2010年10月31日

東大寺講堂跡の桜紅葉

暦の上ではもうすぐ立冬を迎えるというのに、奈良の景色はまだ秋の深まりもない。
昨年より季節の移り変りが二週間くらい遅い。それでもやっと東大寺講堂跡に桜樹の
紅葉を見ることができる。

s-PA316130東大寺大仏殿桜紅葉.jpg

亀井勝一郎「大和古寺風物詩」の東大寺の章に「講堂の址」という詩がある。

ひまなくぞ雨はふりけり
足曳きの三笠の山のふもとなるこの夕べはも
松が枝のしづくにぬれて
秋草に 黙し伏す巨きいしずゑ
遠つ代の聖の帝が御夢を うつつに偲ぶしるしかな
いのちあらば語れ
(中略)
ひまなくぞ雨はふりけり秋のくれ
啼く鹿の声のしみわたるかな

昭和17年秋、雨の降る講堂跡を訪れた時に詠まれたとある。

s-PA295910講堂跡大仏殿を望む.jpg

「講堂の址」を思い出し口ずさめば、いまに残る幾多の礎石から巨大な講堂の姿を思い
浮かべることができる。
講堂は奈良時代の756年に創建された。その後三度焼失し二度再建される。1508年に
兵火により焼失した以後500年以上の間、今の景色が続く。礎石は私たちにその悲運の
歴史を言葉無く語りかける。

建物が焼失しても礎石は残る。だが、雨風に晒された礎石の表はザラザラと風化し往時
の輝きはない。三度の火炎により地中深く埋まるさしもの巨石にも亀裂が走る。
講堂がもし再建されるとしても、この礎石はもう講堂の重みに耐えることは出来まい。
広大な空地のこの場所には講堂を中心に、僧坊や食堂の建物がところ狭しと立ち並ん
でいたと記録にある。現代でいえば大学のキャンパスのようなところであった。

s-PA316082講堂跡.jpg

ところで講堂跡に建つ記念の石碑の文字だが、いつ見ても何か落ち着けない気分にさ
せられる。
「東大寺」の書体は楷書。「講堂跡」は俵体というのだろうか、蒲鉾や饅頭の焼印に
使われているような書体に見える。二つの文字のバランスもどうも良くない。
揮毫者が異なるのだろうか。石を彫る職人が別々なのだろうか。

s-PA316111東大寺講堂跡石標.jpg s-PA316102東大寺講堂跡石標.jpg

しかし、この石の、人の臀部を思わせるようなフォルムはなかなか宜しいと思う。
字は今いちとしても、この石には何か心惹かれるものがある。


参考WEB
東大寺伽藍配置図
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bdca752858af0b444e8d865235846b50
日本語書体一覧
http://www.signz.jp/font.html
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2010年10月28日

東大寺香炉鬼

東大寺には大仏殿と二月堂にある大香炉は、仏具業界では「邪鬼足外香炉(鬼足香炉)」と呼ばれる
形のもので、大鉢を三体の鬼が支えている。この鬼足香炉は寺ではよく見られるもののようだが、
何故「鬼」が香炉を支えているのであろう。

 s-P5278504大仏殿.jpg

「鬼」といえば、日本の妖怪、民謡や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する
存在で、そこから鬼という言葉には「強い」「悪い」「怖い」という意味がある。初代横綱若乃花
は土俵の鬼といわれたが、力士としての強さと指導者(親方)としての怖さを兼ねて「鬼」と形容さ
れたのであろう。

他方、鬼には仏教を守護する神のひとつとしての面がある。高名な僧が寺を開く際、その徳を感じた
鬼に案内を受けたという開創伝説は多い。日本の寺では鬼瓦や塔の四隅を守る天邪鬼など、護法神と
しての鬼が数多く活躍している。

 s-P5278512大仏殿中門.jpg
 

天邪鬼(あまのじゃく)とは天の邪魔する鬼であり、本来は仏教とは関係のない日本古代の悪い精霊で
あり、古事記にも出てくる「あまのさぐめ」とされている。
中国の水鬼である海若(かいじゃく)が「あまのじゃく」と訓読されるので、日本古来の天邪鬼と習
合され、足下の鬼類をも指して言うようになったといわれている。

s-P1067590二月堂.jpg

東大寺の香炉を支えている鬼は「邪鬼」と呼ばれている。
寺で見かける邪鬼は、四天王から懲らしめられている小悪魔たちのように見えるが、本当は四天王た
ちの部下であり、お釈迦様の説法や仏法を邪魔するためにやってくる悪魔たちを追い払うために四天
王から「やっつけてこい」と指示を待つ夜叉神(善神)であり、つまり護法神ということになる。

