2013年04月18日

シカに桜 奈良の春風景

飛火野の朝景色

春日山は飛火野で最も姿よく撮ることができる。地形図を見れば容易に了解できることだが、飛火野、春日山、花山、芳山(ほさん)が一直線上にあり、飛火野から見るそれぞれの山の頂上(最高峰)もほぼ一直線上ある、その事が飛火野を絶好の撮影ポイントにしている。

ところで、今まで自分が春日山と思っていたのが実は御蓋山(みかさやま)であることを知った。そして春日山というのは御蓋山と背後に聳える花山、芳山(ほさん)等を含めた総称であり、奈良の地に春日山という名の山は無いという。

 s-P4114059飛火野萌える葉桜.jpg

その御蓋山だが、その山容を目にすることは意外に難しい。というのは太陽の位置つまり太陽光線の角度によっては御蓋山が背後の花山、芳山に重なり紛れ、一体化してしまう場合が多いからだ。ただ、日の出からの数時間、花山・芳山を背景にして御蓋山が名前のごとく貴人のかざす蓋のシルエットに浮かび上がる時間帯がある。そのわずかな時間が絶好の撮影タイムとなる。

その絶好の撮影タイムを狙って飛火野を訪れたのだが、幸運なことに?景色の中に鹿の一群が遊ぶ御蓋山を撮ることができた。飛火野の山桜の白い花はほとんど散ってしまっていたが、枝幹を覆う新葉は陽の光り透過して紅赤や緋色、金茶色に染まり春紅葉の景色を見せていた。この写真を撮った直後に天空は西風が運んでくる雲に覆い尽くされ、一瞬にして木々の輝きは消えてしまった。

 東大寺東塔跡の桜

まだ散らずに咲いていてくれと願いながら東大寺東塔跡の桜を見に行った。基壇周りの地面は散り落ちた花びらで薄桜色に染まり、のどかな仲春の景色を見せてくれていた。桜とシカではあまりにも陳腐ではあるが、如何せん奈良も陳腐な古都ではある。

 s-P4103921東大寺東塔桜の森.jpg

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2011年12月16日

春日山の冬紅葉 稲畑汀子の句に寄せて

季語に「冬紅葉」がある。紅葉といえばふつう秋の風物だけど、初めて「冬」という字を頭に添えた
俳人の感性に敬服する。

稲畑汀子の句 『冬紅葉こぼれし夕日集めけり』

 s-PC129781いろは楓.jpg 

「こぼれし」は木漏れ日のことだろうか。或いは雲の切れ間から覗いた夕日ことだろうか。冬の夕暮
れ、時折雲間から差し込む陽の光を受けてさらに色鮮やかに燃えるもみじ葉の輝きを思い描くことが
できる。

『冬紅葉絵巻山路の九十九折』
『ようやくに色ととのへり冬紅葉』

 s-PC129766春日山遊歩道五色もみじ.jpg 

春日山遊歩道の登山口から500mほど上がった初めてのヘアピンカーブのあたりに「五色もみじ」の見
られる場所がある。11月の初めに通ったときに知った場所だ。
12月12日、もう遅いかもしれないと案じつつ、春日山の坂道を登った。行く道に厚く積もった土色の
山もみじの落葉を見るにつけ、ちょっと心が揺らぐ。
それでもヘアピンカーブに近づくにつれ行く先々に色づいたヤマモミジが見える。五色もみじは一本
の木ながら葉が五色に変化しながら染まって行くらしい。見ればたしかに複雑な色合いをしている。
紅葉した幾本かの木それぞれもまた異なった色を見せている。まだ緑色の葉を見せている木も目立
つ。きっぱりと朱にそまった紅葉に比べなんだが情けないようなちょっと残念な気もするが、これが
「五色もみじ」の紅葉なのだろう。

 s-PC129742春日山遊歩道紅葉.jpg 

『散り尽くすまでの変幻冬紅葉』
『同じ赤なかりしことも冬紅葉』

葉の落ち切るまですこしずつ色変わりしてゆくという冬紅葉だが、その変わりようを「変幻」とすると
はなんと美しく気ままな表現だろう。
冬紅葉の美しさは、すでに終わったと思っていたものを再び見つけたときの喜びであり、つかの間と
はいえ、色を失ってしまった冬の野山の味気なさを救ってくれる時季遅れり紅葉への感動であろう。
同じ赤い色を見せる草木が見えない野山に独りあるからこそ冬の紅葉は美しいと。

 s-PC129723冬紅葉地蔵院.jpg 

『極めるといふは狭路の冬紅葉』

「狭路」とは細い道或いは小道のこと。多分、家の前やごく身近な生活道路のこと。外出の行き来に
毎日のように通る小道の際に植栽された紅葉を詠ったものだろう。初秋から晩秋、そして仲冬の時季、を通したもみじ葉の色変わりを見つめた一句。極めるというのはそういうことにちがいない。

稲畑貞子は「冬紅葉」の句を実に多く詠んでいる。数えたことはないが30句以上あると思う。
稲畑汀子は子規や祖父である虚子の流れを汲む写生派の俳人であるので、その句は写実的であり、あ
りがたいことに詠まれたその光景を容易に思い描くことができる。しかしまれに、どうにも絵の浮か
ば句がある。

『これよりはあるがままなる冬紅葉』

他の俳人の句にしても、なんか気になるのだがどうにも腑に落ちない解らない句というもりがある。
解らないから余計に気になって忘れられない句のひとつになる。しかし、ある日突然にその句そのま
まの景色に遭遇し、一瞬にしてその意味の解ることがある。「冬紅葉」の時季はもう幾日もないが、
「これよりはあるがままなる冬紅葉」の句、どんな景色の中にみえるのだろう。
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2011年12月14日

平城山の晩秋から初冬の景色

照葉樹の雑木に覆われた平城山(ならやま)は11月の下旬から12月初旬までに麓から頂上まで朱赤に染
まる。この時季、この山に限らず奈良市街地周辺の道を走ればどこまでも続く紅葉の山々を見ること
ができる。

 s-PC039585ならやま初冬.jpg

その紅葉も冬の寒波にあえばたちまちに色褪せた枯れ色になる、そして冷たい風が一枚一枚と衣服を
剥いでゆくように枝の色葉を徐々に落として行く。
しかし葉を落としてすっきりと明るさを取り戻した雑木の森は、今度は暖かな淡黄色の彩りに満たさ
れる。クヌギ、エノキ、針桐、タカノツメやまだ多くの黄葉が平城山を彩る。
平城山の晩秋から初冬にかけての紅葉黄葉に変わる様を見る時、自然の持つ不思議さというか奥の深
さみたいなものに圧倒させられまた魅了される。

 s-PC039613コナラの森.jpg s-PC029575錦葉.jpg

尾根と尾根の間に広がる谷地田の景色もまた独特のものがある。谷地の真ん中の小山は元明天皇陵
だ。千数百年前に造られた陵墓も今では自然の一部になってしまったように見える。だがしかし平城
山は佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)と呼ばれる4世紀末から五世紀前半に造られた王墓を
含む皇族・豪族の古墳の広がる地域で、奈良では「小山をみたら古墳と思え」といわれているくらい
古墳の多い土地だが、そういう視点で見るとまるでここが死者の谷のようにも思えてくる。

奈良山は、紅葉、黄葉そして枯れ色と変わる晩秋から初冬にかけての景色がもっとも見ごたえがあ
る。

 s-PC109661ならやま谷地田.jpg



 
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2011年10月30日

ならまち十念寺・お化粧地蔵 

この地に旧くから住む人の間では厚化粧した女を「金比羅さんの地蔵さんのようだ」と云ったそうだ。
今でもそう言われるのか知らないが、語源となった金比羅さんの地蔵さんは、ならまち(奈良市南風呂町)
の十念寺に祀られている。この寺の正式名称は「忍性山愛染院金比羅十念寺」と号し、それで金比羅
さんとも呼ばれる。

s-PA223346化粧地蔵.jpg
 お供えのリンゴとコーヒーはわかるがジャガイモは?

化粧の風習は古墳時代(4〜6世紀)に遡るが、女性の化粧が当たり前になったのは明治時代以降のこと
で、現代の女性のように顔面全てに化粧を施すようになったのは昭和も戦後のことと聞く。
子供の頃(昭和30年代)中学校の美術の先生がアイシャドウやラインをしているのがとても珍しくて話
題になっていたことを覚えている。今思えば多分東京の美術大学を出てすぐに赴任したのだろう、お
姉さんのような年齢だった。
当時の名古屋では濃い(派手な)化粧をするのは映画女優や夜の職業に従事する女性に限られ(ていたと
思うが)、周りの大人たちは一般女性でそのような化粧をした女性のことを何故かいまいましそうに
「パンパン」と呼んでいた。(どういう意味かわからなかったがなんとなく良い意味ではないと感じて
いた)

 s-P1070770十念寺地蔵尊.jpg
地蔵菩薩の性別は不明だが様ざまな人や生き物の姿に変化する

「金比羅さんのお地蔵さん」という言い方、気位の高い奈良の人々においては、金比羅さん=花街=
遊女=厚化粧と揶揄した物言いであろう。『十念寺のお地蔵さん』とは決して言わない。
興福寺の南、猿沢池あたりから十念寺あたりは東大寺や興福寺の門前町として栄え、西寺林町や東寺
林町あたりは寺社詣での夜の遊び場としての面影を今に残す。
十念寺界隈は「木辻の郭」とも呼ばれる遊里として繁盛し南東の鳴川(なるかわ)町とともに遊廓
(ゆうかく)を形成したという。

s-PA223350十念寺山門.jpg
 小さな山門でつい見過ごしてしまいそうだ

十念寺のお地蔵さがいつの時代からお化粧をしていたのかは不明だが、享保三年(1718)の銘があり、
彫られた当初はピカピカの石地蔵さまのままであったはずだ。ところが十念寺を含むこの町一帯は僅
か二年後の享保五年の火災により全て焼失した。石で造られたこのお地蔵さま姿こそ残ったものの光
背は頭上のあたりで割れ落ち、炎火に焼かれた岩肌は煤で赤黒く変わり果ててしまった。

s-P1070764十念寺.jpg
 1729年(享保14)再建の本堂屋根はさすがに歴史を感じさせる

その九年後享保十四年に本堂や愛染堂は再建された。長い間風雨に曝されていたお地蔵様は、当時京
都で流行っていたお化粧が施されお堂に祀られることとなったと推測しても、場所柄そんなに的外れ
なことではないだろう。粋な仕様ではないか。

