2010年09月27日

奈良・清澄の里初秋

9月26日快晴、少し肌寒く感じる朝。奈良市の郊外はどちらを見ても黄色く色づいた田圃が広がる。
長くこういう所に暮らしていたら、稲の色で季節を知るのだろうなと思いつつ車を走らせる。
秋晴れの日曜日再び奈良・清澄の里、高樋町を訪れた。前回(9/24)は時折小雨降る曇り日でその日
、秋晴れの日のこの地の景色を確かめたいと思った。無論曇りや雨の日もそれなりの趣がありそれ
はそれで良いのだが。一方、太陽が照らしだす景色には活き活きとした力がある。光と影が見せる
明快さが、好きだ。

 s-P9264192稲穂輝く.jpg

高樋町に入ると道の両側の稲田がキラキラと黄金色の輝きを見せている。夜露にあたった朝陽の反射に
違いない。稲田の畦道に踏み入る。たちまち靴は夜露でビッショリと濡れる。まだ低い位置にある朝の
太陽が、葉に稲穂の影をくっきりと写していた。この絵いいな。この構成は今までに見たことがない。
傑作の予感に胸が躍る。

 s-P9264086稲穂朝陽.jpg

先日街道の道標近くで見つけたイタドリを撮影しようと思っていた。しかし、なんと今朝は村人総出の
道の手入れ日のようだ。
十数人の男や女たちが手に手に道具を持って夏の間に繁茂した草木を猛然と刈り取っている。イタドリ
があった辺りもすでにスッキリとしたもので、土手の草はすっかり無くなり何も残っていない。丸坊主
、壊滅状態なのだ。

 s-P9243985イタドリの花.jpg
土手のイタドリ

イタドリは山菜の名前として知っていたが、道端に咲く白いがそれと知ったのは初めてのことで、陽の
光の下で撮りたかったのだが。仕方がない、刈り取られ捨てられた草の山の中からなんとか探し出して
撮ることにした。イタドリの花は3_程度のごく小さな無数の花が集まって枝先に翼状に広がる。
一見魅力に乏しい姿だが、よくよく見ると珊瑚の花のように実にかわいい。野山の珊瑚のような花なのだ。

 s-P9264095イタドリの花.jpg
 マクロレンズを通してみるイタドリの雌花

イタドリはタデ科の多年性植物で別名で「スカンポ」とか「イタンポ」と呼ばれる。北原白秋作詞、
山田耕作作曲『土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍が ねんねする』と歌われたスカンポはイタドリ
ではない。こちらは同じタデ科でもギシギシ属の植物で「スイバ」が正しい名前。

 s-P9264128雲広がる.jpg s-P9264257向日葵咲く虚空蔵山.jpg
  流れるスジ雲、正式名は「巻雲」       虚空蔵山の竹林を背景に向日葵とそばの花が咲く

今日は面白い人に出会った。高樋町で丸梅という八百屋を営むかたわら、25枚もの田で稲作をする
梅崎歳洋という男性。田は全て借り物で、地主へは収穫した米を一本渡す。戦前なら小作農と呼ばれていたと思うが、現在では立場が逆転して収穫のほとんどは耕作者のものになる。当然であろう。
米作りは一年365日をかけた大仕事なのだから。
米づくりだけではない。春は管理する竹林でタケノコを収穫。冬は山中でシイタケの栽培と一年中、
働きづめである。シイタケは薬師寺御用達であることが自慢。更に、初夏は「ほたる」を見せるボラン
ティアをしている。とにかく精力的な人なのだ。十月に入ったらヒノヒカリの新米を分けてもらうこと
を約束してお別れした。再会が楽しみだ。


参照Web
イタドリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%89%E3%83%AA
スイバ
http://sasuketsu.hp.infoseek.co.jp/sizen2/suiba/suiba.htm
Wikipediaヒノヒカリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%8E%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AA
楽しい万葉集:雲(くも)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nature/kumo.html
雲の名前を覚えよう!
http://www.nahaken-okn.ed.jp/sikin-es/H14web/kumo/kumo.htm
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2010年09月25日

