2011年06月28日

生駒谷の初夏 奈良大福寺

大福寺から見る生駒谷には、生駒山麓から矢田丘陵の山上に駆け上がるように建つ小さな家々がひし
めく。旧い造りの寺を囲む棚田の緑と、山裾に拡がる町並みの白々としたアンバランスな対比が、逆
に壮観ともいえる。

 s-生駒山と矢田丘陵.jpg 
 生駒谷鳥瞰図 左が生駒山地、右が矢田丘陵

生駒山と矢田丘陵に挟まれた盆地を生駒谷と呼ぶ。盆地というより谷地と言うほうが適当で、谷の底
を生駒川が流れる。川は下るにしたがい平群川、竜田川と名を変え大和川に流れ込む。この川に沿っ
て近鉄生駒線は生駒から王寺の間に運行されていて、王寺でJR関西線と接続する。川も鉄道も大阪に
向って下る。このあたりを含む生駒市は大阪経済圏のベッドタウン。
 
 s-P6265749大福寺の朝.jpg
 大福寺の朝

大福寺は生駒山中腹の棚田に囲まれた小さな寺で、創建年代や由緒についてはわからない。ご本尊は
釈迦如来。宗派は黄檗宗(おうばくしゅう) に属する。今は、寺に隣接する霊園を運営して生計を維持
しているようで、日頃は訪れる人もまれな村の小さなお寺という印象である。しかし、寺の西の棚田
から見る行基葺きのお堂や、本堂(庫裏)の寄棟造りの屋根を見ると意外に格式高い造りのお寺である
ことが知れる。※備考1

 s-P6215527大福寺山門.jpg
 大福寺山門から花頭窓が見える

また山門を通して見える本堂の窓は、明らかに円覚寺舎利殿の花頭窓を模したものである。
円覚寺は臨済宗のお寺で、大福寺の属する黄檗宗も臨済宗の一派であった時代が長い。大福寺のこの
仏閣を建てた住職の、臨済宗への思い入れの深さが思われる。

黄檗宗は禅宗の一宗派で、大本山萬福寺のHPを見ると『隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師が江戸時
代前期承応3年(1654)に興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘を受け中国福建省から渡日
した。興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務めた後、寛文元年(1661)に宇治大和田の地に禅寺を創
建。黄檗山萬福寺と名付けて晋山(しんざん:就任)された。』とある。当初は臨済宗黄檗派を名乗って
いたが、明治9年独立して黄檗宗となった。※備考2 

 s-P6215547アジサイ.jpg 
 大福寺境内に咲くアジサイの花

生駒山中にあるこの大福寺の由緒はよくわからないが、黄檗宗の寺としてならば江戸時代以降という
ことになる。ただ創建についてはそうは決めつけられない。大福寺の境内に元亀四年(1573)の刻銘の
ある十三仏板碑がある。1573年といえば室町幕府が滅亡した年であり、時代区分から言えば戦国時代
末期に当たる。すでにその時代に寺があったということになる。

 s-P6265773大福寺十三仏板碑.jpg 
 元亀四年の刻銘のある十三仏板碑

一説によれば行基の開創とのいわれもある。生駒山には奈良時代の僧行基の墓所(竹林寺)があり、ま
た行基が開いたといわれる寺も多く何かと行基と縁の深い土地でもある。そういう背景から大福寺を
行基の開いた寺というのであろうか。そうとすれば起源は奈良時代ということになる。すぐ近く鬼取
町にある鶴林寺は役行者(役小角)の開基と伝えられるなど、とにかく生駒山と宗教の関わりは旧く、
飛鳥時代にまで遡る。

 s-P6215571鶴林寺石仏群.jpg
 鶴林寺の賢者たち 

別に、大福寺の創建を調べるのが目的ではないが、いかにも由緒のありそうな寺の外観に対して「由
緒が分からない」なんて言われると、つい追求したくなってしまう性分なのだから仕方がない。

