2013年12月09日

東大寺の紅葉・初冬の一日

東大寺の秋はナンキンハゼの紅葉から始まる。
他の樹種に先駆けて十一月初めには色変わり始め中旬頃にピークを迎える。

その独特な色模様を知ったのは五年前のこと、奈良で写真を撮り始めて二度目の秋だった。
若草山の麓に残る東大寺棚田跡のナンキンハゼの紅葉のあまりの美しさに、何故だか本気でカメラを筆と絵具に取変えたいと思った。もっとも描く技術も経験もないのだが。

 s-棚田跡PB043914.jpg s-若草山PB054123.jpg

しかしそれ以後いつも見頃を逃し続け今年も見ずじまいに終わってしまった。
そのわけよくよく考えて見ると、ナンキンハゼが紅葉する時期、我が家の周りの樹々はまだまだその気配もなく、そのため、その頃(11月中旬)に東大寺に出向かなければならないことに気付けず、いつもチャンスを逸してしまっていたようだ。

 s-講堂跡PB295534.jpg s-講堂跡PB295604.jpg 

今年の秋は夏の酷暑をひきずっていつまでも気温の高い日が続き、このままでは紅葉を見られないのではないかと心配されたが、十一月下旬日本列島は唐突に真冬の寒気に襲われ逆に例年以上に鮮やかな紅葉となった。

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東大寺境内のカエデやモミジはまさに黄色、黄赤、深黄、赤・緋・紅・朱など文字に置き換るのが難しいほどの色を持つ。モミジは日を経るに従って葉の色を変えてゆくが、日の当たり加減や風の当たり具合によって多彩なグラデーションを持っていることにいつも驚かされる。見る方向、時間、天候によって本当に印象が異なる。
もしこれはと思う一樹に出会えたなら、朝から晩までまた日を変えて何日でも葉が散り尽くすまで見尽くしたいと本気で思っている。

 s-興福寺五重塔遠望PB295662 (2).jpg


東大寺の見所は大仏殿、南大門から奈良公園に続く南表のエリアと二月堂、正倉院、戒壇院ほかの塔頭が点在する周辺部に分けることができる。紅葉を見るなら周辺の方が興味深い。ただ東大寺の寺領はほんとうに広大なので、片方のエリアを見るだけでも日の出から日没までかかりそうだ。

 s-地蔵院PB295633.jpg 

もっとも、足腰に瑕疵のある自分のような年寄りは一日中歩き回るのはつらい。体力的に難しい。東大寺には大仏殿や南大門付近以外の場所に身体を休めるベンチなどの施設がないので、いつも途中でへばってしまう。それよりも疲れた体や心では美しい景色を敏感にキャッチすることはできい。結局今回の撮影行では予定の半分も回れなかったが、まあ一期一会なのだからと変に自分に言い聞かせ、今年の紅葉刈りは夕日を見ずに早々と終了。来年また奈良に行きましょう、と。

 s-龍松院PB295593.jpg

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2011年11月21日

東大寺26年ぶりの授戒会について

奈良・東大寺で去る11月7日から9日まで「授戒会」が26年ぶりに行われた。授戒会(じゅかいえ)は
僧侶に戒律を授ける儀式で、東大寺の僧侶7人は3日間かけて「沙弥戒」「法同沙弥戒」「具足戒」
と呼ばれる戒を受ける

 s-PB089241授戒会僧侶の草鞋.jpg
 受戒する七人の僧侶の草鞋

「沙弥戒」は出家した者(沙弥 しゃみ)が持つべき十戒のことで、@不殺生(生き物を殺さない)、
A不倫盜(盗みをしない)、B不淫欲(淫欲に耽らない)、C不妄語(うそを言わない)、D不飲酒
(酒を飲まない)、E不花髻瓔珞香油塗身(装身具や香を付けない)、F不歌舞作唱故往観聴(歌や
踊りを見聞しない)、G不坐臥高広大床(広く高い寝台に寝ない)、H不非時食(正午以後食事しな
い)、I不捉金銀銭宝(金銀財宝を蓄えない)の戒(いましめ)のことである。
「具足戒」は出家した者がその教団内で守るべき戒律条項のことで、通常、比丘(男)は250戒、比
丘尼(女)は348戒とされた。内容を知らないが、会社の就業規則のようなものであろうか。
「法同沙弥戒」は調べてみたがどういうものなのかデータがなくわからない。 ※3 戒律

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 戒壇堂の山門をくぐる僧侶たち

日本の仏教は明治以後妻帯、住職の親族への世襲が許されているから沙弥十戒の全てを実践するのは
非現実的であろう。また250もの戒律遵守というのは更に無理があるだろうし、この具足戒は鑑真が中
国から日本にもたらしたが当時にあっても環境、風習の違いから全く根付かなかったものという。

 s-PB089265戒壇堂授戒会.jpg 
 戒壇堂に向って整列するする七人の僧侶

東大寺の授戒会は約1250年前、唐から来日した鑑真和上が聖武上皇や光明皇太后らに授戒(菩薩戒)
を行って以来の伝統で、かつては一人前の僧侶(奈良時代にあっては「官僧」)として認められるため
の大切な儀式だった(時代もあった)。
今回授戒を受ける僧侶は東大寺の塔頭住職試験「竪義」(りゅうぎ)にパスした面々である。という
ことは、一人前の僧侶というよりも将来東大寺境内にある子院・僧坊つまり塔頭の新住職になること
を承認しますというような形式的儀式と考えた方が妥当と思う。多分授戒は「巻物」の授与というこ
とであろうと(勝手に想像している)。※2 授戒の手続き

 s-PA182798塔頭・龍松院.jpg 
 塔頭・龍松院 住職は筒井寛秀氏

しかし「26年ぶり」ということはどういうことなのか。伊勢神宮式年遷宮の20年よりも間が長い。
東大寺境内には住職およびその家族が生活する○○院、○○坊と呼ばれる塔頭(たっちゅう)が15ヶ所以上
ある。※1
その家屋、敷地については殆どが世襲というか親から子に相続される。もし男子がいなければ養子を
とって家名を継がせるが、例え子供がいても僧侶になることを拒めばその塔頭は無縁の僧侶が継ぐ。
後継者がいない時は、住職が亡くなった後、残された家族は寺を出なければならない。東大寺の授戒
会が26年ぶりに行われ7人の僧侶が受戒したということは、七所の塔頭において新住職への世襲、交
代の時期が近いということであろう。

 s-PB089260戒壇堂授戒会.jpg
 僧侶入山の後戒壇堂の山門は閉められてしまった。

26年ぶりに行われた授戒会であるがマスコミを含む外部の人間をシャットアウトした戒壇堂で行われ
た。東大寺の授戒会は奈良時代から続く伝統ある儀式であるが、今では塔頭の継承儀式のような観が
ある。
としても、1200年以上前の様式を今に継承している点はすごいことと思うし、垣間見ただけだが
実際に厳かで美しく緊張感あふれるセレモニーだった。
それ以上に「授戒・受戒」ということを知ることにより僧侶というものがどういう人たちであるべき
かの本質を知る良い機会でもあるので、是非公開の場で行って欲しかった。この日自分は、たまたま
戒壇堂前の桜紅葉を撮りに来てこの儀式に遭遇したのだが、次の機会はないだろう。

 s-PB089247戒壇堂授戒会の朝.jpg
 受戒会儀式を待つ戒壇堂

※1 『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂
宇をもたないものもある。真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に竜松院、竜蔵院、持宝院、宝厳
院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北
林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ
残っている。

 s-PB166573戒壇堂桜紅葉.jpg
 平成23年戒壇堂前の桜は紅葉することなく葉を落としてしまった、22年秋の桜紅葉

※2 授戒の手続き 『(前略)聞くところによると、具足戒の授戒でも、一々たくさんの戒を挙げるの
ではなく、基本となる不殺生などの五戒について、命のある限り守ることを誓うか、と受戒者に尋
ね、受戒者は一つ一つを守ることを誓うという形式なのだそうです。(中略)考えてみると、これは戒
律の基本とはいっても、そればかりを僧になる人に改めて誓わせて終わるというのは、単純すぎるよ
うです。総じて日本では授戒が盛んだったとはいえず、古代末から中世初めには全く絶えた時期もあ
ったわけですから、いまの授戒の作法は、戒律が復興された時点で採用された、簡略なやり方ではな
いでしょうか。』東野治之「鑑真」(100〜103頁)

※3 戒律は、道徳的な戒めと僧たちが共同生活を営むための規律であり、仏教の本質と切っても切れ
ない関係にある教えだが、日本のように僧侶の無戒が公認されている仏教は世界に類がないことを、
日本人は自覚しておくべきことである。東野治之「鑑真」(178頁)

※参考図書
「東大寺辞典」、「誰も知らない東大寺」、東野治之「鑑真」岩波新書


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2011年05月08日

東大寺の幡 聖武天皇祭の朝

初めてそれ見たのは東大寺第220世別当(住職)の晋山式の日だった。さわやかな五月の風に吹かれ
なびく、だけどなにか異様な (とその時は思った)印象を与えるものだった。
それが「幡(ばん)」という名称であることをその後知るが、だけど幡は以前見たことがある。
ひと頃よく訪れた伊勢湾に面した知多半島の美浜町にある杉本美術館で見たことがあった。しかし、
東大寺で見たそれとあれがすぐには結びつかなかった。

東大寺にはその日までに何度も訪れたことがあったけど、幡を見た記憶は無かった。それもそのはず
で、東大寺でも特に重要な法要の時に限って掲揚されるものであり、常日頃見られるものではないようだ。

