2011年05月29日

絵馬の原点伝える奈良日笠天満神社

奈良市日笠町にその名を地図の上で見つけることも難しい古い神社がある。
森の木々に隠されて神社のすぐ下を通る農道からも全く見ることができない。参道口に何の案内もな
いので、そうと知らなければ通り過ごしてしまう。
この辺りでこの神社のことは、白砂川を挟んだ茗荷町にある天満神社と区別するため「今井堂天満神
社」と呼ぶ。日笠、大野、沓掛の三つの町(大字)の氏神である。

 s-P5265015ご神木.jpg s-P5264970今井堂天満宮参道.jpg 

今井堂というのは、当地に残る平安時代の武将・木曽義仲にまつわる伝説の一つである。
源頼朝にやぶれた木曽義仲は、信楽・名張をへて、家臣の今井四郎兼平とこの日笠に身をかくし、義
経や頼朝に一矢報いるべき奮闘したが果たせなかった。
兼平はその後仏門にはいり、名を義兼法師とあらため、六十四歳でこの世をさるが、その一子、隈笠
四郎兼則が、父、兼平のために七重の石塔婆をたて、義仲の霊と共に兼平の霊を祭ったのが今井堂で
ある、という話である。(境内で「今井堂」と言われるモノは見つけられなかった)

 s-奈良市日笠町地図.jpg 

「田原村史」には『口碑によれば寿永三年(1183)年正月左馬頭源義仲敗軍の際その臣今井兼平主君を
援けて当地に潜み其崇敬する天満宮を当境内に勧請し殿宇を建て武運長久を祈願したという』とある。
史実によれば今井兼平は1184年(元暦元年)3月4日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦
いで討ち死にした義仲の後を追って自害した、とされている。
どちらも古くからの言い伝えであるが、今井兼平の係累が鎌倉軍の追跡を逃れ、この地に隠れ住んだ
というふうに考えてもかまわないだろう。
この話のポイントは、むしろ日笠天満神社が鎌倉時代以前からこの地にあったとこと物語るものであ
ろう。

 s-P5264992今井堂天満宮拝殿と社務所絵馬.jpg

今井堂天満神社は、奈良でもあまり知られていない(と思う)が、「絵馬」の原型を連綿と伝える唯一
の神社かもしれない。
訪れて見て驚いたが、社務所の軒下や、拝殿の天井や軒下に掲げられた絵馬の数はざっと見渡したと
ころ100面以上ある。そしてそのほとんどの図柄が全て「馬」の絵なのである。
 
 s-P5265002天満宮拝殿西面絵馬.jpg 

絵馬の起源は神社での祈願に際して願主が生きた馬に代えて馬の絵を描いた額を奉納することにはじ
まるが、その後絵柄も祈願の内容に即した絵図に多様化する。また奉納の根拠も祈願ばかりではな
く、社会的成功を収めた個人の売名的なものや、美術館など無い時代のこと有名絵師たちの自作発表
の場など、絵馬の本質も変化、多様化した。

 s-P5264976奉納絵馬.jpg

しかし、この神社の絵馬はほぼ「馬の絵」に限られている。見渡す限り、馬、馬、馬なのである。少
しも絵馬の伝統はブレルことが無い。
田原村史には、『雨乞い成就には黒毛の馬、晴乞成就の場合には赤毛の馬数等を舞床の周囲を駆廻ら
す。その時子供等は鞭を以ってはた板(建物の腰板)を叩いて馬の威勢を晴らす。馬子は苦労するが神
霊が悦ばれるという。』と書いている。見てみると比較的少ないもの赤い馬の額も多数認められる。
それにしてもこれだけの数の馬の絵の「絵馬」は他の神社では見られないことである。

 s-P5264977絵馬・天正2年.jpg s-P5264973絵馬・明治28年.jpg
 天正二年                        明治28年
 s-P5264974絵馬大正3年.jpg s-P5264984最新平成15年絵馬.jpg 
 大正3年                        真新しい平成15年 

大型の絵馬を見ていて気づいたのだが、奉納された年に共通した特徴がある。ほとんどの絵馬は経年
変化により色褪せたり、絵の具(顔料)が剥落していたりして判別しにくいのだが、奉納された年を明
確に読み取れる四点についてその年の出来事を調べてみて、驚かされた。

