2013年01月25日

奈良の石仏を巡る―F首なし石仏

首のない石仏
首のない石仏を初めて目にしたのは二年前のこと、般若寺から中ノ川に抜ける旧伊勢街道の途中に出会った。首の無い胴体だけの仏像は不気味。人けのない、寺でもない場所にこのようなものが祀られていることが不自然でなにか緊張した。後で「石龕仏(せきがんぶつ)」と呼ばれているものと知ったが、天井と左右後ろを石板で囲んだシェルターのような厨子のようなものの中の石仏を見るのも初めてだったので余計に不気味に感じたのだと思う。

s-PC087883首のない石仏.jpg

首のない石仏は国内各地に見られ特に珍しいものではなく、その後寺の境内、墓所、道ばた、野山でもよく目にした。だけど本来あるべき頭を持たない石仏はなにか気持ちが悪くて、何度見ても慣れることができなくて目をそらしてしまう。以来写真は撮らなかった。
首の無い石仏は珍しくない言っても、創られた当初はもちろん五体満足だったはずだ。では何故首を失ったのだろう。多くは廃仏毀釈の時に打ち落とされたとする説を聞く。そういうことは十分考えられるが、上の写真の地蔵石仏は江戸時代にはすでに新しい首にすげ替えられていたことがわかっている。

s-PC087881首のない仏.jpg

佐渡地方では、願をかけて石像地蔵を寺に奉納し、願が叶ったらその首を切り落とすという風習があると聞く。何とも過激というか思い切った風習があったものだ。仏像というものは頭を落とされても腕を切られても法力というか霊力は変わらないらしく、痛わしいことに姿かたちが変わってもそれまでどおり拝まれ、祀られる。お地蔵さまもたまったものではないと思うが、そこがそれ仏のすごいところなのだ。

仏のサイン
下の写真は御所市の舟宿寺に近い墓所の入り口で撮った。指さきが欠けてしまっているようで分かりづらいが右手は施無畏印(せむいいん)のようで左手には如意宝珠を持つ。
この像、実は首が無い。それならばと思い切って肩口でトリミングした。いまだ首の無い仏像を撮るのに抵抗を感じる。

 s-PB223144顔のない仏.jpg

台座に彫られた「法界」の文字は、全宇宙、全存在を意味し、地蔵菩薩が現世だけでなく、あの世のあらゆる場所に救いの手を差し伸べる事を表していて地蔵の台座にしばしば認められる文字。正しくは「法界万霊」か。
施無畏印は手のひらを前に向け胸の辺に上げて「恐れなくていいよ」と相手を励ますサイン(印相)とのこと。現代においても手のひらを相手に向ける行為は、「あなたの味方ですよ(=敵意はありません)」というボディランゲージだが、仏像のポーズというものは現代人に通じる意外に明快なものかもしれない。

似た者どうし お地蔵さまとドラえもん
ついでに、如意宝珠は日本の「打ち出の小槌」、西欧の「アラジンの魔法のランプ」のようなもので思うままに願うこと総てが叶えられる「珠」のこと。さしづめ現代ならばドラえもんの「四次元ポケット」というところか。ドラえもんは未来から来たネコ型ロボットだが、人間の願望や欲望という視点から捉えれば35件ものご利益を叶えてくれるお地蔵さまと四次元ポケットを持ったドラえもんとは親戚のようなものだろう。時代は異なっても人の思いはあまり変わらないようだ。
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2013年01月23日

奈良の石仏を巡る―E般若寺境外墓所の焼け仏

写真の石仏は旧般若寺墓所に残る焼け仏。般若寺は、1567年東大寺大仏殿の戦火により楼門と経堂を残して主要伽藍のすべてを消失した。建物とともに堂内仏も灰燼に帰したが、墓所の石仏たちは残った。激しい炎火に焼かれ岩肌は煤で赤黒く変わり果て、光背は頭上のあたりから左背面にかけて割れ落ち、ついに足元で破断し、倒れた。

 s-PC098081奈良坂の焼け仏.jpg

広島の原爆資料館館内に原爆の熱線で表面が焼けただれた石仏の頭部が展示されている。投下された原爆の熱線は爆心地で3000〜4000度になった。人間は一瞬にして炭となった。
 展示された石仏を見て人は、原爆の恐ろしさを我が身に置き換えることができるだろうか。