 南大門龍頭形竿頭飾s-P5024020.jpg 
 東大寺・南大門にて「龍頭形竿頭飾」

異様な姿と思ったことはあながち見当違いではなかった。
「幡」の研究で知られる文学博士・沢田むつ代氏のレポート「上代の幡の編年」に、『幡は、仏事の
荘厳具として、また延命や死者への追善供養などに用いられた旗である。形状は、人体をかたどった
ように、頭に当たる幡頭(ばんとう)、胴に相当する幡身(ばんしん)、足となる幡足(ばんそく)からな
る。』とある。
そう、宙にぶら下がった人形(ひとがた)という感じなのだ。それが異様な印象を与えているのだと思う。
 
幡 各部分の名称.JPG
 幡 各部の名称

この「幡」の歴史は古く、『こうした幡が日本へ最初にもたらされたのは、日本書紀によると6世紀半
ばで、552年(欽明天皇13年)10月、百済の聖明王より仏像や経巻とともに「幡蓋」がもたらされたこ
とがうかがわれる』とある。※「幡蓋(ばんがい)」は幡と同じ。

 現在目にすることのできる東大寺の「幡」は、画家の吉岡堅二、染色家吉岡常雄兄弟の手による。
大幡一対、庭幡20枚が1990年10月に行われた大仏殿落慶法要のために64年ぶりに新調された。
その時のもの。当時の新聞記事を見ると『落慶法要当日、大仏殿の庭をかざった大小二つの幡は、
その あざやかな天平を思わす色と大胆な構図で人目をひいた。』と伝えている。

この吉岡兄弟というのは、宮本武蔵と吉岡清十郎の下り松の決闘で知られる京都の老舗「染屋吉岡」
から分家した「染司よしおか」の子孫である。何気なく見ている幡にもそんなエピソードの秘められ
ているところがやはり、奈良のおもしろいところというか奥の深いところだなぁと感じいってしまう。

 s-P5034061聖武天皇祭の朝.jpg
  古代の風が、あの「幡」を吹き流れて行くような
 
今年5月2日に東大寺を訪れたのは、聖武天皇祭の時に掲げられる「幡」を撮るためである。今年は聖
武天皇1254回忌にあたる。現代ならば、13回忌とか33回忌でまあ打ち止めというところであろうに、
なんと1254回忌とは驚かされる。これが奈良東大寺の伝統ということであろうか。

 s-東大寺・本坊勅使門P5278454.jpg
 東大寺・本坊「勅使門」 この門の向こうに「天皇殿」がある

『続日本紀』には「太上天皇周忌也。諸僧千五百余人於東大寺設斎焉」とある。色鮮やかな刺繍で彩
られた「幡」の林立する下、諸僧千五百余人が参列する大がかりな豪華絢爛な儀式であったと。
今の時代、東大寺で行われる「天皇祭」を見てもその華やかさに驚嘆させられるが、1254年前、国家
的行事として行われた聖武天皇一周忌の景色は想像を絶するものだっただろう。

参考資料
「上代幡の編年」  http://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber/60/4/P_76/_pdf/-char/ja/
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2011年05月01日

東大寺・転害門「盃状穴」

東大寺・転害門
転害門(てがいもん)は東大寺境内に残る数少ない創建当初の建造物の一つである。
創建は762年(天平宝字6)頃で、天平時代に造られた門としては他に法隆寺東大門が残るのみで、
同時代の建築様式を知るうえで貴重な存在という。

 転害門晩春s-P4303916.jpg s-法隆寺・東大門P5054116.jpg 
  転害門晩春                        法隆寺・東大門閉扉 

東大寺伽藍の西面にあった三門のうちの一つの転害門は、方位を示す呼称としては「西北大門」
となる。創建直後(756)に描かれた図面(東大寺山堺四至図)には「佐保路門」と表記されている。
これは平城京を東西に走る一条南大路の転害門から平城宮までの間を佐保路と呼んでいたことに
よる。転害門は南大門に比べて陰の薄い門ではあるが、天平時代「転害門」は東大寺と平城宮を
繋ぐ最も重要な路の基点であった。※「東大寺山堺四至図」をよく見ると、未だ南大門も二月堂も
存在していない。

 平城京、東大寺転害門地図.JPG 東大寺山堺四至図模写部分.jpg
                            右図 「東大寺山堺四至図模写部分」 

転害門基壇の盃状穴
最近のことであるが、転害門の基壇にいくつかの「穴」があることに気がついた。きっかけは、
1250年間という時の流れを、「石」表面の変化、つまり風化や人の往来による摩滅等の形状変化
でもって表現できるのではないかと、石段を見直していて、発見した。
これまでこの多数の「穴」に全く気がつかなかったことの方が驚きであり、信じられない。 

石階段の最上段、基壇の外縁部の葛石(かずらいし)の上縁面に、南北に一列、不規則に大小10箇
くらいの丸い穴が並んでいる。最初、屋根の軒から落ちる雨垂れが穿った穴だろうかとも思ったが、
軒先はその石より更に外側1.5mのところにあり、地面のその位置には「雨落溝」が設けられている。
雨垂れによる穴ではない。

転害門盃状穴s-P4233631.jpg 転害門雨落溝s-P4233654.jpg 

調べてみて初めて知ったのだが、この穴は研究者の間で盃状の窪み―「盃状穴(はいじょうけつ)」と
呼ばれているものだった。

東大寺・転害門に残された盃状穴は、東・西・南方向の基壇葛石に認められ全部で50穴くらい数
えられる。また基壇上の棟屋根を支える柱の一本の礎石にも穴は穿かれている。
更に注意深く探すと基壇以外にも、門北側に続く筋塀の柱の束石(土台)に盃状穴と思われる丸い
穴が多数認められる。あと、基壇東側の雨落葛石にもいくつか認められた。

  筋塀礎石盃状穴s-P4303876.jpg  s-P5094414転害門東雨落溝盃状穴.jpg

転害門の石
転害門の基壇等に穿(うが)かれた盃状穴がいつの時代に穿かれたものかその詳しい年代まで特定
できないものの、「国宝東大寺転害門調査報告書(2003.3)」を基に類推すると、まことに大まか
ではあるが鎌倉時代以後と考えられる。

基壇の石材は、鎌倉時代(1185-1333)の大改修で創建時の奈良・二上山の松香石(凝灰岩)から、
強固な花崗岩に取り替えられた。
盃状穴が残る西側基壇の葛石(かずらいし)には色合いの異なる二種類の花崗岩が使われている。
基壇の石材は江戸中期の時代また昭和の修理(1928〜1938)においても一部取り替えられたが、
盃状穴のある石段右側の石材(葛石)は鎌倉材と考えられる。

 s-P4303866転害門石階.jpg

このとから、この盃状穴が奈良・平安時代のものでないことは確実であり、転害門の盃状穴が
鎌倉時代以後に穿かれたものと判断できるわけである。
現在転害門には門扉が無い。門扉が取り払われた時代が判れば、もう少し絞った年代を知ること
ができる可能性がある。
門柱のうち一本の礎石に盃状穴が認められるが、この石材も鎌倉時代の大修理で取り替えられた
花崗岩野面石である。※野面石:荒面のままの石

転害門全容s-P4303827.jpg s-転害門基壇構造.jpg

 東大寺・転害門「盃状穴」の三つの特徴
(1) 盃状穴が「門」基壇に穿かれていること。門は俗域と神域の境界である。結界に穿かれて
いるということである。何かを祈願するならば、広大な東大寺境内に入れば寺も神社も仏も神も
思うがまま取捨選択できたはずである。
それにもかかわらず、盃状穴が門という「結界」に穿かれているというところに、意図された
何らかの意義がある、はずだ。

(2)数ある東大寺の建造物のうち盃状穴が転害門のみに認められることである。東大寺の正門
ともいえる南大門にも、境内の他の建造物や遺跡にも盃状穴は全く認められない。
この転害門は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも奇跡的に焼け
残った数少ない寺内の建物のひとつである。「不死の門」である。

(3)転害門基壇の葛石に見られる盃状穴は、30から40個くらい認められ、大きさに違いはある
もののほぼ円形の盃状の穴である。これは他所の神社・仏閣境内に見られる全国の他の盃状穴と
共通する。しかし、転害門の盃状穴には唯ひとつ、円形ではない、男性のシンボルに似た形の
ものがある。

 変形盃状穴s-P4303889.jpg 

盃状穴
盃状穴の歴史は古墳時代、弥生時代に遡る。韓半島から、人と文化の到来により、日本列島に
伝播したと考えられている。
盃状穴は女性のシンボルから由来したと考えられ、豊穣と生産を象徴する意図をもつ原始宗教で
ある。韓国研究者の間では「性穴」と呼ばれる。

東大寺・転害門の「盃状穴」を考える
江戸中期から明治・大正時代にかけて信仰関連の石造物、神社仏閣の主に常夜灯・手洗石・石段・
基壇等に穿かれた盃状穴は、青森から沖縄にいたる各地に見られる。まるで穿穴行為が隠れた
流行だったのではないかと思える程の数である。
そしてその夥しい数の盃状穴の形容は、木葉型や紡形、珍しいものでは三角型のものもあるが、
ほぼ女性のシンボルに類似したものであり、男性のシンボルのような型は稀である、と思う。

全体で60くらい数えられる転害門の盃状穴の中で異形のものはこの一つだけであるが、盃状穴
信仰を推理するうえで、とても興味深い。
この観点から基壇上門柱礎石の盃状穴を観察すると、柱が男性のシンボル、礎石は女性のシン
ボルを意味するのではなないかと思え、また見えしまう。

 基壇礎石盃状穴s-P4233655.jpg 

盃状穴は日本の各地に見られる。穴を穿ち、その穴を前にして何らかの祈願や呪詛(じゅそ)が
行われていたはずであり、またその習俗が明治・大正頃まで続いていたことも確実である。
にもかかわらず、その宗教的作法や意図を顕した資料・文献の発見はこれまでのところ無い。
また伝承すらない。これはその習俗が「他人に知れると効果がなくなるといった口伝による迷信」
があり、そのため人目に触れることなく、あくまで秘密裏に行われていたからと思われる。

