後四時になってしまい、そのため見逃したり見落としたりした家も十数軒あったと思う。残念。次の機会があればもっと早い時間に訪ねそして自分なりのひな物語を作りたいと思っている。
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2013年01月25日

奈良の石仏を巡る―F首なし石仏

首のない石仏
首のない石仏を初めて目にしたのは二年前のこと、般若寺から中ノ川に抜ける旧伊勢街道の途中に出会った。首の無い胴体だけの仏像は不気味。人けのない、寺でもない場所にこのようなものが祀られていることが不自然でなにか緊張した。後で「石龕仏(せきがんぶつ)」と呼ばれているものと知ったが、天井と左右後ろを石板で囲んだシェルターのような厨子のようなものの中の石仏を見るのも初めてだったので余計に不気味に感じたのだと思う。

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首のない石仏は国内各地に見られ特に珍しいものではなく、その後寺の境内、墓所、道ばた、野山でもよく目にした。だけど本来あるべき頭を持たない石仏はなにか気持ちが悪くて、何度見ても慣れることができなくて目をそらしてしまう。以来写真は撮らなかった。
首の無い石仏は珍しくない言っても、創られた当初はもちろん五体満足だったはずだ。では何故首を失ったのだろう。多くは廃仏毀釈の時に打ち落とされたとする説を聞く。そういうことは十分考えられるが、上の写真の地蔵石仏は江戸時代にはすでに新しい首にすげ替えられていたことがわかっている。

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佐渡地方では、願をかけて石像地蔵を寺に奉納し、願が叶ったらその首を切り落とすという風習があると聞く。何とも過激というか思い切った風習があったものだ。仏像というものは頭を落とされても腕を切られても法力というか霊力は変わらないらしく、痛わしいことに姿かたちが変わってもそれまでどおり拝まれ、祀られる。お地蔵さまもたまったものではないと思うが、そこがそれ仏のすごいところなのだ。

仏のサイン
下の写真は御所市の舟宿寺に近い墓所の入り口で撮った。指さきが欠けてしまっているようで分かりづらいが右手は施無畏印(せむいいん)のようで左手には如意宝珠を持つ。
この像、実は首が無い。それならばと思い切って肩口でトリミングした。いまだ首の無い仏像を撮るのに抵抗を感じる。

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台座に彫られた「法界」の文字は、全宇宙、全存在を意味し、地蔵菩薩が現世だけでなく、あの世のあらゆる場所に救いの手を差し伸べる事を表していて地蔵の台座にしばしば認められる文字。正しくは「法界万霊」か。
施無畏印は手のひらを前に向け胸の辺に上げて「恐れなくていいよ」と相手を励ますサイン(印相)とのこと。現代においても手のひらを相手に向ける行為は、「あなたの味方ですよ(=敵意はありません)」というボディランゲージだが、仏像のポーズというものは現代人に通じる意外に明快なものかもしれない。

似た者どうし お地蔵さまとドラえもん
ついでに、如意宝珠は日本の「打ち出の小槌」、西欧の「アラジンの魔法のランプ」のようなもので思うままに願うこと総てが叶えられる「珠」のこと。さしづめ現代ならばドラえもんの「四次元ポケット」というところか。ドラえもんは未来から来たネコ型ロボットだが、人間の願望や欲望という視点から捉えれば35件ものご利益を叶えてくれるお地蔵さまと四次元ポケットを持ったドラえもんとは親戚のようなものだろう。時代は異なっても人の思いはあまり変わらないようだ。
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2013年01月23日

奈良の石仏を巡る―E般若寺境外墓所の焼け仏

写真の石仏は旧般若寺墓所に残る焼け仏。般若寺は、1567年東大寺大仏殿の戦火により楼門と経堂を残して主要伽藍のすべてを消失した。建物とともに堂内仏も灰燼に帰したが、墓所の石仏たちは残った。激しい炎火に焼かれ岩肌は煤で赤黒く変わり果て、光背は頭上のあたりから左背面にかけて割れ落ち、ついに足元で破断し、倒れた。

