2012年07月20日

奈良毛原・長久寺「大師山」の開基「智龍」を追う

長久寺は奈良と三重県との県境、笠間川がえぐり取った大和高原の深い山峡の谷地に展開する
奈良県山添村毛原集落の中にある。

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 朝日に光る笠間川 向かいの山の先に毛原集落がある 
 
この寺の創建、由緒等は定かではないが江戸時代の終わり頃には住職不在の破れ寺だった。 
寺から200m程西へ行った集落の中央あたりに、奈良時代以前に建立されたと推定される古代寺
院の巨大な伽藍礎石がほぼ当時のままの配置で残り、礎石群を取り込むように家屋や畑地が広が
る。毛原集落の歴史の深さをうかがい知ることができる。

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 毛原集落の残る巨大廃寺の礎石

長久寺の裏山に四国八十八所霊場を模した「大師山」(だいしざん)というミニ遍路がある。
ミニ遍路といっても、平均斜度が45°以上もある急峻な長久寺の裏山の、崖に沿った獣道のよう
に狭いつづら折りの道を登るハードなコース。手摺もロープも無い、30〜50p程の高さの石段が
この遍路の厳しさを見せつける。足腰の衰え始めた自分のような年寄りや、脚の短い者にはかな
りきつい。
山の斜面に屹立する樹木が空を覆い、日暮れた森の中のように薄暗い。梅雨のこの時季、風のな
い山内は蒸し暑く、気が付けば全身汗だくになっていた。ミニ霊場などとあなどってかかっては
ならない。長久寺の遍路道はむしろ修験の道と言った方が適当かもしれない。

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 40pもある石段が続く         昼なお暗い遍路道 
     
明治七年(1874)、無住となっていた集落の菩提寺長久寺に、奈良・初瀬寺(長谷寺)で「仏教の
奥義を修めた」ひとりの僧侶が住職として就任した。宝山智龍という僧名を持つ33歳の青年僧
である。
この青年僧、天保12年(1841)出羽の国(現山形・秋田県)遠藤家に生まれた。詳しいことは分か
らないが、16歳の時(安政四年、1857)に出羽の国湯殿山注連寺に出家。その後諸国を行脚し、
28歳になった明治二年(1869)初瀬寺(長谷寺)で修業に入り、明治七年(1874)に無住荒廃した
長久寺に住職として赴いたとある。

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 長久寺本堂への石段アジサイが飾る 

驚くべきプロフィルではないか。智龍は、幕末という日本が不気味に揺れ動き始めたその端緒
に出家し、300年間続いた江戸幕府が消滅し明治という新たな時代が立ち上がる激震のさ中に日
本を行脚するという危険極まりない行動に出た。そして続く廃仏毀釈というかつて仏教界が経験
したことのない苦難の時を、智龍は体験する。それまでの国教であり智龍自身の拠りどころでも
あった仏教は否定され、日本の寺院の大半が潰された激変の時をである。出家した智龍にも思い
もよらぬ事態、展開であっただろう。 

 毛原集落.jpg
 長久寺から見る毛原集落

長久寺の住職となった智龍は寺域に開設された毛原小学校で教鞭をとったとある。江戸から明治
に変わった明治五年(1872)、時の政府は学制を公布し、全国に小学校をつくり6歳以上の男女が
身分に関係なく通うことを目指した。長久寺の住職となった智龍が(寺小屋に変わる)小学校に容
易に職を得、とにかく生計の糧を得ることができたことは、僧侶の還俗、帰農を意図した明治政
府の思惑があったとしても、僧侶が大量リストラされた時代にあって、幸運であったかもしれない。
 
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 大師山への入り口「発心門」 

長久寺の住職に就いてから6年後の年明治十三年(1880)、智龍は病の床にあった。出家し長久寺
の住職となった二十有余年というもの、仏教は否定され、僧侶としてアイデンティティを保つこ
とが困難な年月の中、智龍は傷つき疲れ切っていた。
そんな或る夜、智龍の夢枕に金色輝く弘法大師が現れ、「本境内ノ裏山ヲ開キ仏法ノ興隆ニ一身
ヲ捧ゲヨ」との、お告げをうけた。壮年期を前にした39歳の智龍は、崇拝する空海に自身の力を
試されているのだと、瞬時に悟った。空海のお告げは僧侶とし無力感に焦燥し追い詰められる智
龍の心の叫びがもたらしたものだったに違いない。

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 奥の院の磨崖仏 右が開山智龍坐像 

明治十五年、智龍は三年足らずの期間で霊場「大師山」を創建した。自力で山を開き、自然を生か
しつつ四国八十八所に倣って多数の石仏を創り安置したという。
自力で・・・ということは組織の力を借りずに、ということであろう。長久寺の(当時の)本山であ
った東大寺も廃仏毀釈の荒波をかぶり、末寺の面倒を見る余力はなかった。

 s-P7042061特異な石仏.jpg s-P7021758静座緑陰.jpg

大師山の遍路道を辿ると大小さまざまな石仏に出会う。この長久寺の石仏の大きさはまったく不揃
いなのだ。至極大きく立派な石仏もあるが、中には自然石の上に頭を載せただけのように見える石
仏もある。きっと信者からの寄進を受けては、大小、見た目に拘らず一体、また一体と造っていっ
たのであろう。本山の助力に頼ることなく、自らの托鉢行脚のみで得た浄財でもってこの険しい山
を切り開き、道を整備し、八十八体から百体の石仏を揃え、安置することは並大抵のことではなかっ
たはずだ。
 
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 十六番観音寺

注連寺のこと
智龍が出家した注連寺は山形県鶴岡市にある真言宗智山派の寺院で山号は湯殿山。芥川賞作家森敦
の受賞作「月山」の舞台である。無論森敦が智龍のことを知るはずはないが、何十年も国内外を放
浪して注蓮寺に辿り着いた森敦と、注蓮寺を出て十年近くの歳月諸国を行脚した智龍の、入口と出
口いう裏表の関係の中心に注連寺があることに興味を覚える。

湯殿山の開祖は空海とされる。出羽三山が女人禁制であった江戸時代までは「女人のための湯殿山
参詣所」として信仰を集め、門前町の中心として大いに賑わった。智龍はその注連寺に出家するも
間もなくして諸国行脚の途につく。

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 やがてこの石仏も松や檜に覆い隠されてしまう

何故智龍は出家しその後間もなく注連寺を離れたのか。16歳から28歳という最も多感な青春時代を、
日本の国が激変激動した逆風の時代を智龍は諸国行脚した。何を考え、何を見たのか。そして何を
目指したのか。(そしていかなる経緯で奈良は長谷寺に辿り着いたのだろうか。)今はまだ何も分か
らない。

●参考URL
智龍上人
http://www.ne.jp/asahi/yuhi/net/chokyuji/chiryu_syonin.htm
湯殿山注連寺
http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/
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2011年07月31日

西念寺・奈良福住萱葺屋根の寺

名阪国道福住ICを出て旧道(R25)をしばらく行くと道の真正面に唐突に茅葺屋根が現れる。
通り過ぎてしまうには惜しくて車を止めた。鐘楼があるところを見ると寺のようだ。
今では奈良の山中でも茅葺(草葺)屋根の民家を滅多に見ることができないが、逆に寺院や神社の場合
は少ないもののたまに見る。地図を見ると西念寺とある。