・天正二年(1545年)は戦国・安土桃山時代に区分され、織田信長が殺戮の限りを尽くして北伊勢を平
定した。この年、奈良(大和)の大名筒井順慶は岐阜に信長を訪ね恭順を示す。
・明治28年(1895年)は、日本が日清戦争に勝利。
・大正3年(1914年)は、7月に第一次世界大戦が始まり、翌8月には日本がドイツに宣戦布告した年である。
・平成15年(2003年)は、米国内のダブルテロへの報復としてイラク戦争が始まる。日本は実戦には加
わらなかったが、自衛隊が初めて海外へ進駐、他国の戦争に協力した年である。

 s-P5265027今井堂天満宮神木.jpg 

ほんの四面の絵馬を調べて見ての事ではあるが、今井堂天満神社の大型絵馬は「他国との戦争」とい
う国家的な出来事の起こった年に奉納されている。
明治28年と墨書された絵馬には「日清戦争平和祈願」と祈願の具体的内容が記されている。いつの時
代においても戦争は勝っても負けても人々の生活を疲弊させ、あるときは親や子、また同胞の命を奪
うものである。
日笠町天満神社の絵馬からは、この地の人々の平和への祈り、安定した日常を願う痛切な心持を窺い
知ることができる。

 s-P5265006献花台神馬模様.jpg
 石の献花台にも馬の絵が・・・・

今井堂天馬神社で見た絵馬は、戦国・安土桃山時代の天正二年(1545年)という相当古い時代の絵馬で
驚いたが、なんとこの近くの「日笠フシンダ遺跡」から、奈良時代半ば天平10年(738年)の頃のもの
と考えられる絵馬が祭祀遺跡・遺物とともに出土した。
詳しく調べてみれば、日笠天満神社から安土桃山時代以前の絵馬の見つかる可能性も高いと思う。屋
外に掲げられた絵馬は、日の光、雨風に晒されどんどんは色褪せてしまう。田原地区の方々や市・県
の文化財担当者は日々劣化の進む絵馬の保存留意をお願いしたいところである。このような文化財は
地域の歴史をを知るばかりではなく、日本の歴史を実証し、また身近に知ることのできる貴重な宝も
のなのだから。

 復元フシンダ遺跡出土絵馬.jpg
 彩色復元されたフシンダ遺跡出土の奈良時代の絵馬
 

参考資料
※ななかまど「奈良の伝説」http://www.7kamado.net/den_yamato/nara2.html
※田原村史
※奈良市日笠町「日笠フシンダ遺跡」現地説明会資料 奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/from-site/2006/higasa.pdf
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2011年05月17日

奈良佐紀路 磐之媛命陵のカキツバタ

磐之媛命陵でカキツバタの花を撮るのは今年で三度目になる。
入江泰吉氏の写真集「やまと余情」の写真を見て以来のことだが、開花の時期やその日の天気のこと
もありこれまで満足の行く写真が撮れないでいる。それ以上に、この花をどうとったら良いのかがわ
からないというところが本当の理由かもしれない。(磐之媛命陵:いわのひめのみことのみささぎ)

 初夏磐之媛陵s-P5194708.jpg

平城山(ならやま)の南斜面から平城宮跡にいたる磐之媛命陵のあるこの辺りは、天皇・皇后陵を含む
多くの古墳が集中し、市街地に接してはいるけど今も緑ゆたかな自然があふれる。
奈良県下には何千という数の古墳があるが、水を湛えた外濠を持つ古墳はそれほど多くはない。こと
にこの磐之媛命陵のように、陵墓全体が暗い雑木の林に覆われていて、茂みを抜ければ水辺に青紫の
花のカキツバタが繁茂し、水面には黄色のコウホネ(河骨)や白や薄紅色の睡蓮の花が咲き溢れるこん
な陵墓は尚更に珍しい、と思う。
ここに来るといつも常とは異なる世界に分け入ったような不思議な気持ちになる。

 s-P5174662杜若花蕾.jpg

万葉集に磐之姫陵のあるこの辺りで詠った歌が二首ある。
「かきつはた 佐紀沼の菅を 笠に縫ひ 着む日を待つに 年しぞ経にける」
※ 垣津旗 開沼之菅乎 傘尓縫 将著日乎待尓 年曽經去来 (2818) 

「かきつはた 佐紀沢に 生ふる菅の根の 絶ゆとや 君が見えぬころ」
 ※ 垣津旗 開澤 生菅根之 絶跡也君之 不所見頃者 (3052)

