2015年03月20日

平群谷のイエローダイヤモンド

 信貴山へ向かう奈良県道250号線の途中に福貴畑(ふきはた)の集落がある。標高200mから400mの間の尾根沿いの狭間に80数世帯の民家が隣合わせに点在する。3月15日、日曜日。時々雨のぱらつく空模様だが、しっとりとした空気は写真撮影に申し分ない。

 車で登って来る途中処々に見かけたのと同じ黄檗色(きはだいろ)の樹花が、この福貴畑のいまだ冬の気配の残る谷間をよりきらびやかに彩っている。絵筆で描き加えたみたいだ。この景色、今までに一度も見たことが無い。あの樹、なんて名前なのだろう。それよりも、もっと良く見える、異なるアングルから撮ってみたい、と思った。

 P3162515青文字の谷.jpg
  「金色の樹影霞みて平群谷」 

 谷は見るからに深くまた急峻で、すぐ目の前に見えるあの黄檗色の樹に近づくには、U字状に迂回する山道を辿って行かざるを得ない。その山道も途中で別の方向へとそれてしまう。谷底に向かって開けた道を見つけては何度も降りてみたが、行き止まりだったり、路面が崩れ落ちたりしていて結局目指す場所に辿り着くことができなかった。
 信貴畑の集落も急速に高齢化が進んでいる。働き手を失った谷は荒れるに任せ、かつての里山は藪笹に覆われまた竹藪となり人の行く手を拒む。そんな放棄された谷間に限ってあの黄檗色の花の樹があるのだが。
思うにあの花は、実は集落のそんな状況を知らせる一つの旗印(サイン)なのかもしれない。「そこにはもうだれも住んでいないよ」って。
 
 P3152492青文字の谷.jpg

 樹の名前は意外に早くに判った。生け花用に木枝の伐りだしに来ていた農家の女性と出会い、聞くことができたのだ。
「あれは青文字(あおもじ)よ、ひとりでに勝手に生えて来るの」と。つまり植樹したものではないということか。きっと野鳥が熟した実を食べては、あちこちに種を落としたのだろう。だが、その青文字の花は平群町のこの山中でよく目にしたものの、奈良の他の地域では見た記憶がない。福貴畑のこの辺りは造園用の庭木が多く植え育てられている。おそらく最初の一本の青文字はこの地区の造園業者が植えたものであろう、と思うのだが。

 P3152478.JPG

 図鑑を見ると「青文字は台湾黒文字とも言い、原産地は台湾、マレーシア。クスノキ科の落葉小高木。中国・九州・沖縄などの山地に生える。雌雄異株。早春,雄花は濃黄色,雌花は淡黄色の花をつけ,のち黒紫色に熟する。材は芳香を持ち,楊枝(ようじ)などを作る。開花前の薄緑色の苞に包まれた状態のものが、生け花の材料に使われる。」とある。日本にいつ渡来したのかは分からない。
 それにしても、管理放棄され人の手の入らなくなった平群町の山林が、この黄檗色(きはだいろ)の青文字で覆われたなら、さぞ美しく壮観であろうことか。「黄金の山」あるいは平群町の「イエローダイヤモンド」と呼ばれそれそそれは評判になるかもね。
 ※
 
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2014年04月10日

法隆寺夢殿の枝垂れ桜

夢殿の在る法隆寺東院伽藍の桜をやっと見ることができた。これまで夢殿には桜花の時以外初夏や早春に訪れている。伽藍の北東隅のすでに古木の風格を備えたその枝垂れた姿をみるにつけいつも花の咲く様子を思い描いてみる。
一本桜ならば奈良の地には他にもっと見事な姿を見せてくれる名所がいくらでもある。だけど自分が夢殿の桜にこだわるのは、気持ちの中に法隆寺のもつ精神的な力、或は宗教的な力に強く感応する部分があるからだろう。この桜樹は奈良斑鳩の千数百年の歴史を養分として育った特別な一本なのだ。人がその出自や血統を云々するようにこの桜樹には語るべき高貴な歴史がある。

 s-P4015851法隆寺西大門.jpg

法隆寺を訪れた人ならばだれもが感じると思うが、この寺には他の寺にはない特有な気が流れている。静謐と言ったらよいだろうか。奈良の他の寺が持つような俗っぽさというか人臭さがない。参道を夢殿に向かって西大門から東大門に進んで行く間に知らずしらず心が洗われるというか穏やかな安らぎに似た心持に満たされる。 

 s-P4015889夢殿枝垂桜2.jpg 

夢殿の枝垂れ桜は想像していたものと違った。もっと違う能舞台さながらの幽玄美を思い描いていたのだが。朝日を受け活きいきと輝く生気に溢れていた。自分はその溢れるばかりの勢いに圧倒されどう撮ったら良いのか決められずに右往左往するばかりだった。
まっ、今回はこれでいい。初めて出会ったのだから。次回はもっと落ち着いてゆったりとした気持ちで見ることができると思うから。(平成26年4月1日撮影)

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2013年07月13日

法隆寺夢殿夏の影絵


午前八時の開扉とともに法隆寺東院伽藍に入った。朝から夏の強い陽射しが照りつける。
東の回廊、連子窓から射しこむ朝陽が足下に梯子状の模様を描く。このデザインは朝だけのもの。冬に来たときに比べて半分程度の幅しかない。夏の太陽はすでに空に高い。

 s-P7064641夢殿回廊朝陽.jpg

夢殿前の石板に残った打ち水に、八角屋根の庇瓦が影を落としていた。小さな風鐸がわずかな風に揺れて高い音を鳴らす。人気のない東院の中庭に小気味よく響く。 

 s-P7064661夢殿梅雨空.jpg

引かれたばかりの砂熊手の箒目に尖った八角屋根が影を落とす。このデザインも朝一番に訪れたものだけが目にすることができる。この横線、一時間もしないうちに参拝者の足に踏み乱されてしまう。

 s-P7064669八角円堂夢殿の甍.jpg

七月の雨にけぶる夢殿を撮りたくてまた奈良を訪れたのだが、今年の梅雨はあっけなく明けてしまったようだ。明日もあさっても雨は望めそうにない。気を静めて風景の中に入り込もうとしてもどうしても一体感に至らない。撮影を諦めた時、地に写しだされた夢殿の影が心の中に染入ってきた。写真家土門拳が心眼という事をよく言っていたが、確かに無の境地の中で見えてくる時がある。
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2012年12月24日

冬の奈良 キュートな野の仏

冬の奈良の山里は今、木々はもうすっかり葉を落とし、足元を覆い隠していた草葉は枯れ伏せ随分明るく見通しがよくなっている。大嫌いな蛇や、蜘蛛や大小の虫やおぞましいヒルを気にすることなく野山に分け入り歩きまわることができる。

 s-PC203550里山冬の朝.jpg

冬の野山の魅力は枯れ色に変わった草木の景色にあると思っている。枯葉の降り積もった山道はとても柔らかで、ほんのりと冬の匂いを感じることもできる。葉が落ち遮るものがなくなったせいだろうか遠い所にいるだろう人の話し声が随分早くから聞こえてくる。でもその姿はなかなか見えてこないのだ。

 s-PC193455矢田寺への道.jpg


野の仏 勢至菩薩立像
これまで数えきれないほど様々な野仏を見てきたが、こんなにキュートな石仏に出会うのは初めてだと思う。石仏というよりも人形のようだ。驚いたことにこの野仏、なんと私に向かって手を合わせ祈っている、ように見える。そもそも仏像は、人がその像に向かって祈りを捧げる対象であったはずなのに、どう向き合ったら良いのか戸惑ってしまう。

 s-PC183397勢至菩薩石像.jpg

この石仏、゛聖観音菩薩 ゛あるいは゛勢至菩薩゛と思う。宝冠に水瓶のようなものを辛うじて認識できるし、合掌する姿は勢至菩薩のものであろう。身の丈およそ一尺(30p)程度の小さなもので、これまで蒐集家に誘拐されることもなく骨董商に身売りされることもなくよくも無事過ごされて来たものだと少し驚かされる。春から秋の間は覆い茂る草葉に身を隠され気づかなかったと思うのだが、冬の時季だからこうして人の目につくようになったのであろう。

奈良県下で写真を撮るようになってからというもの、街中はもとより野山でもよく見かける石仏を景色の中にとらえてきたが、偶像崇拝のような行為に対してどこかに反発する気持ちがあって、野仏に限らずこれまで自分は仏像を前にして本心から手を合わせ、何かを祈り願ったことはない。だからと言って人が仏像に向かう心を否定するつもりは毛頭ない。

だが今回この野仏を前にしたとき何の躊躇いもなく『私のような者に手を合わせていただき恐縮です。どうかあなた様も末永くお元気でいてください』と知らずしらず感謝の言葉を心の内に唱えていた。勢至菩薩という名の仏像に対してではない、その合掌の姿が自分の心を自然に吐露させたのだと思う。
キュートな勢至菩薩石仏、この写真を小さな額に納め念持仏として祀ってみようかとも思っている。
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2011年10月22日

コスモスの花と法起寺の三重塔


「トレビアン! 」、コスモスの花と三重塔が作り出した景色を前にして思わず口をついて出た。
三重塔にしろ五重塔にしろ奈良の景観に欠かすことが出来ないが、仏塔にこれほどに調和する花は
コスモスの他にはないだろう。この時季の花としては菊の花もあるが、ちょっと線香くさい。
尾花(ススキ)もよく取り込まれる植物だがこれはちょっと古典的すぎる。

 s-PA208517法起寺五重塔初秋.jpg

法起寺の国宝三重塔は今より1300年以上前の飛鳥時代慶雲3年(706)の建立で(三重塔では)現存す
るわが国最古最大の塔である。法隆寺の五重塔と同じ頃(710)の創建で、法隆寺の建造物(堂塔伽藍)
とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
これまでに三度入場(参詣)したが、そんなにすごい歴史が秘められているとは思えないというか、(狭
い)境内を隈なく廻はっても、いまひとつ心に響くものがないのはどうしてだろうか。
法起寺の境内には、なにか乾いた風が吹いているようなそんな感じがする。

法起寺の周りを彩るコスモスの畑は、斑鳩町役場が斑鳩の里の風景・景観を保全するため地域周辺の
休耕田を活用して栽培管理している。法起寺とは関係ないとある。しかしこのコスモスの花は法起寺
の景色を随分華やかにそして生き生きとしたものに変えてくれる。
春のレンゲや秋のコスモスの花が三重塔と相まった時、まるで彼岸の世界を見ているようだと考えた
とき・・・法起寺の印象が少し変わった。