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広島の原爆資料館館内に原爆の熱線で表面が焼けただれた石仏の頭部が展示されている。投下された原爆の熱線は爆心地で3000〜4000度になった。人間は一瞬にして炭となった。
 展示された石仏を見て人は、原爆の恐ろしさを我が身に置き換えることができるだろうか。

『あんたさんも大変だったな。熱かったろ。さすがにもうあかん、一巻の終わりと思ったんと違うか。なのにまた引っ張り起こされて、相変わらず人の祈りやら願い事を聞かされて、もうかなわんと思ってるのとちゃう。どう、人の気は知れないよね。そんな傷ついたまんま立たされて。ちょっとお化粧したからってなんにも隠せはしないのに。あっいやー、これが自分の勤めですってか。そうかあ、いや失礼しました。 』ホトケ 黙して語らず。南無

 若杉慧 「野の仏」より抜粋
  人間であり仏であるもの
  石であり石でないもの
  何かのはずみに生れ出たもの
  そこに在るゆえ ただそこに在るもの
  空にして永遠なるもの
  原水爆といえども灼くことのできないもの
  (以下略)
 
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2013年01月22日

奈良の石仏を巡る―D王龍寺の異形地蔵石仏

 写真の三体の石仏は奈良市の王龍寺で出会った。右の二つはよく見かけるお地蔵さまを彫った墓標仏。しかし左の一体はなんだろう。なんともユニーク面貌だ。異形と言っても良い。中学生の頃図工の時間に彫ったモアイ像を思い出す。これは専門家が彫ったものとは到底思えないが、涎掛けの下の方に見える衣紋は僧衣の裾に見えるし、加えて丸めた頭というスタイルから考えると地蔵菩薩像を模したものであろう。
随分デフォルメされた像だなと思っていたが、繰り返し繰りかえし見ているうちにああこれは赤子の顔じゃないかと思えて来た。そう赤ん坊の寝顔なのだ。

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 ところで地蔵信仰におけるお地蔵さまとこどもの関係というのはちょっと冷酷というか非常識的に思える。親に先立って死んだという罪であの世とこの世の狭間で石積みをさせられる幼子たち。そこに地獄の鬼が現れて、積み上げた小石の塔を鉄棒で崩してしまう。子らはなおもこの世の親を慕って小石を積む。だがまた鬼が現れて・・・・・。するとそこにお地蔵さまが現れて「今日より後はわれを冥途の親と思え」と抱き上げ鬼の責め苦から子供らを救うという江戸時代に創作された「賽の河原地蔵和讃」の中にある話だが。
 親に先だって死ぬことをその子の罪であるとするような考えを現代人がストレートに受け入れるとは思えないが、幼いわが子を失い深い悲しみの中にある親にとって、あの世に去って行ってしまった我が子をお地蔵様が救い導いてくれると聞けば、お地蔵様にそうお願いしなくてはという気持ちになるだろうことは理解できなくもない。

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 このモアイ像のようなお地蔵さまは、王龍禅寺の仏塔に祀られた無縁仏の中の一体である。生後間もなくしてあの世に旅立った赤子は一人前の葬式をするとあの世でいじめられると言われ、はなから無縁仏とする地方もあると聞く。この独特なデザインから推すにこの地蔵石仏は戦後あるいは平成のものとも思える。首にかけられたフリルのついた真新しい涎掛けは、亡くした子を今も偲ぶ年老いた肉親の手向けなのか。
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2013年01月21日

奈良の石仏を巡る C明日香村岡寺の小石仏 

如意輪観音思惟像

岡寺本堂から裏山の奥之院に向かう参道のところどころに小ぶりの石仏が安置されている。写真はその中の一つ思惟像である。なんとも蠱惑的なお姿である。
「およそ仏を象(かたち)どったものに美醜の区別などあろうはずがないという私の思想と強く矛盾するが、写真としてながめるにはやはり美しくあっていただきたい。美しくあればこそ拝む気にもなる外道の心を捨てきれない。」若杉慧の言葉であるが、同感である。

