2011年04月19日

山の辺の道 卑弥呼の桃は

桃の花は、桜の花がもっとも見頃を迎える同じ頃に花開く。そのせいか桃は陰が薄い。花見といえば
桜のこと、梅は観梅とよく知られているのに、観桃という言葉はあまり聞かない。これは多分、
「桃」という花樹が梅や桜の花のように詩歌や絵画という分野に広く定着できなかったからだろう。
また果樹として広く栽培されるようになったのも明治時代後期のことであり、それ以上に栽培適地が
内陸の丘陵地ということもあり、人の目に触れる機会が少ないということに原因している、と思う。
もっとも「桃の節句」という行事は古来より絶えることなく今に続くが、主役は飾り雛や女の子たち
であり花ではない。

 s-P4183503桃花満開.jpg 

私が子供の頃住んでいた家の庭に一本の桃の樹があった。他の庭木に比べて細い幹だったが、今にし
て思えばきっと姉の誕生を記念して父が植えたものにちがいない。小さな実のなっていたことを覚え
ているのに、どんな花が咲いていたのかという記憶はまったくない。庭に咲いていた他の花のことは
よく覚えているのに、不思議なことである。

 s-P4183476桃花と柿新芽.jpg 

「山の辺の道」沿いの桜井市車谷や穴師の丘陵には柿やミカンに隣り合わせて桃畑をよく見る。丘陵
の端には卑弥呼の墓と考えられている「箸墓古墳」があり、この一帯が邪馬台国だったのではないか
といわれている。
昨年(’10.9.18)この遺跡の発掘調査で大量の土器や木製品などの道具類とともに2000個以上の桃の
核(種)が発見されたと報道された。「卑弥呼が不老長寿の仙果として儀式に使ったのではないか」と
いう関係者のコメントもあった。

 s-P4183471枝ぶり見事な桃樹.jpg 

以前から山の辺の道のこの地域で桃が栽培されているのを見るにつけ、三輪山の麓に広がる丘陵地は
古代の桃源郷だったのではないかと密かに考えている。桃の種発見のニュースによりにわかに現実味
を帯びてきたような気がしている。(古代史や考古学者の誰もそんなことは言っていないが・・・)

桃は弥生時代にはすでに中国から日本につたわっていたと考えられている。中国で産まれた桃は「毛
毛(もも)」といわれ、毛がいっぱい生えた硬い果肉で、形は先がとがったものだった。主に薬用に
使われたと見られている。(現代でも漢方薬として用いられている)

 s-P4183544花瀬.jpg 

万葉集に桃を詠った歌が七首あり、そのうちの三首が「毛桃」と表記されている。
例えば『わが屋前(やど)の毛桃の下に月夜(つくよ)さし下心良しうたてこの頃』家の庭先の毛桃に月の光がさして、とても心地が良いこの頃です、という意味。
纏向遺跡で発見された桃の種が万葉で詠われた「毛桃」の種かどうか分からないが、この発見を記念
して、この地でも年々増え続けている放棄された耕作地(柿畑)に「古代の桃」を擬して「毛桃(けも
も)」を植え、卑弥呼の桃源郷として是非売り出してもらいたいと願っている。

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2011年04月18日

奈良・正暦寺の春を飾る花

正暦寺(しょうりゃくじ)の由緒を見ると、『1180年、平重衡による南都焼き討ちの類焼を受けて全山
全焼、寺領は没収され一時は廃墟と化した』とある。「類焼」とはいわゆる「もらい火」のことである。
南都焼討は新興勢力である「軍事貴族対皇室・摂関家」の戦いつまり「平清盛(伊勢平氏)対藤原一門」
(東大寺・興福寺)の利権争いの結果としての武力衝突である。もらい火とはその流れの中の出来事と
いうことになる。
寺伝によれば正暦寺は992年、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(九条兼家の子)が創建とある。一条
天皇の母親は藤原詮子、九条兼家は藤原家の嫡流であるから、この寺は藤原家の門跡寺院のようなも
のだ。当時の武装集団としての寺社勢力という経緯を考えると、焼討ちに会うだけの確かな理由があ
ったのではないか。と、つい言いたくなってしまう。

