2013年09月28日

奈良飛火野・中秋の名月

今年の中秋の名月は9月19日だった。その日は陰暦の八月十五日にあたりその夜に満月を見られるということで話題になった。
当日の夜は奈良の地においても唐招提寺や明日香村の石舞台など各所で観月会が催されるので、今年はどこの名月を撮ろうかと悩んだが、結局春日山に昇る月を撮りたくてそれで奈良公園は飛火野にした。

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知らない土地で月の入った風景写真を撮ろうと思っても、これが意外に難しい。春日山の月はこれまでに数度挑戦しているが、未だ成功していない。昇る月を見ることはできるのだが思うような絵にならないのだ。

詩人・薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の随筆に『無学なお月様』という小文がある。薄田泣菫は戦前に活躍した文人で、代表作「茶話」の一編。
「野尻精一氏は奈良女子高等師範(現・奈良女子大)の校長である。野尻氏は晩餐が済むといつもの夜のように奈良公園へ散歩に出た。すると、いつの間にかくろずんだ春日の杜にのっそりと大きな月があがった。『や、月が出ている。ちょうど十五夜だな』と、たちどまって珈琲皿のようにまん円く、おまけに珈琲皿のように冷たいお月様をみているうち、野尻氏は口の中から変な三十一文字を吐き出した。『天の原ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』 いい歌だ。百人一首に出ている名高い阿部仲麿の作だ。野尻氏はその歌を繰りかえしながら、じっと空を見ていると、肝心な珈琲皿のようなお月様が三笠の山の上に出ていない事に気がついた。野尻氏の立っている所から見ると、月は飛んでもない方角から出ていた。それから後というもの、野尻氏は公園をぶらつく度に、方々から頻りと月の出を調べてみたが、無学なお月様は、仲麿の歌なぞに頓着なく、いつも外っぽから珈琲皿のように円い顔をにょきりと覗けた。『やっぱり間違いだ。仲麿め、いい加減な茶羅っぽこをいったのだな。』 野尻氏は会う人ごとにそれを話した。すると大抵の人は『なる程な。』と言って感心しように首をかしげた。 野尻氏に教える。それは月が年が寄ったので、月も年がよると変な事になるものなのだ。ちょうど人のように・・・・」おおよそこのような内容である。

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野尻氏が奈良公園の何処で何月の何時頃、幾度月の出を観察したのかわからないが、ついに三笠山に昇る月を見ることはなかったのではないか。
月はいつでも春秋のお彼岸の時のように真東から昇るわけではないし、月は高度を上げながらどんどん南方向に位置を変えてゆくし、必ず晩餐(夕食)後の時刻に顔を出すとは限らないから。つまり、地球の衛星としての月を正しく理解していないと、三笠山に出る月を見ることは叶わないのだ。そもそもあの一首は阿部仲麿(仲麻呂)が中国にいるときに三笠山に出る月を思って詠んだ歌というのが通説であることだし。

野尻氏にアドバイス!
三笠山に月を望むならば奈良公園の新公会堂あたりから見るのが一番、十三夜の日が最適と思う。

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2012年10月08日

莫山先生を偲んで 明日香村冬野

十月三日、榊莫山氏が逝去されて二年が過ぎた。
莫山氏を知ったのは著書「大和千年の路」(文春新書)を読んでからで、ちょうど奈良に写真を撮り始めた2009年の夏の頃だった。その本文中「明日香」の章に登場する「冬野」という地に行きたいものと思って来たが、氏の三回忌にその地を訪ねることができた。

冬野の里、奈良県明日香村は石舞台古墳の東南3qの山中。莫山氏の言葉を借りれば「石舞台から冬野への山道は2里。うねりくねって、とても険しい。いわゆるつづら折りの山道」を上る。 石舞台との標高差500m、県道155号線の登り口からは平均斜度25°の険しい山容である。道は深い森の底を突き抜けるようひたすら走る。雲に覆われた空の光りは薄く頼りない。

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莫山氏が冬野の地を訪れたのは、その地にある亀山天皇皇子「良助親王冬野墓」に立つ墓標を見るためだったと思う。松尾芭蕉が歌枕を訪ね紀行「奥の細道」をものしたように、莫山氏もまたよく道標や墓標、歌碑などの石碑などを訪ね歩き「野の書」「路傍の書」などの著作を残した。

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「両脇の刈込がきれいな石段をのぼりつめると『良助親王冬野墓』と彫った、さして大きくはない石標がたち、あたりはしめっぽい山の空気につつまれていた。(中略)それにしても。墓標の楷書の文字がよい。ものほしげさはみじんもなく、鋭い目をして淡々と、爽快このうえない気分を宿しているのだ。気韻清浄。この山に棲む苔むした字に魅かれる。明日香の野を歩いても、これほど透明な楷書の字は、見当たらないのである。」ああやっと莫山氏が教える冬野の墓標を目の当りにすることができた。

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墓標は意外に小さなものだった。およそ150p。上の四文字は染みのようなカビのような苔に覆われて読み取ることが難しい。下の三文字「冬野墓」は読める。あっさりとした涼しげな、石碑や墓標ではあまり目にすることのない軽快な楷書。


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良助親王の墓は道際の小高い山の頂上に造られている。盛り土をしたものではなく自然の地形を利用したもののようだ。墓所の裏側の急な石段を登れば墓石のすぐ近くまで行くことができる。
墓石は花崗岩で造られた五輪塔。それよりも石柵に寄りかかるように置かれた一対の小さなちいさな石造物が気になる。確信はないが多分、一石五輪塔と思う。こちらは安山岩に彫られたもののようだ。いつの時代に造られたものかわからないが、良助親王は亀山天皇の第四皇子で鎌倉末期の皇族である。風化の具合から見てその頃に造られたものと考えてもよさそうだ。中央の五輪塔とどのような関係にあるのだろう。わからない。

良助親王の墓を更に100mほど進むと冬野の里に着く。舗装道はここまででその先は多武峰へ行く道と、竜在峠へ向かう道とに分かれる。冬野の集落を外れると人一人がやっと通れる程度の道幅で一人で分け入って行くのはやや心細い。

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ここまで登ってきた山道は、今では人も車も滅多に通ることのない道であるが、昔は吉野へのぼる本街道であったという。『冬野の里には、行者を泊めたり旅人を憩わせたりする宿も民家とて沢山あったことだろう』
明治時代まで人や物資が頻繁に行き交い最盛期には30戸ほどの家があった。しかし、大正元年(1912年)に吉野軽便鉄道(今の近鉄吉野線)が開通すると次第に衰えたという。ちょうど百年前のことである。今も三〜四軒の民家を見るが、人が住んでいるのかどうかもわからない。

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 路傍に咲く釣船草

莫山氏は言う。『わたしは、明日香の原風景は、冬野の里にある、と思っている。』莫山氏の言う明日香村の原風景がどんなものであるのか自分には謎ではあるが、冬野の里を目指すのは莫山氏の文に親しみ良助親王の墓標を確かめに来る人たちだけである。莫山先生の心の風景を見ることができたのだろうか。

追記 「冬野」地名の由来
冬野はもともとはタヲノで、これがトウノに転訛し、冬野と書き、フユノと訓読したと思われる。タヲは地形の窪んだところをいう。

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2011年06月25日

白洲正子随筆集「道」 奈良南田原塔の森

白洲正子随筆集「道」 白砂川にそって

「塔の森」のある国見山は奈良市と天理市の市境にある両市の最高峰である。いくら奈良大好きな自
分も、白洲正子のこの随筆を読まなければ、これほどの山奥にまで来ることはなかったと思う。

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 南田原磨崖仏「切付け地蔵」

『田原から「切付け地蔵」の前を南に行くと、長谷(ながたに)という村に入る。その名のとおり、細
長い谷間の村で、白砂川もここまで来ると、小さな溝になってしまう。その水源を「塔の森」とい
い、急坂を登った山腹に、日吉神社が建っている。

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 塔の森への上り坂                長谷日吉神社神殿 

『そこから更に険阻な山道を辿って行くと、標高六百メートルの山の天辺に、大きな六角層塔が現れ
る。もとは十三重だったらしいが、今は六重で、まわりに石のかけらが散乱している。欠けたのは、
村の人々が、病気のお祝いに切り取ったからだと聞くが、苔むした天平の層塔は、無残な有様ながら
雄渾な姿で、格狭間(こうざま)に彫られた蓮華文も、力強く、美しい』