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この石仏の、涎掛けを外した裸像の写真を見たことがある。野仏には珍しい赤みを帯びた石材は肌の色を思わせる。上半身はもちろん裸体である。実にエロチックに感じた。
ところでこの石仏の涎掛けだが、うっすらと緑色の苔がつき、まるで襤褸(ぼろ)をまとっているように見える。せっかくの美形が台無しではないかとモノ申しそうになったが、待てよ、お釈迦さまが出家し修業していたときに身に着けていた服は道に捨ててあった一枚の襤褸切れであった。するとこの菩薩さまも如来になるべくただ今修業中の身ということとなれば・・・そうか、目をつぶろう。

ところでこの岡寺の魅力的な小石仏だが、2012年4月30日何者かに持ち去られ現在も行方不明である。ちなみに像の高さ約30センチ、 重さ約3キロ。同寺は奈良県警橿原署に被害届を提出。同署は窃盗容疑で捜査しているというニュースをこのたび知った。どういう魂胆で持ち去ったかは知らないがあんまりではないか。情けない。

道祖神の盗み

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余談だが、長野県中北部の安曇野では「北向きの道祖神をぬすむと福がくる」という言い伝えがあった。しかも道祖神ぬすみのことを「嫁入り」と称して頻繁に行われていた、つまり半ば公然と行われていたということのようだ。
また鹿児島県や宮崎県の旧島津領には「他部落から田の神を盗んで祭ると豊作になる」という「田の神オットイ」という習俗があった。そしておもしろいのは、田の神がオットラレル時には神様自身か、オットイに来た他部落の人が置手紙をすることになっており、帰る時もやはり手紙をよこしてからというのだ。なんともユーモラスな話である。
盗まれた部落は捜索願とか盗難届などはもちろん出さない。部落間のいざこざに発展させない。あえて罪人をつくらないという農民たちのおおらかな知恵を感じる。
 上の写真は奈良市高樋町にある清澄の里 粟 の玄関前に飾られている田の神、たのかんさんです。さてこちらの田の神さんお嫁入りされて来たのでしょうか、機会があれば聞いてみたいな。



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2013年01月20日

奈良の石仏を巡る―B法蓮町の大日如来坐像

 写真の大日如来坐像は興福院から不退寺へ向かう奈良歴史の道の途中に出会った。小道の曲がり角、竹藪に隠れるように鎮座している。一間四方くらいの狭い地所だがかつては小さなお堂でも建っていたのだろう。このあたり奈良時代には平城京に居住する貴族の別邸が立ち並び、すぐ近所には日本最古の図書館芸亭(うんてい)があったことが知られている。この佐保町一帯は今も奈良市山の手の高級住宅街だが、そんな場所に知の仏である大日如来の石像が人知れず祀られていることに妙に納得させられる。奈良の街は今も古き歴史の中にある。
 聞くところによると大日如来は他の如来や菩薩に比べてあまり人気の無い仏さまらしい。特に庶民の間ではからきし人気がない。人気のない理由として、真言密教の本尊であるからとか、情に薄い、あるいは仏の最上位にあって近寄りがたいからとも言われている。

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 理由はともかくたしかにこの像に限らず大日如来は写真を撮っていても楽しくなれない、面白くない。この仏さま、人が近づかないようにと目には見えないバリヤーというか結界を張って人とのかかわりを拒絶している、ように自分は感じる。恐らく胸の前で合わされた両の手、これは智拳印という形(印相)だがこれがポイントなのかも知れない。今彼は人にも解るようにサインを出している。私は今自我の境地に没頭していて人ごとにかまっている閑はないよ、と。まっ、そんなところだろうか。
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2013年01月19日

