2011年01月31日

洋画家中村一雄氏の志賀直哉旧居保存運動

「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」中村一雄著

取壊しが決まっていた奈良市高畑にある志賀直哉旧居の保存は、隣家にすむ洋画家中村一雄氏の保
存への決起とその趣旨に賛同した「保存する会」メンバーの熱意によって成し遂げられたものである。
しかし、その運動に関係することは、保存がなされた志賀直哉旧居の何処にも記し置かれることな
く、また入館時に渡されるリーフレットに一言もない。
本を読み、保存までの経過を知ってしまった自分としてはとても不満に思う。

中村一雄氏と「保存する会」のことは来館する人々が知ることのできるように何らかの形で提示すべ
きと思う。それが人を育てるという大学教育の本来あるべき姿であろう。
また今後高畑の町が望ましい姿で残されてゆくことは、奈良市のみならず全国の奈良ファンである
人々への期待に沿うことであり、その実現に向けた高畑の町の住民の方々の今もこれからも続く環境
保全への努力に報いることになると思う、からである。

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昭和50年6月6日洋画家中村一雄氏は、道を隔てたすぐ東隣にある志賀直哉旧居 (当時社会保険庁の
宿泊施設であった「飛火野荘」)が老朽化にともない取壊されることを、たまたまそこに宿泊した氏
の画友か知らされた。

中村一雄氏の著作「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」は、中村一雄氏が旧居の
取壊し計画を知ったその日から、昭和52年10月5日学校法人奈良学園が旧宅を買収し「全面保存」す
ることが決定したその日までの氏と「保存する会」の苦闘の日々を詳細に記し、また新聞報道の紙面
コピーを時系列に紹介したドキュメンタリーである。

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中村一雄氏と「保存する会」が起こした志賀直哉旧居保存運動に対して、行政(市、県、国)の対応は
冷ややかなものであった。

「県は保存を考えない。文化庁も保存に値しないという考え方である。志賀直哉は森鴎外よりも(評価
の)低い作家である(保険課水上課長)」
「志賀さんの生誕の地でもなく、建物自体も昭和のもので文化財として保存できない(鍵田奈良市
長)」、
「志賀直哉と言っても有名なのは暗夜行路だけじゃないか。(文化庁足立長官室)」
「全面保存は難しい、付随的なものは壊しても、一番大切な所を残す。南側サロン等は残す必要がな
い、何年かすると腐るだろう。(奥田知事)」

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奈良行政の近代文化財に対する認識の愚昧さはすでに「ならまち」保存への無策と後ろ向きな対応で
証明済みのことであるが、それも奈良市県の財政基盤の脆弱さと、古寺社、遺跡に強く依存する文
化・観光行政に起因するものである。それが奈良の風土なのだと思う。

保存運動に対する消極的な姿勢は、奈良市民の中にも冷ややかな空気とともにあった。
「志賀、志賀と騒いでいるようだが、志賀は奈良に対して何をしてくれたと言うのか。何も役に立っ
ていないではないか。」
「あれだけ熱中して、中村は市会議員にでもなるのでは」「中村個人の運動に加担するな」
「中村の独走」という陰口も聞こえてきた。

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水面下では昭和52 年3月の時点で、奈良学園伊瀬敏郎理事長から志賀直哉旧居の購入の打診がなさ
れていた。その他、町内の個人から、また東京吉井画廊(画家東山魁夷氏からのオファー)からも寄せ
られていた。しかし社会保険庁の「飛火野荘」代替地探しが難航し、旧居売却計画も停滞した。また
奈良学園の購入意欲も後退したかに思われた。

しかし、保存運動に対する行政と市民の理解と援助の動きは全国に徐々に拡大した。
「志賀直哉はともかく高畑の風土を破壊から守るべきだ」初代文化庁長官・今日出海(こんひでみ、小
説家、僧侶「今東光」の末弟)。
52年1月18日の時点で、保存に賛同する人々18,000名の署名が集まった。

 s-P1309437階段.jpg

しかし、結局、志賀直哉旧居の買取、保存の結論が出るまでには二年以上の歳月を必要とした。
運動発足当初消極的だった奥田奈良県知事と「保存する会」の反主流派(と云われた)唐招提寺森本長
老、飛鳥園小川光三氏のグループ対「奈良学園」、「行政」の三つ巴の争いに、素人集団であった中
村一雄氏と保存する会のメンバーが翻弄された二年間だった。(※この構図は、本を読んで得た自分の
見解である)

昭和昭和52年10月5日奈良学園が奈良文化女子短大のセミナーハウスとして旧宅を買収「全面保存」
することが決まった。当日の奈良新聞には保存運動への評価とともに、『膨大な文化遺産につつまれ
ていながら、意外に文化には無頓着――――と言われて着きた奈良市民によって運動が支えられた、とい
う意義も大きい。そうした意味では、志賀邸を残せた以上に、貴重なものを 新たに生み出し得たのか
もしれない』と希望的、好意的な意見も書かれていた。

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 保存が決まったその後も、旧居への立ち入り制限をする奈良学園との「全面公開」に向けた折衝の
過程が記され、最後に昭和58年4月23日の新聞報道紙面が掲載され、ドキュメントは終わる。

以上が洋画家中村一雄氏の著作「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」に記された
181頁に及ぶドキュメンタリーのダイジェストである。

 s-P1309427二階客間から若草山.jpg

『私は、志賀邸が取壊されることを耳にしたとき、かつて隣に住んでいた志賀さんの邸は、何が何で
も保存しなければならないと思った。最初立ち上がった時は、私独りでもこれをやろうと決心した。
そうだ、私でなければこの運動はできないと直感的に思ったものだった。然し、それがどうであろ
う。一万八千人もの方々が御賛同、ご署名の協力を寄せてくださったのである。(中略)私は今、(運動
に加わってくれた保存する会)の方々、そして署名にご協力下さった多くの方々への感謝の気持ちをこ
めて、後世の人たちの為にもこの運動の実体を知ってもらうべく、小冊子として残しておき度く、出
版にふみきった次第である。』本の「はじめに」記された中村一雄氏の言葉である。