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 樹間から125段の階段が見える

六角層塔はあらかじめ写真で見て知っていたが、その独特な形や風化しボロボロになった粗い岩肌を
目の当たりにして、立ちすくんでしまった。呆然と、見つめた。この層塔が放つ異様な力はなんだ。
じっと、見ていて、思った。まるで人の脊椎骨。人の形じゃないか。

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 塔の森 六角層塔

創られた当初は十三重の塔であったが、一度完全に倒壊した後に改めて積み重ねられたように見え
る。現在は六層である。塔の周りに残る各層の笠石の残欠のうち幾つかは原型に近いものもある。何
らかの理由でそれ以上の復元、積み上げを断念したようだ。ぐるっと回り仔細にその姿を観察してみ
た。すると、ある方位から見ると右に大きく傾いて今にも倒れそうだ。実に微妙にバランスをとった
状態で立っていることがわかる。これ以上はもう積み上げることのできない限界状態で、佇立してい
る。あやうい緊張がある。

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  笠石残欠

『格狭間(こうざま)に彫られた蓮華文』というのは、塔の最下層の塔身部分に見える花びら模様のこ
とである。「格狭間」とは基壇、台座の長方形の部分のことで、石塔では、主に基礎を荘厳するため
使われ、時代識別の基準となる。塔の森の六重層塔は、二重の基壇になっている。「蓮華文」は、蓮
華の花を文様化したもので、飛鳥・奈良・平安時代に瓦や仏像の光背・台座などに用いられた。蓮華
は仏の座として、さらには仏のいます極楽浄土の象徴とみなされる。

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 格狭間の「蓮華文」

白洲正子は『力強く、美しい』と書いているが、昼なおうす暗い木立の中で、その形も消えなんとし
ている「蓮華文」は、注意してみていないと見過ごしてしまう。
この随筆集は昭和54年(1979)に発刊されたから、彼女がこの場に来たのは今から30年くらい前のこと
だ。その時と今と比べてもこの石塔の形状にそれほどの違いはあるまい。つまり1200年以上も前に建
てられたにしては『力強く、美しい』ということであろうか。いや、白洲正子のモノを見る心がそう
感じてそう言ったのだ。

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 倒壊の危険性があり鉄柵で囲まれている

『こんな見事な塔は、大和でもみたことはない。そう私は思ったが、一説に、これは経塚で、中腹の
神社の神宮寺の跡であるという。その寺には、十一面観音が祀ってあったと伝えるが、すべては歴史
の闇の中に埋没して知る由もない。が、そこからの眺望は、観音浄土にふさわしい絶景であった。南
には都介野岳(つげのだけ)から宇陀の連山、東に伊賀の山々を見晴るかす風景は、疲れが一時に消え
うせる思いがする』
 
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 日吉神社境内から鳥居越しの眺望 

六重層塔のあるこの場所、今は周囲を木樹が覆い見通しは利かない。樹木の生長は速い。30年前はき
っと四囲を見晴るかすことができたのであろう。
上がってくる途中に通った日吉神社の境内から、鳥居越しに都介野岳から宇陀の連山を見ることがで
きる。谷底から吹き上がる風に吹かれてさっと汗が引いてゆく。

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 塔の森六角層塔から下る道  

今年の五月から六月初夏の三週間に六度も奈良市田原(たわら)地区を訪れることになったきっかけは
白洲正子のこの随筆を読んでのことである。「春日の春日の国(はるひのかすがのくに)」のなか「白
砂川にそって」。
光仁天皇陵、日笠フシンダ遺跡、今井堂天満神社、また多くの石仏を見た。太安万侶の墓から見た茶
畑のうねる田原の景色はいつまでも忘れられない美しさである。また自分の推理の妥当性を確かめる
ために白砂川沿いの道を歩いて下ってみてもした。

しかし、塔の森の「六重層塔」の印象はその中でももっとも心に残るというか余韻を残す所だった。
1200年前であろうかこの塔が造られたのは。誰が、誰のために、何を願って建てたのか。すべては歴
史の闇の中に埋没して知る由もない。

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2011年01月31日

洋画家中村一雄氏の志賀直哉旧居保存運動

「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」中村一雄著

取壊しが決まっていた奈良市高畑にある志賀直哉旧居の保存は、隣家にすむ洋画家中村一雄氏の保
存への決起とその趣旨に賛同した「保存する会」メンバーの熱意によって成し遂げられたものである。
しかし、その運動に関係することは、保存がなされた志賀直哉旧居の何処にも記し置かれることな
く、また入館時に渡されるリーフレットに一言もない。
本を読み、保存までの経過を知ってしまった自分としてはとても不満に思う。

中村一雄氏と「保存する会」のことは来館する人々が知ることのできるように何らかの形で提示すべ
きと思う。それが人を育てるという大学教育の本来あるべき姿であろう。
また今後高畑の町が望ましい姿で残されてゆくことは、奈良市のみならず全国の奈良ファンである
人々への期待に沿うことであり、その実現に向けた高畑の町の住民の方々の今もこれからも続く環境
保全への努力に報いることになると思う、からである。

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昭和50年6月6日洋画家中村一雄氏は、道を隔てたすぐ東隣にある志賀直哉旧居 (当時社会保険庁の
宿泊施設であった「飛火野荘」)が老朽化にともない取壊されることを、たまたまそこに宿泊した氏
の画友か知らされた。

中村一雄氏の著作「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」は、中村一雄氏が旧居の
取壊し計画を知ったその日から、昭和52年10月5日学校法人奈良学園が旧宅を買収し「全面保存」す
ることが決定したその日までの氏と「保存する会」の苦闘の日々を詳細に記し、また新聞報道の紙面
コピーを時系列に紹介したドキュメンタリーである。

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中村一雄氏と「保存する会」が起こした志賀直哉旧居保存運動に対して、行政(市、県、国)の対応は
冷ややかなものであった。

「県は保存を考えない。文化庁も保存に値しないという考え方である。志賀直哉は森鴎外よりも(評価
の)低い作家である(保険課水上課長)」
「志賀さんの生誕の地でもなく、建物自体も昭和のもので文化財として保存できない(鍵田奈良市
長)」、
「志賀直哉と言っても有名なのは暗夜行路だけじゃないか。(文化庁足立長官室)」
「全面保存は難しい、付随的なものは壊しても、一番大切な所を残す。南側サロン等は残す必要がな
い、何年かすると腐るだろう。(奥田知事)」

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奈良行政の近代文化財に対する認識の愚昧さはすでに「ならまち」保存への無策と後ろ向きな対応で
証明済みのことであるが、それも奈良市県の財政基盤の脆弱さと、古寺社、遺跡に強く依存する文
化・観光行政に起因するものである。それが奈良の風土なのだと思う。

保存運動に対する消極的な姿勢は、奈良市民の中にも冷ややかな空気とともにあった。
「志賀、志賀と騒いでいるようだが、志賀は奈良に対して何をしてくれたと言うのか。何も役に立っ
ていないではないか。」
「あれだけ熱中して、中村は市会議員にでもなるのでは」「中村個人の運動に加担するな」
「中村の独走」という陰口も聞こえてきた。

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水面下では昭和52 年3月の時点で、奈良学園伊瀬敏郎理事長から志賀直哉旧居の購入の打診がなさ
れていた。その他、町内の個人から、また東京吉井画廊(画家東山魁夷氏からのオファー)からも寄せ
られていた。しかし社会保険庁の「飛火野荘」代替地探しが難航し、旧居売却計画も停滞した。また
奈良学園の購入意欲も後退したかに思われた。

しかし、保存運動に対する行政と市民の理解と援助の動きは全国に徐々に拡大した。
「志賀直哉はともかく高畑の風土を破壊から守るべきだ」初代文化庁長官・今日出海(こんひでみ、小
説家、僧侶「今東光」の末弟)。
52年1月18日の時点で、保存に賛同する人々18,000名の署名が集まった。

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しかし、結局、志賀直哉旧居の買取、保存の結論が出るまでには二年以上の歳月を必要とした。
運動発足当初消極的だった奥田奈良県知事と「保存する会」の反主流派(と云われた)唐招提寺森本長
老、飛鳥園小川光三氏のグループ対「奈良学園」、「行政」の三つ巴の争いに、素人集団であった中
村一雄氏と保存する会のメンバーが翻弄された二年間だった。(※この構図は、本を読んで得た自分の
見解である)