このお地蔵さんもともとは瘡(くさ:できもの)を直す菩薩さまであるが、一つだけ願いを聞いてくれる
「一言地蔵」とも呼ばれる。何かと忙しい現今では(扉の奥に隠れたご本尊よりも)このお地蔵さまへ
のお詣りのほうが人気があると聞く。
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2011年08月15日

若草山の月は東に日は西に 奈良燈花会の夜

◆月は東に日は西に
8月13日(土)は「小望月(こもちづき)」。満月(望月)の前夜。若草山の頂から十三夜の月を撮ろうと
思った。頂上までは車で行き、若草山の二重目まで下って月の出を待つ。
満月の頃は月の出と日没の時間がほぼ同じ時刻になるので、一度に二つの楽しみがある

 s-P8136937日は西に.jpg 

19時01分、太陽は生駒山の西北西(方位289°)のあたり雲の中に消えた。予想はしていたが、月の出よ
り日没が先になった。標高342mある若草山の日没は平地より10分ほど遅い。時間がたつにつれ山際を
覆う雲は茜色に染まり、上空は濃いブルーに変わる。今日はまあまあの夕焼けになったと思う。※暦で
は月の出18時14分、日の入り18時48分

 s-P8136955奈良盆地黄昏時.jpg

19時15分、若草山のすぐ東背後に聳える芳山(ほうざん)の稜線の木立の間からサーチライトのような
強い光が射した。今にも月が顔を出そうとしている。山に囲まれた奈良の月の出は平野部より1時間ほ
ど遅い。

 s-P8136948芳山の望月.jpg  

東南東の方角、方位105°。考えていた場所よりも南に出た。日没の方向はおおよそ見当がつくが、月
の出る位置はコンパスを持っていないと予測が難しい。いつも思わぬ方角から顔を出す。
二分後芳山の上にまあるい月が浮かんだ。月の昇るスピードは見かけよりも速い。月は意外に明るい
もので60Wの電球の直射に相当すると聞いたことがある。露出や構図に迷っているとあっという間にシ
ャッターチャンスを逃してしまう。※月の上る速度= 地球の自転速度=1700km/h=? 

◆燈花会会場から流れ来る音楽に誘われて
若草山の二重目から残照の奈良盆地を撮る。19時25分、眼下の奈良公園一帯はすっかり闇の中に隠れ
てしまっている。遠く生駒山地まで街の灯りが続く。大仏殿の大屋根は闇に紛れてよく見えない。も
うライトアップされても良い時間のはずなんだが。
下の方から女性グループの歌声が風に流され聞こえてくる。横文字の歌詞だ。燈花会の点灯前のプレ
イベントなんだろう。そちらが気になるので、とりあえず会場が見えるはずの一重目まで下ることに
した。

 s-P8136963奈良燈花会の夜.jpg

若草山一重目からは燈花会春日野園地会場を見下ろすことができる。ライトアップされた南大門、奈
良国立博物館旧舘、興福寺五重塔も見える。山上から見た燈花会は生駒山の麓まで続く奈良市街の夜
景に比べて少し寂しい。だけど赤い蝋燭の光が特異な雰囲気をかもし出して幻想的だ。
山上からは人の姿は全く見えずわからないが、そこに下りて行けば本当に沢山の人が灯明に囲まれた
闇夜の世界を慈しんでいるはずだ。そんなことを思っていたら、なんだが急に自分が祖霊になって空
中から現世を見下ろし懐かしんでいるおかしな気持ちに陥ってしまった。燈花会の夜、若草山は人を
少し霊的な世界に誘い込むようだ。

午後九時少し前、ライトアップされた東大寺大仏殿を撮り終え、下山する。

 s-P8136976若草山大仏殿眺望.jpg 
 若草山二重目から東大寺大仏殿の大屋根を見る

参考URL
日の出・日の入り、月の出・月の入り、時刻と方位の計算 
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10508/cgi/Srss2.php
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2011年02月19日

ならやま 雪景色

2月15日 雪のならやま 

雪の降り積もる奈良をついに体験できた。
東大寺にしようか、薬師寺にしようか、雪が降ったら何処で何を撮ろうか以前から色々考えていたけ
れど、結局「ならやま」に向う。太古の自然がそのままに残っているというその地で雪景色を見たか
ったから。

 P2149936平城山散歩道雪日.jpg 

山道に入ってすぐ、藪椿を見つけた。葉も花も雪に埋もれてほとんど見えないが、鮮やかな赤が目を
惹いた。鈴木利策みたいに画面に白い雪を多く取り入れ、絞りを開放にして、撮る。雪の質感が飛ん
で白さが際立つ。

 s-P2149931雪椿.jpg 

竹の葉は、冬の終わり頃に穂先から徐々に黄色に色褪せて行く。
県道わきの竹林、激しく降り積もる雪の重みで穂先を低く垂らした竹むらは、まるで風に揺れ動く巨
大な稲波のようだ。ちょっと不気味で異様な雰囲気についシャッターを重ねる。
六、七分間のことであったが、片手では支えていられないくらいに重くなるまで傘に雪が積もってし
まっていたことに気づく。その後も激しい雪は降り止まなかった。

 s-P2149944竹林吹雪く.jpg 

奈保山の元正天皇陵に着いたのは午後五時半すぎ。あたりは降雪のためすでに仄の暗い。
写真を撮っていると目の縁になにかが動いた、と思った。なんと自分の横を狸が横切って行くではな
いか。こちらには全く気がついていない。下を向いてトボトボと藪の中へと消えて行った。
これまでに猪の群れやイタチなどの小動物にはよく遭遇したが、奈良市で狸を見たのは初めて。夜に
なったものと間違えてはい出して来たのだろうか。

 s-P2149963元正天皇陵.jpg 

2月16日 旧伊勢街道

 s-P2159994雪解道.jpg 

奈良坂から中ノ川に抜ける旧伊瀬街道を進む。この道は昨年12月9日偶然に入り込んだ道で、尾根伝
いなので見晴らしが良く気に入っている。今朝は当然一番乗りかと思っていたら、通勤の車なのだろ
うかしっかりと轍が残されているではないか。ちょっと悔しい。

 s-P2159976竹林雪飛沫.jpg 

道沿いの竹林に入る。低く斜めに射しこむ朝の光と、逆光に浮かび上がる佇立する無数の竹のシ
ルエットが綺麗だ。
昨日の積雪の重みで弓なりにたわんだ竹の穂先に残った雪に朝陽があたり、溶け落ち軽くなったとこ
ろで突然解き放たれた投石器の弓つるみたいに頭を跳ね上げ、残っていた雪を回りに跳ね散らす。シ
ャワーのように舞い落ちてくる粉雪に朝陽があたり、一瞬、薄くらい林内がキラキラと輝く。

 s-P2150017塔雪に映える.jpg
 

今日の目的地は旧伊瀬街道の途中にある石塔と石龕仏のあるところまで行く。片道四kmの道のり。
歩いて行くに従い積もった雪が徐々に深くなる。この山はすぐそこに見える若草山とほぼ同じ高さだ
から、標高は300m以上ある。雲が降りてくる高さだ。積雪は10cm以上あるようだ。
足下で粉雪がキシキシと鳴る。懐かしい音だ。子供の頃、学校の行き帰りによく聞いた音だ。 

石塔も石龕仏の周りもすっかり粉雪が降り積もっている。雪は景色を全く異なるものに変えてくれ
る。この鎌倉時代に造られた石像物が今日は一段と美しいと思った。
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2011年01月15日

ならまち・総本家菊岡の大黒天

総本家菊岡の店は奈良市の元興寺旧境内いわゆる「ならまち」にある。
漢方薬の店を開業したのは明治以後のことであるが、家系は極めて旧く、藤原家を祖先に持ち、木曽
(源)義仲の末裔として白土家、今の菊岡家はある。現当主で二十四代を数える極めつけの旧家であ
る。
永禄年間(安土桃山時代1568~1602)、当主菊岡宗政は、人を殺傷することが仕事である武人には向か
なかったのであろう、仏門に入り、禅照庵という一寺を建立し、多くの病人を救ったとある。もとも
と医学に造詣の深い家系であったが、戦場で目にした医僧(従軍医)という役割のなかに自分の生きる
道を見出したのかもしれない。

s-P1149172ならまち総本家菊岡.jpg

総本家菊岡は、ならまちで最も繁華な場所にあり、奈良町の「顔」的な建物である。なんとはなく店
の中を覗いたら、木彫りの大黒様が目についた。
近頃ちょっと大黒像に関心があって、そのため目に入ったと思う。我が家には、父親の実家(富山)が
米屋であるせいか、家の中に大小数体の大黒像が残されている。処分するつもりで整理していたら、
いろいろなタイプがありその中に美術的に優れたものもあることがわかった。

s-P1149163大黒様が見えた.jpg

総本家菊岡の店の真ん中と言って良い場所にその木造大黒天は置かれている。榊が添えられているの
で明らかに神様として祀っていることが知れる。
一木彫で背丈60cmくらい、二頭身のコミカルな可愛いい像である。かなり剥落しているが鮮やかな彩
色が施されていたことがわかる。我が家にある、米俵を踏んだ金銅製の大黒様よりずっと魅力的に見
える。

