2010年09月04日

聖林寺十一面観音像到来由来

聖林寺を訪ねると思い浮かべずにはいられない絵がある。それはフェノロサが十一面観音を積んだ
大八車の後先になり聖林寺に向う絵である。そしてその大八車の後押しする小坊主の姿もである。
この私の想像の絵は、どうやら白州正子の『私の古寺巡礼』の一文の影響によるようだ。

 s-P9032911聖林寺山門百日紅.jpg 
 聖林寺石垣 今日住職不在のため吹流しは見えない

「老住職はその(十一面観音像)前に座って、十一面観音が聖林寺へこられた由来を語ってくださ
いました。フェノロサが、三輪神社の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでらともよむ)の床下に、
天平の仏像が放ってあるのを発見し、こんなことをしておいては勿体ないといって、荷車を 引い
て、聖林寺へ運んできた。その荷車の後押しを したのが、当時十二歳であった住職で、その仏像
がこの観音さまだと話してくださったのです。」白州昌子 『私の古寺巡礼』1932年(昭和七年)

 s-P6109381大神神社若宮社.jpg s-P9032848聖林寺山門三輪山遠望.jpg
 大神神社若宮社                   聖林寺山門からみる三輪山

三輪神社の大御輪寺というのは大神神社二の鳥居のすぐ北にある若宮社(大直禰子神社)のことで
あり、神社と言っても大神神社の神宮寺であったのだからその佇まいは当然仏閣そのものである。
そこから聖林寺までは直線距離でおよそ4km。

 s-P9032866聖林寺本堂借景.jpg 
 聖林寺本堂借景

聖林寺の山門から目を北に転じるとすぐ真近に洗面器を伏せたような三輪山の姿を目にすることが
できる。意外に近くに感じる。フェノロサが何故聖林寺に十一面観音像を運んだのか本当の理由は
分からない。が、思うに、大御輪寺に修業に来ていた聖林寺の小坊主が、たまたまフェノロサとと
もに古寺宝物調査に来ていた助手の岡倉天心に対して、自分の寺に欲しいと少年の気安さで頼んだ
のではなかろうか。もともと聖林寺は大神神社 とも関係が深く神社関係者も特に異議を唱えること
もなく了承した。そこでフェノロサは、それではついでにその聖林寺の本尊子安延命地蔵菩薩を見
に行ってみるかと同行した。こんな話ではないだろうか。

 s-P9032876聖林寺子安延命地蔵菩薩.jpg
 子安延命地蔵菩薩像
 
何故小坊主は自分の寺に十一面観音像を欲しいと考えたのか。それは、十一面観音像に幼くして離
れ離れになった大好きな姉の面影を見ていたのではないか。だから・・・・と私は想像するのである。
今日改めて観音像を拝見してその勝手な想像はますます強くなったのである。
posted by ハマー at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺・初瀬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

三輪から慈恩寺の道

□三輪から慈恩寺へ

奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社から金谷地区を経て慈恩寺まで写し歩いた。
三輪山を取りまくように走るこのルートは、山の辺の道から伊勢街道へとつながる。
伊勢街道というよりも初瀬(はせ)街道と言ったほうが地理的に馴染みやすい。
この道は長谷寺から伊賀に至りさらに、伊勢神宮へ向う歴史街道でもある。


 三輪市街大鳥居.jpg 三輪成願稲荷神社.jpg

 三輪子安地蔵尊.jpg 三輪素麺農家.jpg
 三輪の町は参道を挟んで南側が神社関係の建物や商家、
 北側が三輪素麺の生産農家の集落に分かれている。

 

コースの中ほど桜井市金谷あたりは(現在の)山の辺の道の基点として設定されており、
椿市観音堂がそのスタートの場所になる。
しかしこの観音堂、道から少し奥まったところにあり、また案内の標識もわかりづらいので、
それと知らずに通り過ぎる人も少なくない。


 海石榴市伊勢街道.jpg


そこから更に南へ2km下ったところに今日のゴールの慈恩寺地区がある。
慈恩寺はかつて、玉列(たまつら)神社の神宮寺であったが、今は衰退し、残る阿弥陀堂一宇を
若い僧侶夫婦が守っている。本堂はない。宗派は融通念仏宗と聞いた。

 
 玉列神社石段.jpg 
 

この慈恩寺阿弥陀堂は、写真家故入江泰吉氏の自選作品集「奈良大和路 春夏秋冬」のなかに
収められている写真を見て以来、一度は訪ねてみたいと思っていた場所である。
あの「阿弥陀堂道標」というタイトルのついた写真に見たその道標はあった。
しかし、どんなにアングル、構図を試してみてもどうも決まらない。
記憶していた写真の構図にすることができい。
しかし、これまで何度もなんども見た「道標」に間違いないのに。

 
慈恩寺阿弥陀堂道標.jpg


家に戻って、件の写真集を見直してビックリ。なんと道標の向きが変わっていた。
90度逆時計方向に回転していたのだった。
向きの変ったことで写真が撮れない(絵にならない)ということではないが、少なからず困惑した。
何故、向きを変えたのだろう。
尤も、本来道しるべのこの石仏が、庭の中にあるのも可笑しなことではあるけどね。


□椿山と上田重治郎じいさんのこと


 椿山落ち椿.jpg
 


慈恩寺の帰路、「椿山」に寄った。
「椿山」のことはこの春以来「椿」に関心を持つようになって、いろいろ資料を検索している時に
発見した、椿の名所だ。「椿山 山の辺」がこの椿の苑の正式な名称。


山の一角、北東の斜面3万3千uの場所に千品種1万本近くの椿が植栽されているという。
4月下旬のこの時期、椿の花はおおかた散っており、数本の遅咲きの木に花がチラホラと残って
いるだけだった。それでも山内を歩くと、目につくほとんどの木椿の木と言ってもよい。
これほど沢山の椿木が密集しているのに、人の手によるものという感じはしない。
椿の生育にあうようにもとからある桜やケヤキ、樫などの樹木をうまく残した、自然の山の景色
そのままなのだ。


 椿山上田重治郎じいさん.jpg


山桜の古木の枝に毛筆でしたためられた板が下がっていた。
『山櫻 上田重治郎じいさんが山に一本一本椿を植えていたのを見おろしていたのは私が
五十位かな六十才くらいかな』と記されている。
上田重治郎じいさんとはこの「椿山 山の辺」を開いた方で、残念なことに昨年なくなられたという。
この木札は、後を継いだご子息の上田隆司さん(61)と誠子さん(59)夫妻がお父さんを偲んで、
知り合いの地元の書道家に、板書してもらったそうだ。

s-P3261701.jpg s-P3261686.jpg

昭和26年、重治郎じいさんが雑木の山を切り開き最初の一本の椿を植えた時から59年がたった
ことになる。山桜の樹齢は160才か170才になった。
個人が独力で一万本の椿を植え育てそして今あるこの椿山をつくったのだ。その偉業に
ただただ敬服する。「来春必ず見に来ます」と上田隆司さんに約束をして、下山した。
今日、椿の花を見ることは出来なかったが、山を彩り飾る椿の花のイメージが眼に浮かぶ。

※海石榴市の椿山
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/camellia3.html



posted by ハマー at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺・初瀬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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