昭和昭和52年10月5日奈良学園が奈良文化女子短大のセミナーハウスとして旧宅を買収「全面保存」
することが決まった。当日の奈良新聞には保存運動への評価とともに、『膨大な文化遺産につつまれ
ていながら、意外に文化には無頓着――――と言われて着きた奈良市民によって運動が支えられた、とい
う意義も大きい。そうした意味では、志賀邸を残せた以上に、貴重なものを 新たに生み出し得たのか
もしれない』と希望的、好意的な意見も書かれていた。

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 保存が決まったその後も、旧居への立ち入り制限をする奈良学園との「全面公開」に向けた折衝の
過程が記され、最後に昭和58年4月23日の新聞報道紙面が掲載され、ドキュメントは終わる。

以上が洋画家中村一雄氏の著作「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」に記された
181頁に及ぶドキュメンタリーのダイジェストである。

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『私は、志賀邸が取壊されることを耳にしたとき、かつて隣に住んでいた志賀さんの邸は、何が何で
も保存しなければならないと思った。最初立ち上がった時は、私独りでもこれをやろうと決心した。
そうだ、私でなければこの運動はできないと直感的に思ったものだった。然し、それがどうであろ
う。一万八千人もの方々が御賛同、ご署名の協力を寄せてくださったのである。(中略)私は今、(運動
に加わってくれた保存する会)の方々、そして署名にご協力下さった多くの方々への感謝の気持ちをこ
めて、後世の人たちの為にもこの運動の実体を知ってもらうべく、小冊子として残しておき度く、出
版にふみきった次第である。』本の「はじめに」記された中村一雄氏の言葉である。

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文豪志賀直哉は生涯を通して、26回も引越しをしたといわれる。戦前に住んでいたのは、千葉県の我
孫市、京都市、奈良市などを転々とし、昭和13年には東京に住まいを戻すが、一時期熱海市にも移り
住んだ。
しかし、志賀直哉の旧居として現存するのは、奈良市高畑にある一家のみである。また、志賀直哉は
遺言の中で『記念碑や記念館は一切断る事』とされていることから、志賀直哉の記念館を計画した鳥
取県はその建設を断念した。また、千葉県我孫子市において計画された「志賀直哉文学館」は『白樺
文学館』として名を変えて開館された。

奈良から移り住んだ東京都港区麻布の志賀直哉の住居跡地は現在ブリジストンの社宅が建つ。最後の
住いとなった東京都渋谷区東一丁目の自宅は現在、志賀氏の次男直吉氏が相続し居住する。直吉氏は
「作家は作品で名前が残れば十分。」と話しているが、とはいえ、「文学史上から見て」奈良市に残
された志賀直哉の旧居がいかに貴重なものであるかを、認識する必要がある。

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 「たかばたけ茶論」入り口に飾られた椿

洋画家中村一雄氏は現在も創作活動にご多忙と思われるが、自宅の庭を開放したティーハウス「たか
ばたけ茶論」で同氏にお会いする機会もあると思う。
そもそも、この志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動を知ったきっかけは、偶然道で立ち話をした
中村一雄氏の気さくな人柄にふれ、中村氏の「絵」を見たくてネットで調べ始めてから知ったことで
あった。そしてこの運動の偉大なる結晶である、志賀直哉旧居を見たくて今日訪れた。

※マイブログ「奈良たかばたけ茶論と洋画家中村一雄氏」
http://naranokoto.seesaa.net/article/145779518.html

ところで、志賀直哉氏とはどんな人物だったのだろうか。考えてみたら名前以外何も知らない。
しかし、今日奈良高畑の町を歩きそして旧居を見学した今、志賀直哉の人となりの断片を確かに見た
気がしている。


◎「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」
著者 中村一雄 発行所 渓声出版 昭和58年8月1日
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奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動

http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/150/tayori159.htm
毎日新聞 毎日JP 時を継ぐ:平城遷都1300年
奈良市高畑町/1 中村一雄さん
 http://mainichi.jp/kansai/sento1300/archive/news/2010/20100519ddlk29040635000c.html
奈良学園セミナーハウス志賀直哉旧居
http://www.naragakuen.jp/sgnoy/index.html
志賀直哉旧居
http://burari2161.fc2web.com/siganaoyakyuukyo.html
松岡正剛の千夜千冊 志賀直哉『暗夜行路』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1236.html
洋画家中村一雄氏HP mi carazon (現在休眠中)
http://avenida.exblog.jp/
中村一雄氏の創作活動 (ぐらっぱ亭の遊々素適)
http://grappatei.exblog.jp/8793622/
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2011年01月09日

柳生街道 円成寺から石切峠へ

随筆 石佛の里にて 大和路 柳生街道 室生朝子著 (2)

『住職はぜひ円成寺の共同墓地を見て下さい、と言った。境内の裏門にあたるところから、バス道路
に出る。道を横切って東海自然歩道の標識にそってだらだら道を上がると、左手の山全体が円成寺の
共同墓地になっている。』

国道369号線から柳生街道(東海自然歩道)に入り軽く右にカーブした石畳の道を上ってゆくと突然に
六地蔵が目に飛び込んでくる。

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『墓地に上がった。山の傾斜はそのままに道は左右に分かれて、古いお墓が点在している。』
実に楽しい墓地であった。墓が楽しいというのは不謹慎かもしれないが、わたくしにとっては、古い
墓石や五輪塔、板碑などは楽しく見られ素晴らしいのであるし、その価値や風情を求めて旅に出てい
るのだから、致し方ない。唯見るだけではなく、好きなものであっても、墓という観念はいつも忘れ
ないし、心の中でお詣りする。こんな気持ちも持っているのである。』

いつも感心させられるのだが、奈良の墓地は石仏の宝庫(?)である。石仏の始まりは奈良時代後期以後
とされるのでおよそ1200年余の歴史があることになる。現代までの間に造られた石仏が全て残されて
いるはずは無いが、幸運にも野山や路傍、村や町など人里に残った石仏は、いつの間にか寺や、共同
墓地などに集まった。石や岩片とはいえ、石仏には人の魂がこもり、霊が宿ったものとしての拘りが
あり、見捨てること、放置することましてや粉砕することなど、出来なかったのである。

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『石仏の里』の著者室生朝子氏のようには『楽しく素晴らしいものである』という気持ちになれない
し、これからもなれないと思う。仏壇にも墓地にも縁の無い自分にとって、墓地は気味の悪いとこ
ろ。今もって抵抗がある。墓地という場所は、仏教の教え、説話が漂う異次元空間であり、本来何の
所縁のない他者が踏み入れる場所ではないのだ。

とは言え、奈良や平安時代とまではいわないが、鎌倉時代からの歴史を持つ寺やその墓所、共同墓地
には歴史的にも美術的にも興味を引く石仏が残されていることが多い。その意味で奈良は「楽しく素
晴らしい」土地であり、そして円成寺共同墓地も興味深い場所であった。

 s-P1088830円成寺墓地地蔵石仏.jpg 
 
入る時には気がつかなかったが、六地蔵と対面するように切通しの反対側に一体の大きなお地蔵様が
道行く人を見守るように立っていた。

『道よりの右の端に太い松の木が一本真直ぐに立ち、その幹に寄りかかるようにして大きい地蔵が一
体あった。優しい顔立ちの仏である。草鞋が五足束ねて吊り下げられていた。地蔵に草鞋を供えるの
がどこか場ちがいのように不思議に思われた。この小さい広場には、昔、お堂があったのではない
か。』と考えた。お遍路さんがお寺に草鞋を供えること見知っていたからであろう。しかし、著者は
このすぐあとに『草鞋』は『三途の川を渡るときにはく。』ということ知る。

「手ぬぐいとわらじと賽銭」が、あの世に旅立つための三点セットであることを自分は今日まで知ら
なかった。ただ、現代では一般的にはこの「三点セット」、人目に触れるものではない。奈良は今で
も土葬の風習があり、それ故著者はたまたまお地蔵様に掛けられた草鞋を目にしたのであろう。