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文豪志賀直哉は生涯を通して、26回も引越しをしたといわれる。戦前に住んでいたのは、千葉県の我
孫市、京都市、奈良市などを転々とし、昭和13年には東京に住まいを戻すが、一時期熱海市にも移り
住んだ。
しかし、志賀直哉の旧居として現存するのは、奈良市高畑にある一家のみである。また、志賀直哉は
遺言の中で『記念碑や記念館は一切断る事』とされていることから、志賀直哉の記念館を計画した鳥
取県はその建設を断念した。また、千葉県我孫子市において計画された「志賀直哉文学館」は『白樺
文学館』として名を変えて開館された。

奈良から移り住んだ東京都港区麻布の志賀直哉の住居跡地は現在ブリジストンの社宅が建つ。最後の
住いとなった東京都渋谷区東一丁目の自宅は現在、志賀氏の次男直吉氏が相続し居住する。直吉氏は
「作家は作品で名前が残れば十分。」と話しているが、とはいえ、「文学史上から見て」奈良市に残
された志賀直哉の旧居がいかに貴重なものであるかを、認識する必要がある。

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 「たかばたけ茶論」入り口に飾られた椿

洋画家中村一雄氏は現在も創作活動にご多忙と思われるが、自宅の庭を開放したティーハウス「たか
ばたけ茶論」で同氏にお会いする機会もあると思う。
そもそも、この志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動を知ったきっかけは、偶然道で立ち話をした
中村一雄氏の気さくな人柄にふれ、中村氏の「絵」を見たくてネットで調べ始めてから知ったことで
あった。そしてこの運動の偉大なる結晶である、志賀直哉旧居を見たくて今日訪れた。

※マイブログ「奈良たかばたけ茶論と洋画家中村一雄氏」
http://naranokoto.seesaa.net/article/145779518.html

ところで、志賀直哉氏とはどんな人物だったのだろうか。考えてみたら名前以外何も知らない。
しかし、今日奈良高畑の町を歩きそして旧居を見学した今、志賀直哉の人となりの断片を確かに見た
気がしている。


◎「奈良高畑の志賀直哉旧居―保存のための草の根の運動」
著者 中村一雄 発行所 渓声出版 昭和58年8月1日
s-P1200838志賀直哉旧宅.jpg

奈良高畑の志賀直哉旧居−保存のための草の根運動

http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/150/tayori159.htm
毎日新聞 毎日JP 時を継ぐ:平城遷都1300年
奈良市高畑町/1 中村一雄さん
 http://mainichi.jp/kansai/sento1300/archive/news/2010/20100519ddlk29040635000c.html
奈良学園セミナーハウス志賀直哉旧居
http://www.naragakuen.jp/sgnoy/index.html
志賀直哉旧居
http://burari2161.fc2web.com/siganaoyakyuukyo.html
松岡正剛の千夜千冊 志賀直哉『暗夜行路』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1236.html
洋画家中村一雄氏HP mi carazon (現在休眠中)
http://avenida.exblog.jp/
中村一雄氏の創作活動 (ぐらっぱ亭の遊々素適)
http://grappatei.exblog.jp/8793622/
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2011年01月27日

俳人武藤紀子氏 写真附句

「俳句的生活」の第八章「習う」第九章「友」の文中に長谷川櫂氏の俳友の一人として武藤紀子氏の
名前とその句が数点紹介されている。ビックリした。

「足ばかり見えて声降る松手入」武藤紀子 (功山寺句会)

数日前に自分が目撃したシーンそのままの句である。撮影場所は奈良国立博物館の向かい側にある国
際奈良学セミナーハウスの内庭でのことだ。道から門の中を覗き見たときに気になる光景だったの
で、断りを入れて写真を撮らせてもらった。もっとも素材として面白いが、自分が志向する写真とは
ジャンルが違うので、発表しようか、やめようか迷っていた写真だ。

※国際奈良学セミナーハウスHP http://www.nara-manabi.com/

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自分が撮った写真と同じ景色を、同じように俳句で表現した武藤紀子氏のことがとても気になってし
まった。分類すれば、俳句の世界では「滑稽」のカテゴリーに入れてもよいのだろうか。

長谷川櫂氏は、『この人は前々から恰幅のいい句を詠む人で、花は桜、魚は明石の桜鯛ではないが、
桜や松、鯛や鶴などという大きな題材を詠ませると素質と響きあうとでもいうのか、玉のような句を
吐く。』と言う。

「空海の水晶の数珠山桜」武藤紀子 (句集「朱夏」)

この「空海の」の句を読んで、一昨年春(09.04.23)に山の辺の道・長岳寺で撮った写真を思い出し
た。だが、空海が水晶の数珠をしていたかどうかが全く思い出せない。改めて写真を見てみると、確
かに左手に数珠を握っていた。

 s-P1110145長岳寺八重桜弘法大師像.jpg
 長岳寺鐘楼前にある空海立像

『俳句は言葉を生かすために切る。しかしながら、ただ切っただけでは俳句にならない。切りっぱな
しにしただけでは、言葉の持ち味がまだ十分に生かせていないからである。そこで一句にしようとす
るなら別の言葉と取り合わせる必要がある。言葉は別の言葉と出会い、互いに照らしあうことによっ
て初めてその味わいを存分に生かす』第三章「取り合わせ」(長谷川櫂)

晩春の寺、俳人は山桜咲く境内にいて空海の像見上げる。左手に握られた水晶の数珠が陽の光を受け
てキラキラっと輝いた。気だるい景色が一瞬にして変化した瞬間であったのだろう。「空海の」と一
呼吸おく、これが「切れ」。そして「水晶の数珠」と「山桜」という異質な言葉(モノ)の取り合わせ
の意外性が句をひき締める、ということであろうか。

『こうした言葉の取り合わせが何に似ているかといえば、音楽の和音ほど似ているものはないだろ
う。単独の音のままでは単調な音にすぎないが、それが二つ三つ同時に奏でられることによって妙な
る音色となる。この世界には和音によってしか表せない音があるように、ものともの、言葉と言葉の
取り合わせによってしか伝えられないものがある。』(長谷川櫂)

写真の「切れ」は連続性を断ち切り一瞬(特定の時間)を切り取ること、現前する景色のある部分を切
り出すことによる強調と思っている。また主題を強調する(補強する)ためのナニカを差し込むむとい
う「取り合わせ」の美学と思っている。
 