しかし、大仏殿の再興がなった江戸時代中期(1700〜)以後には、当時の旅行ブームもあって
転害門の建つ手貝町周辺は、東大寺や興福寺、長谷寺詣の京方面からの玄関口として、
「旅宿郷」と呼ばれる程に宿場町として賑わっていた。またそこから二月堂や大仏殿に向う
入り口にあたる転害門の基壇に、昼日中、誰に咎められることも無く、また記憶に留まるこ
とも無く、十数個もの穴を穿ち何らかの儀式をとりおこなうことは、簡単なことではなかった
はずである。

転害門盃状穴s-P4233629.jpg


東大寺・転害門の盃状穴の謎解

東大寺・転害門に穿かれた盃状穴は誰が、何時、どのような意図で、どのようにして穿かれた
のであろうか。
以上の観察を通しておぼろげながらその全体像が浮かび上がってくる。
門、石、柱、密教、夜、性、古代宗教、迷信、中世という語が転害門盃状穴の謎を解くキーワー
ドになる。

参考図書
「国宝東大寺転害門調査報告書」奈良文化財研究所
「盃状穴考 その呪術的造形の追跡」国分直一監修


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2010年11月20日

東大寺の秋九景

この数日の冷え込みで遅れていた秋色は一気に進んだ。
東大寺境の森には色褪せた常緑の木々にあざやかな黄や、赤色が加わり、まるで画家の持つパレットの
中にいるようだ。

「一年(ひととせ)に ふたたび行かぬ 秋山を 心に飽かず 過ぐしつるかも」 詠み人しらず(万葉集)

今年の秋は難しいと思っていた奈良行きだったが、三日間、東大寺、薬師寺、山の辺の道を歩くことが
出来た。

 s-PB197337大湯屋松公孫樹並図.jpg s-PB197349大湯屋黄葉鬼瓦.jpg
 大湯屋の大公孫樹 

東大寺の大湯屋の大公孫樹はもう一度撮りたいと願っていた場所だが、運よく黄葉(もみじば)の最も美
しい時に訪れることができた。
昨年は11月25日だったから、およそ一週間早いその姿を見られたことになる。
公孫樹の木の黄葉は個体による差が大きく、東大寺境内でもまだ緑のままという木もある。
大湯屋の公孫樹はほぼ黄変し枝先の葉はすでに散り始めている。

 s-PB197283吉城川秋流.jpg 
 吉城川水面を飾る南京はぜの落葉

今回はこれまで足を踏み入れたことの無かった吉城川に入ってみた。ここは今、厳密には東大寺の境内
ではなく私有地の中になるが、河川そのものは個人のものではないので下流から源流まで遡上すること
は可能だ。
吉城川の両側に普段見ることの出来ない古い時代(多分明治、江戸末期)の景色が隠されていた。ここは
再度来たいものだ。

 s-PB166866楓秋化粧.jpg s-PB197376二月堂大屋根秋色A.jpg 
 二月堂裏手の道から望む
二月堂の裏手から見る東大寺の秋景色も今回初めての経験だった。二月堂、三月堂を囲むように楓、公孫樹、
南京はぜの大木は今ちょうど赤、黄色と燃えたつように広がり聳える。
東大寺の中で秋景色の最も美しい場所と言える。

 s-PB197300杉公孫樹秋襖図.jpg s-PB197404落葉降り敷く.jpg
 杉木立の後ろ金色に輝く公孫樹     東大寺寺務所(旧東南院)

明日は満月。大仏池から望む月の出が美しいと土地の男性が教えてくれた。明日名古屋に戻る前に見ら
れたらいいのだが。天気予報は午後から高気圧に覆われ青空が広がるとのこと。

 s-PB166743龍松院山門楓紅葉.jpg s-PB166721覆う公孫樹.jpg
 龍松院山門楓紅葉      僧坊跡の公孫樹
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2010年11月02日

東大寺講堂跡礎石に座し考えたこと

大仏殿と正倉院の間にポカリと広がる空間は、講堂、三面僧坊という呼ばれる建築物が並ぶ
あたかも現代の大学キャンパスのようであった。
今では講堂跡の草地に埋もれた礎石と草を食む鹿を見るばかりの寂しさであるが、当時は学
僧や様ざまな仕事にたずさわる幾百もの人が溢れる大変な賑わいの場であっただろう。

 s-PB026254桜紅葉講堂跡.jpg

しかし、1508年に戦火で焼失した後、講堂が再建されることはなかった。
恐らく仏都としての奈良本来の立場はすでに消失しており、東大寺も歴史的仏教遺産、天皇
家ゆかりの寺として認識されていた過ぎない。
仏教の本流が平安京(京都)に移ってからすでに半世紀を越える時がたち、国家仏教から宗派
仏教へと変化した日本の仏教界において、東大寺に期待すること、東大寺が担う役割はもう
終わっていた。

 s-PB026266大仏殿講堂跡.jpg
 

東大寺に再び講堂が建つことがなかったのは、奈良仏教が日本仏教の源流であったとしても舟
は川下に流れ去っていたことを意味する。講堂跡に再び学僧たちの音声が聞こえることはない。
晩秋の朝、礎石に座しそんなことを考えていた。

 s-PB026229講堂礎石.jpg

 
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2010年10月31日

東大寺講堂跡の桜紅葉

暦の上ではもうすぐ立冬を迎えるというのに、奈良の景色はまだ秋の深まりもない。
昨年より季節の移り変りが二週間くらい遅い。それでもやっと東大寺講堂跡に桜樹の
紅葉を見ることができる。

s-PA316130東大寺大仏殿桜紅葉.jpg

亀井勝一郎「大和古寺風物詩」の東大寺の章に「講堂の址」という詩がある。

ひまなくぞ雨はふりけり
足曳きの三笠の山のふもとなるこの夕べはも
松が枝のしづくにぬれて
秋草に 黙し伏す巨きいしずゑ
遠つ代の聖の帝が御夢を うつつに偲ぶしるしかな
いのちあらば語れ
(中略)
ひまなくぞ雨はふりけり秋のくれ
啼く鹿の声のしみわたるかな

昭和17年秋、雨の降る講堂跡を訪れた時に詠まれたとある。

s-PA295910講堂跡大仏殿を望む.jpg

「講堂の址」を思い出し口ずさめば、いまに残る幾多の礎石から巨大な講堂の姿を思い
浮かべることができる。
講堂は奈良時代の756年に創建された。その後三度焼失し二度再建される。1508年に
兵火により焼失した以後500年以上の間、今の景色が続く。礎石は私たちにその悲運の
歴史を言葉無く語りかける。

建物が焼失しても礎石は残る。だが、雨風に晒された礎石の表はザラザラと風化し往時
の輝きはない。三度の火炎により地中深く埋まるさしもの巨石にも亀裂が走る。
講堂がもし再建されるとしても、この礎石はもう講堂の重みに耐えることは出来まい。
広大な空地のこの場所には講堂を中心に、僧坊や食堂の建物がところ狭しと立ち並ん
でいたと記録にある。現代でいえば大学のキャンパスのようなところであった。

s-PA316082講堂跡.jpg

ところで講堂跡に建つ記念の石碑の文字だが、いつ見ても何か落ち着けない気分にさ
せられる。
「東大寺」の書体は楷書。「講堂跡」は俵体というのだろうか、蒲鉾や饅頭の焼印に
使われているような書体に見える。二つの文字のバランスもどうも良くない。
揮毫者が異なるのだろうか。石を彫る職人が別々なのだろうか。

s-PA316111東大寺講堂跡石標.jpg s-PA316102東大寺講堂跡石標.jpg

しかし、この石の、人の臀部を思わせるようなフォルムはなかなか宜しいと思う。
字は今いちとしても、この石には何か心惹かれるものがある。


参考WEB
東大寺伽藍配置図
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bdca752858af0b444e8d865235846b50
日本語書体一覧
http://www.signz.jp/font.html
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2010年10月28日

東大寺香炉鬼

東大寺には大仏殿と二月堂にある大香炉は、仏具業界では「邪鬼足外香炉(鬼足香炉)」と呼ばれる
形のもので、大鉢を三体の鬼が支えている。この鬼足香炉は寺ではよく見られるもののようだが、
何故「鬼」が香炉を支えているのであろう。

 s-P5278504大仏殿.jpg

「鬼」といえば、日本の妖怪、民謡や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する
存在で、そこから鬼という言葉には「強い」「悪い」「怖い」という意味がある。初代横綱若乃花
は土俵の鬼といわれたが、力士としての強さと指導者(親方)としての怖さを兼ねて「鬼」と形容さ
れたのであろう。

他方、鬼には仏教を守護する神のひとつとしての面がある。高名な僧が寺を開く際、その徳を感じた
鬼に案内を受けたという開創伝説は多い。日本の寺では鬼瓦や塔の四隅を守る天邪鬼など、護法神と
しての鬼が数多く活躍している。

 s-P5278512大仏殿中門.jpg
 

天邪鬼(あまのじゃく)とは天の邪魔する鬼であり、本来は仏教とは関係のない日本古代の悪い精霊で
あり、古事記にも出てくる「あまのさぐめ」とされている。
中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習
合され、足下の鬼類をも指して言うようになったといわれている。

s-P1067590二月堂.jpg

東大寺の香炉を支えている鬼は「邪鬼」と呼ばれている。
寺で見かける邪鬼は、四天王から懲らしめられている小悪魔たちのように見えるが、本当は四天王た
ちの部下であり、お釈迦様の説法や仏法を邪魔するためにやってくる悪魔たちを追い払うために四天
王から「やっつけてこい」と指示を待つ夜叉神(善神)であり、つまり護法神ということになる。