平城宮跡とその北側の一帯は今も奈良市佐紀町という地名であるが、奈良時代当時も「佐紀」と呼ば
れていたことがこの二首の歌から知れる。佐紀沼とか佐紀沢と詠まれたように平城山の南麓に浅く水
のたまった湿地帯であったことは、水田が広がり、広大な水上池を初め大小の池沼が点在する今の景
色を見ると容易に想像される。

 s-P5164580黄昏杜若.jpg

磐之媛の崩御は古墳時代前期の347年6月である。翌年、媛はこの地に葬られた。その頃の佐紀の地は
蘆の生い茂る沢沼地であった。初夏になれば見渡す限りカキツバタの紫に囲まれていたはずだ。
奈良に平城京が造営されるのはそれから更に四百年余り後のことである。いつしか、かきつばたは佐
紀の地の枕詞になった。
1600年以上たった今も、人は、カキツバタの紫の花が咲く頃になると、磐之媛の眠る陵(みささぎ)の
景色に思いを馳せる。すっかり花の終わった6月は磐之媛の命月である。
posted by ハマー at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐保路・西ノ京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月08日

東大寺の幡 聖武天皇祭の朝

初めてそれ見たのは東大寺第220世別当(住職)の晋山式の日だった。さわやかな五月の風に吹かれ
なびく、だけどなにか異様な (とその時は思った)印象を与えるものだった。
それが「幡(ばん)」という名称であることをその後知るが、だけど幡は以前見たことがある。
ひと頃よく訪れた伊勢湾に面した知多半島の美浜町にある杉本美術館で見たことがあった。しかし、
東大寺で見たそれとあれがすぐには結びつかなかった。

東大寺にはその日までに何度も訪れたことがあったけど、幡を見た記憶は無かった。それもそのはず
で、東大寺でも特に重要な法要の時に限って掲揚されるものであり、常日頃見られるものではないようだ。

 南大門龍頭形竿頭飾s-P5024020.jpg 
 東大寺・南大門にて「龍頭形竿頭飾」

異様な姿と思ったことはあながち見当違いではなかった。
「幡」の研究で知られる文学博士・沢田むつ代氏のレポート「上代の幡の編年」に、『幡は、仏事の
荘厳具として、また延命や死者への追善供養などに用いられた旗である。形状は、人体をかたどった
ように、頭に当たる幡頭(ばんとう)、胴に相当する幡身(ばんしん)、足となる幡足(ばんそく)からな
る。』とある。
そう、宙にぶら下がった人形(ひとがた)という感じなのだ。それが異様な印象を与えているのだと思う。
 
幡 各部分の名称.JPG
 幡 各部の名称

この「幡」の歴史は古く、『こうした幡が日本へ最初にもたらされたのは、日本書紀によると6世紀半
ばで、552年(欽明天皇13年)10月、百済の聖明王より仏像や経巻とともに「幡蓋」がもたらされたこ
とがうかがわれる』とある。※「幡蓋(ばんがい)」は幡と同じ。

 現在目にすることのできる東大寺の「幡」は、画家の吉岡堅二、染色家吉岡常雄兄弟の手による。
大幡一対、庭幡20枚が1990年10月に行われた大仏殿落慶法要のために64年ぶりに新調された。
その時のもの。当時の新聞記事を見ると『落慶法要当日、大仏殿の庭をかざった大小二つの幡は、
その あざやかな天平を思わす色と大胆な構図で人目をひいた。』と伝えている。

この吉岡兄弟というのは、宮本武蔵と吉岡清十郎の下り松の決闘で知られる京都の老舗「染屋吉岡」
から分家した「染司よしおか」の子孫である。何気なく見ている幡にもそんなエピソードの秘められ
ているところがやはり、奈良のおもしろいところというか奥の深いところだなぁと感じいってしまう。

 s-P5034061聖武天皇祭の朝.jpg
  古代の風が、あの「幡」を吹き流れて行くような
 
今年5月2日に東大寺を訪れたのは、聖武天皇祭の時に掲げられる「幡」を撮るためである。今年は聖
武天皇1254回忌にあたる。現代ならば、13回忌とか33回忌でまあ打ち止めというところであろうに、
なんと1254回忌とは驚かされる。これが奈良東大寺の伝統ということであろうか。

 s-東大寺・本坊勅使門P5278454.jpg
 東大寺・本坊「勅使門」 この門の向こうに「天皇殿」がある

『続日本紀』には「太上天皇周忌也。諸僧千五百余人於東大寺設斎焉」とある。色鮮やかな刺繍で彩
られた「幡」の林立する下、諸僧千五百余人が参列する大がかりな豪華絢爛な儀式であったと。
今の時代、東大寺で行われる「天皇祭」を見てもその華やかさに驚嘆させられるが、1254年前、国家
的行事として行われた聖武天皇一周忌の景色は想像を絶するものだっただろう。

