2013年10月25日

斑鳩の里 法輪寺から

 法輪寺を訪ねるのはこれで何度目になるだろうか。境内に入ったのは二・三回に過ぎない。いつも寺の外から、景色の中の一点として見ている。しかし改めて三重塔を見ると、これこそが、塔のある景色こそが大和奈良の景色なんだなとつくづく感じる。

 法輪寺三重塔s-PA195314.jpg

「大和古寺風物誌」の中で亀井勝一郎氏は『古寺の風味のなかでもとりわけ私の愛するのは塔の遠望である。塔には不思議な吸引力がある。憧憬と歓喜を与えつつ否応なしに我々をひきよせるのだ。おそらく古人も、遥かに塔を望みながら誘わるるごとくひきよせられて行ったに違いない。』と書いている。

法隆寺、法輪寺と法起寺の三塔を合わせて斑鳩三塔と呼ぶ。『そのころ、法隆寺を訪れる人は、まず車窓から斑鳩の三塔を望見することから、胸の鼓動を早やめ、法隆寺によせる期待に胸をおどらせつつ、心の緊張を自覚させられたものである。それほどこの三塔の姿は斑鳩をおとずれる人の心に大きな感銘を与えてきたのである。』大和古寺巡歴(町田甲一)

かつては関西線(現・JR大和路線) 大和小泉の駅を出てまもなく三塔を望遠できたという。
数年前に乗車した時、車窓から法隆寺の五重塔を遠くに見ることができたが、レール沿いに建つ住宅やビルに視界を阻まれて良くは見えなかったと記憶している。今では、斑鳩三塔に対する感慨は本の中だけのことになってしまったようだ。

斑鳩に行くにはもっぱら奈良市方面から車で奈良県道九号線を南下するが、小泉の交差点を越え1.5kmほど行ったゆるいカーブの先に突然法起寺の三重塔が現れる。それを見た時の驚き、感動は幾度体験しても衰えるこ褪めることがない。「森のトンネルを抜けるとそこは斑鳩の里だった」みたいに。
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2013年05月16日

五月の奈良 山に桜の咲くころ

ソメイヨシノの開花が今年は平年より十日程度早かったので、桜まつりが始まる頃にはもう散り桜だったと、花見を予定していた人々は随分困惑していたが、山の桜はいつもと変ることなく丁度田植えの時期に咲いたと土地の人に聞いた。

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奈良盆地を囲む山間部の田植、かつては五月の終わり頃から六月の初めに行われていたものだが、専業農家が少なくなった現在では、家を離れて住む子供や孫の手を借りてGWの連休の間に急いで済ますようになった。
この写真を撮った五月八日奈良の朝の気温は二度前後で、霜が降り、ところによっては薄氷が張るほど寒い朝だった。田植え後にそんな寒さに二度、三度と遭うと植えたばかりの稲の苗は白く変色し凍え死んでしまう。

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つい最近まで、山桜の咲く頃は苗代に種籾(モミ)を播く時を知らせる目安だったのだが、今では田植えは山桜が咲く頃にするようになった。それどころか、稲の苗は農協で購入する農家が増えたそうだ。そのうちに、農家とは農地を持つ家、地主ということになるのではないのか。まるで平安時代のように。

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2012年10月10日

紫苑の花

「雨そぼそぼ紫苑の花の盛り哉」という正岡子規の句がある。紫苑は中秋(9月下旬から10月上旬)の頃が花の見頃だが、この頃はちょど秋雨の時季にかかる。どちらかと言うと紫苑の花は、晴れた日よりも雨の日や夜露に濡れた早朝に見るほうが、薄紫色の花びらがしっとり落ち着いた色合いを示し、ずっと美しく感じる。なるほど、子規はいい句をつくるな、よく見ているなと感心させられる。

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 明日香村冬野にて

 シオンはふつう「紫苑」と漢字表記するが「茈菀」という字を用いることもある。この場合の「茈」は、むらさき(むらさきそう)を示し、「菀」は、しげる、さかんにしげるさまを意味する。秋、長い茎の上部に薄紫色の花が密集して咲く紫苑の姿を思えばこの「茈菀」の字の方が適当とも思える。実はシオンのこの二つの異なる表記は、「紫苑色」という色の変遷にも表れている。
 
平安時代中期頃の紫苑色は「紅(くれない、紅花)と藍とを重ねて染めた青味のある紫色」であったが、鎌倉時代初期頃までには「紫草(むらさきそう、茈草)で染めた薄い色」を紫苑色と呼ぶようになった。その後、素性の違う二つの色が混同されてというか意識されることなく今の「紫苑色」になったといういきさつがある。同じムラサキでも「糸=布」としての紫(むらさき)と、草としての茈(むらさき)の違いがあることに気づかされる。紫苑の名前はどちらからつけられたのだろう。

紫苑は日本在来の植物ではなく奈良時代以前に中国から渡来したと考えられており、鎮咳と去痰の薬効がある生薬として今も利用されている。シオンの名は花の色から付けられたものではなくその根が紫色を帯びていることからつけられたという説もある。シオンの導入は薬用が主であったが、その後花が美しかったので、観賞用に栽培された。古来より紫が至上の色とされてきたことから、平安の貴族社会において、紫苑の花姿は大変愛された。

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 シオンの咲くころ 奈良弘仁寺 '11,10,3

紫苑は一般家庭でも容易に栽培できるが、その草丈が2m以上にもなり場所をとるせいか都会ではあまり見かけない。かつて「鬼の醜草(おにのしこぐさ)≒でかくて邪魔な雑草?」とまで揶揄されたことが少しは理解できる。
小林一茶の「栖(すみか)より四五寸高きしおにかな」 という句があるが、まさに紫苑の人の背丈より大きいことに驚いているようでおかしい。
どこか影の薄い紫苑の花も、歴史的な経緯を思い浮かべて見れば感慨一入である。

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2012年09月05日

影に惹かれる 奈良心象 


影に心惹かれる。意識して影を追い探しているわけではない。フッと目に映った影に惹かれる。なぜ心惹かれるのかそこのところはよく解らないが、同じ感覚を持つ人は自分だけではないようだ。

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 「桜樹」

写真「桜樹」は奈良県道50号線桜井市穴師の道際に立つ民家、昨年の春(20011.4.14)の朝に撮影。土壁の肌の風合いと泥水ぶつけたような色染みの上に、薄曇りの弱い陽の光りが描き出す桜樹の朧なシルエット。二度シャッターを切ることができたが、その後日は陰りもう桜樹の影は出なかった。
太陽の光がつくりだす影の出現はその日その時の気象条件に左右される。そこにそのような桜樹の影ができることを知ったとしても再び同じ影を見ることは難しい。二度と見ることができないかもしれない。影の造りだした絵は、実在しない絵であり、幻影である。

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 「再生」

写真「再生」は奈良市白毫寺の境内で撮った。(2011.4.1) 石仏の裾から台座にかけて投影された椿の樹影に重なるように赤い花がポツポツ落ちていた。役目を終えた椿の花が再び違う世界に咲いた。超自然な宗教的な構図である。
影は純粋な自然現象であるが、光りの影が創る光景を心理現象として感性化することができる。影は、それを見る人の心の影なのかもしれない。