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柳生街道 円成寺から石切峠へ

柳生街道、円成寺から石切峠の茶屋までの4.7kmの行程の間にはこれと言った名所も目につく史跡も
無い。檜や杉の森、雑木林の中を抜けてゆくほぼ真直ぐで平坦な道である。この行程に限って言え
ば、柳生街道というよりも、「忍辱山から誓多林の道」と言ったほうがミステリアスで響きが良い。

 柳生街道円成寺から石切峠.jpg
 円成寺から県道184号線と合流する大慈仙町あたりまでの
  柳生街道(東海自然歩道)は尾根伝いの山道 google地図


『忍辱山円成寺は近鉄奈良駅から車で約三十分、浄瑠璃寺、岩船寺に行く山道の一本奈良公園よりの
道で、小さな峠をいくつも越えながら、美しい道は続く。(中略)ここはのどかな山里である。現在は
奈良市忍辱山町であるが、傍の大慈仙という地名も、仏教語から来た名前である。市の中心遠くまで
奈良南都七大寺の寺領であったことを、物語っている。』

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「忍辱」とか「大慈」はともに仏教語で奈良市の町名として現在する。元は奈良時代の736年に来日帰
化した実在のインド生まれの僧侶で東大寺の大仏開眼供養の導師をつとめたバラモン僧正(菩提僊那)
が、ブッダ修行の印度五山になぞらえて、大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)、菩提山(ぼ
だいさん)・誓多林(せたりん)・鹿野園(ろくやおん)と命名しいずれにも寺を造営し、周辺の山岳は
南都七大寺僧徒や修験者らの修練の場であったと伝えられる。菩提は仏教語、誓多林はインド五山の
一つ、鹿野園はインドにある仏教の聖地の名である。

 s-P1088891茶畑の中に地蔵.jpg s-P1088907茶畑の中の地蔵.jpg 
 茶畑の中「五尺地蔵」が異彩を放つ 県道184号線の整備工事に伴いこの場所に移されてきたと聞いた 

室町時代3代将軍の足利義満が制定した京都五山や鎌倉五山はよく知られているが、残念なことに「奈
良五山」についてはあまり知られることが無い。当時あったとされる寺院は廃寺となりその寺名や建
っていた場所も定かではない。今では残された石仏、石塔などから当時の繁栄を伺い知るのみであ
る。

 s-P1088912柳生街道石切峠の茶屋.jpg
 峠の茶屋で竹輪・厚揚・大根のおでんを食べた。お代は300円。人懐こい飼い犬に竹輪をあげた。
 


※ バラモン僧正・菩提僊那と東大寺大仏開眼供養
http://www.in.emb-japan.go.jp/Ambassador_Lectures/Ambassador_Lectures2.html
※ Wikipedia 円成寺
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BF%8D%E8%BE%B1%E5%B1%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
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2010年01月24日

大和人の自然観

山の辺の道 崇神天皇陵あたりの景色

日本文化の原点である奈良という地域で風景写真を撮っていると、その歴史的風土を表す「大和」
らしさをどのように表現できるのか、では逆に、概念としての「大和」とは一体どのようなものな
のかという所に考えが及ぶ。

 
 崇神天皇陵松.jpg 崇神天皇陵濠.jpg



奈良の地は『現代から直接、千三百年近い昔にたちかえることができる』と評した文人がいた。
しかしだからといって、奈良のどこかを撮ったから「大和らしい風景」と云うことにはならないだ
ろう。奈良の社寺、例えば東大寺を写したからと云って「はい!大和の景色です」と思う人間はい
ないだろう。
それにしても、私は奈良の土地には他の都市では感じられない何か特別なものを感じている。こと
によるとそれが「大和らしさ」ではないかとも思っている。


 渡来花.jpg 大寒に咲く蝋梅.jpg  


では奈良時代に生きた人は「大和」の景色をどのように捉えていたのだろう。その時代にはまだ
「景色を描く」という概念や技術は無かった。しかし、詩や和歌という言語でもって自然を表現す
るということはなされているのだ。「万葉集」や「古今集」に接することにより、作者が見た大和
の景色をイメージできるとともに、その自然観を知ることができる。そこには『古墳時代、飛鳥時
代よりもはるか以前から日本人の心の奥に秘められていた彼らの原始の自然への感覚、あるいは本
能的な畏怖、何ともいえない親愛の思いなどが日本人の心の中に脈々と行き続けている(「花と山
水の文化史」上垣外憲一)』のだ。


 景行天皇陵から二上山.jpg

 

大和人が持っていたその自然観は、今に至る1300年の間に希薄されはしたものの、「花鳥風月」
「山水」という日本固有の情緒、あるいは叙情の一端に今も生き続けている。多分、私のDNAに
も大和人の自然観が少なからず刷り込まれているはずだ。


 冬実.jpg
 

大和人の自然観と相対することにより、自分にはまだ見えていな大和の景色を写したい。しかし、
大和らしさに固執することは、表現の広がりを抑圧することに繋がる化も知れないとも思っている。
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2010年01月14日

大和の絵馬

佐紀路「山上八幡神社」の絵馬を見て

神の乗り物としての馬、「神馬」を引き出物として神社に奉納する代りに、板に描いた馬の絵で代え
られるようになったのが、絵馬の由来。絵に変わる前には、木や紙、土で作った馬の像で代用されて
もいた。馬を神社(神)に奉納する訳は、神霊は馬に乗った姿で降臨するものと古くから考えられてい
たからだ。


 縁起のいい白馬.jpg  山上八幡神社割拝殿.jpg


山上八幡神社(奈良市山陵町御陵前)に立ち寄ったのは、割拝殿にかかった白い馬の絵が目についたか
ら。神社のことはよく知らないが、普通はその位置は神社の名前を記した「扁額」がかかっている場
所のはず。「ナニ あれは?」という感じでつい確かめに寄ってしまった。


 山上八幡神社天井絵馬.jpg



」の写真を撮り終えてふと上の方を見たら、「なんだこれは ! 」天井が「絵馬」で覆い尽くさ
れているではないか。 これはちょっとしたカルチャーショックでした。


 二月堂絵馬.jpg


絵馬はもともと神に献上するものだったが、室町時代のころになると、仏にも捧げるというふうに変
わってきた。よく訪れる東大寺二月堂の軒下は奉納された「絵馬」で埋まっている。「寺」だからだ
ろうか、「馬」もあるがそれ以外のものの方が多い。

「絵馬」の馬離れは室町時代頃から見られるようになり、信仰の対象とする仏の図柄や、象徴する持
ち物を描くなど、さまざまな意匠を取り入れるようになったという。またこの頃から絵馬の大衆化が
始まり、庶民信仰のよりどころとなった。


 奈良町のお堂で見た絵馬.jpg
 

奈良町の路傍の小さなお堂に掲げられた、仏画風絵馬。これは僧侶の側からの願掛けのように見える。
「皆さん仏さまを信じましょう。お坊さんを敬ってください」というように思えてしまうのだが。


 神野寺の「猫」の絵馬.jpg



一昨年訪れた神野寺(こうのじ、奈良県山添村)で「」の絵馬を見たことがある。
絵馬は、神社や寺院に祈願するとき、および祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに絵が描かれ
た木の板を奉納する訳であるが、この「猫」の絵には何の願いが込められているのだろう。また、こ
の絵馬を奉納したと推測される人の名前「源治郎」の文字が逆さまになっているのには、どんな思い
が隠されているのだろう。

「絵馬」については角川書店発行の「真珠の小箱C奈良の冬」の一節に「大和の絵馬」に詳しい。
著者の岩井宏実氏の他の著書には「絵馬」や「妖怪」などに多数ある。紀伊国屋書店BookWeb
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8A%E2%88%E4%81@%8DG%8E%C0/list.html
「奈良の冬」 昭和54年11月10日 初版発行


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2009年11月29日

大和円照寺の紅葉

大和円照寺の紅葉

白洲正子の随筆集「かくれ里」を読み返したら、『山村の円照寺』の節に、開山の経緯を詳しく
書いていることに改めて気づいた。


 s-入り口付近の池.jpg  s-参道透かし紅葉.jpg



『ここで上のほうから来た山辺の道と旧道が一しょになるが、もうこの辺は奈良の郊外なので、
舗装した道路には、いわゆる「山辺の道」の情緒はない。が、円照寺の道標から、山へかかっ
たとたん景色は一変する。両側はのどかな桃畑で、その中に池があったり、古い社や古墳が点
在して、昔ながらの山中の景色となる。雑木林の山道を登って行くと、突き当たりに黒い山門
が見え、端正な敷石が真直ぐ玄関まで続いている。私がついた時は、山の端をはなれた月が白
々と境内を照らし、いかにも尼寺らしい清浄な空気に包まれていた』 書き出しに近いところ
の文章であるが、円照寺の風景をほんとうにうまく描ききっている。