大香炉を支える鬼、一見苦役に甘んじているように見えるが、実は力自慢で、自分からすすんで大香
炉を背中に乗せている(と考えられているが都合のよい理屈だろう)。

香炉鬼(こおろぎ)は私的な造語であるが、なかなか響きがよいので勝手にそう呼ばせてもらっている。

参照WEB URL
Wikipedia 鬼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC
Wikipedia 天邪鬼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC
天邪鬼の謂われ
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/6175/amaiware.html
「鬼」とはなにか (言葉の散歩道)
http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/6084/oni.htm
四天王
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/sitennouzou.htm
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2010年09月21日

東大寺大仏殿「鴟尾(しび)六景」

東大寺大仏殿の大屋根を飾る鴟尾は、江戸期の復興(1709年)時に鳥衾(とりぶすま)瓦を
金色の鴟尾に変えた(らしい)。再建するための過去の資料が無いので、唐招提寺金堂の
鴟尾の形を真似て造ったとも言われている。

 s-P9203636大仏殿鴟尾.jpg

造営当時(758年)の大仏殿と現存する三代目大仏殿の外観は横幅が3分の2に縮小され同じ形
ではないが、印象として最も異なるのは金色の鴟尾であろう。
もし創建時のままの鳥衾瓦(鬼瓦)だったら、他の大寺と変らない地味な「寺」の巨大な本堂
という印象に留まる。

 s-P4023321桜と鴟尾.jpg 

金色の鴟尾といえば、奈良薬師寺大講堂の再建(2003年)にあわせて、重さ650kgの金張り
の鴟尾を屋根上に載せた。薬師寺の発掘調査で鴟尾は出土しておらず、創建当初の屋根に
鴟尾があったかどうかは分からない。しかし、「奈良時代の第一級の寺院には鴟尾があり、
薬師寺にも鴟尾があったはず」との見解から決定した。

 s-P1070970丹と鴟尾.jpg  s-奈良 030東大寺灯火会.jpg

そもそも「鴟尾」が屋根の最上部に設置されるのは火除けのまじないとして用いられたも
のである。 魚が水面から飛び上がり尾を水面上に出した姿を具象化したもので、屋根の
上面が水面を表し、 水面下にあるもの(建物)は燃えないとの言い伝えから火除けとして
用いられたと考えられている。だから、鴟尾が金色である必要は無いのである。

薬師寺はともかくとして、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾は、かつて黄金の輝きを放っていた
盧舎那大仏をイメージさせるために今や別個に考えるられないパートナーであるといって
もよいだろう。唐招提寺のごとく瓦色の鴟尾など想像できない。

 s-P5278637大仏殿五月晴.jpg s-P1100141枝垂桜と鴟尾.jpg

 「鴟尾」を詠った好きな俳句

 ・金色の鴟尾の眩しき五月晴  中野千江
 ・大寺の鴟尾きらりと鰯雲   案山子
 ・月幾夜照らせし鴟尾に今日の月  水原秋櫻子
 ・かげろふのむかふは鴟尾の照らす国  豊田都峰
 ・一山の鴟尾の金色天高し  佐藤信 

◎参考URL
Wikipedia鴟尾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%9F%E5%B0%BE
鳥衾考
http://www4.ocn.ne.jp/~kisaragi/fusuma/fusuma.htm
シャチホコの謎
http://www.d1.dion.ne.jp/~mthouse/page108.htm
薬師寺の鴟尾
http://www.hohen-online.com/temple/news/news/news030319.html
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2010年06月27日

東大寺梅雨の午後戒壇院千手堂

東大寺戒壇院にある千手(せんじゅ)堂は、いつ見ても扉が閉まっていて得体が知れない。
この建物、周りの景色にしっかり溶け込みそれなりに落ち着きある佇まいを感じさせるが、 (以前の
ものが1998年に火災で消失した後)2002年に復元再建されごくごく新しいものだ。
千手堂そのものの歴史は東大寺の創建以前に及び、八世紀半ばにはすでに存在していた。僧侶・
玄ム(げんほう)の発願によるといわれる。

 s-P6260287千手堂雨線.jpg 
 戒壇院千手堂

千手堂の名称は千手観音菩薩が安置されていることに由来する、仏堂である。
建物内部も菩薩像も再建時に公開されたが、その後の公開予定はない。開かずの仏堂である。
戒壇院の中を北から南へ通り抜ける間道があるので院内の建物を見ることが出来るが、本来ならば
千手堂そのものも一般の人は目にするこのできないものなのだろう。

 s-P6260262千手堂高野槙石灯籠.jpg
 千手堂前の高野槙と石灯籠
 
千手堂の右(北)に隣接する庫裡、脇玄関の梁に
「奉修不動明王護摩供廿一ヶ座院内安全如意満足祈攸也」
と書かれた十数枚の札木が掲げられている。火災除けの護符と思うが、一見近寄りがたい雰囲気を
醸している。
千手堂は、お水取りの時期は「別火坊」と呼ばれ、二月堂での本業の準備と声明の練習のための合宿
所となる。「この時の千手堂(戒壇院)は、普段の雰囲気とは全くちがっていて、何か緊張感というか
活気が感じられる(入江泰吉)」という。

 s-P6260230千手堂玄関.jpg s-P6260241千手堂花.jpg 
 千手堂庫裡玄関                   龍舌蘭、厚葉君が代蘭またユッカとも言う

梅雨の時期というのに東大寺は相変わらず大変な雑踏である。今年は特に平城京遷都1300年祭の
影響で賑わっているということだが、中でも修学旅行の生徒や外国からの観光客が目立つ。
鹿と大仏の偉力にほんとうに驚かされる。
梅雨の昼下がり、大仏殿の参道に色とりどりの傘の花が開き、日ごろの色味に乏しい道もなにか
コミカルな景色に様変わりしていた。
雨の日の撮影はちょっと気の重いものだが、目先も変りワクワクさせられるというか、結構新鮮な
ものである。新しいモチーフの発見もあり、悪くない。

 s-P6260331梅雨戒壇院.jpg s-P6260414大仏殿参道開傘花.jpg 
 戒壇院戒壇堂山門                   大仏殿参道傘の花

 
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2010年06月21日

東大寺二月堂の紅一点ザクロ花

東大寺二月堂の登廊下、参籠所前の石垣のザクロが目を惹く。花の朱赤が緑一色の初夏景色
の中にあって鮮やかに光る。
「紅一点」という言葉の由来は、中国の王安井氏が作った詞「万緑叢中紅一点」ある言葉で、
「草葉の緑の中に赤いザクロが一際鮮やか」ということを指していた。

 s-P6209815二月堂ザクロ.jpg

ザクロが日本に入ってきたのは平安時代で、主に花木として重用された。花はもちろん果実も熟
して割れるその美しさが鑑賞されてきた。
私が初めて見たザクロの絵は武者小路実篤の色紙絵であった。美術としてのザクロを見たのは
高校生の時だったがそれ以来、ザクロの赤い実を見るとその絵を思いだす。
しかし、タコウインナーのような形をした赤い花がザクロの花であることを知ったのはずっと後で、
多分50歳を過ぎていたと思う。

 
 s-P6209845二月道常夜灯.jpg s-P6209808二月堂湯屋ざくろ.jpg

二月堂で写真を撮っていると、参拝帰りの人々の多くが「これなんの花だろう」と口にする。実の
ザクロは知っていても、花の姿を知らない人は意外に多いのだ。
子供の頃は庭に植えられたザクロをよく目にしたものだが、近頃はあまり見かけなくなった。
庭木にも流行というものがあるのだろう。
 
仏教界では右手に吉祥花(ザクロ)を持ち懐に幼児を抱く「鬼子母神」の説話を通してザクロを知る
ことができる。
500人の子の母でありながら、常に人の子を捕えて食べてしまう鬼神「可梨帝母」に対して、釈迦は
彼女が最も愛していた末子を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。その際、
柘榴(ざくろ)の実を与え人肉を食べないように約束させた。以後、仏法の護法善神となり、子供と
安産の守り神、鬼子母神となったという。

 s-P6209848紅一点.jpg s-P6260361二月堂鬼子母神.jpg
                           二月堂鬼子母神

古代エジプト、ローマなどではザクロは神聖な植物とみなされ、初期のキリスト教美術ではエデン
の園の生命の木として描かれている。ザクロの実に種が多いことからそのような位置づけになった
と想像される。

 s-P6209850ザクロ.jpg 

ザクロの花を見て気づいたのだが、花と果実を同時期に見られるということだ。それだけ花期が長
いことに加え、実の生育が速いということだが、このようなことは木花では珍しいことではないだ
ろうか。実が赤く熟すのは九月下旬から十月頃。俳句では秋の季語になる。

石榴の実の 一粒だにも 惜しみ食ふ  山口誓子

ザクロの実は酸っぱくて種ばかりで果肉はほとんどない。全て食べつくしても満腹感はない。
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2010年06月06日

「指図堂」は東大寺復興の現場事務所だった

東大寺指図(さしず)堂の創建年および開祖はよくわからないようだ。建築様式から推測するに、
正面左右に開かれた花頭窓は禅宗様といわれる、平安時代後期から鎌倉時代にかけて宋から
伝えられた様式であることから、この建物がその時代、12世紀終わり頃の建物と考えても良い
だろう。

 指図堂石段.jpg

 
東大寺は平安時代末1180年12月28日(治承4年)兵火の為に、大仏殿をはじめ伽藍の大半を
焼失した。今の指図堂のあるあたりは大仏殿を含めて一番被害の甚だしい場所であったはずだ。

焼け野原となったその場所に、復興のための基地となる建物が徐々に建てられてた。その一つに、
その後指図堂となる建物があったと考えても良い。重源が勧進職についた1181年と大きく離れては
いないはずだ。

 指図堂窓.jpg

指図堂の名前の由来は、東大寺再建の時に用いられた建築設計図などを収めたことからつけら
れた名称というのが一般的であるが、東大寺鎌倉再建時の勧進役であった重源がこの堂に泊り込
んで、建設工事の指図をしたことから指図堂と呼ばれるようになったという人もいる。
現在の指図堂は、江戸時代の1791年に台風で倒壊した後、1852年に再建されたものである。

