2011年05月17日

奈良佐紀路 磐之媛命陵のカキツバタ

磐之媛命陵でカキツバタの花を撮るのは今年で三度目になる。
入江泰吉氏の写真集「やまと余情」の写真を見て以来のことだが、開花の時期やその日の天気のこと
もありこれまで満足の行く写真が撮れないでいる。それ以上に、この花をどうとったら良いのかがわ
からないというところが本当の理由かもしれない。(磐之媛命陵:いわのひめのみことのみささぎ)

 初夏磐之媛陵s-P5194708.jpg

平城山(ならやま)の南斜面から平城宮跡にいたる磐之媛命陵のあるこの辺りは、天皇・皇后陵を含む
多くの古墳が集中し、市街地に接してはいるけど今も緑ゆたかな自然があふれる。
奈良県下には何千という数の古墳があるが、水を湛えた外濠を持つ古墳はそれほど多くはない。こと
にこの磐之媛命陵のように、陵墓全体が暗い雑木の林に覆われていて、茂みを抜ければ水辺に青紫の
花のカキツバタが繁茂し、水面には黄色のコウホネ(河骨)や白や薄紅色の睡蓮の花が咲き溢れるこん
な陵墓は尚更に珍しい、と思う。
ここに来るといつも常とは異なる世界に分け入ったような不思議な気持ちになる。

 s-P5174662杜若花蕾.jpg

万葉集に磐之姫陵のあるこの辺りで詠った歌が二首ある。
「かきつはた 佐紀沼の菅を 笠に縫ひ 着む日を待つに 年しぞ経にける」
※ 垣津旗 開沼之菅乎 傘尓縫 将著日乎待尓 年曽經去来 (2818) 

「かきつはた 佐紀沢に 生ふる菅の根の 絶ゆとや 君が見えぬころ」
 ※ 垣津旗 開澤 生菅根之 絶跡也君之 不所見頃者 (3052)

平城宮跡とその北側の一帯は今も奈良市佐紀町という地名であるが、奈良時代当時も「佐紀」と呼ば
れていたことがこの二首の歌から知れる。佐紀沼とか佐紀沢と詠まれたように平城山の南麓に浅く水
のたまった湿地帯であったことは、水田が広がり、広大な水上池を初め大小の池沼が点在する今の景
色を見ると容易に想像される。

 s-P5164580黄昏杜若.jpg

磐之媛の崩御は古墳時代前期の347年6月である。翌年、媛はこの地に葬られた。その頃の佐紀の地は
蘆の生い茂る沢沼地であった。初夏になれば見渡す限りカキツバタの紫に囲まれていたはずだ。
奈良に平城京が造営されるのはそれから更に四百年余り後のことである。いつしか、かきつばたは佐
紀の地の枕詞になった。
1600年以上たった今も、人は、カキツバタの紫の花が咲く頃になると、磐之媛の眠る陵(みささぎ)の
景色に思いを馳せる。すっかり花の終わった6月は磐之媛の命月である。
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2011年04月10日

佐保川の桜樹

平城山(ならやま)は奈良と京都の国境に東西に横たわる丘陵で、その南麓を走る道を佐保路・佐紀路
と呼ぶ。
東大寺の転害門(てがいもん)を起点として平城宮に至る佐保路は、奈良時代からすでに市街地であり
意外に見所は少ない。陵墓の他に現存する名所としては、法華寺、海龍王寺、興福院(こんぶいん)不
退寺などがあげられる。そしてこの時季は佐保川堤の桜並木がある。

 s-P4082648興福院桜.jpg 

興福院は門前の桜が美しいと評判だが、樹齢は二十から三十年くらい。境内客殿の前庭は小堀遠州の
作庭と聞いているが、門前は特に作意も見られない雑然としたもの。桜樹を入れて写そうとしても、
どうにも絵としてまとまらない。少し見頃には早かったのかもしれない。仕方なく、寺域を外れて門
前の住宅街からレンズを精一杯に伸ばして、なんとか撮る。
本門から中門の向こうに見える本堂の屋根は、鍜葺(しころぶき)寄棟造の反り屋根で遠くから眺めて
も尚なめらかな美しいフォルムがわかる。尼寺の優しさが伝わってくる。

 s-P4112966興福院本門.jpg

興福院と書いて「こんぶいん」と読ませる。寺伝では天平勝宝年間(749 - 757年)、和気清麻呂(わ
けのきよまろ)が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。『七大寺日記』(嘉承元
年・1106年)には藤原百川(ふじわらのももかわ)が創建した興福尼院が前身とされているが、いずれ
にしても説明になっていない。「こうふく」が「こんぶ」と訛っていったのではないのか。

 s-P4082675大日如来.jpg s-P4082658しあわせ地蔵.jpg
 路角や分かれ道でよく見かける石仏や祠、奈良らしい景色

興福院周辺は佐保山麓の深い緑に覆われているが、この辺りは奈良の文教地区であり、小中高校と大
学が散在する。その隙間に神社や寺が肩身を狭くしている。

この中では「法蓮稲荷神社」の由来がちょっと面白い。この神社はかつて現在地の北東800mの場所に
鎮座していたが、明治十六年にその場所を、一歳で亡くなった聖武天皇と光明皇后の第一皇太子の那
富山御陵墓と決定しため、神社は移転(遷座)を余儀なくされたとある。そこに神様が常時住んでいる
わけでは無いのでまあ宜しいのかもしれないが、先住の神様としては、ちょっとやりきれない心境だ
ったに違いない。