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 蓮台山来迎院西念寺 長楽寺(廃寺)の里坊だった

西念寺の境内に入って適当なアングルを探す。道路から見ると結構な眺めなのに寺内に入るとどうに
も収まりにくい。狭い境内、本堂前に大型の白い乗用車が止め置かれ、いたるところ日常の生活にかか
わる雑多なものが目につく。
カメラは入れたくないものも写してしまうのが面倒なところたが、今更それを愚痴っても始まらない。

 s-P7296653ノウゼンカズラ(凌霄花).jpg 
 ノウゼンカズラは寺院によく映える

境内の写真を諦めて、寺の奥、裏山に登る。山上から寺の全景を撮れればと考えてのことだが、上は
小さな墓地だった。福住町の墓所のようだ。
西念寺の詳しい創建年代は不明だが、調べてみると南北朝時代の1384年頃にはすでにあったと考えら
れる。この寺は当時の土地の有力者福住氏の菩提寺で今も一族の墓石が残されている。福住氏は江戸
時代の直前に没落しためたその家系のことは忘れられてしまったが、町の名として今に残る。

 s-P7296617西念寺法界塔.jpg 
 西念寺法界塔「南妙法蓮華経」の文字が刻まれている

墓地の隅に旧い墓石を集めた塚(無縁塔)があった。塚の真ん中に「南妙法蓮華経」と彫られた法界塔
が建っている。
いつものことだが、この(多くは)ピラミッド型に積まれた無縁塔というものに何か異様なものを感じ
る。墓石は死者と生者を結びつけるもの(卒塔婆)である。役割を終え一箇所にうず高く積み上げられ
た巨大な卒塔婆は、避雷針のように死者の数だけ増幅された霊的エネルギーを呼び集めてしまうので
はないのかと。霊の存在を信じているわけではないが、ついそんな想像をしてしまう。山上に呼び集
められた霊たちは・・・それから何処へ向うのだろうか。

 s-P7296626桔梗の花・西念寺.jpg s-P7296630ヤマユリ・西念寺.jpg
 墓地に咲く桔梗とヤマユリの花

来るときには気づかなかったが福住町の入り口の道路脇に立派な石仏があった。笠地蔵と呼ばれている
が「阿弥陀笠石仏」が正式な名称とのこと。
人の話では、以前はすぐ横の水路の脇に体半分が土に埋もれるようにしてあったという。その後、県
道を整備した時に救い出されたのだろう。
鎌倉時代後期1311年(応長)元年に彫られたもの。今から丁度七百年前のことになる。

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 笠地蔵(阿弥陀笠石仏)奈良県天理市福住町入田

いったいどれほどの数の人々がこの笠地蔵に向って拝礼したことであろうか。どれほどの数の人がこ
の石仏の前を通りすぎたことであろう。
西念寺で見た無数の無縁仏やこの路傍に佇む石仏たちは、問いかければ壮大な歴史物語を教えてくれ
る。もし、この石仏に記憶(記録)のメカニズムがあるならば、その映像を確かめることができるのだが。

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 天理市福住町西念寺無縁塚 

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2011年06月16日

奈良 日笠フシンダ遺跡と絵馬を推理

奈良市日笠町にある光仁天皇陵に隣接する水田地下から奈良時代・天平10年(738年)頃に製作された
日本最古級の大型絵馬が出土した。2006年11月のことである。
光仁天皇陵は奈良県の遺跡地図に登録されている場所なので、田原地区のほ場(田畑)整備事業に先立
って実施された埋蔵文化財発掘調査の成果である。

 日笠フシンダ遺跡出土絵馬.jpg
 「絵馬」複写 日笠フシンダ遺跡 現地説明会資料
 奈良県橿原考古学研究所
 

 
発掘現場はすでに埋め戻され四角四面に整備された水田になっているが、絵馬の発見された地点の水
田の名称(小字名「フシンダ」)に因んで「日笠フシンダ遺跡」と名づけられた。
日々発掘される遺跡ニュースの前に絵馬発見の事実は忘れられてしまうが、フシンダ遺跡のことも
人々の記憶に薄くなってしまったようだ。蘇っては消える古代史の現場の宿命とはいえ寂しいという
か、残念である。

 フシンダ遺跡発掘現場.JPG 
 フシンダ遺跡発掘現場 YAHOO地図編集

フシンダとは妙な名前だが、この水田の所有者の宮中清さんもフシンダの由緒は知らない。多分ご先
祖さまが新たに造った、「普請」した田圃というということに由来するのだろうと言われる。
水田に名称をつけるというのは平安時代の荘園制の名残で、自ら経営する(開墾した)土地を明示する
ために、その土地へ名称をつけたことに由来する。「名田(みょうでん)」といわれるものだ。すっか
り忘れていたが、日本史の授業で習ったことを思い出した。

日笠フシンダ遺跡現地説明会資料(橿原考古学研究所06.11.18)を見ると、「発見された絵馬は、その
他土器、土馬、木簡、銭貨(和銅開珎)、斉串(いぐし)、人型、船形木製品、陽物形木製品などの祭祀
遺物とともに出土しており、その付近でなんらかの目的をもって断続的に祭祀がおこなわれたものと
推測できる。」という。※陽物:陰茎、男根

問題の絵馬は遺跡の山側の流路跡より三点出土した。そのうちの一面は写真で見るとおり檜板目材で
六片に破損しているもののほぼ完全な形で出土した。他の二面はそれぞれの一部分が出土した。いず
れの絵馬も割れた状態であることより、祭祀後に故意に破断した上で流路に投棄されたものと考えら
れる。※1

 s-P5264891光仁天皇陵.jpg 
 南西水田から見た光仁天皇陵 背後の山際がフシンダ遺跡

フシンダ遺跡の絵馬について、北條朝彦氏が「続日本紀研究」の第381号に『古代「絵馬」祭祀論』と
いうタイトルの小論文を発表している。 

その中で興味を引くのは、『絵馬の出土状況であるが、ほとんど破断した状態である。もちろん埋没
過程で土圧により割れたものもあるに違いないが、明らかに故意に割ったものもある。(中略)祭祀後
に割った上で投棄していると考えられる。(中略)今でこそ神社仏閣やその周辺の木々に割ることなく
吊り下げるが、古代においては祭祀の途中は吊り下げたり、置いたりしたであろうが、祭祀後には割
って投棄していた可能性が高い点、古代の絵馬に対する願いの込め方と現代絵馬に対する願いのこめ
方の違いが垣間見えるようで興味深い。』という部分である。祭祀において地中に絵馬を埋めるとい
点である。

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 日笠町今井堂天満宮拝殿に懸架された奉納絵馬

では、祭祀後に絵馬を破断し投棄あるいは廃棄するのにどのような理由があるのか。北條氏は『疫神
の動きを封じるねらいもさることながら、絵馬に込められた諸願も成就するように、つまり馬ゆえに
時空を疾走し、せっかくの願いが飛散しないように敢えて割って走れなくするという思想が働いてい
る場合もあると考えたい。』と述べている。

詩情あふれる解釈であるがそれによって「走れなくする」とは私は思わない。祭祀そのものが「願
い」の形式的行為である。「絵馬」はあくまで供えものである。祭祀に用いられる供物は一回限りの
使用が原則であり「絵馬」も形代(かたしろ)として供えられたあと破断されたと考えるのが妥当であ
ろう。
ただ考慮すべきはその時代における「絵」そのものの重み、価値である。現代社会においては「絵」
は美術品であったり嗜好品であったり数ある趣味の一つの対象にすぎなかったりする。しかし古代社
会、宗教の中で発生した「絵」は神仏の偶像であり、現実そのものか、それ以上のものであった。
人々は「絵」の内に命や魂を感じとっていた。その絵は神や仏そのものであった。つまり「絵馬」は
生きた馬以上に神聖なものと感覚されていたたはずである。
その絵馬を割る、或いは水に沈めるという行為は、神への捧げものとしてその命を絶つということで
あり、北條氏も触れているが生贄同様の意義を伴った行為であったと考えるべきと思う。※2 ※3
 
