2013年10月20日

十三夜のお月見 奈良市高樋町にて

十三夜の月見が実は中秋の名月十五夜の月見が流れた時のための予備日だったとは知らなかった。陰暦の八月十五日(今年は9月19日)、例年この頃(九月中旬から十月初旬)は台風や秋の長雨の時季にあたり無月や雨月になることが多く、一ヶ月遅れの陰暦の九月十三日の月を十三夜とか“後の月”とよんで、お月見をする習わしになったという。
今年の十三夜は10月17日、薄曇りではあったが月を見ることができたのは幸運だった。翌朝からずっと今日も雨が降り続いている。週末には台風27号が再び東海地方を襲う気配を見せている。今年の気候ははちょっとおかしいのかも。

 十三夜の月PA175013.jpg

奈良市高樋町はすぐ隣の虚空蔵町に奈良では良く知られた弘仁寺という真言宗の古刹がある三方を山々に囲まれた谷間の町である。急峻な地形が市街地化を阻み今もなお緑濃い豊かな自然が残る。以前はここでも稲作が行われていたのであろうが近頃では放棄された田んぼや畑地が目立つ。狭くて傾斜の強い耕作地は専業農家としては成りゆかないということなのだろう。もう十年もすればこのあたりの誰も米作りをしなくなっているのではないか。かつて黄金色に覆われた道沿いの田んぼには、今は白やピンク、紅色のコスモスが咲き乱れる。

 高樋の山にかかる月PA175038.jpg

ところで、中秋の名月と十三夜の後の月は、どちらも見るのがよく、一方だけ見るのは、片見月とか片月見と言って縁起が良くないと言われているらしいが、なんだかんだと理由をつけて夜遊びをするための口実のような気がしますが・・・・・
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2012年08月31日

草壁皇子の菩提寺 粟原廃寺のある村

以前は小学校だった建物で今は地区の公民館となっている駐車場に車を停めて、標識に従って坂道を上る。粟原(おうはら)廃寺跡は集落の果ての道が山の中に消えしまうところにあった。わずか500m程度の道のりだが随分歩いて来たように感じるのはそこまでずっと上り坂だったからだろう。

 s-P8202559民家と川.jpg

伝承によれば粟原廃寺は、28才の若さで亡くなった草壁皇子(662〜689年)の追福のため(冥福を祈り)飛鳥時代の694年に着工され奈良時代に入った715年に完成した。20年以上の時日を費やして造営された。694年は丁度都が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都された年にあたる。寺の創建については中臣大嶋の誓願によるとある。大嶋死の前年の事である。順当に考えれば、持統天皇(女帝)が早世した我が子を偲んで建てた寺と言えるが、或いは大嶋の罪滅ぼしだったかも知れない。
残された三重塔の礎石は心礎は直径1.822mほどの巨石で直径82.7p、深さ3.7pの円柱孔がある。このデータから推し量るに塔は法輪寺三重塔に匹敵するほどの規模であり、伽藍の規模も相当なものであったと考えられる。
寺の名前はわかっていない。中臣大嶋も持統天皇も寺の完成を見ることなくこの世を去る。寺はその後水害にあい礎石のみを残して流れ去った、と考えられている。嗚呼、諸行無常。

s-P8202581粟原寺堂塔跡礎石.jpg

奈良の地を巡っているといつも思うのだが、今では過疎の村と言っても良いような辺鄙な土地に、信じられないような歴史が眠っていることを知らされる。その地に立つと突然に千数百年前の時代にタイムスリップさせられる。その時代に降り立ってなにをどう受け止めたらよいのかいつも戸惑う。

s-P8202579粟原寺跡役行者像.jpg

寺の跡地に役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている。言うまでもないが役行者(役小角 634〜701年)は修験道の開祖と伝えられる飛鳥時代の呪術者である。粟原廃寺のあるこの音羽山は仏教伝来のはるか昔から飛鳥の地に住む人びとに霊山として崇められていた。山の名の「音羽」は天狗の飛行音を表わす。天狗は、元来は中国の物の怪で、聖人は山に住まうという仙人思想とともに日本に伝わった。音羽山に連なる経ケ塚山、熊ケ岳を結ぶ縦走路は修験者の霊場である。天狗は修験者の化身である。1300前、今自分が歩いている粟原のこの道を役行者も歩き登った。

 s-P8202647小屋粟原.jpg

粟原廃寺が何故羽黒山の北麓粟原の地に建立されたのかはわかっていない。だが、実際にこの地を訪れ粟原廃寺へと川沿いの道を登るにつれ感じたことは、なんと穏やかな心地よいところだろうという思いだった。飛鳥京や藤原京からは10qと離れていない近場ではあるが、秘境と言っても良い四囲を山に囲まれ外界と隔絶された霊山の麓に拡がる桃源郷のような土地である。皇位継承をめぐる骨肉の争いのさなか不慮の死を遂げた草壁皇子の菩提を弔うに相応しい山麓ではないか。

  s-P8202651粟原日没.jpg
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2011年11月30日

山の辺の道 奈良市鹿野園の景色

奈良市鹿野園町にある奈良春日病院に、鹿に囲まれる仏陀の像がある。悟りを開いたのち初めて説法
をした鹿野園(サナルート)の伝説をデザインしたものと思う。
この像は、確かめていないが、1980年(昭和55年)に病院ができた時に建てられたものと思う。鹿野園
町の中で唯一町名の由来を教えてくれる貴重な建造物と言えそうだが、病院敷地のもっとも奥に位置
しているため外部には全く知られていない。

s-PB279411托鉢菩提僊那像.jpg

最近奈良市(観光企画課)が奈良市内を通る「奈良道」と名づけた新たな山の辺の道のルートを決たよ
うだ。山の辺の道が鹿野園町の何処を走っていたのか実際のところは分からないことなのだが、試し
にこの「奈良道」を歩いてみた。

s-PB279378鹿野園町奈良道.jpg

町名以外、目に見えるこれと言った名所や旧蹟のない町と思うが、さすが奈良だけのことはある、道
端に古い墓所を見つけた。

s-PB299483鹿野園町古墓地.jpg


歴史地理学者・千田稔氏は著書「風景の考古学」の中で、山の辺の道を「葬送の道」と捉え持論を展
開している。
要点だけを抜粋すると、『「山の辺」の道、つまり、山の上でもなく中腹でもない、おそらく山のふ
もとあたりを走っていた道があって、その辺りに死者を埋葬する墳墓がつくられた。「山の辺の道」
というのは、もしかしたらふつう日常生活者が歩くような道ではなく、死者を弔うための「葬送の
道」だったのではないか。』と

s-PB279394夏の忘れもの.jpg

鹿野園町のこの古い墓所は後方に高円山を見る場所にある。この古い墓所の前を南北に走るこの道は
まさに、葬送の道としての山の辺の道だったのかも知れない、と思えてきた。
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2011年04月18日