ところで、黄檗宗をつたえた隠元禅師が日本にもたらしたものは禅の教えだけではない。印刷・煎
茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚など当時江戸時代の文化全般に影響
を与えたといわれる。そうか、インゲン豆は隠元禅師が中国のお土産として持ってきたのか。

 s-P6215541魚板.jpg 
 魚板(ぎょばん)、木魚鼓(もくぎょく)ともいう

大福寺のお堂の軒下に鯰のような形をした魚板(ぎょばん)が架けられている。木魚の原型であるとい
うが、素材は「青銅」製のようである。仏具の製作に長けた奈良ならではの魚板かも知れない。奈良
市は禅寺が少ないのでこれまでこのような立体魚板(魚鼓)を見る機会はなかった。鯰ではなくどうや
ら鯱型のようだ。初めて見た。※備考3

この魚板、人の手の届かない随分高いところにつるしてあって、しかり埃をかぶって真っ白だし、叩
く木槌も見当たらない。まったく格好をかまわない寺だ。今では単なる飾りとして吊るしてあるとい
うことであろう。しかし、ここに正しく大福寺が禅寺であることの証を見た、ような気がする。

 s-P6215510アカソ.jpg s-P6215523苗田.jpg
 アカソの茎の皮から糸を紡いだ      初夏棚田の苗筋が印象的

(備考1) 大福寺は、大門村の庄屋で生駒商人の草分け初代甚六が同僚の大阪の両替商天王寺屋五兵衛
と共に建立に力を尽くしたと伝わる。甚六が苗字帯刀をゆるされた明和年間(1764〜1771)のことと考
えられる。天王寺屋五兵衛は幕府の御用両替として大阪の両替仲間の支配をしていた。甚六は俵米の
運搬を請け負っており天王寺屋五兵衛とはその繋がりであった。大福寺が黄檗宗に改宗したのは甚六
が天王寺屋五兵衛の信仰の影響を受けたということであろうか。大福寺の堂宇はその頃の建立と見て
もよいであろう。

(備考2) 日本の禅宗は鎌倉時代に栄西(ようさい、臨済宗)、道元(曹洞宗)に始まるが、その後、浄土
真宗(親鸞)、日蓮宗(日蓮)の登場により当初の勢いを失う。また戦国時代、織田信長の徹底した仏教
弾圧を受けそのため一時期日本の仏教は停滞した。また江戸初期、禅が定着するにつれ禅宗寺院は権
力と密接な繋がりを強める一方で、本来の禅の精神からは遠ざかりつつあった。ここに明からの渡来
僧隠元隆(王奇)が登場し、臨済・曹洞の両宗派に大きな衝撃を与えたのである。

(備考3) 魚板は、『禅宗寺院特有の法具で、食堂(じきどう)、庫院(くいん:厨房)につるして人
を集めるために打つもの。
木製で大きな鯉形または鯱形をし、腹中を刳ってあり、水平につるして木槌で打ち鳴らす。魚梆(ぎ
ょほう)、梆(ほう)とよばれることもあり、古くは木魚鼓(もくぎょく)という。魚形をなしてい
るのは、魚が昼夜目を閉じないことから、修行僧の眠気を戒める意味があるともいわれる。』(Yahoo
百科事典)

<参考図書>
生駒市誌(通史・地誌編)X
<参考URL >
奈良の寺社 大福寺(生馬山)
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2011/02/post-1a34.html
黄檗宗大本山萬福寺
http://www.obakusan.or.jp/about-oubakusan/index.html
posted by ハマー at 07:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月25日

白洲正子随筆集「道」 奈良南田原塔の森

白洲正子随筆集「道」 白砂川にそって

「塔の森」のある国見山は奈良市と天理市の市境にある両市の最高峰である。いくら奈良大好きな自
分も、白洲正子のこの随筆を読まなければ、これほどの山奥にまで来ることはなかったと思う。

 s-P5265083南田原磨崖仏.jpg
 南田原磨崖仏「切付け地蔵」

『田原から「切付け地蔵」の前を南に行くと、長谷(ながたに)という村に入る。その名のとおり、細
長い谷間の村で、白砂川もここまで来ると、小さな溝になってしまう。その水源を「塔の森」とい
い、急坂を登った山腹に、日吉神社が建っている。

 s-P6235652塔の森に入る山道.jpg s-P6235666長谷「日吉神社」神殿.jpg
 塔の森への上り坂                長谷日吉神社神殿 

