2011年07月31日

西念寺・奈良福住萱葺屋根の寺

名阪国道福住ICを出て旧道(R25)をしばらく行くと道の真正面に唐突に茅葺屋根が現れる。
通り過ぎてしまうには惜しくて車を止めた。鐘楼があるところを見ると寺のようだ。
今では奈良の山中でも茅葺(草葺)屋根の民家を滅多に見ることができないが、逆に寺院や神社の場合
は少ないもののたまに見る。地図を見ると西念寺とある。

 s-P7296660福住・西念寺.jpg 
 蓮台山来迎院西念寺 長楽寺(廃寺)の里坊だった

西念寺の境内に入って適当なアングルを探す。道路から見ると結構な眺めなのに寺内に入るとどうに
も収まりにくい。狭い境内、本堂前に大型の白い乗用車が止め置かれ、いたるところ日常の生活にかか
わる雑多なものが目につく。
カメラは入れたくないものも写してしまうのが面倒なところたが、今更それを愚痴っても始まらない。

 s-P7296653ノウゼンカズラ(凌霄花).jpg 
 ノウゼンカズラは寺院によく映える

境内の写真を諦めて、寺の奥、裏山に登る。山上から寺の全景を撮れればと考えてのことだが、上は
小さな墓地だった。福住町の墓所のようだ。
西念寺の詳しい創建年代は不明だが、調べてみると南北朝時代の1384年頃にはすでにあったと考えら
れる。この寺は当時の土地の有力者福住氏の菩提寺で今も一族の墓石が残されている。福住氏は江戸
時代の直前に没落しためたその家系のことは忘れられてしまったが、町の名として今に残る。

 s-P7296617西念寺法界塔.jpg 
 西念寺法界塔「南妙法蓮華経」の文字が刻まれている

墓地の隅に旧い墓石を集めた塚(無縁塔)があった。塚の真ん中に「南妙法蓮華経」と彫られた法界塔
が建っている。
いつものことだが、この(多くは)ピラミッド型に積まれた無縁塔というものに何か異様なものを感じ
る。墓石は死者と生者を結びつけるもの(卒塔婆)である。役割を終え一箇所にうず高く積み上げられ
た巨大な卒塔婆は、避雷針のように死者の数だけ増幅された霊的エネルギーを呼び集めてしまうので
はないのかと。霊の存在を信じているわけではないが、ついそんな想像をしてしまう。山上に呼び集
められた霊たちは・・・それから何処へ向うのだろうか。

 s-P7296626桔梗の花・西念寺.jpg s-P7296630ヤマユリ・西念寺.jpg
 墓地に咲く桔梗とヤマユリの花

来るときには気づかなかったが福住町の入り口の道路脇に立派な石仏があった。笠地蔵と呼ばれている
が「阿弥陀笠石仏」が正式な名称とのこと。
人の話では、以前はすぐ横の水路の脇に体半分が土に埋もれるようにしてあったという。その後、県
道を整備した時に救い出されたのだろう。
鎌倉時代後期1311年(応長)元年に彫られたもの。今から丁度七百年前のことになる。

 s-P7296697笠地蔵.jpg
 笠地蔵(阿弥陀笠石仏)奈良県天理市福住町入田

いったいどれほどの数の人々がこの笠地蔵に向って拝礼したことであろうか。どれほどの数の人がこ
の石仏の前を通りすぎたことであろう。
西念寺で見た無数の無縁仏やこの路傍に佇む石仏たちは、問いかければ壮大な歴史物語を教えてくれ
る。もし、この石仏に記憶(記録)のメカニズムがあるならば、その映像を確かめることができるのだが。

 s-P7296619西念寺仏塔.jpg
 天理市福住町西念寺無縁塚 

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2011年07月28日

平群谷の夏

信貴山奥之院への参拝に始まって、今年の7月は毎週平群町に来てしまった。先回これで最後と思った
のだが、何か見落としたような、まだ何か発見があるような気がするのだ。