 s-P4082672法蓮稲荷.jpg s-P4082659耳欠け狐.jpg
 神社入り口の一対の狐さま。鼻先がそがれ、片耳を失なって「あ〜あ、うーん」嘆きの呼吸 

春日山と芳山の谷間に源を発する佐保川は、若草山の北から平城山(ならやま)南麓を西に進み、途中
奈良市役所のあたりで大きく折れて南下する。現在の佐保川は護岸工事により川幅は狭く両岸をコン
クリートで固められ、川そのものにはなんの情緒も感じられない。
しかし、江戸時代に描かれた南都八景の錦絵(版画)を見ると、(意外なことではないが)ゆったりとし
た川幅と豊かな水量に恵まれた川であったことがわかる。

 s-P4082791佐保川桜.jpg

万葉集に佐保川の名称が入った歌は17首詠われている。そのなかで
「佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る」
「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは」
など千鳥を詠みこんだ歌が全部で六首ある。

 s-P4082823白鷺真剣なまなざし.jpg 

干潟の無い(と思う)奈良市内の川で今も千鳥を見られるのか知らないが、鷺の仲間はよく見かける。
コサギは頭に2本の長い冠羽を持つので容易に見分けることができる。街中で生活している鳥だけあっ
て人馴れしていて、近づいても逃げ飛んで行くことが無い。

 s-P4082699川路桜.jpg s-P4082694川路桜.jpg 

佐保川の桜は江戸時代幕末、奈良奉行川路聖謨(かわじとしあきら)が興福寺、東大寺の境内、佐保
山、高円山のほとり、佐保川の堤まで千本の桜を植えた名残である。
「川路桜」と呼ばれている当時の桜が現在も四株残っている。そのうちの一株は幹の直径が1m近く
ある巨木だが、見た感じでは二本の桜樹が融合したように思える。連理木のようだ。 樹齢140年にな
る、染井吉野としては終命に近いだろうに。今だ勢いを失うことなく見事な花を咲かせるのは二つの
命が支えあっているからだろう。(11.04.08)
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2011年01月04日

奈良・大安寺八幡神宮の「鳩」

大安寺八幡宮の歴史は古く、同社の由緒によれば、大安寺の僧行教が、 斎衡2年(855)に八幡神
(やはたのかみ、はちまんじん)を豊前国(大分県)宇佐八幡宮から大安寺境内に来てくださいと勧請
したとある。もと(明治時代以前)は大安寺の鎮守の神様であった。

 s-P1038693狛犬大笑.jpg

大安寺八幡宮の本殿には狛犬と一緒に「鳩」の置物が神使として据え置かれている。狐はよく目にす
るが、かわいく、でも平凡な「鳩」が神使なんて驚かされてしまった。
古来より鳩は八幡神の使いとして崇められてきた。八幡神は応神天皇の神霊であり、山頂の巨石から
「金色の鷹」となって出現し、鍛冶の翁、三歳の童子へと変わり、後に「金鳩」に変じたとされる。
そういう由来から、八幡宮の神使いとして鳩がここに鎮座している。
 
 s-P1038682神使鳩.jpg 

八幡神は、鎌倉時代前から皇族である清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八
幡」として崇敬を集め、戦での勝運を呼ぶ鳥として鳩の絵柄を家紋に使い、八幡信仰が栄えて全国に
広まった。現代の鳩のイメージとは全く違っている。
このように八幡神はもともとは武神であったが、江戸時代後期になると、特に安産に功ありとして子
安八幡宮とも称されるようになった。これは、八幡宮の祭神として応神天皇とその父である仲哀天皇
母である神功皇后を八幡三神として祀っていることから派生したことと容易に考えられる。

 s-P1038700大安寺八幡宮前景.jpg

仲哀天皇と神功皇后は熊襲(くまそ)(九州南部に勢力を持った種族)征伐のため筑紫(つくし)に赴き
これを平定するが、仲哀天皇は亡くなってしまう。熊襲の背後に新羅がいることが分かった神功皇后
は、海を渡り新羅に出発しそれを制圧した。神功皇后はその時妊娠中だったが無事 帰国し、第十五代
応神(おうじん)天皇を生んだとされている。この神話から母子健康の神様、安産の 神様とされている
わけである。

 神功皇后などを祭る大安寺八幡宮では、戦前(第二次世界大戦)まで安産祈願の参拝者がハトの置き物
を奉納する風習があった。本殿正面の棚に所狭しと飾られている鳥型がそれである。サイズは一様で
はない。異なる時代の特色を現しているのであろう。
奉納幕に紺地に白抜きの「鏡に対鳩」の神紋がクッキリと染め抜かれている。大安寺八幡宮の神紋で
ある。

 s-P1038680神使の鳩.jpg 

本殿正面に瓦地の鳩が並置されている。台座には大正十四年の文字が見える。その他にも瓦焼きの大
小の鳩が見える。欄干にこれも瓦焼きされた恵比寿様の面が無造作に掛けられていた。奈良の社寺を
巡っていると時々このような瓦焼きの花器や小物を見かける。恐らく鬼師の手になるものと思うが、
一般の陶器店や美術品の店ではまず手に入らない。これらは瓦を焼く職人(瓦師)が自ら手作りし奉納
したものなのだろう。

 s-P1038678恵比寿さん瓦面.jpg


 2010.9.28 付けの産経ニュースによれば『大安寺の鎮守として創建された八幡神社(奈良市東九条
町)で、八幡神の使いのハトをかたどった置物に願いを託して奉納する「八幡鳩」の風習が約50年
ぶりに復活した。社務所で授与される陶器のハトの置物と願い事を書いた絵馬(セットで2千円)を
本殿前に奉納すると、1週間の祈祷(きとう)の後、本殿にまつられる。』とある。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100928/nar1009280225001-n1.htm