『そこから更に険阻な山道を辿って行くと、標高六百メートルの山の天辺に、大きな六角層塔が現れ
る。もとは十三重だったらしいが、今は六重で、まわりに石のかけらが散乱している。欠けたのは、
村の人々が、病気のお祝いに切り取ったからだと聞くが、苔むした天平の層塔は、無残な有様ながら
雄渾な姿で、格狭間(こうざま)に彫られた蓮華文も、力強く、美しい』

 s-P6235673塔の森お稲荷さま参道石段.jpg 
 樹間から125段の階段が見える

六角層塔はあらかじめ写真で見て知っていたが、その独特な形や風化しボロボロになった粗い岩肌を
目の当たりにして、立ちすくんでしまった。呆然と、見つめた。この層塔が放つ異様な力はなんだ。
じっと、見ていて、思った。まるで人の脊椎骨。人の形じゃないか。

 s-P6235701塔の森六角層塔.jpg
 塔の森 六角層塔

創られた当初は十三重の塔であったが、一度完全に倒壊した後に改めて積み重ねられたように見え
る。現在は六層である。塔の周りに残る各層の笠石の残欠のうち幾つかは原型に近いものもある。何
らかの理由でそれ以上の復元、積み上げを断念したようだ。ぐるっと回り仔細にその姿を観察してみ
た。すると、ある方位から見ると右に大きく傾いて今にも倒れそうだ。実に微妙にバランスをとった
状態で立っていることがわかる。これ以上はもう積み上げることのできない限界状態で、佇立してい
る。あやうい緊張がある。

 s-P6235711六角層塔残欠.jpg
  笠石残欠

『格狭間(こうざま)に彫られた蓮華文』というのは、塔の最下層の塔身部分に見える花びら模様のこ
とである。「格狭間」とは基壇、台座の長方形の部分のことで、石塔では、主に基礎を荘厳するため
使われ、時代識別の基準となる。塔の森の六重層塔は、二重の基壇になっている。「蓮華文」は、蓮
華の花を文様化したもので、飛鳥・奈良・平安時代に瓦や仏像の光背・台座などに用いられた。蓮華
は仏の座として、さらには仏のいます極楽浄土の象徴とみなされる。

 s-P6235697蓮華紋.jpg
 格狭間の「蓮華文」

白洲正子は『力強く、美しい』と書いているが、昼なおうす暗い木立の中で、その形も消えなんとし
ている「蓮華文」は、注意してみていないと見過ごしてしまう。
この随筆集は昭和54年(1979)に発刊されたから、彼女がこの場に来たのは今から30年くらい前のこと
だ。その時と今と比べてもこの石塔の形状にそれほどの違いはあるまい。つまり1200年以上も前に建
てられたにしては『力強く、美しい』ということであろうか。いや、白洲正子のモノを見る心がそう
感じてそう言ったのだ。

 s-P6235682六角層塔.jpg
 倒壊の危険性があり鉄柵で囲まれている

『こんな見事な塔は、大和でもみたことはない。そう私は思ったが、一説に、これは経塚で、中腹の
神社の神宮寺の跡であるという。その寺には、十一面観音が祀ってあったと伝えるが、すべては歴史
の闇の中に埋没して知る由もない。が、そこからの眺望は、観音浄土にふさわしい絶景であった。南
には都介野岳(つげのだけ)から宇陀の連山、東に伊賀の山々を見晴るかす風景は、疲れが一時に消え
うせる思いがする』
 
 s-P6235658日吉神社からの眺望.jpg
 日吉神社境内から鳥居越しの眺望 

六重層塔のあるこの場所、今は周囲を木樹が覆い見通しは利かない。樹木の生長は速い。30年前はき
っと四囲を見晴るかすことができたのであろう。
上がってくる途中に通った日吉神社の境内から、鳥居越しに都介野岳から宇陀の連山を見ることがで
きる。谷底から吹き上がる風に吹かれてさっと汗が引いてゆく。

 s-P6235705塔の森修験道.jpg
 塔の森六角層塔から下る道  

今年の五月から六月初夏の三週間に六度も奈良市田原(たわら)地区を訪れることになったきっかけは
白洲正子のこの随筆を読んでのことである。「春日の春日の国(はるひのかすがのくに)」のなか「白
砂川にそって」。
光仁天皇陵、日笠フシンダ遺跡、今井堂天満神社、また多くの石仏を見た。太安万侶の墓から見た茶
畑のうねる田原の景色はいつまでも忘れられない美しさである。また自分の推理の妥当性を確かめる
ために白砂川沿いの道を歩いて下ってみてもした。