奈良の石仏を巡る― A慈恩寺の不動明王像

「奉納 昭和四年三月廿八日 願主二才 新口××」

亡くなった子の供養か、あるいは病魔に侵された子供の回復を願う親が奉納したのか分からないがいずれにしろ幼児の姿を模したお不動さまを見るのは初めてだ。
剃髪した頭を見て一瞬お地蔵さまかと思ったが右手に剣を、左手に羂索(けんじゃく)を持ち背中に火炎を背負う姿はやはり不動明王にちがいない。
それにしても細い腕手と裳裾から覗く両足のきゃしなことよ。まさに一歳くらいの幼児の体型に見える。それに反して吊り上った鋭い目、物言いたげな口元は幼児のものとは思えない、まさに憤怒に燃える不動明王のものだ。

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この像を初めて目にしたときには創りの稚拙さばかりに目がいったが、画像をよくよく見ているうちに不憫な幼子を思う肉親の想いがひしひしと伝わって来た。不幸にして子を亡くした親の気持ちは自分にもよくわかる。その子が不憫であるとともに、命を生かし続けてあげられなかった申し訳なさにそして自責の念に強く苛まされるのだ。一生忘れることはできない。
この像は桜井市慈恩寺の赤井谷不動で写したもの。境内を埋める花椿でよく知られる玉列神社(たまつらじんじゃ)裏手の山中に佇む不動堂前の祠にひっそりと祀られていた。
供養にお地蔵様ではなくてお不動様を選んだのは何故だろう。助けられるのではなく自分の力であの世を生き抜いてもらいたいと願う親心からだろうか。
この石像、できるなら祠から出し天空のもとに置いてほしい。奉納されてから80年以上の歳月を越しているのにまるで昨日今日創られたものとしか思えない。雨風に晒され年を追うごとに穏やかな相貌に変わって行く方が幸せではないか。想念とともにいつか自然に還って行けばよい。いつまでも物言いたげな憤怒のままでは子も親つらくはなかろうか。
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2013年01月18日

奈良の石仏たち

元興寺境内のお地蔵さま
奈良で初めて撮った石仏の写真。2005年の夏。桔梗の青紫色の花と地面から茸のように生え出た岩片群の不思議な調和に心惹かれ撮った。
元興寺の中庭に展開する石仏群を浮図田(ふとでん)と言う。これは石塔・石仏(浮図:ふと)類を田圃のように並べた中世(鎌倉・平安時代)の供養形態とのこと。墓地の整理のためにピラミッドや雛段状に無縁仏を積み上げた今どきの供養塔や仏塔とは拠りどころが異なる。浮図田という呼称は他では耳にしないから専ら元興寺に限って使われていると思うが、同様の石仏群は奈良の郊外で幾つか見たことがある。

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毎年8月23日と24日の夜にはここに約3千個の灯明がともされ有縁・無縁の霊を弔う地蔵会が催される。写真で見た限りでだが、黄昏時の夕空を背景に地面に置かれた無数の灯明に浮かび上がる石仏群とそこに手を合わせ拝む人々のシルエットはなかなか幻想的だ。
※元興寺地蔵会  http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/gyouji/jizoue/jizoue.htm

奈良市鹿野園町の石仏群
鹿野園(ろくやおん)の由来は、奈良時代752年東大寺の大仏開眼法要の導師を勤めたインド僧菩提僊那(ぼだいせんな 婆羅門僧正とも呼ばれる)によって、故郷インドの仏教聖地サルナートにちなんで名づけられたといわれる伝説の地。
この町のすぐ南に飛鳥時代の古代寺院である古市廃寺、横井廃寺、塔の宮廃寺跡などが点在する。また町の真ん中を県道80号奈良名張線の旧道が東西に走り、かつて鹿野園が山の辺の道と交差する古代要衝の地であったことをもうかがい知ることができる。今この町を歩いてみてもそれらしき名残はどこにも認められないが、古代の鹿野園は立ち並ぶ多数の堂塔(浮図)を望み見る仏教聖地サルナートの景観を呈していたに違いない。
写真の石仏群は鹿野園町の北はずれの道沿いで見つけた。小高い丘状になっているが生垣に隠されるように囲まれ、ややもすると見逃してしまいそうだ。30p程度の小石仏が西向きに斜面を覆いつくすように立ち並び、処々にお地蔵様や板碑が立つ。元興寺でみた浮図田(ふとでん)に似た構図である。背後に高円山を望むこの物寂しい場所に石仏とともに独り居ると自分自身が一体の石仏であるようなそんな気持ちに陥る。