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 「大神神社」

写真「大神神社」(2010.7.8)は境内南口の小さな木橋に落ちた樹影。光りを主体にとらえれば木漏れ日となる。
「かげ」という語は影と同時に光を意味する、不思議な語である。『影が光によって生み出されていることは言うまでもないが、同じく、光りもまた影によって光としての輝きを得ている。「つきかげ」は月の光を指し「月影」と書く。「日影」は日の光り、日ざしを意味する。光りと影を同一ととらえる感性が古来より日本人にある。』(日本的感性 佐々木健一著) 光りが木樹に遮られてできた形状は光りの影である。つまり影は光りである。なにかこのあたりに、影に惹かれる理由があるように思えてくる。

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 「流影」

影は水の流れの上にも落ちる。しかし不思議なことに流れ去ることがない。いやもしかすると水に溶け、水泡とともに流れ下っているのかもしれない。写真「流影」は宇陀市の室生古道沿いの深谷川源流で撮影。(2012.7.2)

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 「手水石」

人の手によって造られた手水石も風雨に晒され太陽の光に焼かれ、摩耗しいつの間にか人の作為を消し去り自然に同化する。その岩肌に落ちた常緑広葉樹の葉影が、手水石を生命あるもののごとく豊かな表情に変える。影の創り出す形態はその落ちた場所、背景と重なり合うことにより何かを語り始める。影が過去を語り始める。影が何かを語り始めればそこに含みを持った情景が滲みだし、見る者の心に新たな像を結ばせる。写真「手水石」平群町三里の船山神社にて撮影(2011.7.10)。

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 「鑑真和上御廟」

写真「鑑真和上御廟」(2009.12.2) 唐招提寺の伽藍は高い木樹にすっかり覆われ外の通りから見ると森としか見えない。鑑真和上の御廟(墓所)は境内北東角の一際濃い緑の中にある。御廟へは開基のものとは思えない質素な造りの小さな門から入る。ふと足元を見ると敷居のあたり木漏れ日の中に森の影が映しだされていた。常に森の静寂が支配する唐招提寺を象徴する残像である。

影はそこにあるはずのない光景を見せて、消える。はかなくてそしてかげろう影。カメラはその一瞬の光景を残像として捕える。その残像が自分の心の奥深いところにある記憶を呼び覚ますようだ。影は自分の心に潜む意識を揺さぶり起こす。影に心惹かれるのはきっと、影のつくる光景に原初の記憶が共振するからだろう。
それは心象としての奈良、光と影が教えてくれる奈良の面影。
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2012年08月29日

俳人 武藤紀子氏 写真附句 八月の奈良

武藤紀子句集(現代俳句文庫――66 フランス堂)より
私自身句作はしないが、いつも言うように俳人(詩人)の視点が、自分が写真撮影に際して見過ごしてきた景色の妙味というか、異なる見方を教えてくれる。武藤氏の作品の多くは一読してイメージ(景色)の湧き出る(了解できる)句が多く自分にはとても馴染み易い。即座にイメージが湧いてこなくても、或いは意味がつかめなくとも言葉=語感の美しさに魅せられる句も少くなくない。風景詩とでも言おうか。

「 稲の花 神の不思議な 足拍子 」

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なにか魅かれるものがあって何度もなんども思い返しては口ずさんで見るのだが、なかなか読み解けなかった。
秋の季語でもある「稲の花」は、品種によって異なるが真夏の七月下旬から八月下旬の頃、六日七日かけて稲穂の上の方から咲き下りる。花と言っても白いおしべが数ミリ飛び出しているだけで、知っていなければ気づかない小さなちいさな地味な花だ。日の出から二時間くらい咲く。

「足拍子」を辞書(大辞泉)で引いてみると「足を踏んでとる拍子。能楽・舞踊・文楽などでは、足の裏全体で床を強く踏んで音を立てる。リズム感や型のきまりの効果を強調するもの」とある。
しかし、考えてみるのだがそれでも「稲の花」と「神の不思議な足拍子」が繋がらない。感覚的にはOKなのだけど、しっくりこない。
偶然とはいえないかも知れないが、稲の花を撮っていた時、突然に大粒の雨が落ちてきた。気が付くと真っ黒な雲が水に墨を流すように西の空からこちらに広がって来ていた。赤い稲妻が走った。
わかった、雷(かみなり)だ。「足拍子」は音そのもの、雷鳴なのだ。

「かみなり」の日本語の語源は、昔、雷は神が鳴らすものと信じられていたため「神鳴り」と呼ばれた為と言われる。また雷の光り「稲妻」は『稲の夫(つま)』という意味で,雷光が稲に当たると稲が妊娠して子を孕む。つまり雷光は稲の夫であると考えられていた。

詩人は「雷光が稲を実らせる」という言い伝えを知っていたのだろう。雷鳴は神の近づく足音、不思議を為す神の足拍子、そして稲妻の予兆。稲の花神の不思議な足拍子を。

「 ことばに 匂いありとせば 早稲の花 」

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残念ながら自分は未だ稲の花の匂いを知らない。判らない。臭覚は五感の中でも個人差が大きい感覚で、また匂い物質に対する感受性にも個人差があり特定の匂いはよく感じるのだけど、ある匂いに対しては感受性が低かったり、あるいは全くなかったりするような場合もよくあるといわれる。逆にある年齢になってこれまで感じなかった匂いを知ることもある。

稲の花の匂いについては、農業経済学者大槻正夫氏(1895−1980)の著書「稲と杉の国」の中の文章で了解したい。『湿度の高い空気の中に遠慮がちにほのかに漂う匂いである。柔らかい甘みを帯びた、そしてどことなく清新な気のこもった郷愁を誘う遠慮がちな匂いである。』どんな匂いなのだろう。

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夏の朝、詩人は緑一面に広がる稲田の中にいた。緑色の田表を照らす朝とはいえ強い陽射しが、夜のうちに降りた稲の花の朝露を温め霧に変えゆっくりゆっくりと大気の中を漂い広がる。そして稲の花が醸し出す命の根源のごとき匂いが詩人の全身を包み込む。

言葉には匂いがあると言う人がいる。たしかに言葉から匂いを連想することは不思議なことではない。しかし、本来言葉に特有の匂いがあるわけではない。また匂い(という言葉)に特有の匂いがあるはずもない。
この一句は「匂いありとせば」と「ことば」を条件句として示しているので、稲の花そのものの匂いと言うよりも、「稲の花の匂いという言葉」が紡ぎだす記憶に結びついてゆくのであろう。
「早稲の花の匂い」は詩人にどんなブィジョン想起させたのだろう。

「 烏瓜 ゆるくわがねて 運び来し 」

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晩秋の奈良の野道を歩いていると道ばたの草むらや、木の枝に絡みついた朱色の卵形の実をよく見かける。つる性の植物で、実が朱く色づく秋になるまではなかなか気付かない植物だ。

この句を読んですぐさま一枚の写真を思いだした。東大寺二月堂で撮った写真。この烏瓜、散歩の途中に刈り持って帰ったのだろう。無造作にわがね、戸口にの柱に飾りつける僧侶の姿が目に浮かぶ。「わがねる」は「綰ねる」と表記する。「細長いものを曲げて輪にすること」で日常的にはあまり使わないと思うが、綺麗な響きを感じる。

他者の詠んだ俳句を読む面白さは、知らない言葉や熟語を知る楽しみ、更に季語を知ることによりその時季ならではの景色を予測できるようになることだ。それにより自分の感覚や感受性を鋭敏にし、意識をも高めることができる。その意識を目の前の景色に投影することによって、目に見える景色の幅と奥行きが広がり深くなる。

