2013年12月05日

奈良高取城址の紅葉

城跡に見る紅葉にもの悲しさを感じるのは何故だろう。
この高取城、明治の初めに廃城となったが、城垣は人里離れた山頂にあったことが幸いして往時の形を残した。天守や櫓、城郭の跡には、舞い落ちた種子から芽生えた楓やもみじが大木となり枝を拡げる。

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日本一の山城と言われた豪壮な姿は廃城後も明治20年頃まで麓から仰ぎ見ることができたという。しかし百数十年の時を経て、周囲3kmもの広大な城郭も樹々に覆われ、今では高取山の頂に城のあったことすら想像できない。もし城が生きていた頃のように生茂る樹々をすっかり切り払えば、全長3500mの石垣は「天空の城」と呼ぶにふさわしい日本一いや世界一の絶景としてそれこそ世界文化遺産として注目を浴びるだろうに。

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城跡で見る紅葉にもの悲しさを感じるのは、そこに今は無いその城の悠久の歴史を感じ取るからだ。景色が話しかけてくる。知らぬ間に歴史のスパイラルを下って行く。物語のさ中に迷い込んでしまうのだ。だが風に散る紅葉のように、想いは初冬の冷たい風に吹かれて一瞬にして掻き消えてしまた、わずかな余韻を残して。

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気がつけば陽はすでに高く、三時間以上も城跡を徘徊していたようだ。炎のように鮮烈な赤や黄の紅葉と、高くそびえ立つ石垣に囲われた異空間が、歴史ロマンの迷路に誘い込ませたのだろう。
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2013年03月11日

奈良多武峰 西口墓地の謎


■ 戦国時代末期の墓地
 「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた六基の板碑には天文二十一年・永禄三年・元亀三年・天正二年の年号が認められる。これらの年号は1467年(応仁元年)に始まり1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いまで150年近く続いた戦国時代の内最も戦闘苛烈な期間にあたる。戦国時代とは文字通り日々列島全域のどこかで戦争が行われていた時代であり、同じ民族同士が戦争を繰り広げた内戦の時代である。

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 それぞれの年の出来事を年表で確かめて見ると、その一つ永禄三年(1560年)は織田信長が全国制覇に一歩を踏み出した桶狭間の戦いの年。また天正二年(1574年)は長島一向一揆が収束した年であり、この戦いの結末には二万人以上の一向宗(浄土真宗)の信者や僧兵・武士団が織田軍団により虐殺された。また戦いに勝利した側の織田家臣団も一万人以上の将兵が命を落したという。多くは足軽といわれる農民であった。

 永禄十年(1567年)には戦火に因り東大寺大仏殿が消失しここに避難していた僧侶・民衆数千人が焼死した。戦場では耕地が破壊され、家屋は放火され、人と物の略奪が繰り広げられる。また寺院は前線基地となり攻防の的となる。
 また元亀三年(1572年)一月二十日奈良は大地震に襲われ相当な死者・被害が出たと記録(多門院日記)に残る。戦国時代はまた旱魃、洪水、大雨などの災害をはじめ、疫病の流行、さらに飢饉といわれる天変地異が最も多く見られる時代でもあった。この時代人々は男も女も子供たちも常に死と隣り合わせの日々を送っていたのだ。農民も町人も僧侶も侍も皆命をつなぐために戦った。

「南無阿弥陀仏」は浄土経系仏教宗派の念仏である。その意味は「阿弥陀様に帰依します、どうか、私を救って下さい」というようなことを指すと聞く。戦国時代は人々の宗教意識が異様に高まった時代であり、当時の人々の念仏に込める思いは心の奥底から発する叫びであり、切実なものであったに違いない。

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 この墓地は、奈良県道155号線を明日香村の石舞台から桜井市に向かう、多武峰・談山神社の少し手前の春井橋近くの山中にある。地名は西口になる。墓地と言っても猫の額と言っても良いような狭い場所に板碑と大小さまざまな墓石が足を踏み入れる隙間もないほどに乱立する。

 県道155号はつい最近平成21年12月に開通したばかりの新道で、それまで明日香村から談山神社に抜ける自動車道はなかった。今でこそ石仏好きが人伝に知り訪れるが、最近までこの墓地は人里離れた山の中腹に忘れられたようにしてあったはずだ。墓石の形から推して、江戸時代初期までこの墓地は使われていたと思われる。