大黒天はその姿かたちから見てあたりまえに民芸品のようなもの思っていたが、なんと異国インドの
ヒンドゥー教の神の化身マハーカーラであることを最近知った。マハーは「大」、カーラは「黒」を
意味するので「大黒天」と名づけられた。破壊と死を司る神様である。「天」は仏像の種類をあらわ
し、バラモン教やヒンドゥー教の神々で、仏教に取り入れられ仏法を守護する神として変化したもの
である。

s-P1149169菊岡漢方薬店の大黒さま.jpg

その神様がなぜか仏教に乗って中国へ伝来する過程で破壊や死と同時に人間の長寿をもつかさどる医
薬と死者の神様と言う側面も加えられるようになる。そしてだんだん、厨房、福徳の神様という事に
なり、最後には天台宗の開祖最澄によって「台所、かまどの神様」として日本に伝えられる。比叡山
を中心とした天台宗寺院では台所に大黒天が守護神として祀られるようになった。

日本で大黒像に福徳相(ニコニコ顔)が多いのは、中国においてマハーカーラの3つの性格(戦闘・財
福・冥府)のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられたことにより、福の神として崇め
られているからである。

s-P1149195総本家菊岡「裏菊」家紋.jpg
室町時代永正年間(1504~1520)に、後柏原天皇から菊岡の姓と
 裏菊の紋を賜り、以後白土を今に続く菊岡と改めた。


奈良・漢方薬の総本家菊岡の大黒様の由来を聞き忘れたが、「医薬」の神様として祀られていること
は容易に想像できる。ことによると「戦闘」の神様であることも心のどこかにおいて、合掌している
のかもしれない。

参照URL
菊岡漢方薬
http://www.kikuoka.com/
ならまち
http://narashikanko.jp/j/naramachi/
Wikipedia 大黒天
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9
七福神(大黒天)の豆知識
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/daikoku.html
戦陣医療
戦陣医療
posted by ハマー at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

奈良公園の冬桜

奈良公園シルクロード交流館のすぐ北側の園地に冬のさなかというのに桜が咲いている。
朝の陽光を受けてキラキラと輝く姿を遠くから見たとき、一瞬ダイヤモンドダストかと思った。
(DDを実際には見たことは無いのだけれども)
花を仔細に見ると、開いているもの、花びらが散り掛かっているもの、ガクだけのものなど様ざま
だ。葉は見えない。

 s-PC298439冬桜朝陽の中輝けり.jpg
 「冬ザクラ独り気高し枯野かな」

写真を撮っていたら『風で揺れて撮りにくいでしょう』と男性(K氏)が声をかけてきた。聞いてみると
近畿大学農学部でクローンとかミュータントの研究をしているという。
『この桜は冬桜と言って、大島桜と豆桜の雑種です』と教えてくれた。

大島桜はソメイヨシノ他多くのサトザクラと呼ばれる栽培品種の片親となっており、このサクラがな
ければ、現在のような多くの品種が存在しなかったと言われる。
マメザクラは富士山や箱根山を中心に自生している桜。箱根山は標高1438mの高山である。この高度
(気温)で咲く遺伝子が、初冬の平地で花開く「冬桜」を創ったのだろう。

冬に咲き散り、春にまたもう一度一回り大きな白い花をつける。この桜木にとってどちらが本番にな
るのだろう。ただ散るためだけに花開く冬の花。他に桜の咲かない冬の時季こそが「冬桜」の独り舞
台、本番なのかも。

K氏は植物の突然変異種を見つけにしばしば奈良公園一帯を歩き回っている。いわゆるプラントハン
ターか。科学者にとって、人の手によらない雑種や突然変異種の桜を見つけることにはなんらかの意
義があるにちがいない。奈良公園には15種類くらいの桜がある。人知れず新たな種が誕生している可
能性は充分にある。

参考URL
※この花さくや図鑑 冬桜
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/cera-hm/c-fuyu.html
季語別俳句歳時記「冬桜」より
http://www.haisi.com/saijiki/huyuzakura.htm
「風に耐えいよいよ白く冬桜」稲畑廣太郎
「冬ざくら朝日しづかに射しわたる」阿部ひろし
「冬桜まばらに咲きて色淡く」渡辺睦夫
「冬桜淡き光をまとひをり」和智秀子 


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2010年12月18日

サザンカ咲く奈良公園

奈良公園の東端、春日大社近くに奈良県新公会堂がある。この庭園に赤色の山茶花に隠されるように
白色の山茶花が数株楚々と咲いている。

山茶花(サザンカ)といえば赤色の花を思い浮かべるが、もともとはお茶の花のように白くて一重咲き
の梅に似たシンプル花だ (ということを今日初めて知った)。漢名では「茶梅」というそうだが、日本
名でも「山茶」という字があてられており、考えてみれば山茶花の花が白いということはあたりまえ
のことだった、ようだ。

 s-PC188215山茶花咲く12月.jpg

山茶花と椿の見分ける場合、椿は花ごと「ポトリ」おちるが、山茶花は花びらが「ハラハラ」と散り
落ちることでその違いが分かるといわれる。(椿の場合は「散り椿」と言い表わす)

高浜虚子の句に、「山茶花の 花や葉の上に 散り映えり」という歌がある。まさに山茶花の生態をう
まく捉えていると感じる。

 s-PC188227垣根の山茶花.jpg

山茶花といえばだれもが「山茶花山茶花咲いた道 たき火だたき火だ落ち葉焚き〜」の歌を 思い浮か
べるようだが、自分は「垣根の垣根の曲がり角〜」という一番の歌詞から、ずっと「山茶花の生垣」
を子供の頃からイメージしていた。なんと公会堂の垣根がまさに山茶花の生垣だった。更に竹の柵で
囲われている。やったね。理想のシチュエーション。

 s-PC188169冬紅葉.jpg

12月も残すところ二週間となり、正岡子規的分類では「終わりの冬」といえる時季。
奈良県知事公舎の西側、東大寺西大門のあたりの楓がまだ紅葉を残していた。写真を撮っている間に
も、さかんに風が葉を散す。もう一二日もすればすっかり裸木になってしまうだろう。
東大寺はこれから数ヶ月の間、色の無い時を過ごす。
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2010年12月09日

奈良坂から伊勢街道古道へ

奈良坂は奈良と京都の県境にある「ならやま」の丘陵を越える急坂で、京都方面から来ると「奈良
阪」と名づけられたバス停あたりまでずっと登り道が続く。
このバス停あたりから国道369号線の中ノ川交差点に至る尾根伝いに行く忘れられた古道がある。

この古道の存在に気づいたのは、先日撮影した「飯守山」を対面する山の上から撮ってみたいと考え
たことに始まる。

 s-PC087840飯守山朝色.jpg

その山の上には奈良市の緑ヶ丘浄水場がある。思ったよりも高い場所にあり、飯守山の背後に連なる
若草山頂上の「鶯塚」の石碑まで見通せる。
撮影後、山の紅葉に誘われて尾根伝いの道を東へ東へと進んで行くうちに、思いがけなく、石仏を、
しかも首の無い石仏を発見したのだ。「何故こんな山の中で?」。

 s-PC087948尾根道.jpg s-PC087863移ろい.jpg 

石仏以外に、多重石塔と墓標らしきものが見える。もっとも奈良では石仏や多重塔は珍しいものでは
ない。すぐ近くの般若寺には日本最大の多重石塔の十三重石塔がある。更にもう少し東に行けば、
岩船寺や浄瑠璃寺あたり「当尾の里」の野山には磨崖仏や石仏が溢れている。その一つであろうか。

 s-PC087878首なし石仏.jpg s-PC087870多重石塔.jpg

帰路、緑ヶ丘浄水場のフェンスの内に「太神宮左いがいせゑ」と彫られた大きな石の道標のあること
に気がついた。「そうか、つまりこの道は伊勢街道なのだ」。安永二年(1773年)の年号も見える。
地図を見ると、この尾根伝いのおよそ3km程度の山道は、奈良坂から国道369号に通じるちょっとし
た近道、バイパスなのだ。
これが、私の古道発見?の顛末である。

 s-PC098009道標浄水場.jpg

国道369号線は、般若寺交差点から佐保川に沿って東進する。きっと、川が増水した時などにはこの
尾根伝いの山道を使ったのだろう。
地元の人に聞くと、「自衛隊が夜間訓練のために通る」というほど急峻な尾根上に続く山中の道であ
る。午前中かけてこの道を往復したが、誰にも出会うことが無かった。忘れ去られた道である。
国道369号線は奈良市から三重県松阪市に至る距離121.1kmの道である。

 ※国道369号 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93369%E5%8F%B7
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2010年12月07日