しかし、塔の森の「六重層塔」の印象はその中でももっとも心に残るというか余韻を残す所だった。
1200年前であろうかこの塔が造られたのは。誰が、誰のために、何を願って建てたのか。すべては歴
史の闇の中に埋没して知る由もない。

posted by ハマー at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良を読む一冊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

奈良 日笠フシンダ遺跡と絵馬を推理

奈良市日笠町にある光仁天皇陵に隣接する水田地下から奈良時代・天平10年(738年)頃に製作された
日本最古級の大型絵馬が出土した。2006年11月のことである。
光仁天皇陵は奈良県の遺跡地図に登録されている場所なので、田原地区のほ場(田畑)整備事業に先立
って実施された埋蔵文化財発掘調査の成果である。

 日笠フシンダ遺跡出土絵馬.jpg
 「絵馬」複写 日笠フシンダ遺跡 現地説明会資料
 奈良県橿原考古学研究所
 

 
発掘現場はすでに埋め戻され四角四面に整備された水田になっているが、絵馬の発見された地点の水
田の名称(小字名「フシンダ」)に因んで「日笠フシンダ遺跡」と名づけられた。
日々発掘される遺跡ニュースの前に絵馬発見の事実は忘れられてしまうが、フシンダ遺跡のことも
人々の記憶に薄くなってしまったようだ。蘇っては消える古代史の現場の宿命とはいえ寂しいという
か、残念である。

 フシンダ遺跡発掘現場.JPG 
 フシンダ遺跡発掘現場 YAHOO地図編集

フシンダとは妙な名前だが、この水田の所有者の宮中清さんもフシンダの由緒は知らない。多分ご先
祖さまが新たに造った、「普請」した田圃というということに由来するのだろうと言われる。
水田に名称をつけるというのは平安時代の荘園制の名残で、自ら経営する(開墾した)土地を明示する
ために、その土地へ名称をつけたことに由来する。「名田(みょうでん)」といわれるものだ。すっか
り忘れていたが、日本史の授業で習ったことを思い出した。

日笠フシンダ遺跡現地説明会資料(橿原考古学研究所06.11.18)を見ると、「発見された絵馬は、その
他土器、土馬、木簡、銭貨(和銅開珎)、斉串(いぐし)、人型、船形木製品、陽物形木製品などの祭祀
遺物とともに出土しており、その付近でなんらかの目的をもって断続的に祭祀がおこなわれたものと
推測できる。」という。※陽物:陰茎、男根

問題の絵馬は遺跡の山側の流路跡より三点出土した。そのうちの一面は写真で見るとおり檜板目材で
六片に破損しているもののほぼ完全な形で出土した。他の二面はそれぞれの一部分が出土した。いず
れの絵馬も割れた状態であることより、祭祀後に故意に破断した上で流路に投棄されたものと考えら
れる。※1

 s-P5264891光仁天皇陵.jpg 
 南西水田から見た光仁天皇陵 背後の山際がフシンダ遺跡

フシンダ遺跡の絵馬について、北條朝彦氏が「続日本紀研究」の第381号に『古代「絵馬」祭祀論』と
いうタイトルの小論文を発表している。 

その中で興味を引くのは、『絵馬の出土状況であるが、ほとんど破断した状態である。もちろん埋没
過程で土圧により割れたものもあるに違いないが、明らかに故意に割ったものもある。(中略)祭祀後
に割った上で投棄していると考えられる。(中略)今でこそ神社仏閣やその周辺の木々に割ることなく
吊り下げるが、古代においては祭祀の途中は吊り下げたり、置いたりしたであろうが、祭祀後には割
って投棄していた可能性が高い点、古代の絵馬に対する願いの込め方と現代絵馬に対する願いのこめ
方の違いが垣間見えるようで興味深い。』という部分である。祭祀において地中に絵馬を埋めるとい
点である。

 s-P5265002天満宮拝殿西面絵馬.jpg 
 日笠町今井堂天満宮拝殿に懸架された奉納絵馬

では、祭祀後に絵馬を破断し投棄あるいは廃棄するのにどのような理由があるのか。北條氏は『疫神
の動きを封じるねらいもさることながら、絵馬に込められた諸願も成就するように、つまり馬ゆえに
時空を疾走し、せっかくの願いが飛散しないように敢えて割って走れなくするという思想が働いてい
る場合もあると考えたい。』と述べている。