大安寺八幡神社は、これまで奈良の有名な社寺の陰で注目されてこなかったが、この愛らしい鳩の置
物を核として新しい社史が開かれて行くことを祈りたい。

 

参考URL
※Wikipedia 奈良八幡神社 (奈良市東九条町)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A5%88%E8%
89%AF%E5%B8%82%E6%9D%B1%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%94%BA)
※ Wikipedia 八幡神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E
※Wikipedia 神使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF

※Wikipedia神功皇后http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%
90%8E
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2010年05月21日

磐之媛陵の杜若

磐之媛命陵は平城京の北外に集中する古墳の一つだが、初夏の頃、濠に咲く杜若(かきつばた)の
花がこの陵墓を特別なものとして印象づけている。紫色の花に、磐之媛のイメージを重ね見てし
まうからだ。

 s-P5197514磐之媛命陵濠杜若.jpg


磐之媛は仁徳天皇の后だが、その晩年は必ずしも恵まれた境涯ではなかったようだ。
記紀の中では「嫉妬深い女」として決め付けられている。というのは、天皇(夫)が自分以外の女
と仲良くしていると地団太踏んで荒れ狂う、つまりヒステリー症の女として記されている。

 s-P5197598濠雨滴.jpg

 
晩年というのは磐之媛が后になってから28年後のことだが、彼女が公用で熊野旅行に出た隙を
狙って、仁徳天皇は、以前から目をつけていた黒日売(くろひめ)という土地の豪族の娘を宮中に
入れた。その事を旅先で知った磐之媛はそれに激怒して、宮廷(難波)には戻らず山城の筒城宮
(京都府京田辺市)に行き、五年後その地で生涯を閉じる。

 s-P5197587磐之媛命陵濠杜若.jpg


磐之媛を皇后に迎えたのは、仁徳天皇が57歳の時だった。そして別に黒日売を自分の女にしよう
とした時の年齢は85歳。いくら古代とはいえ、仁徳天皇の年齢を聞くと、自分にはなんか
破廉恥な感じがする。女性が政争の道具、あるいは性的対象に過ぎなかった時代であったとして
も、「人」としての当たり前の感覚を持ってしまった磐之媛が哀れに思えてくる。

 s-P5197573杜若雨降濠.jpg


雨が降り始めた。剣先のように尖った真っ直ぐな杜若の葉は、雨の滴の重さに垂れ下がり、優し
い曲線を見せている。雨に濡れて花も葉も深く濃い色に変ったようだ。陵墓の濠の水面を打つ
雨音が自分も景色も包み込む。




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2010年01月13日

海龍王寺 冬の雨

 

「しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの」だったよな、と思い出しながら海龍王寺の山門を
入る。朝から降り出した雨は午後になっても上がる様子がない。時雨というよりも小糠雨だろう。 


 経蔵.jpg


「はしらのまそほ かべにながれむ」と続く会津八一の短歌を、写真にできないかと考えていたが、
もう柱の「まそほ(真朱)」はすっかり溶け流れ落ち黒茶色の地肌からはなにも偲ぶすべは無い。


 中庭から山門をを望む.jpg

 

こんな雨の水曜日に訪ずれる酔狂な奴はいるまいと(自分をさておいて)考えていたら、あにはから
んや、カメラを構えていた中門に、水色の傘が、ぼっと開いた。色に乏しい冬の雨天、「ビニール
傘も山の賑わい」とばかりにシャッターを押す。


 ピラカンサス.jpg

 

海龍王寺ではいつの季節も何かの花と出会うことができる。この時季は結実した「万両」、「南天」、
「くろがねもち」、橙や赤色の「ピラカンサス」を見ることができる。
本堂の奥にひっそりと咲く
雨に打たれて咲くラッパ水仙、なにかいじらしく感じる。まだまだ春は遠い。



 ラッパ水仙.jpg


 
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2009年12月30日

平城京跡 佇立する大樹に想う

平城宮跡に立つ。見渡す限り数本の樹木以外に視界を遮るものはなにもない。「広いな」としみ
じみと感じる。奈良市の中心にある1.1km四方の空間。しかし、この荒野に、1300年前、日本の
首都宮殿があったのだと考えた瞬間、都が造られようとしているその時のその場所にいるような、
不思議な感覚におちいる。


 大極殿遠望.jpg
 復元なった大極殿を望む


この地に都があった期間はたったの90年余り。日本の歴史から見てもあまりにも短い年月。平城
京が地上から姿を消してから1200年過ぎた今ここに、朱雀門に続いて、当時の庁舎、大極殿が土
の下から甦ったように復元された。遠くから眺めると、まるで幻を見るような錯覚に襲われる。


