2012年02月29日

春隣り 二月の奈良

先の週末久しぶりに奈良を訪れた。週間天気予報に反して土日は時おり雪も混じる冷たい雨降りの天
気になった。この冬の寒さは全国的なことではあるが、調べてみるとこの二月は奈良でもここ3〜4
年のうちでも最も寒い2月となった。

 s-P2240050二月冬木の朝.jpg

あと数日で二月から三月に変わるが、葉を落としシルエットだけになった野山の木々も、よく見ると
真冬とは違うけぶるような赤みを帯びた色あいに変わってきている。まだまだ冬景色と言ったほうが
適当だが、路傍の石仏に供えられた菜の花や水仙の花を見ると、季節が冬から春に移りつつあること
を教えられる。
こんな時季を「春隣」と言うのだろうか。言葉は目にする景色とはまた違った情景を伝えてくれる。
確かによく見ると自然は春の装いの支度をしているように見える。

 s-P2250173村のご本尊さん.jpg 

2月24日(金) 山の辺の道 天気:曇りのち晴
山の辺の道に梅の花を撮るつもりで来たのだが、この寒さで里の梅の開花は例年に比べ大幅に遅れて
いる。花はまだ開かず固い蕾のままだった。去年の今頃はもう白梅は盛りの時期を過ぎようとしてい
たのに。
梅ばかりではない。椿も遅れている。やはり昨年の今頃、景行天皇陵から東に入った山中で「侘助」
の大きな樹を見つけた。その時は椿としてはやけに小さな花だなという程度の印象だった。後日その
花が有名な?「侘助」と知ってから、もう一度撮りたいと思っていた。今回改めて当時の記憶を頼りに
やっとの思いでその樹のある場所を探しあてたのだが、残念、これもまた固い蕾だった。

 s-P2240079櫛山古墳冬木.jpg 

山の辺の道を挟んで崇神天皇稜のすぐ東隣に櫛山古墳がある。この古墳は宮内庁の指定から外れてい
るので、ありがたいことに墳墓内へ自由に立ち入ることができる。しかも下草はきれいに刈り取られ
ていて、とても歩きやすい。里山の雑木林のようだ。
この古墳にはもともと周濠は無いが、墳墓の周りを取り囲む養魚池や水田があたかも濠のようにこの
古墳を守る。墳墓の内から見ると水田はまるで湿原のように見える。冬木立と重なり絵になってい
る。見通しのきく冬ならではの風景だ。

 s-P2240146渋谷町農家庭先.jpg s-P2240155割大根.jpg
 

崇神天皇稜と景行天皇陵の間に柳本町の集落が広がる。その集落に、山の辺の道を歩くとき必ず立ち
寄ることにしている一軒の農家がある。黒色のトタン板に覆われた茅葺屋根を持つ旧い家である。奈
良ではそれほど珍しいものではないが、都会ではけして目にすることはできない情緒あふれる家なの
だ。
その軒先に何やら白い簾のような何かが吊り下がっている。丁度買い物から帰って来たお母さんに聞
くと「わりぼし」と教えてくれた。大根を割って(縦に切って)干したものである。家に帰ってから調
べてみると、大根の産地では当たり前の一品のようだが、見るのも聞いたのもこれが初めてのことで
あった。

 s-P2240142どれでも百円.jpg 
 山の辺の道沿いの無人店舗 猫柳の花芽が春を告げる

2月25日(土) 田原本町 天気:雨
朝から雨。国道24号を唐子・鍵遺跡に向かう。田原本町(たわらもとちょう)に入る少し手前で大和川
を渡る。渡るといっても川幅10mにも満たない細い川にかかる橋である。
しかしこの川の両岸は枯れた蘆か葦に覆われていてなんだか郷愁を誘う魅力的な景色に感じた。車を
降り、堤防道を歩いて戻る。晴れていればこの川の先に大和の青垣と言われる山々の連なりが見える
はずである。山並みを入れるのは又の機会にするとして、とにかくシャッターを切る。