 表門の手水鉢.jpg
 「完璧な椿生きてゐてよかつた」 

武藤紀子氏の句集「百千鳥」に「完璧な椿生きてゐてよかつた」という句がある。
「生きてゐいてよかった」の表現は作者の個人的な動機によるものと思うがさて、生きていてよかっ
たと思わせる「完璧な椿」とはどのような「椿」であろうか。
一輪の花を指すのか、あるいは満開の花に覆われた椿の「樹」だったのか。あるいは・・・・・

俳人 武藤紀子 (むとう のりこ) 
昭和24年(1949) 石川県生れ。  宇佐美魚目に師事。「晨」「古志」同人。
 句集:『円座』『朱夏』『百千鳥』
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2011年01月26日

飯田龍太氏の俳句 写真附句

飯田龍太氏の俳句を知ったきっかけ
今、句集を読でいる。俳句にはまっている。
書店でたまたま目にした中公新書「俳句的生活」という本を読んで触発された。著者の長谷川櫂(はせ
がわ・かい)氏は句の実作者(俳人)であり、自句集も多く出され、他に入門書、随筆、解説書なも数多
く著している。
「俳句的生活」は解説書のような連作随筆集で、ご自身がスピンアウトして俳人となった経緯なども
簡単に紹介されていて、とても興味深く読めた。この本に紹介されている多くの俳人のうち、飯田龍
太、子規、蕪村の句集を続けて読んだ。

※Wikipedia 長谷川櫂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%AB%82


「俳句的生活」第一章「切る」は、昭和の俳人・飯田龍太の句と、柳生石舟斎が二人の剣士・吉岡清
十郎、宮本武蔵におくり遣った「芍薬」の茎の切り口にまつわる物語を媒介として、芭蕉はじめ著名
な俳人の句を紹介しながら、「句を切る」とはどういうことかを教えてくれる。


「白梅のあと紅梅の深空あり」(しらうめのあとこうばいのみそらあり) 飯田龍太

『目の前にあるのは花をつけた紅梅の枝々とその先に深閑として広がる青い空である。その景が現れ
る前には白梅が作者の眼中を占めていた。「白梅の」とまず白梅を出しておいて、その白梅から「紅
梅の空」への悠々と、かつ決然と果たされる転換は鮮やかとしか言いようがない。
一句のもたらす白梅と紅梅の幻影のすべてが「白梅の」といいかけて「あと」で軽くかわし、一気に
「紅梅の深空あり」と切り下ろす龍太の気迫の上に成り立っている。その終わりとなる「深空あり」
の切口の鋭さ、切れ味のみごとさ。
白梅、紅梅というおたやかであるべき花を描きながら、この気迫はどうしたことだろう。むしろ言葉
が鋭く切ってあるこそ花はいよいよたおやかなものとなるというかのようである。』(長谷川櫂)

 崇神天皇陵近くの紅梅.jpg

解説を読むまでもなく、この句「白梅のあと紅梅の深空あり」の十七文字を見てすぐ、鮮やかな映像
としてその景色は脳裏に瞬時に浮びあがった。俳句の「切れ」というものがいかなるものかもわかっ
た、と思う。同時に、飯田龍太という俳人をもっと知りたいと強く思った。

情けないことだが、自分は「俳人」の名前もまたその作者の句もまったくと言ってよいほど知らな
い。芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子など、授業で聞いた程度しか知らない。虚子についてはその代表
作すら知らなかった。まして昭和の俳人を知るはずが無い。

図書館にあった「俳句の現在T 飯田龍太集 昨日の徑」「飯田龍太文集 第二巻」の二冊を借り
た。同時に飯田蛇笏の「新編 飯田蛇笏全句集」も借り置いた(けど、旧字体が多くてまだ読む気になれない)。http://naranokoto.seesaa.net/archives/20110307-1.html 飯田蛇笏 写真附句

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「一月の川一月の谷の中」(いちがつのかわいちがつのたにのなか) 飯田龍太

『この句は「一月の川」のあとで切れる。そこに「や」という切字はないが、「一月の川や」と言っ
ているのと同じことである。この句は「一月の川は一月の谷の中」というのとはまったく異なる。』
(長谷川櫂)
この句について作者は「自作自解八十五句」(飯田龍太文集第二巻)の中で、『幼時から馴染んだ川に
対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感したためである。それ以外に作者としては説
明のしようがない句だ。強いて云えば、表現に類型がなかったことか。』と説明する。
この鋭い切れは神がかった飯田龍太氏の一太刀なのか。

一月の川がいかなる景色なのかは自分の経験の中から想像するしかないが、深閑たる谷間を音もなく
流れ行く冷たく暗い川面が目に浮かんでくる。その景色を見ている自分がそこにいるように感じる。

Wikipedia 飯田龍太
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%A4%AA


 s-P1070212いろ定まれる.jpg
 「存念のいろ定まれる山の柿」

俳句に興味を持つ理由は、自分で句を詠みたい、というものではない。
奈良の写真を撮り始めてすぐに万葉歌を始め中世の和歌を知るよう心がけた。自分がいま現在感じ見
ている「奈良の景色」と、飛鳥・奈良・平安時代に生きた人々の見た景色、感じたモノを、比較する
というか、確認したいと思ったからだ。というよりも、万葉歌の感性を知りたいと思ったのだ。

俳句はその生成の歴史から、江戸時代以後のものと思っていたからこれまで遠ざけていた。しかし、
この頃では、五七五という僅か十七文字という言葉数で、景色、心象を巧みに捉える俳句は、短歌と
比べその作法が、写真的というか自分が写真を撮るときの直感や迫り方により近いものと思うように
なってきた。

飯田龍太氏の名前も作品もほんのせんだってまで知らなかったが、読みおえて今、俳句の「表現力」
と俳句が印象付ける(醸しだす)画像の鮮鋭さに驚嘆している。なにかすごい力を、風景と対峙すると
きの「心」を教えられたような気がしている。

飯田龍太氏の景色が目に浮かびあがる句が好きだ。自分がその景色の中にいるような臨場感のある句
が好きだ。その状況(景色)を強く感じさせる句が好きだ。ああそういう見方や感じ方もあるのだと教
えてくれる句の数々が好きだ。

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 「白菊に遠い空から雨が来る」

飯田龍太の句の中から自分の好きな十句と、長谷川櫂氏が取り上げていた句を、とりあえず記してお
く。またいつか、読み直し改めて選抜することもあるだろう。

飯田龍太「十句+α」
・ いきいきと三月生まれる雲の奥
・ 雪の峰しづかに春ののぼりゆく
・ 満月の冴えてみちびく家路あり
・ 昼の汽車音のころがる枯故郷
・ 山枯れて言葉のごとく水動く
・ 雪山のどこも動かず花にほふ
・ 春の雲人に行方を聴くごとし
・ 白菊に遠い空から雨が来る
・ 存念のいろ定まれる山の柿
・ 大寒の薔薇に異端の香気あり