 勧進所角窪石仏.jpg

この指図堂は大仏殿の西、勧進所(龍松院)との間にあるが、なにか影が薄い。このあたりにある
堂宇としては珍しく周りに塀がなく、門構えもない。ちょっと物足りないような違和感がある。

しかし南と東の道から建物に直ぐに入ることが出来る簡便さは、大仏殿再建工事の現場事務所と
して使われていたと考えれば納得できる。大仏殿寺再建のあとも南大門をはじめ境内の堂宇の復
興工事は続けられる。指図堂はその後も東大寺再興の総合建設事務所として機能していたのだろう。

 朝勧進所赤門.jpg

この寺の名前は、写真家故入江泰吉氏の写真集「奈良大和路春夏秋冬」の中で「東大寺指図堂春日」
として収められているので前から知っていた。
撮影日は’79年4月8日。雨上がりの濡れた芝生と石段。椿と桜が前後に重なるように写しこまれ、
九段ある石の階段には赤い落ち椿が散らばっている。
本堂は写っていない。灯篭と手水場の屋根瓦が木陰に隠れているという構図である。この春、指図
堂にこの椿を探したが、なかった。30年も前の写真である。無理もない。しかし、一本の木のこ
とではあるが、せっかく早春の指図堂を奥床しくも華やかに飾っていたのに残念である。

 朝陽指図堂.jpg


□二月堂のザクロ
柘榴(ざくろ)の花は写真にするのが意外に難しい(と思う)。朱に近い赤色は良く目立つが、ひとつ
ひとつの花は小さくて、開いても咲いたと言うよりは「裂けた」と言ってやりたくなるような、かわ
いげのない花なのだ。しかし、肉厚なプラスチックのような質感や単純な形に不思議な魅力も感じ
る。タコウインナーと表した俳人がいたが、そうそう滑稽なコミカルな花なのだ。

 二月堂湯屋ザクロ.jpg

それよりも二月堂のザクロは、土地が痩せているからだろう、一つ一つの花が小さいし、木も小ぶ
りで痩せている。一度土を起こして、堆肥をすきこんでやれば見違えるように花が咲くのだが・・・
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2010年05月29日

東大寺南大門再興

東大寺南大門は、歴史的建造物としてもっと注目を集めてもよさそうなものだが、大仏殿への通り
道にあるデカイ門くらいの評価しか得ていないようだ。世界遺産東大寺は、鹿や大仏さんの人気が
高く、「門」の認識が低くても大した問題ではないのかも知れない。

 東大寺南大門早朝.jpg

和辻哲郎が著書「古寺巡礼」の中に興味深い指摘を残している。
『まず南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のように狭隘なところに立って
いては、その大きさはほとんど殺されていると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門
を望んだ人は、ある距離を置いて見た時に初めて現れてくる異様な生気に気づいているだろう』

 望中門南大門.jpg 

異様な生気とはなんだろう。しかし言われるように遠くから南大門を見たいものだが、和辻哲郎が
東大寺を訪れた大正七年(1918)年とは違い、現在では伽藍周りは背高な樹木に覆い隠され、大仏殿
も南大門もかろうじて屋根が見えるばかりで、思うようには望めない。ただ、バス通りから参道に
入った土産物屋あたりで見る南大門の雄姿は壮観である。もっともこのポイントあたりは行き来す
る観光客でいつも大変な混雑で、遠くを眺めていると人と衝突しそうで、危なくてしょうがない。
また愛想の良い鹿のお出迎えに気をとられて、直前まで南大門があることに気付かないこともある。

 南大門円柱.jpg

このポイントを見つけたのは、『大華厳寺』の扁額に初めて気づいた時だった。松の枝葉に見え隠
れする南大門の二階部分に掲げられたこの額は、横4.5メートル、縦1.5メートルの総檜製の大きさ
のもので、旧家に上げられた真新しい表札のように目立っている。
この扁額は2006年10月13日「重源上人八百年御遠忌法要」にあわせて復元除幕された、ものであり
まだ年数もたっていないからだろう。
かつては弘法大師空海の筆による額が掲げられていたそうだが、わけあっていつの間にか下ろされ
たという。現在の扁額に書かれている「大華厳寺」の文字は聖武天皇の写経から集字したものである。

 南大門大仏様式.jpg
 

現在の南大門は鎌倉時代の正治元年(1199)に俊乗坊重源が復興したもので、その姿に鎌倉様式の大
仏殿を偲ぶことができるという。基壇上木造部分の高さだけで25.46mある。幅29m(五間三戸)あ
り、高さにおいてわが国最大の山門である。屋根裏まで達する大円柱18本は高さ21mあり、山口県
で伐採された木材は約一年かけて搬送された。

 南大門木組.jpg 

改めて南大門を見える限り観察して見たが、創建から800年以上経ている建物とはとても思えない。
鎌倉時代の風潮を汲んだ堅牢な力強さを感じさせる。質実剛健という印象である。

最初の東大寺南大門は平安時代962年(応和2年)8月台風で倒壊した。
現在の南大門は、東大寺再興の勧進職に選ばれた重源が、1180年に消失した大仏および大仏殿を含
めて再建復興させたものである。重源が勧進職に選ばれたのは61才の時(1181年)で、南大門の竣工
を見た時は84才(1203年)になっていた。現代流に言えば老後の23年間をボランティアで東大寺再
興に費やしたことになる。

 南大門重源風通.jpg
 

驚くべき粘り、驚くべき実行力である。役目を成し遂げたその僅か三年後に87才の生涯を閉じる。
南大門は重源が自らの人生を賭した、日本への遺産と言っても良いだろう。国家の権力ではなく、
個人の信念と知恵が創りあげた偉大な価値である。東大寺南大門を見るとき私たちは一人の重源を
知るべきと思う。

この日東大寺では、東塔の再建を願う新別当の「晋山式」がとりおこなわれていた。
南大門から大仏殿への参道を風に乗って吹き抜ける重源の魂を見た、そんな感じがした。
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2010年05月22日

東大寺大湯屋季節はずれの雪景色

東大寺大湯屋のすぐ南にある小さな丸い池のあたりが季節はずれの雪景色を見せている。
実は、淡雪のように降りしきるのはタチヤナギの種子を包んだ白い綿毛。
二株のタチヤナギから淡々と降り続く雪のような綿毛で、池の面は白いシーで覆ったみたいだ。
ほとりの地面もすっかりこの綿毛に覆われ、まるで淡雪が積もっているようだ。

 大湯屋降淡雪.jpg 降り続く綿毛.jpg 



マクロレンズを通して覗いて見ると、綿毛のような微細な短い糸であることがわかる。
その中に1o程の種子が黒ゴマを散らしたように点々と見える。
タチヤナギは子孫となる小さな種子を綿毛に包み、風に乗せて遠くへ遠くへと飛ばしているのだ。

 覆綿毛淡雪.jpg ムラサキサギゴケを包む綿毛.jpg 


風が吹くと、綿毛は大空に向って次々と飛び出して行く。地面に落ちた綿毛も僅かな風に煽られ
て上へ上へと舞い上がる。この日、広い東大寺の境内のどこででも、風に舞うタチヤナギの綿毛
を見た。

 綿毛風に乗る.jpg 


タチヤナギは日本在来種で、日本全土の丘陵地帯から山地帯の湿原や川原に分布する。
東大寺大湯屋前のこのタチヤナギも、どこかからか風に運ばれて来た綿毛が運よく舞い落ちたと
ころがこの池のはたで、陽もよくあたるここですくすくと育ったのであろう。

 タチヤナギ雄花綿毛.jpg


10〜15mに育つタチヤナギは、頭上はるか上の枝先に花がつくのでなかなか目に付かない。
しかし初夏のいっ時、地面を真っ白に覆う綿毛が、その存在を教えてくれる。
今日一ヶ月ぶりに東大寺に来たのは、鐘楼脇にある開基堂を見に来てのことだった。こういう偶然
になにか「縁」というものを感ぜざずにいられない。
posted by ハマー at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

東大寺の「月は東に日は西に」

『菜の花や月は東に日は西に』言わずと知れた与謝蕪村の名句。

満月のときは、日の入りと月の出の時間がほぼ同じになる。
菜の花が見事綺麗に咲くのは春のこと。蕪村がこの句を詠んだ時季は丁度今頃だろうか。
南面した見渡しの良い地平線もしくは水平線が見通せるようなかなり開けた場所で詠んだと推測
できる。


 道端に咲く菜の花.jpg


4月28日、奈良市の暦。
日の入り18時34分、月の出18時36分、月齢13.6
この日は、旧暦の三月十五日にあたり、当夜は十五夜に近い満月が上る。

18時34分、日の入りを東大寺二月堂裏参道で見届けた。ほぼ新聞で見た時刻と同じ。
しかし、月の出は、大幅に遅れ19時58分。予定した時刻から遅れること1時間22分。
どういうこと?