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■ 生前に建てられた供養塔のようだ

 板碑や地蔵石仏をよく見ると逆修の文字が目につく。
逆修は生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことをいう。地蔵十王経に死後の追善供養で死者に達する功徳は7分の1と説かれ、逆修は七分の徳すべてを得ることができると説かれているのをうけて、平安中期以後天皇・貴族から民間に至るまで広く行われた。
 そもそも庶民が墓を持つようになるのは江戸時代後期以降のことと言うから、ここにある墓石や板碑は全て逆修供養のためのものであり我々がよく知っている墓石ではないのかもしれない。そう考えると人目につかない墓参には不便極まりない山の中腹の小高く盛り上がった瘤(こぶ)のような場所にあることも頷ける。

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 奈良は盆地という地形ゆえに四囲を山に囲まれ、そのためか集落の裏山や遠く離れた山の中腹に墳墓や墓場がある。古代の人々が死者を埋葬する場所として山を選んだ理由は山中を他界とする観念が存在していたからであり、死後の霊魂を信じるに至って山は里に福を授ける先祖霊の眠る場所として尊ばれてきた歴史がある。

■ 西口墓地は一向宗信者の隠れ墓地か

 墓地が人里離れた山中に存在するのは先にあげた理由に因るが、この西口墓地が死者の霊を弔う墓地ではなく、本願寺のみを至上の権威とする本願寺門徒(一向宗信者)が死後の極楽浄土行を願う生前供養、逆修の場であったとするならば、この場所を敵対する戦国大名や他宗派の信者に知られることは絶対に避けなければならなかった。見つかれば墓石は谷底に投げ込まれるか、城や砦の石垣の石材にされてしまう。だから墓地は山の中腹の狭く険しい獣道のような急峻な崖道を上がった決して人目につかない一際小高い山の背にあったのだろう。その存在を知っていなければ決して辿り着けない隠れ墓地なのだ。

 地蔵石仏や板碑に名を連ねた人々は生前に建てたその供養塔を依り代に極楽浄土に旅立って行たのだろう。一向宗は江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とされた。

 s-P3043712多武峰西口墓地入口.jpg

〈追記〉
浄土真宗においては五輪塔、宝篋印塔、多宝塔、地蔵尊墓、観音尊墓、◎◎家之墓と言う偶像崇拝の塔墓を建てないという事をブログアップ後に知った。板碑は可としても、地蔵石仏は否ということになるのか。
一向宗および地蔵信仰について詳しく調べてみたが、平安時代末期以降地蔵菩薩は宗派性を超え民衆から帰依されて来た歴史がある。「口には念仏、心には地蔵菩薩」という言い回しがその事実をよくあらわしている。信仰心(宗教性)はその時代時代により変化して行くものであり、教団が常にコントロールできるものではない。 3月19日
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2013年03月08日

奈良高取 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』

「街道に残る旧家や雛まつり」
これは 樋口みのぶ氏 の一句。三月三日に訪れた奈良高取町の『町屋のひなめぐり』の印象にぴたりと嵌るので使わせてもらった。

ひなめぐりの舞台である奈良県高取町の土佐町は江戸時代までは高取藩の城下町であり、高取城の大手門へと続く道沿いには油屋、鋳物屋、呉服屋など500棟もの商家が建ち並びんでいたというから、往時の繁栄ぶりが想像できる。城は明治六年に取り壊され今はないが、ほぼ原形を残す石垣が城跡を訪れる人に日本三大山城と言われた高取城のそのスケールを教えてくれる。

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飛鳥時代から続く土佐町
その城の大手門に続く街路を土佐街道と呼ぶのは、今より千数百年前大和朝廷の都つくりの労役に駆りだされて来た土佐(高知)の人がそのまま住み着いたことから「土佐」という地名になったと考えられている。街道と呼ぶには(3qと)やや短い気がしないでもないが、はるか海のかなたの故郷土佐に続く道と考えれば街道と呼んでもまあよろしいか。それにしても驚かされることは、飛鳥時代の出来事が今に語り継がれ、町の名として、道の名として守られていることだ。