・ 春の鳶寄りわかれては高みつつ
・ 白梅のあと紅梅の深空あり
・ 一月の川一月の谷の中


飯田龍太に関する興味深い記事
今週の本棚:池内紀・評 『龍太語る』=飯田龍太・著、飯田秀實・監修
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2010/08/20100815ddm015070018000c.html
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2011年01月17日

ロウバイ咲く 山の辺の道・車谷の冬

卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳のすぐ南側を流れる巻向川を東に遡ると、奈良県道50号線と交差す
る。その橋の下の農地に、一本のロウバイの木がある。地際から一本の太い幹がスクッと伸びたなか
なか美しい姿をしている。よく手入れされた跡のある木だ。花の色かたちから見て、素心蝋梅(そしん
ろうばい)の「満月」といわれる種類だ。

 s-P1169347車谷ロウバイ満月.jpg

地面に落ちた花も、痛んだ花も見られない。まだ咲き始めて間がないのだろう。濃い黄色の小さな蕾
や大きくふくらんだベル型の花が風に揺れていた。

「素心蝋梅」とはおもしろい花名だ。中国で『素心』とは、花弁(萼)、花芯まで同じ色の花を『素
心』と呼ぶことに由来する。中国名「素心蝋梅」を音読みして和名のソシンロウバイとなったと聞い
ている。元々の素心の意味である「飾らない」とか「あるがまま」、「素直な心」、「偽りのない心」など
のニュアンスやまして物語は含まれていない。洒落た名前だったのでちょっと残念かも。

これから二月の中ごろまで、つぎつぎと花を咲かせる。ロウバイの花が終わる頃、山の辺の道は白や
紅色の梅花に覆われる。

 s-P1169243黒い屋根.jpg 
 右手に二上山、左手は箸墓古墳 黒い屋根が冷たい冬の朝

奈良・庭師の矜持は

「車谷」は三輪山の裾から巻向川が流れ出る谷状なったあたりに広がる集落を指す古い住居表示(字)
名で、地図上では桜井市箸中になる。この地域は蜜柑やレモンなど柑橘類の栽培が盛んだが、植木や
庭木の栽培もよく行われている。
なんと奈良県は「植木・庭手入れ代 世帯あたり年間支出金額」は二位の長野県と比較しても1.6倍と
日本一の植木・庭好き県なのだ。

 s-P1169288車谷サザンカ.jpg

そういう訳だか、「山の辺の道」周辺の山野では、植木畑を良く見かける。今日、サザンカを見つけ
た所もその植木畑の一つだった。さすが本職の庭師が育てる山茶花は、そのまま大きな植木鉢に植え
変えればたちまち巨大な盆栽になるような、どちらから見ても美しい樹形に整えられている。自然の
中や、素人が剪定をしたサザンカとは、全く違う。地際からバランスよく枝分かれされ、びっしりと
花、蕾、葉をつけた見事な樹姿なのだ。

 s-P1129153盆栽仕立て内側.jpg s-P1129161盆栽仕立て表.jpg 
 崇神天皇陵陪塚の中と外

奈良県には宮内庁の管理する(治定する)立ち入りを禁止された沢山の古墳があるが、実はその古墳を
管理する庭師の秘かな楽しみが、「古墳を鉢に見立てた巨大盆栽仕立」なのではないのかと以前から
思っている(疑っている)。

先日崇神天皇陵の陪塚(ばいちょう)にちょっと登って、そのことを確信した。外見からはわかりにく
いのだが内側から見ると一本いっぽんの木が、それはそれは見事に盆栽仕立てにされているのだ。こ
れが秘かな楽しみ、腕自慢、或いは矜持(自負)といわずになんと言えようか。
という訳で、奈良の庭師や、植木農家のご主人はいきおい必然的に、皆が見事な腕を持った盆栽師、
植木職人ということにならないか、という話である。

 s-P1169250竹林枇杷の木.jpg
 竹の柵に捕らわれた森の怪人みたい枇杷の木

枇杷の木のこと

枇杷の木がいつも気になる。子供 (小学生) の頃住んでいた家の玄関脇に一本の枇杷の木が植えられ
ていた。植木好きな父親(故人)が植えたものだ。それ以外に、イチジク、桃、柿などの果樹もあっ
た。
何かの折に枇杷の木を切らなくてはならなくなった。そして適当な大きさに切った幹の一部を手にし
た父親が「これは木刀になる固い木なのだ」と言い、大切にとっていたことを今も覚えている。
枇杷の木を見るといつもそのことを思いだす。
枇杷の葉は艶々とした濃い緑色で、深く刻まれたような葉脈が目立つ、少しグルーミーな印象が何故
か家の雰囲気や父親のパーソナリティーに合致して嫌いなような、好きになれないような複雑な気持
ちにさせられる。

 s-P1169397茅原大墓古墳から.jpg
 茅原大墓古墳から奈良盆地を見る遠くに大神神社の大鳥居が
 右手の方に畝傍山、耳成山が見える 

※参考URL
満月ロウバイと素心ロウバイの違い
http://kusaki.way-nifty.com/mainiti/2008/01/post_1b86.html
Wikipedia ロウバイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%90%E3%82%A4
Wikipedia陪塚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%A1%9A
ランキング&相場
http://www.tonashiba.com/ranking/pref_livingspace/house_p/10010033
posted by ハマー at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

ならまち・総本家菊岡の大黒天

総本家菊岡の店は奈良市の元興寺旧境内いわゆる「ならまち」にある。
漢方薬の店を開業したのは明治以後のことであるが、家系は極めて旧く、藤原家を祖先に持ち、木曽
(源)義仲の末裔として白土家、今の菊岡家はある。現当主で二十四代を数える極めつけの旧家であ
る。
永禄年間(安土桃山時代1568~1602)、当主菊岡宗政は、人を殺傷することが仕事である武人には向か
なかったのであろう、仏門に入り、禅照庵という一寺を建立し、多くの病人を救ったとある。もとも
と医学に造詣の深い家系であったが、戦場で目にした医僧(従軍医)という役割のなかに自分の生きる
道を見出したのかもしれない。