大香炉を支える鬼、一見苦役に甘んじているように見えるが、実は力自慢で、自分からすすんで大香
炉を背中に乗せている(と考えられているが都合のよい理屈だろう)。

香炉鬼(こおろぎ)は私的な造語であるが、なかなか響きがよいので勝手にそう呼ばせてもらっている。

参照WEB URL
Wikipedia 鬼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC
Wikipedia 天邪鬼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%82%AA%E9%AC%BC
天邪鬼の謂われ
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/6175/amaiware.html
「鬼」とはなにか (言葉の散歩道)
http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/6084/oni.htm
四天王
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/sitennouzou.htm
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2010年10月19日

山の辺の道 奈良市窪之庄町

天理市との境に位置する窪之庄町を南東に走る県道187号線は、すぐ南に整備された新道のお陰で、
往古そのままの姿を残す旧道としてある。
この道の途中に明治時代初頭に八坂神社と名を変えた牛頭(ごず)天王社がある。この場所には室町
から戦国時代には窪之庄城があり、このことからここ窪之庄が交通の要衝であったと類推される。

 s-PA175427窪之庄城跡に建つ亥丸大神の石碑.jpg s-PA175410泉地蔵.jpg
 窪之庄城跡に建つ石碑             県道187号線沿いにある泉地蔵

この道をさらに1km南下すると虚空蔵山の麓の願興寺跡に至る。
現在和邇営農ライスセンターが建っているあたりで、平成8年から19年の間に行われた圃場(水田)・
道路整備事業の結果このあたりの景観はそれ以前と一変した。

 s-PA115220願興寺跡.jpg s-PA115205生駒山遠望和爾町.jpg
 この道路の地下に願興寺があった       整備された和邇町の稲田
 
圃場(水田)整備のための遺跡発掘調査は奈良県立橿原考古学研究所で行われた。
その結果、弥生時代〜中世、近世にいたる広大な和邇遺跡の存在が明らかにされた。水田の下に、
削平され、埋没した古墳が多数存在することが判明し、ここから金銅製馬具、装飾付き大刀他多数の
遺物も発見された。

圃場(水田)整備は完了し、その記念碑も建ったが、この和邇遺跡についての記録はこの町のどこにも
無い。地元農家の人に願興廃寺跡の場所を尋ねるものの、この地にあった願興寺の名前すら知らなか
ったことに驚かされる。

 s-窪之庄町 山の辺の道.jpg
 窪之庄山の辺の道地図(google地図編集)

今日この窪之庄町を抜けてやっと徒歩での山の辺の道の全行程踏破を成し遂げたことになる。
石上神宮から春日神社にいたる山の辺の道北域は、市街地化、圃場、道路整備が進み、そのため山の
辺の道がどこを通っていたのか推定しづらいが、地形図から判断して願興寺跡から牛頭天王社近辺を
抜けて円照寺参道口の御霊神社(塔の宮廃寺)を通っていたと推測される。
※東海自然歩道はもう少し東の山中を通りそこを「北山の辺の道」と設定している。

※参照WEBのURL
大和窪之庄城跡
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kubonosyo.htm
http://www.geocities.jp/ikomaihyogo/nara/kubonosyou.html
Wikipedia 圃場整備事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%83%E5%A0%B4%E6%95%B4%E5%82%99
Wikipedia 牛頭天王
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B
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2010年10月18日