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2011年07月28日

平群谷の夏

信貴山奥之院への参拝に始まって、今年の7月は毎週平群町に来てしまった。先回これで最後と思った
のだが、何か見落としたような、まだ何か発見があるような気がするのだ。

 s-P7266600平群谷の菊畑.jpg
 稲田の上に菊畑が広がる。平群町は小菊の出荷量日本一

平群町の南端、信貴畑地区は小さな谷と尾根が折り重なる複雑な地形で、深い森や藪が人の往来を妨
げる。住居と田畑を結ぶのは人一人がやっと通れる程度の踏み分け道があるだけ。アップダウンもき
つくて人がそこで生活をするのはかなり厳しい環境と思える。
目と鼻の先に見える谷を隔てた隣の集落へ行こうにも道は谷地の田圃で行き止まりになり、先に進め
ない。そんなわけだから点在する集落は一つ一つが孤立していて、それぞれが異なる雰囲気を持って
いる。それぞれの集落がまるで隠れ里のように佇む。

 s-P7266539平群町信貴畑土壁の家.jpg s-P7266545平群町福貴道標.jpg 
 松永久秀の信貴山城へと続く大手道にある道標と石灯篭

しかし、旅行者にとってはそれが生駒山中にある平群の魅力になる。道を歩いていると自分がストレ
ンジャーというか異邦人になったような気分になる。そこだけが時間の流れが止まってしまったよう
な家並みや、散見する石仏や石の道標。
今も集落の入り口には、村内に疫病や害を為す者を拒む勧請縄を張る慣習が残されている。そんな旧
い村落と生活が平群谷にはある。

s-P7266552畦の石仏.jpg s-P7266505福貴.jpg
 水田の畦にある井戸端の石仏          福貴四等三角点にある石仏群

s-P7266595信貴畑勧請縄.jpg s-P7266592信貴畑のお堂.jpg
 「信貴畑勧請の地」                室町前半頃の舟形如来坐像と十三仏
posted by ハマー at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

巨大女陰岩信仰 奈良平群町


神秘の里 奈良平群町

平群町は西の生駒山地と東の矢田丘陵に挟まれた谷地に拓かれた町で、北から南に流れる生駒川沿い
の低地から山麓にかけて田畑が広がる。大阪のベッドタウンとして急速に市街地化が進んでいるもの
の、起伏に富んだ山谷の連なる美しい盆地である。

 s-P7126371椿井集落から生駒山地遠望.jpg

町の三分の二以上を生駒山地が占める平群町であるが、地図を見ると神社が20社、寺院が43寺あり、
これらの神社が生駒・矢田山系の山麓地帯の山かげのあちこちに分布する。

平群町の神社に特筆すべきことは、この20社のうち8社が平安時代972年に顕された延喜式内社の神
名帖に記載されていることである。個々の神社においては古墳時代に遡るものもあるだろう。実際に
訪ね見るに古びた神社が多い。一千年以上もの間、この地に住む人々に支持されてきた社である。

 s-P7056104平群町杵築神社.jpg


平群石床神社

平群町の南、伊文字川近くの山裾に『高さ九m、横幅十八mの巨岩がある。古来これが御神体とされ、
その中央の裂け目が女陰をあらわし、性崇拝の対象とされてきた。性の営みと関連づけて作物の豊饒
を祈る原始信仰の社である。(中略)元は石床そのものの霊を祀ったものである(らしい)。』(谷川健
一 『日本の神々4(大和)』白水社)

 s-P7146427平群石床神社.jpg

夏の盛りのこと境内は雑草に覆われ足を踏み入れるのに躊躇させられる。
旧い写真(‘06)を見ると巨岩を一見できるが、今は樹木が遮り問題の裂け目は見えない。岩の巨大さ
はよくわかる。写真を撮るために鳥居の向こう、樹木の裏側に入りこむ。岩の下に立つとその大きさ
に圧倒させられる「この岩が崩れたら、下敷きになって・・・・」と一瞬怯む。
岩は自然な状態というよりも削り取ったような、切り取られたような形状にも見える。ここは、こと
によると古墳時代の採石場だったのではないのか、と疑問が湧いてくる。

 s-P7146434平群石床神社巨岩.jpg

確かに見事な岩の割れ目いや裂け目があった。ファインダーで切り撮っていると、本当に女陰に見え
る。でも女陰を想像してもそれはけっしてイヤラシイことではない。ここは先に用意された信仰の空
間なのだから、恥じることはない、思い浮かべ崇め敬うべきものである。

 s-P7146445平群石床神社裂け目.jpg

この巨大な岩、石床神社の旧社地にあるのだが、朱塗りの鳥居が立ち今も少しは土地の人々の信仰を
集めているようだ。しかし、何故この見事な御神体を見限って別の場所に遷座したのだろう。大正十
三年(1942)のことである。考えられることは、この前年の9月に発生した関東大震災の影響。きっと
岩の崩落を心配した村民が安全な現在の場所に移したのではなかろうか。関係ない話であるが。


生駒山口神社
生駒山口神社は近鉄生駒線元山上口駅から西北方向に上がった小山の頂上にある。神社のすぐ間際ま
で住宅団地が迫る。
境内に入ってわかったが、この神社には昨年の冬一月に来たことがある。千光寺へ行く道の途中たま
たま参拝したことがあった。今日はこの神社の下を流れる櫟原川の神前橋あたりにあるという「御幣
岩」を撮りたくて来た。

 s-P7106240御幣岩・生駒山口神社.jpg 

毎年10月に行われる「オハツキ」という例祭が行われる。お旅所(オハキ)に遷座されるご神体の送迎
に奉仕をする当屋(とうや)と当屋補佐(ケニヨン=給仕人)の二人は祭りの間、社前の櫟原川の渓流で
禊を続ける習わしがあり、「御幣岩」は河原の禊の場にある。
岩に刻まれた御幣の中には、祭りの期間生駒山口神社のご神体である素戔鳴命(すさのおのみこと)の
守護神である不動明王が勧請(分霊)される。つまりこの岩は不動明王そのものということになる。
禊の場に不動明王像が祀られていることは珍しいことではないが、岩に刻んだ御幣を見たのは初めて
で、他に例がないのではないかと思う。磨崖仏の一つと考えてもよいだろう。

 s-P7146417椹原集落坂の家.jpg

神社を境に、東側には住宅団地が立ち並ぶ日常の景色が広がり、一方、神社の西、生駒山地に続く農
村地域には今も尚古代から連綿と繋がる精神世界があるというその両価性にショックを受ける。
この落差が産み出す感覚こそが平群町の魅力というか、自分をひきつけてやまない理由かもしれな
い。神秘の里、平群町。
posted by ハマー at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

平群町・矢田丘陵の春日三社について

平群町を南北に貫く竜田川の東、田畑が森に変わる山裾を行くと、一定の間隔を置くようにして建つ
神社や寺に出会う。

平群町には春日神社を称する社が平等寺、椿井にある。両神社に挟まれてある船山神社も大正四年頃
までは安明寺の春日神社だった。竜田川をはさんだ若井にも春日神社があり、平安時代この一帯は興
福寺・一条院の経営する荘園が広がっていたと伝わる。 ※安明寺は興福寺の末寺、春日社の神宮寺

 s-平群町春日神社.jpg 

平等寺春日神社
平等寺春日神社は平群谷を一望できる矢田丘陵の中腹に鎮座する。社名の頭の平等寺は地名で、神社
の神宮寺の名前をとったもので、すぐ前の堂池は寺の名残であろう。
神社周辺の道は掃き清められ、山麓の清々しさが漂う。ここから見る生駒山地の夕暮れはさぞ美しい
だろう。

 s-P7106277生駒山地遠望.jpg s-P7106271平等寺・春日神社.jpg
 「堂池」越しに生駒山地を望む            平等寺春日神社前の松並木が美しい 

船山神社
船山神社は平等寺春日神社の北5百mのあたりにある。三里集落のま上、宮山の中腹に鎮座する。標
識に従って急な山道を登る。道の両側に茂る背丈ほどの夏草に遮られ見通し悪い。道をまちがえたの
ではと不安に思ったとき、前方の森の中に社務所らしき建物が見えた。
この神社は、宮山の山頂にあったが二度の引越しで現在の地に落ち着いた。しかし現在の社殿も急坂
を上り詰めた山中にあり、お年寄りが参拝に行くのも簡単ではない。できたらもう一度引越し願いた
いと神様は思っているにちがいない。

 s-P7106316船山神社手水石.jpg     s-P7106318船山神社・手水岩.jpg

本殿への石段をのぼりつめた右手に船形の手水石がある。神殿の前にそそりたつ陽石(あかいし)と対
になった陰石(かげいし)らしいが、それよりも木漏れ日が投影する葉影に魅せられてしまった。


椿井春日神社
 s-P7126342椿井の標石.jpg s-P7126340椿井春日神社神殿.jpg 
 「椿井」の二文字を刻んだ標石のすぐ横に井戸がある       椿井春日神社神殿 

椿井(つばい)神社は地名の由来となった井戸の近くにある。物部・蘇我の神仏戦争のこと、『(曽我軍
の)平群神手将軍が戦勝を祈願して椿の杖を当地に突き立てて勝利を祈願すると、一夜にして杖が芽吹
き冷泉が湧き出した・・・』という言い伝えがある。神社は五世紀後半の築造と考えられる宮山塚古
墳の中にあり、神手将軍の祖先の墓と考えられる。一説ではここには元々紀氏神社があったが、藤原
氏により他所に強制立ち退き(遷座)させられ春日神社に変わったという。

 s-P7126353椿井から平群谷眺望.jpg 
 椿井春日神社から平群谷、生駒山地遠望

船山神社、平等寺春日神社、椿井春日神社、若井春日神社の四社は高いところから興福寺荘園に睨み
をきかすように鎮座している。
これまで神社というものを深く考えたことがなかったが、平群町の神社を巡るうちに、神社というも
のは、何かを肯定するための、暗に行為を神聖視するためのナニカ、ことによると免罪符のような、
負のパワー(押さえ込む力)を持つのではないかと思えてきた。かつてはそういう力が、神社にあった
のではないかと。

<参考図書>
「興福寺」泉谷康夫著 吉川弘文館 平成九年十一月十日発行

posted by ハマー at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

聖徳太子戦場への道 信貴山奥之院

 s-P7056010奥之院への道.jpg

平群の街から県道250号線を上って信貴フラワーロードと交差する直前の細道を北に折れると、それが
信貴山奥之院へと向う参道である。山の急斜面を断ち切って走る道を600mほど進むと奥の院に達する。

 s-P7055961笙谷寺棚田.jpg

道の途中、小さな谷間に苗を植えて間もない棚田があった。このあたりは、伊文字川の水源で、ここ
まで上ると川は手の平を広げたほどの狭い溝に過ぎない。それでもその水を頼りにして十数枚の棚田
が川沿いに拓かれている。深い谷と森の間の僅かな土地に造られた水田を見ると、何故か不思議に感
動させられる。タイムスリップしたよう錯覚におちいる。

寺の山門までは車が一台通れる道幅だが、その先は人一人がやっと通り抜けられるくらいの踏み分け
道になる。しかしこの道、今より1400年前、物部守屋を討つべく蘇我馬子の軍勢に加わった厩戸皇
子 (聖徳太子)が十三峠を経て生駒山を下ったその日、馬を進めた古道である。

 s-P2039784聖徳太子騎乗像.jpg 
 故北村西望氏作「騎乗太子像」信貴山朝護孫寺

 信貴山奥之院の縁起によれば『奥之院の御本尊毘沙門天王は聖徳太子の御作で、太子(が)守屋大連
御追討の御時、毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、御尊像が汗をかかれていたと伝えら
れております。』とある。