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総本家菊岡は、ならまちで最も繁華な場所にあり、奈良町の「顔」的な建物である。なんとはなく店
の中を覗いたら、木彫りの大黒様が目についた。
近頃ちょっと大黒像に関心があって、そのため目に入ったと思う。我が家には、父親の実家(富山)が
米屋であるせいか、家の中に大小数体の大黒像が残されている。処分するつもりで整理していたら、
いろいろなタイプがありその中に美術的に優れたものもあることがわかった。

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総本家菊岡の店の真ん中と言って良い場所にその木造大黒天は置かれている。榊が添えられているの
で明らかに神様として祀っていることが知れる。
一木彫で背丈60cmくらい、二頭身のコミカルな可愛いい像である。かなり剥落しているが鮮やかな彩
色が施されていたことがわかる。我が家にある、米俵を踏んだ金銅製の大黒様よりずっと魅力的に見
える。

大黒天はその姿かたちから見てあたりまえに民芸品のようなもの思っていたが、なんと異国インドの
ヒンドゥー教の神の化身マハーカーラであることを最近知った。マハーは「大」、カーラは「黒」を
意味するので「大黒天」と名づけられた。破壊と死を司る神様である。「天」は仏像の種類をあらわ
し、バラモン教やヒンドゥー教の神々で、仏教に取り入れられ仏法を守護する神として変化したもの
である。

s-P1149169菊岡漢方薬店の大黒さま.jpg

その神様がなぜか仏教に乗って中国へ伝来する過程で破壊や死と同時に人間の長寿をもつかさどる医
薬と死者の神様と言う側面も加えられるようになる。そしてだんだん、厨房、福徳の神様という事に
なり、最後には天台宗の開祖最澄によって「台所、かまどの神様」として日本に伝えられる。比叡山
を中心とした天台宗寺院では台所に大黒天が守護神として祀られるようになった。

日本で大黒像に福徳相(ニコニコ顔)が多いのは、中国においてマハーカーラの3つの性格(戦闘・財
福・冥府)のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられたことにより、福の神として崇め
られているからである。

s-P1149195総本家菊岡「裏菊」家紋.jpg
室町時代永正年間(1504~1520)に、後柏原天皇から菊岡の姓と
 裏菊の紋を賜り、以後白土を今に続く菊岡と改めた。


奈良・漢方薬の総本家菊岡の大黒様の由来を聞き忘れたが、「医薬」の神様として祀られていること
は容易に想像できる。ことによると「戦闘」の神様であることも心のどこかにおいて、合掌している
のかもしれない。

参照URL
菊岡漢方薬
http://www.kikuoka.com/
ならまち
http://narashikanko.jp/j/naramachi/
Wikipedia 大黒天
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%A4%A9
七福神(大黒天)の豆知識
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/kaisetu/daikoku.html
戦陣医療
戦陣医療
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2011年01月13日

氷紋について 崇神陵周濠にて

崇神陵周濠で見た氷紋について

崇神天皇陵北側の周豪に氷が張っていた。この場所は小高い陵墓の陰になっていて陽が当たらないこ
とに加え、斜面に造られた周豪の中でも一番高い位置にあるので、水深が浅く水温が下がりやすくそ
のためここだけに氷が張るのだろう。氷が張るときにできる模様は「氷紋」とも言われる。気温、風
速、地形、水流、雨雪、水量などの影響によりその形はまさに千差万別。自然だけに可能な造形美で
ある。

 s-P1129034風氷結.jpg

この日見た崇神陵の氷紋は、右面と左面とでは全く形状が異なっている。右面は張った氷の表面が僅
かに解け、その上に降り落ちた雨の穿った穴や飛沫(クラウン)が散らばりそのまま凍ってしまったよ
うに見える。写真を拡大してみると、月のクレーターのようにあばた状になっている。左面は昨夜の
うちに結氷したものだ。この模様を見る限りでは、氷紋は風が創り出すもののように思える。それに
しても幾何学模様とも抽象模様とも言えない、カオスな模様だ。
読んだことは無いが、渡辺淳一の小説に「氷紋」というタイトルのものがあると聞く。あらすじは知
っているが、何故「氷紋」というタイトルなのか興味深い。

 s-P1129044地蔵.jpg 

櫛山古墳のお地蔵さま

崇神天皇陵東側にある櫛山古墳の土手にあるお地蔵様は、周りをすっかり枯れ草に囲まれお参りする
人もいない。春には桜が。夏は緑茂る小楢に覆われ、秋は燃える紅葉の下。繰り返される四季の移ろ
いの中でいつもいつもそこにある。なーんか少し感動させられてしまう、のは自分の揺れ動く心のせ
いか。

 s-P1129135蝋梅.jpg

ロウバイ

花の少ない厳冬のこの時季、一年の始まりに真っ先に咲き始めるのがロウバイ(蝋梅)の花。この木花
を初めて見たのは法事で訪れた義兄の寺(契珊寺/浜松)だった。樹高3〜4mの見事な樹姿である。寺
には多い花と思いきや奈良では殆ど見かけない。花の少ない厳冬の時季、茶花として重宝されるとい
う。もっと栽培されているものと考えていたが意外なことである。

実はこの花木、日本の在来種ではなく中国から渡来した。育つ場所を選びまた庭植えでは手をかけな
いと良くは咲かないという割と気難しいデリケートな性質なのだ。山の辺の道、桧原神社近くの車
谷・巻向川あたりで良く見る。また牡丹でよく知られる石光寺の蝋梅がこれもまたよく知られてい
る。生育環境あるいは細やかな愛情を注ぐことが肝心ということなのか。
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2011年01月09日

柳生街道 円成寺から石切峠へ

随筆 石佛の里にて 大和路 柳生街道 室生朝子著 (2)

『住職はぜひ円成寺の共同墓地を見て下さい、と言った。境内の裏門にあたるところから、バス道路
に出る。道を横切って東海自然歩道の標識にそってだらだら道を上がると、左手の山全体が円成寺の
共同墓地になっている。』