日笠フシンダ遺跡の場所について北條氏はまた『当地(日笠)は葬送地と考えられていたが、天平10年
前後にこの山がランドマーク的な地形であり、その周囲の流路を中心に祭祀が行われていたという想
像に無理はあるであろうか。』とその必然性を強調している。
※ランドマーク:陸票 landmark 陸上の目標;特に、海上の船舶や路上の旅人に目印になる地形、
樹木、建物など(ランダムハウス英和大辞典)


 s-日笠町・沓掛町鳥瞰図.jpg s-日笠フシンダ遺跡と周辺地図.jpg
 日笠町フシンダ遺跡鳥瞰図           日笠フシンダ遺跡周辺地図

奈良時代天平10年(738年)前後、日笠フシンダ遺跡のその場所にまだ光仁天皇陵はない。和田川と白
砂川と須山川が合流した池沼ともいえるような湿地帯である。
今では信じられないことであるが、日笠町のある田原地区には10m〜20mの川幅を持つ河川が流れてい
たことが遺跡発掘調査の結果判明している。背後の山がその地域においてランドマーク的な地形であ
るかどうかはわからないが、当時フシンダ遺跡のすぐ東の山の頂あたりに神社あるいは寺のあったと
思われる形跡がある。

 s-P6155276白砂川.jpg 
 日笠町を流れる現在の白砂川 川幅は2mくらいか

さきほどの宮中Cさんからうかがった話であるが、日笠フシンダ遺跡の発掘調査の後に宮中さんのお
宅の裏山で十数枚ものカワラケが出た。遺跡調査に当たった清水昭博氏の見立てでは鎌倉期のものと
いうことである。何らかの神事に使われたものと思われる。
また古い地割図(土地台帳)を見たらいかにも神社の敷地と思わせる区画があった。そもそも宮中さん
の苗字そのものが神とのかかわりを示す家系を連想させる。
また山の頂上、大西さんの茶畑の真ん中に地元では「みろくさん」と呼ばれる石仏群が祀られてい
る。このような事実の積み重ねからこの山がひとつの聖域であったと考えることに無理はない。

 s-日笠町・名張街道.jpg s-P5264942名張街道旧道日笠町.jpg 
 奈良市における日笠町の位置を示した地図      日笠町の名張街道旧道

もう一つ見逃せないのは、フシンダ遺跡が日笠町を東西に走る三重県名張市と奈良市を結ぶ名張街道
旧道上(奈良県道183号線)にあることの意味である。
日笠フシンダ遺跡で絵馬を用いた祭祀が行われた天平10年(738年)という年は、前年からの大規模な
疫病は収まることなく依然猛威を振るっていた。そして二年連続の旱魃におそわれていた。この大災
難を鎮めるための祭祀が各地で行われたと記録にあるが(続日本紀)。雨乞いの祈願とともにこれ以上
都に疫病が侵入することのないように、都(平城京)への東入口、伊賀・伊勢と続く街道の境界にあた
る東山中の田原村日笠において山川の神々に祈祷し、天神地衹(あまつかみくにつかみ)に絵馬などの
供物を捧げ祭祀が行われたものと考えられる。 ※4

 s-P6155325みろくさん.jpg
 フシンダ遺跡に隣接する裏山頂上に祀られた石仏群
 地元の人々から「みろくさん」と呼ばれる


日笠町のある田原地区は今では過疎化の進む山村という印象であるが、奈良時代においては都への木
材供給地であり、日笠フシンダ遺跡は添上郡田原村に数ある貯木場および加工場の一つであった可能
性が高い。
また地形図を分析する、日笠町は田原地区においてここより白砂川を下る拠点、木材搬出の港であっ
たのではないかと思えるのだ。説明会資料に絵馬とともに船形木製品が出土したとあったのもその一
つの証しでもある。

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 金比羅権現 岩に筋彫されているらしいが風化により判別できない

日笠町を通る名張街道が白砂川と交わる天井橋の袂に金比羅権現(こんぴらごんげん)が祀られてい
る。金毘羅権現は、琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であるが、元来は
ガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物「クンビーラ」のことであり、ガンジス川に棲む鰐を神格化
した水神である。特に船乗りから信仰され一般に大きな港を見下ろす山のうえに祀られていた。(Wikipedia)

 s-P6125215日笠フシンダ遺跡・光仁陵.jpg  
 フシンダ遺跡の裏山中腹より光仁陵を望む

かつて日笠フシンダ遺跡の背後にそびえる山には金比羅権現を祀る神社があった。そして白砂川に筏
を組み下って行く人々の無事を見守っていたに違いない。旅人にとって格好のランドマークというよ
り神のいます山であっただろう。
これが日笠町一帯を見て歩いた自分のフシンダ遺跡に対する印象(推理)である。

 s-P6195436白砂川金比羅大権現.jpg
 白砂川の金比羅大権現


※参考資料
・日笠フシンダ遺跡 現地説明会資料 (清水昭博) 奈良県橿原考古学研究所
・奈良県文化財調査報告書 第133集 日笠花刈遺跡 奈良県橿原考古学研究所
・続日本紀研究 第381号 古代「絵馬」祭祀論 北條朝彦

・奈良県文化財調査報告書 第144集 日笠フシンダ遺跡 奈良県橿原考古学研究所

<補足>
※1 馬の色について「日笠フシンダ遺跡」奈良県文化財調査報告書 第144集の中で発掘責任者・清水
昭博氏は、『本来は彩色を施していたものと判断できる。残念ながら、墨以外に彩色の痕跡は認めら
れないが、体部に斑点状の濃淡が多数みられることから推測すると、灰色を基本に斑点をつけた葦毛
(連銭葦毛;れんぜんあしげ)つまり、白馬であった可能性が高いと思われる。』と論考されている。葦
毛の基本色は「灰色」だが、雨乞いの祈願祭祀に白馬を奉納することはふつう考えられない。描かれ
た馬は黒灰白に近い葦毛と考えるのが妥当と思うが、奈良時代においてはいまだそのような慣習が無
かったのであろうか。

※2 一方、清水氏は『最古に属する絵馬は(フシンダ遺跡から出土した絵馬を含め)いずれも天平期
に製作されている。(中略)律令国家は疫病、災危をまき散らす疫神を別の世界(根国底之国)へ敏速に
運ぶ救世主として、絵馬を創出したのではないのだろうか』と絵馬の誕生に言及して報告を締めくく
る。

※3 馬を水に沈めるという雨乞いの風習は五世紀頃に中国から騎馬乗馬の風習とともに日本に入って
きたと、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館館長の河上邦彦氏は考えている。その慣習が生きた馬
から木馬や土馬、絵馬と変化したが、水に沈める、或いは水底に埋めるという祭祀の基本形は変わる
ことなく踏襲されたのであろう。

※4 清水氏は奈良の都(平城京)から遠く離れた日笠の地で祭祀がおこなわれた理由についてやはり
その地に着目する。『その立地が、白砂川に沿って大柳生から山背(京都府南部)、北陸へと通じる道
と水間峠を越えて伊賀、東国へと通じる道が分岐するという交通の要衝にあることは偶然でないと思
われる』と言う。
地図を見ると確かに白砂川に沿った道が木津川まで途絶えることなく続いている。しかし、私は、日
笠という土地のポイントは道路ではなく水路つまり川との交点であると考えたい。


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2011年05月29日

絵馬の原点伝える奈良日笠天満神社

奈良市日笠町にその名を地図の上で見つけることも難しい古い神社がある。
森の木々に隠されて神社のすぐ下を通る農道からも全く見ることができない。参道口に何の案内もな
いので、そうと知らなければ通り過ごしてしまう。
この辺りでこの神社のことは、白砂川を挟んだ茗荷町にある天満神社と区別するため「今井堂天満神
社」と呼ぶ。日笠、大野、沓掛の三つの町(大字)の氏神である。

 s-P5265015ご神木.jpg s-P5264970今井堂天満宮参道.jpg 

今井堂というのは、当地に残る平安時代の武将・木曽義仲にまつわる伝説の一つである。
源頼朝にやぶれた木曽義仲は、信楽・名張をへて、家臣の今井四郎兼平とこの日笠に身をかくし、義
経や頼朝に一矢報いるべき奮闘したが果たせなかった。
兼平はその後仏門にはいり、名を義兼法師とあらため、六十四歳でこの世をさるが、その一子、隈笠
四郎兼則が、父、兼平のために七重の石塔婆をたて、義仲の霊と共に兼平の霊を祭ったのが今井堂で
ある、という話である。(境内で「今井堂」と言われるモノは見つけられなかった)