ちょっとわかりにくい話だが、諸説を合わせると、物部守屋を蘇我馬子が攻めた時のことである。戦
に加わった厩戸皇子(聖徳太子)は苦戦を強いられていた。そこで軍神毘沙門天像を含む四天王像を彫
られ、信貴山に奉納した。すると阪部大臣(さかべおとど)に変身した毘沙門天が現れ、先陣を切り奮
戦し、ついに物部守屋を討ち取った。その時、太子が奉納した(木彫りの)毘沙門天が汗をかいてい
た、という話である。
太子が四天王を彫ったのは霊木とされる白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉中木)で、毘沙門天木像の
「汗」とされるのは白膠木の樹液であったと考えられている。

 s-P7056004信貴山奥之院山門.jpg 
 信貴山奥之院山門

『聖徳太子歓喜の余り此處に堂宇を建立して御安置申され、千三百有余年の今日に到る迄『汗かきの
毘沙門天王』と申し御霊験きわめてあらたかであります。』と縁起は続く。

日本書紀に、物部守屋を打ち果たした聖徳太子は、戦後四天王寺を建立したとあるが、その他、信貴
山朝護孫寺、大聖勝軍寺そしてこの信貴山奥之院を建立したと伝わる。
曽我・物部神仏戦争における聖徳太子と毘沙門天の伝説は数パターンあってやや混沌としているが、
要は奥之院にある毘沙門天像は太子の手彫りということである。

 s-P7056083笙谷寺裏山の紫陽花.jpg s-P7055984ホタルフクロ.jpg 
 笙谷寺斜面の紫陽花                路傍の藪に咲くホタルブクロ

多聞院について
信貴山奥之院、正しくは信貴山米尾山・多聞院。
毘沙門天(ブァイシュラヴァナ)元はインドの現地神で「よく聞くところの者」とか「すべてのこと
を一切聞きもらさない知恵者」という意味で、「多聞」と日本語に訳された。つまり毘沙門天と多聞
天は異名同神ということになる。

 s-P7056060奥之院鳥居.jpg s-P7056016信貴山奥之院石仏群.jpg
 信貴山奥之院境内に立つ鳥居                   奥之院石仏群 

多聞院を称する寺は全国に数多くあり、毘沙門天を本尊とすることが多い。また、聖徳太子と毘沙門
天に関わる同様な話は他の寺院にも伝わるが、信貴山別院が「多聞院」と称するのは、毘沙門天を本
尊とするところに由来する。

話はそれるが、奈良で「多聞」といえば、「多聞院日記」が興福寺の塔頭多聞院の僧侶によって書か
れたことはよく知られている。また奈良市にある戦国時代の武将代松永久秀の居城跡「多聞城」は地
元の人たちに広く知られている。興福寺多聞院は現存しないので確認できないが、城の方は、城内に
多聞天が祀られていたと、今に伝わる。

 s-P7056043奥之院鬼瓦.jpg
 
境内に、「鬼瓦」の展示棚があっる。実は、参道の途中にある笙谷寺(しょうこくじ)や、奥之院と谷
を隔てた北向にある南通寺にも古い鬼瓦が置かれていた。平群町の古寺では鬼瓦を並べ置くことが一
つのステータスなのだろうか。

信貴山奥之院は生駒山地の中腹に建ち、ここからの眺望は良く矢田丘陵の南麓まで見通すことができ
る。残念ながらちょうど手前の丘が邪魔をして法隆寺の伽藍までは見えなかったが、逆に斑鳩の地か
らは大地に壁のようにそそり立つ生駒山地が一望できる。

 s-P7056066信貴山奥之院山門眺望.jpg s-P7056007奥之院双樹.jpg
 信貴山奥之院は尾根に建つ 道の向こうは深い谷

<参考URL>信貴山奥之院
http://www.geocities.jp/okunoin6360922/index.htm
posted by ハマー at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

暗越奈良街道の棚田 生駒山麓大門集落

生駒山を通る今の暗越(くらごえ)奈良街道(国道308)は峠までほぼ真直ぐの道であるが、旧くは鬼
取、大門の集落をとおり壱分に抜ける尾根路が利用されていた。現在は車がすれ違える程度に拡幅さ
れた道に古道の面影は無い。旧い写真を見ると、巾半間程度の狭い道で、現在の暗越街道よりも細い
道だったことが分かる。

 s-P7025904大福寺からの眺望.jpg
 大福寺からの眺望
 道路の拡張で石垣はコンクリート製の壁に


万葉集に「妹に逢わずあらば すべなみ岩根ふむ 生駒の山を越えてぞ吾が来る」という恋歌があ
る。「愛しい女に逢わないでいると、どうにもしようがないので、険しい岩を踏んで生駒山を越え
て、私はやってくる」ということだが、古代の人々が岩の露出した坂道を奈良(平城京)から大阪(難
波)へ行き来していたことがわかる。

 s-P7025844大黒石.jpg s-P7025838大門十三磨崖仏.jpg
 大門大黒石                     十三仏磨崖仏「三体地蔵」

大福寺の東に大門の中心集落があり、そこに大黒(おおぐろ)石と呼ばれる石がある。嘗て山より崩落
した大石と思えるが、この石に磨崖仏が刻まれており、天正十二年(1584)の銘がある。
中央列に虚空蔵、大日、釈迦の三尊が彫まれ種子(しゅじ)十仏がその両側にあるという特殊な十三仏
磨崖仏で、「三体地蔵」などと土地の人は呼び信仰を集めていたようだ。
風化のため三尊それぞれは見分けづらい。種子はなんとか判読できるが梵字(ぼんじ)の意味は知ら
ない。貴重な歴史的遺産と思うが、この荒れた様子から地元の人はさほど関心がないように感じる。
 
 s-P7025830歯痛地蔵.jpg 
 旧暗越奈良街道路傍の歯痛地蔵 

大福寺近くの道沿いに「歯痛地蔵」が祀られている。舟形光背を負う地蔵菩薩だが、意外に地元の人
たちはこの地蔵の名前を知らない。先の尖った光背が「歯」を思わせる。小さな石仏で、通過するウ
ォーカーも知らぬふりである。歯痛地蔵は二本の椿の古木の根元に安置されている。椿の花の咲く頃
にはまた違う印象だろう。できたらもういちど訪れたい。

街道を行く人々の安全を祈願して立つ三体地蔵や歯痛地蔵は旧暗越奈良街道の数少ない名残である。

 s-P7025891大門集落棚田.jpg
 梅雨の時期棚田は柔らかな緑に覆われる

暗越街道沿いの山頂まで続く棚田は生駒八景にも選ばれた美観。もともとこの斜面は大小の岩に覆わ
れた荒地で葛と藤がはびこる原野であった。今でも田畑から森に移る辺りは葛や藤に覆われ先に進む
ことを拒む。かつての里山も手が入れられないまま今は原生林化している。

 s-P7025886棚田の石垣.jpg 
 急峻な山の頂まで続く棚田の石垣

大門の石垣造りの棚田は、岩に覆われた急傾斜の荒地を段々畑に変えてきた何世紀にも渡る農民の苦
難と成果の歴史を秘めている。石垣は高いところでは五メートルに及ぶものもあり、しかも垂直にそ
そり立つ。切り立った石垣端の畦を歩くと思わず足がすくむ高さである。

 s-P7025913水路の石橋.jpg s-P7025890野づら石積みの石垣.jpg  
 水路に架かる橋も一枚岩       石垣や石橋も伊行末の一族の手による

地圧と水圧に崩れることなく、また水を湛えた水田をのせても漏水することもなく聳える堅固な石垣
を築きあげた古人の技術力と底力にただただ敬服させられる。急峻な荒れた山裾を一段、また一段と
克服して棚田を築きあげ拡げていった先人たちの米造りに対するすざましい執念に感動させられる。

この力強く美しい石垣を持つ棚田に苗を育て稲が実る風景の続くことを願わないではいられない。

s-P7025872ヒロハクサフジ.jpg
 水路の土手に咲くコマツナギ
 水田では雑草として早々と刈られてしまう


<参考図書>
生駒市誌 (通史・地誌編)X
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2011年06月28日

生駒谷の初夏 奈良大福寺

大福寺から見る生駒谷には、生駒山麓から矢田丘陵の山上に駆け上がるように建つ小さな家々がひし
めく。旧い造りの寺を囲む棚田の緑と、山裾に拡がる町並みの白々としたアンバランスな対比が、逆
に壮観ともいえる。

 s-生駒山と矢田丘陵.jpg 
 生駒谷鳥瞰図 左が生駒山地、右が矢田丘陵

生駒山と矢田丘陵に挟まれた盆地を生駒谷と呼ぶ。盆地というより谷地と言うほうが適当で、谷の底
を生駒川が流れる。川は下るにしたがい平群川、竜田川と名を変え大和川に流れ込む。この川に沿っ
て近鉄生駒線は生駒から王寺の間に運行されていて、王寺でJR関西線と接続する。川も鉄道も大阪に
向って下る。このあたりを含む生駒市は大阪経済圏のベッドタウン。
 
 s-P6265749大福寺の朝.jpg
 大福寺の朝

大福寺は生駒山中腹の棚田に囲まれた小さな寺で、創建年代や由緒についてはわからない。ご本尊は
釈迦如来。宗派は黄檗宗(おうばくしゅう) に属する。今は、寺に隣接する霊園を運営して生計を維持
しているようで、日頃は訪れる人もまれな村の小さなお寺という印象である。しかし、寺の西の棚田
から見る行基葺きのお堂や、本堂(庫裏)の寄棟造りの屋根を見ると意外に格式高い造りのお寺である
ことが知れる。※備考1

 s-P6215527大福寺山門.jpg
 大福寺山門から花頭窓が見える

また山門を通して見える本堂の窓は、明らかに円覚寺舎利殿の花頭窓を模したものである。
円覚寺は臨済宗のお寺で、大福寺の属する黄檗宗も臨済宗の一派であった時代が長い。大福寺のこの
仏閣を建てた住職の、臨済宗への思い入れの深さが思われる。

黄檗宗は禅宗の一宗派で、大本山萬福寺のHPを見ると『隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師が江戸時
代前期承応3年(1654)に興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘を受け中国福建省から渡日
した。興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務めた後、寛文元年(1661)に宇治大和田の地に禅寺を創
建。黄檗山萬福寺と名付けて晋山(しんざん:就任)された。』とある。当初は臨済宗黄檗派を名乗って
いたが、明治9年独立して黄檗宗となった。※備考2 

 s-P6215547アジサイ.jpg 
 大福寺境内に咲くアジサイの花

生駒山中にあるこの大福寺の由緒はよくわからないが、黄檗宗の寺としてならば江戸時代以降という
ことになる。ただ創建についてはそうは決めつけられない。大福寺の境内に元亀四年(1573)の刻銘の
ある十三仏板碑がある。1573年といえば室町幕府が滅亡した年であり、時代区分から言えば戦国時代
末期に当たる。すでにその時代に寺があったということになる。

 s-P6265773大福寺十三仏板碑.jpg 
 元亀四年の刻銘のある十三仏板碑

一説によれば行基の開創とのいわれもある。生駒山には奈良時代の僧行基の墓所(竹林寺)があり、ま
た行基が開いたといわれる寺も多く何かと行基と縁の深い土地でもある。そういう背景から大福寺を
行基の開いた寺というのであろうか。そうとすれば起源は奈良時代ということになる。すぐ近く鬼取
町にある鶴林寺は役行者(役小角)の開基と伝えられるなど、とにかく生駒山と宗教の関わりは旧く、
飛鳥時代にまで遡る。

 s-P6215571鶴林寺石仏群.jpg
 鶴林寺の賢者たち 

別に、大福寺の創建を調べるのが目的ではないが、いかにも由緒のありそうな寺の外観に対して「由
緒が分からない」なんて言われると、つい追求したくなってしまう性分なのだから仕方がない。