『あんたさんも大変だったな。熱かったろ。さすがにもうあかん、一巻の終わりと思ったんと違うか。なのにまた引っ張り起こされて、相変わらず人の祈りやら願い事を聞かされて、もうかなわんと思ってるのとちゃう。どう、人の気は知れないよね。そんな傷ついたまんま立たされて。ちょっとお化粧したからってなんにも隠せはしないのに。あっいやー、これが自分の勤めですってか。そうかあ、いや失礼しました。 』ホトケ 黙して語らず。南無

 若杉慧 「野の仏」より抜粋
  人間であり仏であるもの
  石であり石でないもの
  何かのはずみに生れ出たもの
  そこに在るゆえ ただそこに在るもの
  空にして永遠なるもの
  原水爆といえども灼くことのできないもの
  (以下略)
 
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2013年01月22日

奈良の石仏を巡る―D王龍寺の異形地蔵石仏

 写真の三体の石仏は奈良市の王龍寺で出会った。右の二つはよく見かけるお地蔵さまを彫った墓標仏。しかし左の一体はなんだろう。なんともユニーク面貌だ。異形と言っても良い。中学生の頃図工の時間に彫ったモアイ像を思い出す。これは専門家が彫ったものとは到底思えないが、涎掛けの下の方に見える衣紋は僧衣の裾に見えるし、加えて丸めた頭というスタイルから考えると地蔵菩薩像を模したものであろう。
随分デフォルメされた像だなと思っていたが、繰り返し繰りかえし見ているうちにああこれは赤子の顔じゃないかと思えて来た。そう赤ん坊の寝顔なのだ。

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 ところで地蔵信仰におけるお地蔵さまとこどもの関係というのはちょっと冷酷というか非常識的に思える。親に先立って死んだという罪であの世とこの世の狭間で石積みをさせられる幼子たち。そこに地獄の鬼が現れて、積み上げた小石の塔を鉄棒で崩してしまう。子らはなおもこの世の親を慕って小石を積む。だがまた鬼が現れて・・・・・。するとそこにお地蔵さまが現れて「今日より後はわれを冥途の親と思え」と抱き上げ鬼の責め苦から子供らを救うという江戸時代に創作された「賽の河原地蔵和讃」の中にある話だが。
 親に先だって死ぬことをその子の罪であるとするような考えを現代人がストレートに受け入れるとは思えないが、幼いわが子を失い深い悲しみの中にある親にとって、あの世に去って行ってしまった我が子をお地蔵様が救い導いてくれると聞けば、お地蔵様にそうお願いしなくてはという気持ちになるだろうことは理解できなくもない。

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 このモアイ像のようなお地蔵さまは、王龍禅寺の仏塔に祀られた無縁仏の中の一体である。生後間もなくしてあの世に旅立った赤子は一人前の葬式をするとあの世でいじめられると言われ、はなから無縁仏とする地方もあると聞く。この独特なデザインから推すにこの地蔵石仏は戦後あるいは平成のものとも思える。首にかけられたフリルのついた真新しい涎掛けは、亡くした子を今も偲ぶ年老いた肉親の手向けなのか。
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2013年01月21日

奈良の石仏を巡る C明日香村岡寺の小石仏 

如意輪観音思惟像

岡寺本堂から裏山の奥之院に向かう参道のところどころに小ぶりの石仏が安置されている。写真はその中の一つ思惟像である。なんとも蠱惑的なお姿である。
「およそ仏を象(かたち)どったものに美醜の区別などあろうはずがないという私の思想と強く矛盾するが、写真としてながめるにはやはり美しくあっていただきたい。美しくあればこそ拝む気にもなる外道の心を捨てきれない。」若杉慧の言葉であるが、同感である。

 s-P5046338岡寺ぼろ思惟像.jpg

この石仏の、涎掛けを外した裸像の写真を見たことがある。野仏には珍しい赤みを帯びた石材は肌の色を思わせる。上半身はもちろん裸体である。実にエロチックに感じた。
ところでこの石仏の涎掛けだが、うっすらと緑色の苔がつき、まるで襤褸(ぼろ)をまとっているように見える。せっかくの美形が台無しではないかとモノ申しそうになったが、待てよ、お釈迦さまが出家し修業していたときに身に着けていた服は道に捨ててあった一枚の襤褸切れであった。するとこの菩薩さまも如来になるべくただ今修業中の身ということとなれば・・・そうか、目をつぶろう。

