2013年12月20日

残秋の奈良 写真俳句 ⑴


以前から気になっていた森村誠一氏の「写真俳句の愉しみ」を読んだ。ノウハウ本ではない。制作過程の説明を序章としているが、実質は推理小説作家森村氏自身のエッセイ集である。写真と俳句と対になったエッセイを読み進めていくうちに、写真俳句のなんたるかがじわじわとそして確実に理解できる仕組みになっている。

『俳句にも写真にも表現したいモチーフがある。俳句と写真が合体した写真俳句のモチーフはなにか。俳写同格であるが、その時の状況によって、俳句に重点が置かれる場合と、写真に傾斜している作品に分かれるであろう。それは一句一写ごとに異なる。そこに写真俳句の愉しみの一つがある(11頁)』

「モチーフ」とは、「題材」「思想」「動機」など平たく言えば「きっかけ」のようなことだろう。コンセプト(狙い)と言っても良い。写真の題材やコンセプトに重点を置くか、目にした光景に触発された想いを俳句に結晶させるかということであろうか。次の句は撮影時のコンセプト「逆光」を句にしてみた。


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逆光を 待ち焦がれたり 山モミジ 

太陽の位置が高くなる昼間の紅葉は葉裏から太陽の光を透して見たほうが見ごたえがある。3時を少し回ったばかりだというのに谷間の空には次々と雲が流れ込み、夕暮れのように暗い。今さっきまで人々を感嘆させた紅葉は色を失い、陰鬱とした冷気につつまれている。唐突に、明るい日射しが戻り一瞬の風が葉を散らす。急いでレンズを向けたが、日はまた翳ってしまった。

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わが身なるか 朽ちゆく際ぞ 花もみじ

十二月も終わろうという頃になってもなお秋を感じる光景に出会う時がある。
雨上がりの午後奈良山の遊歩道、道筋に捨て置かれた古竹に舞い落ちたカエデの葉が貼り付いている。紅葉に染まった野山の秋を思い起こさせる。
上の句は、写真を見ていてなんだが先が見えて来た今の自分に似ているなと思い創った。花もみじというよりも「濡れ落ち葉」の方が適当でかもしれない。上五の字余りがちょっと気にいっている。
 我を見る 朽ちゆく際の 濡れ落ち葉

今回写真俳句に挑戦してみようと思ったのは、森村氏の『俳句を始めるときは誰でも素人、あまり難しく考える必要はありません。むしろ写真俳句は、俳句も写真もたいしたことがない場合の方が効力を発揮する。お互いが補いあって、意外な魅力が引き出されるんです(133頁)』という文章に触発されたことによる。そうか、だったら俳句を創ってデスストックとなっている写真にも日の目を見せてやろうかと。


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ときめきと 淋しさを知る 始発駅
身を寄せて 黄泉の旅路を 冬の川

猿沢池南西角、池を九の字に囲むように水路がある。排水溝のように細い川だが「率川(いさがわ)」というれっきとした名前を持つ。春日山に発源し佐保川に入る。その水路にかかる石橋(嶋嘉橋)から舟形の島に祀られた石仏群を見ることができる。それまでに何度も渡っているのに全く気づかなかった。そこが橋という認識もなかった。率川の船地蔵と呼ばれている。後で知ったことだが川の改修や、大雨などで流れ着いた無縁仏をまとめて祀ったものらしい。このような例は奈良ではよく聞く話である。

古都奈良では路傍や辻々に石仏を見ることは珍しいことではない。野山を歩いていてもさまざまな石仏によく出会う。かつて仏都と呼ばれ1300年の歴史を持つ街だ、これまで一体どれだけの生命が誕生し、消えて行っただろう。その生の証として石仏は存在するが、この船地蔵あまりにも淋しすぎる。身を寄せ合って浄土への旅立ちを待つ人のように思える。どちらかというと俳句に重点を置いたつもりだが、いい俳句ができたと思っている。自画自賛?