ところで、黄檗宗をつたえた隠元禅師が日本にもたらしたものは禅の教えだけではない。印刷・煎
茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚など当時江戸時代の文化全般に影響
を与えたといわれる。そうか、インゲン豆は隠元禅師が中国のお土産として持ってきたのか。

 s-P6215541魚板.jpg 
 魚板(ぎょばん)、木魚鼓(もくぎょく)ともいう

大福寺のお堂の軒下に鯰のような形をした魚板(ぎょばん)が架けられている。木魚の原型であるとい
うが、素材は「青銅」製のようである。仏具の製作に長けた奈良ならではの魚板かも知れない。奈良
市は禅寺が少ないのでこれまでこのような立体魚板(魚鼓)を見る機会はなかった。鯰ではなくどうや
ら鯱型のようだ。初めて見た。※備考3

この魚板、人の手の届かない随分高いところにつるしてあって、しかり埃をかぶって真っ白だし、叩
く木槌も見当たらない。まったく格好をかまわない寺だ。今では単なる飾りとして吊るしてあるとい
うことであろう。しかし、ここに正しく大福寺が禅寺であることの証を見た、ような気がする。

 s-P6215510アカソ.jpg s-P6215523苗田.jpg
 アカソの茎の皮から糸を紡いだ      初夏棚田の苗筋が印象的

(備考1) 大福寺は、大門村の庄屋で生駒商人の草分け初代甚六が同僚の大阪の両替商天王寺屋五兵衛
と共に建立に力を尽くしたと伝わる。甚六が苗字帯刀をゆるされた明和年間(1764〜1771)のことと考
えられる。天王寺屋五兵衛は幕府の御用両替として大阪の両替仲間の支配をしていた。甚六は俵米の
運搬を請け負っており天王寺屋五兵衛とはその繋がりであった。大福寺が黄檗宗に改宗したのは甚六
が天王寺屋五兵衛の信仰の影響を受けたということであろうか。大福寺の堂宇はその頃の建立と見て
もよいであろう。

(備考2) 日本の禅宗は鎌倉時代に栄西(ようさい、臨済宗)、道元(曹洞宗)に始まるが、その後、浄土
真宗(親鸞)、日蓮宗(日蓮)の登場により当初の勢いを失う。また戦国時代、織田信長の徹底した仏教
弾圧を受けそのため一時期日本の仏教は停滞した。また江戸初期、禅が定着するにつれ禅宗寺院は権
力と密接な繋がりを強める一方で、本来の禅の精神からは遠ざかりつつあった。ここに明からの渡来
僧隠元隆(王奇)が登場し、臨済・曹洞の両宗派に大きな衝撃を与えたのである。

(備考3) 魚板は、『禅宗寺院特有の法具で、食堂(じきどう)、庫院(くいん:厨房)につるして人
を集めるために打つもの。
木製で大きな鯉形または鯱形をし、腹中を刳ってあり、水平につるして木槌で打ち鳴らす。魚梆(ぎ
ょほう)、梆(ほう)とよばれることもあり、古くは木魚鼓(もくぎょく)という。魚形をなしてい
るのは、魚が昼夜目を閉じないことから、修行僧の眠気を戒める意味があるともいわれる。』(Yahoo
百科事典)

<参考図書>
生駒市誌(通史・地誌編)X
<参考URL >
奈良の寺社 大福寺(生馬山)
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/02/post-1a34.html
黄檗宗大本山萬福寺
http://www.obakusan.or.jp/about-oubakusan/index.html
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2011年02月08日

奈良・霊山寺 冬の薔薇

■冬の薔薇と霊山寺
奈良・霊山寺(りょうせんじ)は’08年12月以来二回目の訪山だが、どういうわけか今回もオフシーズ
ンになった。霊山寺は全国でも珍しく境内に薔薇園を持つ寺である。この冬の季節、園内のバラに見
るべきものはないが・・・

 s-P2079845冬の薔薇.jpg

この頃、俳句集を読んでいる。その中に「冬薔薇」という季語がよく出てくる。「ふゆそうび」と読
む。冬の薔薇と言うとなにか「暗い美しさ、耐える美しさ」を感じる。句作者が見る冬の薔薇とはど
んなイメージなのだろう。

「一輪の赤を咲き切る冬薔薇」 平田弘
「冬薔薇あかく咲かんと黒みもつ」 細見綾子
「逢ふことのためらひすこし冬薔薇」 加藤三七子

 s-P2079854冬の薔薇.jpg

どれも、心に染入る、美しい句だ。では、季語としての冬薔薇はともかくとして、一度冬に咲く本物
のバラを見てみたいと思い、霊山寺のバラ園を覗いてみた
撮った写真を見ても、そこに華やかさはない。もちろん香りも感じない。冬薔薇は日本人が好きな
「侘び」の世界なのだ。

■冬の霊山寺

『美しい建物や仏像が、これほどたくさんあって、宣伝もけんめいにやっているのに、観光客のあま
り出かけてゆかない、不思議なお寺がある。富雄の霊山寺(りょうせんじ)だ。ここは、観光ルートの
エア・ポケットかもしれない。』
松本清張の著作「今日の風土記 奈良の旅」の霊山寺の章の書き出しである。さすがうまいこと言い
表している、清張氏は。
 
 s-P2079907紅梅古木花蕾.jpg 

確かに、今回も境内に人の気配はない。もっとも冬の奈良の寺は何処も似たようなものではある。な
にか行事がある時以外は、人影まばらでさびしい限りである。そろそろ「梅」の見られる時季のはず
だが、まだまだ固い蕾のまま。今日は、観梅には早すぎる。

 s-P2079889霊山寺本堂石段灯篭.jpg
 霊山寺本堂階段下から灯篭を見る

この寺には『酒あり、料理あり、女あり、温泉あり、おまけにバラ園やタクシー会社があったり、そ
れがみな、この寺の直営だそうだ。ついでにゴルフ場や水泳のプールのないのがおかしいくらいであ
る。(中略)とにかくこの寺には、俗人の俗欲を満足させてくれる条件が、ひととおりそろってい
る。』と松本清張の辛らつな言葉は続く。
この本が出版されたのは昭和41年4月のことであるが、その後に(ちゃっかり)ゴルフ練習場も出来た、ようだ。

 s-P2079909役行者石像.jpg
 役行者石像

しかし、目を転じてみれば、自所に墓地を持つ目端の利く寺は、どこも同じようなものである。つま
り霊山寺は観光や信心を目的に行く癒しや救いの場ではなく、古いスタイルの葬儀場、セレモニーホ
ールなのだ。境内の賑々しい施設は、葬儀の場として、弔いのフルコースがセットされているに過ぎないのだ。 

 s-P2079866霊山寺開山大師下弥勒菩薩石像.jpg 
 弥勒菩薩石像
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2011年02月05日

信貴山・朝護孫子寺のムカデ絵馬などについて

□二月三日、信貴山の朝護孫子寺へ行く

阪神タイガースの菩提寺・朝護孫子寺のイメージキャラクターは「世界一巨大な張子の虎」。
驚かされることにこの張子の虎の頭は機械仕掛けで上下に動く。
実はこの「世界一福寅」は大阪の新興上場企業OSGコーポレーションが会社創立50周年記念に「白虎
モニュメント」として、信貴大橋たもとにある「西方守護神白寅」とともに信貴山の宿坊千手院に奉
納したもの。まこと大阪ナニワの実業家の財力と発想にいたく感心、納得する次第であります。

 s-P2039723信貴山世界一福寅.jpg s-P2039728本坊玄関吼虎.jpg
 信貴山世界一福寅                 朝護孫子寺本坊玄関番虎          

『むかしは、大和の人びとの神秘的な信仰の道場であった信貴山は、寺も門前町もあげて遊客(観光
客)へのサービスにつとめ、全山の坊が料飲店同様になって、楠木正成が信仰した信貴山(朝護孫子寺)
のイメージが薄れてしまうことで、今日の繁栄を得ているのである。(中略) 信貴山は、およそ大和
の山らしくない山に今日かわりつつある。むしろ、今日の信貴山は、大和の山ではなくて、大阪の山
だと思ったほうが話がよくわかる。』
これは昭和41年4月に発行された松本清張の著作「今日の風土記 奈良の寺」の中の「生駒山と信貴
山」の章に記された一文である。

 s-P2039732成福院多宝塔眺望.jpg s-P2039755宿坊玉蔵院階段.jpg 
 成福院から多宝塔を見る               あでやか旗指物ならぶ玉蔵院への路

信貴山だけではない、当麻寺、宝山寺、霊山寺など奈良盆地(国中)の西側に連なる生駒、葛城の峰々
に点在する寺々はどこも同じ臭いがする。古都奈良の寺という趣はどこにもない。奈良の寺の気配を
今に残すのは、かろうじて生駒山の東に並走する矢田丘陵の法隆寺、矢田寺、松尾寺までであろう
か。信貴山や当麻寺に至っては、奈良市から行くよりも、大阪市からの方が安全・快適に行ける。

 s-P2039750本堂眺望地蔵尊.jpg s-P2039776千手院毘沙門護摩.jpg
 本堂階段から地蔵尊を望む             護摩焚き法要「法弓作法」

この本が書かれたのは45年前のことである。かつては信貴山バス停から仁王門に続く朝護孫子寺への
参道200mにあったと思われる旅館も土産物店も数軒を残すのみで淋しいかぎりである。これは、昭和
39年までに貫通した信貴生駒スカイラインと参道の南側に平行して整備された自動車道の影響であ
る。大阪府や奈良市街から簡単に行けるようになった反面、信貴山は身近なレジャースポットどころ
か、奈良観光の通過点の一つに過ぎなくなってしまったようだ。

 s-P2039712千体地蔵.jpg 
 朝護孫子寺参道仁王門前の「千体地蔵」

□朝護孫子寺の絵馬堂
この日、朝護孫子寺に出かけたのは、ここに「絵馬堂」があることを前から知っていて、以前から見
に行きたいと思っていた。

「絵馬堂」の建物は寺のHPを見ると、安政年間(1854〜)大阪堂島の木綿屋梅蔵が寄進したものとあ
る。世界一福寅と赤門(山門)の間にあり、現在は「経納所」兼休憩所として利用されており、つい見
逃してしまうが、切妻造りの立派な建築物である。
信貴山 朝護孫子寺 http://www.sigisan.or.jp/

信貴山の絵馬堂には他に例を見ない百足(むかで)の絵馬が奉納されている。百足というのは信貴山の
毘沙門天のお使いということらしいが、足が多いので「おあし」が多いということで、商売人に非常
に好まれた。だから大阪方面からもお参りの人が絶えず、昔は百足の大絵馬、小絵馬を盛んに奉納し
たようだ。信貴山では絵馬だけではなくて、毘沙門天にお供えするものにはみな百足の絵をあしらっ
て奉納しているが、この百足の図柄はこの信貴山にしか、今は見られない。(角川書店発行「真珠の小
箱C奈良の冬」 大和の絵馬 岩井宏實 )

 s-P2039788絵馬堂ムカデ.jpg s-P2039791百足絵馬.jpg
 ムカデと五重塔銭額絵馬                       百足をあしらった絵馬