参考資料
「上代幡の編年」  http://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber/60/4/P_76/_pdf/-char/ja/
posted by ハマー at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月01日

東大寺・転害門「盃状穴」

東大寺・転害門
転害門(てがいもん)は東大寺境内に残る数少ない創建当初の建造物の一つである。
創建は762年(天平宝字6)頃で、天平時代に造られた門としては他に法隆寺東大門が残るのみで、
同時代の建築様式を知るうえで貴重な存在という。

 転害門晩春s-P4303916.jpg s-法隆寺・東大門P5054116.jpg 
  転害門晩春                        法隆寺・東大門閉扉 

東大寺伽藍の西面にあった三門のうちの一つの転害門は、方位を示す呼称としては「西北大門」
となる。創建直後(756)に描かれた図面(東大寺山堺四至図)には「佐保路門」と表記されている。
これは平城京を東西に走る一条南大路の転害門から平城宮までの間を佐保路と呼んでいたことに
よる。転害門は南大門に比べて陰の薄い門ではあるが、天平時代「転害門」は東大寺と平城宮を
繋ぐ最も重要な路の基点であった。※「東大寺山堺四至図」をよく見ると、未だ南大門も二月堂も
存在していない。

 平城京、東大寺転害門地図.JPG 東大寺山堺四至図模写部分.jpg
                            右図 「東大寺山堺四至図模写部分」 

転害門基壇の盃状穴
最近のことであるが、転害門の基壇にいくつかの「穴」があることに気がついた。きっかけは、
1250年間という時の流れを、「石」表面の変化、つまり風化や人の往来による摩滅等の形状変化
でもって表現できるのではないかと、石段を見直していて、発見した。
これまでこの多数の「穴」に全く気がつかなかったことの方が驚きであり、信じられない。 

石階段の最上段、基壇の外縁部の葛石(かずらいし)の上縁面に、南北に一列、不規則に大小10箇
くらいの丸い穴が並んでいる。最初、屋根の軒から落ちる雨垂れが穿った穴だろうかとも思ったが、
軒先はその石より更に外側1.5mのところにあり、地面のその位置には「雨落溝」が設けられている。
雨垂れによる穴ではない。

転害門盃状穴s-P4233631.jpg 転害門雨落溝s-P4233654.jpg 

調べてみて初めて知ったのだが、この穴は研究者の間で盃状の窪み―「盃状穴(はいじょうけつ)」と
呼ばれているものだった。

東大寺・転害門に残された盃状穴は、東・西・南方向の基壇葛石に認められ全部で50穴くらい数
えられる。また基壇上の棟屋根を支える柱の一本の礎石にも穴は穿かれている。
更に注意深く探すと基壇以外にも、門北側に続く筋塀の柱の束石(土台)に盃状穴と思われる丸い
穴が多数認められる。あと、基壇東側の雨落葛石にもいくつか認められた。

  筋塀礎石盃状穴s-P4303876.jpg  s-P5094414転害門東雨落溝盃状穴.jpg

転害門の石
転害門の基壇等に穿(うが)かれた盃状穴がいつの時代に穿かれたものかその詳しい年代まで特定
できないものの、「国宝東大寺転害門調査報告書(2003.3)」を基に類推すると、まことに大まか
ではあるが鎌倉時代以後と考えられる。

基壇の石材は、鎌倉時代(1185-1333)の大改修で創建時の奈良・二上山の松香石(凝灰岩)から、
強固な花崗岩に取り替えられた。
盃状穴が残る西側基壇の葛石(かずらいし)には色合いの異なる二種類の花崗岩が使われている。
基壇の石材は江戸中期の時代また昭和の修理(1928〜1938)においても一部取り替えられたが、
盃状穴のある石段右側の石材(葛石)は鎌倉材と考えられる。

 s-P4303866転害門石階.jpg

このとから、この盃状穴が奈良・平安時代のものでないことは確実であり、転害門の盃状穴が
鎌倉時代以後に穿かれたものと判断できるわけである。
現在転害門には門扉が無い。門扉が取り払われた時代が判れば、もう少し絞った年代を知ること
ができる可能性がある。
門柱のうち一本の礎石に盃状穴が認められるが、この石材も鎌倉時代の大修理で取り替えられた
花崗岩野面石である。※野面石:荒面のままの石

