2013年07月16日

連歌の里 奈良県宇陀市染田天神社

奈良の中心街から遠く離れた宇陀市に「中世文学の里」といわれる染田集落がある。そのいわれは、そこに、室町時代初期貞治年間(1362〜1368)に建てられた連歌堂と、関連する多数の文書等が残されていることによる。この連歌堂で1564年(戦国時代)までの200年間に渡って連歌の会が催されていたという。
千句連歌、縁起、興行記録、連歌会運営規定等、連歌製作に関係する遺品は連歌を研究する実証資料として大変貴重なもので他の日本になく、奈良県の文化財に指定されている。

s-P7054553染田天神、十輪寺.jpg 
 春日神社の境内に十輪寺と連歌堂が並ぶ

宇陀市染田は奈良市との市境に接し、四囲を山に囲まれ、三本の小河川が集合する東西・南北800m程度の農村である。
調べてみると、古くから米作りの行われた土地で興福寺大乗院門跡の荘園であった。連歌堂は春日神社の境内にあるが、奈良県で春日神社が置かれた農村はまず興福寺の荘園であったと見なしても間違いない。

s-P7054531染田春日神社.jpg
 春日神社 拝殿

ところでこの染田という、山々に閉ざされたいかにも鄙(ひな)びた場所に連歌堂を建て、二世紀以上もの長きに渡り連歌の会が継承されていたのはいかなる理由によるものであろう。今でこそ奈良県道781号都祁・名張線が整備され染田集落脇のバイパスを快適にドライブできるが、室町時代時代にあっては簡単に行き来できるところではなく、人々が集合するには不向きな土地のように思えたのだが。

 s-P7054585染田連歌堂遠望.jpg
 奈良県道781号線からの染田集落遠望

連歌堂は集落内の細道を登り切った山の際、やや小高い処にある。ふり返って見れば、都祁野岳、真平山、貝ケ平山、額井岳、鳥見山の山並みが一望できる。連歌を巻くにうってつけの環境ではないか。連歌堂を目指して上ってくる人馬の姿も容易に視認できたことだろう。
人の侵入を拒んでいるかのように見える連歌堂背後の山だが、地図をつぶさに(拡大して)見ると、小倉、都祁へ抜ける幾筋もの山道のあることがわかる。人が自らの足や牛馬を使って行き来していた時代、意外にも人体の血管のように要所々々を繋ぐ道が今以上に走っていたのだ。案外、染田集落は名張、伊勢方面に抜ける要衝だったのかもしれない。

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 奈良県宇陀市室生染田地図

この連歌堂は室町時代中期1362年土地の豪族(武士)である多田順実(よりざね)が、天神社を創建し、学問の神菅原道真公の御影を創祀し、千句連歌会を主催した会所である。鎌倉、室町時代、武士たちにとって連歌は必須の教養であった。千句連歌会には地域に割拠するほとんどの有力豪族が参加し、諸将の交流と結束がはかられる一方、動乱の時代下における政治的駆け引きの場ともなったと考えられている。戦国時代というと何か殺伐としたイメージがあるが、連歌という文化が地域の安定と平和をもたらす精神的絆として作用していたという事なのだろうか。

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 安定と平和 天神講連歌を象徴するような微笑仏

永禄七年(1564)連歌会は終焉する。時まさに戦国時代末期の最も苛烈な時期。仏都奈良の地ではあるが、永禄二年(1559)松永久秀が奈良北部に侵入、永禄三年(1560)には大和の実質的支配者であった興福寺を破る。永禄十年(1567)に東大寺大仏殿の戦いで大仏殿が消失するなど、奈良(大和)は戦乱の只中にあり、200年の長きにわたって続けられた染田天神の連歌会もついに幕を下ろさざるを得なかったということであろう。

 s-P7054540十輪寺墓石.jpg
 十輪寺の石仏群

染田天神の連歌会を始めた多田家であるが、その後も代々、如一斎、実春、順実らが中心メンバーとして関与し弘治年間(1555〜1558年)の多田実映の名前を最後に途絶える。
天正18年(1590)筒井勢の一員として北条征伐に参加するが、関東遠征・伊豆山中城攻めにて一族全員戦死、多田家は断絶した。多田順実が連歌堂を創建して228年後のことであった 。

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 村の鍛冶屋さん福井政明氏        福井氏手作り平鍬

連歌堂を見ていると「早くからご苦労様」と声をかけてくれたのは、ちょうど十輪寺の垂木の修理をしていたという福井政明さん。
外から連歌堂の中が見えるように灯りを点けてくれた。普段は何も置かれていない空間(会所)だが正面に菅原道真公の御影を収めた厨子が見える。昨年連歌堂の解体修理の折に彩色補修されて真新しい。天神講や連歌会のこと、十輪寺に関して詳しくお話しをしていただけた。