 s-P7266600平群谷の菊畑.jpg
 稲田の上に菊畑が広がる。平群町は小菊の出荷量日本一

平群町の南端、信貴畑地区は小さな谷と尾根が折り重なる複雑な地形で、深い森や藪が人の往来を妨
げる。住居と田畑を結ぶのは人一人がやっと通れる程度の踏み分け道があるだけ。アップダウンもき
つくて人がそこで生活をするのはかなり厳しい環境と思える。
目と鼻の先に見える谷を隔てた隣の集落へ行こうにも道は谷地の田圃で行き止まりになり、先に進め
ない。そんなわけだから点在する集落は一つ一つが孤立していて、それぞれが異なる雰囲気を持って
いる。それぞれの集落がまるで隠れ里のように佇む。

 s-P7266539平群町信貴畑土壁の家.jpg s-P7266545平群町福貴道標.jpg 
 松永久秀の信貴山城へと続く大手道にある道標と石灯篭

しかし、旅行者にとってはそれが生駒山中にある平群の魅力になる。道を歩いていると自分がストレ
ンジャーというか異邦人になったような気分になる。そこだけが時間の流れが止まってしまったよう
な家並みや、散見する石仏や石の道標。
今も集落の入り口には、村内に疫病や害を為す者を拒む勧請縄を張る慣習が残されている。そんな旧
い村落と生活が平群谷にはある。

s-P7266552畦の石仏.jpg s-P7266505福貴.jpg
 水田の畦にある井戸端の石仏          福貴四等三角点にある石仏群

s-P7266595信貴畑勧請縄.jpg s-P7266592信貴畑のお堂.jpg
 「信貴畑勧請の地」                室町前半頃の舟形如来坐像と十三仏
posted by ハマー at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

巨大女陰岩信仰 奈良平群町


神秘の里 奈良平群町

平群町は西の生駒山地と東の矢田丘陵に挟まれた谷地に拓かれた町で、北から南に流れる生駒川沿い
の低地から山麓にかけて田畑が広がる。大阪のベッドタウンとして急速に市街地化が進んでいるもの
の、起伏に富んだ山谷の連なる美しい盆地である。

 s-P7126371椿井集落から生駒山地遠望.jpg

町の三分の二以上を生駒山地が占める平群町であるが、地図を見ると神社が20社、寺院が43寺あり、
これらの神社が生駒・矢田山系の山麓地帯の山かげのあちこちに分布する。

平群町の神社に特筆すべきことは、この20社のうち8社が平安時代972年に顕された延喜式内社の神
名帖に記載されていることである。個々の神社においては古墳時代に遡るものもあるだろう。実際に
訪ね見るに古びた神社が多い。一千年以上もの間、この地に住む人々に支持されてきた社である。

 s-P7056104平群町杵築神社.jpg


平群石床神社

平群町の南、伊文字川近くの山裾に『高さ九m、横幅十八mの巨岩がある。古来これが御神体とされ、
その中央の裂け目が女陰をあらわし、性崇拝の対象とされてきた。性の営みと関連づけて作物の豊饒
を祈る原始信仰の社である。(中略)元は石床そのものの霊を祀ったものである(らしい)。』(谷川健
一 『日本の神々4(大和)』白水社)

 s-P7146427平群石床神社.jpg

夏の盛りのこと境内は雑草に覆われ足を踏み入れるのに躊躇させられる。
旧い写真(‘06)を見ると巨岩を一見できるが、今は樹木が遮り問題の裂け目は見えない。岩の巨大さ
はよくわかる。写真を撮るために鳥居の向こう、樹木の裏側に入りこむ。岩の下に立つとその大きさ
に圧倒させられる「この岩が崩れたら、下敷きになって・・・・」と一瞬怯む。
岩は自然な状態というよりも削り取ったような、切り取られたような形状にも見える。ここは、こと
によると古墳時代の採石場だったのではないのか、と疑問が湧いてくる。