 s-奈良市日笠町地図.jpg 

「田原村史」には『口碑によれば寿永三年(1183)年正月左馬頭源義仲敗軍の際その臣今井兼平主君を
援けて当地に潜み其崇敬する天満宮を当境内に勧請し殿宇を建て武運長久を祈願したという』とある。
史実によれば今井兼平は1184年(元暦元年)3月4日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦
いで討ち死にした義仲の後を追って自害した、とされている。
どちらも古くからの言い伝えであるが、今井兼平の係累が鎌倉軍の追跡を逃れ、この地に隠れ住んだ
というふうに考えてもかまわないだろう。
この話のポイントは、むしろ日笠天満神社が鎌倉時代以前からこの地にあったとこと物語るものであ
ろう。

 s-P5264992今井堂天満宮拝殿と社務所絵馬.jpg

今井堂天満神社は、奈良でもあまり知られていない(と思う)が、「絵馬」の原型を連綿と伝える唯一
の神社かもしれない。
訪れて見て驚いたが、社務所の軒下や、拝殿の天井や軒下に掲げられた絵馬の数はざっと見渡したと
ころ100面以上ある。そしてそのほとんどの図柄が全て「馬」の絵なのである。
 
 s-P5265002天満宮拝殿西面絵馬.jpg 

絵馬の起源は神社での祈願に際して願主が生きた馬に代えて馬の絵を描いた額を奉納することにはじ
まるが、その後絵柄も祈願の内容に即した絵図に多様化する。また奉納の根拠も祈願ばかりではな
く、社会的成功を収めた個人の売名的なものや、美術館など無い時代のこと有名絵師たちの自作発表
の場など、絵馬の本質も変化、多様化した。

 s-P5264976奉納絵馬.jpg

しかし、この神社の絵馬はほぼ「馬の絵」に限られている。見渡す限り、馬、馬、馬なのである。少
しも絵馬の伝統はブレルことが無い。
田原村史には、『雨乞い成就には黒毛の馬、晴乞成就の場合には赤毛の馬数等を舞床の周囲を駆廻ら
す。その時子供等は鞭を以ってはた板(建物の腰板)を叩いて馬の威勢を晴らす。馬子は苦労するが神
霊が悦ばれるという。』と書いている。見てみると比較的少ないもの赤い馬の額も多数認められる。
それにしてもこれだけの数の馬の絵の「絵馬」は他の神社では見られないことである。

 s-P5264977絵馬・天正2年.jpg s-P5264973絵馬・明治28年.jpg
 天正二年                        明治28年
 s-P5264974絵馬大正3年.jpg s-P5264984最新平成15年絵馬.jpg 
 大正3年                        真新しい平成15年 

大型の絵馬を見ていて気づいたのだが、奉納された年に共通した特徴がある。ほとんどの絵馬は経年
変化により色褪せたり、絵の具(顔料)が剥落していたりして判別しにくいのだが、奉納された年を明
確に読み取れる四点についてその年の出来事を調べてみて、驚かされた。

・天正二年(1545年)は戦国・安土桃山時代に区分され、織田信長が殺戮の限りを尽くして北伊勢を平
定した。この年、奈良(大和)の大名筒井順慶は岐阜に信長を訪ね恭順を示す。
・明治28年(1895年)は、日本が日清戦争に勝利。
・大正3年(1914年)は、7月に第一次世界大戦が始まり、翌8月には日本がドイツに宣戦布告した年である。
・平成15年(2003年)は、米国内のダブルテロへの報復としてイラク戦争が始まる。日本は実戦には加
わらなかったが、自衛隊が初めて海外へ進駐、他国の戦争に協力した年である。

 s-P5265027今井堂天満宮神木.jpg 

ほんの四面の絵馬を調べて見ての事ではあるが、今井堂天満神社の大型絵馬は「他国との戦争」とい
う国家的な出来事の起こった年に奉納されている。
明治28年と墨書された絵馬には「日清戦争平和祈願」と祈願の具体的内容が記されている。いつの時
代においても戦争は勝っても負けても人々の生活を疲弊させ、あるときは親や子、また同胞の命を奪
うものである。
日笠町天満神社の絵馬からは、この地の人々の平和への祈り、安定した日常を願う痛切な心持を窺い
知ることができる。

 s-P5265006献花台神馬模様.jpg
 石の献花台にも馬の絵が・・・・

今井堂天馬神社で見た絵馬は、戦国・安土桃山時代の天正二年(1545年)という相当古い時代の絵馬で
驚いたが、なんとこの近くの「日笠フシンダ遺跡」から、奈良時代半ば天平10年(738年)の頃のもの
と考えられる絵馬が祭祀遺跡・遺物とともに出土した。
詳しく調べてみれば、日笠天満神社から安土桃山時代以前の絵馬の見つかる可能性も高いと思う。屋
外に掲げられた絵馬は、日の光、雨風に晒されどんどんは色褪せてしまう。田原地区の方々や市・県
の文化財担当者は日々劣化の進む絵馬の保存留意をお願いしたいところである。このような文化財は
地域の歴史をを知るばかりではなく、日本の歴史を実証し、また身近に知ることのできる貴重な宝も
のなのだから。

 復元フシンダ遺跡出土絵馬.jpg
 彩色復元されたフシンダ遺跡出土の奈良時代の絵馬
 

参考資料
※ななかまど「奈良の伝説」http://www.7kamado.net/den_yamato/nara2.html
※田原村史
※奈良市日笠町「日笠フシンダ遺跡」現地説明会資料 奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/from-site/2006/higasa.pdf
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2010年09月20日

柳生街道 秋の気配

円成寺のある忍辱山(にんにくせん)を通る柳生街道は大柳生まで尾根伝いの濃い森の中を行く。
谷地の棚田はどこも稲刈りを済ませていた。
田んぼに残る稲の切り株、そこから芽が出て成長するのを蘖(ひこばえ)と言うがそれがすでに
20pくらいまでに育っている。黄金色の棚田を撮るつもりでいたのに・・・遅かった。

 s-P9193549稲藁干.jpg

山を下ったところの田んぼは丁度稲刈りを始めたところだった。昨日手前だけコンバインを入れ
た後なのだろう、稲穂を具合よく見ることができる。

 s-P9193502稲穂.jpg

最近、稲にこだわっている。実はこの夏図書館で「日本の風景を読む」という本を借りた。
この本の冒頭に『たわわに実った稲。重く頭を垂れた稲穂。何の不思議もないその一本の稲穂
の大写しを眺めながら私が考えさせられたことは、「稲」という植物に初めてであった先祖た
ちの心でした。 たった一粒の種籾から一年で2000粒、3000粒もの米を実らせる稲。
二年で400万、三年で80億、四年で十六兆。こんな作物は他にはないのです。その稲とい
う植物に出会った先祖たちは、どれほどの驚きと喜びと、敬虔な祈りとで、それをこの国土に
根付かせてきたことでしょうか。』この文章を読んで以来、稲が気になって仕方がない。

 s-P9193486ノシメトンボ.jpg
 ノシメトンボ

著者の富山和子氏は日本の環境問題評論家としてとても有名な人物で、水田の働きに着目した
「水田はダム」という言葉もよく知られているらしい。
それにしても毎日のように食している「米」というものがそんなにもすごい植物であること知
らなかった。この本を読んで以来、稲や水田に対する見方や考え方がこれまでとは全く変って
しまった。日本の原始国家の誕生や古墳と米の関わりなど、奈良を撮る上での新たな針路を示
してく
れた本だった。

「稲」の写真は難しい。田んぼとか棚田とか稲並みとか全体を写した写真はよく目にするが、
独創的なこれまでに見たことの無い稲を写したものはまだ見たことがない。なんとかこの秋の
間に会心の作をものにしたいものだ。

 s-P9193556コバキボウシ.jpg
 コバキボウシ

白露から秋分の間の今頃を七十二候では「玄鳥去(げんちょうさる)」といい、燕が南へ帰って
行く時期を示す。そういえばこの頃、燕の声を聞かなくなった。
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2010年06月01日