 奉納された絵馬の中に「銭額」とよばれる古銭を使って五重塔を模した額がある。
「銭額」は絵馬の一種であるが、『一銭また一銭と日常生活で無駄を省き、せっせと働いて貯めたお
金で作ったもので、この絵馬の「塔」には信心と汗がこめられている。「富者の万灯、貧者の一灯」
で、本来なら実際の堂塔をと思うのだが、暮らしに追われているものにはせめてもの一灯で、尊い浄
財の寄進である。』(出典:「狛犬放浪記」File20:鶴岡市山田/白鬚神社)

五重塔の銭額の他、百足や虎を描いたものも見られる。しかし、五重塔以外の額の古銭は全て剥ぎ取
られてしまっている。墨書された奉納年から考えて、自然に落下したものとは考えられない。推測で
あるが、戦時中に他の銅製品とともに供出したのであろう。

s-P2039786納経所絵馬.jpg

絵馬堂は昔、神社や寺には普通にあったようだが、絵馬が小型化したことや、予め神社や寺が用意し
た同じ図柄の「小絵馬」を購入して奉納するようになって以来、有名な絵師や職人が描いたという美
術的な価値も薄れ、大量消費される消耗品となった。飾り置く意義もなくなり、それとともに絵馬堂
も休憩所に変ったり、建物自体がなくなってしまった。

 s-P2039793七福神絵馬.jpg
 七福神絵馬 朝護孫子寺所蔵の七福神の画を模写したもの 

この日、朝護孫子寺の霊宝館で「国宝信貴山縁起絵巻」のデジタル写真による複製を見た。
絵馬と国宝を同列に論じるわけには行かないが、「絵馬」は時代の移り変わりとともに変化する民間信仰の要素(内容)を知る手立てとして貴重なものである。現在も絵馬は神社寺院に盛んに奉納されているが、古い時代の絵馬は日本全国から日一日亡失の命運にある。屋外や軒下に飾られる絵馬は日射や風雨、乾湿の影響をまともに受けるため劣化が激しい。
今日見た絵馬も後二十年もすれば何が描かれていたのかわからなくなってしまうだろう。

絵馬 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E9%A6%AC
NHK 美の壷 Fiie80 絵馬
http://www.nhk.or.jp/tsubo/arc-20080215.html#modalWindow02
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2011年01月04日

奈良 東明寺の印象

東明寺へ訪れるのは今回が二度目になる。一度目は09年6月のことだから一年半ぶりである。
前回訪れたきっかけは「奈良大和路の古寺」に書かれてあった『境内からは見晴らしがよく、奈良盆
地が一望できる。』という記事を読んでのことであった。
しかし、今ではその眺望は竹藪に完全に覆われ閉ざされてしまっている。見通しが利いていたのは僅
か10年くらい前のことらしい。日本の里山、山林、農村はどこも急速に竹林化しているのだ。

 s-P1038628東明寺朝陽竹.jpg 

東明寺は境内も寺の回りも四方くまなく竹に覆われている。整備された竹林は風情があり結構なもの
だが、旺盛な竹の侵食により竹林化し放置されれれば人も、小動物も住めない、風さえ吹き抜けるこ
との出来ない荒れ果て腐った竹藪になってしまう。

 s-P1038634東明寺裏山五輪塔.jpg 
 郡山藩家老都築惣左衛門の五輪塔

東明寺のセールスポイントである「奈良盆地を一望できる」環境は是非取り戻していただきたい。大
和の青垣を、そして山並みから昇る朝陽、名月を望んでみたいものだ。

東明寺は矢田丘陵の只中、山道の果てにある。かつては無住職の荒れ寺になっていたが、前住職が今
の状態までに復興された。現在はご子息が跡を継がれ今に至っている。檀家もなく、訪れる人も少な
く、必ずしも恵まれた環境ではないようだ。

 s-P1038641燈篭の道.jpg s-P1038651東明寺庫裡上り道.jpg
 東明寺の印象                  東明寺庫裡に上る坂道

奈良時代開基の由緒ある寺である。重文指定の立派な仏像を持った寺である。何とか持ちこたえ、地
域の誇れる財産として維持、発展してもらえればと切に願うばかりである。

 s-P1038591百舌矢田丘陵.jpg
 東明寺へ向う道で見た残り柿に留まる百舌

参照URL
※ 竹害 Wikipeda
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%B3
※ 「矢田丘陵の東明寺」上田直子 小さなうつわのメッセージ
http://awa.rgr.jp/wiki.cgi?page=No274%2F%A3%D7%A3%E5%A3%E2%C8%C7%2F03
※NPO法人やまと新発見の会
http://www.npo-yamato.org/satoyama/detail.html
posted by ハマー at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月28日

矢田寺の冬 遍路道

初夏紫陽花の咲く頃花見客で溢れかえる矢田寺(やたでら)も、冬の間は訪れる人も少なく閑散として
淋しい。境内のあちこちに佇立するお地蔵さんもどこか寂そうだ。

 s-PC208230矢田寺冬裏参道.jpg s-PC208278矢田寺本堂裏地蔵菩薩石像.jpg

この時季、寺院の土塀の向こうから覗く薄桃色のサザンカの花が目を楽しませてくれる。しばらくは
この花が冬の矢田寺を飾るただ一つの花となる。

 s-PC208239矢田寺念仏院山茶花.jpg 

寺伝によれば矢田寺の創建は古く飛鳥時代白鳳八年(679年)に遡るが、宗派は空海(774-835)が開い
た高野山真言宗の寺院である。矢田寺大門坊の由来によれば『空海25歳の時に(修業で)矢田山に登ら
れ、不動明王を図写して国家安泰、万民豊楽の誓願をたてて留錫され「三大秘密教門院」と命名され
た寺院である』とある。
多分、空海が真言宗を確立する前後(823年)に、改宗したものと考えてもよいだろう。

 s-PC208312地蔵山参詣道.jpg 矢田寺四国八十八ヶ所霊場めぐり地図.jpg

矢田寺の裏山(地蔵山)に、四国八十八ヶ所を模した霊場がある。裏山から矢田寺の全景を撮影したい
と考え上がって行ったところ、墓所の先に続く山道に対に並んだ石仏を見つけた。その石仏から、道
の先にまた対になった石仏が見えるのである。まさか八十八体もの石仏が点々と続く「遍路道」の始
まりであったとは。

 s-PC208345地蔵山霊場参詣道.jpg s-PC208323薬師如来石像.jpg 

一周4.5km、約1.5時間の散歩道と案内板に書かれていたが、途中から傾斜のきつい登山道に変りとて
もそぞろ歩きというわけには行かない。それでも冬場の今は木々の葉がすっかり落ちて見通しもよ
く、明るい太陽が降り注ぎ汗ばむほどである。

 s-PC208360地蔵山霊場参詣.jpg 

45番札所は「岩屋寺」。本尊は左右に矜羯羅(こんがら)制吁迦(せいたか)の二童子を配した「不動明
王」三尊である。残念ながら童子の可愛さは感じられない。大正から昭和に刻まれた石像はどうも美
しさというか、繊細さ乏しいと思う。何故だろう。
左側に旅姿の弘法大師(空海)が並び見守る。ことによると、大門坊由来の「不動明王図写」の伝説
であろうか。

 s-PC208398不動明王石像.jpg 

岩屋寺から御影堂に下る山肌は一面もみじの幼木、若木に覆われている。今はすっかり葉を落として
裸木であるが、紅葉の時季は見事な景色を見せることであろう。この後10年もすれば初夏のアジサイ
に加えて、晩秋の矢田寺紅葉の名所に育っていることだろう。
遍路道を示す道標の「手指」のデザインがとてもいいじゃないか。

 s-PC208388矢田山遍路道.jpg


※矢田寺
http://www.yatadera.or.jp/
※大和郡山市 市長てくてく城下町
http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kouhou/tektek/000281.html
※歩き遍路入門講座
http://www.ippoippodo.com/blog/?eid=60
※Wikipedia 四国八十八箇所 「四国遍路」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%AE%87%E6%89%80#.E4.BF.AE.E8.A1.8C.E3.81.AE.E5.9C.B0.E3.80.81.E5.9B.9B.E5.9B.BD


◆矢田寺へんろみち◆
大正末期から昭和にかけて整備されたものである。2006年4月18日付朝日新聞の記事によれば『戦後
倒木や生い茂った草で荒れ果てていたが〜四年前(2002年)から地元の地蔵講の信者が(再)整備を始め
た。また「矢田寺へんろみち保存会」を結成した山下正樹さんがモミジ2300本の植樹にも協力し〜』
とある。『お寺の協力もいただき、仏像や台座の修理、樹木の伐採や草刈り、標識や案内板の設置が
進められた結果、八十年余の時を経て、遍路道は復活への道を歩み出したのです。(市長てくてく城下
町)』

◆不動明王◆
大日如来の化身とされる不動明王。多々ある仏像の中でも化身とはいえこの忿怒相といわれるその形
相は異様である。空海が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像を持ちんだと言われる。アジ
アの仏教圏の中でも特に日本において平安時代から今に至るまで根強い信仰があるというか人気のあ
る仏様といわれているが、この形相と肥満した体形はどうしても好きになれない仏様である。
空海が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像を持ちんだと言われる。とにかく力づく好戦的
な仏さまである。
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2010年12月17日

榊莫山法隆寺大寶蔵扁額

榊莫山氏が亡くなられてから二ヶ月以上たつが、09.7.16のブログ「榊莫山の大和路紀行」には毎日
のようにアクセスが続く。生前莫山氏が多くの人々に影響、感銘を与えていた (余韻である) ことが
よくわかる。

初めて莫山氏を知ったのは書店の本棚で「大和千年の路」を手にした時だった。昨年のことである。
それ以来莫山氏の著書を可能な限り拝読し「書」と「画」あるいは両者(自画自賛)の面白さを教え
ていただいた。
氏はいわゆる「文人画家」でもあったと思う。莫山氏がもし「墨画」を描いていなかったら、これほ
どの思いいれは持てなかったと思う。それ以上に莫山氏は「写真家」でもあった。そのことがより深
い共感を覚えるきっかけになった。

 s-PC168104法隆寺参道松並木.jpg
 

今年の10月3日に莫山氏逝去の報を知った時はショックだった。
私はしばしば東名阪を使って名古屋と奈良を往復しているが、伊賀ICを通過する度に莫山氏の自宅
を訪ねて見たいと思っていたのだ。が、それもかなわなかった。
もっとも訪問してお会いできるとは思っていなかったが、それでも偶然にお目にかかれるという機会
もあろうと淡い期待をしていたのだった。

 s-PC168108中門から南大門を望む.jpg

今日改めて、以前から気にかかっていた法隆寺大宝蔵院の扁額を見に(撮影しに)出かけた。

「大寶蔵」。独特な字だ。莫山氏は文字一字一字が持つ意味、謂れを考えて書かれていた。
どんな思いを込めて書かれたのだろうか。「大」という字、人が息せき切って宝の蔵に駆け込んでゆ
くように見える。それにしても、相変わらず、独創的なすざましい「字」を描かれる方だなー。
象形文字のようだ。

 s-PC168146大寶蔵扁額.jpg

『(法隆寺)南大門に立って、私は空の青いのに驚いた。そして青い空を眺めながら「空は青く、そし
て古く」と思った。松の彼方に五重塔がそびえている。 わたしは、和辻(哲郎の古寺巡礼)とはちが
って、体がへたへたと沈んでゆくように思った。全身の血がサーッとひいてゆくような気分に襲われ
た。』
と著書 「大和千年の路」百済観音の章に法隆寺の印象を書かれている。
実際、誰もが南大門を通して西院伽藍の中門、五重塔を初めて目にしたときには、言葉にならない感
動を覚えるようだ。強い衝撃を受けるのだ。

 s-P1080426法隆寺朝の南大門.jpg

莫山氏の文章は読みやすい。誰が読んでも分かるように簡潔平明に書かれている。

『・・・・そのうち私も仏になります。仏の国へ行くことでしょう。閻魔さんに名をかいてもらって、仏
の国の戸籍に加えてもらえば、あたりを見渡して、どんな仏様を探すのでしょう。 きっと私は、百
済観音さまを探すことでしょう。百済観音さまは、ひときわ細く、ひときわ背の高い仏さまですか
ら、すぐ見つかると思います。そこで、なんと申し上げるとよいのでしょうか。おそらく「わたし
も、鬼籍に入れてもらいましたので、このうえは百済観音さまのもとで、すごさせていただきたいの
です」と。いいかえれば、百済観音さまの親戚のはしくれにして下さい。と、とてもあつかましいお
願いですが、どうぞ聞き入れて下さい。お願いです。』