「さまざまな花を詠み来てさくらかな」

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「武藤紀子句集」には398の作品が収められている。数えてみたのだがその中で詠んだ花の種類は24あった。意外に少ないことに驚く。当然句集にある以外の武藤氏の句にはもっと多くの花が登場すると思うが、この句集では多くは木花で、草花は「朝顔、菊、昼顔、庭石菖、松虫草、ふじばかま、文字摺花、桔梗、蓮」と意外に少ない。

俳人に限らず自然写真を趣味とする人びとも好んで「花」を撮る。写真を始めた頃自分は「花」を撮ることに抵抗感があって避けて通っていたのだが、いつの間にか求めて撮るようになった。木花では梅、桃、椿、桜、卯の花、蝋梅、石楠花、牡丹、紫陽花、芙蓉、槿、百日紅、稀に薔薇など。草花は、スミレ、タンポポ、蓮華草、杜若、蓮、桔梗、ユリ、ギボウシ、菊、朝顔、向日葵など目についた「さまざまな花」を撮ってきた。それらの花を撮る理由は深く考えたことはないが、綺麗、美しいからという動機もあるが、それ以上に季節や地域性の中での自然の状況を現すのに都合がよいからだと考えている。
そしてそれらの花の中でもやはり「さくら」は別格と思う。

百花繚乱というように春はさまざまな花が咲き競う。足元の花、目線の先にある花、川の向こうに咲く花など季節から溢れ出るように咲く。その花の中でも、桜は冬の終わりの緋寒桜に始まって、染井吉野、山桜、牡丹桜といちい名前は知らないがその種類が多く、早春から晩春まで意外に花の時季が長い。春と言う時間の流れの中にあって草の花、他の木の花が忙しく咲き散ってゆく中で、桜は悠然と咲きつないで行く。

「さまざまな花を詠み来てさくらかな」という気持ち、確かに共感できる。野山で山桜の樹の下に独り来て天を覆うさくら色の花絵傘を仰ぎ見たとき、なにかほっとさせられる。こんな雰囲気持つ花はさくらの他にはない。
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2012年02月29日

春隣り 二月の奈良

先の週末久しぶりに奈良を訪れた。週間天気予報に反して土日は時おり雪も混じる冷たい雨降りの天
気になった。この冬の寒さは全国的なことではあるが、調べてみるとこの二月は奈良でもここ3〜4
年のうちでも最も寒い2月となった。

 s-P2240050二月冬木の朝.jpg

あと数日で二月から三月に変わるが、葉を落としシルエットだけになった野山の木々も、よく見ると
真冬とは違うけぶるような赤みを帯びた色あいに変わってきている。まだまだ冬景色と言ったほうが
適当だが、路傍の石仏に供えられた菜の花や水仙の花を見ると、季節が冬から春に移りつつあること
を教えられる。
こんな時季を「春隣」と言うのだろうか。言葉は目にする景色とはまた違った情景を伝えてくれる。
確かによく見ると自然は春の装いの支度をしているように見える。

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2月24日(金) 山の辺の道 天気:曇りのち晴
山の辺の道に梅の花を撮るつもりで来たのだが、この寒さで里の梅の開花は例年に比べ大幅に遅れて
いる。花はまだ開かず固い蕾のままだった。去年の今頃はもう白梅は盛りの時期を過ぎようとしてい
たのに。
梅ばかりではない。椿も遅れている。やはり昨年の今頃、景行天皇陵から東に入った山中で「侘助」
の大きな樹を見つけた。その時は椿としてはやけに小さな花だなという程度の印象だった。後日その
花が有名な?「侘助」と知ってから、もう一度撮りたいと思っていた。今回改めて当時の記憶を頼りに
やっとの思いでその樹のある場所を探しあてたのだが、残念、これもまた固い蕾だった。

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山の辺の道を挟んで崇神天皇稜のすぐ東隣に櫛山古墳がある。この古墳は宮内庁の指定から外れてい
るので、ありがたいことに墳墓内へ自由に立ち入ることができる。しかも下草はきれいに刈り取られ
ていて、とても歩きやすい。里山の雑木林のようだ。
この古墳にはもともと周濠は無いが、墳墓の周りを取り囲む養魚池や水田があたかも濠のようにこの
古墳を守る。墳墓の内から見ると水田はまるで湿原のように見える。冬木立と重なり絵になってい
る。見通しのきく冬ならではの風景だ。

 s-P2240146渋谷町農家庭先.jpg s-P2240155割大根.jpg
 

崇神天皇稜と景行天皇陵の間に柳本町の集落が広がる。その集落に、山の辺の道を歩くとき必ず立ち
寄ることにしている一軒の農家がある。黒色のトタン板に覆われた茅葺屋根を持つ旧い家である。奈
良ではそれほど珍しいものではないが、都会ではけして目にすることはできない情緒あふれる家なの
だ。
その軒先に何やら白い簾のような何かが吊り下がっている。丁度買い物から帰って来たお母さんに聞
くと「わりぼし」と教えてくれた。大根を割って(縦に切って)干したものである。家に帰ってから調
べてみると、大根の産地では当たり前の一品のようだが、見るのも聞いたのもこれが初めてのことで
あった。

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 山の辺の道沿いの無人店舗 猫柳の花芽が春を告げる

2月25日(土) 田原本町 天気:雨
朝から雨。国道24号を唐子・鍵遺跡に向かう。田原本町(たわらもとちょう)に入る少し手前で大和川
を渡る。渡るといっても川幅10mにも満たない細い川にかかる橋である。
しかしこの川の両岸は枯れた蘆か葦に覆われていてなんだか郷愁を誘う魅力的な景色に感じた。車を
降り、堤防道を歩いて戻る。晴れていればこの川の先に大和の青垣と言われる山々の連なりが見える
はずである。山並みを入れるのは又の機会にするとして、とにかくシャッターを切る。

 s-P2250168大和川冬景色.jpg 

 2月26日 西ノ京 天気:曇り時々晴
ひどく寒い朝。平城京跡に寄ってから西の京へ向かう。山の辺の道では蕾でしかなかった梅が薬師寺
ではすでに花開いていた。山の辺と比べてもそれほどの高度差があるわけではないがそれでもここら
は幾分暖かいのか、こんなに蕾が開いている。
とりあえず梅の花を写真に撮った。今回の奈良の旅はこれで終わり。

 s-P2260271薬師寺の白梅.jpg s-P2260288紅梅薬師寺.jpg 




 
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2012年02月07日

残柿あるいは木守柿 冬の季語に写真

崇神稜の近く山の辺の道の傍にかつては果樹として栽培されていた大きな柿の木がある。いつもは足
もとを見ながら通り過ぎる階段道だが、今日は瑠璃色の冬空を背景にしたこの残り柿が目に入った。
どこか心惹かれるものがあって撮った。

 s-PC149800冬木.jpg
 「残り柿のある道」

俳句の冬の季語に「木守柿(きまもりがき)」という語があることを、最近よんだ句集で知った。
「木守」とは木の番人、木に残しておく果実、最後に残ったもの。本来は人が意識的に残した柿の実
をいうが、今では「木の上に残った柿」を指すようになったと。
「木守柿」なか含蓄のある語だと思う。残された柿に「来年も実るように」という、人の思いが込め
られていたとは。※「残り柿」も冬の季語に分類される、らしい。

