2011年10月30日

ならまち十念寺・お化粧地蔵 

この地に旧くから住む人の間では厚化粧した女を「金比羅さんの地蔵さんのようだ」と云ったそうだ。
今でもそう言われるのか知らないが、語源となった金比羅さんの地蔵さんは、ならまち(奈良市南風呂町)
の十念寺に祀られている。この寺の正式名称は「忍性山愛染院金比羅十念寺」と号し、それで金比羅
さんとも呼ばれる。

s-PA223346化粧地蔵.jpg
 お供えのリンゴとコーヒーはわかるがジャガイモは?

化粧の風習は古墳時代(4〜6世紀)に遡るが、女性の化粧が当たり前になったのは明治時代以降のこと
で、現代の女性のように顔面全てに化粧を施すようになったのは昭和も戦後のことと聞く。
子供の頃(昭和30年代)中学校の美術の先生がアイシャドウやラインをしているのがとても珍しくて話
題になっていたことを覚えている。今思えば多分東京の美術大学を出てすぐに赴任したのだろう、お
姉さんのような年齢だった。
当時の名古屋では濃い(派手な)化粧をするのは映画女優や夜の職業に従事する女性に限られ(ていたと
思うが)、周りの大人たちは一般女性でそのような化粧をした女性のことを何故かいまいましそうに
「パンパン」と呼んでいた。(どういう意味かわからなかったがなんとなく良い意味ではないと感じて
いた)

 s-P1070770十念寺地蔵尊.jpg
地蔵菩薩の性別は不明だが様ざまな人や生き物の姿に変化する

「金比羅さんのお地蔵さん」という言い方、気位の高い奈良の人々においては、金比羅さん=花街=
遊女=厚化粧と揶揄した物言いであろう。『十念寺のお地蔵さん』とは決して言わない。
興福寺の南、猿沢池あたりから十念寺あたりは東大寺や興福寺の門前町として栄え、西寺林町や東寺
林町あたりは寺社詣での夜の遊び場としての面影を今に残す。
十念寺界隈は「木辻の郭」とも呼ばれる遊里として繁盛し南東の鳴川(なるかわ)町とともに遊廓
(ゆうかく)を形成したという。

s-PA223350十念寺山門.jpg
 小さな山門でつい見過ごしてしまいそうだ

十念寺のお地蔵さがいつの時代からお化粧をしていたのかは不明だが、享保三年(1718)の銘があり、
彫られた当初はピカピカの石地蔵さまのままであったはずだ。ところが十念寺を含むこの町一帯は僅
か二年後の享保五年の火災により全て焼失した。石で造られたこのお地蔵さま姿こそ残ったものの光
背は頭上のあたりで割れ落ち、炎火に焼かれた岩肌は煤で赤黒く変わり果ててしまった。

s-P1070764十念寺.jpg
 1729年(享保14)再建の本堂屋根はさすがに歴史を感じさせる

その九年後享保十四年に本堂や愛染堂は再建された。長い間風雨に曝されていたお地蔵様は、当時京
都で流行っていたお化粧が施されお堂に祀られることとなったと推測しても、場所柄そんなに的外れ
なことではないだろう。粋な仕様ではないか。

このお地蔵さんもともとは瘡(くさ:できもの)を直す菩薩さまであるが、一つだけ願いを聞いてくれる
「一言地蔵」とも呼ばれる。何かと忙しい現今では(扉の奥に隠れたご本尊よりも)このお地蔵さまへ
のお詣りのほうが人気があると聞く。
posted by ハマー at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月22日

コスモスの花と法起寺の三重塔


「トレビアン! 」、コスモスの花と三重塔が作り出した景色を前にして思わず口をついて出た。
三重塔にしろ五重塔にしろ奈良の景観に欠かすことが出来ないが、仏塔にこれほどに調和する花は
コスモスの他にはないだろう。この時季の花としては菊の花もあるが、ちょっと線香くさい。
尾花(ススキ)もよく取り込まれる植物だがこれはちょっと古典的すぎる。

 s-PA208517法起寺五重塔初秋.jpg

法起寺の国宝三重塔は今より1300年以上前の飛鳥時代慶雲3年(706)の建立で(三重塔では)現存す
るわが国最古最大の塔である。法隆寺の五重塔と同じ頃(710)の創建で、法隆寺の建造物(堂塔伽藍)
とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
これまでに三度入場(参詣)したが、そんなにすごい歴史が秘められているとは思えないというか、(狭
い)境内を隈なく廻はっても、いまひとつ心に響くものがないのはどうしてだろうか。
法起寺の境内には、なにか乾いた風が吹いているようなそんな感じがする。

