2013年01月25日

奈良の石仏を巡る―F首なし石仏

首のない石仏
首のない石仏を初めて目にしたのは二年前のこと、般若寺から中ノ川に抜ける旧伊勢街道の途中に出会った。首の無い胴体だけの仏像は不気味。人けのない、寺でもない場所にこのようなものが祀られていることが不自然でなにか緊張した。後で「石龕仏(せきがんぶつ)」と呼ばれているものと知ったが、天井と左右後ろを石板で囲んだシェルターのような厨子のようなものの中の石仏を見るのも初めてだったので余計に不気味に感じたのだと思う。

s-PC087883首のない石仏.jpg

首のない石仏は国内各地に見られ特に珍しいものではなく、その後寺の境内、墓所、道ばた、野山でもよく目にした。だけど本来あるべき頭を持たない石仏はなにか気持ちが悪くて、何度見ても慣れることができなくて目をそらしてしまう。以来写真は撮らなかった。
首の無い石仏は珍しくない言っても、創られた当初はもちろん五体満足だったはずだ。では何故首を失ったのだろう。多くは廃仏毀釈の時に打ち落とされたとする説を聞く。そういうことは十分考えられるが、上の写真の地蔵石仏は江戸時代にはすでに新しい首にすげ替えられていたことがわかっている。

s-PC087881首のない仏.jpg

佐渡地方では、願をかけて石像地蔵を寺に奉納し、願が叶ったらその首を切り落とすという風習があると聞く。何とも過激というか思い切った風習があったものだ。仏像というものは頭を落とされても腕を切られても法力というか霊力は変わらないらしく、痛わしいことに姿かたちが変わってもそれまでどおり拝まれ、祀られる。お地蔵さまもたまったものではないと思うが、そこがそれ仏のすごいところなのだ。

仏のサイン
下の写真は御所市の舟宿寺に近い墓所の入り口で撮った。指さきが欠けてしまっているようで分かりづらいが右手は施無畏印(せむいいん)のようで左手には如意宝珠を持つ。
この像、実は首が無い。それならばと思い切って肩口でトリミングした。いまだ首の無い仏像を撮るのに抵抗を感じる。

 s-PB223144顔のない仏.jpg

台座に彫られた「法界」の文字は、全宇宙、全存在を意味し、地蔵菩薩が現世だけでなく、あの世のあらゆる場所に救いの手を差し伸べる事を表していて地蔵の台座にしばしば認められる文字。正しくは「法界万霊」か。
施無畏印は手のひらを前に向け胸の辺に上げて「恐れなくていいよ」と相手を励ますサイン(印相)とのこと。現代においても手のひらを相手に向ける行為は、「あなたの味方ですよ(=敵意はありません)」というボディランゲージだが、仏像のポーズというものは現代人に通じる意外に明快なものかもしれない。

似た者どうし お地蔵さまとドラえもん
ついでに、如意宝珠は日本の「打ち出の小槌」、西欧の「アラジンの魔法のランプ」のようなもので思うままに願うこと総てが叶えられる「珠」のこと。さしづめ現代ならばドラえもんの「四次元ポケット」というところか。ドラえもんは未来から来たネコ型ロボットだが、人間の願望や欲望という視点から捉えれば35件ものご利益を叶えてくれるお地蔵さまと四次元ポケットを持ったドラえもんとは親戚のようなものだろう。時代は異なっても人の思いはあまり変わらないようだ。
posted by ハマー at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 野の仏 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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