ところでこの岡寺の魅力的な小石仏だが、2012年4月30日何者かに持ち去られ現在も行方不明である。ちなみに像の高さ約30センチ、 重さ約3キロ。同寺は奈良県警橿原署に被害届を提出。同署は窃盗容疑で捜査しているというニュースをこのたび知った。どういう魂胆で持ち去ったかは知らないがあんまりではないか。情けない。

道祖神の盗み

 s-P9243911高樋町の田の神さん.jpg

余談だが、長野県中北部の安曇野では「北向きの道祖神をぬすむと福がくる」という言い伝えがあった。しかも道祖神ぬすみのことを「嫁入り」と称して頻繁に行われていた、つまり半ば公然と行われていたということのようだ。
また鹿児島県や宮崎県の旧島津領には「他部落から田の神を盗んで祭ると豊作になる」という「田の神オットイ」という習俗があった。そしておもしろいのは、田の神がオットラレル時には神様自身か、オットイに来た他部落の人が置手紙をすることになっており、帰る時もやはり手紙をよこしてからというのだ。なんともユーモラスな話である。
盗まれた部落は捜索願とか盗難届などはもちろん出さない。部落間のいざこざに発展させない。あえて罪人をつくらないという農民たちのおおらかな知恵を感じる。
 上の写真は奈良市高樋町にある清澄の里 粟 の玄関前に飾られている田の神、たのかんさんです。さてこちらの田の神さんお嫁入りされて来たのでしょうか、機会があれば聞いてみたいな。



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2013年01月20日

奈良の石仏を巡る―B法蓮町の大日如来坐像

 写真の大日如来坐像は興福院から不退寺へ向かう奈良歴史の道の途中に出会った。小道の曲がり角、竹藪に隠れるように鎮座している。一間四方くらいの狭い地所だがかつては小さなお堂でも建っていたのだろう。このあたり奈良時代には平城京に居住する貴族の別邸が立ち並び、すぐ近所には日本最古の図書館芸亭(うんてい)があったことが知られている。この佐保町一帯は今も奈良市山の手の高級住宅街だが、そんな場所に知の仏である大日如来の石像が人知れず祀られていることに妙に納得させられる。奈良の街は今も古き歴史の中にある。
 聞くところによると大日如来は他の如来や菩薩に比べてあまり人気の無い仏さまらしい。特に庶民の間ではからきし人気がない。人気のない理由として、真言密教の本尊であるからとか、情に薄い、あるいは仏の最上位にあって近寄りがたいからとも言われている。

s-PA278691大日如来石像.jpg

 理由はともかくたしかにこの像に限らず大日如来は写真を撮っていても楽しくなれない、面白くない。この仏さま、人が近づかないようにと目には見えないバリヤーというか結界を張って人とのかかわりを拒絶している、ように自分は感じる。恐らく胸の前で合わされた両の手、これは智拳印という形(印相)だがこれがポイントなのかも知れない。今彼は人にも解るようにサインを出している。私は今自我の境地に没頭していて人ごとにかまっている閑はないよ、と。まっ、そんなところだろうか。
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2013年01月19日