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踏み入れば 陽の明るさや 秋の里山


奈良山は常緑樹と落葉樹が混在する里山である。夏の間、森は入山を拒むがごとくに鬱蒼とした姿を見せる。12月、意を決っして(秋夏は山蛭や蛇が出るし、猪も怖い)山道を上がって行くと、背の高い大きな木はすっかり葉を落として尾根道は意外に明るかった。

森村氏『難しく考えることはない。要は、自分の思うがままに感性に従って発句し、シャッターを切ることである。一句一写、これはと思った瞬間を切り取ることによって、自分だけの新たな表現世界がある(13頁)』と言う。思うがままに俳句は創れないが、シャッターなら気軽にいくらでも切れる。そのうちの一枚。

「写真俳句の愉しみ 四季の彩り」著者 森村誠一 06年4月30日発行

残秋は秋の末、晩秋など季節を示す言葉だが、視覚的な表現として使われている場合も多い。よく似た言葉に「残暑」があるがこちらは言葉そのまま立秋を過ぎた後の暑さを言い表し、季節を表す言葉ではない。11月の上旬、暦の上では立冬を境に季節は秋から冬に変わるが、視覚的にも体感的にもまだまだ秋の入口といった感じだ。ところで気象用語の「冬日」は一日の最低気温が0度C以下の日を言う。ちなみに奈良市では11月30日0度を記録した。
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2013年12月09日

東大寺の紅葉・初冬の一日

東大寺の秋はナンキンハゼの紅葉から始まる。
他の樹種に先駆けて十一月初めには色変わり始め中旬頃にピークを迎える。

その独特な色模様を知ったのは五年前のこと、奈良で写真を撮り始めて二度目の秋だった。
若草山の麓に残る東大寺棚田跡のナンキンハゼの紅葉のあまりの美しさに、何故だか本気でカメラを筆と絵具に取変えたいと思った。もっとも描く技術も経験もないのだが。

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しかしそれ以後いつも見頃を逃し続け今年も見ずじまいに終わってしまった。
そのわけよくよく考えて見ると、ナンキンハゼが紅葉する時期、我が家の周りの樹々はまだまだその気配もなく、そのため、その頃(11月中旬)に東大寺に出向かなければならないことに気付けず、いつもチャンスを逸してしまっていたようだ。

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今年の秋は夏の酷暑をひきずっていつまでも気温の高い日が続き、このままでは紅葉を見られないのではないかと心配されたが、十一月下旬日本列島は唐突に真冬の寒気に襲われ逆に例年以上に鮮やかな紅葉となった。

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東大寺境内のカエデやモミジはまさに黄色、黄赤、深黄、赤・緋・紅・朱など文字に置き換るのが難しいほどの色を持つ。モミジは日を経るに従って葉の色を変えてゆくが、日の当たり加減や風の当たり具合によって多彩なグラデーションを持っていることにいつも驚かされる。見る方向、時間、天候によって本当に印象が異なる。
もしこれはと思う一樹に出会えたなら、朝から晩までまた日を変えて何日でも葉が散り尽くすまで見尽くしたいと本気で思っている。

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東大寺の見所は大仏殿、南大門から奈良公園に続く南表のエリアと二月堂、正倉院、戒壇院ほかの塔頭が点在する周辺部に分けることができる。紅葉を見るなら周辺の方が興味深い。ただ東大寺の寺領はほんとうに広大なので、片方のエリアを見るだけでも日の出から日没までかかりそうだ。

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もっとも、足腰に瑕疵のある自分のような年寄りは一日中歩き回るのはつらい。体力的に難しい。東大寺には大仏殿や南大門付近以外の場所に身体を休めるベンチなどの施設がないので、いつも途中でへばってしまう。それよりも疲れた体や心では美しい景色を敏感にキャッチすることはできい。結局今回の撮影行では予定の半分も回れなかったが、まあ一期一会なのだからと変に自分に言い聞かせ、今年の紅葉刈りは夕日を見ずに早々と終了。来年また奈良に行きましょう、と。

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2013年12月05日

奈良高取城址の紅葉

城跡に見る紅葉にもの悲しさを感じるのは何故だろう。
この高取城、明治の初めに廃城となったが、城垣は人里離れた山頂にあったことが幸いして往時の形を残した。天守や櫓、城郭の跡には、舞い落ちた種子から芽生えた楓やもみじが大木となり枝を拡げる。

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日本一の山城と言われた豪壮な姿は廃城後も明治20年頃まで麓から仰ぎ見ることができたという。しかし百数十年の時を経て、周囲3kmもの広大な城郭も樹々に覆われ、今では高取山の頂に城のあったことすら想像できない。もし城が生きていた頃のように生茂る樹々をすっかり切り払えば、全長3500mの石垣は「天空の城」と呼ぶにふさわしい日本一いや世界一の絶景としてそれこそ世界文化遺産として注目を浴びるだろうに。