俳人武藤紀子氏に捧ぐ

三月三日、高取町の行事『町屋のひなめぐり』に出かけたのは私の好きな俳人武藤紀子氏の詠んだ次の二句に強く心動かされていたからだ。

「息はいて息吸うてをり古い雛」 
「方丈というくらがりに雛まつる」

“方丈” は寺院の居間のことだが、寺と雛というなにか相容れない関係と、更に暗がりと雛まつり、暗と明という対比が気になる。また、もう一つの句、息はいて息を吸うつまり呼吸する古い雛とはなにか。この二つの句を写真にしたいと思い、ひなめぐりの日を心待ちにしていた。

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 上左の写真、二体の人形は雛人形ではなく「いちまさん」(市松人形)だが、人形とは思えないリアルさがある。人家のほのかな明かりの中に置くと幼い姉妹が立っているように見える。子供の甘い息の匂いが漂っているようだ。
 右の写真、寺の居間と見るには赤い絨毯が少しあでやかに過ぎるが「方丈というくらがり」と言われればそんな風に見えはしないだろうか。今回『町屋の雛めぐり』を体験して思ったことだが、雛人形は障子を通したくらいの光り加減で見た方が美しく見える。明るすぎる窓際ではただ雛人形を鑑賞することだけに終わってしまい、雛祭りという古い時代より伝わる行事や文化を味わい感じるということが難しい。またこの暗がりの中でこそぼんぼりの灯りや背後の金屏風が活きる。

町屋の雛めぐりもう一つの楽しみ

 雛飾りを見せてくれる土佐街道沿いの町屋は江戸時代から明治時代に建てられた旧家が多い。『町屋のひなめぐり』の面白さは普段ならば決して入ることのできない町屋の中を勝手に ? 見せてもらえることだ。博物館ではない、現在人の生活する居住空間である。このお宅の娘と孫娘の雛飾りの豪華さもさることながら奥の部屋の屏風や掛け軸、鎧兜などの美術品もなかなかのものである。

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酒牛乳店の木目込み雛人形

 下の写真は的場酒牛乳店の店頭に飾られた木目込み人形の雛飾り。芥子雛と呼ばれる小型の雛人形。酒屋さんらしく酒樽の上に飾られている。
 この雛飾りを見て小林一茶(1763〜1828)の「掌に飾って見るや雛の市」という句を思い出す。江戸時代中期元禄・享保期の頃に、商家の間で競うように豪華大型化した雛人形を規制するため幕府は雛人形のサイズや諸道具の素材(金銀の使用など)を事細かに規制した。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」(けしひな)と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形が流行する。一茶の句にあるような掌(てのひら)に収まる小型の雛人形が誕生する。一茶の句は雛人形にまで及ぶ幕府の経済統制に対する批判を込めたものである。酒牛乳店の店頭に飾られた雛飾りはこの江戸中期の流れを汲む木目込み細工の雛人形である。昨今の住宅事情に合わせてスケールダウンしたものではない。

 s-P3033626酒牛乳店の雛飾り.jpg s-P3033628雛人形.jpg

 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』は街道とその周辺の町屋、しもた屋など約百軒もの展示があり、それが町内に散在しているのですべてを見るには相当な時間がかかる。今回は見て回っているうちに刻限の午後四時になってしまい、そのため見逃したり見落としたりした家も十数軒あったと思う。残念。次の機会があればもっと早い時間に訪ねそして自分なりのひな物語を作りたいと思っている。
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2012年02月05日

真冬の奈良 高取山の五百羅漢

壺阪寺から高取城跡に登る山道の途中に「香高山(こうこうさん)石仏群」といわれる千体近い磨崖仏
がある。五百羅漢や菩薩、如来、明王、明神などの神仏を彫り出したもので、別名「香高山異石霊
像」とも呼ばれる。

s-P2029878二月二日朝壺阪寺.jpg
二月二日壺阪寺の朝


この日、高取山は強風に乗って日本海から押し寄せるように運ばれる雪雲に覆われていつまでも夜が
明けきらないような朝を迎えた。落葉した冬の山とはいえ雑木の間を抜けて通る細道は薄暗く、木々
を渡る風の音はゴーゴーとなにか空恐ろしく響く。前にも一度来たことのある道だが独りで行くには
なにか心細くさせるものがこの山にはある。