奈良の石仏を巡る― A慈恩寺の不動明王像

「奉納 昭和四年三月廿八日 願主二才 新口××」

亡くなった子の供養か、あるいは病魔に侵された子供の回復を願う親が奉納したのか分からないがいずれにしろ幼児の姿を模したお不動さまを見るのは初めてだ。
剃髪した頭を見て一瞬お地蔵さまかと思ったが右手に剣を、左手に羂索(けんじゃく)を持ち背中に火炎を背負う姿はやはり不動明王にちがいない。
それにしても細い腕手と裳裾から覗く両足のきゃしなことよ。まさに一歳くらいの幼児の体型に見える。それに反して吊り上った鋭い目、物言いたげな口元は幼児のものとは思えない、まさに憤怒に燃える不動明王のものだ。

s-P4265647慈恩寺不動明王.jpg

この像を初めて目にしたときには創りの稚拙さばかりに目がいったが、画像をよくよく見ているうちに不憫な幼子を思う肉親の想いがひしひしと伝わって来た。不幸にして子を亡くした親の気持ちは自分にもよくわかる。その子が不憫であるとともに、命を生かし続けてあげられなかった申し訳なさにそして自責の念に強く苛まされるのだ。一生忘れることはできない。
この像は桜井市慈恩寺の赤井谷不動で写したもの。境内を埋める花椿でよく知られる玉列神社(たまつらじんじゃ)裏手の山中に佇む不動堂前の祠にひっそりと祀られていた。
供養にお地蔵様ではなくてお不動様を選んだのは何故だろう。助けられるのではなく自分の力であの世を生き抜いてもらいたいと願う親心からだろうか。
この石像、できるなら祠から出し天空のもとに置いてほしい。奉納されてから80年以上の歳月を越しているのにまるで昨日今日創られたものとしか思えない。雨風に晒され年を追うごとに穏やかな相貌に変わって行く方が幸せではないか。想念とともにいつか自然に還って行けばよい。いつまでも物言いたげな憤怒のままでは子も親つらくはなかろうか。
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2013年01月18日

奈良の石仏たち

元興寺境内のお地蔵さま
奈良で初めて撮った石仏の写真。2005年の夏。桔梗の青紫色の花と地面から茸のように生え出た岩片群の不思議な調和に心惹かれ撮った。
元興寺の中庭に展開する石仏群を浮図田(ふとでん)と言う。これは石塔・石仏(浮図:ふと)類を田圃のように並べた中世(鎌倉・平安時代)の供養形態とのこと。墓地の整理のためにピラミッドや雛段状に無縁仏を積み上げた今どきの供養塔や仏塔とは拠りどころが異なる。浮図田という呼称は他では耳にしないから専ら元興寺に限って使われていると思うが、同様の石仏群は奈良の郊外で幾つか見たことがある。

 s-奈良 018元興寺石仏群.jpg

毎年8月23日と24日の夜にはここに約3千個の灯明がともされ有縁・無縁の霊を弔う地蔵会が催される。写真で見た限りでだが、黄昏時の夕空を背景に地面に置かれた無数の灯明に浮かび上がる石仏群とそこに手を合わせ拝む人々のシルエットはなかなか幻想的だ。
※元興寺地蔵会  http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/gyouji/jizoue/jizoue.htm

奈良市鹿野園町の石仏群
鹿野園(ろくやおん)の由来は、奈良時代752年東大寺の大仏開眼法要の導師を勤めたインド僧菩提僊那(ぼだいせんな 婆羅門僧正とも呼ばれる)によって、故郷インドの仏教聖地サルナートにちなんで名づけられたといわれる伝説の地。
この町のすぐ南に飛鳥時代の古代寺院である古市廃寺、横井廃寺、塔の宮廃寺跡などが点在する。また町の真ん中を県道80号奈良名張線の旧道が東西に走り、かつて鹿野園が山の辺の道と交差する古代要衝の地であったことをもうかがい知ることができる。今この町を歩いてみてもそれらしき名残はどこにも認められないが、古代の鹿野園は立ち並ぶ多数の堂塔(浮図)を望み見る仏教聖地サルナートの景観を呈していたに違いない。
写真の石仏群は鹿野園町の北はずれの道沿いで見つけた。小高い丘状になっているが生垣に隠されるように囲まれ、ややもすると見逃してしまいそうだ。30p程度の小石仏が西向きに斜面を覆いつくすように立ち並び、処々にお地蔵様や板碑が立つ。元興寺でみた浮図田(ふとでん)に似た構図である。背後に高円山を望むこの物寂しい場所に石仏とともに独り居ると自分自身が一体の石仏であるようなそんな気持ちに陥る。