 二月堂参道松林夕日.jpg
 

自分は四月堂のすぐ前に三脚を立て、目の前の三月堂と上がってきた満月を撮ろうとスタンバイ。
19時58分。やっと上ってくる月の光を南東方向の空に捉えることができた。
国際天文台の「暦計算室」を利用して計算してみたら、
この時刻の月の高度は13.5°、方位は124.9°となった。

なるほど、写真を見てもその計算の正しいことがよくわかる。
しかも月は、東の方角からはあがらなかった。およそ南東の方角だった。 
「月は南東 日は西に」が正確な表現ということになる。


 東大寺三月堂朧月夜C.jpg


※ 国立天文台 暦計算室 
http://www.nao.ac.jp/koyomi/koyomix/koyomix.html


東大寺は若草山の麓にあり、しかも二月堂の背後は山頂まで特に急峻になっている。
月が若草山から顔を出す時刻は、平地と比較してかなり遅くなることは想定内のこと。
しかし周囲を500〜1000m級の山に囲まれた奈良市は、日の出、日の入りいずれも平地とは異なり、
かなりの時間差がある。しかも山裾にいると月の出は予想よりなお更に遅くなるわけだ。


若草山から奈良盆地.jpg
 09.05.02撮影 若草山の中腹(二重目)から奈良市街地を見下ろす。
  遠くに見えるのは生駒山



自分の住む名古屋市南部は海(伊勢湾、名古屋港)に近い平地なので、日の出、月の出ともに
新聞の暦どおり、ほぼ同じ時刻なのだ。ちょっと思慮不足だったか。
 

蕪村のあの名句を詠んだ日は、3月30日か今月4月28日と計算できる。
この句は蕪村が神戸六甲山脈の摩耶山を訪れたときのものといわれている。六甲山脈は海が近く、
見通し良好。また当時は、摩耶山麓には油を絞るための菜の花が見渡す限り咲いていたという
ことまでわかっている。

※菜の花と蕪村
http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/buson/NanohanaBuson3.html


 開山堂牡丹櫻夕日.jpg

□牡丹桜
「牡丹桜」は八重桜の別の呼び方で、花の形からそう呼ばれている。
山桜に対して人里に咲く桜ということで「里桜」とも言う。
丁度二月堂におまいりに来ていた土地の老婆が、開山堂の土塀からせり出した八重桜の花を見て、
『あれは牡丹桜だね』って言ってた。美しい呼び方だなぁ。八重というより上品そうに聞こえる。
実際に、西日を透して見る八重の花は、一重の山桜やソメイヨシノとは違う趣きを感じさせる。



※ 奈良八重桜
http://urano.org/kankou/topics/yae/index.html


 東大寺鏡池朧月夜.jpg


□東大寺 鏡池夜景
東大寺境内は日が暮れると巨大な闇と化す。所々に街路灯はあるものの、手向山八幡宮から
南大門あたりまでの一帯は、初めて訪れた人ならばあまりに濃い闇の深さに、歩を進めることを
躊躇するだろう。
大仏殿前の鏡池に、朧月がひとつ水面の闇に鈍く光っていた。
撮影をしている間、人一人通らない。池の鯉が身を翻すときに出す水音がすぐ近くで聞こえる。

なーにか嫌な感じがして来て、早々と三脚をたたんで、まさに逃げるように退散して来た。
鹿にね、後ろから頭突きされたら池にドボンだな、自分もカメラもお釈迦になってしまう。
いくらお寺でも洒落にならないではないか。あー怖かった。

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2010年04月07日

東大寺東塔跡「桜窪」

東大寺東塔跡 窪地の花桜木


東大寺東塔跡は、大仏殿中門より右の方に手向山八幡宮の参道を200mほど東に行った中程、
道から少し下ったところ、すぐ北側の高台にある鐘楼と白蛇川の間の窪地に塔の基壇が残る。


 綿雲流れる桜模様.jpg


この時季、山桜がこの窪地一面を雲海のように覆う。朝陽受けた桜花の塊は冬の玉雪の輝き。
四囲を常緑樹に包まれた森の真ん中にある東塔跡の桜を見に訪れる人の数は少ない。
奈良公園と二月堂は押し寄せる花見客で賑わうが、ここは秘境の静けさに覆われている。
ただ鋭い鳥の鳴き声がかしましく響く。


 東塔跡桜窪.jpg


奈良と桜の歴史について詳しくは知らないが、1300年前の平城京造営の時に柳や桜の木を街路樹
として植栽することを奨励した記録が残されている。
また江戸時代明暦と寛政の頃の「奈良の千本桜」「花の中道」などの記録もあるが、いずれも
興福寺を中心としたお話。
東大寺の桜については、幕末寛政年間の奈良奉行川路聖謨が、奈良が桜の名所として復活する
ことを願って、興福寺、「東大寺の境内」、佐保山、高円山のほとりまで、千株の桜を植えたと
いう話の中、東大寺の名前は登場した。


 桜と金の鴟尾.jpg 二月堂と桜.jpg
 


東塔跡窪地の桜はすでに十分古木の雰囲気を感じさせるが、名奉行川路聖謨が植栽した当時の木
はもう残っていないだろう。
多分戦後の一時期盛んだった植樹運動の頃の木で、それでも樹齢60年以上になる。


 荘厳山桜の老木.jpg 



東塔跡の窪地は降雨の後に小さな池を造る。普段でも周囲の高台から流れ込む水でぬかるんで
いるこの場所は、桜や杉のように水を好む樹木にとってふさわしい環境といえる。
また人の訪れることが稀で、根周りを踏み固め傷められることも無い。
秋の落ち葉が取り除かれることも無く堆積し腐葉土に覆われた肥えた土になっていること等、
この窪地の桜が樹齢を更に重ね、100年を超える大木に育つ条件が揃っている。


 東塔跡幻池と神鹿.jpg



最も、残念なことにその経過を見届けることは遠来の自分には難しい事だし、それよりも、自分
の命は木と競いあうには残り少なすぎる。


 照明灯に浮かぶ桜.jpg



興福寺猿沢池に下りる階段下に残る川路聖謨が記した「植桜楓之碑」から一部分抜粋

『是に於て靡然として風を仰ぎて、之を倣らう者相継ぎ、遂に蔚然として林を成す矣。
花時玉雪の艶、霜後酣紅の美、みな以て、遊人を娯しませて心目をよろこばすに足る。
況んや今此の挙あるや、唯に都人の楽しみを得るのみならずして、四方の来遊者も
また相ともに其の楽しみを享(う)く。 然れども歳月の久しき、桜や楓の枯槁の憂い
無きあたわず。後人の若し能く之を補わば、即ち今日遊観の楽しき、以て百世を閲み
して替えざるべし。此れ又、余の後人に望む所なり。』

川路聖謨の賢者ぶり、100年先の時を見据えた深遠な思想をうかがい知ることが出来る。

※『』内、「奈良の昔ばなし」からコピー抜粋させていただきました。

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2010年03月17日

東大寺の緋寒桜が美しい

東大寺境内にある子安神社の脇に緋寒桜が独り鮮やかに咲いていた。強い風に煽られて視界を遮る
ワイパーのように枝を振らしている。先発の梅花をリリーフしたこの桜、染井吉野が登板するま
での間、道行く人の目を楽しませてくれる。


 緋寒桜震える.jpg


今日は午後から寒気が流れ込み、抜けるような青空に少しずつ「もや」が広がり始めた。こんな夕
暮れには綺麗な日没の景色が見られるはずだ。


 かすむ興福寺五重塔と北円堂.jpg
 かすむ興福寺五重塔と南円堂


6時少し前に、夕日は期待通りに生駒山の向こうにゆっくりと沈んで行った。いったいこれまでに
何度、日の入りを見ただろう。いつ見ても、なにかモノ寂しいものだ。
もっとも若い頃は、日が沈むにつれ、赤提灯が恋しくて変に気力が湧いてきたものだったけどね。


 生駒山に沈む夕日.jpg
 二月堂から大仏殿、生駒山を望む 


二月堂で沈む夕日を見た後、手向山八幡宮を下りていったら、大鳥居の中に大仏殿の中門がキレイ
に収まった景色があった。歩道の石畳には恋人たちのシルエットが。やっぱりサビシーイ。


 大仏殿前の石畳.jpg
 

今日3月16日は我が妻の誕生日だ。こんな時間まで君をほったらかして、朝から一人で写真に入
れ込んでいて「ゴメン、ゴメン」。真直ぐに帰るから。
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2010年03月13日

東大寺二月堂 お水取りの朝

二月堂登廊下 3月12日午前9時

 ちょろ松明.jpg 
  「ちょろ松明」は練行衆が上堂するときに童子が先導するのに使われる


この朝二月堂境内はなにか異様な雰囲気に包まれていた。大きなTVカメラを持った複数の報道関係
者が目に付く。会場の施設を補強したり、新たに柵を設置したりする工事関係者。参籠所と食堂の
間を、水桶を手に行き来する、また篭松明を準備する童子と呼ばれる男たち、白い着物を着た練行
衆、紫色や芥子色の袈裟の僧侶、一般参拝者などで溢れ返っている。皆黙々と、声を上げることも
無く、仕事をこなしている。いつもならこの時間の二月堂は、一日で一番人の少ない静かな時間な
のに。


 篭松明.jpg
 食堂の軒下に飾られた篭松明


昨晩、修二会の上堂松明を観た後、食堂の外壁に飾られた「篭松明」を見たのだが、お松明が終わった
混雑の中では、写真を撮ることも出来なかった。翌日の今日の朝、改めて参拝したのだが。


 食堂前篭松明.jpg  篭松明A.jpg
  「篭松明」はお水取りの日だけに使われる別あつらえの大松明
 竹は全長約8m直径10p重さ8sある 


今日はお水取りが行われる、修二会のスケジュールの内でクライマックスの日。なんと三万人近い
見物人が押しかけるという、特別な日なのだ。関係者の気持ちもヒートアップしているに違いない。


一種物々しい雰囲気の中、目当ての「篭松明」の写真を撮る。三脚は使えない。もともと二月堂境内
は三脚使用禁止だが、いつもは使っていても何も言われることは無い。つい、いつものように三脚を
立てて撮り始めたら、若手の童子から、即刻に注意された。いまいましそうに怒った顔をしていた。


 大松明が舞台を走る.jpg  火の粉落とす.jpg
 3月11日修二会大松明が走る、回る 


お水取りで知られる修二会は、東大寺の行事の中でも最もパワー溢れる大掛かりなイベントのようだ。
二月堂、三月堂、四月堂界隈は静かな興奮というべく、異様な雰囲気に包まれていた。