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 「山里の木守柿」

この一枚は奈良市に向かう名阪国道の途中、山添村で撮った一枚。
稲田の畦道や山里に独り立つ赤い実を残した柿の木はいかにも田舎らしく風情豊かに感じる。柿は今
では全世界で栽培されていると聞くが、茅葺屋根に柿の木といえばいかにも日本の原風景のようで写
真の素材としても魅力的。こちらは「木守柿」を(タイトルに)加えてみたくなる。

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 「冬木立かすむ」

霞といえば春のイメージが強いが「冬霞」は言うまでもなく冬の季語。奈良盆地はその地形が故に霞
のたつことが多いと思える。
奈良県出身の歌人前川 佐美雄(まえかわ さみお1903 年2月 5日〜 1990年7月15日)に
「春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ」
という歌がある。霞なのか靄なのか霧なのか天気は良いはずなのに遠く近くが白くかすんでしまう日
が奈良ではほんとうに多い。
たださすがに真冬の間は曇り日が多いものの霞はたたない。冬霞は寒さがわずかに緩んで、なにかど
こか春の訪れの近さを思わせる時季に発生する。同じ霞でも、景色そのものはいまだ冬景色そのまま
である。
 
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 「雲走る冬枯れの水辺」 

最後の写真、山の辺の道沿い桜井市の檜原神社近く車谷の溜池を切り撮ったもの。
「雲走る妖し水影冬の空」。さてこれにはどんなタイトルをつけようか。
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2011年09月21日

曼珠沙華を撮るということ

曼珠沙華の花を撮りたいと思うようになったのは、細見綾子の奈良百句の中の
『寂光というあらば見せよ曼珠沙華』という一句を知って以来のことである。
法隆寺で詠んだ句とのことだがそこに咲いた曼珠沙華の花を見てのことではないという。なにか閃く
ものがあったのだろ。
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この句を知って以来それまで避けて通っていた、忌み嫌っていた曼珠沙華の花に強く惹かれるように
なった。曼珠沙華の花を嫌っていたのは子供の頃に専ら近くの寺の墓地でこの花を見ていたからだと
思う。まるで造花のように毒々しい赤い派手な造りの花と冷たく白く光る墓石の不気味さとが合いあ
わさって、子供心にも死後の世界、なにか恐ろしい花と感じて遠ざけていたのだと思う。

斉藤茂吉は随筆「曼珠沙華」に、古来日本人が曼珠沙華を好まなかった訳を書いている。
『一体この花は、青い葉が無くて、茎のうえにずぼりと紅い特有の花を付けているので、渋味とか寂
びとか幽玄とかいう、一部の日本人の好尚からいうと合わないところがある。(中略)この花は、死人
花、地獄花とも云って軽蔑されていたが、それは日本人の完成的趣味に合わないためであっただろ
う。』と。なるほど、そのように考えたことは無かったが、確かにアンバランスというか不自然であ
る。
だが斉藤茂吉は『直接法に無遠慮にあの紅い花を咲かせている。そういう点が私にはいかにも愛らし
い。』と擁護しているのである。

 s-P9187660天上の花.jpg

細見綾子にせよ斉藤茂吉にせよ俳人や文学者の感性はほんとうに素晴らしいと思う。以前から思って
いることだが、俳人の感受性と写真家の感受性というか閃(ひらめ)きという面は創作への入り口とい
う部分に関してとても似ていると思う。しかし俳人は具体的に言葉で心情や情景を描写するという点
ではより鮮鋭でなくてはならないのかもしれない。

 s-P9207842曼珠沙華.jpg

『寂光というあらば見せよ曼珠沙華』
作者がこの句に何を意図したのか忘れてしまった。曼珠沙華の持つ仏教的意味合いをそして、「常寂
光土」のことであろう「寂光」を写真でどう見せられるか、今では曼珠沙華を撮る上での狙いであり
目的となている。


◎追記 23年9月28日 細見綾子「奈良百句」曼珠沙華

『寂光というあらば見せよ曼珠沙華』 
 法隆寺へ行くと宝物殿の「玉虫の厨子」をいつも見ることにしている。
黒く小さなこの厨子は何回か見たということで親しい。厨子を見たあと、
中庭を見下ろすと曼珠沙華が群生して咲いているのを見つけた。建物と
建物の間の見落とすような空地に。
 こんなところに曼珠沙華が咲いている、と少なからず驚いた。曼珠沙
華はいつも驚かせる花、九月のはじめの雨後に突如と咲きでて、色の鮮
やかさ、火炎のような花形のおもしろさは類がない。
 しかし法隆寺の曼珠沙華には驚いた。初秋の夕日がさしていたからか
もしれないが、花の色はすこぶる朱色がかかっていて、寂光という言葉を
連想させた。寂光というものがあるならば今ここで見せてほしい、とこ
い願った。
 人はそんな所に曼珠沙華が咲くはずかないという。まさしく咲くはず
のないところに咲いていた。
(曼珠沙華 昭和十五年)
細見綾子「奈良百句」1984年11月30日発行 株式会社用美社 転載




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2011年08月30日

奈良の夏 道端を飾る花たち

葛の花
入江泰吉氏の写真集で「くず」の花を見てから気になっていた葛の花、三年目にしてこの夏、初めて
撮ることができた。

葛は日本では何処にでも見られる「雑草」と言ってもよいごくごく普通の植物で、道路の法面や畑の
周り、野原や川原、山野の荒地にどこにでも繁茂する多年草。学名を”Pueria lobata”と表記す
るが、このlobataを思わず「路端」のことと勘違いしそうだ。本当はPueraria(クズ属)lobata
(浅裂した)の意味で、葉の形を表している。
しかし実際にそものを見てもそれが「葛」の葉と言い当てることができる人は少ないのではないか。

 s-P8287520葛.jpg

その旺盛な成長力・繁茂ぶりに今では有害植物とか、日本から移入された北米では侵略的外来種に指
定されるほどまでに嫌われてしまったが、本来は有用な植物である。
和名の「葛」は、かつて大和国(現奈良県、吉野郡吉野町)の国栖(くず)が葛粉の産地であったことに
由来する。葛餅や葛切は奈良漬とともによく知られた奈良の名物で土産店には必ず並んでいる。
また葛の根を干した葛根(かっこん)は漢方薬(生薬)としてよく知られている。蔓(ツル)はロープの代
わりとしてよく使われていたという。

奈良の山野を歩くと葛はいくらでも目にすることができる。特に放置された田畑には余計に生い茂る。
今も農林業が主要産業である奈良県だが、平成の時代に入り従事する人の高齢化や農業離れ(嫌い)に
より山際の田畑は至る所荒地化しすっかり葛に覆われてしまっている。

しかし地を這うように広がる葛だがその花を目にすることは難しい。見られる機会に恵まれない花と
言える。それというのは、多くの場合、花は葛の広い葉の下に隠され咲いていてもなかなか人は気づ
かない。でも今頃の季節、晩夏から初秋にかけて道端の樹木やフェンスに絡んで延び上がった蔓(つ
る)を目で追ってゆくと、ところどころぶら下がるように咲く紫やえんじに色付いた葛の花を見ること
ができる。砂埃を被った山野や道端の藪のなかで見るとなにか場違いなような、景色に馴染まない派
手な花である。

 s-P8277346葛.jpg

万葉集には21首の葛の歌が登場する。葛の花を詠ったものは山上憶良の
「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 おみなへし また藤袴 朝顔の花」
の秋の七草を並べた一首だけで、他は葛の延び拡がるパワーを描いたものばかりである。葛の花に関
して云えば万葉人の美的感覚にはそぐわない花だったようだ。