国道369号線から柳生街道(東海自然歩道)に入り軽く右にカーブした石畳の道を上ってゆくと突然に
六地蔵が目に飛び込んでくる。

 s-P1088812円成寺墓地六地蔵.jpg

『墓地に上がった。山の傾斜はそのままに道は左右に分かれて、古いお墓が点在している。』
実に楽しい墓地であった。墓が楽しいというのは不謹慎かもしれないが、わたくしにとっては、古い
墓石や五輪塔、板碑などは楽しく見られ素晴らしいのであるし、その価値や風情を求めて旅に出てい
るのだから、致し方ない。唯見るだけではなく、好きなものであっても、墓という観念はいつも忘れ
ないし、心の中でお詣りする。こんな気持ちも持っているのである。』

いつも感心させられるのだが、奈良の墓地は石仏の宝庫(?)である。石仏の始まりは奈良時代後期以後
とされるのでおよそ1200年余の歴史があることになる。現代までの間に造られた石仏が全て残されて
いるはずは無いが、幸運にも野山や路傍、村や町など人里に残った石仏は、いつの間にか寺や、共同
墓地などに集まった。石や岩片とはいえ、石仏には人の魂がこもり、霊が宿ったものとしての拘りが
あり、見捨てること、放置することましてや粉砕することなど、出来なかったのである。

 s-P1088815円成寺墓地双仏石.jpg 

『石仏の里』の著者室生朝子氏のようには『楽しく素晴らしいものである』という気持ちになれない
し、これからもなれないと思う。仏壇にも墓地にも縁の無い自分にとって、墓地は気味の悪いとこ
ろ。今もって抵抗がある。墓地という場所は、仏教の教え、説話が漂う異次元空間であり、本来何の
所縁のない他者が踏み入れる場所ではないのだ。

とは言え、奈良や平安時代とまではいわないが、鎌倉時代からの歴史を持つ寺やその墓所、共同墓地
には歴史的にも美術的にも興味を引く石仏が残されていることが多い。その意味で奈良は「楽しく素
晴らしい」土地であり、そして円成寺共同墓地も興味深い場所であった。

 s-P1088830円成寺墓地地蔵石仏.jpg 
 
入る時には気がつかなかったが、六地蔵と対面するように切通しの反対側に一体の大きなお地蔵様が
道行く人を見守るように立っていた。

『道よりの右の端に太い松の木が一本真直ぐに立ち、その幹に寄りかかるようにして大きい地蔵が一
体あった。優しい顔立ちの仏である。草鞋が五足束ねて吊り下げられていた。地蔵に草鞋を供えるの
がどこか場ちがいのように不思議に思われた。この小さい広場には、昔、お堂があったのではない
か。』と考えた。お遍路さんがお寺に草鞋を供えること見知っていたからであろう。しかし、著者は
このすぐあとに『草鞋』は『三途の川を渡るときにはく。』ということ知る。

「手ぬぐいとわらじと賽銭」が、あの世に旅立つための三点セットであることを自分は今日まで知ら
なかった。ただ、現代では一般的にはこの「三点セット」、人目に触れるものではない。奈良は今で
も土葬の風習があり、それ故著者はたまたまお地蔵様に掛けられた草鞋を目にしたのであろう。

 s-P1088841尾根道.jpg 

柳生街道 円成寺から石切峠へ

柳生街道、円成寺から石切峠の茶屋までの4.7kmの行程の間にはこれと言った名所も目につく史跡も
無い。檜や杉の森、雑木林の中を抜けてゆくほぼ真直ぐで平坦な道である。この行程に限って言え
ば、柳生街道というよりも、「忍辱山から誓多林の道」と言ったほうがミステリアスで響きが良い。

 柳生街道円成寺から石切峠.jpg
 円成寺から県道184号線と合流する大慈仙町あたりまでの
  柳生街道(東海自然歩道)は尾根伝いの山道 google地図


『忍辱山円成寺は近鉄奈良駅から車で約三十分、浄瑠璃寺、岩船寺に行く山道の一本奈良公園よりの
道で、小さな峠をいくつも越えながら、美しい道は続く。(中略)ここはのどかな山里である。現在は
奈良市忍辱山町であるが、傍の大慈仙という地名も、仏教語から来た名前である。市の中心遠くまで
奈良南都七大寺の寺領であったことを、物語っている。』

 s-P1088866木漏れ日の柳生街道.jpg

「忍辱」とか「大慈」はともに仏教語で奈良市の町名として現在する。元は奈良時代の736年に来日帰
化した実在のインド生まれの僧侶で東大寺の大仏開眼供養の導師をつとめたバラモン僧正(菩提僊那)
が、ブッダ修行の印度五山になぞらえて、大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)、菩提山(ぼ
だいさん)・誓多林(せたりん)・鹿野園(ろくやおん)と命名しいずれにも寺を造営し、周辺の山岳は
南都七大寺僧徒や修験者らの修練の場であったと伝えられる。菩提は仏教語、誓多林はインド五山の
一つ、鹿野園はインドにある仏教の聖地の名である。

 s-P1088891茶畑の中に地蔵.jpg s-P1088907茶畑の中の地蔵.jpg 
 茶畑の中「五尺地蔵」が異彩を放つ 県道184号線の整備工事に伴いこの場所に移されてきたと聞いた 

室町時代3代将軍の足利義満が制定した京都五山や鎌倉五山はよく知られているが、残念なことに「奈
良五山」についてはあまり知られることが無い。当時あったとされる寺院は廃寺となりその寺名や建
っていた場所も定かではない。今では残された石仏、石塔などから当時の繁栄を伺い知るのみであ
る。

 s-P1088912柳生街道石切峠の茶屋.jpg
 峠の茶屋で竹輪・厚揚・大根のおでんを食べた。お代は300円。人懐こい飼い犬に竹輪をあげた。
 


※ バラモン僧正・菩提僊那と東大寺大仏開眼供養
http://www.in.emb-japan.go.jp/Ambassador_Lectures/Ambassador_Lectures2.html
※ Wikipedia 円成寺
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%BF%8D%E8%BE%B1%E5%B1%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
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2011年01月07日