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奈良で写真を撮るようになってからというものこれまで無数の仏像と出会った。堂内の古仏や道沿いの祠の小像、野辺の石仏など。しかし宗教心のない自分は仏像に対面しても手を合わせ祈ったことはない。なにかをお願いする気持ちはないし、何を祈ったら良いのかわからないのだ。それなのに今もお寺を巡り墓場に足を踏み入れ、野仏を追い求め彷徨っている。一体自分は何をしているのだろう、いつもその行為がなにかに矛盾しているような、後ろめたい気持ちを振り払うことができない。寺の門をくぐり、野の仏を探し回りその写真を撮るということは自分にとって何なのだろう。
何も願わない、そしてただ無心に手を合わせる、そんな瞑想に似た祈りのかたちのあることを最近知った。はたして自分はそれをするだろうか。時々思う、ことによると自分の心はすでに仏教の縁辺に取り込まれているのかも知れないと。ミイラとりがミイラに・・・
奈良鹿野園の名前について http://naranokoto.seesaa.net/article/165297546.html
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2012年12月24日

冬の奈良 キュートな野の仏

冬の奈良の山里は今、木々はもうすっかり葉を落とし、足元を覆い隠していた草葉は枯れ伏せ随分明るく見通しがよくなっている。大嫌いな蛇や、蜘蛛や大小の虫やおぞましいヒルを気にすることなく野山に分け入り歩きまわることができる。

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冬の野山の魅力は枯れ色に変わった草木の景色にあると思っている。枯葉の降り積もった山道はとても柔らかで、ほんのりと冬の匂いを感じることもできる。葉が落ち遮るものがなくなったせいだろうか遠い所にいるだろう人の話し声が随分早くから聞こえてくる。でもその姿はなかなか見えてこないのだ。

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野の仏 勢至菩薩立像
これまで数えきれないほど様々な野仏を見てきたが、こんなにキュートな石仏に出会うのは初めてだと思う。石仏というよりも人形のようだ。驚いたことにこの野仏、なんと私に向かって手を合わせ祈っている、ように見える。そもそも仏像は、人がその像に向かって祈りを捧げる対象であったはずなのに、どう向き合ったら良いのか戸惑ってしまう。

 s-PC183397勢至菩薩石像.jpg

この石仏、゛聖観音菩薩 ゛あるいは゛勢至菩薩゛と思う。宝冠に水瓶のようなものを辛うじて認識できるし、合掌する姿は勢至菩薩のものであろう。身の丈およそ一尺(30p)程度の小さなもので、これまで蒐集家に誘拐されることもなく骨董商に身売りされることもなくよくも無事過ごされて来たものだと少し驚かされる。春から秋の間は覆い茂る草葉に身を隠され気づかなかったと思うのだが、冬の時季だからこうして人の目につくようになったのであろう。

奈良県下で写真を撮るようになってからというもの、街中はもとより野山でもよく見かける石仏を景色の中にとらえてきたが、偶像崇拝のような行為に対してどこかに反発する気持ちがあって、野仏に限らずこれまで自分は仏像を前にして本心から手を合わせ、何かを祈り願ったことはない。だからと言って人が仏像に向かう心を否定するつもりは毛頭ない。

だが今回この野仏を前にしたとき何の躊躇いもなく『私のような者に手を合わせていただき恐縮です。どうかあなた様も末永くお元気でいてください』と知らずしらず感謝の言葉を心の内に唱えていた。勢至菩薩という名の仏像に対してではない、その合掌の姿が自分の心を自然に吐露させたのだと思う。
キュートな勢至菩薩石仏、この写真を小さな額に納め念持仏として祀ってみようかとも思っている。
posted by ハマー at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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