初夏柳生街道

初夏と言うには肌寒い曇り空、5月27日、円成寺(えんじょうじ)から大柳生口に至る柳生街道を
往復。僅か片道2q足らずの道のり・・・・

 円成寺拝殿夏紅葉.jpg

子供の頃は「柳生」って言えば、必ず「じゅうべえ」って続けるものだったけど、この頃はタマネギ
頭の柳生博さんを連想してしまう。がしかし、あの柳生さん、実は柳生一族の末裔だという。
ちょっと驚き。

 谷田独田植.jpg
 

この5月のはじめに円成寺から柳生の里までを歩いた。その途中で見て気になっている棚田のそ
の後を見たくてまたやって来た。
棚田は、田植え後のまだ水面が目立つ頃が絵になる、と思う。水を張った田の面に、山影や、朝陽
や夕日、ことによると「田毎の月」を見ることができるかもしれなから。

 道標.jpg

しかし、今朝見たこの田んぼはまだあたかも田植えが終わったばかりのように見える。多分、この
五月というものは冷たい日が多かったからだろうか。いや、ことによると少し早く来すぎたのかも
知れない。

 柳生街道石灯篭.jpg

 
柳生街道は奈良春日の杜から柳生の里までのおよそ20kmの道のりを言うが、今日歩いた円成寺
から大柳生口までの2kmは、これと言った見所のないトレッキングコースに過ぎない。東海自然
歩道の一部なのだ。
歴史街道たって必ず史跡を見られる訳ではない。それでも草木や花など四季折々の景色を楽しむ
ことは出来る。

 山ツツジ.jpg 田跡杜若.jpg

しかし、前回見つけた「稚児百合」の群生はどんなに探しても見つからなかった。
この道は農道でもある。私にとっては貴重に思える草花も田舎に住む人々にとって、はびこるばか
りの山野草は単なる「雑草」に過ぎないのだろう。
最近草刈をした後のようで、道はきれいさっぱりと姿を変えていた。

 峠道祠有.jpg

円成寺から山道に入ったすぐのところに、小さなほんとに小さな祠がある。
山道を歩いていると、思いがけず神様を祀る祠に出会う。この祠、峠のような坂の頂上に唐突に置か
れているように思えた。
往路ではそこに置かれているわけが解らなかったが、帰り道にその理由が解った。
その祠の置かれた道のがけ下に、取水口があったのだった。
一筋の流れも、溜池もない山上(のように見える)田んぼに水を引くための、取り入れ口が崖下にあっ
たのだった。

 初夏野山奔放.jpg 

農業に携わる土地の人々にとって、山や川は、生活を安堵する水を生む神聖な場所なのだ。
そういえば、祠に向って一拝してから通り過ぎて行く土地の男や女をよく見かける。平穏に過ごせる
感謝の気持ちこそが信仰の基本なのだ。
今日初めて腑に落ちた。
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2010年03月21日

椿の春・柳生街道「滝坂道」

梅に桜、木蓮そして椿の花が咲き競う高畑町の町並みを抜けて、旅籠長谷川を行過ぎたあたりから
旧柳生街道「滝坂の道」は始まる。舗装された細道は突然春日山原始林の薄暗い山道に変る。
高円山と花山(春日山)の間を流れる能登川に沿って通る「滝坂の道」は、まさに滝と坂の造る道。


 右龍坂.jpg 落椿陽春の林.jpg
 


奈良の町と柳生の里を結ぶこの道は、高畑町の石標から途中休憩所のある首切り地蔵まで登坂が続く。
勾配度15%の「激坂」のうえ凸凹の石畳やぬかるむ悪路続きなので、行き来するのにはかなり辛い
道となる。


 滝坂の道.jpg 二連滝.jpg




今日は「滝坂の道」に原種の椿を見つけに来た。坂道をしばら行くと、足元の石畳に落ち椿がひとつ、
ふたつと目に付く。ほとんど人の手の入らない春日山の原始林では椿もその他の木と容易に見分け
ることが難しい。


 石畳落椿.jpg 水温む豆蔦紅椿.jpg



椿の花は鹿の大好物なので、木は、鹿も近づけない岩の上や、川を挟んだ急峻な山の斜面に自生する。
群生するということは無い。冬に落ちた椿の実から生まれる苗も鹿に食べられてしまうのだろう。
落ち椿の赤い花も、鹿が夜の内にきれいに食べてくれるから、注意して見ないと、見つけられない。
それでも、今は椿の最盛期。落ち椿を撮っている間にも、花は、次々と落ちてくる。樹高10m以上の
ヒョロリト伸びた高いたかい木枝から、風も無いのに落ちてくる。ヒヨドリの鋭い鳴き声が響く。


 滝坂飾る落椿.jpg


川の流れに、赤い花が勢いよく運ばれて行くのを見た。この時季、流れは赤い椿の花に点々と飾り
縁どられる。


 流椿.jpg


※激坂についての考察
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sy-baba/kousatu.html#dorekurai
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2010年01月01日

冬の浄瑠璃寺

 

「じょうるり」・・・・・なんと美しい響きとイメージを持つ言葉だろう。 
「浄」清い、けがれのない 。「瑠璃」天空・青をあらわす。この語感の美しさに誘われ、多く
の人たちがこの浄瑠璃寺を訪れることだろう。


 馬酔木の花.jpg


浄瑠璃寺の開門時間は午前9時。乗合バスの都合だろうか、まだ開門までに20分もあるが、すで
に数人の参拝客が開門を待っている。寺の参道には、何本もの馬酔木が植えられているが、その
うちの一株、もうつぼみを開いている。少し赤みを残した白い釣鐘の形をした房状になった花が
咲いていた。春の花のはずなのに、もう咲いている。 開門をまつ間、馬酔木を撮る。


 浄瑠璃寺宝池.jpg


12月31日、昨日からの寒波の影響で冷たい朝だった。突風が木々を揺らしゴーゴーと音を鳴らす。
まるで台風のようだ。本堂まえの宝池の水面には、朝日を受けて光る屋根と背後の木々がくっき
りと映って見える。高い木に覆われ薄暗い早朝の境内と、池に映る明るい景色のコントラストと
の面白さが、寒さを一時忘れさせてくれる。


 浄瑠璃寺の葉牡丹.jpg


山門の両脇に、入るときにはなかった葉牡丹の鉢植えが置かれていた。そうだ、明日は元旦。正
月を迎える飾りなのだ。

葉牡丹を正月飾りに使うようになったのは江戸時代以後のことのようで、紅白の色使いが出来
る事から、門松には欠かせない植物になった。葉牡丹の観賞の時期がちょうど冬の今頃であるこ
とと、姿が和風の飾りとしても良く似合ことから、関西地方に定着したらしい。

子供の頃、キャベツに似たこの色つきの野菜なのか花なのか分からない葉牡丹がなんだか知らな
いが苦手だった。綺麗と思えるようになったのは、年賀状に刷られた多色刷りの版画の葉牡丹を
見てからのこと。だけどもうその人から賀状の届くことはない。


※お正月と門松
http://www.kita-ryokka.or.jp/hana_main_0901.html
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2009年09月15日

奈良都祁村 ぜんださん

都祁村写真紀行 その2

来迎寺本堂前景.jpg


地元では「ぜんださん」で知られている来迎寺。正式な寺名は「善導大師来迎寺
町名にもなっている来迎寺町の檀家十数軒でこの寺を支えている。

1629年に再建された本堂は380年の歳月を経てかなりの傷み具合だ。正面の柱に「危険だから
近寄るな
」と張り紙がされている。現在本堂の建替え・修理について奈良市が検討している
との事だ。 しかし重文の指定のない建造物に対し行政は手を貸してくれるのだろうか。
とても気になる。

「右ぜんだ大師 」の道標.jpg


県道781号線来迎寺バス停を降りたところに、「右ぜんだ大師」と彫られた小さな道標が立って
いる。 この場所は平城京から伊勢神宮へ向かう伊勢街道の通過点にあたる。お伊勢参りが盛
んになった江戸時代初期に立てられた道標と思うが、地元の古老もいつからここに立っていたの
か知らないようだった。