 s-PB299483鹿野園町古墓地.jpg

奈良で写真を撮るようになってからというものこれまで無数の仏像と出会った。堂内の古仏や道沿いの祠の小像、野辺の石仏など。しかし宗教心のない自分は仏像に対面しても手を合わせ祈ったことはない。なにかをお願いする気持ちはないし、何を祈ったら良いのかわからないのだ。それなのに今もお寺を巡り墓場に足を踏み入れ、野仏を追い求め彷徨っている。一体自分は何をしているのだろう、いつもその行為がなにかに矛盾しているような、後ろめたい気持ちを振り払うことができない。寺の門をくぐり、野の仏を探し回りその写真を撮るということは自分にとって何なのだろう。
何も願わない、そしてただ無心に手を合わせる、そんな瞑想に似た祈りのかたちのあることを最近知った。はたして自分はそれをするだろうか。時々思う、ことによると自分の心はすでに仏教の縁辺に取り込まれているのかも知れないと。ミイラとりがミイラに・・・
奈良鹿野園の名前について http://naranokoto.seesaa.net/article/165297546.html
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2011年01月07日

当尾の石仏の道 随筆「石佛の里にて」室生朝子


「随筆 石佛の里にて 室生朝子」昭和五十三年七月十日 初版発行 株式会社鎌倉書房より抜粋

 s-P1058710当尾石仏の道.jpg

『岩船寺から浄瑠璃寺までの当尾の石仏の道を私は再び訪ね歩いた。
(中略)細い道を岩船寺の裏側に曲がる。いよいよ石仏の道に入ったのである。(中略)下りきった所の
薄の群れの間の細い道を左に曲がると、急に視野が広がった。左手の小さな丘の上に「わらい仏」が
春近い真っ青な空の中に浮き出た。瞬間私はなんともいえない心の揺らぎを感じた。観世音菩薩、阿
弥陀如来、勢至菩薩の三像である。

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白っぽいかたい巨石は扇を広げたように聳えていた。その巨石に栗形に形どられた中の仏たちの顔
は、穏やかな笑みをたたえていた。(中略)永仁七年(1299年)二月の銘がようやく判読できた。鎌倉時
代の宋の人、伊行末の系統伊末行の作である。末行は何を願いながら、見る人に感動を与える笑顔の
仏たちを彫ったのであろうか。彼は自分の願い事がかなえられたその御礼の心の現われとして、笑顔
の仏たちを彫り刻み、自らの喜びを表現したのではないか、と私は正面の枯れ草に腰をおろし、ぼん
やりと大分の時間を此処で過ごした。

 s-P1058767笑い仏.jpg 

(中略)石仏の顔は見るものの目、心の持ち方で単に「いいお顔の石仏だ」というばかりでなく、ある
時はほほえみかけるように見える石仏もある。だが、最初から笑い顔の構図を考えついた末行の、し
かも巨大な自然がまたより美しい仏たちに調和しているあたりも心にくい。いずれにしても人の及び
難い仏達を残していってくれたものである。〜 』

 s-P1058754冬道.jpg 

『見晴らしのきく坂を下ると、五辻の田ん圃の中に出た。「からすの壷」と呼ぶ阿弥陀像と地蔵菩薩
が、桃形にくりぬかれた石に彫られ、崖にへばりついていた。右側に線彫りの燈篭があったが、灯入
れだけ石がくりぬかれている。このような燈籠は珍しいのだそうである。この仏たちは山道からそれ
て真四角な田ん圃一枚隔てた岩に彫られている。従って、見る人やカメラマンは田ということを忘れ
て、そばまで行って仏たちのお顔見るのである。この田は中本さんの持ち田だが、どれだけ土をたが
やしても、すぐ人に踏みかためられて、田ん圃にはならないそうである。
「もう、あの田一枚は思い切りました」と奥さんは言ったが、大事な田は人々のために犠牲になって
いるのである。

 s-P1058774からすの壷双仏像.jpg s-P1058780からすの壷阿弥陀如来坐像.jpg

(中略)浄瑠璃寺に出るまでは、変化の多い山道であった。今日は多勢の人たちに会わなかったが、鳥
の声を聞きながら、自分勝手な空想にひたれる石仏との時間が、もし誰かに入り込まれたら、また印
象は少なかったかもしれない。忘れられない微笑の三尊仏の表情を、私は自分の日常生活にもいれ
て、いつも和やかなひとでありたい。

 s-P1058744巡礼道.jpg 

「随筆 石佛の里にて 室生朝子」昭和五十三年七月十日 初版発行 株式会社鎌倉書房室生朝子
 大正十二年(1923)東京生まれ 室生犀星の長女 2002年(平成14年)6月19日死去 