 s-P4163438僧坊跡石垣.jpg

右手に菩提仙川を見て山道を上がる。正暦寺の寺域に入ると、山側の斜面には城砦のような見事な石
垣が続く。この石垣は山の中腹にある本堂まで1km近く続く。築造年代は知らないが石積みの形が「谷
積」とか「乱積」といわれる工法のように見えることから、近世以後に造られたられたものと思う。
Wikipediaを読むと、焼討ちの後1218年には再建・整備され堂塔伽藍と六十二坊を持つまでの隆盛を
極めたとあるが、再び江戸時代初期1629年(寛永六年)に再度全山焼失した。往時の正暦寺の威容は今
に残る延々と続く石垣によってのみしか知ることはできない。

 s-P4163371紅椿.jpg s-P4163362桜残花の趣.jpg

古来「錦の里」と呼ばれる正暦寺は秋、全山を埋め尽くす紅葉で名高い。冬は参道を紅く彩る南天、
夏は客殿の門前に咲く百日紅の古木でも知られる。だが、春だけは公式HPにもなんら紹介されていな
い。
ところが、晩春のこの時季山の其処彼処に椿と山桜の花を見ることができる。参道を進んで行くと路
面に落ちた濃い紅色の花椿に、初めてそこに椿樹のあることに気がつかされる。また、風に舞う白い
花びらに、桜樹の存在を感じる。とにかく椿も桜も高いところに咲いているのだ。椿は10m以上、桜は
20m近くある巨木である。福寿院の庭や門前の桜樹はすでに盛りを過ぎ、僅かな風に盛大に花びらを散
らす。桜吹雪だ。土曜日というのに見に訪れる人も滅多にいない。勿体ないかぎりだと思いながら、
独り風流に酔いしれる。

 s-P4163374福寿院の山桜.jpg
 背後の山に咲く色とりどりの山桜花もまた見事

福寿院客殿は正暦寺唯一の重文建築物で、今では寺の顔となっている。数年前に一度拝観したことが
ある。奥行きの狭い庭ながら向かいの山を借景とした美しい景色を覚えている。
改めて見るほどの意欲は起きなかったが、これが最後になるかもしれないと思い直し、再訪する。拝
観の後、靴脱ぎ場(台所)から勝手口を通して見る鮮やかな紅椿に気づいた。今日のベストショットに
なりそうな予感に心がときめく。あつかましくも三脚を立てて撮らせてもらう。手持ちではとても撮
れる自信が無かった。

 s-P4163405福寿院客殿勝手口.jpg s-P4163410渡石に降る桜.jpg

※参考HP URL
Wikipedia 正暦寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9A%A6%E5%AF%BA
Wikipedia 南都焼討
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

s-P4163292正暦寺鐘楼枝垂桜.jpg s-P4163305山桜花変化.jpg
絵に描いたような鐘楼横の枝垂桜         三種類の山桜を遠望
posted by ハマー at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月14日

桜の花を撮るということは

桜の花真っ盛りである。染井吉野はもう花散る頃だが、これから開花期を迎える山桜も多い。桜は初
花からほんの十日ほどで花を終えるが、種類が多いだけに意外に長い期間花を見ることができる。

「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」

平安時代初期の歌人在原業平が詠んだ有名な歌だが、1200年を過ぎた今もこの「桜」に翻弄される人
の心変わることはない。ついには、桜なんぞ無いほうがいいといいたくなる気持はよくわかる。

s-P4133163山の辺の道山稜の桜.jpg s-P4072480井寺池四月七日.jpg
 「山の辺の道」衾田陵墓近くの桜      三輪山井寺池の桜

写真好きにとっても「桜」は、春、もっとも気になるモチーフだ。ゆったりと花見をするわけではな
い。とにかく写真を撮る、昔流に言えばフィルムに収めなくては安心できない。
目の前の桜が散りつくすまで心休まるということがない。

 s-P4102861東大寺桜窪の朝.jpg s-P4102906興福寺五重塔遠望.jpg 
 東大寺東塔跡の桜窪             大仏殿大屋根と興福寺五重塔遠望

西行の詠んだ「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」という歌があるが、とに
かく散る前に撮らなくてはならないと気が焦る。
更に、風に舞う花びら、地に水面に落ちた花びらをとり終えてやっと心静かに季節の移ろいを受け入
れることができる。この間「花」を楽しむなんていう余裕はない。

 s-P4102847東大寺転害門花霞.jpg s-P4102877二月堂湯屋桜花.jpg 
 東大寺転害門                 二月堂湯屋の桜

もっとも面倒なことは、桜ならば何処で撮ってもOKというものではない。
歌の世界に「歌枕」というものがあるように、写真の世界には「フォト枕」というものがある。例え
ば「吉野の桜」とか「根尾村の薄墨桜」とか「奥州・三春の桜」とかのことである。
自分にとっては、「山の辺の道」沿いとか「東大寺」あたり、大目に見ても「奈良」で桜を撮ること
が重要。