寺に続く道.jpg 善導大使来迎寺の入口.jpg

苔におおわれる石仏群.jpg 本堂への石段.jpg


来迎寺境内入り口から石段まで続く参道は、檜の高木に覆われ昼間も薄暗い。石段の登り口の
ところに小さな地蔵石仏が数十体。山の斜面にもたれかかるように並び置かれている。
枯葉や山苔に隠されてほとんど隠れてしまっている。

来迎寺本堂山門.jpg



来迎寺は山寺の佇まい。石段を登り切ったところに山門がある。蝶番は錆びつき、支える門柱も
傷みが進んでいる。 扉はもう開け閉めできずに開かれたまだ。
山門から見る本堂は正面の扉も閉ざされたままだ。なんともうら淋しい景色。 

この日、数人の村の女性が境内を掃き清めていた。「14日は、ぜんださんのお祭りだから。」と
丁重に教えてくれた。


お地蔵さま.jpg 来迎寺五輪塔.jpg
 


本堂脇の石地蔵の脇を抜けて石段を上がった裏山に墓所がある。 無数の五輪塔が窮屈に並ん
でいる。鎌倉時代から平安時代にかけての興福寺の僧侶や土地の豪族(多田源氏)の墓碑とのこと。
いつも感じるのだけど、無縁仏を眼にしたときの無常感というか、体から力が抜けて行くような
感覚はなんなのだろう。

仏堂.jpg 鐘楼.jpg


境内には、こじんまりとした清楚な仏堂や鐘楼もある。村の人々ぜんださんに対する熱心で敬虔
な心と、先祖を大切に思う気持ちが伝わってくる。 寺の維持は簡単な事ではないはず。来迎寺
のように住職のいない寺ではなお更のはずだ。低頭


都祁水分神社.jpg


都祁水分神社は県道を挟んで来迎寺のすぐ向かいの森の中にある。(つげみくまりじんじゃ)
みくまり」は水配りのことで、山谷より流れ出た水を公平に田畑に分配して、灌漑の便宜を図
ってくれる。また天候不順や干ばつによる水不足から助けてくれる神さま。 村人の生活の根源を守ってくれる頼もしい神さまなのだね。


神楽殿屋根とうめもどき.jpg 都祁水分神社本殿から参道を望む.jpg


境内は曇り空下でも明るくて見通しがよい。本殿から鳥居、そして村に続く一本道がいいね。

参道と神楽殿の間に植えられた数株の木、うめもどきだろう赤い実が目を惹く。 秋の景色だね。



万葉歌碑.jpg 山辺の御井.jpg


エピソード境内奥に「山辺之御井(やまのべのみい)」がある。檜の根元に3×1m程度の湧水溜まりがある。
万葉集の歌詞にあることから注目された場所なのだ。

山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子ども相見つかるも
 
しかしこの「山辺之御井」の歌碑が三重県鈴鹿市山辺町にも立てられている。
私見だが、奈良(飛鳥)から伊勢神宮へ行くのに、わざわざ遠回りして鈴鹿を通って行く事は極め
て不自然なことと思う。 私は都祁村こそが山辺之御井の所在地であることを支持します。


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2009年09月14日

奈良都祁村写真紀行

都祁。「つげ」と読む。平成17年4月に奈良市と合併された、旧都祁村。 奈良・京都・三重の
府県境に広がる大和高原の南西端に位置する。
4年以上たった今も「村」と言ったほうが違和感は無い。 初秋の都祁村は、古墳の深緑色の小島
がいくつも浮かぶ稲穂の織りなす黄金色の海
、という印象だった。
※以下「都祁村」と表記


都祁は稲穂の海に浮かぶ島影.jpg


名阪国道を針ICでおりて、道の駅「針T・R・S」に車を置く。都祁村の中心部は県道38号と781号、
国道369号で囲まれた三角地。東西、南北2.5kmの圏内に収まる盆地。
500mから800m級の山々に囲まれた完璧な盆地だ。村そのものが標高400m程度の高地にある
から、それほど山の壁に囲まれているという感じはしない。
でも目に映る山の姿かたちは、自分が今ずいぶん空に近いところにいるなと感じさせる。
すぐ目の前に、歩いてゆけそうなところに先のとがった山頂が連なり見える。

南之庄の夕景.jpg


今日は写真家小川光三氏著作の「大和路散歩ベスト10」にある「幻のヤマトの道」のコース
ガイドに従って道を選んだ。
午前7時。半袖シャツの上に麻のブレザーを着ているが、寒い。気温は15度程度。歩いていると
指先が冷たくなってくる。

都祁白石町集落.jpg


県道を外れて集落の中の道を行く。立派な構えの農家が目立つ。1500年も前から米作りを続ける
村だ。長いながい時代を経て、大農家だけが生き残ったのだろう。


南之庄 豪農.jpg 石垣と板塀が囲む.jpg


最初の目的地は北白石の「白石国津神社」。境内へ入ると一本の巨大な杉の木に圧倒される。
青空に吸い込まれるようにスクッと聳え立っている。
この社、昔はもっと沢山の杉の木に囲まれ鬱蒼たる鎮守の森だった。
台風でほとんど倒されてしまった。お陰ですっかり明るくなったけどね」と話してくれたのは
参拝に来ていた村の古老。


白石国津神社大杉.jpg



平成10年9月近畿地方を襲った台風8号のことは、奈良の社寺を巡っていると良く耳にする。
室生寺五重塔を傷つけたあの台風だ。収穫期を迎えた農業への被害とともに京都、奈良の文化財
に大きな損害を及ぼしたという。 都祁村の農家の人々にとっても決して忘れられない事なのだ。
今日(9/13)太平洋上に台風14号が発生したと天気予報が言っていた。
日本への接近予定の9月21日はその台風8号の通過した日だ。


杉の木の間の二つの白石.jpg 野野上岳と弐の「やすんば」.jpg

s-壱の「やすんば」.jpg 四の「やすんば」.jpg 



白石国津神社のご神体は大きな「白石」だという。分身と思われる小ぶりの白い石が二本の杉の
木の根元に祀られている。この位置から東方の野野上岳(ののがみだけ)を見渡す線上に
やすんば」と呼ばれる叢林が四つ並んでいる。叢林(そうりん)とは小さな林のような樹木の
塊のこと。確かに稲田の中にポコッ、ポコッと一定の間隔を保って、見えている。

野野上岳にいる山の神が、国津神社においでになる時の休み場。稲の種もみの播き時を知らせる
農事に係わる事だそうだ。カレンダーも温度計も無かった太古、やすんばは人々の日常を支える
重要な装置
だったのだろう。


西古墳.jpg 三陵墓南古墳から白石遠望.jpg


三陵墓。正式名称は「三陵墓古墳群史跡公園」。五世紀後半の古墳らしい。墓の主はわかって
いない。東古墳は前後110mある都祁村最大の前方後円墳。三陵墓というものの、南古墳は村道
の向こう側にあり今ひとつはっきりしない。良く分からない。西と東古墳一帯は記念公園になっ
ていて、駐車場(30台以上)と清潔なトイレもある。都祁村中部地区唯一の公共施設といえよう。

秋雲のコスモス.jpg


南古墳の裾にコスモスの花が咲いていた。青空に向かってスラリと伸びている。 
刷毛で書いたような巻き雲が広がっている。明日あさってには天気が崩れる時に現われる雲の形だ。


ナンテンハギ.jpg ありふれた都祁の景色.jpg 


あぜ道を歩いていると良く目にする青紫の花、ナンテンハギ(南天萩)。
この時期農家の人たちは、はびこった雑草を草刈り機で切り払ってしまうのだが、この花の咲く
あたりは刈らずに残されている。

ナンテンハギは山菜で、茎や葉、花も食べることができるからだ。夕暮れ時、この花を手にした
地元の女性を時々見かける。夕食のご馳走は南天萩の花の酢のものに、茎葉の天ぷらですか、
と確かめてみたくなる。

都祁村の農道はすごく清潔で、良く整備されている。そのせいなのか、花咲く野草を目にすることが稀だ。農道から外れた小道で久しぶりに見つけた花。なんていう名前の花だったかな。多分、アキノノゲシ。