福井氏は神社の向かいで鉄工所を経営するとともに、なんとなんと鍛冶屋をしていると言うので、お願いして仕事場を見せていただいた。農工具を中心に作られているそうだが、地鎮祭でつかうという木鍬(平鍬)を見せていただいた。今では福井さん以外誰も造れなくなったものだ。
福井さんありがとうございました・


参考にしたURL
武家家伝 大和多田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yam_tada.html
多田順実 気分はコクジン別館
http://blog.goo.ne.jp/gfi408/e/1a4efb208a5047add159aa1c9e018fab
染田天神連歌について 奈良教育大学紀要
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/2250/1/NUE33_1_217-230.pdf
奈良の寺社「染田天神」「十輪寺」
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/05/post-c3ad.html


天神講連歌会
集団制作による詩形である連歌は講と結びついて発展した。とくに鎌倉時代後期から天神信仰と結びついた。連歌を目的とする天神講を特に天神講連歌会と呼ぶ。講を結び、図像をかかげて天神供養を行い、もって連歌を手向けとするものである。こうした連歌会は大和国を中心に発達し、室町時代を通じて畿内から各地へ伝播していった。天神講連歌会記録としては大和国の室生村の染田天神連歌文書などが伝来する。
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2012年09月02日

伊勢本街道 高井の千本杉

旧い神社の多い奈良の地では、巨樹、巨木に容易に出会うことができる。奈良で写真を撮り始めてすぐに、自分は、そんな人の寿命をはるかに超える巨大な樹木を前にする時その存在感にいつも言いようのない畏怖の念に襲われるようになった。心が吸い込まれるようなそんな思いに囚われる。

高井の千本杉を見に行こうと思ったのはネットでその写真を目にしたことによる。写真の中とはいえ初めて目にしたその木の不思議な姿というか異形にただ驚かされた。ただならぬエネルギー、神秘な力を滲ませていた。なんという存在感。

 s-P8072221旧伊勢街道津越辻道標.jpg
  
高井の千本杉は奈良県宇陀市榛原区赤埴(あかばね)にある。赤埴は江戸時代までは大阪から奈良猿沢の池を経て伊勢に向かう伊勢本街道の宿場街だが、主に室生寺へ参詣する信者たちの宿として多く利用されていた。今でも当時の宿屋(旅籠)の建物が数軒だがみごとな大和棟造りそのままの姿で残されている。明治14年以降は近くにバイパス(国道369号線)が整備されて、今では通る人も車も滅多にない。しかしそれが幸いしてかつての街道の姿がほぼそのままに残されている。

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千本杉は井戸の周りに植えられた5本の木が癒着した杉の木で井戸杉ともいわれる。徒歩の旅に飲み水は欠かせず、昔の街道には適当な間隔でよい水場が設けられ、村人も大切にし、また旅人も助かった。この高井の千本杉の根元には今も小さな井戸の口が覗き溜り水が光って見えるが、もう湧き出してはいない。

千本杉は地上1mくらいのところから16本の支幹に分かれる。樹齢は推定700年、幹周/25.0m、樹高/45m。幹回り25m、根回り35mという値は日本全国にある巨樹の中でも最大級の太さではないのか。45mの高さも人家近く道路際に生える木としてはトップクラスである。近くに見るまでは小さな森としか思えない。車で行った時、つい案内板を見落として通り過ぎてしまった。

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実際にその木を目の当たりにした印象は、その不思議なというか異様な姿かたちに唖然とさせられた。なんと形容したらよいのだろうか、巨大ダコを逆さまに置いたような不気味な姿に言いようのない恐怖感すら覚えた。化け物である。700年という年月が元とは全く異なる生物を創りだしてしまったようだ。六つの別の生命体が一つになって巨大化し生き続けるなんていうことが他にあるものだろうか。
空海が室生山へ登った際にこの場所で弁当を食べ、その箸を地にさしたところ生育したという逸話もあるが、そんな話が戯言にしか聞こえない存在感、生命力を発散する木である。

 s-P8192447千本杉.jpg

千本杉という呼称はちょっと誇張しすぎではないかと思ったが、それぞれの支幹(主幹から分かれて出ている幹)から更に太い枝が四方八方に伸びた、もう杉とは思えない暴れ木である。千本には及ばないとは思うが「千本杉」と呼んでも差し支えない迫力ある枝振りである。