 s-P7146434平群石床神社巨岩.jpg

確かに見事な岩の割れ目いや裂け目があった。ファインダーで切り撮っていると、本当に女陰に見え
る。でも女陰を想像してもそれはけっしてイヤラシイことではない。ここは先に用意された信仰の空
間なのだから、恥じることはない、思い浮かべ崇め敬うべきものである。

 s-P7146445平群石床神社裂け目.jpg

この巨大な岩、石床神社の旧社地にあるのだが、朱塗りの鳥居が立ち今も少しは土地の人々の信仰を
集めているようだ。しかし、何故この見事な御神体を見限って別の場所に遷座したのだろう。大正十
三年(1942)のことである。考えられることは、この前年の9月に発生した関東大震災の影響。きっと
岩の崩落を心配した村民が安全な現在の場所に移したのではなかろうか。関係ない話であるが。


生駒山口神社
生駒山口神社は近鉄生駒線元山上口駅から西北方向に上がった小山の頂上にある。神社のすぐ間際ま
で住宅団地が迫る。
境内に入ってわかったが、この神社には昨年の冬一月に来たことがある。千光寺へ行く道の途中たま
たま参拝したことがあった。今日はこの神社の下を流れる櫟原川の神前橋あたりにあるという「御幣
岩」を撮りたくて来た。

 s-P7106240御幣岩・生駒山口神社.jpg 

毎年10月に行われる「オハツキ」という例祭が行われる。お旅所(オハキ)に遷座されるご神体の送迎
に奉仕をする当屋(とうや)と当屋補佐(ケニヨン=給仕人)の二人は祭りの間、社前の櫟原川の渓流で
禊を続ける習わしがあり、「御幣岩」は河原の禊の場にある。
岩に刻まれた御幣の中には、祭りの期間生駒山口神社のご神体である素戔鳴命(すさのおのみこと)の
守護神である不動明王が勧請(分霊)される。つまりこの岩は不動明王そのものということになる。
禊の場に不動明王像が祀られていることは珍しいことではないが、岩に刻んだ御幣を見たのは初めて
で、他に例がないのではないかと思う。磨崖仏の一つと考えてもよいだろう。

 s-P7146417椹原集落坂の家.jpg

神社を境に、東側には住宅団地が立ち並ぶ日常の景色が広がり、一方、神社の西、生駒山地に続く農
村地域には今も尚古代から連綿と繋がる精神世界があるというその両価性にショックを受ける。
この落差が産み出す感覚こそが平群町の魅力というか、自分をひきつけてやまない理由かもしれな
い。神秘の里、平群町。
posted by ハマー at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月13日

平群町・矢田丘陵の春日三社について

平群町を南北に貫く竜田川の東、田畑が森に変わる山裾を行くと、一定の間隔を置くようにして建つ
神社や寺に出会う。

平群町には春日神社を称する社が平等寺、椿井にある。両神社に挟まれてある船山神社も大正四年頃
までは安明寺の春日神社だった。竜田川をはさんだ若井にも春日神社があり、平安時代この一帯は興
福寺・一条院の経営する荘園が広がっていたと伝わる。 ※安明寺は興福寺の末寺、春日社の神宮寺

 s-平群町春日神社.jpg 

平等寺春日神社
平等寺春日神社は平群谷を一望できる矢田丘陵の中腹に鎮座する。社名の頭の平等寺は地名で、神社
の神宮寺の名前をとったもので、すぐ前の堂池は寺の名残であろう。
神社周辺の道は掃き清められ、山麓の清々しさが漂う。ここから見る生駒山地の夕暮れはさぞ美しい
だろう。

 s-P7106277生駒山地遠望.jpg s-P7106271平等寺・春日神社.jpg
 「堂池」越しに生駒山地を望む            平等寺春日神社前の松並木が美しい 