 これは百済観音堂(大宝蔵院)起工セレモニーの莫山氏の祝辞である。莫山氏、今は百済観音さまと
しみじみと暮らされていることでしょう。心から哀悼の意を表します。

『何日かがたった。日は覚えていない。高田管長さんと大野玄妙執事長(現、管長)さんが、やってこ
られて、私に「大寶蔵」の額の字をかけ、といわれた。わたしは、とても驚いて、さらにとても光栄
なこと、と思った。もちろん、喜んで、かかせてもらいます、と申し上げた。』

 s-PC168149莫山書大宝蔵.jpg

『中門には、わたしがかいた「大寶蔵」の扁額がかかっている。朱ぬりの軒に、赤い扁額。字は黒
い。見上げていると、まぶしさだけが降ってきた』
晴れがましかったのでしょうね。莫山氏の扁額をかく経緯が淡々と記されている。

大宝蔵院は、その朱塗りの正門ではなく左右の通用門(?)から入・退場させられるので、莫山氏がか
いたその扁額を目にする人は少ないだろう。そうと知らずに通り過ぎてしまうにちがいない。勿体な
いことである。

「大寶蔵」の文字を見つめていたら、嬉しくて仕方がない、破顔一笑莫山氏のお顔が浮かんで消え
た。
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2010年05月26日

矢田寺 あじさい一輪の花

別名「あじさい寺」と呼ばれる矢田寺は、日本でも一二の景観を誇るあじさい名所と言われている。
あじさいの花、今年は気温の低い日が多いせいか、少し色づくのが遅れているようだ。まだ花房も
小さいし、花色は白緑で、これが両手の平にも収めきれない鮮やか色の大輪になるとはとても思え
ない。

 矢田寺独紫陽花.jpg

昨年の六月は空梅雨と言っても良いほど晴れた日が多く、あじさいが今ひとつ冴えなかったことを
覚えている。今年はこれまでのところ雨の日が多いので、きっとすばらしい花を見せてくれるだろ
うと、今から楽しみだ。

すでに鮮やかな一輪の花を咲かせている一株がある。どういう訳でこの一輪だけが他の多くに先駆
けて咲くのか植物学的なことは知らないが、きっと、気の短い花見客をがっかりさせない花の精の
心遣いであろうか。

 北僧坊本堂屋根.jpg
 北僧坊から見る矢田寺本堂切妻屋根の「六葉懸魚」 

今日(6/26)北僧坊で開催された、手作り精進料理付きライブ「クリスタルボウル&ディリュジドウ
ヒーリング演奏会」に参加した。お寺で精進料理を頂くのは五十年前に岐阜の谷汲山華厳寺以来の
ことである。こちらのお庫裡は、大学名は忘れたが哲学科で学ばれ、卒業後に渡印して更に修学さ
れたという、仏教の造詣に深い魅力的な女性である。本日の料理は全てこの方の手作りで、すごく
美味しかった。できたら彼女の「お説教」を聞けたら良かったのだが・・・・。

 北僧坊大師像.jpg
 北僧坊前大師像 矢田寺は真言宗の古寺
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2010年04月24日

松尾寺 修験者の道

松尾寺境内の鐘楼脇に、輪径が1mになる山桜の古木がある。
春の花の盛りはとうに過ぎ、残花がちらほら見られる。
その古木の幹にとってつけたような、小さな花と葉の塊がくっついている。
珍しい光景ではないが、なにか不思議な、心引かれるものがある。
枝が伸び、その先に蕾がつき花開くのが普通の姿。それが太い幹の途中に唐突に花を咲かせ、
葉を開いているのだ。人間には例えようのない生命力というか神秘性さえも覚える。

 桜樹妖姿.jpg


松尾寺は矢田丘陵の中腹に位置し、すぐ背後には松尾山(標高315m)の急峻な森が広がる。
かつて室町時代には修験者の修業の場所であったと言われるだけあって、それなりの険しく
深い森の中にある。
竜田川の流れる谷を隔てた西向こうに生駒山系(623m)が屹立するのを見ると、この一帯は
かなり厳しい場であったと実感できる。
参道の途中、坂道で見た石仏群を思い出した。

 「石ぼとけ 誰に供えた 花と水」
 「無縁仏 行き倒れし 行者かな」


 観音堂と三重塔.jpg 松尾寺三重塔.jpg


寺の裏山から矢田丘陵の尾根を行く道につながる切り通しがあった。
その昔ここを、役行者や修験者たちが息を殺して通ったはずだ。
今日もシニアハイカーの一団がかしましく通過して行った。あの男や女たちは何を求めてこの
険しい道を越えて行くのだろうか。
否、自分は何故ここにいるかの。この切り通しの向こうに何かがあるのだろうか。
いつものように自問する自分がいた。


 切り通し.jpg 参道の石仏群.jpg


※松尾寺(まつのおてら)HP
http://www.matsuodera.com/index.html

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2010年04月16日

矢田寺 桜の花びらの上に落椿が

奈良大和郡山市の矢田寺といえば、梅雨の時季のアジサイの花でよく知られた寺だ。
一昨年転勤で関西の地に移って来たときに、TVニュースを見て、初めて行った寺が矢田寺だった。

緑濃い矢田丘陵の中腹にあるあの寺がこの時季、どんな景色を見せているのか知りたくて
再び訪ねてみた。 


 竹林とシャガの花.jpg


車を入れた駐車場の斜面に、点々と白い花が咲いている。近づいてみてすぐにわかった。
シャガの花だ。
そうか、シャガは、この仲春の頃に咲くのだ。

本来は山林に咲く花のはずだが、街中にあった子供のころ住んでいた家の北向きの庭に咲いて
いたので、よく見知っている。
あせたよな薄青い縮れた花びらが、なにかみすぼらしくて好きになれなかった。錆が浮かび出
たように感じられる黄色の斑紋が、花びらの涼しい色とアンバランスに感じられたのかもしれ
ない。
それが、今では子供の頃の思い出につながる、懐かしい花になっている。


 椿桜花埋もれ.jpg
  

車参詣道は、寺囲りの集落を通り抜けて、矢田寺本堂のごく近くにまで続く。
境内に入り南僧坊を過ぎた道の突き当たりに、無数の赤い落椿が見えた。
一本の椿樹の根元の地面は、散り積った桜の花びらに桜色に染まり、その上に、無数の真紅の
椿の花冠が、咲いている時と同じ形のままに転がっている。
こんな、絵のような景色、初めて見た。キレイだ、すごく綺麗だ。


 風ヤブツバキ揺らす.jpg 


物理学者寺田寅彦の随筆「思出草」の中に、
「椿の花が落ちるときに、たとえそれが落ち始める時には俯向きに落ち始めても、空中で回転
して仰向きになろうとするような傾向がある」
という考察が書かれている。
夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」という俳句に触発されて、椿の花の落花実験をした、
ということも書かれている。

この小文は「椿の花に宇宙を見る」という随筆集に収められているが、この本を読んで以来、
落ち椿を見るとつい寺田寅彦の名前とともにこの随筆集のタイトルを思い出す。


 落椿さくら小道.jpg 


たびたび落ち椿を見るようになって、あることに気づいた。
仰向けの花冠のほとんどが、木の中心とは逆方向、円周側に黄色の蕊(しべ)を見せて落ちる
ことを。
本当のところはわからないが、枝に付いていた時の向きそのままに、地面に落花するのだと思っ
ている。


 矢田寺車参詣道.jpg
 

車参詣道は矢田寺の境内に入った処から、地面が桜色に変った。
火曜日の嵐ですっかり散った桜の花びらが、びっしりと地面を覆っている。轍の濃淡が余計に
桜色を際立たせている。この寺の空は、つい先日まで桜の花に覆い閉ざされていたに違いない。
道は、更に今も舞い落ち続く花びらで桜色を深くして行く。


 矢田寺本堂照山桜.jpg

 

北僧坊のお庫裡の話では「最近高齢のハイカーの方々の間に、矢田寺は桜が綺麗だという、噂が
広まって、沢山の人が花見に訪れるようになりました。」という。花のピークは先の日曜日。 
花は火曜日の雨嵐ですっかり散り落ちてしまったのだった。


 石仏にシャガの花.jpg 石仏を囲む落椿.jpg



矢田寺は天武天皇2年(773)の開基と伝えられる。本堂は室町末期の創建だけあって、伽藍全体
も落ち着いた古寺の佇まいを見せる。秋の紅葉も見事という。
今日は花を中心に写真を撮ったが、お寺の建物を撮りに、もう一度来て見たいと強く思った。

 
 石畳に桜散る.jpg





「椿の花に宇宙を見る」 夏目書房 寺田寅彦ベストオブエッセイ

「思出草 四」
「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」漱石先生の句である。今から三十余年の昔、自分の高等学校学生時代に熊本から帰省の途次、門司の宿屋で、ある友人と一晩寝ないで語り明かしたときに、この句についてだいぶいろいろ論じあったことを記憶している。どんなことを論じたかは覚えていない。ところが二、三年前、偶然の機会から椿の花が落ちるときに、たとえそれが落ち始める時には俯(うつむ)きに落ち始めても、空中で回転して仰向(あおむ)きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察し、また実験をした結果、やはりそういう傾向のあることを確かめることができた。それで、樹が高いほど、俯向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い樹だと、俯向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないので、そのままに俯向きに落ち着くのが通例である。この空中反転作用は、花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それで、もし虻が花の芯の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動し、その結果は、いくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるのであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。こんなことは右の句の鑑賞には大した関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的な考察をすることによって、この句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、したがってその詩の美しさが高まるような気がするのである。
 


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2010年03月04日

法輪寺の春

斑鳩の里、法輪寺の境内では今、マンサクと椿の花がきれい。

三重塔のすぐ脇には今、マンサクの花が夜空に散らばる星座みたいに輝いている。
マンサク(万咲く)は名前の由来どおり、小さな花を無数に咲かせる。中黄色のひも状の四枚の
花びらはまるで昆虫の触手のように見えて、初めてその異様な形を目にした時、それが「花」とは
とても思えなかった。
ただその「マンサク」がまるで人の名前のようで親しみを覚えたものだった。


 マンサクの花.jpg

 

花名の由来としてはもうひとつ「まず咲く」が東北地方で訛って「まんずさく(まずさく)」から
「まんさく」になったという説もある。東北地方のだれかが「まんさく」という名前を知ったとき
「まんず咲く花だべな」「うだら、まんさくというのだなし」と思い込み、定着したのではなかろうか。


 斑入り椿.jpg 


法輪寺には、桃色と斑入と赤色の花が咲く三本の椿の木がある。
法輪寺に限らず、寺の境内では必ずと言って良いほど椿の花を目にする。
これは、室町から鎌倉時代に公卿、僧侶、武士の間に茶の湯が流行し、椿が愛用されるように
なったことに関係があるようだ。


 落花がきれいな椿.jpg

 

古来「椿」は吉祥(おめでたい)花として扱われていた。また、花びらが散ることなく咲いたそのまま
の姿で落花する様子が「潔い」ということで、武士に広く受け入れられたという。
首が落ちるようで縁起が悪いと言われるようになったのは、江戸時代末期のこと。悪い風評は瞬く
間に喧伝され、広く定着することは今も昔も変らない?