詩情あふれる解釈であるがそれによって「走れなくする」とは私は思わない。祭祀そのものが「願
い」の形式的行為である。「絵馬」はあくまで供えものである。祭祀に用いられる供物は一回限りの
使用が原則であり「絵馬」も形代(かたしろ)として供えられたあと破断されたと考えるのが妥当であ
ろう。
ただ考慮すべきはその時代における「絵」そのものの重み、価値である。現代社会においては「絵」
は美術品であったり嗜好品であったり数ある趣味の一つの対象にすぎなかったりする。しかし古代社
会、宗教の中で発生した「絵」は神仏の偶像であり、現実そのものか、それ以上のものであった。
人々は「絵」の内に命や魂を感じとっていた。その絵は神や仏そのものであった。つまり「絵馬」は
生きた馬以上に神聖なものと感覚されていたたはずである。
その絵馬を割る、或いは水に沈めるという行為は、神への捧げものとしてその命を絶つということで
あり、北條氏も触れているが生贄同様の意義を伴った行為であったと考えるべきと思う。※2 ※3
 
日笠フシンダ遺跡の場所について北條氏はまた『当地(日笠)は葬送地と考えられていたが、天平10年
前後にこの山がランドマーク的な地形であり、その周囲の流路を中心に祭祀が行われていたという想
像に無理はあるであろうか。』とその必然性を強調している。
※ランドマーク:陸票 landmark 陸上の目標;特に、海上の船舶や路上の旅人に目印になる地形、
樹木、建物など(ランダムハウス英和大辞典)


 s-日笠町・沓掛町鳥瞰図.jpg s-日笠フシンダ遺跡と周辺地図.jpg
 日笠町フシンダ遺跡鳥瞰図           日笠フシンダ遺跡周辺地図

奈良時代天平10年(738年)前後、日笠フシンダ遺跡のその場所にまだ光仁天皇陵はない。和田川と白
砂川と須山川が合流した池沼ともいえるような湿地帯である。
今では信じられないことであるが、日笠町のある田原地区には10m〜20mの川幅を持つ河川が流れてい
たことが遺跡発掘調査の結果判明している。背後の山がその地域においてランドマーク的な地形であ
るかどうかはわからないが、当時フシンダ遺跡のすぐ東の山の頂あたりに神社あるいは寺のあったと
思われる形跡がある。

 s-P6155276白砂川.jpg 
 日笠町を流れる現在の白砂川 川幅は2mくらいか

さきほどの宮中Cさんからうかがった話であるが、日笠フシンダ遺跡の発掘調査の後に宮中さんのお
宅の裏山で十数枚ものカワラケが出た。遺跡調査に当たった清水昭博氏の見立てでは鎌倉期のものと
いうことである。何らかの神事に使われたものと思われる。
また古い地割図(土地台帳)を見たらいかにも神社の敷地と思わせる区画があった。そもそも宮中さん
の苗字そのものが神とのかかわりを示す家系を連想させる。
また山の頂上、大西さんの茶畑の真ん中に地元では「みろくさん」と呼ばれる石仏群が祀られてい
る。このような事実の積み重ねからこの山がひとつの聖域であったと考えることに無理はない。

 s-日笠町・名張街道.jpg s-P5264942名張街道旧道日笠町.jpg 
 奈良市における日笠町の位置を示した地図      日笠町の名張街道旧道

もう一つ見逃せないのは、フシンダ遺跡が日笠町を東西に走る三重県名張市と奈良市を結ぶ名張街道
旧道上(奈良県道183号線)にあることの意味である。
日笠フシンダ遺跡で絵馬を用いた祭祀が行われた天平10年(738年)という年は、前年からの大規模な
疫病は収まることなく依然猛威を振るっていた。そして二年連続の旱魃におそわれていた。この大災
難を鎮めるための祭祀が各地で行われたと記録にあるが(続日本紀)。雨乞いの祈願とともにこれ以上
都に疫病が侵入することのないように、都(平城京)への東入口、伊賀・伊勢と続く街道の境界にあた
る東山中の田原村日笠において山川の神々に祈祷し、天神地衹(あまつかみくにつかみ)に絵馬などの
供物を捧げ祭祀が行われたものと考えられる。 ※4