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城跡で見る紅葉にもの悲しさを感じるのは、そこに今は無いその城の悠久の歴史を感じ取るからだ。景色が話しかけてくる。知らぬ間に歴史のスパイラルを下って行く。物語のさ中に迷い込んでしまうのだ。だが風に散る紅葉のように、想いは初冬の冷たい風に吹かれて一瞬にして掻き消えてしまた、わずかな余韻を残して。

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気がつけば陽はすでに高く、三時間以上も城跡を徘徊していたようだ。炎のように鮮烈な赤や黄の紅葉と、高くそびえ立つ石垣に囲われた異空間が、歴史ロマンの迷路に誘い込ませたのだろう。
posted by ハマー at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月25日

斑鳩の里 法輪寺から

 法輪寺を訪ねるのはこれで何度目になるだろうか。境内に入ったのは二・三回に過ぎない。いつも寺の外から、景色の中の一点として見ている。しかし改めて三重塔を見ると、これこそが、塔のある景色こそが大和奈良の景色なんだなとつくづく感じる。

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「大和古寺風物誌」の中で亀井勝一郎氏は『古寺の風味のなかでもとりわけ私の愛するのは塔の遠望である。塔には不思議な吸引力がある。憧憬と歓喜を与えつつ否応なしに我々をひきよせるのだ。おそらく古人も、遥かに塔を望みながら誘わるるごとくひきよせられて行ったに違いない。』と書いている。

法隆寺、法輪寺と法起寺の三塔を合わせて斑鳩三塔と呼ぶ。『そのころ、法隆寺を訪れる人は、まず車窓から斑鳩の三塔を望見することから、胸の鼓動を早やめ、法隆寺によせる期待に胸をおどらせつつ、心の緊張を自覚させられたものである。それほどこの三塔の姿は斑鳩をおとずれる人の心に大きな感銘を与えてきたのである。』大和古寺巡歴(町田甲一)

かつては関西線(現・JR大和路線) 大和小泉の駅を出てまもなく三塔を望遠できたという。
数年前に乗車した時、車窓から法隆寺の五重塔を遠くに見ることができたが、レール沿いに建つ住宅やビルに視界を阻まれて良くは見えなかったと記憶している。今では、斑鳩三塔に対する感慨は本の中だけのことになってしまったようだ。

斑鳩に行くにはもっぱら奈良市方面から車で奈良県道九号線を南下するが、小泉の交差点を越え1.5kmほど行ったゆるいカーブの先に突然法起寺の三重塔が現れる。それを見た時の驚き、感動は幾度体験しても衰えるこ褪めることがない。「森のトンネルを抜けるとそこは斑鳩の里だった」みたいに。
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2013年10月20日

十三夜のお月見 奈良市高樋町にて

十三夜の月見が実は中秋の名月十五夜の月見が流れた時のための予備日だったとは知らなかった。陰暦の八月十五日(今年は9月19日)、例年この頃(九月中旬から十月初旬)は台風や秋の長雨の時季にあたり無月や雨月になることが多く、一ヶ月遅れの陰暦の九月十三日の月を十三夜とか“後の月”とよんで、お月見をする習わしになったという。
今年の十三夜は10月17日、薄曇りではあったが月を見ることができたのは幸運だった。翌朝からずっと今日も雨が降り続いている。週末には台風27号が再び東海地方を襲う気配を見せている。今年の気候ははちょっとおかしいのかも。

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奈良市高樋町はすぐ隣の虚空蔵町に奈良では良く知られた弘仁寺という真言宗の古刹がある三方を山々に囲まれた谷間の町である。急峻な地形が市街地化を阻み今もなお緑濃い豊かな自然が残る。以前はここでも稲作が行われていたのであろうが近頃では放棄された田んぼや畑地が目立つ。狭くて傾斜の強い耕作地は専業農家としては成りゆかないということなのだろう。もう十年もすればこのあたりの誰も米作りをしなくなっているのではないか。かつて黄金色に覆われた道沿いの田んぼには、今は白やピンク、紅色のコスモスが咲き乱れる。

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ところで、中秋の名月と十三夜の後の月は、どちらも見るのがよく、一方だけ見るのは、片見月とか片月見と言って縁起が良くないと言われているらしいが、なんだかんだと理由をつけて夜遊びをするための口実のような気がしますが・・・・・
posted by ハマー at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月28日