 椿は日本固有の花木で、古事記や日本書紀にも登場する。また万葉集にも数首詠まれている。
「椿」の字は日本で作られた国字。この花が春一番に咲くことから「椿」の文字を与えられた。
春を告げる花木といえば「梅」の方がふさわしいと思うが、中国から日本に「梅」が持ち込まれた
のは弥生時代後期のことで、日本人の感覚としては「春=椿」という認識が先行していたのだろう。
※「椿」という漢字は中国にもあるから、これは国字ではなく日本独特の意味ということで、国訓と呼ぶ。3/13補筆

 法輪寺三重塔春梅.jpg  梅花の向こう三重塔.jpg


 
法輪寺のある三井の集落、農家の庭先の畑地に、見事に花を咲かせる大きな一本の梅の木がある。
三重塔を望見する場所にあり、写真好きの間ではよく知られている撮影ポイント。
写真家故入江泰吉氏の写真集「斑鳩の里」にも収められている。
この梅の木は去年の春偶然に見つけた。今年は、また違う撮りかたできたらいいなと考えて訪れた。
梅は去年と同じように咲いていた。しかし、農家は取り壊され、新たな改築が始まったばかりだった。
三井の集落は昨今、改築ブームのようだ。
 
しかし憂うべきは、斑鳩町には世界遺産の法隆寺や法起寺があるものの、街全体で遺産との調和を
図って維持して行こうという考えが無い。かつて、奈良町の建築物の文化的価値に気づかず消滅させ
てしまったように、斑鳩の里も無計画で雑駁な町になっている。
斑鳩町の為政者に、日本の歴史や身の回りの景観、文化財というものにもっと興味や関心を持って
もらえればなと、祈らざるを得ない。


 春の塔.jpg
早春の三重塔





 
posted by ハマー at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月31日

斑鳩の隠れ里 白石畑

奈良斑鳩の白石畑(シライシハタ)の村落は、法輪寺から北西へ3km、矢田丘陵南端の山奥にある。まるで
隠れ里のようなこの村落は、YAHOOの写真地図を見ていて偶然見つけた。大蜘蛛が触手をひろげ
たような異様な形は、僅かな耕作地を求めて、狭い谷を逆のぼって造られた棚田なのだ。

 
 白石畑航空写真.JPG



地図に安楽寺と素佐男神社の名が見える。どんな古寺があるのか、山道を進む。道は意外にも、
舗装された二車線の車道だった。山の中腹に斑鳩町のごみの埋立地があり、そのために造成された
産業道路ということらしい。

集落の入口辺りの道路端に一体の石仏が安置されている。長く風雨に晒されて目鼻も分からない。
多分地蔵菩薩だろう。少し入ったところに六地蔵が見える。その先には村の墓所があるはずだ。
いずれの石仏にも新しい花が供えられ、周りも掃き清められている。村人の篤い信仰心が窺える。

 
 道端から見た六地蔵.jpg

 

白石畑村落の住人に、寺の在りかを訪ねるが「寺は無い」という。よくよく聞いてみると、集会所
に変わったというではないか。唖然。YAHOOの地図には「安楽寺」と記されているのだから、寺が
無くなったのはそんなに昔のことではあるまい。
どんな経過で寺が消えたのかは知らないが、この小さな村落が自ら寺を支えてゆくのは無理があっ
たのだろう。神社は今もあるという。
白石畑の名は永仁二年(1294)の東寺百合文書に見られる。また法隆寺の料田(学田)があったと記録
にある。「隠れ里」ということはなかったが、とにかく古くから続く村落であったことは間違いない。

 
 鳥居が覗く.jpg
 

神社は村の北のはずれの、一番の高台にあった。白石畑の住居は周りの水田よりかなり高い、島の
ようなところに密集している。丘陵の山頂付近にあるとは言え、雨が降れば周りの山からこの谷に
向けて大量の雨水が流れ込んでくるはずだ。狭い高台に軒を重ねるように住居が集中している理由が
わかる。神社はその高台の中の更に高い崖淵にあった。


 楠木と鳥居.jpg


素佐男神社(スサノオジンジャ)の鎮守(氏神)はスサノオ。スサノオは、イザナギとイザナミから生
まれた三人兄弟の弟。お姉さんがアマテラスで、ツクヨミ(月読命)とスサノオが兄弟になる。スサ
ノオは日本の神々の中でも最も強いキャラクターの持ち主で、神話に描かれたスサノオは荒れ狂う
暴風神であり、逆らう神であり、また大声で泣きわめく神であって、生き物を死に至らしめる。
『出雲風土記』にはスサノオが山の神や水の神だと記されている。この村落にぴったりの氏神では
ないか。


 鳥居の前藪椿落花.jpg


素佐男神社の境内に入ると月番で掃除の奉仕に来た女性がいた。別の村落から来ているという。
どの地域でも神社は氏子によって護られ維持されていると感じる。神社がコミュニティーの中心と
して今も機能しているのだろう。

冬の今、白石畑の棚田は、乾いた枯色の景色が広がるだけだが、桜や彼岸花の咲く時季には美しい景色を求めて多くのカメラマンが訪れると言う。
また一つ奈良の撮影ポイントができた。

見わせば細き乾田段々に 冬陽優しく降りし山里
藪椿紅き点々地に散し 鳥居の足もと飾るごとくに


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2010年01月18日

奈良千光寺への道

千光寺への道のりは、奥山へ分いるときの心細さと同時に厳しさを求める修験者の持つ山を畏怖す
る気持ちを感じさせてくれる。


 女人山上道.jpg


近鉄生駒線「元山上口駅」前の広場に、「女人山上道」と刻まれた石標が静かに立つ。伝説の怪
人役小角(えんのこづぬ)が千光寺を離れ熊野の山上ヶ岳に去った後も、母親の白専女(しら
とうめ)が修行を続けたことから元山上、女人山上と称されその後も女性の修行道場として栄え
たと伝わる。

 
 役行者像.jpg

 

千光寺の境内には数百体の役行者の石像(コンクリート造?)が奉られている。信者や修験者自身
の寄進によるものと思うが、これほど多くの行者が居並ぶ境内にいると異様な「気」に包まれてい
るような寒気を感じる。「役行者」として知られる役小角(えんのおづぬ)は634年、奈良県御所市
茅原に生また。22才の時にこの千光寺に、修行のための庵を設けた。役小角に関する記述は822年
頃に成立した「日本霊異記」に始まり、今も随筆や小説、歴史書と尽きることが無い。

しかし、その容姿を表すフィギア(figure)はどこの寺社のものも、右手に錫杖、高下駄を履いた
坐像で、他で見る像と変わることが無い。それでも、この寺の役行者は鼻筋が通り眼窩の窪み、日
本人離れした顔立ちをしているように思える。日本霊異記には「唐人」のようだと記されている。
 ※見たことはないが、吉野の桜本坊には、19才の若々しい役小角像があると聞く。


 椿畑から住宅街を望む.jpg 松笠椿.jpg 



元山上駅を千光寺に向かって檪原川に沿った道を上ってゆくと、山の中腹あたり、赤い点々が目に
付く。色あせた枯葉色が占める山野にあって濃い赤色は目立つ。「なんだろう」 急な坂道がくの
字に折れるところに、赤い花をつける椿の林があった。ちょうど作業に来あわせた農家の男性に話
を聞くことができた。

松笠椿という名前だよ。うちは田圃がないから椿を植えている。景気が悪くてね、注文が減って
大変なんだ。この下にはヒバを植えている。日光ヒバって云って、榊の変わりに使うんだ。』 
赤い花のたくさんついた枝を手際よく鋸で引きながら話してくれる。切り出した一本の枝は長さは
二メートル以上もあるだろう。活花の素材に使うのだ。ここまで育つには十年以上かかったことだ
ろうに。再び切り口から芽吹いた新芽が出荷できるような大きさになるまでには、また十年はかか
るのだ。気の遠くなるような歳月を待たなければならない。先祖代々この地生きる人々には、この
生駒の土地は依然厳しい土地柄なのだ。
この先、千光寺へ上る道の途中、打ち捨てられた廃屋を何軒も見た。このまま朽ち果ててゆくのだろう。

 
 連理の二本杉.jpg 板碑と椿の木.jpg



椿畑を過ぎて道は森の中に入る。数体の無縁仏が二本杉の木の根元辺りに散らばっている。この杉
は、二本の木が一本になった「連理木」だ。連理(れんり)木は異なる幹同士が連なって理(木目)
が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の対象ともなる。この杉
の木、特別に祀られていることはないが、このように無縁仏や板碑が集まっているということは、
人がこの二本杉になにか特別なものを感じているからに違いない。今では千光寺までは車でも行く
ことができるが、かつては行き倒れも出るような、山深い難儀な道のりであったことを進むに従っ
て想像された。


 千光寺参道.jpg
 

千光寺まであと500mのところに修験者の行場、「清滝」がある。落差10m以上ある打たせの滝で、
落下する水の飛沫があたった岩壁から氷柱(つらら)がぶら下がる。この日は時に粉雪が舞う冷た
い一日ではあったが、まさか凍えた滝を見られるなんて、思ってもいなかった。

 
 清滝全景.jpg つららの清滝.jpg


ここは清滝よりも周りを取り囲むようにある石仏群が知られているようで、平群町の指定文化財に
もなっている。写真に少し写っているが、滝口から対岸の「五智如来」に向けて勧請縄が掛けられ
ている。平群町の公式HPを見ると「鳴川集落への伝染病などを防ぐ願いが込められて毎年大晦日
に掛け替えられている」とある。
このことは、かつてはこの滝を境として鳴川集落は、里の村落とは隔絶した、山の人が住む秘境
あったことを窺わせる。


 ほら吹・はらみ地蔵.jpg 貝吹地蔵.jpg
 行場の不動明王石像.jpg 五智如来.jpg 


千光寺の石段をあがって山門をくぐると、すぐ右手の小さなお堂になんとも悩ましいお姿の「弁才
天」
が祀られている。多分赤い衣の下は裸体であろう。左にいます天を仰ぐ像は、恐らく、夫の
「梵天」か。 弁財天の姿に気をとられ、うかつにもお名前を確認することを失念してしまった。