県道188号高畑山線を円照寺の参道へ一歩踏み込んだ途端、たしかに景色は一変する。上空か
ら見るとよく分かるが、円照寺は複数の古墳の森の真中にある。深い森に阻まれ、西に傾いた
日のひかりはこの時間の参道には届かない。薄暗いトンネルの中を行くようだ。入り口から700m
ほど進むと、黒くどっしりとした山門にたどり着く。山門の向こうには、明るい光に満たさ
れた円照寺の境内が広がる。どこか別世界に迷い込んでしまったように、ここに来るといつ
も感じる。


 s-円照寺山門紅葉.jpg  s-京風円照寺境内.jpg 



随筆『山村の円照寺』は、開山の主、後水尾天皇の皇女、文智女王の生涯を記した物語。
『皇女が尼になるのは珍しいことではないが、文智女王の場合は、積極的に、自分の意志で出
家されたので、修行の厳しさも、一通りのものではなかったのである。寺にある宝物も、女王
の個人的な生活を伝えるものが多く,他寺の寺院のように、観光客に見せるものは一つもない』
円照寺が、一般拝観を許さないことに少なからず不満を抱いていた自分にとって、かなり手厳
しい言葉だ。


 円照寺から見た日没.jpg  s-夕月見えた.jpg 



円照寺の楓は、もう葉を半分ほど落としやや勢いに乏しい風情ではある。それでも、残すとこ
ろ幾日もない紅葉化粧、散り際の、はかない美しさを感じさせるに充分である。
4時40分、竹林の向こうに日は沈んだ。夕月が南の空に浮かんでいる。
消えた太陽、夕空に浮か
ぶ白い月。どこか輪廻を思わせるたそがれの時に自分がいる。

※ 白洲正子「かくれ里」講談社文芸文庫 2009年1月7日 第36刷

 
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長谷寺 残照と五木寛之「百寺巡礼」

前夜、宿の女将から、長谷寺では朝のお勤めのあることを聞いたので、私たちは早起きして、
七時ちょうどに仁王門をくぐり抜け、石の回廊を登った。昨年11月29日のことである。 


 朝日射す仁王門.jpg  舞台から見る初瀬の朝.jpg
 朝日を受けた仁王門のシルエットが美しい     朝七時、初瀬の街はまだ寝ているようだ



薄暗い本堂に足を踏み入れた途端、読経と連打される太鼓の重く低い響きに、金縛りにあった
ようにもう歩を進めることも、息をすることさえできない。読経の声が一瞬途絶えた時の暗闇
の中の静寂、そして再び始まる激しい太鼓の連打と僧侶たちの読経の声。あまりの息苦しさ
に私は、足音を聞かれないよう、本堂から逃げ出したのだった。


 朝のお勤めを終えて.jpg   開山堂階段紅葉.jpg
下駄の音を響かせ駆け下る黒袈裟の修行僧   朝のお勤めを終えて階段を降る僧侶 



あの日から一年が過ぎた、今年11月28日、再び長谷寺を訪れた。昨年と比べ今年は早くに寒さが
来たせいか、紅葉祭りの期間中ではあるものの、残った楓も色あせ、すでにピークを過ぎている。
それでも境内に点在する紅葉の群照が、秋の名残を十分に感じさせてくれる。

 
 燃える開山堂.jpg   本堂から開山堂.jpg 
 開山堂周りの紅葉が一番美しい長谷寺




開門の20分前に入山。ゆっくりと回廊を登る。後から来た人たちが次々と私たちを追い越して
ゆく。静かだった山内はあっという間に喧騒と人並みに埋め尽くされた。寺は、瞬く間に観
光スポットと化す。

写真を撮るのも大儀だ。人通りの途切れる時を見計らって、大急ぎにシャッターを押す。とは
言うものの、構図を確定し、露出を考え、ピントを合わすまでに結構な時間がかかる。更に、
同じ場所で10枚近く取り続けるのだから、他の人には随分ご迷惑をかけていることだろう。
もっとも写真を撮っている間、通りすがりの人たちも、私の背後やすぐ横に並んで次から次へ
とシャッターを切って行かれるのだから、ビューポイントを知らせているということで、勘弁
していただけるかもと思ったりしてもいる。


 舞台から見る五重塔.jpg  紅葉五重塔.jpg 
 紅葉の海に浮かぶ五重塔       桧皮葺の屋根が上品な五重塔
 



五木寛之氏の「百寺巡礼」の第一巻奈良、長谷寺の書き出しの一節には「ざわめきのなかの信仰」
という見出しが付く。『どこから集まったのだろうと思うほど、大勢の参拝客であふれている。
中高年の女性グループや子供連れの家族もいれば、手をつないで歩く若いカップルもいる。カメ
ラと三脚をかかえたアマチュア写真家の姿も目立つ』『静寂でひっそりしている寺は、それはそ
れでいい。宗教とはそういう厳粛なものだ、という考え方もあるだろう。でも、この長谷寺の
ように、市井の喧騒を感じさせる寺もまたいい。私は、むしろこういう寺こそが、仏道の本道を
行くものではないかという気がしている。「俗っぽい」ということは、実に大事なことなのだ』
『長谷寺は生きている。市井の人びとの信仰心に支えられて生きている』


奈良市や県下の寺めぐりをしていると、参拝を許さない孤高の寺も数少ないがある。また、檀家
寺の多くは墓参以外の立ち入りを禁じている。また、美術館と大差ない寺院もある。はたして、
いずれの行き方に自分と仏教の接点を選択したものか、カメラを持って寺の周りをうろついて
いる自分にとって、悩みのつきないところである。



 撫で仏.jpg  舞台の紅葉.jpg
  撫仏びんずるさん         平安時代皇族・貴族が紅葉狩りを楽しんだ舞台


 
最後に五木寛之氏は、『花見(や紅葉)のシーズンに、長谷寺を参拝する人もこれほどたくさんい
る。それはやはり、なにか信仰というもの、目に見えないものへの信頼というものをもっていた
い、ということではなかろうか』と、この章を結んでいる。


私には明確な信仰心というものは持っていない。しかし、「寺」の領域や建物から受ける心静けさ
や安堵の気持ちが、原初的な日本人の信仰心というものなのかも知れない。

    
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2009年11月08日

奈良飛鳥園のラングドン・ウォーナー博士

5月5日の日記に書いたラングドン・ウォーナー博士と、偶然目にした文庫本で再会した。
この本は、わからなかった博士の人となりを的確に教えてくれるものだった。
タイトル『奈良登大路町』著者は島村利政。島村氏は1980年(昭和55年)11月25日、69歳で逝去。
明治45年(大正元年)の生まれ。
※島村利正 講談社文芸文庫 『奈良の登大路町|妙高の秋』2004年1月10第一冊発行


本は、17歳の頃、島村氏が初めてウォーナー博士と会った時の印象を詳しく書いている。また、
その後、博士が占領軍の美術顧問として再来日した時までの事を、飛鳥園の当主小川晴暘氏か
ら聞かされる私小説の形をとっている。

※「飛鳥園」: 奈良市に現存する、若い頃著者が勤めていた古美術写真の老舗
http://www.askaen.co.jp/gallery/index.html


 飛鳥園.jpg
 国立博物館の前にある飛鳥園。平成13年に改築された


ラングドン・ウォーナー博士は、第二次大戦下、京都・奈良・鎌倉等日本の古都文化財を、人類
の共通財産と訴え、アメリカ軍の空爆から救った米国人として知られている。
その件についてインタビューを受けた博士は「私にそんな力は無かった」と話していたそうだ。
それはおそらく、リストに上げながら京都・奈良以外の多くの都市を戦禍から救えなかった心苦
しさ、無念さに溢れた心情の吐露だったのではなかったか。



『奈良登大路町』の中で、飛鳥園当主小川氏が講演会の席上「・・・このことはウォーナー博士
が、直接私にはなしてくれたのではありません。ウォーナー博士はそういう人柄ではないのです。
副官の人が法隆寺の管長や私に、アメリカ空軍の秘話として、ひそかにはなしてくれたのです」
という行がある。ウォーナー博士は、自分自身を語ることを、極めて欲しない人であったとも
言う。


