2011年11月30日

山の辺の道 奈良市鹿野園の景色

奈良市鹿野園町にある奈良春日病院に、鹿に囲まれる仏陀の像がある。悟りを開いたのち初めて説法
をした鹿野園(サナルート)の伝説をデザインしたものと思う。
この像は、確かめていないが、1980年(昭和55年)に病院ができた時に建てられたものと思う。鹿野園
町の中で唯一町名の由来を教えてくれる貴重な建造物と言えそうだが、病院敷地のもっとも奥に位置
しているため外部には全く知られていない。

s-PB279411托鉢菩提僊那像.jpg

最近奈良市(観光企画課)が奈良市内を通る「奈良道」と名づけた新たな山の辺の道のルートを決たよ
うだ。山の辺の道が鹿野園町の何処を走っていたのか実際のところは分からないことなのだが、試し
にこの「奈良道」を歩いてみた。

s-PB279378鹿野園町奈良道.jpg

町名以外、目に見えるこれと言った名所や旧蹟のない町と思うが、さすが奈良だけのことはある、道
端に古い墓所を見つけた。

s-PB299483鹿野園町古墓地.jpg


歴史地理学者・千田稔氏は著書「風景の考古学」の中で、山の辺の道を「葬送の道」と捉え持論を展
開している。
要点だけを抜粋すると、『「山の辺」の道、つまり、山の上でもなく中腹でもない、おそらく山のふ
もとあたりを走っていた道があって、その辺りに死者を埋葬する墳墓がつくられた。「山の辺の道」
というのは、もしかしたらふつう日常生活者が歩くような道ではなく、死者を弔うための「葬送の
道」だったのではないか。』と

s-PB279394夏の忘れもの.jpg

鹿野園町のこの古い墓所は後方に高円山を見る場所にある。この古い墓所の前を南北に走るこの道は
まさに、葬送の道としての山の辺の道だったのかも知れない、と思えてきた。
posted by ハマー at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

東大寺26年ぶりの授戒会について

奈良・東大寺で去る11月7日から9日まで「授戒会」が26年ぶりに行われた。授戒会(じゅかいえ)は
僧侶に戒律を授ける儀式で、東大寺の僧侶7人は3日間かけて「沙弥戒」「法同沙弥戒」「具足戒」
と呼ばれる戒を受ける

 s-PB089241授戒会僧侶の草鞋.jpg
 受戒する七人の僧侶の草鞋

「沙弥戒」は出家した者(沙弥 しゃみ)が持つべき十戒のことで、@不殺生(生き物を殺さない)、
A不倫盜(盗みをしない)、B不淫欲(淫欲に耽らない)、C不妄語(うそを言わない)、D不飲酒
(酒を飲まない)、E不花髻瓔珞香油塗身(装身具や香を付けない)、F不歌舞作唱故往観聴(歌や
踊りを見聞しない)、G不坐臥高広大床(広く高い寝台に寝ない)、H不非時食(正午以後食事しな
い)、I不捉金銀銭宝(金銀財宝を蓄えない)の戒(いましめ)のことである。
「具足戒」は出家した者がその教団内で守るべき戒律条項のことで、通常、比丘(男)は250戒、比
丘尼(女)は348戒とされた。内容を知らないが、会社の就業規則のようなものであろうか。
「法同沙弥戒」は調べてみたがどういうものなのかデータがなくわからない。 ※3 戒律

 s-PB089256受戒七僧侶.jpg 
 戒壇堂の山門をくぐる僧侶たち

日本の仏教は明治以後妻帯、住職の親族への世襲が許されているから沙弥十戒の全てを実践するのは
非現実的であろう。また250もの戒律遵守というのは更に無理があるだろうし、この具足戒は鑑真が中
国から日本にもたらしたが当時にあっても環境、風習の違いから全く根付かなかったものという。

 s-PB089265戒壇堂授戒会.jpg 
 戒壇堂に向って整列するする七人の僧侶

東大寺の授戒会は約1250年前、唐から来日した鑑真和上が聖武上皇や光明皇太后らに授戒(菩薩戒)
を行って以来の伝統で、かつては一人前の僧侶(奈良時代にあっては「官僧」)として認められるため
の大切な儀式だった(時代もあった)。
今回授戒を受ける僧侶は東大寺の塔頭住職試験「竪義」(りゅうぎ)にパスした面々である。という
ことは、一人前の僧侶というよりも将来東大寺境内にある子院・僧坊つまり塔頭の新住職になること
を承認しますというような形式的儀式と考えた方が妥当と思う。多分授戒は「巻物」の授与というこ
とであろうと(勝手に想像している)。※2 授戒の手続き

 s-PA182798塔頭・龍松院.jpg 
 塔頭・龍松院 住職は筒井寛秀氏

しかし「26年ぶり」ということはどういうことなのか。伊勢神宮式年遷宮の20年よりも間が長い。
東大寺境内には住職およびその家族が生活する○○院、○○坊と呼ばれる塔頭(たっちゅう)が15ヶ所以上
ある。※1
その家屋、敷地については殆どが世襲というか親から子に相続される。もし男子がいなければ養子を
とって家名を継がせるが、例え子供がいても僧侶になることを拒めばその塔頭は無縁の僧侶が継ぐ。
後継者がいない時は、住職が亡くなった後、残された家族は寺を出なければならない。東大寺の授戒
会が26年ぶりに行われ7人の僧侶が受戒したということは、七所の塔頭において新住職への世襲、交
代の時期が近いということであろう。