船山神社
船山神社は平等寺春日神社の北5百mのあたりにある。三里集落のま上、宮山の中腹に鎮座する。標
識に従って急な山道を登る。道の両側に茂る背丈ほどの夏草に遮られ見通し悪い。道をまちがえたの
ではと不安に思ったとき、前方の森の中に社務所らしき建物が見えた。
この神社は、宮山の山頂にあったが二度の引越しで現在の地に落ち着いた。しかし現在の社殿も急坂
を上り詰めた山中にあり、お年寄りが参拝に行くのも簡単ではない。できたらもう一度引越し願いた
いと神様は思っているにちがいない。

 s-P7106316船山神社手水石.jpg     s-P7106318船山神社・手水岩.jpg

本殿への石段をのぼりつめた右手に船形の手水石がある。神殿の前にそそりたつ陽石(あかいし)と対
になった陰石(かげいし)らしいが、それよりも木漏れ日が投影する葉影に魅せられてしまった。


椿井春日神社
 s-P7126342椿井の標石.jpg s-P7126340椿井春日神社神殿.jpg 
 「椿井」の二文字を刻んだ標石のすぐ横に井戸がある       椿井春日神社神殿 

椿井(つばい)神社は地名の由来となった井戸の近くにある。物部・蘇我の神仏戦争のこと、『(曽我軍
の)平群神手将軍が戦勝を祈願して椿の杖を当地に突き立てて勝利を祈願すると、一夜にして杖が芽吹
き冷泉が湧き出した・・・』という言い伝えがある。神社は五世紀後半の築造と考えられる宮山塚古
墳の中にあり、神手将軍の祖先の墓と考えられる。一説ではここには元々紀氏神社があったが、藤原
氏により他所に強制立ち退き(遷座)させられ春日神社に変わったという。

 s-P7126353椿井から平群谷眺望.jpg 
 椿井春日神社から平群谷、生駒山地遠望

船山神社、平等寺春日神社、椿井春日神社、若井春日神社の四社は高いところから興福寺荘園に睨み
をきかすように鎮座している。
これまで神社というものを深く考えたことがなかったが、平群町の神社を巡るうちに、神社というも
のは、何かを肯定するための、暗に行為を神聖視するためのナニカ、ことによると免罪符のような、
負のパワー(押さえ込む力)を持つのではないかと思えてきた。かつてはそういう力が、神社にあった
のではないかと。

<参考図書>
「興福寺」泉谷康夫著 吉川弘文館 平成九年十一月十日発行

posted by ハマー at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月07日

聖徳太子戦場への道 信貴山奥之院

 s-P7056010奥之院への道.jpg

平群の街から県道250号線を上って信貴フラワーロードと交差する直前の細道を北に折れると、それが
信貴山奥之院へと向う参道である。山の急斜面を断ち切って走る道を600mほど進むと奥の院に達する。

 s-P7055961笙谷寺棚田.jpg

道の途中、小さな谷間に苗を植えて間もない棚田があった。このあたりは、伊文字川の水源で、ここ
まで上ると川は手の平を広げたほどの狭い溝に過ぎない。それでもその水を頼りにして十数枚の棚田
が川沿いに拓かれている。深い谷と森の間の僅かな土地に造られた水田を見ると、何故か不思議に感
動させられる。タイムスリップしたよう錯覚におちいる。

寺の山門までは車が一台通れる道幅だが、その先は人一人がやっと通り抜けられるくらいの踏み分け
道になる。しかしこの道、今より1400年前、物部守屋を討つべく蘇我馬子の軍勢に加わった厩戸皇
子 (聖徳太子)が十三峠を経て生駒山を下ったその日、馬を進めた古道である。

 s-P2039784聖徳太子騎乗像.jpg 
 故北村西望氏作「騎乗太子像」信貴山朝護孫寺

 信貴山奥之院の縁起によれば『奥之院の御本尊毘沙門天王は聖徳太子の御作で、太子(が)守屋大連
御追討の御時、毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、御尊像が汗をかかれていたと伝えら
れております。』とある。