桜の時季は今年も残すところ十日間くらいだが、この十日間を逃すとまた来年まで待たなければなら
ない。桜の季節を迎えるということは楽しいような、息苦しいことでもある。
posted by ハマー at 13:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

佐保川の桜樹

平城山(ならやま)は奈良と京都の国境に東西に横たわる丘陵で、その南麓を走る道を佐保路・佐紀路
と呼ぶ。
東大寺の転害門(てがいもん)を起点として平城宮に至る佐保路は、奈良時代からすでに市街地であり
意外に見所は少ない。陵墓の他に現存する名所としては、法華寺、海龍王寺、興福院(こんぶいん)不
退寺などがあげられる。そしてこの時季は佐保川堤の桜並木がある。

 s-P4082648興福院桜.jpg 

興福院は門前の桜が美しいと評判だが、樹齢は二十から三十年くらい。境内客殿の前庭は小堀遠州の
作庭と聞いているが、門前は特に作意も見られない雑然としたもの。桜樹を入れて写そうとしても、
どうにも絵としてまとまらない。少し見頃には早かったのかもしれない。仕方なく、寺域を外れて門
前の住宅街からレンズを精一杯に伸ばして、なんとか撮る。
本門から中門の向こうに見える本堂の屋根は、鍜葺(しころぶき)寄棟造の反り屋根で遠くから眺めて
も尚なめらかな美しいフォルムがわかる。尼寺の優しさが伝わってくる。

 s-P4112966興福院本門.jpg

興福院と書いて「こんぶいん」と読ませる。寺伝では天平勝宝年間(749 - 757年)、和気清麻呂(わ
けのきよまろ)が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。『七大寺日記』(嘉承元
年・1106年)には藤原百川(ふじわらのももかわ)が創建した興福尼院が前身とされているが、いずれ
にしても説明になっていない。「こうふく」が「こんぶ」と訛っていったのではないのか。

 s-P4082675大日如来.jpg s-P4082658しあわせ地蔵.jpg
 路角や分かれ道でよく見かける石仏や祠、奈良らしい景色

興福院周辺は佐保山麓の深い緑に覆われているが、この辺りは奈良の文教地区であり、小中高校と大
学が散在する。その隙間に神社や寺が肩身を狭くしている。

この中では「法蓮稲荷神社」の由来がちょっと面白い。この神社はかつて現在地の北東800mの場所に
鎮座していたが、明治十六年にその場所を、一歳で亡くなった聖武天皇と光明皇后の第一皇太子の那
富山御陵墓と決定しため、神社は移転(遷座)を余儀なくされたとある。そこに神様が常時住んでいる
わけでは無いのでまあ宜しいのかもしれないが、先住の神様としては、ちょっとやりきれない心境だ
ったに違いない。

 s-P4082672法蓮稲荷.jpg s-P4082659耳欠け狐.jpg
 神社入り口の一対の狐さま。鼻先がそがれ、片耳を失なって「あ〜あ、うーん」嘆きの呼吸 

春日山と芳山の谷間に源を発する佐保川は、若草山の北から平城山(ならやま)南麓を西に進み、途中
奈良市役所のあたりで大きく折れて南下する。現在の佐保川は護岸工事により川幅は狭く両岸をコン
クリートで固められ、川そのものにはなんの情緒も感じられない。
しかし、江戸時代に描かれた南都八景の錦絵(版画)を見ると、(意外なことではないが)ゆったりとし
た川幅と豊かな水量に恵まれた川であったことがわかる。

 s-P4082791佐保川桜.jpg

万葉集に佐保川の名称が入った歌は17首詠われている。そのなかで
「佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る」
「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは」
など千鳥を詠みこんだ歌が全部で六首ある。

 s-P4082823白鷺真剣なまなざし.jpg 

干潟の無い(と思う)奈良市内の川で今も千鳥を見られるのか知らないが、鷺の仲間はよく見かける。
コサギは頭に2本の長い冠羽を持つので容易に見分けることができる。街中で生活している鳥だけあっ
て人馴れしていて、近づいても逃げ飛んで行くことが無い。

 s-P4082699川路桜.jpg s-P4082694川路桜.jpg 

佐保川の桜は江戸時代幕末、奈良奉行川路聖謨(かわじとしあきら)が興福寺、東大寺の境内、佐保
山、高円山のほとり、佐保川の堤まで千本の桜を植えた名残である。
「川路桜」と呼ばれている当時の桜が現在も四株残っている。そのうちの一株は幹の直径が1m近く
ある巨木だが、見た感じでは二本の桜樹が融合したように思える。連理木のようだ。 樹齢140年にな
る、染井吉野としては終命に近いだろうに。今だ勢いを失うことなく見事な花を咲かせるのは二つの
命が支えあっているからだろう。(11.04.08)
posted by ハマー at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐保路・西ノ京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月04日