 s-P6155325みろくさん.jpg
 フシンダ遺跡に隣接する裏山頂上に祀られた石仏群
 地元の人々から「みろくさん」と呼ばれる


日笠町のある田原地区は今では過疎化の進む山村という印象であるが、奈良時代においては都への木
材供給地であり、日笠フシンダ遺跡は添上郡田原村に数ある貯木場および加工場の一つであった可能
性が高い。
また地形図を分析する、日笠町は田原地区においてここより白砂川を下る拠点、木材搬出の港であっ
たのではないかと思えるのだ。説明会資料に絵馬とともに船形木製品が出土したとあったのもその一
つの証しでもある。

 s-P6125269金比羅権現.jpg 
 金比羅権現 岩に筋彫されているらしいが風化により判別できない

日笠町を通る名張街道が白砂川と交わる天井橋の袂に金比羅権現(こんぴらごんげん)が祀られてい
る。金毘羅権現は、琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であるが、元来は
ガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物「クンビーラ」のことであり、ガンジス川に棲む鰐を神格化
した水神である。特に船乗りから信仰され一般に大きな港を見下ろす山のうえに祀られていた。(Wikipedia)

 s-P6125215日笠フシンダ遺跡・光仁陵.jpg  
 フシンダ遺跡の裏山中腹より光仁陵を望む

かつて日笠フシンダ遺跡の背後にそびえる山には金比羅権現を祀る神社があった。そして白砂川に筏
を組み下って行く人々の無事を見守っていたに違いない。旅人にとって格好のランドマークというよ
り神のいます山であっただろう。
これが日笠町一帯を見て歩いた自分のフシンダ遺跡に対する印象(推理)である。

 s-P6195436白砂川金比羅大権現.jpg
 白砂川の金比羅大権現


※参考資料
・日笠フシンダ遺跡 現地説明会資料 (清水昭博) 奈良県橿原考古学研究所
・奈良県文化財調査報告書 第133集 日笠花刈遺跡 奈良県橿原考古学研究所
・続日本紀研究 第381号 古代「絵馬」祭祀論 北條朝彦

・奈良県文化財調査報告書 第144集 日笠フシンダ遺跡 奈良県橿原考古学研究所

<補足>
※1 馬の色について「日笠フシンダ遺跡」奈良県文化財調査報告書 第144集の中で発掘責任者・清水
昭博氏は、『本来は彩色を施していたものと判断できる。残念ながら、墨以外に彩色の痕跡は認めら
れないが、体部に斑点状の濃淡が多数みられることから推測すると、灰色を基本に斑点をつけた葦毛
(連銭葦毛;れんぜんあしげ)つまり、白馬であった可能性が高いと思われる。』と論考されている。葦
毛の基本色は「灰色」だが、雨乞いの祈願祭祀に白馬を奉納することはふつう考えられない。描かれ
た馬は黒灰白に近い葦毛と考えるのが妥当と思うが、奈良時代においてはいまだそのような慣習が無
かったのであろうか。

※2 一方、清水氏は『最古に属する絵馬は(フシンダ遺跡から出土した絵馬を含め)いずれも天平期
に製作されている。(中略)律令国家は疫病、災危をまき散らす疫神を別の世界(根国底之国)へ敏速に
運ぶ救世主として、絵馬を創出したのではないのだろうか』と絵馬の誕生に言及して報告を締めくく
る。

※3 馬を水に沈めるという雨乞いの風習は五世紀頃に中国から騎馬乗馬の風習とともに日本に入って
きたと、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館館長の河上邦彦氏は考えている。その慣習が生きた馬
から木馬や土馬、絵馬と変化したが、水に沈める、或いは水底に埋めるという祭祀の基本形は変わる
ことなく踏襲されたのであろう。

※4 清水氏は奈良の都(平城京)から遠く離れた日笠の地で祭祀がおこなわれた理由についてやはり
その地に着目する。『その立地が、白砂川に沿って大柳生から山背(京都府南部)、北陸へと通じる道
と水間峠を越えて伊賀、東国へと通じる道が分岐するという交通の要衝にあることは偶然でないと思
われる』と言う。
地図を見ると確かに白砂川に沿った道が木津川まで途絶えることなく続いている。しかし、私は、日
笠という土地のポイントは道路ではなく水路つまり川との交点であると考えたい。


posted by ハマー at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。