奈良・正暦寺の春を飾る花

正暦寺(しょうりゃくじ)の由緒を見ると、『1180年、平重衡による南都焼き討ちの類焼を受けて全山
全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化した』とある。「類焼」とはいわゆる「もらい火」のことである。
南都焼討は新興勢力である「軍事貴族対皇室・摂関家」の戦いつまり「平清盛(伊勢平氏)対藤原一門」
(東大寺・興福寺)の利権争いの結果としての武力衝突である。もらい火とはその流れの中の出来事と
いうことになる。
寺伝によれば正暦寺は992年、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(九条兼家の子)が創建とある。一条
天皇の母親は藤原詮子、九条兼家は藤原家の嫡流であるから、この寺は藤原家の門跡寺院のようなも
のだ。当時の武装集団としての寺社勢力という経緯を考えると、焼討ちに会うだけの確かな理由があ
ったのではないか。と、つい言いたくなってしまう。

 s-P4163438僧坊跡石垣.jpg

右手に菩提仙川を見て山道を上がる。正暦寺の寺域に入ると、山側の斜面には城砦のような見事な石
垣が続く。この石垣は山の中腹にある本堂まで1km近く続く。築造年代は知らないが石積みの形が「谷
積」とか「乱積」といわれる工法のように見えることから、近世以後に造られたられたものと思う。
Wikipediaを読むと、焼討ちの後1218年には再建・整備され堂塔伽藍と六十二坊を持つまでの隆盛を
極めたとあるが、再び江戸時代初期1629年(寛永六年)に再度全山焼失した。往時の正暦寺の威容は今
に残る延々と続く石垣によってのみしか知ることはできない。

 s-P4163371紅椿.jpg s-P4163362桜残花の趣.jpg

古来「錦の里」と呼ばれる正暦寺は秋、全山を埋め尽くす紅葉で名高い。冬は参道を紅く彩る南天、
夏は客殿の門前に咲く百日紅の古木でも知られる。だが、春だけは公式HPにもなんら紹介されていな
い。
ところが、晩春のこの時季山の其処彼処に椿と山桜の花を見ることができる。参道を進んで行くと路
面に落ちた濃い紅色の花椿に、初めてそこに椿樹のあることに気がつかされる。また、風に舞う白い
花びらに、桜樹の存在を感じる。とにかく椿も桜も高いところに咲いているのだ。椿は10m以上、桜は
20m近くある巨木である。福寿院の庭や門前の桜樹はすでに盛りを過ぎ、僅かな風に盛大に花びらを散
らす。桜吹雪だ。土曜日というのに見に訪れる人も滅多にいない。勿体ないかぎりだと思いながら、
独り風流に酔いしれる。

 s-P4163374福寿院の山桜.jpg
 背後の山に咲く色とりどりの山桜花もまた見事

福寿院客殿は正暦寺唯一の重文建築物で、今では寺の顔となっている。数年前に一度拝観したことが
ある。奥行きの狭い庭ながら向かいの山を借景とした美しい景色を覚えている。
改めて見るほどの意欲は起きなかったが、これが最後になるかもしれないと思い直し、再訪する。拝
観の後、靴脱ぎ場(台所)から勝手口を通して見る鮮やかな紅椿に気づいた。今日のベストショットに
なりそうな予感に心がときめく。あつかましくも三脚を立てて撮らせてもらう。手持ちではとても撮
れる自信が無かった。

 s-P4163405福寿院客殿勝手口.jpg s-P4163410渡石に降る桜.jpg

※参考HP URL
Wikipedia 正暦寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9A%A6%E5%AF%BA
Wikipedia 南都焼討
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

s-P4163292正暦寺鐘楼枝垂桜.jpg s-P4163305山桜花変化.jpg
絵に描いたような鐘楼横の枝垂桜         三種類の山桜を遠望
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2011年04月04日

奈良・白毫寺周辺の椿と土塀

4月2日、朝6時20分過ぎ白毫寺町の一軒の民家が見える路地の入り口に三脚を立てた。まだ太陽は出
てていない。その家は奈良でよく見かける高く傾斜のきつい萱葺き屋根の主屋と一段下がった緩い勾
配の瓦屋根の落棟(おちむね)の2つの尾根で構成された切妻造りの大和棟と呼ばれる旧い建物である。

その落棟の土塀に囲まれた裏庭に、樹齢130年から140年という一本の椿樹が植えられている。
樹高5mになるその樹は、根元から三本に枝分かれし、屋根の庇あたりでさらに横に大きく広がった
枝一面に紅色の花と蕾を、葉の見えなくなるほどびっしりとつけている。
土塀に落ち椿、これまでに何ども撮影してきたモチーフだが、ここの土塀はえもいえぬ色合い、取り
合わである。

 s-P4022202る塀落ち椿.jpg 

前日、白毫寺を出て春日神社に至る山の辺の道を行く途中でこの家を見た。路地の奥に紅色の塊のよ
うな椿樹を見たのだ。が、昼近く高い位置にある陽の光でコントラストが強く思うように撮れない。
それで、今日の朝、まだ太陽の出る前ここに来た。

写真を撮っていると、たびたび鵯(ひよどり)がやってくる。枝を移るたび花が揺れ落ちる。次からつ
ぎと、ひっきりなしに、土塀のあちら側、こちらの路面に椿の花の落下する音が聞こえる。黒いアス
ファルト舗装の道は次々と落ちる花椿で紅色に染まって行く。

 s-P4012164犇犇と咲く椿.jpg 

奈良では荒土のままの土壁よく目にする。基礎部分は川石(丸石)を使った野面積みになっている。
モルタルを塗った白壁も見かけるが、旧い造りの民家や社寺は今でも昔のままの形の土塀を維持する
ことが多い。
内陸の奈良県、中でも盆地部においては年間降水量が1500o以下しかなく、雨による侵食、痛みの少
ないことも土壁が残されている理由かもしれない。それ以上に、古都奈良は土壁がよく似合うからだ
ろう。※都道府県別年間降水量1位は静岡県で3311o、最下位は長野県893o。

子規の流れを汲む俳人細見綾子が詠んだ『奈良五月壁くずれたる宿を起点に』という句、大好きな句
である。「奈良百句」に収められたもので、この宿は奈良国立博物館前の登大路をはさんだところに
あった日吉館のことと言われている。しかし、80年間続いたこの宿は、2009年夏に取り壊され今は無
い。間口が狭く奥の深い敷地の何処に土塀があったのか想像できないが、この「壁」とは「土塀」の
ことと思っている。奈良を旅したことのある人ならば、そう思うに違いない。土塀は古都・奈良のイ
メージそのものだから。

 s-P4012151白毫寺石仏と落ち椿.jpg

白毫寺へは大和三名椿のひとつ「五色椿」を撮りに出かけたが、まだ花は開いていなかった。蕾すら
小さい。今年の春は去年より10日ほど歩みが遅い。

高円山の山麓標高160mのところにある白毫寺の周りには藪椿の高木をよく目にする。椿は日本や韓国
に自生する樹木であるが、人の手を介して広く拡がったものと思う。花木を探して奈良の野山を歩い
てみてよくわかるのだが、椿樹は寺の周辺や里山ではよく見かけるが、道の途絶えた山中や山奥では
滅多に見かけない。梅の広がり方と似たところがある。
椿は古代から油を取るために大切にされた木である。食用や灯火用に山麓や山寺でよく栽培されてい
たのだろう。白毫寺周りの山林にある椿樹はその名残であろうか。

 s-P3311978山椿.jpg s-P4012122藪椿.jpg

※この日の奈良の日出時刻は5時45分だが、東を山に囲まれた白毫寺の辺りは30分以上遅い。
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2010年10月19日

山の辺の道 奈良市窪之庄町

天理市との境に位置する窪之庄町を南東に走る県道187号線は、すぐ南に整備された新道のお陰で、
往古そのままの姿を残す旧道としてある。
この道の途中に明治時代初頭に八坂神社と名を変えた牛頭(ごず)天王社がある。この場所には室町
から戦国時代には窪之庄城があり、このことからここ窪之庄が交通の要衝であったと類推される。

 s-PA175427窪之庄城跡に建つ亥丸大神の石碑.jpg s-PA175410泉地蔵.jpg
 窪之庄城跡に建つ石碑             県道187号線沿いにある泉地蔵

この道をさらに1km南下すると虚空蔵山の麓の願興寺跡に至る。
現在和邇営農ライスセンターが建っているあたりで、平成8年から19年の間に行われた圃場(水田)・
道路整備事業の結果このあたりの景観はそれ以前と一変した。

 s-PA115220願興寺跡.jpg s-PA115205生駒山遠望和爾町.jpg
 この道路の地下に願興寺があった       整備された和邇町の稲田
 
圃場(水田)整備のための遺跡発掘調査は奈良県立橿原考古学研究所で行われた。
その結果、弥生時代〜中世、近世にいたる広大な和邇遺跡の存在が明らかにされた。水田の下に、
削平され、埋没した古墳が多数存在することが判明し、ここから金銅製馬具、装飾付き大刀他多数の
遺物も発見された。