※自分が当尾の里を訪ねるきっかけになったのは、写真家入江泰吉氏の写真集「入江泰吉の世界やまと
余情」に掲載された「唐臼の壷二面磨崖仏」(1977)の写真を見てのことである。
09年6月16日、田植え後の稲がちょうど写真と同じくらいに育っている時期だろうと予測して訪れた
のだが。しかし、からすの壷磨崖仏周囲に水田は跡形も無かった。
室生朝子氏がこの地を訪れたのは昭和51年から52年(1976から77)のことと思われる。その頃はまだ
入江泰吉氏の写真にあるような田圃があったものと推測される。しかし早春のこと田圃には稲の切り
株がのこるだけの冬田であっただろう。

 唐臼の壷二面磨崖仏1977入江泰吉.JPG

※「わらい仏」永仁七年(1299)二月十五日 願主岩船寺住僧・・・・大工末行の銘がある 見事な厚肉彫
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2010年12月19日

興福寺の美しき聖観音菩薩石像

奈良の道を歩いているといたるところで石仏に出会う。さすが仏都といわれるだけのことはあると感
心させられる。あまりにもいたるところに在るので、驚くこともないし、珍しくも無いしもう何も感
じなくなってしまったほどだ。南北朝時代のものから室町、鎌倉時代の石仏がごろごろしているの
だ。転がっているのだ。

 s-PA253533石仏集積のような.jpg

それでも道端で砂埃を被ったり、犬のマーキングのせいでその近辺までも犬臭くて困ることもある。飼い
主も、お地蔵さんを犬の自由にさせないで欲しいと少し憤慨しつつ心を痛めている。一方、立派なお
堂や、小さなお堂に大切に安置されている石仏も多い。

 s-PC098082奈良坂観音菩薩石像.jpg

般若寺近くの墓所入り口でちょっと個性的な石仏を見かけた。あまりにも長い間雨風に晒されたせい
で目鼻立ちも定かではないが、頭部に宝冠のようなものと肩の辺りに条帛らしきものが見えるので、
多分聖観音菩薩だろう。 顔に残ったお化粧の跡がこの石仏を随分個性的な容貌に見せている。

般若寺の石仏を参拝に訪れる人は日々絶えることがないが、すぐ隣の墓所にまで足を運ぶ観光客はい
ない。石仏を見るのにもある程度の環境と知名度と由緒が必要なのだろう。
奈良の小寺や墓所は石仏の宝庫であることを是非知って欲しい。
石仏も「室町時代以降は庶民信仰に基づく像が多作されながら形式化が進み、美術的に目だったもの
はない。」らしい。

 s-P1110995興福寺雨に濡れる菩薩.jpg

興福寺の境内南円堂に登る階段の途中に素敵な石仏がある。これも聖観音菩薩像と思うが、定印結ん
だ手にはしっかりと蓮台を持つ。蓮台には多分小さな像が載っているのだろう。
なに時代の造りか分からないが、時々奈良の大寺で似たお顔の石仏を目にする。
スッキリとした目鼻だちの美しい菩薩さまである。露座では勿体ないような気もするが、堂に入れら
れてしまえば簡単にはその姿を見ることも出来なくなってしまうから、まあこのままで良いか。

奈良では石仏が溢れているが、興福寺のこの聖観音菩薩や奈良坂の菩薩たちは美人石仏コンテストに
出れば1を争うことは間違いないだろう、と思う。
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2010年05月10日