転害門全容s-P4303827.jpg s-転害門基壇構造.jpg

 東大寺・転害門「盃状穴」の三つの特徴
(1) 盃状穴が「門」基壇に穿かれていること。門は俗域と神域の境界である。結界に穿かれて
いるということである。何かを祈願するならば、広大な東大寺境内に入れば寺も神社も仏も神も
思うがまま取捨選択できたはずである。
それにもかかわらず、盃状穴が門という「結界」に穿かれているというところに、意図された
何らかの意義がある、はずだ。

(2)数ある東大寺の建造物のうち盃状穴が転害門のみに認められることである。東大寺の正門
ともいえる南大門にも、境内の他の建造物や遺跡にも盃状穴は全く認められない。
この転害門は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも奇跡的に焼け
残った数少ない寺内の建物のひとつである。「不死の門」である。

(3)転害門基壇の葛石に見られる盃状穴は、30から40個くらい認められ、大きさに違いはある
もののほぼ円形の盃状の穴である。これは他所の神社・仏閣境内に見られる全国の他の盃状穴と
共通する。しかし、転害門の盃状穴には唯ひとつ、円形ではない、男性のシンボルに似た形の
ものがある。

 変形盃状穴s-P4303889.jpg 

盃状穴
盃状穴の歴史は古墳時代、弥生時代に遡る。韓半島から、人と文化の到来により、日本列島に
伝播したと考えられている。
盃状穴は女性のシンボルから由来したと考えられ、豊穣と生産を象徴する意図をもつ原始宗教で
ある。韓国研究者の間では「性穴」と呼ばれる。

東大寺・転害門の「盃状穴」を考える
江戸中期から明治・大正時代にかけて信仰関連の石造物、神社仏閣の主に常夜灯・手洗石・石段・
基壇等に穿かれた盃状穴は、青森から沖縄にいたる各地に見られる。まるで穿穴行為が隠れた
流行だったのではないかと思える程の数である。
そしてその夥しい数の盃状穴の形容は、木葉型や紡形、珍しいものでは三角型のものもあるが、
ほぼ女性のシンボルに類似したものであり、男性のシンボルのような型は稀である、と思う。

全体で60くらい数えられる転害門の盃状穴の中で異形のものはこの一つだけであるが、盃状穴
信仰を推理するうえで、とても興味深い。
この観点から基壇上門柱礎石の盃状穴を観察すると、柱が男性のシンボル、礎石は女性のシン
ボルを意味するのではなないかと思え、また見えしまう。

 基壇礎石盃状穴s-P4233655.jpg 

盃状穴は日本の各地に見られる。穴を穿ち、その穴を前にして何らかの祈願や呪詛(じゅそ)が
行われていたはずであり、またその習俗が明治・大正頃まで続いていたことも確実である。
にもかかわらず、その宗教的作法や意図を顕した資料・文献の発見はこれまでのところ無い。
また伝承すらない。これはその習俗が「他人に知れると効果がなくなるといった口伝による迷信」
があり、そのため人目に触れることなく、あくまで秘密裏に行われていたからと思われる。

しかし、大仏殿の再興がなった江戸時代中期(1700〜)以後には、当時の旅行ブームもあって
転害門の建つ手貝町周辺は、東大寺や興福寺、長谷寺詣の京方面からの玄関口として、
「旅宿郷」と呼ばれる程に宿場町として賑わっていた。またそこから二月堂や大仏殿に向う
入り口にあたる転害門の基壇に、昼日中、誰に咎められることも無く、また記憶に留まるこ
とも無く、十数個もの穴を穿ち何らかの儀式をとりおこなうことは、簡単なことではなかった
はずである。

転害門盃状穴s-P4233629.jpg


東大寺・転害門の盃状穴の謎解

東大寺・転害門に穿かれた盃状穴は誰が、何時、どのような意図で、どのようにして穿かれた
のであろうか。
以上の観察を通しておぼろげながらその全体像が浮かび上がってくる。
門、石、柱、密教、夜、性、古代宗教、迷信、中世という語が転害門盃状穴の謎を解くキーワー
ドになる。

参考図書
「国宝東大寺転害門調査報告書」奈良文化財研究所
「盃状穴考 その呪術的造形の追跡」国分直一監修


posted by ハマー at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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