 大極殿.jpg 朱雀門.jpg


平城宮跡地には、樹齢50年以上になると思われる大きな木がところどころに立っている。恐らく
戦後に植栽されたものであろう。樹種もばらばらで、冬には落葉する広葉樹が目立つ。 
葉の落ちた大樹のシルエットにはなにか惹かれるものがある。おそらく、葉の落ちた枝を透か
しその先の景色を見る時、知らず知らずに自分の心を覗き見ている、そんな虚無の一瞬に捉われ
るのだろうか。癒しとはまた異なる、心の静まりを与えてくれる。


 日の出.jpg 夕焼け.jpg
 この日の朝焼も夕焼も30秒ほどで終わってしまった


平城遷都1300年祭が来年1月1日に始まる。平城宮跡の保存に奔走した棚田嘉十郎は1910(明治
43)年、大極殿跡で「平城遷都千二百年祭」を挙行したという。その運動が実って、1922(大正
11)年、大極殿・朝堂院跡が国の史跡に指定された。棚田氏が無念のあまり、自ら命を絶った翌
年のことであった。 

私は、昇る朝日に、頭上に白く輝く夕月に、氏の希望と苦しみに満ちた人生を悼み、そして夢見
たであろう雄大な奈良の都の景観に、同じく思いを馳せる。


 夕月.jpg

万葉歌より
『木の間より 移ろふ月の 影を惜しみ 立ち回るに さ夜更けにけり』(作者不明)

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2009年12月05日

ならやま初冬の景色

 錦秋.jpg


ならやま」は奈良市と京都府の境に横たわる連丘で佐保・佐紀の丘陵と呼ばれる。地図でこの
一帯は「奈良阪町」「法連佐保山町」の住所表示になる。
ならやまの南側は、聖武天皇・皇后陵や元明・元正天皇陵などの史跡が集中し、奈良時代におい
ては高貴な方々の墓所のおかれた地域だ。驚くことに今も土葬の慣習が残る。

 
 ならやま六地蔵.jpg
 六地蔵


奈良・大和路を辿ってみて感心するのは、そこに住む人々が、古墳などの遺跡を崩すことなく、
消極的ではあろうが、保護してきたことだ。死者の住処として忌避してきたのかも知れないが、
意識し続けていることは間違いない。残念なことに、破壊するのはいつも為政者たちだった。
ならやまにある光明皇后陵を破壊したのは、1559年多門城を建造した室町時代の武将・松永久秀
であり、その城跡に、昭和22年、奈良市立若草中学を建設したのは奈良の行政である。


 里山の藁坊主.jpg



今に残るならやまは、照葉樹に覆われ、木々は赤や黄、枯葉色のパッチワークのごとく色変わり
している。錦(にしき)の織物のように美しい、錦秋の山並が広がる。
木の葉の色変わりは、種類によりことなるが、この時期やわらかな黄色を見せるものに、針桐(は
りぎり)
がある。人の手のひらより大きな三つ葉状で、樫やくぬぎの葉が落ちた頃、発光したよ
うな浅黄色が目を引く。「はりぎり」とは棘のある桐のことで、建築関係では「セン」と言う。

 
 s-針桐の黄葉.jpg
 黄葉した針桐


ならやまの内に人が居住し始めたのは古いことではないようだ。せいぜい昭和の戦後からだろう。
わずかに広ける谷間は、田畑などの耕作地になっているが、稲作離れの影響で、野原に戻ってし
まっているところも多い。このままこの国の人口減少が進んで行けば、この地域が意外にも過疎
地になり、再び忌避地として無人化してゆくこともあるだろう。とにかく辺鄙なところだから。


 藁坊主と柿木.jpg 葉牡丹.jpg
 苅田の柿木               葉牡丹、蕪、大根の葉が整列

 ならやまの歌を探す
「ならやま」をモチーフにした歌を探してみたが以外にも少ない。
会津八一の歌に、「ならやまの したはのくぬぎ いろにいでて わぎへのかたを おもひぞわ
がする」と、ならやまを歌った一首がある。ならやまの景色を見て、武蔵野の我が家を思い起こ
したものという。

万葉集にある橘良麻呂の一首が、この時季にとてもよく似合う。
「ならやまの みねのもみじは とればちる しぐれのあめし まなくふるらし」
漢文では、「平山乃 峯丹黄葉 取者落 礼能雨師 無間零良志」と表記する。 橘良麻呂につ
いては知る術がないが、「取者落」の三文字が気にかかるところである。




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2009年12月04日

唐招提寺 名残の紅葉

 金堂
紅葉の時季は過ぎてしまっているはず。でも、少しでもその名残を見ることができたならと願っ
て、唐招提寺の南大門を入った。南に傾いた冬の朝日が、金堂に至る広い道に濃い影を落として
いる。平成の大修理を終え新しくなった金堂を遠くに見て、南大門の石階を降りることができず、
しばらくの間、見続けてしまった。瓦と木で造られた天平の建物、朝の柔らかな陽を受けてたた
ずむその姿は、心地よい暖かな命を宿し持っているようだ。


 南大門から金堂を望む.jpg
 

千手観音立像のこと
8時30分の開門直後に入山した時は人影もまばらだったが、その後、参拝に訪れる人の絶えるこ
となく、金堂の前は、いつも人であふれている。仏像にはあまり興味はないが、最近、写真家「土門拳
の撮った千手観音を見て以来、実物を見たくて仕方がなかった。
正面から間近に見た千手観音立像、実物はすばらしいものだった。だけど、土門拳氏の写真に
あった迫力を少しも感じることができなかった。