奈良・清澄の里「柿のある景色」

「秋空や 日和くるはす 柿の色」

詠み人は芭蕉の門人、浜田酒堂(はまだしゃどう)
「柿」にかかわる歌を検索していて目に留まった一句。

 s-PA115087柿.jpg

日和狂わす柿の色とはどういう意味だろう。
青く澄み切った秋晴れの空、気がついたらいつの間にかすっかり雲に覆われてしまっていた。
ただ柿の実の朱い色が残像のように心に残った、という情景を詠ったのだろうか。
確かに、「女ごころと秋の空」と言うように、秋の天気は変りやすい。
残り柿が目につく晩秋、雲ひとつなかった空が瞬く間に暗い雲に覆われてしまったというとは、
野歩きをしていると良く経験する。

 s-PA175454柿鮮やか.jpg

柿は日本原産の植物ともいわれ、縄文・弥生時代の遺跡から種が出土する。「柿」は稲作が始ま
る以前からその時代の人々にとって貴重な保存食だったようだ。
しかし不思議なことに、万葉集を探してみても「柿」を題材にした歌は全く見られない。
一方、俳句や短歌では柿はよく詠われる題材のようだ。

 s-PA115273谷柿.jpg


 「渋柿の 取り残されし 冬木哉」  木村鷺助(元禄頃の人)

柿の美しさは落葉後の残り柿にあると思っている。
実をつける果物の木は色々あるが、桃や梅は熟す前に落果してしまう。
しかし柿はまさに熟すまでヘタから離れることなく、葉がすっかり落ちても尚枝から離れ
ることなく、冬を越すことがある。色を失った野山に柿の実の朱色だけが目立つ。
これからの季節、残り柿が山の辺の道の名脇役になる。


《好きな「柿」の歌》
里古(ふ)りて 柿の木持たぬ 家もなし(芭蕉)
隣る家も その隣る家も 柿たわわ(高浜虚子)
山つづき 柿の畑に雲の来て 時雨降る日は 寂しかりけり 島木赤彦(1926年没)
しぶ柿の しづかに秋を 送りけり   桜井吏登りと(1755年没)
日は過ぐる 梢の柿と 見あひつゝ   夏目成美せいび(1816年没)

 s-PA175375柿紅葉.jpg
 柿紅葉と古竹の絶妙な色あわせ

※参考Web
四季の植物の歌 柿
http://www.geocities.jp/sikinosyokubutu/kakinomi.html
柿の歴史
http://www.hanamaru-farm.com/11rekishi.html
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2010年10月10日

奈良鹿野園の由来について

奈良市に「鹿野園」という地名がある。「ろくやおん」と読む。
いかにも奈良らしい名前だと思っていたが、地名の由来を調べてみてその歴史的
スケールに恐れ入る。

 s-PA104920鹿野園コスモス.jpg
 鹿野園町初秋景色


「鹿野園」の地名は、大仏開眼の導師を勤められたインド僧、菩提僊那(ぼだい
せんな 婆羅門僧正とも呼ばれる)によって、故郷インドの仏教聖地サルナート
にちなんで名付けられた。
鹿野園の他、ブッダ修行の印度五山になぞらえて、菩提山(ぼだいさん)・誓多林
(せたりん)・大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)と命名し、いずれにも
寺を造営したという。
サルナートという地名は「鹿の王」を意味するサーランガ・ナータが縮まったも
のと考えられており、悟りを開いたブッダ(釈迦)が初めて説法した、仏教の聖地
でもある。今も昔も鹿が多く住んでいるところから漢訳で鹿野園となった。


 s-PA105030鹿野園竹林A.jpg
 竹林が綺麗な鹿野園町を通る山の辺の道

鹿野園町の地名由来は以上の如きものであるが、伝説の寺は現在この町で見つけ
ることはできない。
しかし鹿野園に隣接する横井町には、横井廃寺の存在が知られ、その他、古市廃
寺、塔の宮廃寺、山村廃寺などこの地域一帯には六七世紀に建立されたと思われ
る寺が多数存在していた。飛鳥や藤原京以上に寺院密集地帯だったのかもしれな
い。ことによると、鹿野園は今の町ではなく、仏教の盛んなこの一帯の丘陵を示
した、総括的な呼称だったのてはないのか。 

 s-PA104936八坂神社神輿奉納.jpg s-PA104981八坂神社石灯篭.jpg
 町の氏神「八坂神社」はちょうど村祭りだった     奈良でよく見かける自然石の燈篭


地名コレクション 町名の○○園コレクション
http://uub.jp/nam/marumaruen.html
奈良の昔話 第103回 山添村から旧奈良市への道
http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-103.html
鹿野園仏教遺跡
http://ezorisu.jp/india/sarnath/buddhapark.html