圧巻 奈良称名寺の石仏群

奈良・称名寺の石仏群がすごい。
本堂の右手に、無縁仏2000体が、隙間なくすし詰め状態に展開する。
称名(しょうみょう)寺は茶道の開祖村田珠光ゆかりの寺としてよく知られる。それに反してこの
千体仏のことはあまり知られていないようだ。寺のHPでもその説明は十数行にとどめられている。
※称名寺HP
http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/index.html


 首折地蔵石仏群.jpg 無縁仏群六地蔵.jpg


千体仏と呼ばれるこの石仏群は、称名寺境内裏手の墓地に向う手前の通路脇にあり、現檀家の
ご先祖様より優遇?されている。「厄除千体地蔵」として広く信仰を集めている(らしい)。


 称名寺地蔵石棺仏.jpg


称名(しょうみう)寺は近鉄奈良駅にすぐ近い、旧くからの住宅街の只中にある。
奈良の古寺は門前に旗指物を掲げてその存在をアピール喧伝していることが多いのに、この
称名寺は茶道・村田珠光ゆかりの寺としてのプライドのせいか、あるいは檀家や信徒の家々に
遠慮してか、それとは目立たない。奥床しく上品な佇まいである。

鎌倉時代1265年創立の古寺であるが、堂宇は1802年の再建で、山門や本堂正面の扉はごく
最近に誂えたようで、旧さ古色はない。


 日輪山称名寺山門.jpg
 


二千体の無縁仏は室町期のもので、東大寺大仏殿を放火消失させたことで悪名高い戦国武将
松永久秀が、多聞城を築く時(1560)、近在の石仏1900体余りを石垣造りに用いたもの。
その後、落城・破却(1576)のため散乱した石仏を、称名寺第19世の観阿上人が蒐集し、合祀した
と伝えられる。多聞城跡は現在奈良市立若草中学の校舎に変り、校門の脇に、今でも数十体の
石仏と多くの小墓石が取り残されている。
※ 多聞城は’09年8月1日既訪
 http://naranokoto.seesaa.net/article/124729118.html

称名寺には、無縁仏以外に、地蔵菩薩石像他多くの石仏がある。簡素なお堂に釘打ちされた木札に
墨書された名称を見ると「歯痒地蔵」、「腰痛地蔵」と解読できる。
三体が祀られたお堂の木札の墨書は読み取ることが出来ない。中央は梵天像、左が笠地蔵、右は
半跏思惟像の三尊と思うが、正しいかどうかわからない。


 称名寺歯痒・腰痛地蔵.jpg 称名寺石像三体仏.jpg 


コンクリート壁の覆屋に安置された四体の大きな石仏、一番右手のモノは高さ2m位ある。
左の2体の地蔵菩薩は、称名寺HPに記述されている『この地蔵石像は、大和盆地特有のもので
笠を被っておられるのが本来のお姿であるが、城壁(石垣)に使用するために取外して集められた
と考えられる』という文言の地蔵石像を指していると思う。
漆喰で補修してまで石像を元のお姿に戻された寺僧の篤い信仰心に心打たれる。「本来のお姿」
というのは、上の三尊像の左端の小ぶりの地蔵のお姿がそれであろう。


 称名寺石祠地蔵菩薩.jpg 無縁仏守護三体.jpg


称名寺の2000体の石仏、元はといえば人の墓石である。無縁仏となり、城の土台として流用され、
また突き崩され散乱する。無名の人々の過酷な運命を象徴する話である。そしてそれを哀れみ、
一体一体拾い上げ、寺に運び集め供養する観阿上人の物言わぬ憤りを感じる。


 紫露草咲石仏群.jpg
 

石仏群の中に紫露草が咲いていた。ツユクサの仲間で原産地は北米、日本には明治初期に渡来した、
帰化植物。背高な姿に風雅な感じを受ける。 花言葉は「尊厳」。
紫の小さな花とその意味が無縁仏たちにとてもふさわしく感じるのだった。
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2009年07月30日

浄瑠璃寺 浄土と死者の世界

浄瑠璃寺あたりの山道には石仏群が多く見られる。

大門石仏群はこの地に散在していた石仏等を一箇所に集めたものと言われるが、
そこは人家からはずれた鬱蒼たる大木に覆われる陰鬱な山中だ。
そこは、縁なき死者の死後の住みか。
死後の世界を信じ恐れているわけではない。信仰心を持っているわけでもない。
それなのに、なにかの気配が、心が落ち着かせなくさせるのだ。