奈良飛火野・中秋の名月

今年の中秋の名月は9月19日だった。その日は陰暦の八月十五日にあたりその夜に満月を見られるということで話題になった。
当日の夜は奈良の地においても唐招提寺や明日香村の石舞台など各所で観月会が催されるので、今年はどこの名月を撮ろうかと悩んだが、結局春日山に昇る月を撮りたくてそれで奈良公園は飛火野にした。

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知らない土地で月の入った風景写真を撮ろうと思っても、これが意外に難しい。春日山の月はこれまでに数度挑戦しているが、未だ成功していない。昇る月を見ることはできるのだが思うような絵にならないのだ。

詩人・薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の随筆に『無学なお月様』という小文がある。薄田泣菫は戦前に活躍した文人で、代表作「茶話」の一編。
「野尻精一氏は奈良女子高等師範(現・奈良女子大)の校長である。野尻氏は晩餐が済むといつもの夜のように奈良公園へ散歩に出た。すると、いつの間にかくろずんだ春日の杜にのっそりと大きな月があがった。『や、月が出ている。ちょうど十五夜だな』と、たちどまって珈琲皿のようにまん円く、おまけに珈琲皿のように冷たいお月様をみているうち、野尻氏は口の中から変な三十一文字を吐き出した。『天の原ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』 いい歌だ。百人一首に出ている名高い阿部仲麿の作だ。野尻氏はその歌を繰りかえしながら、じっと空を見ていると、肝心な珈琲皿のようなお月様が三笠の山の上に出ていない事に気がついた。野尻氏の立っている所から見ると、月は飛んでもない方角から出ていた。それから後というもの、野尻氏は公園をぶらつく度に、方々から頻りと月の出を調べてみたが、無学なお月様は、仲麿の歌なぞに頓着なく、いつも外っぽから珈琲皿のように円い顔をにょきりと覗けた。『やっぱり間違いだ。仲麿め、いい加減な茶羅っぽこをいったのだな。』 野尻氏は会う人ごとにそれを話した。すると大抵の人は『なる程な。』と言って感心しように首をかしげた。 野尻氏に教える。それは月が年が寄ったので、月も年がよると変な事になるものなのだ。ちょうど人のように・・・・」おおよそこのような内容である。

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野尻氏が奈良公園の何処で何月の何時頃、幾度月の出を観察したのかわからないが、ついに三笠山に昇る月を見ることはなかったのではないか。
月はいつでも春秋のお彼岸の時のように真東から昇るわけではないし、月は高度を上げながらどんどん南方向に位置を変えてゆくし、必ず晩餐(夕食)後の時刻に顔を出すとは限らないから。つまり、地球の衛星としての月を正しく理解していないと、三笠山に出る月を見ることは叶わないのだ。そもそもあの一首は阿部仲麿(仲麻呂)が中国にいるときに三笠山に出る月を思って詠んだ歌というのが通説であることだし。

野尻氏にアドバイス!
三笠山に月を望むならば奈良公園の新公会堂あたりから見るのが一番、十三夜の日が最適と思う。

posted by ハマー at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良を読む一冊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

連歌の里 奈良県宇陀市染田天神社

奈良の中心街から遠く離れた宇陀市に「中世文学の里」といわれる染田集落がある。そのいわれは、そこに、室町時代初期貞治年間(1362〜1368)に建てられた連歌堂と、関連する多数の文書等が残されていることによる。この連歌堂で1564年(戦国時代)までの200年間に渡って連歌の会が催されていたという。
千句連歌、縁起、興行記録、連歌会運営規定等、連歌製作に関係する遺品は連歌を研究する実証資料として大変貴重なもので他の日本になく、奈良県の文化財に指定されている。

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 春日神社の境内に十輪寺と連歌堂が並ぶ

宇陀市染田は奈良市との市境に接し、四囲を山に囲まれ、三本の小河川が集合する東西・南北800m程度の農村である。
調べてみると、古くから米作りの行われた土地で興福寺大乗院門跡の荘園であった。連歌堂は春日神社の境内にあるが、奈良県で春日神社が置かれた農村はまず興福寺の荘園であったと見なしても間違いない。

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 春日神社 拝殿

ところでこの染田という、山々に閉ざされたいかにも鄙(ひな)びた場所に連歌堂を建て、二世紀以上もの長きに渡り連歌の会が継承されていたのはいかなる理由によるものであろう。今でこそ奈良県道781号都祁・名張線が整備され染田集落脇のバイパスを快適にドライブできるが、室町時代時代にあっては簡単に行き来できるところではなく、人々が集合するには不向きな土地のように思えたのだが。