彼岸花咲く奈良清澄の里

今年の猛暑の影響で遅れていた彼岸花がやっと咲いた。去年よりも一週間から十日程遅い。
彼岸花は、子供の頃いつも家の近くの墓場に限って咲いていているのを見ていたので、なに
か好きになれずに来た。
しかしこの二、三年写真を撮るようになって、季節を強く印象付ける花として意識するよう
になった。だけど、今でも、ほんとうに美しい花、綺麗な花と感じているのかどう、自信が
ない。好きな花ではないことは確かだ。例えば、額に入れて自室の壁に飾ろうとは思わない。

 s-P9243812彼岸花咲く.jpg

昨年9月29日に来たときには、一面真っ白なソバの花に覆われていた畑は今年、向日葵の
畑と変貌していた。ソバも少し植えられているが、そば粉を穫れるだけの量ではない。
それにしても、翌年に同じ景色を見ることが出来ないとは、驚きである。もっとも群生す
る向日葵はなにか豪華で、ゴッホが好んで描いた南フランスの田園気分を味わえて、まっ
宜しいのではないか。

 s-P9243841ヒマワリ.jpg

奈良市高樋町あたりは、平城京に都があった頃、藤原仲麻呂等の別荘があったところで
「清澄の里」と呼ばれていたと、昨年9月29日に高樋町の安明寺のご住職に教えていた
だいた。
奈良市の南東に位置し、虚空蔵山(182m)と城山(528m)の山裾に挟まれた谷あいにある
この一帯は、とても奈良近郊とは思えない。山間地の趣である。
平城京から10q程度の距離。馬を使えば1時間程度の距離である。たしかに、貴族が避
暑地として別荘を建てたという理由がよくわかる、美しく閑静な場所である。
目を転じれば遥か西の地平に生駒の山並みを望むこともできる景観抜群の土地でもある。
 
 s-P9243963清澄の里.jpg s-P9243865弘仁寺参道道標.jpg

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2010年09月22日

十三夜の月 奈良・栗塚古墳

いつものことだけど、きまって満月の日が近づくにつれて落ち着かなくなる。
さてどこで月の出待つか。これが決まらないことにはその日に向けてなんの
予定も立たない。
今回の十五夜は天気が思わしくないようなので、十三夜のきのう、とりあえ
ず奈良・栗塚古墳で月の出を待つことにした。

 s-P9213690栗塚古墳夕景.jpg
 今まさに太陽の沈だところ

9月の初め偶然に通りかかって知った栗塚古墳は、和爾(わに)遺跡群の中の
ひとつの古墳で、弥生時代から古墳時代中期までの遺構がこの土地の下一帯に
隠されている。
弥生時代がおよそ1300年間。古墳時代の中期までの400年間。なんと1700年間
もの長きにわたってこの菩提仙川の河口のこの土地には竪穴式住居が立ち並び、
稲作と狩猟の生活がなされていたのだ。
遺跡からは製塩土器も発見されている。弥生時代のはじめ、奈良盆地はいまだ
水をたたえた湖で、しかも海水の塩気が残っていたのだろうか。

 s-P9213668稲波.jpg
 稲穂の波模様

この和邇遺跡を発掘調査した奈良県立橿原考古学研究所の現地見学会資料をWeb
で見つけた。その中に古墳群を示した地図がある。
現在の道路地図と2002年9月調査当時の地図とを見比べてみて愕然とした。新た
な道路が何本も出来ていたのだ。それも遺跡の上を通過して。
それもそのはず、この発掘調査は農道の整備を前にした緊急調査だったのだ。
2000年以上前のその土地の遺構や歴史的状況がわかった翌日に、その土地は瞬く
間に整地され、舗装され地面ごと消滅してしまうのだ。それが人類の進歩、社会
の変化というものの、なにか釈然としない気持ちになる。

奈良県下には8000〜9000の古墳が判明しているという。これと言った新しい産業
の無い奈良は、大阪のベッドタウンと化し、また集まってきた新住民目当てに無数
のゴルフコースが開発された。そのため多くの遺跡が消滅した。

 s-P9213710十三夜の稲田.jpg
 十三夜の月に稲穂

午後五時前に栗塚古墳到着。いまだ日はかなり高い。しかし日の入りは思いがけずに
速い。日没前に、このところ気になっている「稲」の写真を、撮っておかなくてはな
らない。