歌人山口誓子の歌に、『永き日を千の手載せる握る垂らす』という一句がある。氏の紀行文集に、
『群がっている小さい手は叫びのように見えたが、それらを無視すると、上部の手はものを載
せ、両側の手はものを握り、下部の手はものを垂らしていることを知った。手のそのような形態
を、私は「載せる握る垂らす」と表現した。荒々しく動詞を重ねたのである』と、書かれている。
全ての手がそのようになっているわけではないが、確かに大きな手はいろいろなモノを、載せ、
握り、垂らしている。なんという細工。恐れ入ったのであります。


 金堂西面.jpg
 


金堂の仏像、今は外からしか見られないが、かつては入堂できたようだ。亀井勝一郎「大和古
事風物詩」
の中に、『しかし柱ばかりに感心しているわけにはゆかないので、私は御堂に入る』
とある。昭和17年秋のことである。金堂を西側面から見ると、奥行きは四間ある。前の一間は石
段で拝観のスペース。もう一間は仏像の安置された仏間であり、後方(奥の二間)は壁で仕切ら
れてしまっている。奥行き一間では参拝者が中を通るゆとりはまったく無いと思う。いつの頃か
らか、金堂は中央で仕切られてしまった。そのため拝観者は中に入れなくなったのであろ、か。



 吐水盤.jpg
 

吐水盤(手水鉢)について
今回唐招提寺で見たかったものの一つに「吐水盤」がある。これは、写真家入江泰吉氏の写真を
見て知ったもの。これまで数回訪れたついでに探したが、発見できなかった。大修理の時に持ち
運ばれていたのだろう。 今回は探すまでもなく、金堂の南東、鼓楼の前面にそれを見つけた。


吐水盤については資料・情報に乏しく詳細は分からないが、盤の外面に「因幡守本庄藤原朝臣宗
資寄附
○」の銘が読める。藤原宗資は笠間藩主「本庄宗資」のこと。調べてみると藩主在任の時
期は1692年から99年の間とある。この「吐水盤」江戸元禄期に寄進されたものとわかる。 それ
にしても、この、絶えることなく水を落し続ける吐水盤の仕掛け、当時はどのようなものだった
のだろう。
 

散り残る紅葉
紅葉を求めて訪ねた唐招提寺だが、この寺は、外から見ると黒々とした一つの大きな森のようで、
そこに寺が隠れているとは到底思えない、常緑樹中心の植生である。境内には四季それぞれに咲
く花木はあるものの案外に少ない。探していた紅葉、本坊付近からはす池にかけて、今が盛りの
ごとく、燃えさかっていた。

 
 経蔵の紅葉.jpg はす池前の紅葉.jpg 
 経蔵裏手の楓紅葉



水面に浮かぶ楓の葉と、水に映った紅葉は、まるで万華鏡を覗いたようなにぎやかさ。

風吹けば おつるもみぢば 水きよき みちらぬかげさへ そこにみえつつ (古今集 みつね)』


 水面の紅葉.jpg

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2009年08月14日

神と仏の杜 奈良佐保山

奈良県と京都府の境に位置する佐保山北陵一帯は、平城京の時代から現代に至るまで
死後の住家としてその姿を留める。


奈良西の京斑鳩自転車道
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“奈良西の京斑鳩自転車道”は原生林を貫通する間道。
佐保山から平城京までなだらかな下り傾斜が続き、快適にサイクリングできる。


奈良ドリームランド廃墟の脇を過ぎてしばらく林の中を行くと、突然、香の臭いが。
何故こんな人気の無い山中で。
自転車を止めて周りを見渡すと、あった。ここは、墓場の真ん中。
土饅頭に朽ち果てた棒杭の卒塔婆。初めて目にした。土葬の墓場だ。
この時季、墓参のため雑草や藪が刈り払われて出現した死者の国なのだ。
新しい花が活けられている。線香の煙が漂う。


ちょっとゾクゾク 初めて見た土饅頭
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墓所の奥に、鳥居と六地蔵が見える。明神型の石造りの鳥居。最もポピュラーな鳥居だ。
明治時代以前は当たり前だった神と仏が同居する「神仏習合」の景色だ。


一の鳥居
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額束と六地蔵
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一の鳥居の額束(がくづか)は剥がれ落ち、柱の根元に立てかけられている。
玅妙覺門」と見える。「しょうかくもん」と読むのだろうか。
脇に六地蔵が並ぶ。



二の鳥居の額束は「等覺門」(とうかくもん)と読める。
真宗(東本願寺)の聖典「帰三宝偈」に「妙覚および等覚、 正しく金剛心を受け、
相応一念の後の 果徳涅槃者に、帰命したてまつる。」という文言があるので、これは
おそらく人(僧侶)の名前だ。ここにはかつて浄土真宗の末寺があったのだろう。
鳥居の笠木の左部分は崩れ落ち、額束は鉄線でくくる付けられているが一の鳥居のように
いつかは腐食し落下するだろう。


二の鳥居等覺門
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石地蔵が木立の向こうに見える
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二の鳥居の奥に木立の向こうに地蔵菩薩の石像がある。
盆を過ぎれば再び藪の中に隠れてしまうに違いない。
一年に一度だけ公開される寺院の秘仏みたいだ。


地蔵菩薩石像
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すっかり苔の衣装を身にまとい、痛々しく感じてしまう。
銘文は風雨に晒され判読しづらいが「保延」の文字が見える。
平安時代1135年〜1141年のものか。※六地蔵は江戸時代1764年から1771年の間の「明和」
の年号の文字が見える。


