2012年07月20日

奈良毛原・長久寺「大師山」の開基「智龍」を追う

長久寺は奈良と三重県との県境、笠間川がえぐり取った大和高原の深い山峡の谷地に展開する
奈良県山添村毛原集落の中にある。

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 朝日に光る笠間川 向かいの山の先に毛原集落がある 
 
この寺の創建、由緒等は定かではないが江戸時代の終わり頃には住職不在の破れ寺だった。 
寺から200m程西へ行った集落の中央あたりに、奈良時代以前に建立されたと推定される古代寺
院の巨大な伽藍礎石がほぼ当時のままの配置で残り、礎石群を取り込むように家屋や畑地が広が
る。毛原集落の歴史の深さをうかがい知ることができる。

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 毛原集落の残る巨大廃寺の礎石

長久寺の裏山に四国八十八所霊場を模した「大師山」(だいしざん)というミニ遍路がある。
ミニ遍路といっても、平均斜度が45°以上もある急峻な長久寺の裏山の、崖に沿った獣道のよう
に狭いつづら折りの道を登るハードなコース。手摺もロープも無い、30〜50p程の高さの石段が
この遍路の厳しさを見せつける。足腰の衰え始めた自分のような年寄りや、脚の短い者にはかな
りきつい。
山の斜面に屹立する樹木が空を覆い、日暮れた森の中のように薄暗い。梅雨のこの時季、風のな
い山内は蒸し暑く、気が付けば全身汗だくになっていた。ミニ霊場などとあなどってかかっては
ならない。長久寺の遍路道はむしろ修験の道と言った方が適当かもしれない。

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 40pもある石段が続く         昼なお暗い遍路道 
     
明治七年(1874)、無住となっていた集落の菩提寺長久寺に、奈良・初瀬寺(長谷寺)で「仏教の
奥義を修めた」ひとりの僧侶が住職として就任した。宝山智龍という僧名を持つ33歳の青年僧
である。
この青年僧、天保12年(1841)出羽の国(現山形・秋田県)遠藤家に生まれた。詳しいことは分か
らないが、16歳の時(安政四年、1857)に出羽の国湯殿山注連寺に出家。その後諸国を行脚し、
28歳になった明治二年(1869)初瀬寺(長谷寺)で修業に入り、明治七年(1874)に無住荒廃した
長久寺に住職として赴いたとある。

 s-P7042026本堂への石段.jpg
 長久寺本堂への石段アジサイが飾る 

驚くべきプロフィルではないか。智龍は、幕末という日本が不気味に揺れ動き始めたその端緒
に出家し、300年間続いた江戸幕府が消滅し明治という新たな時代が立ち上がる激震のさ中に日
本を行脚するという危険極まりない行動に出た。そして続く廃仏毀釈というかつて仏教界が経験
したことのない苦難の時を、智龍は体験する。それまでの国教であり智龍自身の拠りどころでも
あった仏教は否定され、日本の寺院の大半が潰された激変の時をである。出家した智龍にも思い
もよらぬ事態、展開であっただろう。 

 毛原集落.jpg
 長久寺から見る毛原集落

長久寺の住職となった智龍は寺域に開設された毛原小学校で教鞭をとったとある。江戸から明治
に変わった明治五年(1872)、時の政府は学制を公布し、全国に小学校をつくり6歳以上の男女が
身分に関係なく通うことを目指した。長久寺の住職となった智龍が(寺小屋に変わる)小学校に容
易に職を得、とにかく生計の糧を得ることができたことは、僧侶の還俗、帰農を意図した明治政
府の思惑があったとしても、僧侶が大量リストラされた時代にあって、幸運であったかもしれない。
 
 s-P7021722長久寺発心門.jpg
 大師山への入り口「発心門」 

長久寺の住職に就いてから6年後の年明治十三年(1880)、智龍は病の床にあった。出家し長久寺
の住職となった二十有余年というもの、仏教は否定され、僧侶としてアイデンティティを保つこ
とが困難な年月の中、智龍は傷つき疲れ切っていた。
そんな或る夜、智龍の夢枕に金色輝く弘法大師が現れ、「本境内ノ裏山ヲ開キ仏法ノ興隆ニ一身
ヲ捧ゲヨ」との、お告げをうけた。壮年期を前にした39歳の智龍は、崇拝する空海に自身の力を
試されているのだと、瞬時に悟った。空海のお告げは僧侶とし無力感に焦燥し追い詰められる智
龍の心の叫びがもたらしたものだったに違いない。

 s-P7042082奥院磨崖仏.jpg
 奥の院の磨崖仏 右が開山智龍坐像 

明治十五年、智龍は三年足らずの期間で霊場「大師山」を創建した。自力で山を開き、自然を生か
しつつ四国八十八所に倣って多数の石仏を創り安置したという。
自力で・・・ということは組織の力を借りずに、ということであろう。長久寺の(当時の)本山であ
った東大寺も廃仏毀釈の荒波をかぶり、末寺の面倒を見る余力はなかった。

 s-P7042061特異な石仏.jpg s-P7021758静座緑陰.jpg

大師山の遍路道を辿ると大小さまざまな石仏に出会う。この長久寺の石仏の大きさはまったく不揃
いなのだ。至極大きく立派な石仏もあるが、中には自然石の上に頭を載せただけのように見える石
仏もある。きっと信者からの寄進を受けては、大小、見た目に拘らず一体、また一体と造っていっ
たのであろう。本山の助力に頼ることなく、自らの托鉢行脚のみで得た浄財でもってこの険しい山
を切り開き、道を整備し、八十八体から百体の石仏を揃え、安置することは並大抵のことではなかっ
たはずだ。
 
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 十六番観音寺

注連寺のこと
智龍が出家した注連寺は山形県鶴岡市にある真言宗智山派の寺院で山号は湯殿山。芥川賞作家森敦
の受賞作「月山」の舞台である。無論森敦が智龍のことを知るはずはないが、何十年も国内外を放
浪して注蓮寺に辿り着いた森敦と、注蓮寺を出て十年近くの歳月諸国を行脚した智龍の、入口と出
口いう裏表の関係の中心に注連寺があることに興味を覚える。

湯殿山の開祖は空海とされる。出羽三山が女人禁制であった江戸時代までは「女人のための湯殿山
参詣所」として信仰を集め、門前町の中心として大いに賑わった。智龍はその注連寺に出家するも
間もなくして諸国行脚の途につく。

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 やがてこの石仏も松や檜に覆い隠されてしまう

何故智龍は出家しその後間もなく注連寺を離れたのか。16歳から28歳という最も多感な青春時代を、
日本の国が激変激動した逆風の時代を智龍は諸国行脚した。何を考え、何を見たのか。そして何を
目指したのか。(そしていかなる経緯で奈良は長谷寺に辿り着いたのだろうか。)今はまだ何も分か
らない。

●参考URL
智龍上人
http://www.ne.jp/asahi/yuhi/net/chokyuji/chiryu_syonin.htm
湯殿山注連寺
http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/
posted by ハマー at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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