秋の七草に取り上げられた葛の花であるが、絵画の世界でもあまり顧みられることの無い花のようで
ある。日本人の美的感性にそぐわない花なのかもしれない。
俳句の世界では、正岡子規の「葛の葉の吹きしづまりて葛の花」の一句が代表的な(好きな)ものであ
るが、これは子規ならではの感性であり鋭い写生眼の所産である。

改めて、入江泰吉氏の「くず」と自分の写真を見比べと見たが。
入江氏の情緒にあふれた感性というか、写真眼に驚かされる。万葉人以後日本の画家、詩人にすら疎
んじられてきた「くず」の花を、写真家入江泰吉氏は柔らかくしっとりと写し込んでいるのである。
自分の写したものと全く質もレベルも異なる、美しい日本の「くず」の花が描写されていた。

 s-P8287421待宵草.jpg
 『月見草まだしぼまずよ朝散歩 (秋櫻子)』

待宵草
なんと情感あふれる名前だろう。宵(よい)とは日が暮れてまだ間もない頃で夜の入り口の時間帯。こ
の花は夕方に開いて翌朝に陽の光を浴びて萎む。子供の時分から見慣れた花でずっと「月見草」とい
う名前と思っていた。まあるく開いた黄色の花びらが満月を連想させることから全く違和感が無い。
ほんものの月見草の花は白色だが、残念なことに野原では自生できず栽培家の庭でしか見ることがで
きない一夜花である。
小説や短歌、俳句に取り上げられる月見草が「待宵草」と判断しても間違いあるまい。
竹久夢二が「宵待草」と書き間違えたために「待宵草」よりも「よいまちぐさ」としてよく知られて
いるという話はちょっと可笑しくも皮肉な話である。

 s-P8066868オシロイバナ.jpg 

オシロイバナ
この花も夜開性の草花だが、夕方近くの時間には開き始め、午前中咲いているのを見かけることもあ
る。園芸種で、道ばたや広場、公園や庭でもよく見かけるなど特に珍しい花ではないが、朝の早い時
間、日影に咲く青白いオシロイバナを見たとき、その幽玄な姿に心惹かれるものがあり、写真に撮った。

 s-P1210256ヒルガオ.jpg 

ヒルガオ
奈良の夏の山野は見渡すかぎり緑の草木に覆われ「緑色に染まる」という形容が何の違和感も無い。
酷暑の夏、野生の草の花を見ることは稀で、景色としても平板でなかなか写真を撮る気になれないの
がひとつの悩みである。
ヒルガオは道端でよく見かける花で、朝顔と違って午後も萎れることなく咲き続ける。薄桃色のどち
らかというと地味気な花だが、清楚な少女の面影を見るようで若い頃からの好きな花のひとつである。
地下茎で増え、一度増えると駆除が難しいため大半は雑草として扱われているヒルガオも、万葉時代
にはカオバナ(容花)と呼ばれ、カオバナと言うだけで容姿端麗な女性を思い出させる程美しい花と
された。古来日本人に植えつけられた美意識は今も僕のDNAの中に間違いなく配列されているようだ。

 s-P8287453鶏頭.jpg 

ケイトウ
生け花や仏花として使う目的で農家の庭先で良く栽培されているのを見かける。奈良時代シルクロー
ドを通って日本に入ってきた。根や茎は干した後にいぶしてネズミ除けに用いられると言うから、移
入当初は専ら害獣駆除を目的として広く栽培されていたのではないだろうか。

もう数日で9月。七十二候では処暑の次候で「天地始粛」とされ「天地はじめてさむし」と読む。よ
うやく暑さも静まる時季になったが、目に見える景色は未だ夏である。
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2011年08月02日

奈良西の京・三松禅寺


■三松禅寺の印象

 s-P8016750三松禅寺への道.jpg
 薬師寺から三松禅寺へ向う道

奈良市では珍しい禅宗(曹洞宗)の寺が西の京にある。
奈良県の北域は明治時代以前まで興福寺が実質的な領主として君臨しその政治力の影響か禅宗の寺は
数えるほどしかない。奈良市にいたってはこの三松禅寺が唯一の禅寺と言ってもよい。

 s-P8016771三松禅寺.jpg 
 目を惹く竜宮造りの楼門

三松禅寺の由緒は明確ではないが同寺のHPを見ると『行基菩薩によって出家なされた 法親王真恵宗寂
大師の建立であり、歴史的に極めて由緒ある 南都15箇寺中の万民富楽を念じられた勅願寺』とある。
行基(668年〜749年2月23日)といえば奈良時代、日本に禅宗が伝わる以前に生きた僧侶である。三松
寺が禅宗の寺となったのは『延宝7年 (1679年)に大和郡山城主・本多政勝公一族の士族寺と して
建立され、後世、松平、柳沢公などの武家の菩提寺とし・・・』とあるから江戸時代初期のことであ
ろう。曹洞宗の開祖道元が1244年永平寺の前身である傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を
建立してから四百年以上後のことである。

興福寺が絶対的勢力をほこる奈良市内に三松寺が創建できたのただただ江戸幕府の権威によるものと
考えられる。それも南都平城京のはずれ大和郡山との境が限界であった。
そもそも、座禅は東大寺の大仏様の専売であり、人が座禅を組むなどちょっとアレだったのかも。

 s-P8016764三松禅寺楼門.jpg s-P8016757仏足石.jpg
 
 竜宮造りの楼門階上の木彫りの像が来訪者を迎える 仏石足 釈迦の足裏のレリーフも信仰の対象 

三松寺の山門をくぐるとすぐに墓地が広がり、水子の供養塚が一際目立つ。墓地の中央に三松寺の本
堂と宿泊施設を備えた参禅道場があり社員研修の場としてまた座禅体験の場として地域社会に貢献し
ている。この寺は奈良で普通に見る寺院というよりも霊園および鍛錬・研修施設としての景観であ
る。 
 
■六条の森と奈良県立病院の移転に関しての私感 

三松寺の西に六条山とよばれる標高103mの山林が広がる。奈良市の市街地では珍しいまとまった緑が
残された場所だ。ここが県立病院の移転地として決定したのは今年六月のことである。また45年前に
計画されたものの頓挫している大和中央道の建設構想が再浮上した。
奈良市を車で移動していてつくづく思うのは、国道24号線の他に平野部を南北に貫く道路が無くとて
も面倒なことである。とは言え幹線道路の整備により市街地では貴重なまとまった緑地が失われるこ
とはそれも惜しいことである。

 s-P8016785福姫稲荷.jpg s-P8016789六条山神社.jpg
 六条山の守り神「福姫稲荷神社」と「六条山神社」の神殿 

奈良市民のこの問題に対する声はまだ聞こえてこないが、観光者(ストレンジャー)としてこの地を歩
き確かめてみたいと思った。
現地を踏破しての印象はこの緑が疎林というのだろうか意外に貧弱であること、また周囲が市街地と
して開発されたのに、六条山一帯だけが開発を中途半端に放棄終了されたことにより、逆にゴミの不
法投棄の場所になり、閉鎖放棄された建物も見られ著しく景観を悪化させている。
また南北の交通が未だ遮断されたままであることにより住民の移動の自由を妨げ、また生活に欠かす
ことのできない商業施設の進出・整備をも妨げ快適な住生活を阻害している。特に六条山周辺の道路
整備を伴わない無計画な住宅開発は、災害に弱い街として今後に憂いを残している。
 s-P8016809登弥神社参道入り口石灯篭.jpg s-P8016801登弥神社参道.jpg
 六条山の西端に座す「登弥神社」の印象