向日葵 夏の陽射しにぐったり
s-P1160433.jpg


“奈良西の京斑鳩自転車道”は関西本線(大和路線)と国道24号奈良バイパスに突き当たる。
夏の強い陽射しを受けて畑の向日葵は、ぐったりと頭を垂れてしまっていた。
電車が通り過ぎる。冷やりと涼しい暗い杜から抜け出て、何か生き返ったような心地だ。
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2009年08月01日

天平のスター光明皇后陵墓のこと

佐保山王丘を巡って想う


聖武天皇佐保南山陵.jpg

天平時代のスター聖武天皇と光明皇后の陵墓は奈良市の佐保山にある。
奈良阪を挟んだ目と鼻の先に若草山の麓に展開する東大寺の伽藍を目にすることができる。
東大寺は聖武天皇と光明皇后の第一子、わずか一年でこの世を後にした基皇子(もといのみこ)を
偲んで建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)を前身とする菩提寺だ。


若草山を背景に東大寺を望む
東大寺若草山を望む.jpg


この地を訪れ、聖武天皇とその皇后が、二人の人生の全てといっても過言ではなかろう
東大寺を望む標高115mの丘陵佐保山を生前に墓所として決めていた事に、現世への強い
執着を感じる。


平城京の東北に隣接する聖武天皇陵、光明皇后陵のある佐保山は王陵の丘であり、天平時代の
貴人の葬送地、火葬地として名高い。


光明皇后は葬儀や陵の築造を最小限にとどめる薄葬を強く遺言し、没後は蔵宝山(佐保山に同じ)で
火葬され同地に「常緑の木を殖え、刻字の碑を立て」埋葬された。


二人の陵墓は今では一つの丘のように重なり合い前方後円墳の形すら判然としない。
1300年の時を経た墳墓は鬱蒼とした木々に覆われ自然と一体化してしまった。
いやこれが地の下に広がる死後の世界を信じた光明皇后の求めた形なのかもしれない。



聖武天皇陵墓
聖武天皇佐保南山陵.jpg



後世戦国の世、松永久秀はこの地に多聞城を築き、その城跡の一部は現在若草中学の敷地と
なっている。
松永久秀は東大寺大仏殿を焼き払うなどの悪行で名高いが、恐らく奈良市民には評判が良く
ないのであろう。跡地には発掘された石仏や墓標が打ち捨てられたように雑然と寄せ集め
られ、供養に訪れる人も稀なようだ。



多聞城跡に残る墓石

打ち捨てられた墓石.jpg

若草中学正門横にある野仏たち
多聞城跡の野仏.jpg



昔王族の死後の住みかであった佐保山南麓、現在は天皇皇后陵を借景に奈良土塀に囲まれた
高級住宅街として静かな佇まいを見せている。

陵墓の入り口は、佐保川と一条通りが交差する「ほうれん橋」の際にある。 
佐保路とも呼ばれるこの道は、この橋を東に往けばすぐに東大寺の転害門に行き当たる。
西に進めば、平城宮跡を横切り西大寺へ抜ける東西大寺を結ぶメインストリートだった通りだ。
佐保川に沿った佐保山稜には貴族の別荘が建ち並んでいたと言う。今も残る興福院、不退寺、
法華寺はその名残といわれる。



光明皇后陵墓参道
光明皇后陵への路.jpg




佐保山の北陵には、西の奈良阪を挟んで元正天皇陵と元明天皇陵がある。この地は今も
森とわずかに開けた水田が広がる丘陵地だ。
すぐ近くの般若寺を訪れる人は多いが、忘れられたように定置されたふたつの墓所を訪れる
観光の人はいないだろう。



元正天皇佐保西山陵
元正天皇陵.jpg



天皇陵は天皇家のルーツとして宮内庁に管理され必ずしも一般に公開するためにあるものでは
無い。奈良県下には高松塚やキトラのような有名な古墳もあるが、明治時代以降天皇陵は
皇室の墓所として密封されている。 いずれの陵墓も石柱の柵に囲まれ、整然と整備されて
いるものの、見かけに大差なくなんの面白みも無い。ただ見るものが、歴史書や小説を読み、
そこに埋葬された貴人の生涯を学び知り想像をたくましく古代の謎に心ときめかせるしか、
鑑賞の方法は無い。



石柱の柵に囲まれた元明天皇陵墓   あざみの花開く元正天皇陵墓

元明天皇陵前方部石柱囲い.jpg あざみ咲く元正天皇陵.jpg


 

佐保山には、丁度いま開催されている「近畿まほろば高校総体」のメイン会場鴻池運動公園が
ある。天皇陵の横を近道とばかりにジャージ姿の若者たちが見向きもせずに通り過ぎてゆく。

在りし日の光明皇后にお似合いの芙蓉の花が咲いていた。
昔から美しい女性のたとえにもちいられた芙蓉の花言葉は しとやかな恋人

光明皇后の花
芙蓉の花.jpg



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2009年07月27日

唐招提寺西方院の子鬼

唐招提寺の奥院、西方院(さいほういん)は、唐招提寺南大門の先、踏切を越えて更に西に
100m程ゆく坂の途中にある。
奈良ではよく目にする古瓦を補強材にした赤土色の土塀がこの寺の長い歴史を物語る。