 s-P2250168大和川冬景色.jpg 

 2月26日 西ノ京 天気:曇り時々晴
ひどく寒い朝。平城京跡に寄ってから西の京へ向かう。山の辺の道では蕾でしかなかった梅が薬師寺
ではすでに花開いていた。山の辺と比べてもそれほどの高度差があるわけではないがそれでもここら
は幾分暖かいのか、こんなに蕾が開いている。
とりあえず梅の花を写真に撮った。今回の奈良の旅はこれで終わり。

 s-P2260271薬師寺の白梅.jpg s-P2260288紅梅薬師寺.jpg 




 
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2012年02月07日

残柿あるいは木守柿 冬の季語に写真

崇神稜の近く山の辺の道の傍にかつては果樹として栽培されていた大きな柿の木がある。いつもは足
もとを見ながら通り過ぎる階段道だが、今日は瑠璃色の冬空を背景にしたこの残り柿が目に入った。
どこか心惹かれるものがあって撮った。

 s-PC149800冬木.jpg
 「残り柿のある道」

俳句の冬の季語に「木守柿(きまもりがき)」という語があることを、最近よんだ句集で知った。
「木守」とは木の番人、木に残しておく果実、最後に残ったもの。本来は人が意識的に残した柿の実
をいうが、今では「木の上に残った柿」を指すようになったと。
「木守柿」なか含蓄のある語だと思う。残された柿に「来年も実るように」という、人の思いが込め
られていたとは。※「残り柿」も冬の季語に分類される、らしい。

 s-P2019845木守柿奈良山添.jpg
 「山里の木守柿」

この一枚は奈良市に向かう名阪国道の途中、山添村で撮った一枚。
稲田の畦道や山里に独り立つ赤い実を残した柿の木はいかにも田舎らしく風情豊かに感じる。柿は今
では全世界で栽培されていると聞くが、茅葺屋根に柿の木といえばいかにも日本の原風景のようで写
真の素材としても魅力的。こちらは「木守柿」を(タイトルに)加えてみたくなる。

 s-P2109531冬霞.jpg 
 「冬木立かすむ」

霞といえば春のイメージが強いが「冬霞」は言うまでもなく冬の季語。奈良盆地はその地形が故に霞
のたつことが多いと思える。
奈良県出身の歌人前川 佐美雄(まえかわ さみお1903 年2月 5日〜 1990年7月15日)に
「春霞いよいよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ」
という歌がある。霞なのか靄なのか霧なのか天気は良いはずなのに遠く近くが白くかすんでしまう日
が奈良ではほんとうに多い。
たださすがに真冬の間は曇り日が多いものの霞はたたない。冬霞は寒さがわずかに緩んで、なにかど
こか春の訪れの近さを思わせる時季に発生する。同じ霞でも、景色そのものはいまだ冬景色そのまま
である。
 
 s-P2019567冬枯れ車谷.jpg
 「雲走る冬枯れの水辺」 

最後の写真、山の辺の道沿い桜井市の檜原神社近く車谷の溜池を切り撮ったもの。
「雲走る妖し水影冬の空」。さてこれにはどんなタイトルをつけようか。
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2012年02月05日

真冬の奈良 高取山の五百羅漢

壺阪寺から高取城跡に登る山道の途中に「香高山(こうこうさん)石仏群」といわれる千体近い磨崖仏
がある。五百羅漢や菩薩、如来、明王、明神などの神仏を彫り出したもので、別名「香高山異石霊
像」とも呼ばれる。

s-P2029878二月二日朝壺阪寺.jpg
二月二日壺阪寺の朝


この日、高取山は強風に乗って日本海から押し寄せるように運ばれる雪雲に覆われていつまでも夜が
明けきらないような朝を迎えた。落葉した冬の山とはいえ雑木の間を抜けて通る細道は薄暗く、木々
を渡る風の音はゴーゴーとなにか空恐ろしく響く。前にも一度来たことのある道だが独りで行くには
なにか心細くさせるものがこの山にはある。