ちょっとわかりにくい話だが、諸説を合わせると、物部守屋を蘇我馬子が攻めた時のことである。戦
に加わった厩戸皇子(聖徳太子)は苦戦を強いられていた。そこで軍神毘沙門天像を含む四天王像を彫
られ、信貴山に奉納した。すると阪部大臣(さかべおとど)に変身した毘沙門天が現れ、先陣を切り奮
戦し、ついに物部守屋を討ち取った。その時、太子が奉納した(木彫りの)毘沙門天が汗をかいてい
た、という話である。
太子が四天王を彫ったのは霊木とされる白膠木(ぬるで:ウルシ科の落葉中木)で、毘沙門天木像の
「汗」とされるのは白膠木の樹液であったと考えられている。

 s-P7056004信貴山奥之院山門.jpg 
 信貴山奥之院山門

『聖徳太子歓喜の余り此處に堂宇を建立して御安置申され、千三百有余年の今日に到る迄『汗かきの
毘沙門天王』と申し御霊験きわめてあらたかであります。』と縁起は続く。

日本書紀に、物部守屋を打ち果たした聖徳太子は、戦後四天王寺を建立したとあるが、その他、信貴
山朝護孫寺、大聖勝軍寺そしてこの信貴山奥之院を建立したと伝わる。
曽我・物部神仏戦争における聖徳太子と毘沙門天の伝説は数パターンあってやや混沌としているが、
要は奥之院にある毘沙門天像は太子の手彫りということである。

 s-P7056083笙谷寺裏山の紫陽花.jpg s-P7055984ホタルフクロ.jpg 
 笙谷寺斜面の紫陽花                路傍の藪に咲くホタルブクロ

多聞院について
信貴山奥之院、正しくは信貴山米尾山・多聞院。
毘沙門天(ブァイシュラヴァナ)元はインドの現地神で「よく聞くところの者」とか「すべてのこと
を一切聞きもらさない知恵者」という意味で、「多聞」と日本語に訳された。つまり毘沙門天と多聞
天は異名同神ということになる。

 s-P7056060奥之院鳥居.jpg s-P7056016信貴山奥之院石仏群.jpg
 信貴山奥之院境内に立つ鳥居                   奥之院石仏群 

多聞院を称する寺は全国に数多くあり、毘沙門天を本尊とすることが多い。また、聖徳太子と毘沙門
天に関わる同様な話は他の寺院にも伝わるが、信貴山別院が「多聞院」と称するのは、毘沙門天を本
尊とするところに由来する。

話はそれるが、奈良で「多聞」といえば、「多聞院日記」が興福寺の塔頭多聞院の僧侶によって書か
れたことはよく知られている。また奈良市にある戦国時代の武将代松永久秀の居城跡「多聞城」は地
元の人たちに広く知られている。興福寺多聞院は現存しないので確認できないが、城の方は、城内に
多聞天が祀られていたと、今に伝わる。

 s-P7056043奥之院鬼瓦.jpg
 
境内に、「鬼瓦」の展示棚があっる。実は、参道の途中にある笙谷寺(しょうこくじ)や、奥之院と谷
を隔てた北向にある南通寺にも古い鬼瓦が置かれていた。平群町の古寺では鬼瓦を並べ置くことが一
つのステータスなのだろうか。

信貴山奥之院は生駒山地の中腹に建ち、ここからの眺望は良く矢田丘陵の南麓まで見通すことができ
る。残念ながらちょうど手前の丘が邪魔をして法隆寺の伽藍までは見えなかったが、逆に斑鳩の地か
らは大地に壁のようにそそり立つ生駒山地が一望できる。

 s-P7056066信貴山奥之院山門眺望.jpg s-P7056007奥之院双樹.jpg
 信貴山奥之院は尾根に建つ 道の向こうは深い谷

<参考URL>信貴山奥之院
http://www.geocities.jp/okunoin6360922/index.htm
posted by ハマー at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月03日