「ならやま」初冬

「ならやま」は奈良と京都の県境付近を東西に延びる丘陵で、奇跡的にも市街地化を免れ部分的で
はあるが奈良時代の風景をうかがわせる手付かずの自然の残る一帯である。
県道44号線と国道24号線に挟まれた東西1.2q、南北0.8qの照葉樹林で、晩秋から初冬にかけて
の紅葉が美しい。
偶然にも昨年も同じ12月5日に「ならやま」を訪れている。昨年と比べて今年の紅葉は少し鮮やか
さに欠けるようだ。

 s-PC057633薄霜の田圃.jpg s-PC057648朝露光るひつじだ.jpg
 
8時少し前に県道から谷地田に下る農道に入る。昨夜の冷え込みで田圃は薄い霜に覆われているこ
とがわかる。気温は3℃くらいだろうか。氷が張るほどではない。霜が融けた朝露に朝陽があたり
キラキラと輝いている。草花も木々も一番綺麗に見える時間だ。

 s-PC057673仏の座.jpg s-PC057640夜露に濡れた秋菊.jpg  

雲ひとつ無い青空から降り注ぐ太陽光線に温められて、森は薄っすらと白いモヤに覆われる。幻想
的なひと時。このもやはいつも10分と続かない。急いで三脚を立て、カメラをセットする。
気ぜわしいけどワクワクとさせられるこの時間が好きだ。

 s-PC067801ならやま朝雑木林.jpg 

谷地田の尽きるところで、太陽の光を透かして真っ白に輝く穂波に出会った。背の高いカヤのよう
な植物だが、背が高くて立ち姿も明らかにススキとは違う。
それにしても、風になびく純白の穂の美しいことよ。
植物図鑑で調べてみると「荻」のようだ。

 s-PC0577086荻白穂.jpg 

「荻」という漢字は知っていたが、語源の草花がそれと知ったのは今日が始めてのことである。
農村部では昭和の始めごろまで茅葺屋根がよく見られたようだから、その頃までは「荻」がなんで
あるかだれもがよく知っていたに違いない。

 s-PC05772晩秋の飯守山.jpg

 一年間待ち焦がれた晩秋の「飯守山」を撮ることができた。
奈良在住の職業写真家井上博道氏の写真集で初めて見たとき、この山がいつも名古屋に帰る時に通
る国道369号般若寺近くのあの山であると思った。そして昨年その山を撮りに行ったとき、偶然に
その山の麓にある井上氏のオフィスを見て、あの写真の山が飯守山であることを確信したのだ。
昨年は訪れるのに二週間ほど遅かった。今年もすでに紅葉のピークは過ぎていたものの、夕日に染
まる茜色の飯守山を撮ることが出来たのだ。欲を言えば、空に渡り鳥でも入れられればと思ってい
たのだが・・・はるか上空を、一度ジェット機が通り過ぎただけだった。でも、大満足です。

「ならやま」は万葉集にたびたび登場し、「歌枕」にもなっている(らしい)。しかし「歌枕」とす
るならば、現代の歌人たちは「ならやま」の何処をたずねたら良いものやら。


〔参考〕
※オギ 山渓名前図鑑「野草の名前」によれば、『万葉集を始め、
奈良時代のほかの文献にも登場する。古くから屋根葺き材として知られていた草で、銀白色の花の集団
〔花序〕は馬の”尾”のように見えた。長く、太い茎が”木”に思えたのであろう。”尾の木”がオギに
なり、その後、中国で”荻”と書くことが知られて、オギに”荻”の漢字を当てた。』とある。Webの頁に
は「最近は放棄水田などに群生しているのを見かけることも多くなった」とも書いている。

※オギ【荻】岡山理科大学 総合情報学部 生物地球システム学科 植物生態研究室(波田研)のホーム
ページ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/monocotyledoneae/gramineae/ogi/ogi.htm
※平城山と記して「ならやま」と読ませる。JR関西線に「平城山」という駅があるが、地図に奈良山という
名前(行政地名)は無い。

※平城山 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E4%B8%98%E9%99%B5

※万葉集の「ならやま」を詠んだ歌
奈良山の 嶺の黄葉 取れば散る 時雨の雨し 間なく降るらし
奈良山の 小松が末の うれむぞは 我が思ふ妹に 逢はずやみなむ
君にこひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下に 立ちなげくかも
いにしへも つまに恋ひつつ 越えしとふ 平城山の路に 涙落しぬ
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2010年05月23日

饅頭の神様 奈良林神社

「饅頭の神様」(ごとき)に驚いていては神社を語ることはできないが、改めて、日本の「神様」
とはナニモノであろうかと、少なからずカルチャーショックを受けている。 
「饅頭の神様」は、近鉄奈良駅から西に100mほど行ったやすらぎの道沿いにある漢國(かんごう)
神社の境内社として祀られている。

 漢国神社拝殿.jpg

この神様の誕生はそれほど古い話ではない。明治維新以来仏教に取って代わって日本宗教の表舞
台にあった神社は、第二次世界大戦後、国家の宗教(神道)から国の庇護を離れた宗教団体に変った。
神社の生き残りを模索していた漢國神社の故和田次郎宮司は、かつて神社の近くに住んで饅頭を
作っていた林浄因を饅頭の神様にしようと考えついた。そして饅頭業界や林家の関係者の賛同を得て、
昭和24年林浄因や子孫である宗二らを日本の饅頭の神様として祀ったのが始りである。

 饅頭塚.jpg


昭和31年に「林神社」として独立した。現在の社殿はその時に造営されたものである。
二段重ねの饅頭が狛犬に代わって(?)神様の林浄因を護る。

 林神社神様饅頭.jpg

林浄因は現在の中国・杭州の出身の禅僧で、日本の南北朝時代1349(貞和5)年に家族と一緒に
来日し漢國神社の前で中華饅頭を作って売っていた。しかし思うようには売れなかった。そこで、
禅寺でも食べられるようにひと工夫して、中に肉ではなく小豆を餡にして薄皮で包んだ饅頭を考案
して売り出した。これが大変な評判を得て「奈良饅頭」と呼ばれ、行列のできる饅頭屋として大繁
盛した。

 漢国神社拝殿釘隠.jpg 

この「奈良饅頭」は現在でも奈良の老舗和菓子店「千代の舎本家」で買い求めることができる。
この店のことは、この春、立杭焼でよく知られている兵庫県篠山市今田(こんだ)で知り合った、
旅館・立杭荘を管理しているオオガミさんから聞いた。オオガミさんの従兄弟が嫁いだ先がこの
「千代の舎」で、是非訪ねて行ってくださいと言われていたのだ。漢國神社から千代の舎を経て
立杭のオオガミさんにもどり着いた、不思議な縁である。

 
漢國神社で受けたカルチャーショックはともかく、日本の饅頭のルーツを知ったことはとても
意義あることであるが、「神様」が神社ビジネスのような経過で造られるとは、驚きである。
去年の夏、桜井市の大神神社で「辰五郎大明神」という大阪の豪商「淀屋」を祀った神社に迷い
込んだことがあったが、その時も日本の神様について考えさせられた。つまるところ、日本の神
様は「人間」を神格化したもの。そして神様はかなり狭い社会集団に属するというか、だれだれ
にとってのなになにの神様という身近な関係にあるものなのだ。そして、今後も神社には色々
な神様が誕生するに違いない。これまでも八百万(やおよろず)柱の神様がいたのだが、今では一
体どのくらいの神様がいるのだろうか。

 イメージ漢国神社.jpg
 

ある宗教人が言っていた。「キリスト教では神が人を創った。仏教は人が仏を創った」と。
この伝を借りるならば、日本では「神も人が造る」ということが言える。
では一人の人間が何柱の神様を持っているか。
学問の神様、小説の神様、エンタの神様、写真の神様、トイレの神様、小説の神様、風の神様、
演歌の神様、エレキの神様、我が家のかみさん・・・・
数え切れないくらい、神様は身の回りにおられます。

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2010年05月11日

奈良町のサクランボ

「奈良町」でサクランボのなっている木を見られるなんて思いもよらなかった。
そもそも木になっている本物のサクランボを見たのが初めてのことだと思う。

最初にサクランボを見つけたのは、近鉄奈良駅前、高天の交差点から南に下るやすらぎの道
沿いにある伝香寺の前を通り過ぎようとした時だった。
白壁土塀の屋根瓦越しに無数の赤い小さな点々が目についた。葉の形や樹皮から判断するに、
どうやら桜の木の実らしい。
「桜の実ってこんなにキレイなものなんだ!」「これまでどうして桜の木にこんなにきれい
な実がつくことに気がつかなかったのだろう」と思わず考えてしまう。


伝香寺白壁土塀屋根サクランボ.jpg 
 

「サクランボ?」なのではと思い至ったのは、再びその赤い実を別の場所で発見した時だった。
「奈良町」西新屋町にある元興寺小塔院跡で、今度は、手の届くところにある赤い実を見た。
サクランボと思わなかったのは、その実が、店頭で売られているモノに比べて、ひと回りも
ふた回りも小さかったからなのだ。
近くの椅子に腰掛けていた男性に「食べてもいいかな」って断り、赤くよく色づいた一粒を
選んで食べてみた。やや酸っぱいこのみずみずしい食感は、サクランボと同じだ。


 サクランボ.jpg
 

『朝、日が昇るとヒヨドリがサクランボを食べに飛んで来るよ。オババが鉦をチーンと鳴らすと
ビックリして一斉に飛び立つのさ。夕方また食べに飛んで来るよ。』

元興寺小塔院跡を守っているオババが言うには、このサクランボの木は今より40年前に本人が
買い求めて植樹したという。
年を経ているそのわりに幹は細くて直径20cmくらいだろうか。
実をつける果樹というものは樹齢を重ねても他の木に比べて太くなれないのだろうか。

 
元興寺小塔院跡サクランボ.jpg 


調べてみると、サクランボの木は花を鑑賞する桜のそれとは異なる。
ミザクラ(実桜)の実であり、日本で食用にされるサクランボはほとんどがセイヨウミザクラの
仲間に属する。
桜の代名詞のようになっているソメイヨシノどうしでは結実しない。実をつけることも少ない
のだが、もし実が付いたならそれは別の桜、山桜や大島桜とかの雑種ということになる。
サクランボは「桜桃」ともいうが、19世紀初頭まで日本では「ユスラウメ」と読んでいたそう
だ。「ユスラウメ」という言葉もなかなか美しい響きだ。