稲を取り始めて気がついたのだが、稲穂の一部に濃い茶色の粒がよく目につく。まるで
焼け焦げたように籾のところどころ変色している。恐らく何らかの病変なのだろう。
例年に無い猛暑が原因しているのだろうか。情けないことに稲のことを僕は何も知らな
いのだ。

 s-P9213764十三夜月夜栗塚古墳.jpg
 「栗塚古墳十三夜の月」ちょっと妖しげに撮れた


※和爾遺跡第14・15次調査 現地見学会資料(2002年9月23日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/wani1.html
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2010年09月21日

東大寺大仏殿「鴟尾(しび)六景」

東大寺大仏殿の大屋根を飾る鴟尾は、江戸期の復興(1709年)時に鳥衾(とりぶすま)瓦を
金色の鴟尾に変えた(らしい)。再建するための過去の資料が無いので、唐招提寺金堂の
鴟尾の形を真似て造ったとも言われている。

 s-P9203636大仏殿鴟尾.jpg

造営当時(758年)の大仏殿と現存する三代目大仏殿の外観は横幅が3分の2に縮小され同じ形
ではないが、印象として最も異なるのは金色の鴟尾であろう。
もし創建時のままの鳥衾瓦(鬼瓦)だったら、他の大寺と変らない地味な「寺」の巨大な本堂
という印象に留まる。

 s-P4023321桜と鴟尾.jpg 

金色の鴟尾といえば、奈良薬師寺大講堂の再建(2003年)にあわせて、重さ650kgの金張り
の鴟尾を屋根上に載せた。薬師寺の発掘調査で鴟尾は出土しておらず、創建当初の屋根に
鴟尾があったかどうかは分からない。しかし、「奈良時代の第一級の寺院には鴟尾があり、
薬師寺にも鴟尾があったはず」との見解から決定した。

 s-P1070970丹と鴟尾.jpg  s-奈良 030東大寺灯火会.jpg

そもそも「鴟尾」が屋根の最上部に設置されるのは火除けのまじないとして用いられたも
のである。 魚が水面から飛び上がり尾を水面上に出した姿を具象化したもので、屋根の
上面が水面を表し、 水面下にあるもの(建物)は燃えないとの言い伝えから火除けとして
用いられたと考えられている。だから、鴟尾が金色である必要は無いのである。

薬師寺はともかくとして、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾は、かつて黄金の輝きを放っていた
盧舎那大仏をイメージさせるために今や別個に考えるられないパートナーであるといって
もよいだろう。唐招提寺のごとく瓦色の鴟尾など想像できない。

 s-P5278637大仏殿五月晴.jpg s-P1100141枝垂桜と鴟尾.jpg

 「鴟尾」を詠った好きな俳句

 ・金色の鴟尾の眩しき五月晴  中野千江
 ・大寺の鴟尾きらりと鰯雲   案山子
 ・月幾夜照らせし鴟尾に今日の月  水原秋櫻子
 ・かげろふのむかふは鴟尾の照らす国  豊田都峰
 ・一山の鴟尾の金色天高し  佐藤信 

◎参考URL
Wikipedia鴟尾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%9F%E5%B0%BE
鳥衾考
http://www4.ocn.ne.jp/~kisaragi/fusuma/fusuma.htm
シャチホコの謎
http://www.d1.dion.ne.jp/~mthouse/page108.htm
薬師寺の鴟尾
http://www.hohen-online.com/temple/news/news/news030319.html
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2010年09月20日