法起寺の周りを彩るコスモスの畑は、斑鳩町役場が斑鳩の里の風景・景観を保全するため地域周辺の
休耕田を活用して栽培管理している。法起寺とは関係ないとある。しかしこのコスモスの花は法起寺
の景色を随分華やかにそして生き生きとしたものに変えてくれる。
春のレンゲや秋のコスモスの花が三重塔と相まった時、まるで彼岸の世界を見ているようだと考えた
とき・・・法起寺の印象が少し変わった。

posted by ハマー at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

奈良弘仁寺あたりの山の辺の道

弘仁寺のある奈良市高樋町あたりは五ヶ谷川と菩提山川の合流する扇状地で、なだらかな山裾に広が
る稲田と背後の大和高原に連なる小高い山々とが巧みに調和する、奈良市郊外の中でも一際美しい風
景を見せてくれる。

 s-PA018321虚空蔵山谷地棚田.jpg
 虚空蔵山の南の狭い谷地を下る棚田

地元の人はこのあたりのことを「清澄の里」と誇らしげに言うが、そのことは奈良の人々にもあまり
知られていないと思う。平城京に都があつた頃、藤原仲麻呂等都人の別荘があった地域で清澄の里と
呼ばれていたことに由来する。1200年以上前の話である。
しかしそれよりもこの土地が今も昔と変わることなく風光明媚な自然のままであることのほうに驚か
される。奈良市と天理市の市境にあったことが幸いしたのかこの一角だけは都市化から逃れることが
できたのだと思う。

 s-PA018386み.jpg s-PA018332稲架.jpg
 籾がらと玄米を選別する農具「箕」 今では珍しい稲干「ハサ掛け」、屋根は透明ビニール葺きに変わった

弘仁寺のある虚空蔵山のすぐ西は天理市和爾町となる。その市境を南北に山の辺の道が走っていたと
思われるが、この地区は平成19年までに完了した大規模な圃場整備のためかつての面影は消え、何の
予備知識なくそれらしき道筋を見つけることは難しい。

堀池春峰氏(1918〜2001)が南都佛教第10号(1961)に寄稿した「山の辺への道の古代寺院と氏族」
に、『(虚空蔵絵図に)虚空蔵山の西方、山口明神と願興寺の中間を南北に走る道は「願興寺東横道
也」とみえ、これはやや東南して「大道也」と記載されている。即ち「山の辺の道」で現在も奈良道
と伝えられ、道幅は狭小になっているが現存している。』と記している。山口明神も願興寺も現存し
ないが、堀池氏のいう山の辺の道=奈良道は舗装され車の通行に快適な道として今にある。
だが、その道の上に立って見ても山の辺の道のイメージは全然浮かばない。堀池氏の寄稿から50年、
半世紀が経過しているのだ、いや1500年以上も前にあったとされる道を求めることが無理なことなの
だから。
 
 s-PA028436山の辺の道.jpg 和邇遺跡・弘仁寺周辺地形図.jpg
 先史時代の幻の古道「山の辺の道」は今 

山の辺の道は桜井市金屋から奈良市の春日大社に至るかつて実在した歴史上の道だが、弘仁寺の山を
隔てたすぐ南側の一帯は、1965年12月に開通した名阪国道と、東大寺山遺跡の上に1970年に竣工し
たシャープ総合開発センターの出現により、天理市と奈良市の間の山の辺の道のロマンはそこで完全
に分断され消滅してしまった。更に1995年の白川ダムの完成(白川ため池拡幅工事)がとどめをさした
とも言えよう。

 s-PA018401左こくうぞう.jpg 
 山の辺の道の標識の下に文政四年(1821)の石の道標が
「左こくうぞう 右いがいせ」


現在近畿日本鉄道が提供するハイキングマップ「北・山の辺の道」は、高樋町あたりに限って云えば
かなり不適当なルートを示す。山の辺の道は奈良盆地の東山麓、標高70〜80mライン付近を通ってい
たはずなのだが、このマップでは高樋町の標高120mライン通る。しかも弘仁寺の参道を(標高160m)を
登り境内を通過して参道を下ることになる。(弘仁寺の境内を通過するには入山料200円を投入する必
要があるが・・・他に迂回路はない。

 s-PA018406弘仁寺シオン.jpg
 虚空蔵山弘仁寺のシオン 

初秋の今、弘仁寺の境内はシオンの花が見頃。この時季野山を行けばふつうに目にする花だが、奈良
時代かそれ以前に中国から渡来したらしい。シオン(紫苑)の根は鎮咳と去痰の薬効があり、今日も製
薬として利用されている。薬用として導入されたものが、花の美しさゆえ観賞用に栽培され普及する
につれ野生化していった。
奈良で撮った草木の由来を調べてみると、今では見向きもされない多くの雑草や雑木が食用や薬用あ
るいは生活用具の材料として使われていたことを知り驚かされる。

弘仁寺境内に咲くシオンは先々代の御住職の奥方が好きで植えた事がはじまりで、境内に群生するよ
うになったという。シオンは仏花に供するので農家の畑でもよく栽培されているのを目にする。

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 夏の名残 夕風に吹かれ寒そう 

山の辺の道を探してこれまでに何度も訪れた高樋町だが、ここはやはり「清澄の里」として語り継が
れる美しい自然を残していって欲しいと思う。深まる秋にしたがいもっと美しい景色を、これからも
見せ欲しい。


※「虚空蔵絵図」: 東大寺図書館蔵 鎌倉時代から南北朝初期に描かれたもので弘仁寺や遺跡願興寺
の位置・現状を示す唯一の資料。
※弘仁寺ホームページ
http://www8.ocn.ne.jp/~kouninji/
posted by ハマー at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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