圃場(水田)整備は完了し、その記念碑も建ったが、この和邇遺跡についての記録はこの町のどこにも
無い。地元農家の人に願興廃寺跡の場所を尋ねるものの、この地にあった願興寺の名前すら知らなか
ったことに驚かされる。

 s-窪之庄町 山の辺の道.jpg
 窪之庄山の辺の道地図(google地図編集)

今日この窪之庄町を抜けてやっと徒歩での山の辺の道の全行程踏破を成し遂げたことになる。
石上神宮から春日神社にいたる山の辺の道北域は、市街地化、圃場、道路整備が進み、そのため山の
辺の道がどこを通っていたのか推定しづらいが、地形図から判断して願興寺跡から牛頭天王社近辺を
抜けて円照寺参道口の御霊神社(塔の宮廃寺)を通っていたと推測される。
※東海自然歩道はもう少し東の山中を通りそこを「北山の辺の道」と設定している。

※参照WEBのURL
大和窪之庄城跡
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kubonosyo.htm
http://www.geocities.jp/ikomaihyogo/nara/kubonosyou.html
Wikipedia 圃場整備事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%83%E5%A0%B4%E6%95%B4%E5%82%99
Wikipedia 牛頭天王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B
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2010年10月18日

奈良・清澄の里「柿のある景色」

「秋空や 日和くるはす 柿の色」

詠み人は芭蕉の門人、浜田酒堂(はまだしゃどう)
「柿」にかかわる歌を検索していて目に留まった一句。

 s-PA115087柿.jpg

日和狂わす柿の色とはどういう意味だろう。
青く澄み切った秋晴れの空、気がついたらいつの間にかすっかり雲に覆われてしまっていた。
ただ柿の実の朱い色が残像のように心に残った、という情景を詠ったのだろうか。
確かに、「女ごころと秋の空」と言うように、秋の天気は変りやすい。
残り柿が目につく晩秋、雲ひとつなかった空が瞬く間に暗い雲に覆われてしまったというとは、
野歩きをしていると良く経験する。

 s-PA175454柿鮮やか.jpg

柿は日本原産の植物ともいわれ、縄文・弥生時代の遺跡から種が出土する。「柿」は稲作が始ま
る以前からその時代の人々にとって貴重な保存食だったようだ。
しかし不思議なことに、万葉集を探してみても「柿」を題材にした歌は全く見られない。
一方、俳句や短歌では柿はよく詠われる題材のようだ。

 s-PA115273谷柿.jpg


 「渋柿の 取り残されし 冬木哉」  木村鷺助(元禄頃の人)

柿の美しさは落葉後の残り柿にあると思っている。
実をつける果物の木は色々あるが、桃や梅は熟す前に落果してしまう。
しかし柿はまさに熟すまでヘタから離れることなく、葉がすっかり落ちても尚枝から離れ
ることなく、冬を越すことがある。色を失った野山に柿の実の朱色だけが目立つ。
これからの季節、残り柿が山の辺の道の名脇役になる。


《好きな「柿」の歌》
里古(ふ)りて 柿の木持たぬ 家もなし(芭蕉)
隣る家も その隣る家も 柿たわわ(高浜虚子)
山つづき 柿の畑に雲の来て 時雨降る日は 寂しかりけり 島木赤彦(1926年没)
しぶ柿の しづかに秋を 送りけり   桜井吏登りと(1755年没)
日は過ぐる 梢の柿と 見あひつゝ   夏目成美せいび(1816年没)

 s-PA175375柿紅葉.jpg
 柿紅葉と古竹の絶妙な色あわせ

※参考Web
四季の植物の歌 柿
http://www.geocities.jp/sikinosyokubutu/kakinomi.html
柿の歴史
http://www.hanamaru-farm.com/11rekishi.html
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2010年10月10日

奈良鹿野園の由来について

奈良市に「鹿野園」という地名がある。「ろくやおん」と読む。
いかにも奈良らしい名前だと思っていたが、地名の由来を調べてみてその歴史的
スケールに恐れ入る。

 s-PA104920鹿野園コスモス.jpg
 鹿野園町初秋景色


「鹿野園」の地名は、大仏開眼の導師を勤められたインド僧、菩提僊那(ぼだい
せんな 婆羅門僧正とも呼ばれる)によって、故郷インドの仏教聖地サルナート
にちなんで名付けられた。
鹿野園の他、ブッダ修行の印度五山になぞらえて、菩提山(ぼだいさん)・誓多林
(せたりん)・大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)と命名し、いずれにも
寺を造営したという。
サルナートという地名は「鹿の王」を意味するサーランガ・ナータが縮まったも
のと考えられており、悟りを開いたブッダ(釈迦)が初めて説法した、仏教の聖地
でもある。今も昔も鹿が多く住んでいるところから漢訳で鹿野園となった。


 s-PA105030鹿野園竹林A.jpg
 竹林が綺麗な鹿野園町を通る山の辺の道

鹿野園町の地名由来は以上の如きものであるが、伝説の寺は現在この町で見つけ
ることはできない。
しかし鹿野園に隣接する横井町には、横井廃寺の存在が知られ、その他、古市廃
寺、塔の宮廃寺、山村廃寺などこの地域一帯には六七世紀に建立されたと思われ
る寺が多数存在していた。飛鳥や藤原京以上に寺院密集地帯だったのかもしれな
い。ことによると、鹿野園は今の町ではなく、仏教の盛んなこの一帯の丘陵を示
した、総括的な呼称だったのてはないのか。 

 s-PA104936八坂神社神輿奉納.jpg s-PA104981八坂神社石灯篭.jpg
 町の氏神「八坂神社」はちょうど村祭りだった     奈良でよく見かける自然石の燈篭


地名コレクション 町名の○○園コレクション
http://uub.jp/nam/marumaruen.html
奈良の昔話 第103回 山添村から旧奈良市への道
http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-103.html
鹿野園仏教遺跡
http://ezorisu.jp/india/sarnath/buddhapark.html

追記 '11.12.01
菩提僊那のこと
菩提僊那がインド人の僧で736年(天平8年)に第9次遣唐使一行と共に中国から日本に渡来し、752年
(天平勝宝4年)の大仏開眼供養会の導師を務めたこと史実である。その時菩提僊那は32歳だった。仏
陀生誕の地インドから渡来した外国人僧ということでの大抜擢だった。1017年(寛仁元年)居所とし
ていた大安寺が火災により主要堂塔と寺内にあった文書、資料はことごとく焼失した。菩提僊那は760
年(天平宝字4年)57歳で逝去するが、日本に渡来してから以後の24年間の消息については、大仏開眼
で導師を務めたこと以外は全くわかっていない。
そういうわけで、菩提僊那が鹿野園の他ブッダ修行の印度五山になぞらえて、菩提山(ぼだいさん)・
誓多林(せたりん)・大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)と命名したという伝承は後世の人々
の創作ということになる。※導師 法会などのとき、衆僧の首座として儀式を執り行う僧

奈良に残るインド五山の地名について奈良市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長は、「興福寺の僧侶が引退後に暮らす別所が南都周辺に設けられ、インドの仏跡に見立てたのではないか。中世以降のことだろう」と推測すると’10.12.01の奈良新聞に紹介されている。
(奈良新聞 http://www.nara-np.co.jp/20101201111259.html )