はるばる見に来てみたものの、千本杉の迫力にすっかり写真をとる気力が失せてしまった。負けた。巨木の霊に逆に写真魂を吸い取られた?
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2012年06月29日

梅雨の室生古道 六月の奈良

室生古道は室生寺から仏隆寺を経て本伊勢街道に合流する宇陀市高井の集落に至る7〜8q
の山の道。古道と言っても今では完全舗装された林道に変わっっているが、かろうじて
仏隆寺から唐戸峠までの1.1qの間には旧道も残り、古道の雰囲気を十分に感じ取ることが
できる。

s-P7021616室生古道仏隆寺寄.jpg
仏隆寺から室生古道に入る

唐戸峠は室生古道の途中にある一番の高所(665m)で最も眺望の良い地点(と思われる)。
この日の午前中は梅雨のさ中の雨降りの天候で、あいにく遠くまでを見通すことはかなわなかったが、
深い谷を隔てた目前に聳える山々に霧のような薄く雲が流れ行、まるでミニ山水画を見るようだった。
天候や時間が変ればきっと、もっとさまざまな景色を撮ることができるに違いない。

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 唐戸峠あたりから見る山谷

この唐戸峠の「からと」という名称だが、「唐戸」は建築用語では両開きの板扉の総称。
奈良時代から平安までにはこの峠に関所が設けられ、その門が唐戸(板扉)で閉じられていたこと
から名付けられたに違いない。
仏隆寺は空海(弘法大師)が唐から持ち帰った最古の茶を栽培した所といわれ、大和茶発祥の
地とされている。唐戸峠の関所はこの茶の種の他国への流出を取り締まっる監視所だった。
よそ者(特に隠し所の多い女人)の往来を制限していたのではないか。(と、考えてみても見たたが
関所の存在はまああり得るとしても、お茶の種の流出防止が目的ではなく、もっと他の理由だった
のかもしれない)※ 追記

 s-P6251449唐戸峠.jpg
 唐戸峠 完全舗装された新道

室生古道を行くのは今回が初めてのことだが、三余年前に仏隆寺までは一度だけ来たことがある。
冬の雨の日で、その時に目にした雨にかすむ山並みが忘れられず、いつかまた訪ねたいと思いつつ
今日になった。

 s-P6251463雨滴(タケニグサ).jpg s-P7021618山アジサイ雨光.jpg
 道ばたで良く見かけた「タケニグサ」に梅雨が      古道沿いに点々と山アジサイが咲く    

本伊勢街道と室生寺を結ぶ「室生古道」。むろおこどう、なんと美しい響きだろう。
今では休日ともなれば歴史と自然が大好きなシルバーウォーカーが群れを為して通り過ぎるが、昔は
(多分戦前あたりまでは)決して気楽に通行できる道ではなかったと思える。昼日中でも鹿や猪に遭遇
する深山の険しい山道。物見遊山の旅人が室生寺への近道として気軽に行き来できる道ではなかった
はず。
修験者や杣人の道、時には表街道を歩けない訳あり者の抜け道だった。
室生古道はそんな思いに浸りながら歩いて行ける雰囲気を持った道である。

 s-P6251403古民家.jpg
 宇陀市榛原区赤埴(あかばね)の古民家

仏隆寺から少し山に上がったところに茅葺の旧い民家があった。まるで向井潤吉氏(1901~1995)
の描く古民家のような佇まいだ。保存民家ではない。今も居住者が生活する現住家屋である。
この地区でも現存する茅葺屋根の家屋の殆どがトタン葺に変わってしまっているのに、これは
ほんとうに珍しく貴重なモノと思う。古民家ブームではあるが、生まれて以来住み続けるこの家の
住人にとってはそれなりの不便や苦労もあるだろうが、今後も是非現状を維持してもらえたらと
願うばかりだ。

 s-P6251488深谷川源流.jpg
 「深谷川」源流 室生湖に流れ込む

唐戸峠から1.5qほど室生寺方面に進むと、道の左手に細い水の流れが現れる。室生湖に流れ込む
深谷川の源流だろう。流れは川の両岸を覆う笹や木々に隠されてややもすると見逃してしまいそう
だが、所々に垣間見える川を包む景色にはなにか心惹かれるものがある。
錆色の河床と笹の葉や苔色に染まった木肌との緑の対比が心地よいバランス感を創りだしている。
この流れは5,6百mくらいの間、道の左や右を並行して流れていたが、突然消えてしまった。