 千光寺山門前.jpg 弁財天・梵天像.jpg


『密教には、手で結ぶ印にしても、祀られる本尊にしても、妙にエロティクな雰囲気があり、そう
いうものが古代のみあれの信仰と、うまく結びついたのではあるまいか』これは白洲正子「かく
れ里
/葛城から吉野へ」の中の一文で、「みあれ」とは貴人の誕生を意味する。『「山は産なり」
で、なんでも生み出す力を持つものとして崇拝された。万物を生む神であってみれば、山は女体と
見られたに違いないし・・・』
奈良千光寺は真言宗の寺院。真言宗は空海によって開かれた密教を基盤とした仏教の宗派である。
空海に先立つこと140年前の「役行者」の開祖になるここ千光寺が更に密教の色彩が強いことは容
易に想像されることだ。


 玉の輿鉄下駄.jpg
 

〔エピソード〕
境内に一足の「鉄下駄」が置かれている。説明書きによれば「女子 鉄下駄をはいて三歩歩めば
玉の輿の良縁来る」とある。これは足腰の強さを測るものであり、つまり多産の証を見るものと考
えるのはうがち過ぎというものだろうか。





posted by ハマー at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

塔のある景色 冬の法起寺

小さな森を抜けると目の前に突然三重塔が飛び込んで来る。視界の開けた田圃の先に、生垣に囲ま
れ小さく整った法起寺の伽藍が見える。「ああ ! 塔のある景色」 その後、幾度かそこを通り過ぎ
たが、そのとき覚えたときめきに似た気持ちは変わることがない。奈良県道9号線を小泉の方から
法隆寺へ行くときに目にする、車窓から見る印象的なこの「塔のある景色」は、寺院仏閣の多い奈
良県下でも未だ他に見ることがない。


 法輪寺西門.jpg  東の田圃.jpg
 ・西門前のコスモス畑から見る 初夏からピ晩秋までピンクの花が絶えない、という・・・
 ・伽藍東の田圃から見る日本最古の三重塔


 


世界遺産に登録されている法起寺一帯は、市街化が押さえられ、古都の景観を保っている。県道を
はさんだ寺の北側に広がる岡本の集落はゆるやかな傾斜地に密集している。高台の菅原神社に向か
う坂道の十字路から、法起寺を見下ろすことができる。この集落から見ることのできる唯一最高の
ビューポイント
。しかし、ほんとうに残念なことに、三重塔に一本の電柱がかぶさり、せっかくの
美景を台無にしている。私のような通りすがりの観光客がとやかく言うことはできないが、ほんと
うに惜しいのだ。画家ならばキャンパスに入れなければ済むのであろうが、カメラはそういうわけ
にはいかないから。ほんとうにもったいない。


 岡本の集落から.jpg  菅原神社.jpg
 坂道から見る法起寺三重塔              掃き清めら静かなな社殿


三重塔の全体は伽藍東側からよく見ることができる。生垣も、築地塀もなく鉄条網で囲われている
だけなので、丸見えなのだ。保安上はとても不安なことであろうが、私のような写真好きな観光客
には実にうれしい限りだ。境内の南と東側には田畑が広がり、白菜やキャベツ、大根なんかが育っ
ている。これまでじっくりと畑を見たことは無かったが、虫に食われ放題のキャベツには物語を感
じてしまう。


 穴あなのキャベツ.jpg  

田んぼの脇に、ピラカンサの生垣があった。小さな赤い実をびっしりとつけたその向こうに、三重
塔をすかし見る
ことができる。ちょっと無理があるが、撮る。しかし、フォーカスがうまく決まら
ない。塔にピントを合わす方がよいのか、ピラカンサに合わすべきなのか、決心がつかない。
農家の庭先に、白、黄、えんじ色の菊が咲いている。黒い寒冷紗が風に揺れる。農家の人たちは
を畑や庭で作る。我が家で育てた四季折々の花で祖先のいる仏壇を飾るのだ。奈良の冬は厳しい。
極端な寒さにはならないものの、冬の朝は零下の気温が続く。今朝も針のような霜が降りていた。


 ピラカンサの三重塔.jpg  寒冷紗.jpg  
 ピラカンサの生垣と三重塔          寒冷紗に護られた小菊

法起寺は外観の美しさに相違して境内には三重塔以外は見るべきものは意外に少ない。収蔵庫の外
からガラス越しに木造十一面観音菩薩立像(重文)を見終えると、もう他は無い。


 三重塔初層.jpg  三重塔と残り柿.jpg
 三重塔初層 心柱の前に鏡餅、四本柱も見える           軒下の組物がおもしろい


庫裡の脇に赤白の花弁を持つ椿の若木があった。「糊こぼし椿」という。同じ椿が東大寺の開山
堂にあり別名を良弁(ろうべん)椿ともいう。のりこぼし椿は「奈良の三名椿」の一つといわれる
が、ここは非公開のため見ることはできない。たまたま通りかかった受付の人が教えてくれた。
紅と白のバランスがとても心地よく綺麗な椿ですね。


 椿「のりこぼし」.jpg
 「のりこぼし」



※二月堂お水取りの行事を彩る「のりこぼし」
http://taikutuoyaji.com/tubaki1.html
 東大寺二月堂の南西にある国宝のお堂、開山堂は庭が非公開なのですが脇道から垣間見ることが出来ます。「お水取り」に先立って、練行衆は行に使う造花の椿を作ります、誤って紙の上に糊をこぼしてしまいのりの斑点に庭の椿が似ていたことから名づけられた。

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2009年12月27日

斑鳩の里 法輪寺と三重塔

斑鳩三塔のなかで法輪寺の三重塔は、写真を撮るのに苦労する。寺の周りは、フレームに収めたく
ない夾雑物に溢れているのだ。 昭和19年、落雷により塔は焼失した。シンボルを失った法輪寺の
界隈は、聖徳太子ゆかりの地という誇りを忘れた。幸田文が東奔西走して、昭和50年に塔が再建さ
れた時、村の景観は、1300年の歴史を偲ぶにはそぐわないものに変わってしまっていたという。


 三井集落と三重塔.jpg


法輪寺の四囲を囲むように、数軒の農家の母屋とトタン造りの物置が雑駁と密集し、間に田畑を置
いて、小さな工場や作業場が集散する。電柱や電線、ビニールハウス、倉庫、看板、ガードレール、
路上の軽トラックなどなど、それらを嫌うとシャッターは押せない。背景の山並は木々に隠されて
はいるが、その後ろにはゴルフコースが広がっている。それが斑鳩の里の現在の姿なのだ。


 法輪寺山門.jpg 


それでも、法隆寺よりも、法起寺よりもこの法輪寺に惹かれるのは何故だろう。
亀井勝一郎「大和古寺風物詩」の法輪寺を紹介する一節に『夢殿や中宮寺へまいる折は、いつもこ
こまで来て春秋の景色を眺める。平原の豊かさもいいが、しかし法隆寺の北裏から東方へきれぎれ
に連なる丘陵の側も、また別の趣があって捨てがたい。丘陵の間には白壁の映ゆる古風な人家が散
在し、それを巡って小さな森が点々としている。(中略)しばしば法輪寺を訪れるようになったのも、
一つにはこうした道筋の美しさのためであるらしい。法隆寺に群がる参詣人たちも、中宮寺を過ぎ
ると全く途絶えて、ここばかりは斑鳩の址にふさわしくひっそりと静まりかえっている。』と記さ
れている。


 葦塔冬枯れの山.jpg  

 
そうなんだ、確かにこの法輪寺を囲む丘陵には、飛鳥や天平の人たちが逍遥したことであろう山や
道が、1300年前の景色が奇跡的にも残されているのだ。

 
 講堂石灯籠.jpg s-PC266683補整.jpg
 講堂前の石灯籠                    目を惹く庫裏の茅葺屋根
 
 南天三重塔.jpg 青松と三重塔.jpg
 庫裏から見る三重塔          いつもは脇役の松だが


最近読んだ「天才アラーキー写真ノ方法」の中で、著者荒木経惟氏は、『被写体っつうのは、最初
からすでに物語を持ってるんだ。被写体っつうのは、そういうもんなのよ。うん。でも、その物語
彷彿とよみがえらせるような写真じゃないと、ダメなんだよ。それがいい写真というか、面白
い写真なんだよね』さらに『時代とか空間とかは、自分以外の他の場所にあるのじゃなくて、私自
身の中
にあるっていうこと』と言っている。


 金堂冬楓.jpg 金堂と冬楓.jpg
 枝に残った楓の種子             金堂を背に葉を落とした楓の木のシルエット

 九日月と本堂.jpg 
 金堂の空高く九日月が見える       


カメラで法輪寺の三重塔を撮ることを難しいと感じてるのは、自分の中に物語が無いからなんだと、
気づかされた。定型的な風景写真の枠の中に法輪寺を収めようと四苦八苦して、かえって難しくし
ているからなのだと。 よし、もう一度、行ってみよう。

 南天と白壁.jpg 法輪寺仏塔.jpg
 南天が白壁に映える                  地蔵堂脇にある仏塔

12月25日、法輪寺と向き合った。晴れ時々曇り。夕刻には、北から流れ来る冷気とともに間断なく
吹き寄せる雲が空を灰色に変えた。寒い夕暮れ。期待した夕焼は無かった。 午後四時半山門の扉
は閉じられた。 今日の収穫は、13枚の写真。 物語はここから生まれる


 黄昏法輪寺の道.jpg
 人の姿が絶えた法輪寺前の道


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2009年04月18日

法起寺三重塔

奈良斑鳩 法輪寺
白いハナミズキと三重塔が青空に映える。

ハナミズキは日本の東京市からアメリカに贈った
ソメイヨシノの返礼に1915年に贈られた花木と言う。
一重の清楚な純白花はこの塔となんの違和感なく
溶け込む。1400年の時を経てこの塔も自然の一部
になりきっているからだろうか。 

春たけなわ斑鳩の里

法起寺とハナミズキ.jpg
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法隆寺五重塔

奈良・法隆寺五重塔を上御堂奥の高台斜面から見た景色。
左にかすんで見える小高い丘は畝傍山だろうか。
ここから望む景色は四季をとおしてもほとんど変化
が見られないが、ただ樹間の山桜が斑鳩の地が春だと
教えてくれる。

法隆寺上御堂奥から五重塔を望む.jpg
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2009年03月01日

法輪寺・法起寺 梅の春

斑鳩の里、法輪寺界隈

3月1日
午前8時の拝観時間開始にあわせて山門をくぐる。
講堂に進み、諸仏参拝。 堂内には扉の隙間から朝日が射し込み
明るく、さわやかな心持で対面することが出来た。

駐車場から民家の屋根越しに梅の花が見えたので確認に歩く。
なんと、樹高10m近くあろう梅の大木だった。
早速一枚写真を撮る。
後で調べて見ると、この時期法輪寺三重塔を遠望する定番ポイント
のようだ。 いい日に参拝できて、ラッキーだったかも。
奈良 斑鳩の春の景色。

法輪寺と梅のはな木.jpg 


法起寺三重塔に梅の花

法起寺西門前のお宅入り口近くに、紅白の梅が盆栽のごとく咲いて
いた。国宝法起寺三重塔もこの時季は脇役だ。

s-P1090013法起寺三重塔紅梅.jpg
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