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 奈良県道781号線からの染田集落遠望

連歌堂は集落内の細道を登り切った山の際、やや小高い処にある。ふり返って見れば、都祁野岳、真平山、貝ケ平山、額井岳、鳥見山の山並みが一望できる。連歌を巻くにうってつけの環境ではないか。連歌堂を目指して上ってくる人馬の姿も容易に視認できたことだろう。
人の侵入を拒んでいるかのように見える連歌堂背後の山だが、地図をつぶさに(拡大して)見ると、小倉、都祁へ抜ける幾筋もの山道のあることがわかる。人が自らの足や牛馬を使って行き来していた時代、意外にも人体の血管のように要所々々を繋ぐ道が今以上に走っていたのだ。案外、染田集落は名張、伊勢方面に抜ける要衝だったのかもしれない。

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 奈良県宇陀市室生染田地図

この連歌堂は室町時代中期1362年土地の豪族(武士)である多田順実(よりざね)が、天神社を創建し、学問の神菅原道真公の御影を創祀し、千句連歌会を主催した会所である。鎌倉、室町時代、武士たちにとって連歌は必須の教養であった。千句連歌会には地域に割拠するほとんどの有力豪族が参加し、諸将の交流と結束がはかられる一方、動乱の時代下における政治的駆け引きの場ともなったと考えられている。戦国時代というと何か殺伐としたイメージがあるが、連歌という文化が地域の安定と平和をもたらす精神的絆として作用していたという事なのだろうか。

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 安定と平和 天神講連歌を象徴するような微笑仏

永禄七年(1564)連歌会は終焉する。時まさに戦国時代末期の最も苛烈な時期。仏都奈良の地ではあるが、永禄二年(1559)松永久秀が奈良北部に侵入、永禄三年(1560)には大和の実質的支配者であった興福寺を破る。永禄十年(1567)に東大寺大仏殿の戦いで大仏殿が消失するなど、奈良(大和)は戦乱の只中にあり、200年の長きにわたって続けられた染田天神の連歌会もついに幕を下ろさざるを得なかったということであろう。

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 十輪寺の石仏群

染田天神の連歌会を始めた多田家であるが、その後も代々、如一斎、実春、順実らが中心メンバーとして関与し弘治年間(1555〜1558年)の多田実映の名前を最後に途絶える。
天正18年(1590)筒井勢の一員として北条征伐に参加するが、関東遠征・伊豆山中城攻めにて一族全員戦死、多田家は断絶した。多田順実が連歌堂を創建して228年後のことであった 。

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 村の鍛冶屋さん福井政明氏        福井氏手作り平鍬

連歌堂を見ていると「早くからご苦労様」と声をかけてくれたのは、ちょうど十輪寺の垂木の修理をしていたという福井政明さん。
外から連歌堂の中が見えるように灯りを点けてくれた。普段は何も置かれていない空間(会所)だが正面に菅原道真公の御影を収めた厨子が見える。昨年連歌堂の解体修理の折に彩色補修されて真新しい。天神講や連歌会のこと、十輪寺に関して詳しくお話しをしていただけた。

福井氏は神社の向かいで鉄工所を経営するとともに、なんとなんと鍛冶屋をしていると言うので、お願いして仕事場を見せていただいた。農工具を中心に作られているそうだが、地鎮祭でつかうという木鍬(平鍬)を見せていただいた。今では福井さん以外誰も造れなくなったものだ。
福井さんありがとうございました・


参考にしたURL
武家家伝 大和多田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yam_tada.html
多田順実 気分はコクジン別館
http://blog.goo.ne.jp/gfi408/e/1a4efb208a5047add159aa1c9e018fab
染田天神連歌について 奈良教育大学紀要
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/2250/1/NUE33_1_217-230.pdf
奈良の寺社「染田天神」「十輪寺」
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/05/post-c3ad.html


天神講連歌会
集団制作による詩形である連歌は講と結びついて発展した。とくに鎌倉時代後期から天神信仰と結びついた。連歌を目的とする天神講を特に天神講連歌会と呼ぶ。講を結び、図像をかかげて天神供養を行い、もって連歌を手向けとするものである。こうした連歌会は大和国を中心に発達し、室町時代を通じて畿内から各地へ伝播していった。天神講連歌会記録としては大和国の室生村の染田天神連歌文書などが伝来する。
posted by ハマー at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 長谷・室生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