その先しばらく杉や檜の植林の間の道を行くと、唐突に室生の集落に出る。


※追記 2012.9.8
唐戸峠に関して
大阪・奈良方面から室生寺への参拝は室生口大野から室生川沿いの道を車で行くのが普通だが、昔はこの道(奈良県道28号)はなく、大野寺の参拝後、今は東海自然歩道となっている山道を歩いた。しかしそれも昭和五年(1930)に参宮急行鉄道(現在の近鉄大阪線)の室生口大野駅が開業された以降の事である。それ以前は伊勢本街道の高井から入る室生古道を行くのが最短ルートであった。
唐戸峠は、室生古道を、仏隆寺を経て室生寺へ行く入り口にあたり、そこに関所が設けられていた(と思う)。『関所は、古代では軍事防衛上の目的で設けられたが、中世になると、軍事警察より、経済的な作用を持つ関所が主となってくる。すなわち私的な交通の増加に伴って、道路や港などの開発や維持警護に要する費用を利用者から徴収するという趣旨であったが、やがて朝廷や寺社が、領地からの収入の減少を補充するため、関所の通行料(関銭)に新財源求めるようになり、さらには土豪がその上前をはねるようになって、おびただしい関所が作られた。(中略)伊勢本街道の通行者が増えるにつれて、通行料を徴収するための関所が十五世紀中頃各地に設けられた』『仏隆寺のある赤埴(あかばね)は、鎌倉時代から見える荘園名で、興福寺大乗院領であった。当時の地頭は赤埴殿と古文書にある。赤埴は当時から伊勢街道の要地であったから関所が四か所も設けられた。』
唐戸峠は、室生古道を通って室生寺に参拝に行くには通らざるを得ない峠道で、峠を越える人々から関銭を徴収するための関所を設ける場所として最適であった。
室生古道の「唐戸峠」については伝聞や資料が(いまのところ)見つからないので、由来について本当のところはわかっていない。唐戸峠の南東に唐戸山がある。


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2012年05月20日

室生寺 シャクナゲを植えた人たちの

室生寺 5月12日
時季としては遅かったのだが、それでも境内のところどころにシャクナゲの花が残っていた。
参道から伽藍を囲む密生したシャクナゲの木を見れば、満開の頃の見事さを容易に想像すること
ができる。
室生寺はシャクナゲの寺としてよく知られているが、なんとその数3000株もあるという。
このシャクナゲ、自生していたものではなく、昭和9年(1934年)以来信者の移植奉仕により、
山門から奥之院までの参道を埋め尽くすようになったという。

s-P5121173室生寺シャクナゲ.jpg

この移植の経緯はあまり知られていないようだが、「私の古寺巡礼 奈良」――室生寺の章のなかで
田中澄江氏(1908−2000)が次のように記している。

『〜開花期は(牡丹に比べ)普通シャクナゲの方がすこし早いのだけれど、樹齢50年は越えようと思わ
れる樹が多く、海抜400mの山気の冷たさが幸いして、十分にまだ、満開の花を楽しむことができた。
杉や檜の老樹の間を埋める、うす紅や鮮紅の花のあでやかさは、息をのむばかりで、昭和九年から発足
したという信徒たちのシャクナゲ講の丹精が見事に実っていた。 室生寺の南には吉野、大台ケ原の
峻嶺険嶺が連なり、その山腹や渓谷には、ツクシシャクナゲやホンシャクナゲが群生している。(中略)
十人ばかりで組織するシャクナゲ講のひとたちは、自身、スコップをかつぎ、唐鍬を持って、吉野や
大台ケ原の深山に入って採取し、室生寺の境内まで運んで来て植えつけるのである。その力業を必要と
する仕事には、女も進んで参加し、祖母から母へ孫へと手入れを受けついでいる。女人高野にふさわし
い床しい奉仕と思われた。』

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はたして女人高野にふさわしいのかどうか自分には分からないが、講のひとたちがシャクナゲの植栽を
決意したのには、なんらかのきっかけか理由があったはずだ。

今風に言えば「村おこし」みたいに、観光客招致を目的としてシャクナゲの植栽奉仕を決意したとはと
ても考えられない。昭和九年という年は、日本が戦争に向けて暗黒のトンネルに二歩、三歩と確実に踏
み込んで行った時である。世相的に必ずしも明るい時代ではなかった。

今では車やバスを使えば楽に室生寺に辿り着け、参詣もできるが、昭和九年の当時、室生寺へは近鉄
室生口大野駅から室生川沿いのおよそ7q道のりを徒歩で登りきらなければならなかった。
帰路も同様である。
室生寺は太古の昔もその当時も気軽に行けるような場所ではなかった。山岳寺院である。訪れるのは、
篤い信仰心を持った人々や仏像愛好家や修学旅行の女学生などに限られていた。花見遊山には厳しすぎ
る所だった。