南門.jpg 山門の百日紅.jpg


薄紫色の百日紅の花が山門を飾っている。
まだ咲き始めのようで硬い蕾のほうが多い。百日もの間咲き続けるというこの木花は
暑さの盛り8月中旬に最も見頃になるが、梅雨の風情もなかなか捨てたものではない。

西方院は唐招提寺僧侶の墓所であり、大木が鬱蒼と茂った昼もなお薄暗い境内には、
数百の墓石に覆われている。
詳しい由緒は分からないが唐招提寺の創建(759年)から84年後の1243年に慈禅房有巌により
開かれたとある。
墓所といっても現代のような角柱の墓石が並んでいるわけではなく、30pにも満たない石仏が
ほとんどだ。1300年もの年月の間に仏となった幾多の僧侶たちの霊場に、訪れる人も
無く、ただ蝉の声が森に溢れているだけだった。

西方院石仏ひな壇.jpg


有形文化財に指定された五輪塔がある。
唐招提寺中興の祖、證玄和尚の墓だ。1292年に没したとあるが、つい最近造られたような
印象を受ける保存状態のよい、綺麗な花崗岩(御影石)の墓石だ。

五輪塔.jpg


五輪塔は地、水、火、風、空という物質の五大要素をかたどった五つの部位からなり
それぞれ方、円(球)、三角、半月、宝珠形に造られた石の卒塔婆を言う。
墓所にはその他種々の形をした墓石が散在し、五輪塔を刻んだ板碑が集められた区画もあり
1300年の墓石の歴史というか墓の形状の変化を観察することもできる。

板石塔婆.jpg


護摩堂横の石仏たちのひな壇は、名も無い僧侶たちの墓石なのだろう。一つの石に一体の
人型を刻んだものや二体の人型を刻んだものもある。ごく稀であるが三体のものもある。
どういうことなのだろう。何か意味があるのだろうか。

石仏.jpg  護摩堂脇の石仏ひな壇.jpg


草の陰に赤膚の二匹の子鬼が隠れていた。
これによく似たものを元興寺で見たことがある。

赤膚子鬼.jpg


元興寺の子鬼は赤膚焼きの作者が試しにつくり、置いていったものと聞いた。
とてもエロチックな姿で、何か寺に不似合いな気がしたが、実は元興寺の鬼伝説に由来する
もののようなのだ。


転寝の元興寺の鬼.jpg  エロチックな元興寺の鬼.jpg


恐らく同一作者のものだろう。 赤膚焼きは奈良の伝統的陶芸であり、数少ない窯元は寺院との
付き合いが深い。西方院には伊藤博文の茶室六末庵を移築した「六松庵」があり、
今はなき庵主石田宗静は小笠原流の茶道家として知られたお方と聞く。そんなことで
赤膚焼きの窯元との付き合いは必ずあったはずと推測するのだ。
そして作者は鬼を置いていったのだ。


庫裡に向かう小路に咲く鬼百合

おにゆり.jpg

墓所の隅に打ち捨てられたように置かれる墓石の影に、僧侶の小ぶりな坐像が隠れていた。
いつの時代に創られたものか不明だが、それほど最近のものではない。
愛嬌のある大きな顔。

この写真は坐像をひな壇の前に移して撮らせていただいたもの。

和尚さん.jpg



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2009年06月22日

薬師寺東塔10年間お別れ 「古寺巡礼に見る薬師寺東塔」

『薬師寺東塔10年間お別れ』
 
 今年1月28日朝日新聞に「7月から解体・修理」の記事が載った。解体は一世紀ぶりのことだそうだ。
実際にその姿を目にすることのできなくなるのは8月からのようだが。

十年後といっても、自分自身この世にいられるのかわからない。
とりあえず現在の東塔をじっくり見ておくことにする。

初夏東塔.jpg


「古寺巡礼に見る薬師寺東塔」


知恵の森文庫「私の古寺巡礼」の、大岡信氏の文章の中に『心柱も、柱の四方に安置されて塔を
護っている四天王その他の仏像も天井も、すべての部分にいたみが激しかった。外から仰ぎ見て、
歳月がおのずと塔に与えた蒼古たる貫禄を讃えているだけではとてもすまない状態に、塔そのもの
の寿命が達しているのを感じた。』

創建当時(697年)から既に1300年以上経ているのだから、傷みもしよう。むしろ1300年間もの長きに
渡ってもとの姿を保っていることこそが、驚きではないか。



東塔相輪・水煙シルエット.jpg 水煙天女透かし彫り.jpg


和辻哲郎「古寺巡礼」から

和辻哲郎は『しかし、金堂から東院堂への途中には、白鳳時代大建築の唯一の遺品である東塔が
聳えている。これがどんなに急ぐ足をもとどめずにはいないすぐれた建築なのである』 
『大胆に破調を加えたあの力強い統一は、確かに我国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な
美しさを印象する。もしこの裳層(もこし)が、専門家のいうごとく、養老年間移建の際に
付加せられたものであるならば、(中略) とにかく奈良遷都時代の薬師寺に一種風変わりな
建築家のいたことは確かである。』

『双眼鏡でこの塔の相輪を見上げた。塔の高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、美しい
水煙が、塔全体の調和をここに集めたかのように、軽やかに、しかも千鈞の重みを持って掛かって
いる。その水煙に透かし彫られている天女がまた言語に絶して美しいい。』