 s-PB089260戒壇堂授戒会.jpg
 僧侶入山の後戒壇堂の山門は閉められてしまった。

26年ぶりに行われた授戒会であるがマスコミを含む外部の人間をシャットアウトした戒壇堂で行われ
た。東大寺の授戒会は奈良時代から続く伝統ある儀式であるが、今では塔頭の継承儀式のような観が
ある。
としても、1200年以上前の様式を今に継承している点はすごいことと思うし、垣間見ただけだが
実際に厳かで美しく緊張感あふれるセレモニーだった。
それ以上に「授戒・受戒」ということを知ることにより僧侶というものがどういう人たちであるべき
かの本質を知る良い機会でもあるので、是非公開の場で行って欲しかった。この日自分は、たまたま
戒壇堂前の桜紅葉を撮りに来てこの儀式に遭遇したのだが、次の機会はないだろう。

 s-PB089247戒壇堂授戒会の朝.jpg
 受戒会儀式を待つ戒壇堂

※1 『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂
宇をもたないものもある。真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に竜松院、竜蔵院、持宝院、宝厳
院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北
林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ
残っている。

 s-PB166573戒壇堂桜紅葉.jpg
 平成23年戒壇堂前の桜は紅葉することなく葉を落としてしまった、22年秋の桜紅葉

※2 授戒の手続き 『(前略)聞くところによると、具足戒の授戒でも、一々たくさんの戒を挙げるの
ではなく、基本となる不殺生などの五戒について、命のある限り守ることを誓うか、と受戒者に尋
ね、受戒者は一つ一つを守ることを誓うという形式なのだそうです。(中略)考えてみると、これは戒
律の基本とはいっても、そればかりを僧になる人に改めて誓わせて終わるというのは、単純すぎるよ
うです。総じて日本では授戒が盛んだったとはいえず、古代末から中世初めには全く絶えた時期もあ
ったわけですから、いまの授戒の作法は、戒律が復興された時点で採用された、簡略なやり方ではな
いでしょうか。』東野治之「鑑真」(100〜103頁)

※3 戒律は、道徳的な戒めと僧たちが共同生活を営むための規律であり、仏教の本質と切っても切れ
ない関係にある教えだが、日本のように僧侶の無戒が公認されている仏教は世界に類がないことを、
日本人は自覚しておくべきことである。東野治之「鑑真」(178頁)

※参考図書
「東大寺辞典」、「誰も知らない東大寺」、東野治之「鑑真」岩波新書


posted by ハマー at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月03日

明日香村 猿石と欽明天皇

猿石は元禄15年(1702)明日香村・欽明天皇陵のある平田地区の田んぼから掘出された四体の人面
石像である。猿石と名づけられるだけのことはあって、両脚を折り曲げて座す姿はよく目にする猿が
くつろいでいるときの形に似ていると言えないこともない。現在は天皇陵に隣接する吉備姫王(欽明天
皇の孫娘)の墓内に置かれている。

 s-PB018957欽明天皇陵日暮.jpg
 夕景欽明天皇陵

それぞれに「女」「山王権現」「僧(法師)」「男」と名前(ニックネーム)がつけられている。いつ、
誰がそう命名したのか知らないが、あまり感心したものではない。山王権現は天台宗の守護神である
が、神の使いとして猿を崇拝することからこの石像が猿に似ているので安易にそう呼んだものと推測
できよう。

 s-PB018931猿石・女.jpg s-PB018920猿石.jpg

 s-PB018925猿石・法師・男.jpg

猿石が吉備姫王の墓に置かれるようになったのは明治初年ごろのことで、それまでは欽明天皇陵の南
側に置かれていたという。吉備姫王の墓の鳥居の鉄柵の中に置かれたその光景にはなにか異様な感じ
を受ける。猿のように見えなくもないが、渡来人を象ったものといわれている。性器を強調している
像(山王権現)を見ると、土偶が変化した石偶(という言葉があるかどうかわからないが)そのようなも
のかも知れない、と勝手に想像する。

 s-PB018987道標石仏.jpg s-PB018968石仏道標.jpg 
 飛鳥歴史公園舘から欽明天皇陵に向う四つ辻に立つ

なぜ天皇の墓近くに渡来人の石像が置かれていたのかその理由はわからないが、当時(6世紀)の飛鳥
(明日香)の人口の八〜九割までが渡来人(帰化人)であり、彼らが技術、文化をリードしていたという
から、渡来人の石像があったとしても特に不思議なことではない。真偽の程は不明だが、現天皇家の
祖といわれる欽明天皇が渡来人であったという説もあるらしい。
※ http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai36-Kinmei.html  「欽明天皇の真相」参照

 s-PB018817高松塚古墳.jpg
 高松塚古墳秋景色 

明日香村には、製作年代や用途不明な不思議な石像物が多くある。明日香村の高松塚地区を訪れたの
は1972年に高松塚古墳が発見された年に訪れて以来40年ぶりのことである。「アァ あれから40年」
なにを見られるのか、何を撮れるのか・・・また訪ねてみたくなった。
posted by ハマー at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。