2012年10月10日

紫苑の花

「雨そぼそぼ紫苑の花の盛り哉」という正岡子規の句がある。紫苑は中秋(9月下旬から10月上旬)の頃が花の見頃だが、この頃はちょど秋雨の時季にかかる。どちらかと言うと紫苑の花は、晴れた日よりも雨の日や夜露に濡れた早朝に見るほうが、薄紫色の花びらがしっとり落ち着いた色合いを示し、ずっと美しく感じる。なるほど、子規はいい句をつくるな、よく見ているなと感心させられる。

 s-PA042736紫苑流れる.jpg
 明日香村冬野にて

 シオンはふつう「紫苑」と漢字表記するが「茈菀」という字を用いることもある。この場合の「茈」は、むらさき(むらさきそう)を示し、「菀」は、しげる、さかんにしげるさまを意味する。秋、長い茎の上部に薄紫色の花が密集して咲く紫苑の姿を思えばこの「茈菀」の字の方が適当とも思える。実はシオンのこの二つの異なる表記は、「紫苑色」という色の変遷にも表れている。
 
平安時代中期頃の紫苑色は「紅(くれない、紅花)と藍とを重ねて染めた青味のある紫色」であったが、鎌倉時代初期頃までには「紫草(むらさきそう、茈草)で染めた薄い色」を紫苑色と呼ぶようになった。その後、素性の違う二つの色が混同されてというか意識されることなく今の「紫苑色」になったといういきさつがある。同じムラサキでも「糸=布」としての紫(むらさき)と、草としての茈(むらさき)の違いがあることに気づかされる。紫苑の名前はどちらからつけられたのだろう。

紫苑は日本在来の植物ではなく奈良時代以前に中国から渡来したと考えられており、鎮咳と去痰の薬効がある生薬として今も利用されている。シオンの名は花の色から付けられたものではなくその根が紫色を帯びていることからつけられたという説もある。シオンの導入は薬用が主であったが、その後花が美しかったので、観賞用に栽培された。古来より紫が至上の色とされてきたことから、平安の貴族社会において、紫苑の花姿は大変愛された。

 s-PA018406弘仁寺シオン.jpg
 シオンの咲くころ 奈良弘仁寺 '11,10,3

紫苑は一般家庭でも容易に栽培できるが、その草丈が2m以上にもなり場所をとるせいか都会ではあまり見かけない。かつて「鬼の醜草(おにのしこぐさ)≒でかくて邪魔な雑草?」とまで揶揄されたことが少しは理解できる。
小林一茶の「栖(すみか)より四五寸高きしおにかな」 という句があるが、まさに紫苑の人の背丈より大きいことに驚いているようでおかしい。
どこか影の薄い紫苑の花も、歴史的な経緯を思い浮かべて見れば感慨一入である。

posted by ハマー at 16:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月08日

莫山先生を偲んで 明日香村冬野

十月三日、榊莫山氏が逝去されて二年が過ぎた。
莫山氏を知ったのは著書「大和千年の路」(文春新書)を読んでからで、ちょうど奈良に写真を撮り始めた2009年の夏の頃だった。その本文中「明日香」の章に登場する「冬野」という地に行きたいものと思って来たが、氏の三回忌にその地を訪ねることができた。

冬野の里、奈良県明日香村は石舞台古墳の東南3qの山中。莫山氏の言葉を借りれば「石舞台から冬野への山道は2里。うねりくねって、とても険しい。いわゆるつづら折りの山道」を上る。 石舞台との標高差500m、県道155号線の登り口からは平均斜度25°の険しい山容である。道は深い森の底を突き抜けるようひたすら走る。雲に覆われた空の光りは薄く頼りない。

 s-PA042740これより旧道.jpg

莫山氏が冬野の地を訪れたのは、その地にある亀山天皇皇子「良助親王冬野墓」に立つ墓標を見るためだったと思う。松尾芭蕉が歌枕を訪ね紀行「奥の細道」をものしたように、莫山氏もまたよく道標や墓標、歌碑などの石碑などを訪ね歩き「野の書」「路傍の書」などの著作を残した。

s-PB233206良助親王冬野墓石段.jpg

「両脇の刈込がきれいな石段をのぼりつめると『良助親王冬野墓』と彫った、さして大きくはない石標がたち、あたりはしめっぽい山の空気につつまれていた。(中略)それにしても。墓標の楷書の文字がよい。ものほしげさはみじんもなく、鋭い目をして淡々と、爽快このうえない気分を宿しているのだ。気韻清浄。この山に棲む苔むした字に魅かれる。明日香の野を歩いても、これほど透明な楷書の字は、見当たらないのである。」ああやっと莫山氏が教える冬野の墓標を目の当りにすることができた。

 s-PA042709良助親王墓所碑.jpg

墓標は意外に小さなものだった。およそ150p。上の四文字は染みのようなカビのような苔に覆われて読み取ることが難しい。下の三文字「冬野墓」は読める。あっさりとした涼しげな、石碑や墓標ではあまり目にすることのない軽快な楷書。


 s-PA042702良助親王墓石.jpg

良助親王の墓は道際の小高い山の頂上に造られている。盛り土をしたものではなく自然の地形を利用したもののようだ。墓所の裏側の急な石段を登れば墓石のすぐ近くまで行くことができる。
墓石は花崗岩で造られた五輪塔。それよりも石柵に寄りかかるように置かれた一対の小さなちいさな石造物が気になる。確信はないが多分、一石五輪塔と思う。こちらは安山岩に彫られたもののようだ。いつの時代に造られたものかわからないが、良助親王は亀山天皇の第四皇子で鎌倉末期の皇族である。風化の具合から見てその頃に造られたものと考えてもよさそうだ。中央の五輪塔とどのような関係にあるのだろう。わからない。

良助親王の墓を更に100mほど進むと冬野の里に着く。舗装道はここまででその先は多武峰へ行く道と、竜在峠へ向かう道とに分かれる。冬野の集落を外れると人一人がやっと通れる程度の道幅で一人で分け入って行くのはやや心細い。

 s-PA042731左よしの道.jpg

ここまで登ってきた山道は、今では人も車も滅多に通ることのない道であるが、昔は吉野へのぼる本街道であったという。『冬野の里には、行者を泊めたり旅人を憩わせたりする宿も民家とて沢山あったことだろう』
明治時代まで人や物資が頻繁に行き交い最盛期には30戸ほどの家があった。しかし、大正元年(1912年)に吉野軽便鉄道(今の近鉄吉野線)が開通すると次第に衰えたという。ちょうど百年前のことである。今も三〜四軒の民家を見るが、人が住んでいるのかどうかもわからない。

 s-PA042727釣船草.jpg
 路傍に咲く釣船草

莫山氏は言う。『わたしは、明日香の原風景は、冬野の里にある、と思っている。』莫山氏の言う明日香村の原風景がどんなものであるのか自分には謎ではあるが、冬野の里を目指すのは莫山氏の文に親しみ良助親王の墓標を確かめに来る人たちだけである。莫山先生の心の風景を見ることができたのだろうか。

追記 「冬野」地名の由来
冬野はもともとはタヲノで、これがトウノに転訛し、冬野と書き、フユノと訓読したと思われる。タヲは地形の窪んだところをいう。

posted by ハマー at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良を読む一冊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。