奉仕といえば、室生寺の奥の院へ続く700段に及ぶ石の階段も明治時代に入ってから整備されたものと
いう。それまでは険しい崖のようなところを這うようにして登って上がったという。登るだけではない、
下りてくるのも命がけだった。
現在の奥之院に進むまっすぐな石段も(登り下りは苦行に近いが)信者からの寄進と奉仕で造られた。

 s-P5121157.jpg 

シャクナゲ講の人たちが何故室生寺の広大な境内にシャクナゲの花木を移植することにしたのか、その
理由は分からないままだが、一株、一株と植え続けて行くに従い、自分自身の心の内がシャクナゲの
うす紅や鮮紅の花で埋まって行くような、そんな充足感を得ていたのではないのか、そんな気がする。
そして、それが信仰というものなのかもしれない。


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2010年01月21日

宇陀の大蔵寺冬添景

白洲正子がTV番組の取材で「宇陀の大蔵寺」を訪れたのは昭和44年の初夏のこと、今から40年以上
前のことだ。その後、白洲氏の著作「かくれ里」が新潮社から刊行されて以来、多くのファンがこの
寺を目指して、山道を上ったであろう。


 大蔵寺石標.jpg
 際立つ山門跡の「大蔵寺」石標


初めて大蔵寺に入ったのは、一昨年の12月22日、うす曇の日、夕闇の迫る時間だった。冬の境内に
人影はない。いたるところを猪に掘り返された道や、打ち捨てられたようなお堂、荒れた庫裡の外
観を目の当たりにして、「ここは廃寺なのだ」と思い、何か不気味さを覚え、慌てて寺を後にした
ことを覚えている。

 
 ひっそり佇むお堂.jpg 大蔵寺の鐘.jpg


今回訪れた大蔵寺の印象は以前と変わらないが、管長(住職)の在住していることを知っているので
安心して境内に入た。管長の田辺獅豊氏に挨拶をすませ、写真を撮るために裏山に入る許可をいた
だく。


 烏ノ塒屋山.jpg 
 『寺に似隣り合って、ひときわすぐれた山が見える』
 烏ノ塒屋山(からすのとややま) という


大蔵寺のHPによれば、平成22年は「弘法大師入山1200年」とある。空海がこの寺に初めてやって来
たのは37歳のとき。田辺管長も今年、同じ歳になられたという。空海は修禅の道場を物色する目的
でこの山に立ち寄った。境内を歩くと、田辺管長がただお一人で堂宇伽藍と広い山内の維持、充実
に大変な苦労されていることが、見て取れる。田辺管長はいま修行の只中にあられる。今空海なの
だ。


 大師堂の石段.jpg 石香炉と大師堂.jpg 
 弘法大師空海最初の修行道場「御影堂」     御影堂と香炉塔の間に本堂の影が落ちる



山は今、冬枯れの景色が広がり、ただ鳥の忙しく鳴きかう声が響きわたる。先週降った雪が、本堂
と太師堂の屋根に白くうっすら残る。この日は快晴の暖かい日であったが、水溜りには氷が張り、
地面は霜柱で硬く凍っている。宇陀の山中まだまだ寒い。

 
 南天と杉木立.jpg
 参道は深い杉木立に覆われている 


白洲氏は本の中で『この山寺には、(斑鳩に見る)そうした明るさはない。といって、密教寺院に
つきものの陰鬱な厳しさはなく、雑木山のハイキング・コースといった気分である』と書いている。
TVの取材クルーと冗談を交わしながら、爪先上がりの坂道を息切らしながらもにぎやかな一団とな
って寺に向かって行ったのであろう。


 重なり合う屋根.jpg 
『やわらかい桧皮葺の屋根が、互いに重なり合いつつ』

 

冬の朝、鬱蒼たる杉木立の間を抜けて一人上る山道は、凛とした冷気に包まれ、あたかも自分が修
験者であるような錯覚におちいる。昨今の仏像ブームに接して、寺を美術的建築物ないしイベント
会場程度と捉えている人々が多いように思える。紀行作家しかり。否、寺は、人生を思索する格好
の場所であると思い直していただきたいものだ、と近頃考えるようになった。

 
 檜皮の残雪.jpg 南朝高貴の墓.jpg
 薬師堂(本堂)の桧皮葺の屋根に残る薄雪     南朝高貴の方の墓


『孤雲定処無く もとより高峰を愛す 知らず人里の日 月を観て青松に臥す』
わたしの好きな空海の言葉、僭越ながら獅豊管長に贈らせていただく。



posted by ハマー at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 長谷・室生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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