2013年03月11日

奈良多武峰 西口墓地の謎


■ 戦国時代末期の墓地
 「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれた六基の板碑には天文二十一年・永禄三年・元亀三年・天正二年の年号が認められる。これらの年号は1467年(応仁元年)に始まり1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いまで150年近く続いた戦国時代の内最も戦闘苛烈な期間にあたる。戦国時代とは文字通り日々列島全域のどこかで戦争が行われていた時代であり、同じ民族同士が戦争を繰り広げた内戦の時代である。

 s-P3043696南無阿弥陀仏.jpg

 それぞれの年の出来事を年表で確かめて見ると、その一つ永禄三年(1560年)は織田信長が全国制覇に一歩を踏み出した桶狭間の戦いの年。また天正二年(1574年)は長島一向一揆が収束した年であり、この戦いの結末には二万人以上の一向宗(浄土真宗)の信者や僧兵・武士団が織田軍団により虐殺された。また戦いに勝利した側の織田家臣団も一万人以上の将兵が命を落したという。多くは足軽といわれる農民であった。

 永禄十年(1567年)には戦火に因り東大寺大仏殿が消失しここに避難していた僧侶・民衆数千人が焼死した。戦場では耕地が破壊され、家屋は放火され、人と物の略奪が繰り広げられる。また寺院は前線基地となり攻防の的となる。
 また元亀三年(1572年)一月二十日奈良は大地震に襲われ相当な死者・被害が出たと記録(多門院日記)に残る。戦国時代はまた旱魃、洪水、大雨などの災害をはじめ、疫病の流行、さらに飢饉といわれる天変地異が最も多く見られる時代でもあった。この時代人々は男も女も子供たちも常に死と隣り合わせの日々を送っていたのだ。農民も町人も僧侶も侍も皆命をつなぐために戦った。

「南無阿弥陀仏」は浄土経系仏教宗派の念仏である。その意味は「阿弥陀様に帰依します、どうか、私を救って下さい」というようなことを指すと聞く。戦国時代は人々の宗教意識が異様に高まった時代であり、当時の人々の念仏に込める思いは心の奥底から発する叫びであり、切実なものであったに違いない。

 s-P3043681多武峰石仏群.jpg

 この墓地は、奈良県道155号線を明日香村の石舞台から桜井市に向かう、多武峰・談山神社の少し手前の春井橋近くの山中にある。地名は西口になる。墓地と言っても猫の額と言っても良いような狭い場所に板碑と大小さまざまな墓石が足を踏み入れる隙間もないほどに乱立する。

 県道155号はつい最近平成21年12月に開通したばかりの新道で、それまで明日香村から談山神社に抜ける自動車道はなかった。今でこそ石仏好きが人伝に知り訪れるが、最近までこの墓地は人里離れた山の中腹に忘れられたようにしてあったはずだ。墓石の形から推して、江戸時代初期までこの墓地は使われていたと思われる。

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■ 生前に建てられた供養塔のようだ

 板碑や地蔵石仏をよく見ると逆修の文字が目につく。
逆修は生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことをいう。地蔵十王経に死後の追善供養で死者に達する功徳は7分の1と説かれ、逆修は七分の徳すべてを得ることができると説かれているのをうけて、平安中期以後天皇・貴族から民間に至るまで広く行われた。
 そもそも庶民が墓を持つようになるのは江戸時代後期以降のことと言うから、ここにある墓石や板碑は全て逆修供養のためのものであり我々がよく知っている墓石ではないのかもしれない。そう考えると人目につかない墓参には不便極まりない山の中腹の小高く盛り上がった瘤(こぶ)のような場所にあることも頷ける。

 s-P3043705多武峰地蔵石仏群.jpg

 奈良は盆地という地形ゆえに四囲を山に囲まれ、そのためか集落の裏山や遠く離れた山の中腹に墳墓や墓場がある。古代の人々が死者を埋葬する場所として山を選んだ理由は山中を他界とする観念が存在していたからであり、死後の霊魂を信じるに至って山は里に福を授ける先祖霊の眠る場所として尊ばれてきた歴史がある。

■ 西口墓地は一向宗信者の隠れ墓地か

 墓地が人里離れた山中に存在するのは先にあげた理由に因るが、この西口墓地が死者の霊を弔う墓地ではなく、本願寺のみを至上の権威とする本願寺門徒(一向宗信者)が死後の極楽浄土行を願う生前供養、逆修の場であったとするならば、この場所を敵対する戦国大名や他宗派の信者に知られることは絶対に避けなければならなかった。見つかれば墓石は谷底に投げ込まれるか、城や砦の石垣の石材にされてしまう。だから墓地は山の中腹の狭く険しい獣道のような急峻な崖道を上がった決して人目につかない一際小高い山の背にあったのだろう。その存在を知っていなければ決して辿り着けない隠れ墓地なのだ。

 地蔵石仏や板碑に名を連ねた人々は生前に建てたその供養塔を依り代に極楽浄土に旅立って行たのだろう。一向宗は江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とされた。

 s-P3043712多武峰西口墓地入口.jpg

〈追記〉
浄土真宗においては五輪塔、宝篋印塔、多宝塔、地蔵尊墓、観音尊墓、◎◎家之墓と言う偶像崇拝の塔墓を建てないという事をブログアップ後に知った。板碑は可としても、地蔵石仏は否ということになるのか。
一向宗および地蔵信仰について詳しく調べてみたが、平安時代末期以降地蔵菩薩は宗派性を超え民衆から帰依されて来た歴史がある。「口には念仏、心には地蔵菩薩」という言い回しがその事実をよくあらわしている。信仰心(宗教性)はその時代時代により変化して行くものであり、教団が常にコントロールできるものではない。 3月19日
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2013年03月08日