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2010年10月06日

円照寺侍女玉島の死

円照寺の森の南を走る農道を竜王池から更に300m程度東に進むと霊元天皇皇女
の墓がある。その裏手(東側)山林の中に、円照寺歴代門跡(門主)の宮墓があり、
またその奥に円照寺に仕えた尼僧や関係者の墓地がある。

 s-PA054805尼僧墓地.jpg
 雨が降れば川となる谷間の墓場


円照寺のような尼寺がどのように維持されているのか、どのような人数構成な
のか全く知らないが、この墓に一基の興味深い墓石があった。

墓石裏面に「御乳人玉島江北阿閑苑醫師山岡氏女也 病中奉○以得度之法賜安名
義秀を行年二十九享和三○亥○五月十七死・・・・・ 」と他の墓石には見られない説
明書が刻まれている。
この文字列の中で「御乳人」という文字が目をひく。※「○」は判読できず。

 s-PA054810尼僧墓.jpg s-PA054809尼僧墓石裏.jpg
 
要約および推測すると、
「(円照寺においては)御乳人という役目であった(墓に眠る)玉島という女性は
医者山岡氏の娘である。病気になり命を落とした。(死後)仏門に入り義秀とい
う戒名が与えられた。享和三年(1803年)5月17日逝去。29歳であった。」
大筋はこんなところである。
数ある墓石の中で何故この墓石だけにこのような経緯が書かれているのか分から
ないが、想像だが、門主は、お気に入りの侍女玉島のあまりにも早い死をいたみ、
短かった現世における人生の一端を書きとどめてやったのだろう。

 s-PA054816尼僧浮彫.jpg 
 尼僧の浮き彫り

門主に奉仕する立場の女性の代表を命夫(みょうぶ)という。
命夫の次席を御乳人(おちのひと)と呼んだ。
仕事は寺院内の清掃、門主の食事の補助、夕方の入浴補助を行ったと考えられる。
義秀禅尼(玉島)という女性は円照寺において門主のお世話係り・侍女という立場
にあったと推測される。

門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院であり、
そのしきたりや役目や人の呼称は宮中のそれを踏襲したと思われる。
現在でも御乳人(おちのひと)という呼称が使われているのかどうかわからない。


参考Web URL
Wikipedia命婦(御乳人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E5%A9%A6
Wikipedia門跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E8%B7%A1
戒名
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%88%92%E5%90%8D/
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古市から五つ塚古墳群へ 奈良市山町

古市から五つ塚古墳群へ 奈良市山町

奈良市古市町は先日(10/1)訪れた藤原町に連なる田園地帯で、その地から万葉歌に
「たたなづく青垣やまごもれる」と詠われた大和高原の秀麗な山並を見ることが出来
る。市街地化が進んでいる奈良市内であるが、この辺りは国道や県道から外れれば一
面水田の広がる田園地帯で、今は刈り取りを間近に控えた黄金色の稲田が迎えてくれ
る。畦道のところどころに咲く彼岸花の赤が単調になりがちな稲田の景色にアクセン
トをつけてくれる。すでに見頃を過ぎているはずだが、ところによってはもう少しの
間楽しめそうだ。

 s-PA054715古市田園秋景.jpg
 

飛鳥時代この地域には多数の堂塔があったことが分かっている。
「塔の宮廃寺」「横井廃寺」「古市廃寺」「山村廃寺」等の名前をあげることができる。
山の辺の道を往来する人々は丘陵のあちこちに建つ三重塔や堂宇など当代最先端を
行く瓦葺の木造高層建築物群を見て、さぞ驚嘆したことだろう。

 s-PA054785五塚古墳.jpg
 五つ塚古墳 一号墳

古市町で彼岸花咲く稲田を撮り終え、すぐ近くにある円照寺に向う。
今年の春、円照寺の南を通る道沿いに並んだ五つの小さな小山を見た記憶があり、
その時少し異様なモノを感じた覚えがある。
最近それが「五塚古墳群」であることを知った。
改めて見て驚かされるのは、雑草に覆われたこんなに小さなちいさなとても古墳
とは思えないような盛り土が、1400年経た現代にいまだ残されていることだ。
人の住まない山中の谷間とは言え、削られることも無く、檜や杉の木々に覆われ
ることも無くその形をよく残している。まるでタイムカプセルのようなものでは
ないか。 大和奈良の限りない魅力に陶然とする。

 s-PA054835地蔵菩薩.jpg
 道沿いの石地蔵 豪華な仏花だれが供えた


参考Web URL
大和の塔跡
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/tou_etc2.htm
遺跡ウォーカーべーターβ
http://www.isekiwalker.com/name/%E3%82%88/4
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2010年10月04日

初秋谷地田の景色・奈良市藤原町

奈良市中心部(東大寺)から県道188号線を4kmくらい南下すると藤原町に着く。
理由は知らないがこの一帯には古墳が認められず、奈良では珍しい地域である。
地形図を見るとわかるが、丘陵からせり出した尾根が稲田という海を囲んで湾の
ようになっている。この地形が藤原町に古墳を造築させなかった何らかの理由に
なっているのではないかと思える。

 藤原町棚田.JPG 
  YAHOO地図写真 奈良市藤原町 グリーンのマーキングはゴルフコース


昨秋('09.9.21)東大寺から徒歩で東海自然歩道を辿ってこの地に来たことがあ
る。雑木林や野原(耕作放棄地)が続く単調な道を抜ると、突然目の前に展開した
秋の稲田を目にして、その美しさに感激した覚えがある。
西に生駒の山並みを遠望し。東は正暦寺のある菩提山や城山(528m)が聳え、北は
高円山、南は円照寺のある丘陵に挟まれた谷地に穏やかに広がる棚田である。

 s-P1170762藤原町棚田.jpg 
 谷地に続く棚田

この夏の暑さの影響で遅れていた彼岸花は棚田の畦に真紅の花を咲かせ、黄金色
に色づいた稲と美しい対比を見せてくれている。棚田の畦道は雑草が刈り取られ
スッキリとしている。これは、コンバインを入れるためそのために刈り取った稲
束を並べるための場所を確保するための作業なのだと思う。

 s-PA024403彼岸花青空.jpg

今日初めて鎌で刈りとられた稲の切り口を見た。竹輪の周りにダンボール紙を二
重に巻いたように見える。今は白くみずみずしい中心部も何日も天日に干すこと
によって水分が抜け、枯れてうす茶色の稲藁になるのであろう。
これを見ると古人が稲藁を雨具の蓑やわらじ、雪靴や屋根をふく材料にした理由
がよくわかる。

 s-PA024439稲切株.jpg s-PA024458コンバインの路.jpg
 マクロレンズで見る稲の切り株


夕暮れの稲田で稲が作り出した面白いデザインを見つけた。コンバインで刈り取
りをするときに奥の列の稲が倒され二重、三重の穂波を見せたに違いない。
偶然日没の時間に撮りに来たことが幸いしたようだ。人の手で刈り取りをしてい
た時代には決して目にすることのできない構図なのだ。

 s-PA024532コンバインデザイン.jpg

明日からは二三日雨の日が続くと天気予報で言っていた。今年見る彼岸花はこれか
最後になるかもしれない。

 s-PA024497彼岸花咲く.jpg
 稲海を疾走するハイブリッドカー

‘10.10.08
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2010年09月27日

奈良・清澄の里初秋

9月26日快晴、少し肌寒く感じる朝。奈良市の郊外はどちらを見ても黄色く色づいた田圃が広がる。
長くこういう所に暮らしていたら、稲の色で季節を知るのだろうなと思いつつ車を走らせる。
秋晴れの日曜日再び奈良・清澄の里、高樋町を訪れた。前回(9/24)は時折小雨降る曇り日でその日
、秋晴れの日のこの地の景色を確かめたいと思った。無論曇りや雨の日もそれなりの趣がありそれ
はそれで良いのだが。一方、太陽が照らしだす景色には活き活きとした力がある。光と影が見せる
明快さが、好きだ。

 s-P9264192稲穂輝く.jpg

高樋町に入ると道の両側の稲田がキラキラと黄金色の輝きを見せている。夜露にあたった朝陽の反射に
違いない。稲田の畦道に踏み入る。たちまち靴は夜露でビッショリと濡れる。まだ低い位置にある朝の
太陽が、葉に稲穂の影をくっきりと写していた。この絵いいな。この構成は今までに見たことがない。
傑作の予感に胸が躍る。