 御霊神社黄色牡丹.jpg 


元興寺小塔院跡には江戸時代に建てられた虚空蔵堂がある。ただ一宇のみだ。
境内は小公園のようになっている。牡丹の花が終わり、ちょうど今は端境期だが、もうしばらく
するとシャクヤクの花が開くと言う。おばばはちょうど今、葉が枯れはじめたスイセンの球根を
掘り出しているところだ。

『今朝最後の黄色い牡丹の花を摘んだところさ。実をつけると株が弱るからね。それはきれいな
花だったけど、(見れなくて)残念だったね。もうしばらくするとシャクヤクが咲くからまた
見においで』


おばばに別れを告げて次の目的地に向う。偶然にもすぐ近くの御霊神社で黄色の牡丹を見ること
が出来た。黄色というよりクリーム色で、ほんとに優しい美しい花だった。

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2010年04月12日

散る桜の哀しさは

奈良公園の桜の時季は長い。
3月20日の染井吉野の開花宣言からすでに三週間が過ぎたが、山八重桜は昨日あたり満開の時を
迎えたようだ。
一足速く散り始めた木もあるが、それがむしろ今咲き満ちる桜花の美しさを際立たすための演出
のようにさえ感じる。
これから四月の末まで花は続く。「残花」「余花」という言葉まで用意されている。


 咲き満ちる山八重桜.jpg



知事官舎のすぐ西にある「みとりゐ池」の水面は散り下りた花びらの白色で、一杯になっている。
かすかな風に流され緩やかにうごめく花びらが、水面に映った空の青、白い雲、薄紅色の桜樹の
景色を隠したり見せたり、刻々とその景色変えて見せてくれる。自然がつくる万華鏡のようだ。


 みどりゐ池桜浮かべる.jpg 花びらに埋まる苔.jpg




時おり雲に太陽が隠れる時に吹く風は、花びらを激しく散らす。驚くほどの量の花びらが数秒の
間降りしきる。緑色の芝草が瞬くうちに白い花びらに覆われた。
この調子では、木を覆う桜花も、明日を待たずに全て落ちてなくなってしまうのではと気に掛
かる、それほどに散り落ちる。


 花吹雪のじゅうたん.jpg 風が花びらを散らす.jpg 


新古今和歌集に『はなちらす風のやどりはたれかしる 我にをしへよいきてうらみむ』という歌が
ある。詠んだ人の気持ちがよくわかる。できたらもうしばらく咲いていて欲しい。
しかし、人は、散り行く桜にこそ、自分の生を実感することができる。それだからこそ逆に、
散り行く桜への哀歓を覚えるのではないのか。
喜びと哀しみを一時に感じる矛盾が、人をして散る桜に美しさを見るのだと思う。


 桜の国.jpg 魂の花見.jpg

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2010年03月29日

伝香寺「もののふ椿」

伝香寺は奈良町の西、やすらぎの道沿いにある。筒井家の菩提寺というよりも、奈良の三名椿の
ひとつ「武士椿」が有名。モノノフツバキと読む。
命名の謂れは「色鮮やかなときに一枚いちまいと花びらを散らす、この散り際の潔さを、若くし
て没した筒井順慶を弔う意味をこめ、いつしかモノノフツバキの名になった」と伝えられている。


 散椿として.jpg 


とにかく花つきが良く勢いのある椿だ。
本堂の南東角の日当たりのよい場所に植えられているからだろう、蕾が次々とあがり、花開き、
散り、花開き、散る。泉の溢れる如く命が湧く、そんな印象を持つ。


 武士椿と地蔵仏.jpg 


樹齢は五十年になる。現在の木は三代目。
突然変異種なので、実生で育った子孫は散椿にはならない。それで、もっぱら接木で代を重ねる。
たぶん山茶花との交雑種か、原種の性質が顕れたのだろう。見た目も山茶花によく似る。


 蕾花に覆われる.jpg


今朝は開門の20分前に伝香寺に着いた。
券売所の男性が準備をしながらも、花のこと、寺のこと、筒井家のことを教えてくれた。
「洞ヶ峠を決め込む」と日和見の代名詞として知られ一般的には評判のよくない筒井順慶だが、
奈良県においては「おらが国の殿様」と尊崇されているという。
近年奈良県では「筒井順慶は日和見していない」運動が展開されているという。


 表門の手水鉢.jpg 


伝香寺は、筒井筒井順慶が36歳で没したとき、母親の芳秀尼が菩提寺として復興した寺で、その
時に筒井家にあった最愛の椿を献花として植栽したものと伝わる。
この一本の椿樹は筒井順慶と母親の愛を美しい花とともに今に伝える。


 はだか地蔵.jpg

平城遷都1300年祭イベントのひとつ「祈りの回廊」に協賛して、伝香寺の秘仏「地蔵菩薩立像」
が開帳されている。しかも写真撮影OKである。なんとおおらかなありがたい御住職であろう。

 
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2010年01月10日

平城山の朝霜


1月9日土曜日。無風、快晴、気温2℃くらい。絶好の「霜晴」。

 コケについた霜.jpg
 

平城山(ならやま)の農道に落ちている白い小さな塊は、霜に覆われたネジイチゴケのきれっぱし。
金平糖を置いたように見える。
霜は空気中の水蒸気が氷の結晶に変わったもの。草葉の表面にも石英柱のような針を伸ばす。霜の降
りた野原を歩くと、靴の裏から氷柱のつぶれる「サクサク」という音が聞こえる。


 畑も原も霜.jpg 草も霜.jpg


陽のあたらない処はゾクッとするほど寒い。草も、土も白い霜に覆いつくされて真っ白。
季節はずれのタンポポが、花頭についた霜の重みに耐えられず倒れてしまっている。霜に縁取られ鋸
歯は、まるで海に泳ぐ鮫の群れのようだ。
水仙の花にも朝霜が。種田山頭火に「霜水仙は折れて咲いている」という句がある。同じ景色だ。


 蒲公英も霜.jpg 水仙に朝の霜.jpg



小学生の頃、朝の通学路で、いつもの見慣れた景色が、白い霜に覆われて別世界のように変わってい
るのを見たときに、何か不思議な気持ちにさせられた。「えっ、どういうこと」という気分。
今でも、霜に覆われた景色を見ると、戸惑いに似た気持ちが起こる。だけどそれは何か楽しいことが
起こる予感のようでもり、けしていやな気分ではないようだ。霜の降りた朝は好きだ。

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2010年01月08日

春日奥山遊歩道から若草山へ

若草山は冬と夏の一定期間、閉山され麓(ゲート)から入山ができない。ただ山頂に限っては、いつ
の期間でも自動車専用の奈良奥山ドライブウェイか、奈良奥山遊歩道から入ることができる。

遊歩道の基点に建つ石標に「聖天宮」とあるが、これが何処にあるのか、またその由緒も分から
ない。春日奥山遊歩道にはところどころに苔むした石標が立つが、どうもその多く現在は通用しな
いみたいだ。


 遊歩道入口石標.jpg 鶯滝への道.jpg



基点の水谷神社あたりから近いところに、日月亭という料理旅館がある。この路の脇に「右月日
磐 左鶯野瀧」と刻まれた石標が建ち、名づけの由来となった「日月」のかたちが彫られ磐石のあ
りかを示しているのだが、これも苔むし、読みづらいから誰も見向きもしない。写真を撮った自分
も、その磐を見落としてしまった。


 鶯瀧と月日磐道標.jpg 



登り坂の左手山裾に、奇妙な形の石仏があった。「洞の仏頭石」といわれる珍しい形の石仏で、室
町時代(1520年)の造立と碑に刻まれている、らしいが、文字を見つけられない。「洞」はこのあた
りの地名。この石仏がこの道の唯一の石仏。この先ではもう見かけることはなかった。


 洞の仏頭石.jpg 天然記念物春日山原始林.jpg


若草山の山頂にたどり着く。人の姿はない。二頭の鹿が、芝を食んでいた。鹿に近づいても、じっ
とこちらを見ているが、逃げはしない。いつも思うのだが、鹿は何故人の視線を嫌わないのだろう。
何故、こちらをじっと見続けるのだろう。これは千年以上続く奈良の鹿と人の付き合い故のことな
のだろうか。鹿の遺伝子に刷り込まれているのだろうか。


 若草山鹿の雌雄.jpg
 


若草山の向こう、芳山の中腹に赤黄色の枝を広げる大木が目に付いた。恐らく「マンサク」だろう。
春の訪れに先駆けて咲くこの木の名前の由来は、「まず咲く」が東北地方の訛りのまま伝わったと
いわれる。なんともほほ笑ましい名前だが、一度聞いたら忘れられない名前と、花の色形。
春はもうそこまで確実にやって来ていた。



 マンサクの花満開.jpg
 
 『奥山に道のしるべ苔むしても 今咲きさかりまんさくの花』


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2009年12月22日

「氷うすく結ぶ」晩冬の奈良

「氷を結ぶ」

『山かわの氷やうすく結ぶらむ 下に木の葉ぞ見えて流るる 』( 続古今集 北条泰時 )

 氷の下の枯葉.jpg

「氷やうすく結ぶらむ」という言葉遣いがあるんだなー。北条泰時は平安から鎌倉時代に生きた
人で、1242年没とある。現代でもその語意を簡単に理解できる「氷を結ぶ」という言葉遣いが、
鎌倉時代すでに使われていたことに何故か感動してしまう。それとともに、戦乱の時代にあり
ながら、氷の下に透ける木の葉を見て、詩情を覚える、武将たちの感性の豊かさにに思わず驚か
される。