 ウォーナー博士写真.jpg


青く澄んだあの眼のいろを、私はときどき思い出した。あの眼との出逢いは、随分昔のことに
なるが、私は何かの機会に、ふと、その眼のいろを思い出した」そういう書き出しで短編『奈良
登大路町』は、始まる。
鑑真和上像の撮影現場で、「私は(著者)ホッグ美術館の要職にあるウォーナー氏が、日本の専門
の美術研究家の仕事ぶりになんとなく反撥するのをみて、その青い眼のなかに潜んでいる、つよ
い、純粋な精神を、
はじめて見てとったような気持ちがした」とも書かれている。


 ウォーナー像.jpg
 岡倉天心の教え子彫刻家平節田中氏のウォーナー像 


この短編を読んで私は、ウォーナー博士が、日本人の自認するところの「謙虚さ」という日本人
の資質あるいは気質を持った人だったのではないかと思った。東洋美術の研究家として岡倉天心
に師事し、日本文化に傾倒したウォーナー博士に、今さらに強い関心を抱き、改めて感謝の念を
強く覚える




※「ウォーナー先生像」 井原市立田中美術館よりコピー転載
http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/denchu_works/works/denchu_works_sculpture19.html
※「ウォーナー博士写真」 茨城大学五浦美術文化研究所よりコピー転載
http://www.ibaraki.ac.jp/izura/data_item4.html


ラングドン・ウォーナー(langdon Warner)は、1881年生まれ、ハーバード大学考古学科卒業後ボスト
ン美術館に入り、明治39年(1906年)7月、日本古美術研究のため来日、岡倉天心の指導を受けた。
五浦の天心邸に滞在し、また奈良の新納忠之介宅に寄寓して、日本古美術の研究にあたった。
帰国後は、クリーブランド美術館、ペンシルバニア美術館に勤務し、ハーバード大学附属フォッグ美術
館東洋部長となった。「不滅の日本芸術」「推古彫刻の研究」などを著した。

※以下の文章は井原市立田中美術館のHPより転載
人格清廉で、日本文化を救ってくれた恩人だとして礼を述べられると、「私が救ったのではない。岡倉
天心先生が救ったのだ」と語ったというエピソードがあります。田中はこれに深く感銘しました。この
像は、茨城大学内に設けられたウォーナー博士功績顕彰会の依頼によって作られたものです。

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2009年10月25日

奈良「不空院」縁切り寺のタヌキ

09年10月25日

不空院の茂みに、二匹の狸がひそんでいる。 おおきなお腹。月夜の晩ともなれば、ポンポコ腹
つづみが聞こえそう。このタヌキ、阿吽(あうん)の顔をしている。
普通、お寺の阿吽像は仁王様なのに、このお寺、何故、タヌキなのだろう。

 タヌキ阿.jpg タヌキ吽.jpg


不空院の売りものは「不空羂索観音」と、もうひとつ、「縁結びさん、縁切りさん」がある。
ただし後者の方は、境内の隅にある、小さな赤い鳥居、神さんの領分。


 不空院の鳥居.jpg



いま読んでいる本「奈良の小寺」の、南都律院高畑不空院(駆込寺)の節に詳しく書かれている。

『この寺の祭神、市岐姫大神は天照大神と素戔鳴尊との誓約に際して生まれた神であり、後世に
弁才天女に付会されている。(中略)弁才天は、音楽、財福を司る天女で、人に幸福と子孫を与
えるといわれ、(中略)特に女人に幸せを与える神と云える。』
※ 付会:自分の都合のいいように、無理やりこじつけること
  素戔鳴尊:スサノオノミコト


弁才天女を祀る不空院、かつては(いつの時代か知りませんが)、お茶屋街の女将や芸妓たちから、
深く信仰されていたという。芸妓は、現代で言えば歌手、ピアニスト、ダンサーのようなタレン
ト業ですから、弁才天が、彼女らの信仰の対象となっていたことはうなずける。

だけど、弁才天が女人悲願に応える神様とはいえ、「縁結びさん、縁切りさん」とどうして結び
つくのか釈然としない。この点について、「奈良の小寺」にエピソード(追記)がある。


 照葉.jpg 
 新橋の芸妓時代の照葉


京都祗王寺の高岡智照尼(1896〜1995)、出家する以前は、大阪宗右衛門町の名妓として名を高
らしめた、照葉女の後身なのである。この照葉女が、ふとした事から色街を抜け出し、大和の
しかもこの不空院へ転がり込んできたのである。当時の弘厳和尚は照葉女をこの寺にかくまうた
のである。』その後、昭和9年、彼女は、大和の久米寺で剃髪され、尼となった、と書いてある。

※ 照葉女:高岡智照尼の芸妓時代の名前、大阪宗右衛門町では千代葉だが、その後、新橋では
「照葉」に改名 
※「服部隆幸旅の寄り道」 
http://brea.weblogs.jp/hattori/2008/04/post-2801.html
※ 照葉の写真「今朝の浅草日記」からコピー 
http://www.edo.net/edo/0204diary/2007/071218.html



不空院が、「駆け込み寺」と評判を得たのがいつのことかは知らないが、きっとこの照葉事件
以後のことであり、転じて、「縁結びさん、縁切りさん」の寺となったのも、昭和に入ってから
ではなかろうか。


ところで、神社には、神の使い、狛犬やキツネなどの阿吽像がつきもの。キツネもタヌキも化
かしたり化けたりが得意技。しかしキツネはいまひとつイメージが宜しくない。逆に、物語に登
場するタヌキは愛嬌があって憎めないキャラクター。
そんな訳でか、不空院では、女性受けを狙って、愛嬌のある、タヌキを採用した、と私は想像す
る。このタヌキ、今は放し飼いになっている。


 山門から本堂を.jpg


不空院は、新薬師寺と通りを隔てた向かい側にある。しかし、参拝者のほとんどが寺の前を素通
りする。「ちょっと覗いて見ようか」という気持を、山門に置かれた木の柵が、邪魔をする。
また、縁結びさん、縁切りさんと染め上げられた、鮮やかなノボリや提灯に、ちょっと気後れす
るからなのだろう。


 石灯篭.jpg 本堂裏の墓石.jpg


不空院の創建は、新薬師寺と同じ、奈良時代初頭鑑真、叡尊、空海までもが由緒に登場する旧跡
である。境内を歩けば、その形跡を見つけることができる。


《追記》

奈良町でもう一匹のタヌキを発見。菅笠にお通い帳、徳利も下げている「酒買いタヌキ」。 
不空院のタヌキたちとは兄弟である可能性もある。

寺や神社でタヌキの石像はけして珍しいモノでもないようだ。「家庭円満、縁結び、子授け、
福運、水商売の神」として大切にされている。中でも四国はタヌキ王国といわれ、古くは弘法大
師空海と太三郎狸の逸話が有名。


 旅タヌキ.jpg






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2009年10月23日

鹿ケ谷の陰謀 俊寛の塚

図書館で「奈良の小寺」を借りた。その一節「俊寛伝説の寺(正覚寺)」に紹介された「俊寛塚
の写真に惹かれ、現地を訪ねて見た。


 俊寛塚.jpg

『興福寺境内の菩提院大御堂、通称十三鐘のある所をホテルの裏へ池に沿うて行けば、その下に
労働会館がある。その館の表角に径に沿うて、俊寛の墓と彫られた粗末な切石の標石が建って
いる。』 ※ ホテル=菊水楼 労働会館=なら土連会館 俊寛の墓=俊寛の塚

俊寛塚の立つこの地は、猿沢池、奈良ホテル、荒池、興福寺に囲まれた一等地というべき場所だ
が、今は一軒のラブホテルがある、捨て置かれたような狭雑な場所となっている。俊寛塚が建て
られた当時は、菩提院大御堂や興福寺五重塔、猿沢池を見渡せる絶景の
場所
であっただろう。

『これが塚とは思えない。付近を見渡すが塚らしきものが無く、これが塚とすれば、俊寛が、
奈良で忘れられるにふさわしいあわれな墓である』と本は続く。
実際に、地図を確かめながら、塚のある辺りを行過ぎてもそれらしきものは見当たらない。本に
あった写真を思い出し、背景の寺の屋根らしき景色を菩提院であろうと推測して、見つけた。 
道の曲がり角、フェンスに囲まれた「俊寛塚」があった。