 s-P9264086稲穂朝陽.jpg

先日街道の道標近くで見つけたイタドリを撮影しようと思っていた。しかし、なんと今朝は村人総出の
道の手入れ日のようだ。
十数人の男や女たちが手に手に道具を持って夏の間に繁茂した草木を猛然と刈り取っている。イタドリ
があった辺りもすでにスッキリとしたもので、土手の草はすっかり無くなり何も残っていない。丸坊主
、壊滅状態なのだ。

 s-P9243985イタドリの花.jpg
土手のイタドリ

イタドリは山菜の名前として知っていたが、道端に咲く白いがそれと知ったのは初めてのことで、陽の
光の下で撮りたかったのだが。仕方がない、刈り取られ捨てられた草の山の中からなんとか探し出して
撮ることにした。イタドリの花は3_程度のごく小さな無数の花が集まって枝先に翼状に広がる。
一見魅力に乏しい姿だが、よくよく見ると珊瑚の花のように実にかわいい。野山の珊瑚のような花なのだ。

 s-P9264095イタドリの花.jpg
 マクロレンズを通してみるイタドリの雌花

イタドリはタデ科の多年性植物で別名で「スカンポ」とか「イタンポ」と呼ばれる。北原白秋作詞、
山田耕作作曲『土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍が ねんねする』と歌われたスカンポはイタドリ
ではない。こちらは同じタデ科でもギシギシ属の植物で「スイバ」が正しい名前。

 s-P9264128雲広がる.jpg s-P9264257向日葵咲く虚空蔵山.jpg
  流れるスジ雲、正式名は「巻雲」       虚空蔵山の竹林を背景に向日葵とそばの花が咲く

今日は面白い人に出会った。高樋町で丸梅という八百屋を営むかたわら、25枚もの田で稲作をする
梅崎歳洋という男性。田は全て借り物で、地主へは収穫した米を一本渡す。戦前なら小作農と呼ばれていたと思うが、現在では立場が逆転して収穫のほとんどは耕作者のものになる。当然であろう。
米作りは一年365日をかけた大仕事なのだから。
米づくりだけではない。春は管理する竹林でタケノコを収穫。冬は山中でシイタケの栽培と一年中、
働きづめである。シイタケは薬師寺御用達であることが自慢。更に、初夏は「ほたる」を見せるボラン
ティアをしている。とにかく精力的な人なのだ。十月に入ったらヒノヒカリの新米を分けてもらうこと
を約束してお別れした。再会が楽しみだ。


参照Web
イタドリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%89%E3%83%AA
スイバ
http://sasuketsu.hp.infoseek.co.jp/sizen2/suiba/suiba.htm
Wikipediaヒノヒカリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%8E%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AA
楽しい万葉集:雲(くも)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/kumo.html
雲の名前を覚えよう!
http://www.nahaken-okn.ed.jp/sikin-es/H14web/kumo/kumo.htm
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2010年09月25日

彼岸花咲く奈良清澄の里

今年の猛暑の影響で遅れていた彼岸花がやっと咲いた。去年よりも一週間から十日程遅い。
彼岸花は、子供の頃いつも家の近くの墓場に限って咲いていているのを見ていたので、なに
か好きになれずに来た。
しかしこの二、三年写真を撮るようになって、季節を強く印象付ける花として意識するよう
になった。だけど、今でも、ほんとうに美しい花、綺麗な花と感じているのかどう、自信が
ない。好きな花ではないことは確かだ。例えば、額に入れて自室の壁に飾ろうとは思わない。

 s-P9243812彼岸花咲く.jpg

昨年9月29日に来たときには、一面真っ白なソバの花に覆われていた畑は今年、向日葵の
畑と変貌していた。ソバも少し植えられているが、そば粉を穫れるだけの量ではない。
それにしても、翌年に同じ景色を見ることが出来ないとは、驚きである。もっとも群生す
る向日葵はなにか豪華で、ゴッホが好んで描いた南フランスの田園気分を味わえて、まっ
宜しいのではないか。

 s-P9243841ヒマワリ.jpg

奈良市高樋町あたりは、平城京に都があった頃、藤原仲麻呂等の別荘があったところで
「清澄の里」と呼ばれていたと、昨年9月29日に高樋町の安明寺のご住職に教えていた
だいた。
奈良市の南東に位置し、虚空蔵山(182m)と城山(528m)の山裾に挟まれた谷あいにある
この一帯は、とても奈良近郊とは思えない。山間地の趣である。
平城京から10q程度の距離。馬を使えば1時間程度の距離である。たしかに、貴族が避
暑地として別荘を建てたという理由がよくわかる、美しく閑静な場所である。
目を転じれば遥か西の地平に生駒の山並みを望むこともできる景観抜群の土地でもある。
 
 s-P9243963清澄の里.jpg s-P9243865弘仁寺参道道標.jpg

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2010年09月22日

十三夜の月 奈良・栗塚古墳

いつものことだけど、きまって満月の日が近づくにつれて落ち着かなくなる。
さてどこで月の出待つか。これが決まらないことにはその日に向けてなんの
予定も立たない。
今回の十五夜は天気が思わしくないようなので、十三夜のきのう、とりあえ
ず奈良・栗塚古墳で月の出を待つことにした。

 s-P9213690栗塚古墳夕景.jpg
 今まさに太陽の沈だところ

9月の初め偶然に通りかかって知った栗塚古墳は、和爾(わに)遺跡群の中の
ひとつの古墳で、弥生時代から古墳時代中期までの遺構がこの土地の下一帯に
隠されている。
弥生時代がおよそ1300年間。古墳時代の中期までの400年間。なんと1700年間
もの長きにわたってこの菩提仙川の河口のこの土地には竪穴式住居が立ち並び、
稲作と狩猟の生活がなされていたのだ。
遺跡からは製塩土器も発見されている。弥生時代のはじめ、奈良盆地はいまだ
水をたたえた湖で、しかも海水の塩気が残っていたのだろうか。

 s-P9213668稲波.jpg
 稲穂の波模様

この和邇遺跡を発掘調査した奈良県立橿原考古学研究所の現地見学会資料をWeb
で見つけた。その中に古墳群を示した地図がある。
現在の道路地図と2002年9月調査当時の地図とを見比べてみて愕然とした。新た
な道路が何本も出来ていたのだ。それも遺跡の上を通過して。
それもそのはず、この発掘調査は農道の整備を前にした緊急調査だったのだ。
2000年以上前のその土地の遺構や歴史的状況がわかった翌日に、その土地は瞬く
間に整地され、舗装され地面ごと消滅してしまうのだ。それが人類の進歩、社会
の変化というものの、なにか釈然としない気持ちになる。

奈良県下には8000〜9000の古墳が判明しているという。これと言った新しい産業
の無い奈良は、大阪のベッドタウンと化し、また集まってきた新住民目当てに無数
のゴルフコースが開発された。そのため多くの遺跡が消滅した。

 s-P9213710十三夜の稲田.jpg
 十三夜の月に稲穂

午後五時前に栗塚古墳到着。いまだ日はかなり高い。しかし日の入りは思いがけずに
速い。日没前に、このところ気になっている「稲」の写真を、撮っておかなくてはな
らない。

稲を取り始めて気がついたのだが、稲穂の一部に濃い茶色の粒がよく目につく。まるで
焼け焦げたように籾のところどころ変色している。恐らく何らかの病変なのだろう。
例年に無い猛暑が原因しているのだろうか。情けないことに稲のことを僕は何も知らな
いのだ。

 s-P9213764十三夜月夜栗塚古墳.jpg
 「栗塚古墳十三夜の月」ちょっと妖しげに撮れた


※和爾遺跡第14・15次調査 現地見学会資料(2002年9月23日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/wani1.html
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2010年09月06日