奈良高取 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』

「街道に残る旧家や雛まつり」
これは 樋口みのぶ氏 の一句。三月三日に訪れた奈良高取町の『町屋のひなめぐり』の印象にぴたりと嵌るので使わせてもらった。

ひなめぐりの舞台である奈良県高取町の土佐町は江戸時代までは高取藩の城下町であり、高取城の大手門へと続く道沿いには油屋、鋳物屋、呉服屋など500棟もの商家が建ち並びんでいたというから、往時の繁栄ぶりが想像できる。城は明治六年に取り壊され今はないが、ほぼ原形を残す石垣が城跡を訪れる人に日本三大山城と言われた高取城のそのスケールを教えてくれる。

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飛鳥時代から続く土佐町
その城の大手門に続く街路を土佐街道と呼ぶのは、今より千数百年前大和朝廷の都つくりの労役に駆りだされて来た土佐(高知)の人がそのまま住み着いたことから「土佐」という地名になったと考えられている。街道と呼ぶには(3qと)やや短い気がしないでもないが、はるか海のかなたの故郷土佐に続く道と考えれば街道と呼んでもまあよろしいか。それにしても驚かされることは、飛鳥時代の出来事が今に語り継がれ、町の名として、道の名として守られていることだ。

俳人武藤紀子氏に捧ぐ

三月三日、高取町の行事『町屋のひなめぐり』に出かけたのは私の好きな俳人武藤紀子氏の詠んだ次の二句に強く心動かされていたからだ。

「息はいて息吸うてをり古い雛」 
「方丈というくらがりに雛まつる」

“方丈” は寺院の居間のことだが、寺と雛というなにか相容れない関係と、更に暗がりと雛まつり、暗と明という対比が気になる。また、もう一つの句、息はいて息を吸うつまり呼吸する古い雛とはなにか。この二つの句を写真にしたいと思い、ひなめぐりの日を心待ちにしていた。

 s-P3033606いちまさん.jpg  s-P3033656琴・雛段.jpg

 上左の写真、二体の人形は雛人形ではなく「いちまさん」(市松人形)だが、人形とは思えないリアルさがある。人家のほのかな明かりの中に置くと幼い姉妹が立っているように見える。子供の甘い息の匂いが漂っているようだ。
 右の写真、寺の居間と見るには赤い絨毯が少しあでやかに過ぎるが「方丈というくらがり」と言われればそんな風に見えはしないだろうか。今回『町屋の雛めぐり』を体験して思ったことだが、雛人形は障子を通したくらいの光り加減で見た方が美しく見える。明るすぎる窓際ではただ雛人形を鑑賞することだけに終わってしまい、雛祭りという古い時代より伝わる行事や文化を味わい感じるということが難しい。またこの暗がりの中でこそぼんぼりの灯りや背後の金屏風が活きる。

町屋の雛めぐりもう一つの楽しみ

 雛飾りを見せてくれる土佐街道沿いの町屋は江戸時代から明治時代に建てられた旧家が多い。『町屋のひなめぐり』の面白さは普段ならば決して入ることのできない町屋の中を勝手に ? 見せてもらえることだ。博物館ではない、現在人の生活する居住空間である。このお宅の娘と孫娘の雛飾りの豪華さもさることながら奥の部屋の屏風や掛け軸、鎧兜などの美術品もなかなかのものである。

 s-P3033625.jpg s-P3033620雛飾り.jpg
 
酒牛乳店の木目込み雛人形

 下の写真は的場酒牛乳店の店頭に飾られた木目込み人形の雛飾り。芥子雛と呼ばれる小型の雛人形。酒屋さんらしく酒樽の上に飾られている。
 この雛飾りを見て小林一茶(1763〜1828)の「掌に飾って見るや雛の市」という句を思い出す。江戸時代中期元禄・享保期の頃に、商家の間で競うように豪華大型化した雛人形を規制するため幕府は雛人形のサイズや諸道具の素材(金銀の使用など)を事細かに規制した。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」(けしひな)と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形が流行する。一茶の句にあるような掌(てのひら)に収まる小型の雛人形が誕生する。一茶の句は雛人形にまで及ぶ幕府の経済統制に対する批判を込めたものである。酒牛乳店の店頭に飾られた雛飾りはこの江戸中期の流れを汲む木目込み細工の雛人形である。昨今の住宅事情に合わせてスケールダウンしたものではない。

 s-P3033626酒牛乳店の雛飾り.jpg s-P3033628雛人形.jpg

 土佐町なみ『町屋のひなめぐり』は街道とその周辺の町屋、しもた屋など約百軒もの展示があり、それが町内に散在しているのですべてを見るには相当な時間がかかる。今回は見て回っているうちに刻限の午後四時になってしまい、そのため見逃したり見落としたりした家も十数軒あったと思う。残念。次の機会があればもっと早い時間に訪ねそして自分なりのひな物語を作りたいと思っている。
posted by ハマー at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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