《お水とりの詳細を知るHP》
※なら発見 ガイドと生活
http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/gyouji-moyoosi/omizutori.htm
※大和路写真帳 「お水取り」
http://www.lint.ne.jp/nomoto/PHOTOSALON/omizutori2007.html
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2009年11月25日

東大寺大湯屋の公孫樹雄姿

東大寺大湯屋の公孫樹が、黄金色の見事な立ち姿を見せてくれている。公孫樹は、雄と雌で株が
異なるが、樹の姿にも明らかな違いがある。雄株はスクッと佇立したようなスマートな形。雌株
は、枝を横に大きく拡げた豊満な姿。二月堂の舞台からその雄姿を確認することができる。


 二月堂大湯屋公孫樹.jpg



大湯屋の公孫樹は雄株。まるで「枝垂れイチョウ」と呼びたくなるように、枝が垂れ下がってい
る。実際は上を向いているのだが・・・。


湧き上がる黄金色の積乱雲のような公孫樹の巨樹を背景に、大湯屋の長く突き出した「ひさし」
の鬼瓦が面白い。鬼瓦は「厄除」の役割を持った装飾瓦だが、必ずしも鬼の顔をしている訳では
ない。鳩や鵜などの鳥。蓮の花型や抽象的な模様なども見たことがある。


 大湯屋公孫樹.jpg 大湯屋銀杏落葉.jpg
 


Wikipediaで見たのだが、狂言の演目のひとつに、「鬼瓦」をモチーフにしたものがある。
「ある大名が、仕事で滞留していた京都の寺で鬼瓦を見て、故郷に残した妻を(懐かしさのあま
り)思い出して泣いてしまった」というお話。

※「鬼瓦」 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%93%A6
狂言っていうのは面白いね。是非この機会に見たいな。


 ススキの原大仏殿.jpg 大仏殿と残柿.jpg



今日(11/24)、奈良市は、前日の小春日和から一転、冷たい空気が流れ込み、朝から霧に覆われ
ていた。昼前には霧は消えたものの、うす曇の肌寒い一日だった。
撮影ポイントは、東大寺の裏山(若草山)の棚田跡。前回訪れた時に撮った、野仏と大仏殿がいま
ひとつだったので、撮り直し。「春日和になる」という天気予報ははずれたが、曇天ならではの
「写真日和」と思い直して、現場に向かった。



 棚田跡野仏.jpg


s-PB144458補整(2).jpg 


これまで何度も撮っている正倉院前の野仏たち、今日は赤い紅葉模様が季節感溢れる景色を見せ
てくれている。これはフロック。拾い物でだった。


 紅葉落葉野仏.jpg


東大寺は1300年の歴史を持つのに、広い境内で、野仏というか無縁仏を見ることはほとんどない。
大仏殿の西、勧進所の北東角、戒壇院に向かう道、大湯屋の入り口と、正倉院近くで見ることが
出来る。東大寺は「寺」というよりも、当時は皇室、貴族(藤原家)の聖域であり、国有寺院でも
あった。だから、むしろ、無縁仏の存在することのほうが不思議なのだ。境内に残された無縁
仏の墓石は、一体、どのようなストーリーを持っているのだろうか。


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2009年11月17日

東大寺の公孫樹黄葉三景

「公孫樹」とは銀杏(いちょう)の漢名。「公」は祖父の尊称で、祖父が種子をまいてから、実が
なるのは孫の代になることから、公孫樹と名づけられたという。中国の原産で、日本へは留学僧
が持ち帰って広まったらしい。とすると、飛鳥、奈良時代に、大和の地にもたらされたもの、と
言えないこともない、かな。

 正倉院前公孫樹落葉.jpg 三面僧房跡の公孫樹.jpg
 正倉院前の公孫樹                  僧坊跡の鹿の群れ 


銀杏の葉は、立冬を過ぎた頃、一気に、緑から黄色に変わる。木枯らしの吹いた翌朝、根元には
舞い落ちた葉が創った、黄金色のサークルができる。肉厚な葉なので、風にあおられてもそれほ
ど遠くまでは飛ばされることが無く、根元に厚く積み重なって行く。



正倉院の道.jpg
 正倉院の道


東大寺の楓は、イチョウの黄葉がすっかり散り落ちる頃、紅葉の盛りを迎えるという。


<追記>
東大寺大仏殿の北側「講堂跡」を囲む東・西・北の空き地が僧房の跡であったことは知っていた。
そこを指して「三面僧房」と言うようである。たまたま読んでいる上司海雲氏の共著「奈良 わ
がふるさとの・・」の一節、「知られざる東大寺・礎石」にそのように表現されている。



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2009年10月30日

東大寺棚田跡もえる秋景色

東大寺大仏殿の北東、若草山の斜面に奥行き200m、標高差50mのロート状の棚田があった。
真ん中を、大仏池に向かって走る一筋の小川を持つ美しい棚田だったと思う。Yahoo地図の航空
写真を見ると、その全貌を見ることができる。棚田が消えたのはこの10年くらいの間のことでは
ないだろうか。

 s-東大寺裏地図(二).jpg


この棚田は今、人手を離れたことにより、わずかな年月の間に自然そのものだけが創りえる景色
を見せている。ススキの銀色の穂波と、ナンキンハゼの朱色や黄色のグラデーションが描きだす
秋の色模様。まるで油絵を見るようだ。

 
 秋色東大寺棚田跡.jpg


正倉院のすぐ北に入り口になっている、奈良奥山ドライブウエイを上がって一つ目のヘアピンカ
ーブが東大寺を俯瞰する絶好の撮影ポイント。ここからは、大仏殿、南大門、興福寺五重塔、南
円堂を一望することができる。実は、ここから眼下に広がる景色が、東大寺の棚田跡。かつては
ここまで稲田が駆け上がっていたのだ。


 奈良奥山から大仏殿遠望.jpg s-棚田跡から見た大仏殿.jpg

 

何故棚田は消えてしまったのだろう。考えうる一番の理由は、耕作する人(農民)がいなくなった。
あるいは、水が枯れてしまったのか。日本の棚田が少しずつ消えてゆくことはくい止められない
現実だが、全部消えてしまうとは・・・・ちよっと調べて見ようか。


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2009年10月25日

榊莫山 西国卅三所巡拝道 東大寺二月堂

東大寺二月堂「西国卅三所巡拝道」

東大寺二月堂の裏山斜面に、西国三十三ヶ所巡りを模した、ミニ巡拝道がある。二月堂の手水舎
右手に、榊莫山氏揮毫による記念碑が建っている。昭和51年6月に建立された。


 莫山巡拝堂.jpg


西国卅三所巡拝道」 莫山氏の字は、見る人たちのことを思い、わかりやすい、絵のような、
あるいは音符のように、見える。楽しくリズミカルに踊っている。

莫山氏の著書「大和仏心紀行」の「観音経―――青い風に流れるリズム」の中で、かつて莫山
氏が実際に三十三か所巡りをしたときの感想を記している。『とても長途の旅だった。いまにし
て思えば、若い頃しといてよかったな、と思う』『東大寺の観音山のミニ・三十三か所巡りは、
子供でも老人でもまわれるありがたい観音巡礼の路である』と続く。


 不動尊.jpg
 不動堂


改めてミニコースを歩いてみた。二月堂裏山のミニ霊場には、数えてみると、三十三体の石仏と、
番外八体の合計41体の石仏が安置されている。コースはなだらかな登りから、Uターンするよう
に下って、戻ってゆく。


 巡拝道入り口あたり.jpg 十二・十三番.jpg


莫山氏の記念碑から、階段をあがり、不動堂横から巡拝道に入る。巡拝道を巡って、終点の観音
堂に至る一周八百mくらいの道のり。歩いてみるだけならば二十分もかからない。しかし、一々
石仏の前で、観音経を上げるとなると、一体どれだけの時間がかかるものやら。
けっこう苦行だなぁ


 番外楊谷寺.jpg 二月堂・観音堂.jpg
                       観音堂

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2009年10月17日

榊莫山 大和仏心紀行 東大寺の松

書家、榊莫山氏の著書「大和仏心紀行」のページにある「東大寺の松林」の墨絵に誘われて、
朝、講堂跡へ行く。 山の辺の道で、松クイムシの被害で古墳にはえていた松の木が全滅した
ことを知ってから、「松」のことが気になっている。


 講堂石碑.jpg


本の中で、漠山氏は、『松林は、昔、講堂のあったところ。が、松林の風景は、変わる。虫に
やられ、台風にやられて、いまは昔の風景は遠のいた。』と書いている。


 桜もみじ講堂跡.jpg



講堂跡に、松の木は、無かった。昔にはあった松は、すべてなくなってしまったようだ。
だけど、礎石を囲むように植えられた桜の木が、見事に紅葉している。朝日を受けて、赤色、
黄色、橙色、黄緑色に輝いて見える。こういう色あいを「錦織りなす」というのか。樹間から
大仏殿の大屋根が覗く。松じゃないけど、これはこれでいいじゃないかと、申し訳なくもつい
納得してしまう。
大仏殿 桜もみじを ひきたてて


東大寺には、撮るものに迷った時に出かける。人の多い南大門側は避け、手貝町前でバスを
降り、北域から二月堂のある東側までをさまようよう。東大寺は行くたびに目に入るものや景
色が変わって、撮れない、ということが、無い。

 長池遠足の秋.jpg  中性院の柿.jpg 

今日は、遠足で来ている小学生や、高校生の集団に出会った。子供たちの喚声が大仏殿の向こ
う側から、人気の無い講堂跡にまで、流れて来る。二月堂の裏参道、中性院の柿の木を撮って
いる時、何組もの小学生のグループが嬌声をあげながら、全速力で走り過ぎて行く。

 裏参道を往く僧侶.jpg

今朝はなんと僧侶の一団に遭遇。日ごろ、寺に行っても、お坊さんに出会う機会は滅多に無い。
それなのに、今日は、なんと10人まとめて出会ってしまった。ピントと露出を合わせ、あわて
て、シャッターを押す。なんとか後姿を納めることができた。見慣れた裏参道が、まるで太秦
みたい見える。※奈良では、警察官に出会うことも無い・・。