 
 吹雪く.jpg 雪雲沸く.jpg



12月18日からの寒波の影響で、奈良市も雪が舞った。舞ったというよりも吹いたというか、強い
風にあおられて刺すような雪だった。北西の空から濃い灰色の雪雲が次からつぎへと流れて来て、
一瞬にして視界は真っ白になる。そしてまた突然に青い空と強い日差しが射す。


 川上町の赤山.jpg 雪雲去る.jpg 



般若寺あたりの佐保川に沿って走る月ヶ瀬街道(国道369号)から、お椀を伏せたような形をした
山が見える。広葉樹に覆われた里山で、秋の深まりとともに色変わりし「赤い山」になる。残念
ながら、訪れるには時季が遅かったが、山肌のところどころに残る枯れ葉にかろうじてその姿を
偲ぶことができる。

 
 リンドウ.jpg



土手に「リンドウ」の花が咲いていた。雪も降ろうかというこの晩冬に、なにか間違えて咲い
てしまったのだろうか。清少納言の随筆「枕草子」に『りんだうは枝ざしなどもむつかしけれど、
こと花どものみな霜枯れたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。』と
ある。リンドウは、秋草が枯れ、野山がさびれかかったころに楚々とした紫の姿をあらわすと
言っているが、晩冬にあたるこの時期まで咲いているとは、ちとおかしい、かも。


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2009年12月11日

小鹿の身投げ 

 

7月18日講堂跡.jpg  7月18日ここかゆいの.jpg
 講堂跡で遊ぶ仲良しさん(7/18)       ここかゆいの(7/18)

交通事故
早朝、興福寺と国立博物館を横断する国道169号で、ついに、見たくないものを見てしまった。
軽自動車の前に、小鹿が、赤い血にまみれて、横たわっていた。小鹿の吐く息が白い。事故直後
のようで、停車した車のドライバーは、救援要請のために園内を駆けずり回っているのだろう。
シートは空だった。


奈良公園の鹿の数
調査によれば、09年7月現在、奈良公園と若草山に生息している鹿は計1052頭。生息数は
牡鹿196頭(前年比66頭減)、雌鹿は705頭(同10頭増)、子鹿151頭(同20頭
減)。357頭のシカが死んだ。死亡原因は、179頭が疾病、76頭が交通事故によるもの。(奈良
経済新聞)
奈良公園内での鹿の交通事故の発生件数は、毎年100件以上にものぼるそうだ。



決まっている鹿の通う道
日の出前、車で県庁前を行くと、数頭の鹿が、のんびりと道路を渡っている。横断歩道を渡るの
ではない。走ってくる自動車を前にして、ゆっくりと、ゆっくりと、いつも決まっっている獣た
ちの「みち」を移動して行く。ゆっくり、止まるように渡ってゆく。警笛を鳴らしても、立ち止
まることがあっても、慌てることも、ひるむこともない。
寝ぐらから餌場に向かう、餌場から寝ぐらに帰る鹿の群れの道、獣道はいつも決まっている。
一列になって、乱れることなく、行進してゆく。


 鹿の道.jpg  10月24日枯葉色の冬毛.jpg
 鹿の通る道(1/26)      冬毛に変わった小鹿(10/24)


鹿の身投げ
しかし、群れから遅れた小鹿が、道路の向こう側の、先に着いた母鹿に向かって、車の前を、道
路に飛び込んで行く。まるで身投げするかのように。


奈良公園で会った、鹿クンの写真を、あの小鹿の無事である事を祈って、ブログに掲げる。
生まれて数日後から、鹿の子模様の綺麗な夏、濃い茶色の冬毛に変わる秋までを撮った。


 3月15日赤ちゃん鹿.jpg  冬日を受けて.jpg
 参道デビュー赤ちゃん鹿(3/15)          冬日を受けて(10/18)


※ 鹿の救助活動 http://naradeer.com/serv01.htm   
※ 思いやりが鹿を守る−ドライバーに「シカの飛び出し注意」呼びかけ /奈良 みんなの経済新聞ネットワーク http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091124-00000034-minkei-l29

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2009年12月07日

般若寺と奈良阪の景色

 

今日、奈良阪を歩いた。今年三度目になる。春、夏、そして晩秋というには遅いが、四季の移り
変わりに合わせて訪ねている。今日は、般若寺から光明皇后陵を巡った。


 般若寺石仏群.jpg



般若寺には、まだコスモスが僅かに残っていた。「花の寺」を標榜するこの寺、いつ来ても、境
内を掘り返している。今は、来春に向けて水仙の球根を入れているのだろう。幸運にも本堂の東
側に、コスモスが申し訳程度に咲いている。本堂を囲む観音菩薩の石像、前から見るとなかな
かに愛くるしい容姿をしているが、側面から見るとこれまた美人ぞろいであることに、初めて気
づいた。清楚なお顔だちをされている。


 浄福寺鬼瓦.jpg  夕日地蔵.jpg
 浄福寺の白壁に埋め込まれた鬼瓦         夕日地蔵



般若寺を出て、夕日地蔵に向かう。会津八一の歌の『ならさかの いしのほとけの おとがひに
こさめながるる はるはきにけり』とある、「いしのほとけ」が夕日地蔵。会津八一がこの地を
訪れたのは、菜種梅雨の頃だったのだろう。おとがい、つまり下あごから雨の滴が流れ落ちるほ
どの日に、会津八一は、傘をさして般若寺に向い奈良阪ゆっくりと登って行ったのだろう。 
今日見たお地蔵様、なんだか、照れ笑いした時の、高見盛のように見えるぞ。 それにしても、
歌人の、感受性の豊かさ、表現力に驚かされる。
「しひゃくねん のほるくだる たびひとを ならざかのほとけ いますればこそ」 一首でき
ましたぞ。


 
 壷の絵.jpg  茶壷を飾った町屋の格子.jpg


奈良阪は、京都方面から来たときの奈良に入る玄関口として栄えたと云われるとおり、今も道の
両側には格子づくりの町屋が残り、往時の賑わいを偲ばせる。軒下に巨大な茶壷(?)が飾られて
いる家がある。木の柵で囲われているが、結構な見ものである。


 しせんべい・たけだ.jpg  奥野傘店飾窓.jpg

 


鹿せんべい」の製造・卸の店があった。「まちかど美術館」と書いた木札が出ているので覗い
てみたが、なんだか入りにくい。
奥野傘店のショーウインドーには、「なーむくん」と「マントくん」を描いた提灯が飾られてい
る。傘の骨が「竹」だった事を思い出したのだ。
平城遷都1300年祭、もう一ヶ月もしないうちに幕を開ける。奈良の街にその予兆は感じられない。



 奈良阪東大寺遠望.jpg

 
2005年9月、名古屋から奈良へ向かう道で、目の前に、突然、巨大な寺が見え時の感動を今もは
っきりと覚えている。その寺が東大寺大仏殿であり、その場所が奈良阪であったことを知ったの
は、今年の夏のことだった。
 
今日、奈良阪から東大寺大仏殿を見た。この景色、タイムマシンから見下ろすような、現実では
ない、映画を見る時のような不思議な感覚、今回も変わらなかった。



 s-PC065870補整.jpg
 佐保川の土手に咲く小菊が印象的


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2009年11月13日

「頭塔」の石仏

頭塔の石仏

高畑町からの帰り道(10/24)、高台にある天神社から、南東方向に、階段状になった建造物が見
えた。それは、暗緑色の吹き上がる煙の塊のような巨木の真下に、西日を受けて黄金色に輝く、
なにか異様な、周囲の景色から浮いた雑駁な感じを受けるものだった。


 天神社.jpg
 天神社 

             
破石(わりいし)町まで、探しながら戻ったが、なかなかそれを見つけることができない。交差点
のところ、ホテルウェルネス飛鳥路へ入る道路の切れ込みから、それは見えた。


 頭塔北東角.jpg
 頭塔北東角


そうか、頭塔だ」。 そのとき初めて、それが頭塔(ずとう)ということに気づいた。頭塔の事
は、本で読み、以前から知っていた。知っていたが、その形を記憶していなかったので、天神社
から見た時にすぐに思い出せなかったのだ。※ 岩波新書・奈良文化財研究所編「奈良の寺」



本によれば、頭塔は760年頃、光明皇太后の病気回復を祈って、娘の考謙太上天皇が造らせた土
製の塔。当初は二重だったが、767年に現状のような五重塔に大改造された、とある。

それにしても、塔を造るに際して、何故このような「土と石」という素材を用いたのだろう。何
故、従来のように、堂を建て、仏像を安置するという方法を選択しなかったのだろうか。しかも
古墳の上部を崩し、かなりの急ごしらえの雑な造りだったようだ。



塔は七段の階段状石積みからなる五重塔で、全高は10mもある。天神社から見えた最上段の様子
はここからは見えない。しかし、ホテルの部屋から見通せる事を、HPの写真で知った。
※ホテルウェルネス 
 http://www.hotel-wellness.jp/asukaji/up_fr/fr_sisetsu.html


 石仏名と配置図.jpg
 石仏名と配置図



史跡内の案内板によれば、頭塔には44基の石仏が配置され、そのうち28基が確認されている。初
段の石仏を見ると、「三尊像」の多いことに気づく。案内板にある16枚の写真も、半数の8枚に、
三尊像が写されている。


石仏は風雨、直射日光に晒れ、目鼻立ちも定かではない。しかし、よく見ると、如来像の腕の位
置、手指の形が微妙に異なる。
案内文によれば、東面は多宝仏浄土、南面は釈迦仏浄土、西面は阿弥陀仏浄土、北面は弥勒仏浄
土を表している。しからば、各面の三尊像をその姿により名づけてみる。