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 高取山の五百羅漢磨崖仏


山道を分け入ると初めに目にする磨崖仏は安山岩の山肌に彫られた百体ほどの羅漢像。雨風にさらさ
れ続けた石仏たち今はもう目鼻もはっきりしないのに、レンズを通してなお強い視線を感じる。数十
体の羅漢が皆こちらを窺っているのだ。
こいつらは生まれてから五百年以上経っているだろうに未だ息を密め訪れる人間を見つめている。
菩薩になれないまま岩に貼りつけられ、声にならない声をあげ、道行く人に救いを求めているかのよ
うだ。

 s-P2029934高取山の石仏群.jpg s-P2029946弔いの谷.jpg
 

先に進んで行くと突然に明るく開けた場所に出る。崖といってもよい急峻な山肌に彫りこまれた無数
の石仏たち。おそらくかつてはこの崖全面が石仏に覆われていたのだろう。岩肌に浸み込む雨水の侵
食を受け長い年月の間に岩肌は深く分断され、大きな岩塊となってずり落ちあるいは転げ落ちたりし
ている。崖の上から目の前にまで展開するこの膨大な数の小さな石仏たちもいつかは全て消えてしま
うかもしれない。

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この石仏群は高取町観光案内によれば「1596〜1614年に本多因幡守が、高取城築城の頃、石工等に
作らせたものとされている」とある。因幡守とは高取城主本多俊正(1551〜1614)のことと思われる
が、五百羅漢像の著しい風化の具合から見て、作られたのはもっと古い時代に遡るのではないかと思
える。比較的柔らかな安山岩に彫られた石造物とはいえ、四五百年でこんな姿になってしまうものだ
ろうか。

 s-P2029880高取山の羅漢磨崖仏.jpg 

しかしそれよりも、豊臣秀長の命を受けて城郭の拡大整備に当たった本多俊正が、工事の合間に石工
に命じて五百羅漢をはじめとする神仏像を作らせるだろうか。近在の石仏や寺院の基壇、古墳石室の
石材を収奪してまで城塁造りを急いだ秀長や俊正が、改めて石仏を作ろうと思うはずがないと思える
のだ。
或いは下剋上の世とはいえ殺戮と裏切りの我が人生をはかなんだ俊正が鎮魂の願いと自身の浄土行を
願って作らせたものであろうか。いやそんな余裕があったとも思えない。
そもそも野や山に残る石仏たちは貧しい庶民層のものであり、武士や貴族など富裕層のものではない。

では、誰が作らせたのか。
戦にかり出され、命を懸けて戦い、生きて地獄を見てそして殺されていった者たちの無念を、残され
た者たちの無念が作らせたのではないのか。勝者であるものが作らせたのではない。思いは巡る。

 s-P2029998高取城跡.jpg s-P2020011高取城本丸石垣.jpg
 高取城跡の石垣

香高山石仏群を撮っていた3時間ずっと雪が降っていたようだ。高取城跡は今降り積もったばかりと
わかる雪にすっかり覆われていた。
奈良盆地を見渡す標高583.3m高取山の頂きに残るこの壮大な石垣を含む城郭は安土桃山時代の
1858年から江戸時代初頭にかけて構築された。その後300年の間、威容を誇った高取城も明治24年ま
でには取り壊され石垣のみが残った。この城に起居した人の気配はどこにも感じられない。ただ風が
吹いているだけだった。
急に、先ほどまで撮っていた香高山の石仏群たちは妙に騒々しかったなと思い出された。

 s-P2020001高取城跡からの吉野眺望.jpg
 城跡から吉野方面の眺望
 
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2011年11月03日

明日香村 猿石と欽明天皇

猿石は元禄15年(1702)明日香村・欽明天皇陵のある平田地区の田んぼから掘出された四体の人面
石像である。猿石と名づけられるだけのことはあって、両脚を折り曲げて座す姿はよく目にする猿が
くつろいでいるときの形に似ていると言えないこともない。現在は天皇陵に隣接する吉備姫王(欽明天
皇の孫娘)の墓内に置かれている。