追記 '11.12.01
菩提僊那のこと
菩提僊那がインド人の僧で736年(天平8年)に第9次遣唐使一行と共に中国から日本に渡来し、752年
(天平勝宝4年)の大仏開眼供養会の導師を務めたこと史実である。その時菩提僊那は32歳だった。仏
陀生誕の地インドから渡来した外国人僧ということでの大抜擢だった。1017年(寛仁元年)居所とし
ていた大安寺が火災により主要堂塔と寺内にあった文書、資料はことごとく焼失した。菩提僊那は760
年(天平宝字4年)57歳で逝去するが、日本に渡来してから以後の24年間の消息については、大仏開眼
で導師を務めたこと以外は全くわかっていない。
そういうわけで、菩提僊那が鹿野園の他ブッダ修行の印度五山になぞらえて、菩提山(ぼだいさん)・
誓多林(せたりん)・大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)と命名したという伝承は後世の人々
の創作ということになる。※導師 法会などのとき、衆僧の首座として儀式を執り行う僧

奈良に残るインド五山の地名について奈良市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長は、「興福寺の僧侶が引退後に暮らす別所が南都周辺に設けられ、インドの仏跡に見立てたのではないか。中世以降のことだろう」と推測すると’10.12.01の奈良新聞に紹介されている。
(奈良新聞 http://www.nara-np.co.jp/20101201111259.html )



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2010年10月06日

円照寺侍女玉島の死

円照寺の森の南を走る農道を竜王池から更に300m程度東に進むと霊元天皇皇女
の墓がある。その裏手(東側)山林の中に、円照寺歴代門跡(門主)の宮墓があり、
またその奥に円照寺に仕えた尼僧や関係者の墓地がある。

 s-PA054805尼僧墓地.jpg
 雨が降れば川となる谷間の墓場


円照寺のような尼寺がどのように維持されているのか、どのような人数構成な
のか全く知らないが、この墓に一基の興味深い墓石があった。

墓石裏面に「御乳人玉島江北阿閑苑醫師山岡氏女也 病中奉○以得度之法賜安名
義秀を行年二十九享和三○亥○五月十七死・・・・・ 」と他の墓石には見られない説
明書が刻まれている。
この文字列の中で「御乳人」という文字が目をひく。※「○」は判読できず。

 s-PA054810尼僧墓.jpg s-PA054809尼僧墓石裏.jpg
 
要約および推測すると、
「(円照寺においては)御乳人という役目であった(墓に眠る)玉島という女性は
医者山岡氏の娘である。病気になり命を落とした。(死後)仏門に入り義秀とい
う戒名が与えられた。享和三年(1803年)5月17日逝去。29歳であった。」
大筋はこんなところである。
数ある墓石の中で何故この墓石だけにこのような経緯が書かれているのか分から
ないが、想像だが、門主は、お気に入りの侍女玉島のあまりにも早い死をいたみ、
短かった現世における人生の一端を書きとどめてやったのだろう。

 s-PA054816尼僧浮彫.jpg 
 尼僧の浮き彫り

門主に奉仕する立場の女性の代表を命夫(みょうぶ)という。
命夫の次席を御乳人(おちのひと)と呼んだ。
仕事は寺院内の清掃、門主の食事の補助、夕方の入浴補助を行ったと考えられる。
義秀禅尼(玉島)という女性は円照寺において門主のお世話係り・侍女という立場
にあったと推測される。

門跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・貴族が住職を務める特定の寺院であり、
そのしきたりや役目や人の呼称は宮中のそれを踏襲したと思われる。
現在でも御乳人(おちのひと)という呼称が使われているのかどうかわからない。


参考Web URL
Wikipedia命婦(御乳人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E5%A9%A6
Wikipedia門跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E8%B7%A1
戒名
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%88%92%E5%90%8D/
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古市から五つ塚古墳群へ 奈良市山町