自分には関係のない土地のことではあるが、奈良市に平城京のあった頃のようにスッキリとした市街
地を建設できるのだから、病院の建設に先駆けて大和中央道の整備を進めることが良いのではと、思
うのだが・・・

 s-三松禅寺周辺地図.jpg
 西の京 三松禅寺と六条の森周辺地図 

<参考URL
>三松寺HP
http://www.aikinara.jp/sanshoji/sanshoji.htm
奈良県立病院移転 奈良市六条山
http://www.ac.auone-net.jp/~nara-koe/news91.html
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2011年04月14日

桜の花を撮るということは

桜の花真っ盛りである。染井吉野はもう花散る頃だが、これから開花期を迎える山桜も多い。桜は初
花からほんの十日ほどで花を終えるが、種類が多いだけに意外に長い期間花を見ることができる。

「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」

平安時代初期の歌人在原業平が詠んだ有名な歌だが、1200年を過ぎた今もこの「桜」に翻弄される人
の心変わることはない。ついには、桜なんぞ無いほうがいいといいたくなる気持はよくわかる。

s-P4133163山の辺の道山稜の桜.jpg s-P4072480井寺池四月七日.jpg
 「山の辺の道」衾田陵墓近くの桜      三輪山井寺池の桜

写真好きにとっても「桜」は、春、もっとも気になるモチーフだ。ゆったりと花見をするわけではな
い。とにかく写真を撮る、昔流に言えばフィルムに収めなくては安心できない。
目の前の桜が散りつくすまで心休まるということがない。

 s-P4102861東大寺桜窪の朝.jpg s-P4102906興福寺五重塔遠望.jpg 
 東大寺東塔跡の桜窪             大仏殿大屋根と興福寺五重塔遠望

西行の詠んだ「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」という歌があるが、とに
かく散る前に撮らなくてはならないと気が焦る。
更に、風に舞う花びら、地に水面に落ちた花びらをとり終えてやっと心静かに季節の移ろいを受け入
れることができる。この間「花」を楽しむなんていう余裕はない。

 s-P4102847東大寺転害門花霞.jpg s-P4102877二月堂湯屋桜花.jpg 
 東大寺転害門                 二月堂湯屋の桜

もっとも面倒なことは、桜ならば何処で撮ってもOKというものではない。
歌の世界に「歌枕」というものがあるように、写真の世界には「フォト枕」というものがある。例え
ば「吉野の桜」とか「根尾村の薄墨桜」とか「奥州・三春の桜」とかのことである。
自分にとっては、「山の辺の道」沿いとか「東大寺」あたり、大目に見ても「奈良」で桜を撮ること
が重要。

桜の時季は今年も残すところ十日間くらいだが、この十日間を逃すとまた来年まで待たなければなら
ない。桜の季節を迎えるということは楽しいような、息苦しいことでもある。
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2011年03月30日

奈良氷室神社のしだれ桜と巨大賽銭箱について

今年昨年、一昨年と比較して花の開花が一週間から10日ほど遅い。お陰でというのもおかしいが梅の
花が今でも見られる。
草木の開花は人間のスケジュールには合わせてくれないものだ。

 s-P3281809枝垂梅椿.jpg
 しだれ梅と椿 前田真三氏の写真に倣う

東北関東大震災もまさに人間の思惑どおりにはコントロールできない自然のわがままを見せつけられ
たというところだろう。東北地方でマグニチュード7以上の地震は起きないと学者は言い切って来た
のだが、自然はあっさりと浅はかな学者たちの予測を裏切ってくれた。しかしそれが自然の本来の姿
だと思い知らなくてはならない。

奈良・天理市の「桜まつり」は東北関東大震災を受けて夜間のライトアップを含めて今年は中止とな
った。二万人以上の人々が死に行方不明になっている今、当然のことかも知れない。佐保川「桜まつ
り」(4月2日、奈良市法蓮町の同小)は規模を縮小し、義援金を募るチャリティーイベントに変更
したと言う。募金の機会を増やすことはとても良いことだ。

 s-P3291912氷室神社枝垂桜.jpg
 氷室神社のご神木枝垂桜

しだれ桜で知られる奈良氷室神社に撮影に出かけた。なんと、桜樹の下にベニヤ板で造った巨大な賽
銭箱が二基置かれていた。去年まではなかった。氷室神社は春の花見の時期だけに限って沢山の人が
境内を訪れる。しかしだからと言って、ここぞとばかり初詣の神社みたいな賽銭箱を据え置くのは、
風流心に欠けるし、ちょっと時節柄なにか心ないというか、浅ましいことだ。念のため募金箱の断り
書きはないか探したが見当たらなかった。
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2011年01月27日

俳人武藤紀子氏 写真附句

「俳句的生活」の第八章「習う」第九章「友」の文中に長谷川櫂氏の俳友の一人として武藤紀子氏の
名前とその句が数点紹介されている。ビックリした。

「足ばかり見えて声降る松手入」武藤紀子 (功山寺句会)

数日前に自分が目撃したシーンそのままの句である。撮影場所は奈良国立博物館の向かい側にある国
際奈良学セミナーハウスの内庭でのことだ。道から門の中を覗き見たときに気になる光景だったの
で、断りを入れて写真を撮らせてもらった。もっとも素材として面白いが、自分が志向する写真とは
ジャンルが違うので、発表しようか、やめようか迷っていた写真だ。

※国際奈良学セミナーハウスHP http://www.nara-manabi.com/

 s-PC188173新春の装い.jpg

自分が撮った写真と同じ景色を、同じように俳句で表現した武藤紀子氏のことがとても気になってし
まった。分類すれば、俳句の世界では「滑稽」のカテゴリーに入れてもよいのだろうか。

長谷川櫂氏は、『この人は前々から恰幅のいい句を詠む人で、花は桜、魚は明石の桜鯛ではないが、
桜や松、鯛や鶴などという大きな題材を詠ませると素質と響きあうとでもいうのか、玉のような句を
吐く。』と言う。

「空海の水晶の数珠山桜」武藤紀子 (句集「朱夏」)

この「空海の」の句を読んで、一昨年春(09.04.23)に山の辺の道・長岳寺で撮った写真を思い出し
た。だが、空海が水晶の数珠をしていたかどうかが全く思い出せない。改めて写真を見てみると、確
かに左手に数珠を握っていた。

 s-P1110145長岳寺八重桜弘法大師像.jpg
 長岳寺鐘楼前にある空海立像

『俳句は言葉を生かすために切る。しかしながら、ただ切っただけでは俳句にならない。切りっぱな
しにしただけでは、言葉の持ち味がまだ十分に生かせていないからである。そこで一句にしようとす
るなら別の言葉と取り合わせる必要がある。言葉は別の言葉と出会い、互いに照らしあうことによっ
て初めてその味わいを存分に生かす』第三章「取り合わせ」(長谷川櫂)

晩春の寺、俳人は山桜咲く境内にいて空海の像見上げる。左手に握られた水晶の数珠が陽の光を受け
てキラキラっと輝いた。気だるい景色が一瞬にして変化した瞬間であったのだろう。「空海の」と一
呼吸おく、これが「切れ」。そして「水晶の数珠」と「山桜」という異質な言葉(モノ)の取り合わせ
の意外性が句をひき締める、ということであろうか。