奈良白毫寺あたりの夏景色

白毫寺から新薬師寺に向う能登川沿いの山の辺の道に赤乳(あかち)神社末社の小さな小さな祠が
夏草に隠れるようにある。そうと知らなければ見過ごしてしまいそうだ。
由緒によれば鎌倉時代(1192~1333年)以前から祀られているとある。
春日大社から新薬師寺、白毫寺へと続く祈りの道だが、大風が吹けば飛んでしまうような、増水
した能登川に流されてしまいそうな小さな祠が忘れられることもなく人々の信仰を集めてきたこ
とに驚かされる。同時に日本人の信仰心の篤さにも驚かされる。

 s-P9053065百日紅祠.jpg
 百日紅咲く赤乳神社

私がこの赤乳神社を知ったのは、一昨年(‘08年)の9月に白毫寺を訪ねた朝、拝観時間前に近く
を散策していて、偶然、遠くに赤い百日紅の木を見つけた。そこまで行ってみて、この祠を発見
したのだ。
百日紅の木もさることながら、石造りの水船(手水鉢)を覆う赤い花に感動した。あれから二年、
この夏、百日紅の木も、水舟の花もあの時と同じ景色を見せてくれていた。

 s-P9053042手水鉢百日紅.jpg
 百日紅の落花に埋もれる水舟 

奈良高円山のふもとにある白毫寺は天智天皇の第七皇子志貴皇子(668~716年)の山荘(別荘)を寺
としたと伝えられる。寺を中心にして能登川の南に広がる白毫寺町、現在は新興住宅が点在する
田園地帯だが、なんと1300年以上の歴史を持つ土地である。

 s-P9052952白毫寺町辻の仏堂.jpg s-P9052993百豪町西勝寺.jpg 
 新しい住宅街に残された小さなお堂          西勝寺
 
町の中心にある宅春日神社では丁度朝市が開催されていた。毎月第一日曜日に開かれるらしい
この「たかまど朝市」について詳しいことは知らないが、地元の人々の町おこしイベントとして
行われているようだ。
若い人たちではなく中高年の男女が中心となっていて、(派手な音楽や騒々しさもなく)穏やかな
ローカル色豊かな朝市である。
なんと、鮎の塩焼きが提供されていた。焼きソバでもない、フランクフルトでもない、鮎の塩焼
きである。是非新しく住み着いた住民も巻き込んだ催事として定着発展していってもらいたいも
のだ。

 s-P9052989百豪寺町朝市.jpg s-P9052995たかまど朝市.jpg 
 宅春日神社たかまど朝市              炎天の鮎塩焼き


宅春日神社の「宅(たく)」という字は紀記に登場する、飛鳥・奈良時代のこの地域の古い呼称
「宅=やけ」を表しているのではないかと思う。
物部影媛を歌ったエレジーに、山の辺の道の道筋として「大宅」が登場する。山の辺の道がこの
あたりを通っていたと考えられているが、この神社の名称もそれを裏付ける(のではないか)。

※参考Web
奈良の寺社 赤乳神社
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2010/04/post-a834.html?no_prefetch=1
宅春日神社
http://www.7kamado.net/t_kasuga.html
白毫寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB%E5%AF%BA

 s-P9053024白豪寺石標.jpg
 今日、参拝はやめた
posted by ハマー at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

奈良栗塚古墳と北椿尾の棚田のこと

奈良の弘仁寺から正暦寺に向う国道187号線の途中の北椿尾町に小規模な棚田のあることを知り、
行ってみた。
近くの道路から見下ろしてみて唖然 ? アレ、もう稲刈り終わったの ?
そんなはずはない。奈良県下の刈り取り時期は10月から11月のはず。稲と思えたものはどうやら
雑草のようだ。
近くを通った女性に聞いてみると「5〜6年前から米作りは休んでいます」と言う。休耕田という
ことなのだ。それにしては田んぼが綺麗に見えるのは、麦でも育てているのだろうか。廃田とい
うことではないようだ。

 s-北椿尾町棚田.jpg
 Yahoo地図写真

折角だからと思い許可を得て棚田を下りて、写真を撮らせてもらう。手入れが行き届かないせい
か、土手が崩れている田もある。この棚田からはすぐ下の方に黄色く色づき始めた水田が見える。
ほんとならこの田んぼも今頃は穂を垂れた稲で色づいているはずだろうに。山裾のもっとも急な
斜面は50°近い勾配がある。これでは機械も入れられないだろう。
川もため池もないこのような山間地の棚田は、一つふたつの田んぼが米作りをやめたら、他の田
んぼに水が回らなくなり、米づくりはストップしてしまう。後継者がいない全国の中山間地の棚
田や谷地田にはこのような休耕田や放置された廃田が溢れている。

 s-P9012792棚田跡・奈良市椿尾町.jpg

平野部の水田でも休耕田が増えている。米価が低くて、手間と労力ばかりがかかるのに儲からな
いのが原因のようだ。ましてこのような急峻な棚田では余計に大変だろう。お米は自分で作るよ
りもスーパーマーケットで買ったほうが安あがりということなのだ。
棚田を「日本の原風景」とばかりに、単に美しい風景として眺めていられるほど農家の現実は楽
なものではない、甘くないのだ(反省しています)。

 s-P9012819古墳稲穂.jpg

栗塚古墳
奈良は古墳がいたるところにある。この栗塚古墳は棚田のある北椿尾町のすぐ隣の高樋町にある。
この古墳はいまだ発掘調査もされておらず当然被葬者も分からない。
全長60m高さ3mの前方後円墳だが、前方部は農地になってしまっているのでそれほど大きなもの
とは見えない。
それにしてもよくも1500〜1600年前の土饅頭(失礼)が残されているものだと感心させられる。
「栗塚」の名称は、後円部に栗の木が植えられていることから付けられと推測する。というわけ
で栗塚古墳の名前は全国いたるところにある(らしい)。
ところで、山の辺の道はこの古墳のすぐ東側を通っていたと考えられている。

 s-P9012773百日紅.jpg
 百日紅 花の少ない真夏に百日ものあいだ絶えることなく咲き続ける


posted by ハマー at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

奈良古市「穴栗神社」

山の辺の道周辺にはほんとうに神社が多い。一つの町に一社あるのではないかとさえ思える程だ。
バス停の名称にもなっている「穴栗神社」は、奈良市のほぼ南端、天理市との市境に位置する。
この神社は日本書紀の景行紀55年(西暦126年) に春日穴咋邑としての地名が見られる。
神社の創建時期はわからないが、神代の時代に存在していたと考えてもよいだろう。

 s-P8132212穴栗神社参道から境内.jpg s-P8132186穴栗神社拝殿.jpg

「石の上 布留を過ぎて こも枕 高橋過ぎ 物さはに 大宅過ぎ はるひの 春日を過ぎ 〜 
泣きそぼち行くも 影媛あわれ」

 この歌は『日本書紀』に伝えられる山の辺の道にまつわる悲しい物語のヒロイン、影姫を詠ん
だエレジーである。
山の辺の道は、天理市から奈良まで、すなわち北半分がわかりにくいが、これを説明する珍しい
歌として今に伝わる。
この大宅(おおやけ)という地名が現在の奈良市古市町にあたる。
この辺り一帯は「古市古墳群」という古墳の点在する地域だが、宅地化が進みその遺跡も見る
影は無い(ようだ)。

 s-P8132233古市町田圃青垣.jpg

 それでも国道169号と県道188号に挟まれたこの古市町あたりは今も一面水田が広がり、大和の
青垣を一望にすることができる、希少なポイントとして残る。
夏の時季は緑一色でメリハリがないものの、秋から冬にかけては、田圃の稲穂は黄金色に染まり、
山も少しづつ黄や赤に色づき豊かな田園風景を見せてくれると思う。

現在の山の辺の道は山麓のゴルフ場の周りから旧陸軍墓地を抜け奈良護国神社を通る東海自然
歩道のコースを踏襲するが、古墳時代は穴栗神社のすぐ東あたりを経由していたと十分推測される。

※HP 穴栗神社 「大和の神々 神奈備へようこそ」
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/akuri.htm
posted by ハマー at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月08日