法隆寺夢殿夏の影絵


午前八時の開扉とともに法隆寺東院伽藍に入った。朝から夏の強い陽射しが照りつける。
東の回廊、連子窓から射しこむ朝陽が足下に梯子状の模様を描く。このデザインは朝だけのもの。冬に来たときに比べて半分程度の幅しかない。夏の太陽はすでに空に高い。

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夢殿前の石板に残った打ち水に、八角屋根の庇瓦が影を落としていた。小さな風鐸がわずかな風に揺れて高い音を鳴らす。人気のない東院の中庭に小気味よく響く。 

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引かれたばかりの砂熊手の箒目に尖った八角屋根が影を落とす。このデザインも朝一番に訪れたものだけが目にすることができる。この横線、一時間もしないうちに参拝者の足に踏み乱されてしまう。

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七月の雨にけぶる夢殿を撮りたくてまた奈良を訪れたのだが、今年の梅雨はあっけなく明けてしまったようだ。明日もあさっても雨は望めそうにない。気を静めて風景の中に入り込もうとしてもどうしても一体感に至らない。撮影を諦めた時、地に写しだされた夢殿の影が心の中に染入ってきた。写真家土門拳が心眼という事をよく言っていたが、確かに無の境地の中で見えてくる時がある。
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2013年05月16日

五月の奈良 山に桜の咲くころ

ソメイヨシノの開花が今年は平年より十日程度早かったので、桜まつりが始まる頃にはもう散り桜だったと、花見を予定していた人々は随分困惑していたが、山の桜はいつもと変ることなく丁度田植えの時期に咲いたと土地の人に聞いた。

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奈良盆地を囲む山間部の田植、かつては五月の終わり頃から六月の初めに行われていたものだが、専業農家が少なくなった現在では、家を離れて住む子供や孫の手を借りてGWの連休の間に急いで済ますようになった。
この写真を撮った五月八日奈良の朝の気温は二度前後で、霜が降り、ところによっては薄氷が張るほど寒い朝だった。田植え後にそんな寒さに二度、三度と遭うと植えたばかりの稲の苗は白く変色し凍え死んでしまう。

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つい最近まで、山桜の咲く頃は苗代に種籾(モミ)を播く時を知らせる目安だったのだが、今では田植えは山桜が咲く頃にするようになった。それどころか、稲の苗は農協で購入する農家が増えたそうだ。そのうちに、農家とは農地を持つ家、地主ということになるのではないのか。まるで平安時代のように。

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2013年04月18日

シカに桜 奈良の春風景

飛火野の朝景色

春日山は飛火野で最も姿よく撮ることができる。地形図を見れば容易に了解できることだが、飛火野、春日山、花山、芳山(ほさん)が一直線上にあり、飛火野から見るそれぞれの山の頂上(最高峰)もほぼ一直線上ある、その事が飛火野を絶好の撮影ポイントにしている。

ところで、今まで自分が春日山と思っていたのが実は御蓋山(みかさやま)であることを知った。そして春日山というのは御蓋山と背後に聳える花山、芳山(ほさん)等を含めた総称であり、奈良の地に春日山という名の山は無いという。

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その御蓋山だが、その山容を目にすることは意外に難しい。というのは太陽の位置つまり太陽光線の角度によっては御蓋山が背後の花山、芳山に重なり紛れ、一体化してしまう場合が多いからだ。ただ、日の出からの数時間、花山・芳山を背景にして御蓋山が名前のごとく貴人のかざす蓋のシルエットに浮かび上がる時間帯がある。そのわずかな時間が絶好の撮影タイムとなる。

その絶好の撮影タイムを狙って飛火野を訪れたのだが、幸運なことに?景色の中に鹿の一群が遊ぶ御蓋山を撮ることができた。飛火野の山桜の白い花はほとんど散ってしまっていたが、枝幹を覆う新葉は陽の光り透過して紅赤や緋色、金茶色に染まり春紅葉の景色を見せていた。この写真を撮った直後に天空は西風が運んでくる雲に覆い尽くされ、一瞬にして木々の輝きは消えてしまった。

 東大寺東塔跡の桜

まだ散らずに咲いていてくれと願いながら東大寺東塔跡の桜を見に行った。基壇周りの地面は散り落ちた花びらで薄桜色に染まり、のどかな仲春の景色を見せてくれていた。桜とシカではあまりにも陳腐ではあるが、如何せん奈良も陳腐な古都ではある。

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