 如来三尊像東面.jpg 如来三尊像南面.jpg
 定印薬師如来座像              施無畏・与願印釈迦如来座像

 如来三尊像西面.jpg 如来三尊像北面.jpg
 転法輪印阿弥陀如来座像            施無畏・与願印弥勒如来像


この頭塔、間近から見ても、やはり異様な印象を受ける。日本人の美意識とはかけ離れた建造物
なのだ。何故このような形状の「塔」が造られたのだろう。思いは再びそこにたどり着く。
ことによると、「古墳」というものは、もともとこういう異様な姿、形のものだったのかも知れ
ない。


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2009年11月11日

東大寺を包む秋の色



東大寺秋景色

 きわみの朱色.jpg


「ナンキンハゼ」の紅葉は、今がピーク。緑から黄、赤へと色変わりして来た。今の色は、赤と
も紅とも朱とも異なる、血のような色。色見本に「しょうじょうひ(猩々緋)」という名称が
ある。能の演目のひとつの「猩々」。その扮装(出立)は、赤頭、赤地唐織、緋大口(または赤地
の半切)で、足袋以外はことごとく赤である。猩々緋の「緋」がその赤色を指す。ナンキンハゼ
は「猩々緋」の鮮やかな赤色。


 猩々・奈良人形.jpg


※ 「猩々」NICE-NARA 大和の工芸 よりコピー転載
http://www.nara-np.co.jp/graph/gra020101_craft.html


奈良公園に「ナンキンハゼ」の樹を多く見るのは、公園樹として紅葉の美しいことにあるが、も
うひとつ鹿の食害にあわないからだ。 若草山でも「ナンキンハゼ」をよく見る。秋から冬にか
けて付く「実」は鳥たちの大好物。そして、鳥たちが運んだ種子から、若草山にナンキンハゼが
育った。十数年後の若草山は、全山なんきんはぜに覆われてしまっているかもしれない。

 
 若草山のなんきんはぜ.jpg 若草山北斜面.jpg



イチョウのこうよう(黄葉)も今が見ごろ。東大寺西大門跡に一本イチョウの大木がある。樹高は
20m近くある。正倉院交番前のイチョウの木は、パンフレットや写真でもよく紹介され有名だが、
こちらのイチョウは、誰に見られることもなく、ひっそりと立っている。


 東大寺西大門跡のイチョウ.jpg 樹間に大仏殿遠.jpg



西大門跡奥にある駐車場から、杜の中から覗く大仏殿の大屋根が見える。東大寺界隈の街道沿
いの町屋は、駐車場に変わっているところが所々にあり、そこから、普段とは違った景色を見る
ことが出来る。さすがに古都、庭木の高さも半端じゃない。しかし、後十年もしないうちに、更
に伸びた木々に覆われて見えなくなってしまうだろう。それもまた古都ならではのものかも知れ
ない。


 若草山北面の紅葉.jpg


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2009年11月07日

若草山「はげ山」の謎

春日大社北端にある水谷神社と、東大寺の守護神手向山八幡宮を結ぶ間道に若草山の登山ゲート
がある。若草山は標高342m。高さ333mの東京タワーと大差は無いが、展望台としては若草山のほ
うが10m程高い。奈良盆地と周りの山を一望できる絶好の見晴らしを持つ。

 二段目辺りの眺望.jpg 二段目から奈良盆地を見渡す.jpg
 水平線に浮かぶ生駒山                金剛葛城の山並み遠望         


若草山の展望がすぐれているのは、この山が芝草に覆われた「はげ山」だからだ。登山口から山
頂までの尾根沿いの幅500m、奥行1000mの範囲に樹木は無く、視界を遮るものが無く実に見通し
が良い。 

 若草山地図.JPG 若草山航空写真.JPG 


しかし何故、若草山の山頂までの一部分に樹木が無いのだろう。
古文書によれば、奈良時代中期756年頃はまだ木の生い茂る山だったが、鎌倉時代(1185〜1333年)
にはすでに芝生の山になっていたようだ。 


若草山といえば、毎年成人の日に行われる「山焼き」がよく知られている。この山焼きに若草山
の禿山起源を求める説もあるが、冬の最中、休眠期の樹木が、芝草で焼かれる程度で死に絶える
ものではない。或ときから、意識的にかつ継続的に木々の伐採、排除が行われ、根絶やしされた
と断言しても良い。何故このような空間ができたか、史料による確証は無い。インターネット
「奈良歴史散歩」の「若草山山焼きの起源」に、「春日大社との境界争い」「迷信放火説」につ
いて詳しく書かれていて、参考になる。
※  http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html 


 山焼き東大寺境内から.jpg
 東大寺戒壇院から見た山焼き 09.01.15


若草山は1935年(昭和10年)まで「三笠山」いう名称であった。三笠山の形状(山容)が、笠を三重
に積み重ねたようになっていることに由来する。 若草山は、各重(段)を上るにつれ、見渡す景
観も変わって行く。麓の東大寺は二重目の山道の途中から見えなくなってしまう。


 二重目最後の大仏殿眺望.jpg
 若草山は東大寺の旧境内にある

二重目から三重目にいたる尾根道は、極端に幅が狭まり、三重目にある料金所あたりでは、道幅
は2m以下になる。足下に深い谷が広がり、山上のスペクタルとも言える景色が展開する。山肌は
このところの寒さですっかり晩秋の色あいに変わり、羊歯の葉は霜に会いすっかり枯れ、見渡す
限り枯れ葉色に変わり、晩秋の山という印象だ。

 二段目の山容と春日山.jpg
 山頂は晩秋の色あい


山頂に、古墳がある。「鶯塚」といわれる四世紀末頃に造営された前方後円墳。日本で最も高い
ところに築造された、前方後円墳だという。自然の造形を利用した墳墓であろうが、よくもこれ
ほど高い山頂に造営したものだと、古代人の死生観というか、神への想いに驚かされる。


 若草山山頂.jpg 史跡鶯塚古墳.jpg
 若草山山頂を望む                史跡鶯塚古墳


山頂に、「鶯陵」と彫られた石碑が建っている。これは古墳の前方部にあたるが、驚くことに、
手前の後円部からこの石碑を目指して、陵墓の上を、歩いて行けるのだ。被葬者の判らない
古代の古墳とは言え、墓の上をまさに、土足で踏み荒らすということになる。史跡として指定さ
れた墳墓の上を、自由に歩き回らせるなんてことは、他に例の無いことではないのか。
 

 「鶯陵」芝生養生中.jpg 史跡「鶯陵」前方後援円墳.jpg 
グリーンのネット「芝生養生中」           足下にある「前方後円墳」



若草山への登山ルートは、南側から逆時計回りに行く道と、北側から時計回りに樹間のジグザク
階段を登り一重目に入るルートがある。眺望の点で比較すれば、逆時計コースがベストだろう。
若草山の急斜面を「足」と、「目」で実感できる。春日大社のご神体、春日山(御蓋山)を眼下に
一望できる。この山、都市部では目にすることの難しい原始の山。日本の原風景を目の当たりに
できる、神秘の山なのだ。


 若草山斜面の向こうに大仏殿.jpg 春日山.jpg
 若草山の急斜面の向こうに大仏殿が見える           原始の山「春日山」



若草山の登山口、今年は11月23日で閉じられる。その後は若草奥山ドライブウエイの若草山の
山頂から、若しくは春日山との間を縫って上がる登山道から入山することができる。


<追記/09.11.12>

「鶯陵」に関して興味深い文献を見つけた。伊達宗奉著「大和考古学散歩」昭和43年2月10日発行。
(15頁) 『昭和八年の奈良県史跡名勝天然記念物調査委員会でその保存設備が議題となり、外形
実測などが行われ、昭和11年史跡に指定されている。(中略)戦後は柵がつくられて墳頂への登山
が禁止されるようになった』



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2009年11月03日

白色裸形女身阿弥陀仏と奈良町の小寺 

通称「奈良町」南東の道を一本隔てた所にl城寺(れんじょうじ)はある。由緒ある古寺だが、
知る人は少ない。『寺は表通りより奥まった所に、檀家寺風の門がある。(中略)ここが紀寺
かと少々疑いたくなる。(奈良の小寺 小林月史著)』


 l城寺山門から.jpg
 山門からl城寺本堂を望む

 
檀家寺(だんかでら)」。そういう言い方があることを、奈良町の、ある店で初めて知った。
東大寺、興福寺、元興寺などいわゆる南都七大寺にモノを納める商家が、檀家を持つ寺、境内
に墓地を持つ寺、つまり葬式を生業とする寺に対した見下した言い方のようだ。菩提寺と同じ意
味を持つが、檀家寺という言い方は、一部の、古くからある商家の優越感が生み出した差別の言
葉。


紀寺(きてら)」の創建は飛鳥時代。平城遷都とともに、平城京外京に移転した、古代豪族
「紀氏」の氏寺である。「平城京外京」とは、平城京の北東の四角く出っ張った地区を指す。
興福寺や元興寺のあるこの地域は藤原氏のための都であったと、千田稔氏の著書「平城京遷都」
に書かれている。


 s-平城京地図.jpg  平城京外京地図.JPG
 平城京地図                    平城京外京MAP


由緒ある紀寺が、何故、別院のl城寺を残すのみになってしまったのかその理由は知らない。
寺にも盛衰がある。地域社会とのかかわりが薄れたり、後援者の勢力が低下したりする中で、
衰退、隠滅して行く。かつての豪族「紀氏」も政治の主流から外れ、その勢力を失い、紀氏の
氏寺であったl城寺も、いつの間にか藤原家のもち寺となってしまったのだろう。