当尾の石仏の道 随筆「石佛の里にて」室生朝子


「随筆 石佛の里にて 室生朝子」昭和五十三年七月十日 初版発行 株式会社鎌倉書房より抜粋

 s-P1058710当尾石仏の道.jpg

『岩船寺から浄瑠璃寺までの当尾の石仏の道を私は再び訪ね歩いた。
(中略)細い道を岩船寺の裏側に曲がる。いよいよ石仏の道に入ったのである。(中略)下りきった所の
薄の群れの間の細い道を左に曲がると、急に視野が広がった。左手の小さな丘の上に「わらい仏」が
春近い真っ青な空の中に浮き出た。瞬間私はなんともいえない心の揺らぎを感じた。観世音菩薩、阿
弥陀如来、勢至菩薩の三像である。

 s-PC317102笑い仏091231.jpg 

白っぽいかたい巨石は扇を広げたように聳えていた。その巨石に栗形に形どられた中の仏たちの顔
は、穏やかな笑みをたたえていた。(中略)永仁七年(1299年)二月の銘がようやく判読できた。鎌倉時
代の宋の人、伊行末の系統伊末行の作である。末行は何を願いながら、見る人に感動を与える笑顔の
仏たちを彫ったのであろうか。彼は自分の願い事がかなえられたその御礼の心の現われとして、笑顔
の仏たちを彫り刻み、自らの喜びを表現したのではないか、と私は正面の枯れ草に腰をおろし、ぼん
やりと大分の時間を此処で過ごした。

 s-P1058767笑い仏.jpg 

(中略)石仏の顔は見るものの目、心の持ち方で単に「いいお顔の石仏だ」というばかりでなく、ある
時はほほえみかけるように見える石仏もある。だが、最初から笑い顔の構図を考えついた末行の、し
かも巨大な自然がまたより美しい仏たちに調和しているあたりも心にくい。いずれにしても人の及び
難い仏達を残していってくれたものである。〜 』

 s-P1058754冬道.jpg 

『見晴らしのきく坂を下ると、五辻の田ん圃の中に出た。「からすの壷」と呼ぶ阿弥陀像と地蔵菩薩
が、桃形にくりぬかれた石に彫られ、崖にへばりついていた。右側に線彫りの燈篭があったが、灯入
れだけ石がくりぬかれている。このような燈籠は珍しいのだそうである。この仏たちは山道からそれ
て真四角な田ん圃一枚隔てた岩に彫られている。従って、見る人やカメラマンは田ということを忘れ
て、そばまで行って仏たちのお顔見るのである。この田は中本さんの持ち田だが、どれだけ土をたが
やしても、すぐ人に踏みかためられて、田ん圃にはならないそうである。
「もう、あの田一枚は思い切りました」と奥さんは言ったが、大事な田は人々のために犠牲になって
いるのである。

 s-P1058774からすの壷双仏像.jpg s-P1058780からすの壷阿弥陀如来坐像.jpg

(中略)浄瑠璃寺に出るまでは、変化の多い山道であった。今日は多勢の人たちに会わなかったが、鳥
の声を聞きながら、自分勝手な空想にひたれる石仏との時間が、もし誰かに入り込まれたら、また印
象は少なかったかもしれない。忘れられない微笑の三尊仏の表情を、私は自分の日常生活にもいれ
て、いつも和やかなひとでありたい。

 s-P1058744巡礼道.jpg 

「随筆 石佛の里にて 室生朝子」昭和五十三年七月十日 初版発行 株式会社鎌倉書房室生朝子
 大正十二年(1923)東京生まれ 室生犀星の長女 2002年(平成14年)6月19日死去 

※自分が当尾の里を訪ねるきっかけになったのは、写真家入江泰吉氏の写真集「入江泰吉の世界やまと
余情」に掲載された「唐臼の壷二面磨崖仏」(1977)の写真を見てのことである。
09年6月16日、田植え後の稲がちょうど写真と同じくらいに育っている時期だろうと予測して訪れた
のだが。しかし、からすの壷磨崖仏周囲に水田は跡形も無かった。
室生朝子氏がこの地を訪れたのは昭和51年から52年(1976から77)のことと思われる。その頃はまだ
入江泰吉氏の写真にあるような田圃があったものと推測される。しかし早春のこと田圃には稲の切り
株がのこるだけの冬田であっただろう。

 唐臼の壷二面磨崖仏1977入江泰吉.JPG

※「わらい仏」永仁七年(1299)二月十五日 願主岩船寺住僧・・・・大工末行の銘がある 見事な厚肉彫
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2011年01月04日

奈良・大安寺八幡神宮の「鳩」

大安寺八幡宮の歴史は古く、同社の由緒によれば、大安寺の僧行教が、 斎衡2年(855)に八幡神
(やはたのかみ、はちまんじん)を豊前国(大分県)宇佐八幡宮から大安寺境内に来てくださいと勧請
したとある。もと(明治時代以前)は大安寺の鎮守の神様であった。

 s-P1038693狛犬大笑.jpg

大安寺八幡宮の本殿には狛犬と一緒に「鳩」の置物が神使として据え置かれている。狐はよく目にす
るが、かわいく、でも平凡な「鳩」が神使なんて驚かされてしまった。
古来より鳩は八幡神の使いとして崇められてきた。八幡神は応神天皇の神霊であり、山頂の巨石から
「金色の鷹」となって出現し、鍛冶の翁、三歳の童子へと変わり、後に「金鳩」に変じたとされる。
そういう由来から、八幡宮の神使いとして鳩がここに鎮座している。
 
 s-P1038682神使鳩.jpg 

八幡神は、鎌倉時代前から皇族である清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八
幡」として崇敬を集め、戦での勝運を呼ぶ鳥として鳩の絵柄を家紋に使い、八幡信仰が栄えて全国に
広まった。現代の鳩のイメージとは全く違っている。
このように八幡神はもともとは武神であったが、江戸時代後期になると、特に安産に功ありとして子
安八幡宮とも称されるようになった。これは、八幡宮の祭神として応神天皇とその父である仲哀天皇
母である神功皇后を八幡三神として祀っていることから派生したことと容易に考えられる。

 s-P1038700大安寺八幡宮前景.jpg

仲哀天皇と神功皇后は熊襲(くまそ)(九州南部に勢力を持った種族)征伐のため筑紫(つくし)に赴き
これを平定するが、仲哀天皇は亡くなってしまう。熊襲の背後に新羅がいることが分かった神功皇后
は、海を渡り新羅に出発しそれを制圧した。神功皇后はその時妊娠中だったが無事 帰国し、第十五代
応神(おうじん)天皇を生んだとされている。この神話から母子健康の神様、安産の 神様とされている
わけである。