暗越奈良街道の棚田 生駒山麓大門集落

生駒山を通る今の暗越(くらごえ)奈良街道(国道308)は峠までほぼ真直ぐの道であるが、旧くは鬼
取、大門の集落をとおり壱分に抜ける尾根路が利用されていた。現在は車がすれ違える程度に拡幅さ
れた道に古道の面影は無い。旧い写真を見ると、巾半間程度の狭い道で、現在の暗越街道よりも細い
道だったことが分かる。

 s-P7025904大福寺からの眺望.jpg
 大福寺からの眺望
 道路の拡張で石垣はコンクリート製の壁に


万葉集に「妹に逢わずあらば すべなみ岩根ふむ 生駒の山を越えてぞ吾が来る」という恋歌があ
る。「愛しい女に逢わないでいると、どうにもしようがないので、険しい岩を踏んで生駒山を越え
て、私はやってくる」ということだが、古代の人々が岩の露出した坂道を奈良(平城京)から大阪(難
波)へ行き来していたことがわかる。

 s-P7025844大黒石.jpg s-P7025838大門十三磨崖仏.jpg
 大門大黒石                     十三仏磨崖仏「三体地蔵」

大福寺の東に大門の中心集落があり、そこに大黒(おおぐろ)石と呼ばれる石がある。嘗て山より崩落
した大石と思えるが、この石に磨崖仏が刻まれており、天正十二年(1584)の銘がある。
中央列に虚空蔵、大日、釈迦の三尊が彫まれ種子(しゅじ)十仏がその両側にあるという特殊な十三仏
磨崖仏で、「三体地蔵」などと土地の人は呼び信仰を集めていたようだ。
風化のため三尊それぞれは見分けづらい。種子はなんとか判読できるが梵字(ぼんじ)の意味は知ら
ない。貴重な歴史的遺産と思うが、この荒れた様子から地元の人はさほど関心がないように感じる。
 
 s-P7025830歯痛地蔵.jpg 
 旧暗越奈良街道路傍の歯痛地蔵 

大福寺近くの道沿いに「歯痛地蔵」が祀られている。舟形光背を負う地蔵菩薩だが、意外に地元の人
たちはこの地蔵の名前を知らない。先の尖った光背が「歯」を思わせる。小さな石仏で、通過するウ
ォーカーも知らぬふりである。歯痛地蔵は二本の椿の古木の根元に安置されている。椿の花の咲く頃
にはまた違う印象だろう。できたらもういちど訪れたい。

街道を行く人々の安全を祈願して立つ三体地蔵や歯痛地蔵は旧暗越奈良街道の数少ない名残である。

 s-P7025891大門集落棚田.jpg
 梅雨の時期棚田は柔らかな緑に覆われる

暗越街道沿いの山頂まで続く棚田は生駒八景にも選ばれた美観。もともとこの斜面は大小の岩に覆わ
れた荒地で葛と藤がはびこる原野であった。今でも田畑から森に移る辺りは葛や藤に覆われ先に進む
ことを拒む。かつての里山も手が入れられないまま今は原生林化している。

 s-P7025886棚田の石垣.jpg 
 急峻な山の頂まで続く棚田の石垣

大門の石垣造りの棚田は、岩に覆われた急傾斜の荒地を段々畑に変えてきた何世紀にも渡る農民の苦
難と成果の歴史を秘めている。石垣は高いところでは五メートルに及ぶものもあり、しかも垂直にそ
そり立つ。切り立った石垣端の畦を歩くと思わず足がすくむ高さである。

 s-P7025913水路の石橋.jpg s-P7025890野づら石積みの石垣.jpg  
 水路に架かる橋も一枚岩       石垣や石橋も伊行末の一族の手による

地圧と水圧に崩れることなく、また水を湛えた水田をのせても漏水することもなく聳える堅固な石垣
を築きあげた古人の技術力と底力にただただ敬服させられる。急峻な荒れた山裾を一段、また一段と
克服して棚田を築きあげ拡げていった先人たちの米造りに対するすざましい執念に感動させられる。

この力強く美しい石垣を持つ棚田に苗を育て稲が実る風景の続くことを願わないではいられない。

s-P7025872ヒロハクサフジ.jpg
 水路の土手に咲くコマツナギ
 水田では雑草として早々と刈られてしまう


<参考図書>
生駒市誌 (通史・地誌編)X
posted by ハマー at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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