『こうした言葉の取り合わせが何に似ているかといえば、音楽の和音ほど似ているものはないだろ
う。単独の音のままでは単調な音にすぎないが、それが二つ三つ同時に奏でられることによって妙な
る音色となる。この世界には和音によってしか表せない音があるように、ものともの、言葉と言葉の
取り合わせによってしか伝えられないものがある。』(長谷川櫂)

写真の「切れ」は連続性を断ち切り一瞬(特定の時間)を切り取ること、現前する景色のある部分を切
り出すことによる強調と思っている。また主題を強調する(補強する)ためのナニカを差し込むむとい
う「取り合わせ」の美学と思っている。
 
 表門の手水鉢.jpg
 「完璧な椿生きてゐてよかつた」 

武藤紀子氏の句集「百千鳥」に「完璧な椿生きてゐてよかつた」という句がある。
「生きてゐいてよかった」の表現は作者の個人的な動機によるものと思うがさて、生きていてよかっ
たと思わせる「完璧な椿」とはどのような「椿」であろうか。
一輪の花を指すのか、あるいは満開の花に覆われた椿の「樹」だったのか。あるいは・・・・・

俳人 武藤紀子 (むとう のりこ) 
昭和24年(1949) 石川県生れ。  宇佐美魚目に師事。「晨」「古志」同人。
 句集:『円座』『朱夏』『百千鳥』
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2011年01月26日

飯田龍太氏の俳句 写真附句

飯田龍太氏の俳句を知ったきっかけ
今、句集を読でいる。俳句にはまっている。
書店でたまたま目にした中公新書「俳句的生活」という本を読んで触発された。著者の長谷川櫂(はせ
がわ・かい)氏は句の実作者(俳人)であり、自句集も多く出され、他に入門書、随筆、解説書なも数多
く著している。
「俳句的生活」は解説書のような連作随筆集で、ご自身がスピンアウトして俳人となった経緯なども
簡単に紹介されていて、とても興味深く読めた。この本に紹介されている多くの俳人のうち、飯田龍
太、子規、蕪村の句集を続けて読んだ。

※Wikipedia 長谷川櫂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%AB%82


「俳句的生活」第一章「切る」は、昭和の俳人・飯田龍太の句と、柳生石舟斎が二人の剣士・吉岡清
十郎、宮本武蔵におくり遣った「芍薬」の茎の切り口にまつわる物語を媒介として、芭蕉はじめ著名
な俳人の句を紹介しながら、「句を切る」とはどういうことかを教えてくれる。


「白梅のあと紅梅の深空あり」(しらうめのあとこうばいのみそらあり) 飯田龍太

『目の前にあるのは花をつけた紅梅の枝々とその先に深閑として広がる青い空である。その景が現れ
る前には白梅が作者の眼中を占めていた。「白梅の」とまず白梅を出しておいて、その白梅から「紅
梅の空」への悠々と、かつ決然と果たされる転換は鮮やかとしか言いようがない。
一句のもたらす白梅と紅梅の幻影のすべてが「白梅の」といいかけて「あと」で軽くかわし、一気に
「紅梅の深空あり」と切り下ろす龍太の気迫の上に成り立っている。その終わりとなる「深空あり」
の切口の鋭さ、切れ味のみごとさ。
白梅、紅梅というおたやかであるべき花を描きながら、この気迫はどうしたことだろう。むしろ言葉
が鋭く切ってあるこそ花はいよいよたおやかなものとなるというかのようである。』(長谷川櫂)

 崇神天皇陵近くの紅梅.jpg

解説を読むまでもなく、この句「白梅のあと紅梅の深空あり」の十七文字を見てすぐ、鮮やかな映像
としてその景色は脳裏に瞬時に浮びあがった。俳句の「切れ」というものがいかなるものかもわかっ
た、と思う。同時に、飯田龍太という俳人をもっと知りたいと強く思った。

情けないことだが、自分は「俳人」の名前もまたその作者の句もまったくと言ってよいほど知らな
い。芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子など、授業で聞いた程度しか知らない。虚子についてはその代表
作すら知らなかった。まして昭和の俳人を知るはずが無い。

図書館にあった「俳句の現在T 飯田龍太集 昨日の徑」「飯田龍太文集 第二巻」の二冊を借り
た。同時に飯田蛇笏の「新編 飯田蛇笏全句集」も借り置いた(けど、旧字体が多くてまだ読む気になれない)。http://naranokoto.seesaa.net/archives/20110307-1.html 飯田蛇笏 写真附句

 s-PC310043一月の川.jpg

「一月の川一月の谷の中」(いちがつのかわいちがつのたにのなか) 飯田龍太

『この句は「一月の川」のあとで切れる。そこに「や」という切字はないが、「一月の川や」と言っ
ているのと同じことである。この句は「一月の川は一月の谷の中」というのとはまったく異なる。』
(長谷川櫂)
この句について作者は「自作自解八十五句」(飯田龍太文集第二巻)の中で、『幼時から馴染んだ川に
対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感したためである。それ以外に作者としては説
明のしようがない句だ。強いて云えば、表現に類型がなかったことか。』と説明する。
この鋭い切れは神がかった飯田龍太氏の一太刀なのか。

一月の川がいかなる景色なのかは自分の経験の中から想像するしかないが、深閑たる谷間を音もなく
流れ行く冷たく暗い川面が目に浮かんでくる。その景色を見ている自分がそこにいるように感じる。

Wikipedia 飯田龍太
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%A4%AA


 s-P1070212いろ定まれる.jpg
 「存念のいろ定まれる山の柿」

俳句に興味を持つ理由は、自分で句を詠みたい、というものではない。
奈良の写真を撮り始めてすぐに万葉歌を始め中世の和歌を知るよう心がけた。自分がいま現在感じ見
ている「奈良の景色」と、飛鳥・奈良・平安時代に生きた人々の見た景色、感じたモノを、比較する
というか、確認したいと思ったからだ。というよりも、万葉歌の感性を知りたいと思ったのだ。

俳句はその生成の歴史から、江戸時代以後のものと思っていたからこれまで遠ざけていた。しかし、
この頃では、五七五という僅か十七文字という言葉数で、景色、心象を巧みに捉える俳句は、短歌と
比べその作法が、写真的というか自分が写真を撮るときの直感や迫り方により近いものと思うように
なってきた。

飯田龍太氏の名前も作品もほんのせんだってまで知らなかったが、読みおえて今、俳句の「表現力」
と俳句が印象付ける(醸しだす)画像の鮮鋭さに驚嘆している。なにかすごい力を、風景と対峙すると
きの「心」を教えられたような気がしている。

飯田龍太氏の景色が目に浮かびあがる句が好きだ。自分がその景色の中にいるような臨場感のある句
が好きだ。その状況(景色)を強く感じさせる句が好きだ。ああそういう見方や感じ方もあるのだと教
えてくれる句の数々が好きだ。

 s-PC097998白菊に雨が降る.jpg
 「白菊に遠い空から雨が来る」

飯田龍太の句の中から自分の好きな十句と、長谷川櫂氏が取り上げていた句を、とりあえず記してお
く。またいつか、読み直し改めて選抜することもあるだろう。

飯田龍太「十句+α」
・ いきいきと三月生まれる雲の奥
・ 雪の峰しづかに春ののぼりゆく
・ 満月の冴えてみちびく家路あり
・ 昼の汽車音のころがる枯故郷
・ 山枯れて言葉のごとく水動く
・ 雪山のどこも動かず花にほふ
・ 春の雲人に行方を聴くごとし
・ 白菊に遠い空から雨が来る
・ 存念のいろ定まれる山の柿
・ 大寒の薔薇に異端の香気あり

