2011年06月28日

生駒谷の初夏 奈良大福寺

大福寺から見る生駒谷には、生駒山麓から矢田丘陵の山上に駆け上がるように建つ小さな家々がひし
めく。旧い造りの寺を囲む棚田の緑と、山裾に拡がる町並みの白々としたアンバランスな対比が、逆
に壮観ともいえる。

 s-生駒山と矢田丘陵.jpg 
 生駒谷鳥瞰図 左が生駒山地、右が矢田丘陵

生駒山と矢田丘陵に挟まれた盆地を生駒谷と呼ぶ。盆地というより谷地と言うほうが適当で、谷の底
を生駒川が流れる。川は下るにしたがい平群川、竜田川と名を変え大和川に流れ込む。この川に沿っ
て近鉄生駒線は生駒から王寺の間に運行されていて、王寺でJR関西線と接続する。川も鉄道も大阪に
向って下る。このあたりを含む生駒市は大阪経済圏のベッドタウン。
 
 s-P6265749大福寺の朝.jpg
 大福寺の朝

大福寺は生駒山中腹の棚田に囲まれた小さな寺で、創建年代や由緒についてはわからない。ご本尊は
釈迦如来。宗派は黄檗宗(おうばくしゅう) に属する。今は、寺に隣接する霊園を運営して生計を維持
しているようで、日頃は訪れる人もまれな村の小さなお寺という印象である。しかし、寺の西の棚田
から見る行基葺きのお堂や、本堂(庫裏)の寄棟造りの屋根を見ると意外に格式高い造りのお寺である
ことが知れる。※備考1

 s-P6215527大福寺山門.jpg
 大福寺山門から花頭窓が見える

また山門を通して見える本堂の窓は、明らかに円覚寺舎利殿の花頭窓を模したものである。
円覚寺は臨済宗のお寺で、大福寺の属する黄檗宗も臨済宗の一派であった時代が長い。大福寺のこの
仏閣を建てた住職の、臨済宗への思い入れの深さが思われる。

黄檗宗は禅宗の一宗派で、大本山萬福寺のHPを見ると『隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師が江戸時
代前期承応3年(1654)に興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘を受け中国福建省から渡日
した。興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務めた後、寛文元年(1661)に宇治大和田の地に禅寺を創
建。黄檗山萬福寺と名付けて晋山(しんざん:就任)された。』とある。当初は臨済宗黄檗派を名乗って
いたが、明治9年独立して黄檗宗となった。※備考2 

 s-P6215547アジサイ.jpg 
 大福寺境内に咲くアジサイの花

生駒山中にあるこの大福寺の由緒はよくわからないが、黄檗宗の寺としてならば江戸時代以降という
ことになる。ただ創建についてはそうは決めつけられない。大福寺の境内に元亀四年(1573)の刻銘の
ある十三仏板碑がある。1573年といえば室町幕府が滅亡した年であり、時代区分から言えば戦国時代
末期に当たる。すでにその時代に寺があったということになる。

 s-P6265773大福寺十三仏板碑.jpg 
 元亀四年の刻銘のある十三仏板碑

一説によれば行基の開創とのいわれもある。生駒山には奈良時代の僧行基の墓所(竹林寺)があり、ま
た行基が開いたといわれる寺も多く何かと行基と縁の深い土地でもある。そういう背景から大福寺を
行基の開いた寺というのであろうか。そうとすれば起源は奈良時代ということになる。すぐ近く鬼取
町にある鶴林寺は役行者(役小角)の開基と伝えられるなど、とにかく生駒山と宗教の関わりは旧く、
飛鳥時代にまで遡る。

 s-P6215571鶴林寺石仏群.jpg
 鶴林寺の賢者たち 

別に、大福寺の創建を調べるのが目的ではないが、いかにも由緒のありそうな寺の外観に対して「由
緒が分からない」なんて言われると、つい追求したくなってしまう性分なのだから仕方がない。

ところで、黄檗宗をつたえた隠元禅師が日本にもたらしたものは禅の教えだけではない。印刷・煎
茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚など当時江戸時代の文化全般に影響
を与えたといわれる。そうか、インゲン豆は隠元禅師が中国のお土産として持ってきたのか。

 s-P6215541魚板.jpg 
 魚板(ぎょばん)、木魚鼓(もくぎょく)ともいう

大福寺のお堂の軒下に鯰のような形をした魚板(ぎょばん)が架けられている。木魚の原型であるとい
うが、素材は「青銅」製のようである。仏具の製作に長けた奈良ならではの魚板かも知れない。奈良
市は禅寺が少ないのでこれまでこのような立体魚板(魚鼓)を見る機会はなかった。鯰ではなくどうや
ら鯱型のようだ。初めて見た。※備考3

この魚板、人の手の届かない随分高いところにつるしてあって、しかり埃をかぶって真っ白だし、叩
く木槌も見当たらない。まったく格好をかまわない寺だ。今では単なる飾りとして吊るしてあるとい
うことであろう。しかし、ここに正しく大福寺が禅寺であることの証を見た、ような気がする。

 s-P6215510アカソ.jpg s-P6215523苗田.jpg
 アカソの茎の皮から糸を紡いだ      初夏棚田の苗筋が印象的

(備考1) 大福寺は、大門村の庄屋で生駒商人の草分け初代甚六が同僚の大阪の両替商天王寺屋五兵衛
と共に建立に力を尽くしたと伝わる。甚六が苗字帯刀をゆるされた明和年間(1764〜1771)のことと考
えられる。天王寺屋五兵衛は幕府の御用両替として大阪の両替仲間の支配をしていた。甚六は俵米の
運搬を請け負っており天王寺屋五兵衛とはその繋がりであった。大福寺が黄檗宗に改宗したのは甚六
が天王寺屋五兵衛の信仰の影響を受けたということであろうか。大福寺の堂宇はその頃の建立と見て
もよいであろう。

(備考2) 日本の禅宗は鎌倉時代に栄西(ようさい、臨済宗)、道元(曹洞宗)に始まるが、その後、浄土
真宗(親鸞)、日蓮宗(日蓮)の登場により当初の勢いを失う。また戦国時代、織田信長の徹底した仏教
弾圧を受けそのため一時期日本の仏教は停滞した。また江戸初期、禅が定着するにつれ禅宗寺院は権
力と密接な繋がりを強める一方で、本来の禅の精神からは遠ざかりつつあった。ここに明からの渡来
僧隠元隆(王奇)が登場し、臨済・曹洞の両宗派に大きな衝撃を与えたのである。

(備考3) 魚板は、『禅宗寺院特有の法具で、食堂(じきどう)、庫院(くいん:厨房)につるして人
を集めるために打つもの。
木製で大きな鯉形または鯱形をし、腹中を刳ってあり、水平につるして木槌で打ち鳴らす。魚梆(ぎ
ょほう)、梆(ほう)とよばれることもあり、古くは木魚鼓(もくぎょく)という。魚形をなしてい
るのは、魚が昼夜目を閉じないことから、修行僧の眠気を戒める意味があるともいわれる。』(Yahoo
百科事典)

<参考図書>
生駒市誌(通史・地誌編)X
<参考URL >
奈良の寺社 大福寺(生馬山)
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/02/post-1a34.html
黄檗宗大本山萬福寺
http://www.obakusan.or.jp/about-oubakusan/index.html
posted by ハマー at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/212205929
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。