桜色の路 円照寺参道

路が、桜色に、染まっていた。明け方の雨は僅かで、路を濡らす程度だったことが幸いしたのだ。
花びらに留まった雨滴は、花から滲みだした色と混じり、ポツリ、ポツリと落下して、路を桜色に
染めていったのだ。
雨滴が薄い桜色に変る様子が目に浮かぶ。
白いプラスチックのパレットに置いた絵の具に落とした水玉に、スッと色が滲み出てゆくあの感じ
に違いない。


 s-花露に染まる路.jpg


桜の枝が路に張り出しているところの地面だけが桜色に染まっている。
散り始めた少し白っぽい花びらがその上に点々と重なり落ちている。
もし強い雨だったら、砂と混じり、路を染めることなく流されてしまっていただろう。
天の気まぐれが、路を桜色に染めるという微妙な按配を見せてくれたのだ。


s-枯木に花を.jpg


円照寺参道の土堤の桜木は老木から最近植えられた幼木までいろいろ見ることが出来る。
参道入り口に近いところにある老桜、太い幹の途中で枯れ朽ちている。
樹齢百年に近い老木だ。
それでも数本の若い枝についた鮮やかな桜花が満開に咲き誇る。


「花咲か爺」の昔話を思い出した。
この老木、きっとどこかの爺さんが、枯れた桜木を見て哀れみ、パッと灰を撒いて、パッと花を
咲かせたに違いない。
ここ円照寺は尼寺だから、新「花咲か婆」伝説というこにして、話を創ってはどうか・・・


 s-竹を照らす花桜.jpg


円照寺に来た時は必ず、回り道でも必ず竹林を通るようにしている。以前展覧会で見た日本画を
忘れられない。多分中島千波か川端龍子の画だった思う。
孟宗竹の林、差し込む金色の朝陽、竹の葉を透かして見える背景の花。
今日見た竹林の景色は求めているイメージには遠いが、いい感じに撮れたと思う。
これから夏までの若竹の時季にめぐり会えたら良いのだけれど。


posted by ハマー at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

白豪寺の椿

 高円山の中腹に位置する白豪寺からは若草山、興福寺の五重塔をはじめ、奈良の市街地から金剛・
葛城の山並までを一望することが出来る(この日黄砂の影響で視界はなはだ不良)

この寺はかつて、天智天皇の第七皇子、志貴皇子(しきのみこ 668〜716年)の山荘(別荘)であった
という寺伝もある。しかし、皇子存命中は、平城京はいまだ建設途上であり、天智天皇ゆかりの
興福寺(山階寺)にはまだ五重塔も創建されておらず、山荘からはただ奈良盆地の荒野を見ることが
出来たに過ぎない。私たちが今見るパノラマの方が格段に優れていると思う


 大椿百豪寺.jpg 


白豪寺は今、境内を取り囲む常緑樹の黒く高い壁に絵筆で描き散らしたような藪椿の小さな花の赤い
点々が鈍く光る。志貴皇子もこの薮椿は見ているはずだ。
春の空をカラフルに覆う「白豪寺大椿」や落ち椿で有名な「五色椿」は盛期にまだ少し早い。


 天空五色椿.jpg



去年4月12日、新聞の記事・写真を見て白豪寺に五色椿の写真を撮りに来たことがあった。
あの頃はまだ写真を、考えて撮るということは無く、お手本どおりに撮ったと思う。シャッターこそ
数多く切っているが、見直してみると、今ひとつ散漫だ。どうもピンとこない。
五色椿、今年は、花まつりの4月8日が見ごろという。今度はもっと自分なりに撮りたい。雨の日も
いいかもね。


 五色椿.jpg
 09.04.12撮影 名樹「五色椿」


 白豪寺は花の寺と言われるだけあって四季を通して花の絶えることがない。しかし境内に散らばる
石仏も見逃せない。枝から落ちた赤い椿の花がふたつ三つ、胸像になった地蔵仏を慰める。これもま
たこの季節ならではの、一枚の絵。

 胴なし地蔵.jpg
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2010年03月19日

円照寺「落ち椿」自画他賛

 
落椿のこと

山村御殿とも呼ばれる円照寺ははじめ京都修学院に創建されただけあって、奈良の寺院にはあまり
見られない風雅なたたずまいを誇る。山門をくぐったところの外庭には四季を彩る花木が植栽され
ている。この時季は赤、白、薄紅の椿が綺麗だ。


 蕾花開く.jpg


花時の椿は、まだ固い蕾、色づいた花蕾、咲きはじめ、黄色の蕊(しべ)を見せる満開の時までまる
で「花の生涯」の如く一度に見せてくれる。それはそれで見事な景色ではあるが、そのままの姿、
形で落花散乱した「落ち椿」に、強い哀感を感じる。


 円照寺落椿.jpg


「落椿そのまま寺の景をなす」(加納花子)
「落椿丸く掃き置く尼の寺」(三間菜々江)
「散りて知る意外に多き落ち椿」(並木重助)


 落椿の午後.jpg


「落ち椿」を詠んだ俳句は巷数多くあるが、上の三句を円照寺落椿の賛としてお借りしました。
写真を撮っている時の気持ちによく共振するので。


円照寺の竹林

 太師堂への細道.jpg 


 広大な円照寺の寺領はほとんどが竹の林に覆われている。この境内に入ると外界の騒音は全く
届かない。竹を渡る風の音、鳥のさえずりの他は何も聞こえない。ただ清浄な空気に包まれてい
る。今日は道標に誘われて、森の奥へと続く道を進んでみた。三叉路に「無縁仏法界塔」と記され
た仏塔があった。古墳の森の奥、まさに無縁のハイカーあるいは獣以外通らないようなこの道に
幾数十の無縁仏が眠る。


 雑木林の無縁仏.jpg 



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2009年12月17日

中冬の奈良「弘仁寺」の気色

 

国道169号窪之庄交差点を東に折れて、奈良県道187号(福住上三橋線)を弘仁寺に向かう。虚空
蔵山の脇を進むと、前方に薄く雪を被った峯が見えた。地図を確認すると、城山(528.7m)の
ようだ。弘仁寺を通り過ごし、山に向かう。名阪国道の高架下をくぐったところで、その山が、
目の前にあった。


 城山粉糖.jpg  城山と紅葉.jpg


山頂に佇立する木々は、粉糖を振ったクリスマスケーキのデコレーションのようだ。カメラを左
にパーンすると、山腹はくすんだ赤黄色の枯葉に覆われ、山頂から手前の竹林まで微妙なグラデ
ーションに彩られた水彩画がひろがる。寒い。気温は零度に近い。山頂は凍りついているだろう。


 弘仁寺石標.jpg  


弘仁寺の参道を上る。山門前に建つ石標を、紅葉が覆いかぶさるように隠している。常緑樹の
下にある紅葉の落葉は、遅い。いまひとつその色は冴えないものの、それでもそれなりの感慨は
ある。 「中冬の 紅葉ひかえめ 寺の門」


 楓の古木.jpg 弘仁寺本堂と明星堂.jpg



境内にも一本の楓の古木が紅葉を残している。苔に覆われた幹が、この寺の長い歴史を語ってい
るよだ。境内は人影なく、侘しいばかりだ。寺は虚空蔵山の中に位置し、山寺のたたずまい。

庫裡の裏手の小さな畑地には住職の家族が育てているのだろう、色とりどりの菊の花が咲いてい
る。四囲の雑木林はまだ枯葉を身にまとい、散り行く寸前のはかない美しさを見せてくれている。

 
 散り際の美.jpg 冬の菊.jpg
 

「寒いからあたってゆきなさい」とおばあちゃんが、声をかけてくれた。 「どんと焼きさ」
柿の木を燃やし、火鉢に使う消し炭を作る。煙が出なくなったら水の中に浸し、陽に乾して使う。
このあたりには、今でも野生の猿や、猪が出没し、干し柿や豆などの農作物をさらって行くと、
老婆が言う。なんと、野生の鹿もでるという。