 
 観音地蔵菩薩石像.jpg 



『表門と一線上に小さい中門があり、この中門を越して堂が見える。中門は左右に土塀をめぐら
し、その土塀を背にして鎮(しず)もる石地蔵数体が吾々を迎えてくれる。こんな風景も奈良ら
しき古寺情緒である



 l城寺菩薩石像.jpg

今、境内のあちこちに千両の実が赤く色づき、石の仏を引き立てる。足元の紫色の葉は十二単
(じゅうにひとえ)のロゼットだろう。来春、紫の花の咲く時にもう一度見に来られたらいいの
だが。


 l城寺仏塔.jpg
 仏塔


お堂を囲む土塀の南側の墓所に仏塔がある。一基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を中心に、
船形光背の石碑、地蔵菩薩石像、夫婦墓石などが百本以上居並ぶ。風雨に晒され、石の表は摩
滅し、文字も読みづらい。寺の永いながい歴史を感じる。


 
l城寺には「白色裸形女身阿弥陀仏」なるものがある。『光明皇后のお姿を写したというだけに、
慈悲に満ちた女人仏で、顔、両手足共に精密に彫られ全体として立派なできである。上半身はそ
れに比して力が抜かれている。特に下半身は貧弱である。この様な像は作者が既に衣を着せるこ
とを前提に於いて彫ったものである。衣で隠せる部分は写実性に欠けていることがそれを物語っ
ている。』

 
 イベントポスター.jpg


山門の扉に、女身像をデザインした講演会のポスターが貼られていた。『l城寺の裸形女身阿弥
陀仏如来像とその周辺』がそのタイトル。参加特典として、毎年5月にしか公開されない、この寺
秘仏の女身像を特別に拝観できるという。これもなにかのご縁。申し込みをしてみようと考えて
いる。



ポスターには、「l城寺(紀寺)」と書かれているが、正しくは(紀寺別院)。奈良町にある元興
寺も、少し前までは「極楽院」と呼ばれていたそうだ。今でも境内の奥に「極楽院」と彫られ
た石碑が立っている。※1962年、昭和37年11月17日以降は、「元興寺―極楽坊」と名乗っていた。
1977年以降、「元興寺」と改名。

 
 元興寺山門.jpg 元興寺東塔跡.jpg 
 芝新屋町「元興寺」                  元興寺東塔跡

  

元興寺極楽坊のすぐ南20m足らずのところに、芝突抜町を挟んだ芝新屋町に、もう一つの「
興寺
」がある。表通りの石碑には「史跡元興寺塔跡」と彫られている。しかし、寺町を巡る観光
客の多くは、ここを通り過ぎてしまう。そうなんだ、元興寺の「塔跡」は元興寺の「極楽坊」と
同じ空気の中で、同じ境内にあってこそ、その価値が活かされるのだが。今のままの同名別寺
では、惜しい。実に惜しい。惜しすぎる。


 仏足石.jpg 地蔵堂の無縁仏.jpg
 仏足石

 元興寺本堂前.jpg
 小堂前の石畳


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2009年09月22日

東大寺古地図の池と道

奈良県警の東向かいの東大寺旧境内に小さな池がある。池の端に「みとりゐ池」と彫られた石碑
(いしぶみ)で
それと知れる。古地図には「見鳥居池」表記されている。
池は緑色によどみ、鳥を見ることができたとは考えられない。しかしかつては吉城川を水源
して、澄みとおった水満たした、美しい景色を見せていたのではと、推測される。

 みどりゐ池.jpg みどりい池.jpg


池の前を走る国道369号線は、旧くは「雲井阪」と呼ばれていたことがやはり路傍に立つ石碑から知ることができる。東大寺と興福寺の境界線だったところの道だ。

雲井阪.jpg


雲井阪」の由来は不明だが、辞書を見ると正式には「雲居」と表し、井は当て字とある。
雲居は、雲のある場所、雲のたなびいているところを意味する。 東大寺は奈良盆地の北端、
平城京外北東の高台にある。 後方に春日山原生林が広がる影響か、このあたりはよく深い霧
や雲に覆われることがある。
これが雲井阪の名前の由来と考えてもよいのではなかろうか。


ところでニューエスト社発行の「奈良県都市地図」を見ると「みとりゐ池」を「みとい池」
と記している。この地域ではそのように発音するのだろうか。地元の人に確かめなくてはね


轟橋.jpg


みどりい池には、轟橋の石標がある。吉城川にかかっていた橋ということたが、今は無い。
「こち渡る人めも絶えず行駒の踏みこそならせ轟の橋」藤原定継の歌に轟橋が登場する。
私は、雲井阪(国道369号線)を横ぎる吉祥川にかかっていたのだろうと考えたいところ
だが、異説もある。参照 http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm068.html




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2009年08月16日

奈良 大文字送り火

八月十五日、僕たちは奈良市光明皇后陵で高円山の大文字を見ていた。午後七時55分、送り火まであと五分。 それまで木霊(こだま)のように低くかすかに流れ
聞こえていた読経の声はクライマックスを迎え、まるで思いっきりボリュームを上げた
スピーカーみたいに、百数人の僧侶の読経の声を春日野の山と谷に重低音のうねりに変わったのだ。


s-大文字送り火.jpg



午後8時。 暗闇の中、高円山の方向に橙色の点がネオンのようにひとつ二つ、
瞬く間に火の流れのごとく輝き始めた。そして鈍く輝く赤い「大」の字は現われた。
しばらく弱々しかった光が強く輝はじめ、突然のように「大」の字がくっきりと闇の中に
浮かびあがったのだ。

送り火」 先祖の霊は、家々から、「大」の字をともす高円山を目指して天の国に
帰って行く。
来年また、お会いできますね。黄泉の国、浄土はとても住みよいところですよね。 
また帰ってきてください。残された家族のもとに。
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2009年05月08日

奈良国立博物館と和辻哲郎「古寺巡礼」

興福寺から東大寺に向かう途中に奈良国立博物館がある。
今「国宝鑑真和上展」が開催されている現代的なデザインの
西館(新館)に比べて、一見埃っぽい印象のこの建築物には
これまで何故か足が向かなかった。

和辻哲郎著作の「古寺巡礼」(岩波文庫)57頁に、
『それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。
〜今のままでは看者(みるもの)に与える印象などほとんど考慮
せられていない。〜せめて一つ一つの仏像がお互いに邪魔を
し合わないで独立した印象をわれわれに与えるように、もう少し
陳列の順序と方法とを考えれば〜こういうことは日本の恥で
ある。』とまあ痛烈な意見を展開している。

今回入館するその気になったのは、上の文章がずっと気にかかっ
ていて、一度館内に入りたいと思っていたからだ。
もう一つ、寄託されている神野寺(こうのじ)の菩薩半跏像を是非
目にしたかったこともある。

和辻氏が博物館を訪づれたのは大正七年のことである。91年も
前のことであ。館内の様子が変わっていて当然のことであるが、
和辻哲郎氏の目線を追いかけてみたい、できたらおなじ思いを
感じたいという、ファン心理からのことだったような気がする。


館内は竣工当時と変わらぬものの、多分展示方法は改善されて、
ずいぶん見やすくなっていると思う。数多の仏像をすぐ手に触れ
られる距離で見られ、寺の本堂で拝観するのとは違う、純然たる
美術品として鑑賞する、違う境地に立てる緊張感や喜びがある。


運よく、神野寺の菩薩半跏像を見ることができた。
像高17pのこの小像に惹かれるのは、その容姿が他の仏像に
比較して独特のものであること、また火災に合いその表面が
まるで鋳鉄のごとく肌荒れ、しかもところどころ縞模様のよう
に錆いろに変色した様に、焼締の美しさを見てしまうからだ。
それよりも、火炎に焼かれそれでも尚魅了させる仏の命のよう
なものが伝わってくる、そんな気にさせるからなのだ。


奈良国立博物館東入り口前から見た景観

奈良国立博物館.jpg









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2009年04月16日

般若寺のヤマブキ

4月16日 奈良市北部 般若寺

般若寺の入り口から、石仏を包み込むように咲き乱れる
ヤマブキの黄色に思わず見入ってしまう。
静かな興奮が、一瞬で胸のうちに広がる。
先に進めない。
しばし、菩薩様とお話しをしてゆこう。

般若寺ヤマブキに包まれる石仏.jpg

ヤマブキの黄いろがあふれる境内。本堂も、鐘楼も
ヤマブキの洪水に飲み込まれてしまった。
自分も花の海を泳いでいるような気持ちになる。


ヤマブキと鐘楼.jpg


ヤマブキの海から抜け出て、改めて境内を見渡すと、
奥の方になにか一対の不思議なモニュメントがある。
笠塔婆(かさとば)。
前に来た時には、見落としていたのだろうか。
椿の赤い花の向こうに遠慮深げにたたずむ様はけっこう
絵になっているじゃないか。

笠塔婆.jpg


牡丹の花が開き始めていた。
後ろの石仏は、子連れの菩薩様? 
真紅の牡丹の花色と、草葉に隠れるような遠慮深げな
バランスに心引かれる。

牡丹と石仏.jpg



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2009年03月15日

春日大社表参道あたり梅の木

s-春日大社表参道南梅林.jpg


春日の杜にまぶしい紅白の梅
鹿苑から春日大社表参道へ向ってゆくと、突然、白、紅色が目に飛び込んできた。
古木の陰、春を告げる色鮮やかな梅の花の輝きのコントラストに感動。
古都奈良の景色。
posted by ハマー at 20:42| Comment(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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