・ 春の鳶寄りわかれては高みつつ
・ 白梅のあと紅梅の深空あり
・ 一月の川一月の谷の中


飯田龍太に関する興味深い記事
今週の本棚:池内紀・評 『龍太語る』=飯田龍太・著、飯田秀實・監修
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2010/08/20100815ddm015070018000c.html
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2011年01月13日

氷紋について 崇神陵周濠にて

崇神陵周濠で見た氷紋について

崇神天皇陵北側の周豪に氷が張っていた。この場所は小高い陵墓の陰になっていて陽が当たらないこ
とに加え、斜面に造られた周豪の中でも一番高い位置にあるので、水深が浅く水温が下がりやすくそ
のためここだけに氷が張るのだろう。氷が張るときにできる模様は「氷紋」とも言われる。気温、風
速、地形、水流、雨雪、水量などの影響によりその形はまさに千差万別。自然だけに可能な造形美で
ある。

 s-P1129034風氷結.jpg

この日見た崇神陵の氷紋は、右面と左面とでは全く形状が異なっている。右面は張った氷の表面が僅
かに解け、その上に降り落ちた雨の穿った穴や飛沫(クラウン)が散らばりそのまま凍ってしまったよ
うに見える。写真を拡大してみると、月のクレーターのようにあばた状になっている。左面は昨夜の
うちに結氷したものだ。この模様を見る限りでは、氷紋は風が創り出すもののように思える。それに
しても幾何学模様とも抽象模様とも言えない、カオスな模様だ。
読んだことは無いが、渡辺淳一の小説に「氷紋」というタイトルのものがあると聞く。あらすじは知
っているが、何故「氷紋」というタイトルなのか興味深い。

 s-P1129044地蔵.jpg 

櫛山古墳のお地蔵さま

崇神天皇陵東側にある櫛山古墳の土手にあるお地蔵様は、周りをすっかり枯れ草に囲まれお参りする
人もいない。春には桜が。夏は緑茂る小楢に覆われ、秋は燃える紅葉の下。繰り返される四季の移ろ
いの中でいつもいつもそこにある。なーんか少し感動させられてしまう、のは自分の揺れ動く心のせ
いか。

 s-P1129135蝋梅.jpg

ロウバイ

花の少ない厳冬のこの時季、一年の始まりに真っ先に咲き始めるのがロウバイ(蝋梅)の花。この木花
を初めて見たのは法事で訪れた義兄の寺(契珊寺/浜松)だった。樹高3〜4mの見事な樹姿である。寺
には多い花と思いきや奈良では殆ど見かけない。花の少ない厳冬の時季、茶花として重宝されるとい
う。もっと栽培されているものと考えていたが意外なことである。

実はこの花木、日本の在来種ではなく中国から渡来した。育つ場所を選びまた庭植えでは手をかけな
いと良くは咲かないという割と気難しいデリケートな性質なのだ。山の辺の道、桧原神社近くの車
谷・巻向川あたりで良く見る。また牡丹でよく知られる石光寺の蝋梅がこれもまたよく知られてい
る。生育環境あるいは細やかな愛情を注ぐことが肝心ということなのか。
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2011年01月01日

奈良公園「飛火野」の淡雪

奈良の市街地は12月30日の夜から雪になった。だけど、望んだような積雪にはならず薄っすらと地表
を覆う程度の淡雪に終わった。天気予報では、年明けも強い冬型の気圧配置で、奈良地方も雪のマー
クになっているが、この調子では内陸の奈良盆地までは雪雲は届かないだろう。
地元の人に聞くと、この数年積もる程の雪は降っていない。淡雪とはいえこの雪は、待ち望む人たち
には貴重なものになりそうだ。

 s-PC318514飛火野淡雪.jpg 

「飛火野」は奈良公園南端に広がる芝草に覆われた緑地帯。
若草山、春日山、高円山をぐるりと一望できる見通しのよい園地。四季をとおして奈良公園の中で一
番好きな場所だ。

飛火野の名前の由来には2説ある。
「一つは飛火が古代の通信施設である烽火(のろし)の意味であり、その土地である」というもの。
もう一つは「鹿島大明神が春日地にお着きになられたとき、八大尊様が光明のため口から火を吐か
れ、その炎がいつまでも消えず飛んでいる様に見えたことからこの名がついた」というものである。
いずれにしろ、この「とびひの」というどこか神秘的な響きを持つこの場所が好きだ。

 s-PC318542駆ける鹿の群.jpg

大晦日の昼前、いつも観光客でにぎわう東大寺もさすがに人影はまばら。時々吹く強い風に乗って粉
雪が流されてくる。講堂跡にも昨夜の雪がしっかりと残っていた。

鹿の群れが駆けている。雪を見て喜び駆け回っているのではない。心ない観光客のグループにしつこ
く追い回され、仕方が無く追いつかれない程度のスピードで走り移動しているのだ。歴史にも、宗教
という哲学にも敬意を払わない、知ろうともしない、餌もくれない人たちから逃れるべく。

参考URL
※奈良歴史漫歩 No.063  「春日烽と飛火野伝説」    橋川紀夫
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm066.html
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2010年05月08日

勘違い雨後のたけのこ

つい昨日まで「雨後のたけのこ」の意味を取り違えていた。
なぜ間違えて覚えていたかと考えてみると、小学校三年の時、国語の時間に先生が
「雨後のたけのこというのは、成長が早いということです」
と教えてくれたこと以来なのだ。それでこの歳になるまで50年以上のあいだ「成長の早いことの
例えなのだ」とそう思っていた。それが実は、「同じようなことが次々と起こったり、表れたり
すること」という意味だったとは、・・・少しショック。


竹くらべ.jpg


取り違えていた諺といえば「情けは人のためならず」もその一つ。
「自分のためだと思い、人にはやさしくしろ」という意味と知ったのは、これもそれほどの
昔ではない。
ずっと「人に手を貸してやるのはその人のため喜ばしくない、迷惑なこと」と理解していた。


 春竹林.jpg


文字を取り違えていた諺もある。「そで振りあうも他生の縁」の「他生」を「多少」と思って
いた。「人との出会いを大事にしなくてはならない」という意味は、おおよそ理解していたが、
とはいえ「他生」と「多少」ではその重みがというか諺の次元が違う。


朝筍.jpg


たけのこが、雨後に一際多く生え出てくるのがほんとかどうかは知らないが、この時季の竹林を
歩いてみると、次々と地中から顔を出しているたけのこに驚かされる。
農家もあまりにも次々と出てくるたけのこには困っているようだ。全て掘り起こして市場に「筍」
として出荷することも出来ないのだろう。
伸びるがままにしておくわけには行かないので、20cmから30cmくらいの大きさのたけのこを、
根元から切り倒して、その場に捨てておく。かたちの良い筍を来春も収穫するために、親竹の数
を制限しているのだ。
竹林の中を「番傘をさして通り抜けられる」くらいの竹と竹との間隔がベストという。
※番傘の直径は約110cm。


寺荒廃竹林.jpg
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