 ばあちゃんのどんと焼き.jpg 残り柿.jpg



弘仁寺HP http://www8.ocn.ne.jp/~kouninji/
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2009年09月29日

奈良清澄の里「安明寺」

「このあたりを清澄の里と言います」と安明寺のご住職が教えてくれた。
高台にあるこの寺から見渡す里の景色は、俳画のように美しい。
寺の本堂は、大和円照寺の書院を移築したもの。三方は障子をはめた造りで、
一見すると寺と言うより、格式の高い古民家のように見えるのも訳がわかる。

 s-P1170851虚空蔵山コスモス.jpg

仏像の安置されている居間(仏間?)の隅に、衝立に仕立てられた
円照寺第九世門跡秀山尼の墨書が飾られている。
あまりにも達筆で、題字の「老松」しか判らない。 
安明寺と円照寺の深いつながりを物語る一品。

 s-P1170883秀山尼詠歌墨書.jpg 

かつてこの寺は円照寺の学問所だったという。
二つの寺は徒歩で30分ほどの距離にある。
学問(仏学)を習いに、畦道を高貴な女人が供を連れて
この寺に向って歩む姿が目に浮かぶ。
 
 「墨染めの 香り流れる 清澄の原」 

 s-P1170853蕎麦畑蒼空.jpg

「檀家も居ないので、維持していくだけでも大変です」と住職はおっしゃる。
確かに、このような小さな山寺が、そもそもどうやって生計を立てているのか、
その方が自分には不思議だった。
円照寺さんは、山村御流の家元ですからね」と、今尚整然した
伽藍を持つ円照寺を羨むように言う。
歴史の篩に落とされた者の未練か・・・

 s-P1170881安明寺本堂仏間.jpg

この本堂は昨年解体修理され、屋根瓦も葺き替えたとの事。そう言はれればつい
最近建てたばかりのようで、とても江戸時代の建物とは思えない。
 
自然溢れる清澄の里、虚空蔵山の川沿いの僅かな土地に造られた棚田に、
稲穂が垂れている。
畔道に沿ってところどころに彼岸花の赤が点々と散らばる。米作りをやめ、
コスモスを植えた調整田も目立つ。
どこもそうだが、棚田は徐々にしかし確実に失われている。高齢化の進む高樋の村、
耕す人を失い棚田も寺もいつかは自然に還って行くのだろう。

 s-P9241749畦道彼岸花.jpg
 

 

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2009年09月27日

尼寺 大和円照寺の景色 (2) 

代々貴族の息女が庵主を継ぐという円照寺。陵墓の森には、仏教が高貴な方々のものだったその
時代の謎めいた世界が今も隠されている。

陵墓の周りは今一面の稲田に囲まれている。まるで緑色の海原のようだ。畦道に咲くコスモス
の濃いピンクが、単調な景色に色を添える。

 s-参道並木道遠望.jpg s-陵墓のコスモス.jpg


円照寺の裏参道へは小さな赤い鳥居から入る。それと知らなければ、通り過ぎたくなるような、
陰鬱な気配がある。この鳥居からは、道を隔てて広がる大川池の向こうに対面するもう一つの
鳥居がこちらを見据えるように立っている。何故かドキッとさせられる。


 裏参道口の鳥居.jpg 大川池の神社しまま.jpg



入り口の階段を登ってゆくと。参道は唐突に竹林と変わる。そのさき道は、竹と雑木の林に吸い
込まれるように真っ直ぐに延びている。 しばらく進むと、道の両側の土手には羊歯(シダ)が
生い茂る。そういえば空が明るくなったように感じる。


 s-裏参道の竹林.jpg  狭い裏参道.jpg




表参道と合流する少し手前に太師堂がある。塔頭(たっちゅう)と言うのだろう、小さな僧坊の
ような建物だ。太師とは弘法太師空海のことだろうか。宗派を超え、多くの寺院の境内でお会
いするが、円照寺の「太師」はなにか違うように感じる。

 s-太師堂の歌碑灯篭.jpg 太師堂.jpg


円照寺の太師堂には、ちょっと変わった四角柱の灯篭のような石棒が三十数本も立っている。
上のほうの四角い穴には灯明をともすためのようだ。石の表にはカナ文字で和歌が刻まれてい
るが、全ては読めない。


普門山円照寺。「拝観不可」、尼門跡、皇室との関係、三島由紀夫の小説「豊饒の海」、河原
敏明のドキュメンタリー「昭和天皇の妹君・・・謎につつまれた悲劇の皇女」など、実に話題性
の高い、興味深い寺だった。
 
円照寺への心の旅、しばらく続けて行こうか。


posted by ハマー at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月23日

奈良円照寺山村御殿

奈良 尼門跡寺院 円照寺 

奈良では名の通った円照寺だが、今ひとつ明らかにならない隠れ寺のようだ。建物は陵墓の中
樹齢百年以上の檜や杉、松などの高木に覆われ、森の外からは全く見ることができない。
一般拝観を許さない、なんとも気高い寺なのだ。


s-円照寺参道の石畳.jpg




円照寺は別名「山村御殿」と言われる。代々皇室の息女が跡を継ぐ、尼寺の中でも別格の尼門跡
(あまもんぜき)の寺。
そういう次第だから、観光客やハイカーが拝観できないのは仕方の無いことなのかも。


 舎人皇子万葉歌碑.jpg 元正天皇万葉歌碑.jpg


県道188号(高畑山)線の円照寺バス停前に参道口がある。車の乗り入れはできない。
しばらく行くと道は陵墓の森に入る。目に入ってきたのは、道の両側にある一対の万葉歌碑
流れるようなカナ文字が石の表に刻まれている。ああここは尼寺なんだよなと思わずにはいら
れない。

右手にある碑の歌は元正天皇の作によるもの。もう一体は舎人(とねり)皇子の作になる万葉歌
二人ともに奈良時代の皇族だが円照寺との関係は無い。 円照寺は、江戸時代初期(1669年)に
京都修学院の地から、現在地に移転してきたとある。建物は江戸時代に創建されたもので、あち
こちで良く目にする寺院のスタイル、いわゆる古寺の趣はない

 
 森閑たる参道.jpg


道幅は広く、まるで神社の参道のようだ。樹木に覆われた道なのに落ち葉もない。 掃き清めら
れた静寂な真っ直な道が左にカーブしている。


 山門が見えた.jpg 円照寺黒門.jpg


その先に山門が見えた。切妻造の屋根を載せた四脚門で、堅牢な武家屋敷の門のような印象を
受ける。


 白砂の境内.jpg 
 筋塀と萱葺き屋根.jpg


山門を入ると正面に入母屋造の客殿と思われる建物が見える。案内書にあった宸殿だろうか。 
観覧が許されるのはそこまで。 その他の伽藍、庭園は、左右を囲む四本線の入った筋塀に閉
ざされている。壁の向こうに本堂の萱葺き屋根がのぞいている。全体的に上品で厳格な禅寺
の佇まい
を見せている。

 円照寺鐘つき堂.jpg



山門の右手に鐘楼がある。30段を数える細い急な石段を登り、一息入れ、その細腕をあらわに
鐘をつく尼層の袈裟(けさ)姿を想像してしまう。ご苦労様です。
鐘の音、尼僧の白き腕、風が撫ぜて」 一句できました。

参道の中途、山門の手前に鉄の門扉があり、そこに大師堂への上り口がある。苔むした石の階段、
山寺の風情。この細い道は大川池への抜け道のようだ。

 苔むした大師堂への階段.jpg 参道の古木.jpg


これまで車を留めることができずに断念していた円照寺の訪問がやっとかなった。 県道の拡張
工事で歩道に充分駐車できる余地ができ、地元の人の真似をして路上駐車。とはいえ大急ぎ駆
け足での道行。周辺の散策を含めもう一度行きたいと思っている。


参考
http://amamonzeki.iza.ne.jp/blog/ 尼門跡寺院の世界


posted by ハマー at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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