古市から五つ塚古墳群へ 奈良市山町

奈良市古市町は先日(10/1)訪れた藤原町に連なる田園地帯で、その地から万葉歌に
「たたなづく青垣やまごもれる」と詠われた大和高原の秀麗な山並を見ることが出来
る。市街地化が進んでいる奈良市内であるが、この辺りは国道や県道から外れれば一
面水田の広がる田園地帯で、今は刈り取りを間近に控えた黄金色の稲田が迎えてくれ
る。畦道のところどころに咲く彼岸花の赤が単調になりがちな稲田の景色にアクセン
トをつけてくれる。すでに見頃を過ぎているはずだが、ところによってはもう少しの
間楽しめそうだ。

 s-PA054715古市田園秋景.jpg
 

飛鳥時代この地域には多数の堂塔があったことが分かっている。
「塔の宮廃寺」「横井廃寺」「古市廃寺」「山村廃寺」等の名前をあげることができる。
山の辺の道を往来する人々は丘陵のあちこちに建つ三重塔や堂宇など当代最先端を
行く瓦葺の木造高層建築物群を見て、さぞ驚嘆したことだろう。

 s-PA054785五塚古墳.jpg
 五つ塚古墳 一号墳

古市町で彼岸花咲く稲田を撮り終え、すぐ近くにある円照寺に向う。
今年の春、円照寺の南を通る道沿いに並んだ五つの小さな小山を見た記憶があり、
その時少し異様なモノを感じた覚えがある。
最近それが「五塚古墳群」であることを知った。
改めて見て驚かされるのは、雑草に覆われたこんなに小さなちいさなとても古墳
とは思えないような盛り土が、1400年経た現代にいまだ残されていることだ。
人の住まない山中の谷間とは言え、削られることも無く、檜や杉の木々に覆われ
ることも無くその形をよく残している。まるでタイムカプセルのようなものでは
ないか。 大和奈良の限りない魅力に陶然とする。

 s-PA054835地蔵菩薩.jpg
 道沿いの石地蔵 豪華な仏花だれが供えた


参考Web URL
大和の塔跡
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/tou_etc2.htm
遺跡ウォーカーべーターβ
http://www.isekiwalker.com/name/%E3%82%88/4
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2010年10月04日

初秋谷地田の景色・奈良市藤原町

奈良市中心部(東大寺)から県道188号線を4kmくらい南下すると藤原町に着く。
理由は知らないがこの一帯には古墳が認められず、奈良では珍しい地域である。
地形図を見るとわかるが、丘陵からせり出した尾根が稲田という海を囲んで湾の
ようになっている。この地形が藤原町に古墳を造築させなかった何らかの理由に
なっているのではないかと思える。

 藤原町棚田.JPG 
  YAHOO地図写真 奈良市藤原町 グリーンのマーキングはゴルフコース


昨秋('09.9.21)東大寺から徒歩で東海自然歩道を辿ってこの地に来たことがあ
る。雑木林や野原(耕作放棄地)が続く単調な道を抜ると、突然目の前に展開した
秋の稲田を目にして、その美しさに感激した覚えがある。
西に生駒の山並みを遠望し。東は正暦寺のある菩提山や城山(528m)が聳え、北は
高円山、南は円照寺のある丘陵に挟まれた谷地に穏やかに広がる棚田である。

 s-P1170762藤原町棚田.jpg 
 谷地に続く棚田

この夏の暑さの影響で遅れていた彼岸花は棚田の畦に真紅の花を咲かせ、黄金色
に色づいた稲と美しい対比を見せてくれている。棚田の畦道は雑草が刈り取られ
スッキリとしている。これは、コンバインを入れるためそのために刈り取った稲
束を並べるための場所を確保するための作業なのだと思う。

 s-PA024403彼岸花青空.jpg

今日初めて鎌で刈りとられた稲の切り口を見た。竹輪の周りにダンボール紙を二
重に巻いたように見える。今は白くみずみずしい中心部も何日も天日に干すこと
によって水分が抜け、枯れてうす茶色の稲藁になるのであろう。
これを見ると古人が稲藁を雨具の蓑やわらじ、雪靴や屋根をふく材料にした理由
がよくわかる。

 s-PA024439稲切株.jpg s-PA024458コンバインの路.jpg
 マクロレンズで見る稲の切り株


夕暮れの稲田で稲が作り出した面白いデザインを見つけた。コンバインで刈り取
りをするときに奥の列の稲が倒され二重、三重の穂波を見せたに違いない。
偶然日没の時間に撮りに来たことが幸いしたようだ。人の手で刈り取りをしてい
た時代には決して目にすることのできない構図なのだ。

 s-PA024532コンバインデザイン.jpg

明日からは二三日雨の日が続くと天気予報で言っていた。今年見る彼岸花はこれか
最後になるかもしれない。

 s-PA024497彼岸花咲く.jpg
 稲海を疾走するハイブリッドカー

‘10.10.08
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