奈良・白毫寺周辺の椿と土塀

4月2日、朝6時20分過ぎ白毫寺町の一軒の民家が見える路地の入り口に三脚を立てた。まだ太陽は出
てていない。その家は奈良でよく見かける高く傾斜のきつい萱葺き屋根の主屋と一段下がった緩い勾
配の瓦屋根の落棟(おちむね)の2つの尾根で構成された切妻造りの大和棟と呼ばれる旧い建物である。

その落棟の土塀に囲まれた裏庭に、樹齢130年から140年という一本の椿樹が植えられている。
樹高5mになるその樹は、根元から三本に枝分かれし、屋根の庇あたりでさらに横に大きく広がった
枝一面に紅色の花と蕾を、葉の見えなくなるほどびっしりとつけている。
土塀に落ち椿、これまでに何ども撮影してきたモチーフだが、ここの土塀はえもいえぬ色合い、取り
合わである。

 s-P4022202る塀落ち椿.jpg 

前日、白毫寺を出て春日神社に至る山の辺の道を行く途中でこの家を見た。路地の奥に紅色の塊のよ
うな椿樹を見たのだ。が、昼近く高い位置にある陽の光でコントラストが強く思うように撮れない。
それで、今日の朝、まだ太陽の出る前ここに来た。

写真を撮っていると、たびたび鵯(ひよどり)がやってくる。枝を移るたび花が揺れ落ちる。次からつ
ぎと、ひっきりなしに、土塀のあちら側、こちらの路面に椿の花の落下する音が聞こえる。黒いアス
ファルト舗装の道は次々と落ちる花椿で紅色に染まって行く。

 s-P4012164犇犇と咲く椿.jpg 

奈良では荒土のままの土壁よく目にする。基礎部分は川石(丸石)を使った野面積みになっている。
モルタルを塗った白壁も見かけるが、旧い造りの民家や社寺は今でも昔のままの形の土塀を維持する
ことが多い。
内陸の奈良県、中でも盆地部においては年間降水量が1500o以下しかなく、雨による侵食、痛みの少
ないことも土壁が残されている理由かもしれない。それ以上に、古都奈良は土壁がよく似合うからだ
ろう。※都道府県別年間降水量1位は静岡県で3311o、最下位は長野県893o。

子規の流れを汲む俳人細見綾子が詠んだ『奈良五月壁くずれたる宿を起点に』という句、大好きな句
である。「奈良百句」に収められたもので、この宿は奈良国立博物館前の登大路をはさんだところに
あった日吉館のことと言われている。しかし、80年間続いたこの宿は、2009年夏に取り壊され今は無
い。間口が狭く奥の深い敷地の何処に土塀があったのか想像できないが、この「壁」とは「土塀」の
ことと思っている。奈良を旅したことのある人ならば、そう思うに違いない。土塀は古都・奈良のイ
メージそのものだから。

 s-P4012151白毫寺石仏と落ち椿.jpg

白毫寺へは大和三名椿のひとつ「五色椿」を撮りに出かけたが、まだ花は開いていなかった。蕾すら
小さい。今年の春は去年より10日ほど歩みが遅い。

高円山の山麓標高160mのところにある白毫寺の周りには藪椿の高木をよく目にする。椿は日本や韓国
に自生する樹木であるが、人の手を介して広く拡がったものと思う。花木を探して奈良の野山を歩い
てみてよくわかるのだが、椿樹は寺の周辺や里山ではよく見かけるが、道の途絶えた山中や山奥では
滅多に見かけない。梅の広がり方と似たところがある。
椿は古代から油を取るために大切にされた木である。食用や灯火用に山麓や山寺でよく栽培されてい
たのだろう。白毫寺周りの山林にある椿樹はその名残であろうか。

 s-P3311978山椿.jpg s-P4012122藪椿.jpg

※この日の奈良の日出時刻は5時45分だが、東を山に囲まれた白毫寺の辺りは30分以上遅い。
posted by ハマー at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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