二月堂の階段を上がったものの、舞台は遠足の子供たちに占領されている。 奈良の市街地を
一望できるここは、大仏殿に続く人気スポットだからね。あきらめて、裏山への階段を上がる。

 二月堂へ降りる階段.jpg 

石段の途中から見下ろす、二月堂の大屋根が好きで、これまでも何度も写真を撮った場所。今日
は目に留まった街路灯を入れた構図にする。観音堂も、今日はいい感じに収まる。同じポイント
でも、時間や天候の違いで印象が全く違う。

 東大寺観音堂.jpg
 
天気もよいし、これから、春日大社を抜けて、高畑の入江泰吉記念奈良写真美術館まで歩いてみ
ようと思う。

posted by ハマー at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月24日

東大寺・大湯屋の百日紅

東大寺二月堂裏参道にある大湯屋(おおゆや)は、境内に数ある建物の中にあって
今ひとつ日の目を見ない地味な存在だ。
寺院にあってはその他の施設という位置づけだからなのだろう。
参拝に向かう人々の多くは何気なく横目に大湯屋を見ながら通り過ぎる。


供米田の向こうに大湯屋が見える
s-大湯屋の形.jpg

 

鎌倉時代に建てられた切妻造りと入母屋造りという左右非対称なアンバランスな形に、
いつ見ても気を惹かれるものがある。


s-P8190168トリミング.jpg s-P8230316大湯屋と百日紅.jpg


夏の間、参道から鮮やかな薄赤紫の百日紅の花色を遠くに見つけた人たちが時々やって来る。
大湯屋の前の百日紅の下で記念写真を撮って、また参道へ戻って行く。
大湯屋には見向きもしない。

チェーンに囲まれたこの建物、中を覗き見ることも出来ないしあまりにも素っ気ない。
扉は一年中閉じられたまま、なにを語ることもなく黙したままだ。


s-P8190156.jpg 百日紅に朝陽射す.jpg



七月初旬から咲き始めた大湯屋横のこの百日紅、今が一番の見頃だ。



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2009年07月21日

東大寺の土塀四景

垣根や塀など仕切るものが無く、公園なのか寺域なのかわかりにくい東大寺だが、
意外に土塀の多いことに驚かされる。

東大寺に土塀が多い理由は、広い寺域の内に本坊はじめ数多くの堂塔・僧坊が点在して
いることにあるようだ。
特に「院」は、僧侶の居住する建物でもるので周りを土壁で取り囲んでいる。 
土塀は古くなり、朽ち始めてからはまた異なった味をかもしだす日本人の美意識に
合致する景色だが、東大寺の土そのもののような土塀は古都奈良に欠かすことの
できない点景といえそうだ。

東大寺境内では、新調されたものから、すでに土に帰ってしまったものまでまさに
1300年の歴史を十分に物語る土塀の数々を目にすることができる。
おなじ土塀も晴れの日、雨の日、曇りの日とそれぞれの異なる美しさを見せてくれる。

勧学院朝の土塀
観学院.jpg

早朝の参道を進み南大門を過ぎると、左手に並ぶ建物の一つ勧学院の土塀を
スクリーンに樹木のシルエットがくっきりと映し出される。曇り空の多い梅雨の
時期にはなにかうれしくなる光景だ。


二月堂裏参道土塀

二月堂裏参道.jpg

二月堂裏参道はこれまで幾度と無く行き来し来たが、今回はじめて壁の花模様に
気がついた。特定の時間に限って光の具合で浮かび上がる、なんとも奥ゆかしい
浮き彫りのような職人技であり、また家主の深い美意識を感じさせる。このような土塀
他の地域にもあるものなのだろうか。


龍蔵院の波打つ土壁

龍蔵院.jpg

二月堂からの帰路、裏参道大湯屋前の供米田を過ぎ小さな十字路を右手に折れると
龍蔵院がある。
古瓦を補強財として利用しているこの土塀、まるで隆起した地層の断面のような
この不自然な意匠はどうだろうか。 東大寺には誰だが知らないがかなり個性的な
左官がいるようだ。 赤い消火栓がやけにマッチしたavant-gardeな景色が印象的だ。


土塀模様にサプライズ
持宝院.jpg

龍蔵院北側の壁に浮き出た疾駆する黒馬。 なんとも不思議な色・形に染まったのだろう。
予測できない偶然の所為ではあろうが、これも土壁の魅力でありサプライズだ。


土壁の写真は意識して撮っているものではない。その壁を通り過ぎようとするとき、
何か気になる瞬間がある。心に触れる何かが壁に映し出されているのだ。
それは多分その壁が過ごしてきた時間や歴史の記憶がそこにあるのだと思う。

かくも堅牢だった土壁もいつかは崩れ土に帰ってゆくのだ。そこに落ちた種は栄華の
土地を森や林にしてしまう。人生もいつかは土に帰るということか。
posted by ハマー at 20:15| Comment(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

「知足院」の景色に東大寺1300年の歴史を見た

東大寺知足院

東大寺の北端に知足院(ちそくいん)はある。
すぐ横は「奈良奥山ドライブウェイ」の入り口だ。
この時期、正倉院まで来る人があっても更にその奥になる知足院まで足を伸ばす人はまずいない。

もっともこの寺院、例え訪ずれたとしても、大仏殿や二月堂のような華やかさは見られないし、ご本尊の「地蔵菩薩」は年に一回7月24日の地蔵会の朝にご開帳されるだけなので、ほかの日には本堂や剥落の著しい土塀や石段を見るだけになってしまう。

知足院の石段.jpg 

脇道の石仏.jpg 本堂前の石段.jpg 



とは言え、山門までの石段、山門から本堂に上る石段は凛としてなかなかに見ごたえがある。 境内は本堂以外にこれといって見るものは無いが、脇道から裏山に続く林のあちこちに残る築地の土塀跡に東大寺の1300年の歴史を見ることができる。

知足」はお釈迦様の教え、仏遺教経にある「足るを知るものは地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている」という「少欲知足」から出ているのだろう。
最も当時の院が貴族子弟の出家所であり、その生活振りは貴族そのものだったというから、まあ政治の表舞台から外れた高貴なお方の風流亭のように思えないでもないが・・・


かつて東大寺が全盛であった頃、この知足院も周囲を白壁に囲まれたそれは立派な塔頭(寺内寺院)であり藤原家子弟の住居であったであろうことが推測される。
それが今では訪れる人さえ無く東大寺の中では忘れられたような所になってしまっているようだ。

知足院の裏山には、一条院の墓所があることから推測するに、ここは近衛家の居所だったのかも知れない。

一乗院墓所.jpg


裏山に行く登り道の途中に、大量の古瓦が積み置かれ、苔むしたその景色にすらこの院の歴史を見るような印象がある。

積み重ねられた瓦.jpg


裏山にはかつて知足院を囲っていた土塀が所々残っていて、かつて人の背丈以上の高さのあったであろう築地も、長年風雨にさらされ続けて土に返り今ではその跡形すら留めぬものや、かろうじて土塀の残骸だったり、残骸の上に運よく舞い落ちた広葉樹の種子が育ち並木のようになっている所もある。

風化して消えてゆこうとする1300年の歴史の流れを目の当たりにすることができる。

土に返る築地.jpg 朽ちてゆく土壁.jpg 築地の跡に育った木々.jpg


本堂裏山に、数十体の石仏が折り重なるように放置されている。
一体この院には何人の生死があり、人生が刻まれているのだろう。
ところでこの石仏、他所では見ることのできない、光背裏の荒削りな鑿(のみ)痕が独特なのだ。 その由緒を知りたいものだ。

捨て置かれた石仏たち.jpg

知足院の景色に、今改めて奈良東大寺の歴史の奥深さと容赦ない自然の力を感じさせられた一日だった。
posted by ハマー at 23:40| Comment(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

奈良東大寺 鐘楼から二月堂への石段

東大寺境内は広い。

一番好きな場所は大仏殿の東側長池手前の階段から鐘楼、
二月堂へ向かう石敷きの路程だ。

鐘楼を前にすると、思わず階段を上がって、鐘の巨大さに
唖然としてしまう。
あの時も、一人の少女が鐘を前にして五分間ほどそのままの
姿勢で静止してしまっていた。 心の中にどんな思いが
去来していたのだろう


東大寺鐘楼の石段.jpg

東大寺鐘楼.jpg

こじんまりとした俊乗堂、念仏堂横の石段を登り見上げると
左右に広がる三月堂が目前に迫り立つ
最後の一段を登り終え目を転じれば、二月堂がそびえるが
ごとく立っている。
何度訪づれても見飽きることのない景色だ。

二月堂参道.jpg 
 
三月堂と二月堂コラボ.jpg

二月堂を写真に撮るには裏参道か四月堂前からということ
になるが、建物が高くどうしても仰角になりなかなか思い
どおりの印象に収まらない。
二月堂から目を離さず、右に入ったり、後ろに下がったり、
左に回ったりといろいろ動いてやっと決めたポイント。
なかなか迫力ある構図に収めることのできた。

一句浮かんだ。「二月堂 舞台を前に 息を呑む」自画自賛
posted by ハマー at 13:32| Comment(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月11日

東大寺桜四景

奈良、東大寺境内の桜は境内随所に点在する寺院・仏閣のそれぞれ
にもっとも美しく映える処に植栽されているように感じる。
大仏池、戒壇院、長池、講堂跡から見る桜四景。
まだまだ随所にある桜、また来年の春に見れたらいいな。

 s-P1100140大仏池朝桜.jpg s-P1100155東大寺長池水面桜.jpg

 s-P1100120戒壇堂前朝桜.jpg s-P1100141大仏殿鴟尾桜花.jpg


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