 s-P2029981高取城跡五百羅漢.jpg
 高取山の五百羅漢磨崖仏


山道を分け入ると初めに目にする磨崖仏は安山岩の山肌に彫られた百体ほどの羅漢像。雨風にさらさ
れ続けた石仏たち今はもう目鼻もはっきりしないのに、レンズを通してなお強い視線を感じる。数十
体の羅漢が皆こちらを窺っているのだ。
こいつらは生まれてから五百年以上経っているだろうに未だ息を密め訪れる人間を見つめている。
菩薩になれないまま岩に貼りつけられ、声にならない声をあげ、道行く人に救いを求めているかのよ
うだ。

 s-P2029934高取山の石仏群.jpg s-P2029946弔いの谷.jpg
 

先に進んで行くと突然に明るく開けた場所に出る。崖といってもよい急峻な山肌に彫りこまれた無数
の石仏たち。おそらくかつてはこの崖全面が石仏に覆われていたのだろう。岩肌に浸み込む雨水の侵
食を受け長い年月の間に岩肌は深く分断され、大きな岩塊となってずり落ちあるいは転げ落ちたりし
ている。崖の上から目の前にまで展開するこの膨大な数の小さな石仏たちもいつかは全て消えてしま
うかもしれない。

 s-P2029952兵どもの霊なのか.jpg 

この石仏群は高取町観光案内によれば「1596〜1614年に本多因幡守が、高取城築城の頃、石工等に
作らせたものとされている」とある。因幡守とは高取城主本多俊正(1551〜1614)のことと思われる
が、五百羅漢像の著しい風化の具合から見て、作られたのはもっと古い時代に遡るのではないかと思
える。比較的柔らかな安山岩に彫られた石造物とはいえ、四五百年でこんな姿になってしまうものだ
ろうか。

 s-P2029880高取山の羅漢磨崖仏.jpg 

しかしそれよりも、豊臣秀長の命を受けて城郭の拡大整備に当たった本多俊正が、工事の合間に石工
に命じて五百羅漢をはじめとする神仏像を作らせるだろうか。近在の石仏や寺院の基壇、古墳石室の
石材を収奪してまで城塁造りを急いだ秀長や俊正が、改めて石仏を作ろうと思うはずがないと思える
のだ。
或いは下剋上の世とはいえ殺戮と裏切りの我が人生をはかなんだ俊正が鎮魂の願いと自身の浄土行を
願って作らせたものであろうか。いやそんな余裕があったとも思えない。
そもそも野や山に残る石仏たちは貧しい庶民層のものであり、武士や貴族など富裕層のものではない。

では、誰が作らせたのか。
戦にかり出され、命を懸けて戦い、生きて地獄を見てそして殺されていった者たちの無念を、残され
た者たちの無念が作らせたのではないのか。勝者であるものが作らせたのではない。思いは巡る。

 s-P2029998高取城跡.jpg s-P2020011高取城本丸石垣.jpg
 高取城跡の石垣

香高山石仏群を撮っていた3時間ずっと雪が降っていたようだ。高取城跡は今降り積もったばかりと
わかる雪にすっかり覆われていた。
奈良盆地を見渡す標高583.3m高取山の頂きに残るこの壮大な石垣を含む城郭は安土桃山時代の
1858年から江戸時代初頭にかけて構築された。その後300年の間、威容を誇った高取城も明治24年ま
でには取り壊され石垣のみが残った。この城に起居した人の気配はどこにも感じられない。ただ風が
吹いているだけだった。
急に、先ほどまで撮っていた香高山の石仏群たちは妙に騒々しかったなと思い出された。

 s-P2020001高取城跡からの吉野眺望.jpg
 城跡から吉野方面の眺望
 
posted by ハマー at 13:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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