機械の稲刈りを初めて近くで見た。コンバインという名前は聞いたこともあるし、また道路を
走るノロマな車体に出会ったことも何度もある。翻訳すれば「自走式収穫脱穀機」と言うらしい。
なんともすごい機械で、稲を刈取り、籾を脱穀して、袋に詰め、残った稲わら(葉茎)を裁断し、
田圃に撒く、五つの作業をこの一台で同時に連続してこなしてしまうのだ。しかも運転手一人が
全てをこなすのだ。


稲刈りはコンバイン.jpg


「今は縄もムシロも作らないから、稲わらは要らない。だけど畑の敷きわらや家畜の餌にする
家は、鎌で刈り取りをする。 マルチング(ビニール)もあるけど、やっぱり敷き藁のほうが
野菜の生育にいいから
」と農家のお父さんが話してくれた。なるほど。


籾焼.jpg 

稲刈りの終わった田圃では撒いた稲わらと籾がらを焼く作業があちこちで行われている。
籾焼きの白き煙や里の秋」誰の句かわからないけど、いい句だなぁ。

稲刈り後の田焼.jpg


籾焼の作業を見ていて気づいたのだけど、田圃の風下から火をつけている。風にあおられて
急激に燃え広がらないように、隣の田に火の粉が飛び散らないようにするための技術なのだろう。


コースから外れているが、都祁盆地の全景を見たくて都介野岳に登った。
標高631.2m、村との標高差は200m程度だが、登山道はほぼまっすぐな登りの急傾斜。
ケッコウきつい。 頂上に着いて、がっかり。樹木に囲まれて、あまり見通しがよくないのだ。
苦労して登ったのに、ああ残念。 記念に写真を二枚撮って早々に退散。 


登頂記念.jpg 見通しの悪いパノラマ.jpg


木々は生長するものだ。ありのままの自然を大切にする奈良の旧跡、名所は年々木々に覆い隠
され見えにくくなって来ているし、中から外への見通しも利かなくなっている。記念碑や道標も
雑草におおわれ
、垣根の樹木の成長とともに隠れてしまう。 人の手を入れないことも大切な
ことだ。しかし見られるべきものが見られないことが理にかなっているとは到底思えない。
何も見えない山に登る意義は、自分には感じられないのだ。


中間地点の都祁山口神社に到着したのは午後四時。寄り道しながら、写真を撮っている時間の
ほうが、歩いている時間より長いのだから、仕方が無いよね。


都祁山口神社参道.jpg 都祁山口神社拝殿.jpg


陽が傾き薄暗くなった境内だが、側面から射し込む陽の光で、なかなかに美しい景色を見せて
くれている。 参道の檜は夕日を受けてその美しい木肌を更に際立たせている。
都祁の寺社の境内は檜が多いように感じる。暗い鎮守の杜の中に荒皮を剥いだ茜色の檜の幹
浮かび上がるように見えているのだ。


拝殿奥にある本殿に西陽が射しこみ、そこだけ丹色(朱色)が変に怪しげに浮かびあがって見え
るのもまたいいじゃないか。


木の根道 帰路.jpg 岩座に登る木の根道.jpg



都祁山口神社のもう一つの見所は、裏山にある「御社尾の磐座(ごしゃおのいわくら)」だ。
木の根が露出した道を登って行く。この「木の根道」と言われる景色をここで初めて経験した。
地表の土が流され根が露出したのかと思ったが、どうも尾根の固い岩盤を檜の根が抱え込んで、
成長しているようだ。

道を上がってゆくと、岩肌を階段状に加工された奥行き四メートル程度の起伏した岩に行き
当たる。 狭い尾根伝いの道ゆえに、迂回することもならず、岩肌から滑り谷間に落ちることの
無いように、階段にしたのだろう。岩座に向かう古代人の強い意志を感じる。
多くの人が通ったこの石段、今では岩角が取れ丸く磨り減ってしまっている。 はるかな昔、
永いながい時の流れを実感できた一瞬だった。

磨耗した磐の階段.jpg


御社尾の磐座。木々に囲まれて全貌は掴みにくいが、露出した部分の奥行きは全長14mもある
巨岩。磐座の前方に「八王山」(はっちょうさん)があると言うもののここからは見えない。
御社尾の磐座は水の神である八大龍王の山(略して「八王山」)の神の霊が降ってくる神座
(かみくら)と考えられ
ている。


御社尾の磐座.jpg
 


国津神社に着いた。日沈までの時間は残すところ30分。昼間に来た時に、夕暮時のほうが絵に
なると考えていた場所だ。よかった、期待通りの景色だ。正面を僅かに外して沈む夕日が映す
影が長く伸びている。
国津神社は地の神をご神体として祀っている。現代と異なり、神様の役割分担が明確な八百万の
古代神社の在りようがわかり興味深い。


国津神社夕日.jpg 灯篭秋の夕暮れ.jpg



帰路は、川向古墳群付近の間道を選んだ。中学生達の下校路になっているようで、幾組もの
グループが、自転車で駆け抜けて行く。
ため池から都介野岳の方を見ると、南之庄集落の向こうに山並みが見渡せる。
宇陀市との境界上に連なる額井岳、香酔山、貝ヶ平山、真平山、野々神岳だ。手前の山が都介野岳。残照に浮かびあがった都祁村の夕暮れ。


残照南之庄.jpg


予定していたコースの半分程度しか回れなかった。狭い範囲ではあったが、それでも自然その
ままの都祁村の風景は、どこを見ても絵になりそうなのだ。今日は秋晴れの青空と広がる白い
雲のバランスがとても良かった。 残したコースはまた後日の楽しみに取っておくのです。





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2009年08月30日

柳生街道 円成寺の蓮池

去年の夏、思うように撮れなかった「」の花をもう一度撮りたくて、円成寺に行った。

忍辱山 円成寺 「にんにくせん えんじょうじ」
円成寺の縁起(創建・由来)は定かでないらしいが、平安時代中期(1026年)までには
創建されていたようだ。 寺名のいわれは判らないが、仏教の教えの中に、
円成とは、仏の覚りをわたくしのなかに完成すること」とある。
多分これが寺名の由来なのだろう。


奈良市から円成寺に向かう国道369号線はずっと登りが続く。 奈良市と柳生の丁度
中間点にある円成寺は、標高380mの高原にある。 周囲をすっかり深い森に囲まれて
まるで隠れ寺のようだ。

数日で九月。蓮の花、今もまだ咲いているだろうかと少し不安な気持ちだったが、
よかった、まだ咲いていた。


蓮 @.jpg
梵寺池に咲く蓮の花


梵字池は一面蓮の葉に覆われ、淡いピンクの花、うす緑の蕾、蓮の実も見られとても
にぎやかだ。
蓮の花は朝に咲き夕方には萎んでしまう「一日花」というが、水の中から次から次と蕾を
伸ばし、夏の間ずっーと咲き続ける花期の長い花なんだね。


楼門 @.jpg 蓮 A.jpg 蓮 B.jpg


一面に広がる蓮の花と池の向こうに見える楼門が入る構図で、まずでシャッターを切る。
池の端を回って行くと、木々の間に多宝塔と桧皮葺の楼門の屋根がわずかに見える。
蓮の花は見えないけど、大きな葉と多宝塔を併せ、ローアングルで決める。

しばらして雨が落ちてきた。にわか雨だからじきに上がるだろう。
傘をさして撮影を続ける。
自分が景色の一部になったような、自然との一体感がある。とても充実した満足の行く時間。



山門 A.jpg 萩 @.jpg きき.jpg


境内に入る。

紫色の桔梗の花が咲いている。去年見た時と同じ場所に咲いていた。
良く見ると咲き終わった花がらは綺麗に摘まれている。恐らく熟してタネが飛び散ら
ないように摘み取ってしまうのだろう。
桔梗は宿根草だから、次の年も同じ場所でもっと花の数を増やし咲くのだ。