大門石仏群
梅雨日の大門石仏群.jpg 苔むすお地蔵さま.jpg


 路傍の石仏や磨崖仏など単体のものと比べ、数百体もの石碑、石仏を雛壇状に集めた
石仏群を前にすると何かためらう気持ちになり、心が落ち着かない。
それを「石」の加工物だと断定して平静を装おおとしても、そうとは思えない何かを意識して
しまうのだ。


西小墓地石仏群
西小墓地石仏群.jpg

六地蔵
六地蔵.jpg


西小墓地石仏群は、石仏よりも石碑(板碑)が多い。
石碑(いたび)は先祖を供養するための石像卒塔婆だが、あの世の表札、死後世界の
人別帖を見るような気がする。
のんびりと「石仏の里めぐり」と思うことはできず、心落ち着かないのだ。
それとも霧雨の降る梅雨の空が、そう思わせるのだろうか。

この石仏群の傍らには、六地蔵がいる。六つに区分けされた死後の世界にまでお付き合い
していただけるありがたいお地蔵様だが、葬られた死者にとってここはやはり死後の
世界への入り口なのだ。地中に広がる死者の世界の入り口なのだ。


「首切り地蔵」や「たかの坊地蔵」はどっしりとした存在感がある。
明らかに人の姿かたちを模したものなので、少しも恐れる気持ちにはならない。 
知らずしらずに、石仏としての美醜や好き嫌いの品定めまでしている自分に驚く。

首切り地蔵が大相撲の雅山に、たかの坊地蔵は千代大海に似ているなーなんて思っていた。

首切り地蔵           たかの坊地蔵
首切り地蔵.jpg たかの坊地蔵.jpg



仏谷阿弥陀磨崖仏」や当尾に多く見られる岩に彫られた「石仏」たちには、そそり立つ崖の岩肌や露出した巨岩に、のみ(鑿)を当てる修行僧や石工の姿を思うと、心打たれるものがある。

浄瑠璃寺や岩船寺のある当尾の地は、僧が修行のためにとどまる興福寺の別所として栄えた
土地という。山と谷に囲まれた当尾の地は都から隔絶された格好の修行の地であったのだろう。
彼らは路傍にある巨岩に、或は谷の向こうの岩肌に、路行く人々の平安を祈って一心に
鑿と鎚を振るったに違いない。


仏谷阿弥陀磨崖仏
仏谷阿弥陀磨崖仏.jpg

 

当尾の山中に散在する野仏を巡りその後浄瑠璃寺にたどり着いた。 
閉門の5時までまだ1時間がある。

浄瑠璃寺宝池越しに本堂望む     三重塔
夏草茂る宝池越しに本堂を見る.jpg 浄瑠璃寺三重塔.jpg


「浄瑠璃」は薬師如来の世界を現す仏語

寺史によれば、「この境内は興福寺一条院の門跡恵信(藤原忠道の子)が、一条院の御祈所とし、
坊舎などをまとめ、庭園を整備していきました」とある。
この寺には平安貴族のイメージしたあの世の景色が広がっているのだ。まさに庶民(当時は
百姓といった)感覚とはかけ離れた上流階級の信仰世界な具現なのだ。
浄瑠璃寺には、美術館に行き絵画を鑑賞する時の様な、信仰心とは全く無縁な一時的な
安心感がある。そう、完成された寺院、庭園の世界なのだ。
しかしひとたび山門を後にすれば、変わらない苦しみの現実がある。



余談
道標に誘われて浄瑠璃寺の奥院を目指し山道を往く。
谷を下るに従い激しく流れる川音が聞こえてきた。
森を抜けると道は背丈以上の夏草に覆われ、先に進むことができない。奥院はいずこ。
季節が変わり冬になればこの草も枯れ道も通るに違いない。今日は断念。

奥院への道          岩を覆うまめづた
奥の院への道.jpg まめ蔦.jpg



 
posted by ハマー at 20:41| Comment(0) | 野の仏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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