俊寛」の名前を見てもピンと来なかったが、『安元三年(1177年)藤原成経、平康頼等と相謀り
秘かに京都東山鹿ケ谷山荘に於いて平氏滅亡を・・・・』のくだりで、思い出した。中学の歴史
の教科書で習った「鹿ケ谷の陰謀」の登場人物。陰謀つまりクーデターのことだが、成功すれば
時の人、失敗すれば罪人。密告により、クーデーターに失敗した俊寛は島流しにされた鬼界ヶ島
で生涯を終えたとある。
 ※「俊寛」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%8A%E5%AF%9B%E5%83%A7%E9%83%BD

本では、奈良市高畑町にある俊寛塚は、俊寛の師、興善院僧正蔵俊が供養塔として建てたもので
はないかと示唆している。陰謀の8年後に平家は滅亡する。鎌倉幕府発足後、源氏の出身である
俊寛に対して、何らかの名誉回復の動きがあったであろうと推測される。
※「興善院」は興福寺の塔頭のひとつで、今の菊水楼の辺りにあった。

正覚寺とのかかわりはと言えば、「奈良坊目拙解」に『俊寛僧都は従者たる有王丸のはからいで、
鬼海ヶ島を潜かに逃れて、南都のこの寺(正覚寺)に隠れたとされている』と本に書かれている。

俊寛については、歌舞伎でも演じられるという近松門左衛門の作の人形浄瑠璃「平家女護島」が
面白い。


 正覚寺木戸.jpg

正覚寺を訪ねてみた。木戸に「正覚寺」と墨書された木札が掛けられているが、声を掛けること
も憚られる。

※「奈良の小寺」昭和39年5月発行、著者・発行人 小林喜久一(元NHK奈良放送局長)



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2009年10月17日

亀井勝一郎 大和古事風物詩 (2)

奈良市高畑町界隈のこと

 崩れた築地の蔦葛.jpg たかばたけ茶論.jpg


大和古寺風物詩」(亀井勝一郎)を読み終えてから随分たつが、いつまでもしっくりこないペー
ジがある。最終章の「新薬師寺 高畑の道」が、それである。

『ところが高畑の道筋は、注意してみればみるほどだんだん感心しなくなるように出来あがってい
るようだ。どこか薄汚い場末の感じがある。昔はこの辺に癩者などが住んでいたのではなかろうか。
築地の破れのひまよりは、秋草の静かにゆらぐ様などがみえるのを期待したが、予期に反しておむ
つの乾かしてあるのがみえた。民家ではこれと思う風情をそなえたものはむろん一軒もない。
不空院の・・・・』


心温まる接待.jpg 志賀直哉旧居.jpg


昭和17年冬に書かれた文章であるから、現在と異なる事象があっても当然ではある。 しかし、昭和
28年に刊行された時に、この本を読んだ奈良高畑(たかばたけ)町の住人はいい気持ちはしなかった
であろうと、私は思う。


 大正時代風外囲.jpg 土蔵のある家.jpg


亀井氏自ら、『人工人事にとかく容喙しがちなのは批評の習い性となった故でもあろうか。(中略)
何も好事癖からではない。高畑の道筋がこんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えて
みるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の方がまさってい
たからであろう。』と反省の弁を加えてはいるものの、氏の偏見著しいところと、思う。


 庄屋風な.jpg 江戸時代の門構え.jpg



恐らく、戦争のさなか『今度こそ家が焼かれるか、死ぬか,そんな思いで暮らし続けた』日々が、
氏の豊かな感性を、すさませのであろう。そんな時の、古都訪問記であったと、思わざるを得
ない。 ※「人工人事」:人が作り出したもの、人間としての感覚や知覚。
      「容喙」(ようかい):関係ないことに口だしすること。



 新薬師寺石標.jpg 
  「しんやくしち」「し」ではなく「ち」という仮名使いが興味深い


ともあれ、今日、高畑の町をよく見直してみようと思ったのは、自分が昨年の夏、新薬師寺への
をたどった時に受けた「落ち着いた街並」という印象を、亀井氏がしたように、自分も確認するた
めでもあった。


 頭塔ウェルネスから.jpg 頭塔入口.jpg
  頭塔


改めて歩いて見て、以前の印象を大きく変えるものではなかった。が、今日の印象は、高畑の町が
随分な高級住宅街であり、明治以前は相当由緒ある、高貴な町であったのであろうと考えた。


『寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずる
そのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒
廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。』文頭にある、
70年以前にはじめて高畑町を通った日に受けた亀井氏の印象は、今初めて訪れる旅人が受ける印象
と、さして変わるものではない、と思うのだが。


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<追記>
入江泰吉記念奈良市写真美術館で、「万葉恋文」展を見た。
どの写真を見ても「すごい」としか自分には言いようが無い。シンプルで、美しく、表現したいこ
とが確実に伝わってくる。 一番すごいのは、シンプルということだと自分は思う。






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2009年07月25日

『大和古寺風物詩』亀井勝一郎 (1)

「大和古寺風物誌」 亀井勝一郎 著

奥が深いというか何度も読み重ねの利く本だ。難解という訳ではない。
読むたびに書に対して理解や共感が深まるのだ。


法隆寺の林
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風物詩とはいかにものどかなタイトルだが、この本の内実は、亀井氏が大和の古寺古仏に
相対するうちに飛鳥の地獄、聖徳太子が歩んだ凄惨な生涯に思い至る氏の遍歴の日誌だ。

著者亀井氏があとがきの中で 『この本は歴史書のようなところもあるし、宗教的でも
あるし、美術として考えている個所もあるし、また旅行記として書かれた文章も入って
いる。』 と言っているが、昭和の大戦を挟んだ足かけ15年の古寺巡礼の期間に
『古寺古仏に対する私の気持ちに様々な変化があった』ことはしごく当然のことであろうし、
それがこの書の奥行きの深さに繋がっている。


樹間から見る五重塔
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『古寺を巡るごとに、諸仏に対する私の感慨も次第に変わってくる。はじめての日のような
率直な感動は少なくなって、へんにいらだたしくなったり、或は不安を覚ゆるようなことが
多い。どれほど美しい尊いものも、度重ねてみているうちには日常茶飯事になってしまう
のだろうか。いつの間にか慣れてしまって、自分の感受性も鈍くなるのだろうか。

しかしそうとばかり言えないものが私の心にわだかまってきた。
古寺とはそもそも何だろう
たとえば大和の古仏が、畢竟(ひっきょう)自分の心にもたらした感銘とは一体なんであったか。
私は何のために古典の地をうろつき廻っているのか。秋晴れの斑鳩の里を歩みながら、
ふと私はかような疑念にとらえられるのである。嘗ては悦びであったものが何故私に不安な
気持ちを抱かせたりするのだろうか。(63頁) 法隆寺  』


飛鳥の歴史を見守る楠の古木
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斑鳩宮夢殿
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亀井氏の「不安な気持ち」は次の文章に記されている。

『大和古寺を巡るにしたがって、私の心に起こった憂いとはつまりこうだ。
代々の祖先が流血の址を見て廻るものの不安と云ったらいいか。何故こんなに多くの仏像が
存在するのだろう。三千年のあいだ、諸々の神仏あらわれて、人の祈りに答え、また美しい
祈願の果ての姿となって佇立している。かくも見事な崇高な古仏がたくさん列んでいて、
しかも人間はいつまでも救われぬ存在としてつづいてきた。
どちらを 向いても仏像の山
万巻の経典である。古来幾百人の聖賢は人間のため道を説き血を流した。

いま我々はその墓場を訪れ、どうかしてこの現世の大苦難を脱けきる道を示し給えと
祈るのであるが、そしてすばらしい啓示や教えに接し、日々その言葉を用いるのであるが、
苦難は更に倍加し人間は何処へ行くべきかを知らない。古典を受け継ぐとは、つまり
地獄を受け継ぐことなのか。はじめ古典はその甘美と夢によって我らを誘うであろう。
だが、汝等固有の宿命に殉ぜよという追放の宣言がその最後の言葉となるのではなかろうか。
かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんでゆく。
仏様の数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう

一躯の像、一基の塔、その礎にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋もれているのであろう。
久しい歳月を 経た後、大和古寺を巡り、結構な美術品であるなどと見物して歩いているのは
実に呑気なことである

(70頁) 法隆寺 昭和十六年秋』

 私たちが学ぶ日本の歴史の多くは「光」の面を強調したものであり、「陰」の面は曖昧
巧みに隠されている。歴史の「陰」を知ったときにはじめて古寺古仏は心に重く静かに
侵み込んでくるのではなかろうか。

『仏法はいまだ漸く現世利益か乃至は迷信の域を脱しない。さもなくば政略の具であった。
諸家の仏道は徒に血族の屍の上に建立されたかに見える。現今の斑鳩の里がもたらす和やかな
風光からは想像も及ばぬ。(中略) 飛鳥の精神はただ美しい古仏や寺院にのみあらわれて
いるのではない。それを支える根源には創造を絶した苦闘があったのだ。 (中略)


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私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺へかけて巡拝するたびごとに、この斑鳩の里に嘗て
太子の歩まれたことを思い、一木一草すら懐かしく、在りし日の面影を慕いつつ佇むのを
常とする。 斑鳩宮 昭和十七年秋 』

 斑鳩の里をまた度訪ねてみよう。今度はどんな景色を見ることができるのだろう。

大和古寺風物詩 新潮文庫 平成二十年七月十五日 八十刷

西の土塀
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2009年07月16日

榊莫山の大和路紀行

榊莫山氏揮毫の世界遺産東大寺石碑

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大和 千年の路」 榊莫山

この本「大和 千年の路」は書家 榊 莫山(さかき ばくざん)氏の大和路紀行であり、
「書」あるいは「文字(もじ)」という視点を通した奈良の古寺・古道や、その場で係わった
「人たち」についての想いがつづられている。

読み進むうちに、これまで何気なく見過ごしてきた石の道標や、歌碑に対して俄然強い興味が
湧いてきた。

明日香の項の中、「道標の<右はよしの 左たふのみね>の字の上には、一字、梵字が彫られて
いる。 字も梵字も、筆の立つ人の呼吸がのたうっている。
のたうっているけれど、重くはない。
とてもおしゃれな文字なのだ。(中略) その筆づかいの呼吸を、じっと見ていると、
拝みたくなってくる。 そうよ、なあ。
むかし、吉野や多武峰へいそぐ旅人たちも、この辻で、この道しるべを拝んで、旅を急いだ
ことだろう。(103頁)」

かつて地図もコンパスも無かった時代、道標は旅人にとって現地での唯一公式な情報であり
旅の安全を約束する拠り所だったと思う。
今の時代でも深い森や、山道を進む時、道標はまさに進むべき路を示してくれる無二のデータで
あり、見落とせば二度と山から抜け出せないこともある。
たしかに、拝みたくもなる。

呼吸がのたうっている」?
どういうこと?  気持ちがあからさまに解るということだろうか。


「両脇の刈り込みがきれいな石段を上りつめると『良助親王冬野墓』と彫った、さして大きくない
石標がたち、あたりは、しめっぽい山の空気につつまれていた。
(中略)それにしても墓標の楷書の文字がよい。
ものほしげさはみじんもなく、鋭い目をして淡々と、爽快このうえない気分を宿しているのだ。
気韻清浄。 この山に棲む苔むした字に魅かれる。
明日香の野を歩いても、これほど透明な楷書の字は、みあたらないのである。(105〜108頁)」

道標に彫られた文字を読んで同じように感得することはこれまでの自分には到底できなかった。
石に刻まれた書や文字をそのように見て、想うこともできるのだということを初めて知った。
書に係わらず、絵画、芸術は見る人の心のうちに受け入れる素地が無いと見過ごし、何の価値も
喜びももたらさない。

路傍の道標は時には犬の格好のマーキング対象にもなる。
しかし人がそれに接するとき、それは命の綱である。かつて数え切れない人々がその前を往来し、
そこに積み重ねられた歴史に思い巡らす貴重なきっかけとなるものなのだと、この本を読み、
初めて教えられた。

唐招提寺の杜の西、近鉄電車の線路をこえて、すこうし小高い丘の上に、「大界外相」と彫った
石標が立っていた。
(中略)石の字は、しっかりとした楷書の文字で、やや整いすぎて魅惑に乏しいな、と思った。
が、それが素朴で、かえって野の風景にふさわしい――と、思いなおした。
うますぎてもよくないのよなあ。(145〜146頁)」

※ 現地を探訪したものの、その道標をついに発見することはできなかった。
唐招提寺あたりの「大界外相」の石標は、氏が最初に書いた本「野の書」に紹介されている
とのことだが、昭和40年の発刊の本であり、45年が過ぎた現在では、そこは小さなアパートや
住宅が密集した地域。開発の途上どこかに移転したのかもしれない。

唐招提寺旧参道の石標
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古都奈良にはいたるところに石標(いししるべ)がある。
これからは 必ず立ち止まってじっくりと見てみる。
きっと何かこれまでと違う景色が見えてくるはずだ。

東大寺二月堂裏参道中性院表札
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奈良東大寺に、氏の揮毫による石碑と二月堂裏参道にある中世院の表札が氏の書であると聞き
早速見に行った。
以前から「変わった書体だな」と気になっていたモノだが、改めて見ると、やはり味のある
個性的な印象を受ける。

ついでに、戒壇院前にある「大界外相」の石標を撮影。
明快できっぱりした力を感じるな・・・・・
※「たいかいげしょう」と読む。境内と俗界を区切る標石。
寺院でよく目にするが、書体を鑑賞しようとしたことなどは一度も無かった。

東大寺戒壇院結界石
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「大和 千年の路」榊莫山 文春文庫 
posted by ハマー at 22:23| Comment(1) | 奈良を読む一冊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月10日

立松和平と法隆寺 法隆寺の智慧 南大門

立松和平著作「法隆寺の智慧 永平寺の心」読んだ。
第一部第三章 伽藍を読み解く から一部分抜粋。

『 法隆寺に行くと誰もが直感の泉になるものだが、それはいまだに解かれていない
謎に満ちているからである。私たちは何故こんなに美しいかわからないままで美しい
と思い、この大伽藍を眺め、一方で歴史の謎を楽しんでいるのだ。
法隆寺の整然とした美の背景には、一見すれば混沌とした、その実一定の法則に支配
されたエネルギーの発露がある。まさに自然なのである。

あれだけの権勢を誇った蘇我一族は滅してたいした痕跡を残しているわけではないが、
聖徳太子の精神は法隆寺のいたるところに輝きつづけているのである。

この歴史をひとわたり眺めただけで、法隆寺が、ただ美しいというたたずまいだけで
そこに在るだけではないことが、わかるであろう。美の根底には、それが完璧な美しさ
をたたえていればいるほど、その反対に闘争や苦悩が隠されているものである。
寺は武力とは無縁の、心理の容れ物なのである。人の精神を柔和にし、慈悲に満ちた
ものにしなければならない。そのために、あちらこちらに工夫がこらされている。
これらも法隆寺の智慧である。 』 


奈良の社寺を巡っていると、日本仏教と大和の歴史に関心を持たざるを得ない。
写真を撮ることは単に見てシャッターを押すだけのものではなく、そこには自分なりの
精神世界の展開、発露ゆえのものがある。


「法隆寺の智慧」は作家立松和平氏の法隆寺金堂修正会一週間の体験談をベースにおいた
仏教世界を学ぶ修業のドキュメンタリーだが、日本仏教のなりたちとその精神を聖徳太子と
法隆寺の因縁をもとに紐解く、格好の入門書といえるのではないだろうか。

私にとってもまた奈良という風土の本質を知るための優れた指導の書と感じている。

新潮新書 立松和平著 「法隆寺の智慧 永平寺の心」 

法隆寺南大門

『法隆寺で第一の風景を選べといわれたら、少し迷ってから、私は南大門からの眺めというだろう』

法隆寺南大門.jpg  法隆寺中門.jpg

『千三百年間も、この光は変わらないであろう。連子窓の横で斑になっている光も、
それはただ光に過ぎないのに、私は踏んでもよいのかどうか一瞬迷ってしまう。』

法隆寺講堂.jpg  法隆寺回廊.jpg


posted by ハマー at 20:11| Comment(0) | 奈良を読む一冊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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