萩の花がもう咲いている。
萩の花期も七月から十月までと長いけど、同じ奈良県下でも咲き始めの時期は地域に
よっていろいろだ。 同じ寺の境内でも日当たりの加減か、場所により一週から二週間
くらい花の開く時期に違いがある。

去年の夏はいつまでも暑かったせいか、例年より開花が遅かったと思う。
逆に、今年は暑く感じた日が少ない夏だったから、幾分早まるだろう。

雨に濡れた萩の花と、雨水を吸い込んで黒くなった地面がしっとりと落ちついた
雰囲気を見せている。紅色の萩の花と金色に輝く多宝塔の相輪が曇り空に鮮やかに
見える。
 
今回知ったことなのだけど、この多宝塔二重塔のように見えるけど、実は一重塔なんだね。
円筒形の宝塔の下にある屋根は裳階(もこし)と言われるひさし。
 
そもそも「塔」は、(屋根が)何層あるかで、二重とか五重というのであって、
何階建てということではないんだよね。


s-P8290493.jpg 本堂 @.jpg 楼門 A.jpg


楼門と本堂の間の路地に配置された石灯籠がいい感じ。
どうやら、灯篭の台座部分に生える下草がいい味をかもし出している。
本堂も楼門も桧皮葺のすっきりとした屋根で、奈良の古寺の中でも格式高く洗練された
印象を受ける。

楼門と灯篭と本堂、いいバランスだよね。


s-P8290512.jpg


本堂の奥、北側に春日堂と白山堂という名称の春日造り社殿がある。
わが国最小の国宝建造物と言うことだ。最小と言うことがどれほどのことなのか
分からないけど、とりあえず、「なるほどね」と納得。





十三重塔.jpg 石仏護摩堂横.jpg

寺の通用門階段上り口近くの薄暗い竹やぶに「十三重塔」があった。
5m以上もありそうな高さで、他の寺であれば十分に観光名所となるようなものだ。
境内の護摩堂横に三体の石仏が鎮座しているが、これもなにか陰が薄い。
日本は石仏や石の建造物に対する評価が低く、寺院もそれらを疎かに扱っているよう
に感じる。 そのことがいつも残念で仕方がない。

庭 @.jpg 庭 A.jpg


山門を下がり、もう一度庭園を見る。

蓮の花に覆われる浄土式と船遊式を兼備した庭園という。

この庭園、出家した皇室・貴族の子弟が池を眺め、船を浮かべて遊んだこの世の浄土
だったにちがいない。

パンフレットに、(神仏を頼み国家鎮護、皇室繁栄を祈願するために)上皇・天皇の
命令により創建された勅願寺とも書かれている。

奈良時代も続く平安時代も、神仏に頼らざるを得ない生きるに大変な時代だったのだろう。

池に残ったわずかな水面にまで蓮の葉が広がろうとしている。
後数年もすればここも蓮の花に覆われてしまうだろう。

それにしても、綺麗な池だな、この梵字池は。


posted by ハマー at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

岩船寺から浄瑠璃寺へ

岩船寺三重塔の紫陽花

岩船寺紫陽花と三重塔.jpg

 岩船寺の山門をくぐると正面に見える紫陽花に三重塔。
朝8時30分の開門を待ちきれず境内に走りこみたいはやる気持ちを抑えて、静々と歩を進める。

この後二時間近く撮り続けたが、結局このアングルに勝るフレームを見つけることは出来なかった。
目を通して感じる雰囲気を表現できない。
この頃少しづつコンパクトデジカメの限界を意識している。

小坊主弟切

山門の脇に小さな赤い実をつけた鉢植えに目が行く。
名札に「コボウズオトギリ」とある。
小低木のように見えるが、弟切草の仲間なのだろうか。

小坊主弟切.jpg

岩船寺のご住職と参拝客との話が耳に残っている。
『檀家は36軒しかありません。 花の寺としてここまでやって行けるのは・・・・・
一年草ではなく、花木や多年草を・・・・全国に(岩船寺の)ファンがいればこそ・・・・
仏様が助けてくれている・・・』

確かに境内は紫陽花をはじめたくさんの草花木花がある。
今日は紫陽花が目当てだったから、他の花にレンズを向けることは無かったけど、次に来たときには
もっといろいろ撮ってみようか。

岩船寺から浄瑠璃寺への道

今日のもう一つの目的は、岩船寺から浄瑠璃寺への山道を見に行くことだった。
この道は「当尾の石仏めぐり」の道として知られていることを、ここに来て初めて知った。

三体地蔵.jpg

門前の農家のおばあちゃんから「あちらに三体仏があるよ」とご案内いただいたので、
地図を見ると浄瑠璃寺へ行くのにやや遠回りなるのだが、とりあえず東に歩を進めることにする。
三体地蔵は岩船寺の山門から3分程度のところにあり、道の反対側に境内奥の紫陽花の林が見える。

三体地蔵、方形に縁取りされたデザインがなにか洒落てる。


笑い仏眠り地蔵

笑い仏.jpg  眠り地蔵.jpg

笑い仏、確かに三体ともに笑っているような微笑ましいお顔をされている。
しかし、頭上には巨石のおもしが。でも笑っている。微笑んでいる。
作者のユーモア感覚を感じます。

笑い仏のすぐ横に「眠り地蔵」が地中から顔を出している。
いつからそうしているのか知らないが、何よりも人々の自然に逆らわないというか、ありのままを
大切にする信心深さを感じるのだ。
ほんとうは地蔵菩薩様はいつまでも寝ていてはいけないはずなんだけどね・・・


からすの壺二尊

「からす」は唐臼のことで、足踏み式の臼のこと。 穀物の加工に用いる食品加工機のことだ。
「壺」は穀物を入れる穴のこと。これは調べてみて初めて知った。
このベース板のような石は臼のパーツなのだ。
現地で見てもこの平たい石がナニなのか想像すら出来なかった。

写真中が「地蔵菩薩立像」右が「阿弥陀如来坐像」で、一つの岩の正面と左側面に彫られている。
地蔵菩薩立像はカプセルに入れられたお地蔵様が地中から現れたような印象で、ちょっと不気味。

それにしても、この磨崖仏、いずれも鎌倉時代の作とのことだが、石仏にしても、鎌倉時代に
石で仏を造る、崖や、岩に仏を彫ることが大流行したようだが、石を彫る技術の確立があって
のこととはおもうが、なぜこうも流行したのだろうか。


唐臼の壺.jpg 地蔵菩薩立像.jpg 阿弥陀如来坐像.jpg



平坦な山道

岩船寺から浄瑠璃寺へ向かう右回りの山道は割となだらかな歩きやすい道だ。
それでも左下の写真、まるで獣道のように削られ踏み固められた細い溝のような道が印象的だ。
この道は人が1300年以上前から使っている道なのだ。静かに感激。

巡礼の道.jpg  県道へ抜ける道.jpg



赤門坂の水呑み地蔵

赤坂門の水呑み地蔵.jpg

唐臼の二尊のある三叉路の真ん中の道を進むと、水呑み地蔵のある赤門坂へ通じる。
案内板に従って進むと、行き止まりに水呑み地蔵がある。
その先には進めない。
説明によればかつて荒木又右衛門が立ち寄って口をすすいだとことある。
誰がつけた説明か知らないが、むしろ「弘法太子が杖で地を突くと清水が湧き出た」くらいの
ほうがありがたみがある。
そもそも、奈良東北部は柳生が近いこともあってか、荒木又右衛門とか柳生一族とかがよく登場する。

滝坂の道では、荒木又右衛門はお地蔵の首を切ったりする不届きものなのだ。 


里山の路

初夏の里山の道には鶯の鳴き声が響き、田んぼの畦にはアザミの紫色の花が目に付く。 
林の入り口あたりにはホタルブクロの白い花が咲いていた。

畦の薊.jpg  ホタルブクロ.jpg


浄瑠璃寺にたどり着いたのは午後一時。1.5km道のりだったけど、三時間近くかかってしまった。
デジカメをポケットに、のんびり当尾の山歩き。
ああ疲れた。 


  












posted by ハマー at 02:22| Comment(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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