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 夕景欽明天皇陵

それぞれに「女」「山王権現」「僧(法師)」「男」と名前(ニックネーム)がつけられている。いつ、
誰がそう命名したのか知らないが、あまり感心したものではない。山王権現は天台宗の守護神である
が、神の使いとして猿を崇拝することからこの石像が猿に似ているので安易にそう呼んだものと推測
できよう。

 s-PB018931猿石・女.jpg s-PB018920猿石.jpg

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猿石が吉備姫王の墓に置かれるようになったのは明治初年ごろのことで、それまでは欽明天皇陵の南
側に置かれていたという。吉備姫王の墓の鳥居の鉄柵の中に置かれたその光景にはなにか異様な感じ
を受ける。猿のように見えなくもないが、渡来人を象ったものといわれている。性器を強調している
像(山王権現)を見ると、土偶が変化した石偶(という言葉があるかどうかわからないが)そのようなも
のかも知れない、と勝手に想像する。

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 飛鳥歴史公園舘から欽明天皇陵に向う四つ辻に立つ

なぜ天皇の墓近くに渡来人の石像が置かれていたのかその理由はわからないが、当時(6世紀)の飛鳥
(明日香)の人口の八〜九割までが渡来人(帰化人)であり、彼らが技術、文化をリードしていたという
から、渡来人の石像があったとしても特に不思議なことではない。真偽の程は不明だが、現天皇家の
祖といわれる欽明天皇が渡来人であったという説もあるらしい。
※ http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai36-Kinmei.html  「欽明天皇の真相」参照

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 高松塚古墳秋景色 

明日香村には、製作年代や用途不明な不思議な石像物が多くある。明日香村の高松塚地区を訪れたの
は1972年に高松塚古墳が発見された年に訪れて以来40年ぶりのことである。「アァ あれから40年」
なにを見られるのか、何を撮れるのか・・・また訪ねてみたくなった。
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2010年05月05日

明日香村岡寺のシャクナゲ

明日香村の集落から山林に入った山の斜面に岡寺はある。
仁王門を抜け、急な石段を上がる。伽藍の石畳が途切れた先、檜や杉の樹木に覆われた薄暗い
森の奥一面にシャクナゲが静かに咲いていた。尾根の谷間に白や薄桃色の淡い花色の帯が、
流れ下るように溢れていた。


 石楠花流下.jpg


5月4日、シャクナゲの花を見るために、奈良県明日香村の岡寺を訪ねた。
一昨年の12月、この寺に参拝したとき、寺の奥の小道の両脇が、石楠花の細い葉に覆われて
いるのを見た。そのときに、シャクナゲの花に覆いつくされたこの景色を思い描いていた。
この暗い森が、赤や白の石楠花の光に満たされる光景を思い描いた。今日見たこの景色は、
まさに思ったとおりの景色だった。


 樹幹石楠花.jpg
 

シャクナゲは山地や渓流のほとりなど高湿地の土地に自生するとある。
岡寺のある所は、奈良盆地の南端、明日香村集落東縁の急勾配の山内になる。伽藍は山の
尾根と尾根の間の谷間にあり、山に降った雨はこの谷間に集まり流れ下るだろう。
このところは晴れの日がつづいているが、山奥から下りてくる細い流れから、かすかな水音が
聞こえてくる。


 鳥居坐像石仏.jpg 石仏羊歯野草.jpg
  


森の地面は見渡す限り羊歯やコケに覆われ、山道に祀られた石仏にも、緑色のコケがついて
いる。ここが、シャクナゲの木の好む、高い湿度の空気に満たされていることがわかる。
山内には3000株ものシャクナゲがあるそうだが、ここまでの大群落にするにはかなりの年月と
努力があってのことと思う。


 岡寺花シャクナゲ.jpg

 
桜、シャクナゲと続く花景色は、これから夏に向ってツツジ、紫陽花と絶えることがないという。

岡寺HP
http://www4.kcn.ne.jp/~balance/index.html


山内の所々に石仏が祀られている。石に彫られたごく小ぶりの半跏思惟像、なんてかわいい
お顔だろう。また、風雨に晒され色褪せた涎掛けもいい。
この石仏、これまで見たものの中で一番キュートに感じる。誰の手になるものか判らないが、
岡寺界隈に必ず同じ作者の他の石仏があるはずだ。一度、明日香村をくまなく歩いて探して
みたい。