 神功皇后などを祭る大安寺八幡宮では、戦前(第二次世界大戦)まで安産祈願の参拝者がハトの置き物
を奉納する風習があった。本殿正面の棚に所狭しと飾られている鳥型がそれである。サイズは一様で
はない。異なる時代の特色を現しているのであろう。
奉納幕に紺地に白抜きの「鏡に対鳩」の神紋がクッキリと染め抜かれている。大安寺八幡宮の神紋で
ある。

 s-P1038680神使の鳩.jpg 

本殿正面に瓦地の鳩が並置されている。台座には大正十四年の文字が見える。その他にも瓦焼きの大
小の鳩が見える。欄干にこれも瓦焼きされた恵比寿様の面が無造作に掛けられていた。奈良の社寺を
巡っていると時々このような瓦焼きの花器や小物を見かける。恐らく鬼師の手になるものと思うが、
一般の陶器店や美術品の店ではまず手に入らない。これらは瓦を焼く職人(瓦師)が自ら手作りし奉納
したものなのだろう。

 s-P1038678恵比寿さん瓦面.jpg


 2010.9.28 付けの産経ニュースによれば『大安寺の鎮守として創建された八幡神社(奈良市東九条
町)で、八幡神の使いのハトをかたどった置物に願いを託して奉納する「八幡鳩」の風習が約50年
ぶりに復活した。社務所で授与される陶器のハトの置物と願い事を書いた絵馬(セットで2千円)を
本殿前に奉納すると、1週間の祈祷(きとう)の後、本殿にまつられる。』とある。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100928/nar1009280225001-n1.htm

大安寺八幡神社は、これまで奈良の有名な社寺の陰で注目されてこなかったが、この愛らしい鳩の置
物を核として新しい社史が開かれて行くことを祈りたい。

 

参考URL
※Wikipedia 奈良八幡神社 (奈良市東九条町)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A5%88%E8%
89%AF%E5%B8%82%E6%9D%B1%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E7%94%BA)
※ Wikipedia 八幡神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E
※Wikipedia 神使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%BF

※Wikipedia神功皇后http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%
90%8E
posted by ハマー at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐保路・西ノ京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奈良 東明寺の印象

東明寺へ訪れるのは今回が二度目になる。一度目は09年6月のことだから一年半ぶりである。
前回訪れたきっかけは「奈良大和路の古寺」に書かれてあった『境内からは見晴らしがよく、奈良盆
地が一望できる。』という記事を読んでのことであった。
しかし、今ではその眺望は竹藪に完全に覆われ閉ざされてしまっている。見通しが利いていたのは僅
か10年くらい前のことらしい。日本の里山、山林、農村はどこも急速に竹林化しているのだ。

 s-P1038628東明寺朝陽竹.jpg 

東明寺は境内も寺の回りも四方くまなく竹に覆われている。整備された竹林は風情があり結構なもの
だが、旺盛な竹の侵食により竹林化し放置されれれば人も、小動物も住めない、風さえ吹き抜けるこ
との出来ない荒れ果て腐った竹藪になってしまう。

 s-P1038634東明寺裏山五輪塔.jpg 
 郡山藩家老都築惣左衛門の五輪塔

東明寺のセールスポイントである「奈良盆地を一望できる」環境は是非取り戻していただきたい。大
和の青垣を、そして山並みから昇る朝陽、名月を望んでみたいものだ。

東明寺は矢田丘陵の只中、山道の果てにある。かつては無住職の荒れ寺になっていたが、前住職が今
の状態までに復興された。現在はご子息が跡を継がれ今に至っている。檀家もなく、訪れる人も少な
く、必ずしも恵まれた環境ではないようだ。

 s-P1038641燈篭の道.jpg s-P1038651東明寺庫裡上り道.jpg
 東明寺の印象                  東明寺庫裡に上る坂道

奈良時代開基の由緒ある寺である。重文指定の立派な仏像を持った寺である。何とか持ちこたえ、地
域の誇れる財産として維持、発展してもらえればと切に願うばかりである。

 s-P1038591百舌矢田丘陵.jpg
 東明寺へ向う道で見た残り柿に留まる百舌

参照URL
※ 竹害 Wikipeda
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%B3
※ 「矢田丘陵の東明寺」上田直子 小さなうつわのメッセージ
http://awa.rgr.jp/wiki.cgi?page=No274%2F%A3%D7%A3%E5%A3%E2%C8%C7%2F03
※NPO法人やまと新発見の会
http://www.npo-yamato.org/satoyama/detail.html
posted by ハマー at 02:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 斑鳩・生駒 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月01日

奈良公園「飛火野」の淡雪

奈良の市街地は12月30日の夜から雪になった。だけど、望んだような積雪にはならず薄っすらと地表
を覆う程度の淡雪に終わった。天気予報では、年明けも強い冬型の気圧配置で、奈良地方も雪のマー
クになっているが、この調子では内陸の奈良盆地までは雪雲は届かないだろう。
地元の人に聞くと、この数年積もる程の雪は降っていない。淡雪とはいえこの雪は、待ち望む人たち
には貴重なものになりそうだ。

 s-PC318514飛火野淡雪.jpg 

「飛火野」は奈良公園南端に広がる芝草に覆われた緑地帯。
若草山、春日山、高円山をぐるりと一望できる見通しのよい園地。四季をとおして奈良公園の中で一
番好きな場所だ。

飛火野の名前の由来には2説ある。
「一つは飛火が古代の通信施設である烽火(のろし)の意味であり、その土地である」というもの。
もう一つは「鹿島大明神が春日地にお着きになられたとき、八大尊様が光明のため口から火を吐か
れ、その炎がいつまでも消えず飛んでいる様に見えたことからこの名がついた」というものである。
いずれにしろ、この「とびひの」というどこか神秘的な響きを持つこの場所が好きだ。

 s-PC318542駆ける鹿の群.jpg

大晦日の昼前、いつも観光客でにぎわう東大寺もさすがに人影はまばら。時々吹く強い風に乗って粉
雪が流されてくる。講堂跡にも昨夜の雪がしっかりと残っていた。

鹿の群れが駆けている。雪を見て喜び駆け回っているのではない。心ない観光客のグループにしつこ
く追い回され、仕方が無く追いつかれない程度のスピードで走り移動しているのだ。歴史にも、宗教
という哲学にも敬意を払わない、知ろうともしない、餌もくれない人たちから逃れるべく。

参考URL
※奈良歴史漫歩 No.063  「春日烽と飛火野伝説」    橋川紀夫
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm066.html
posted by ハマー at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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