五木寛之「百寺巡礼」

五木寛之「百寺巡礼第三番薬師寺」の中で、『薬師寺は古代と現代、過去といま、そして未来と
いうものを、一度に体験させてくれる寺である。(中略)
今の東塔はまぎれもなく、西塔の千数百年後のすがたである。 金堂を正面に立つと、左手に
色鮮やかな西塔、右手に古びて貫禄のある東塔が見える。左右のシンメトリカルな配置は時代の
違いを感じさせる。
新しさと古めかしさ。それが奇妙に調和していて、なんともいえず魅力的だ。この光景を見ると、
薬師寺に来たという感じがする。二つの塔のコントラストと調和が、この寺のいちばんの見どころ
かもしれない』


西塔から東塔を望む   東僧坊から東塔を見る     

西塔から東塔を見る.jpg  東僧坊から伽藍回廊を見る.jpg


南門を8時30分の開門直後にくぐり、境内を歩き回って主に東塔の写真を撮り続けた。 
朝方の雲も取れて伽藍は夏の強い陽射に照らされ、暑い。
時計は11時30分になっていた。3時間か。 もうぐったり。

中門をくぐる時、涼しい風にほっとする。
南門を出たところに、紫式部のピンクの花が目に付いた。
粒な薄紫色の実がなる秋には、また来て見ようか。

中門、仁王像「吽」.jpg  紫式部の花が咲く.jpg





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2009年05月29日

航空自衛隊奈良基地の六地蔵

奈良航空自衛隊基地の六地蔵に花は消え

奈良航空自衛隊奈良基地は平城京跡北部に広がる古墳群の中にある。

有刺鉄線の向こう基地の中に、六地蔵がいらっしゃいます。
でも、何かが足りないような、空々しい空間だ。
そうだ、足元の花立(華瓶)が意味無く置かれている。

魂を抜かれた六体の地蔵が、基地の中にさらされているみたいだ。


法華寺名残の石仏.jpg


基地正門の案内の書(由緒)によれば
「当基地は奈良市内の北部、旧法華時領内にあり、
平城宮跡北東、宇和奈辺、小奈辺の両古墳に接し、古代から天平の歴史を伝える多くの
史跡に囲まれ、日本人としての感性の陶磁、武人としての修練の場所に会い相応しい
環境に恵まれて・・・」と記されている、のに。 

ああ、これは空しい。石仏には大和人の魂が宿る。平城人の仏教に対するひたすらな心が宿る。
この由緒は、ちょっと、残念だ。 
井上勝奈良基地司令殿。ぜひ花を供えさせてください、お願いします。

奈良基地の由来.jpg   航空自衛隊奈良基地.jpg


磐之媛命墳墓の印象

平城京の北部地域に広がる古墳のひとつに磐之媛命(いわのひめのみこと)の墳墓がある。
路を挟んですぐ目の前に航空自衛隊奈良基地がある。
前方後円墳、全長219m、後円部直径130mとかなりの大きさだ。古墳ランキング23位。
明らかになっている皇后の墓としてはトップクラスと思う。
※ 参照 「日本の巨大古墳100」
http://www.asuka-tobira.com/kofun/kofun.html#best10

睡蓮の花

墳墓の濠には、睡蓮の花が開きはじめていた。これから六月の間、朝に開き夕には閉じる
睡蓮の花に埋め尽くされることだろう。
こうほねの黄花も一二輪開いていた。

磐之媛命陵.jpg

磐之媛命

仁徳天皇の正妻、磐之媛命は嫉妬深き女と記されているという。(日本書紀・古事記)
墳墓の濠には、春は紫色のカキツバタ、夏は薄紅色の睡蓮、金色のコウホネが絶える事なく咲き続ける。
死して千数百年後の今尚、媛の四季は、静かな彩りに包まれているのだ。

周堤の自然樹.jpg

太古の魂が歩き回る墳墓の杜

前方後円墳は、自然な樹木に覆われ水濠に囲まれた小島のようだ。
昼なお暗い杜の路には、もの言わぬ太古の魂たちが歩き回っているような、思わず
そんな気持ちにさせられる底深い気配が漂っている。
カメラを構えてシャッターを押すごとに、何かが取り付いてくるようなそわそわとした気持ちに
なってくる。

内堤のサワフタギの花

サワフタギの花.jpg


サワフタギの花言葉は「緊張感」

語り継がれる磐之媛命の人生は、言われているような嫉妬深い女だったわけではないようだ。

我が意のままにならない自身の先行き、豪族間の存亡かけた戦いの真っ只中に、かき乱され、
先の見えない緊張感に強いられる人生だったようだ。

例え国家を動かすような巨大豪族の娘としても、天皇たる夫と絶縁したわがまま娘のために
この巨大な墳墓、前方後円墳が造られるとは考えにくいのでは。

磐之媛命陵を前にいつの間にか太古の世界に迷い込んでしまった。

濠の堤には綿飴のようなサワフタギが、満開なのだ。


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2009年03月22日

唐招提寺講堂西彼岸桜

3月22日 唐招提寺 小雨
唐招提寺は昨夜からの雨もあがりそうだ。 講堂鐘楼前の彼岸桜は今花の盛りを迎えている。
静かな寺域の中でここだけは一足早く春の華やかさにあふれている。
奈良 平城京 五条西二坊 小雨降る静寂の境内にいると1300年の時を
さかのぼっているように錯覚する。 南都の早春

唐招提寺講堂西彼岸桜.jpg
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