 岡寺半跏思惟石造.jpg


岡寺の弘法大師空海石像は他所でよく見かけるものよりもやけ人間くさい。太い眉と額や目じり
に刻まれた深いシワが目立つ。大人の弘法大師空海に涎掛けは不適当ではないかな。
弘法大師空海の石像ほど、全国の各地で容易に見られる像は他に無いだろう。寺院のみならず
空海所縁の土地にもあるし、異なる宗派の寺院の庭先にもまるで信楽焼きの狸みたい置かれて
いたりする。だけど、容貌、立ち姿にけっこう違いがある。いったい、もと絵はどこのもの
だったのだろうか。


 石楠花の谷大師像.jpg


各地の大師像を比べてみると容貌はおおよそ共通していて、あごの骨の張ったほぼ丸顔と
言ってもよい。なんだか苦労知らずのどこにでもありそな柔和なお顔が、日本人共通の
弘法大師像なのかもしれない。
しかし、シャクナゲの花に埋もれて立つ弘法大師像は、ここ岡寺だけだろう。

※弘法大師像あれこれ
http://www.ukima.info/feature/daisi/kobodaisi.htm

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2009年05月11日

絶景なり 奈良 聖林寺の借景

五月晴れ 聖林寺の春

集落入り口の農道に車を置いて参道を登って行くと、
石垣に山門の屋根が見えてきた。
道沿いに紫色のかきつばた(杜若)の群生がある。
「お寺さんには紫のかきつばただよな・・・」と考え
ながら石段を登る。
空の青、鯉のぼり、路傍の石仏、甍屋根(いらかやね)。
のどかなり聖林寺の春。

聖林寺とかきつばた.jpg  聖林寺借景.jpg

暗い本堂から見る山之辺の借景。三輪山がなだらかな
山裾を見せている。ご本尊の参拝もそこそこに、ひた
すらこの景色に見入ってしまった。
絶景なり聖林寺の借景。

聖林寺裏山の石仏.jpg


聖林寺裏手に広がる安部嶋山の路傍には一対の石仏が一定
の間隔で安座されている。お地蔵様に木漏れ陽のスポット
ライトがあたる。
暗い山道、どこまで続くのか不安で、途中から引き返す。


聖林寺 十一面観音菩薩 
ガラス越しに見る観音菩薩様、もう言いようのない存在感
に圧倒される。大いなる美しさ、静かな優しさ・・・
確かにこれは観音の顔であって、人の顔でない
和辻哲郎の古寺巡礼の中の言葉を思い出し、納得。
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2009年04月14日

明日香村 春雨模様

4月14日 小雨 石舞台付近の県道から

県道15号線の岡寺前を過ぎ150mほど行くと突然目の前に高取の山並みが飛び込んで来た。
飛鳥川が流れ込む石舞台辺りは周りを小高い岡と天樫丘に囲まれた狭間で、奈良盆地の最南端と言ってよいだろう。
明日香村はちょうど、菜の花の黄色に溢れていた。

s-石舞台近く早春雨.jpg

橘寺山桜
橘寺境内の木々はようやく新芽が開き始めたばかりで、まだまだ早春の気配を残している。
山桜は濃いピンクの花と薄緑の若葉がほどよい配色を示し落ち着いたたたずまいを見せている。

s-橘寺鐘楼の桜.jpg


菜の花畑から屋並み越しに小雨にけぶる橘寺が見える
明日香村は高い建物や無粋なビルが無い。若い頃に来たときに見た景観とほぼ同じで、
昔を思い出しほのぼのとした気持ちにさせてくれる。

s-明日香菜畑から橘寺を見る.jpg


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2009年04月13日

安倍文殊院は寺ですか?神社ですか?

4月13日 奈良県桜井市 安倍文殊院

駐車場から境内に入って行くと、雰囲気が寺なのか神社なのか分らない。
しかし大鳥居が無いことや、お社が点在しているところから、寺なん
だと分る。 

歴史的には安倍寺が前進であり、ご本尊が文殊菩薩であることや、
さらに山門から入山すれば、勘違いすることは無かったですが・・

ただお寺さんにしては、事業にご熱心だなという印象を受けた。
寺なのか、神社なのか、あるいは両方なのかそれほど問題ではなく、
単に私の印象なのですが。 

安倍文殊院 稲荷社参道
お稲荷さんは農業、商い等の神さま

稲荷社参道.jpg

縁結びの神さま
安倍文殊院 白山堂

安倍文殊院 白山堂.jpg





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