柳生街道 秋の気配

円成寺のある忍辱山(にんにくせん)を通る柳生街道は大柳生まで尾根伝いの濃い森の中を行く。
谷地の棚田はどこも稲刈りを済ませていた。
田んぼに残る稲の切り株、そこから芽が出て成長するのを蘖(ひこばえ)と言うがそれがすでに
20pくらいまでに育っている。黄金色の棚田を撮るつもりでいたのに・・・遅かった。

 s-P9193549稲藁干.jpg

山を下ったところの田んぼは丁度稲刈りを始めたところだった。昨日手前だけコンバインを入れ
た後なのだろう、稲穂を具合よく見ることができる。

 s-P9193502稲穂.jpg

最近、稲にこだわっている。実はこの夏図書館で「日本の風景を読む」という本を借りた。
この本の冒頭に『たわわに実った稲。重く頭を垂れた稲穂。何の不思議もないその一本の稲穂
の大写しを眺めながら私が考えさせられたことは、「稲」という植物に初めてであった先祖た
ちの心でした。 たった一粒の種籾から一年で2000粒、3000粒もの米を実らせる稲。
二年で400万、三年で80億、四年で十六兆。こんな作物は他にはないのです。その稲とい
う植物に出会った先祖たちは、どれほどの驚きと喜びと、敬虔な祈りとで、それをこの国土に
根付かせてきたことでしょうか。』この文章を読んで以来、稲が気になって仕方がない。

 s-P9193486ノシメトンボ.jpg
 ノシメトンボ

著者の富山和子氏は日本の環境問題評論家としてとても有名な人物で、水田の働きに着目した
「水田はダム」という言葉もよく知られているらしい。
それにしても毎日のように食している「米」というものがそんなにもすごい植物であること知
らなかった。この本を読んで以来、稲や水田に対する見方や考え方がこれまでとは全く変って
しまった。日本の原始国家の誕生や古墳と米の関わりなど、奈良を撮る上での新たな針路を示
してく
れた本だった。

「稲」の写真は難しい。田んぼとか棚田とか稲並みとか全体を写した写真はよく目にするが、
独創的なこれまでに見たことの無い稲を写したものはまだ見たことがない。なんとかこの秋の
間に会心の作をものにしたいものだ。

 s-P9193556コバキボウシ.jpg
 コバキボウシ

白露から秋分の間の今頃を七十二候では「玄鳥去(げんちょうさる)」といい、燕が南へ帰って
行く時期を示す。そういえばこの頃、燕の声を聞かなくなった。
posted by ハマー at 00:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

大和神社の印象

大和神社と書いて「おおやまと神社」と読ませる。
国名としての「やまと」は古事記や日本書紀では「大和」「日本」「倭」いずれも「ヤマト」と読ませている。
金印のことが書かれている魏志倭人伝に、「今汝を以て親魏倭王(しんぎわおう)と為し、金印紫綬を授け
る」とあり、日本の国が「倭」と表記されていたことが解る。
八世紀頃、延喜式(法令)で「国名は漢字二字で表すこと」との指示があったため「ヤマト」は「倭」を
「大倭」と書くようになったが、「倭」の字は侮蔑の響きがあり嫌われ「大和」と表されるようになったよう
である。
「大」の字に関しては、人名の頭に大の字をかぶせることにより唯一特別な畏敬すべきものであることを現
すように、和という字の頭に「大」をかぶせたのであろう。
「おおやまと」とは、「大和(やまと)」にひとつの特別な大きな存在という意味を持たせるためわざわざそ
う読ませたと(勝手に)推測される。ああややっこしい。神社の公式サイトに社名の由来に関する説明はない。

 s-P9173315祖霊社.jpg s-P9173310忠魂碑・大和神社.jpg
 戦艦大和と共に沈んだ英霊を祀る この地区(浅輪)の戦没将士260柱の慰霊塔

創建は紀元前86年(崇神天皇12年)といわれ、日本最古の神社と称される大神神社(紀元前91年)と同時
代に創建された歴史を持つ。かつては伊勢神宮と同程度の規模を誇っていた。
神社の神紋は「橘」で、藤原、源氏二氏と並んで四姓に数えられたが、藤原氏に排斥され、中世には全て
の社領を失っていた。大和神社がその由緒の割に奈良県下にある石上神宮、大神神社、橿原神宮などの
大社と比べいまひとつ敵わないのはそのような経緯による。
明治四年官幣大社に列せられ、新に社殿が造営された。しかし明治以降の新しい波を掴めず更なる復興がかなわなかったということも一地区の神社に留まっている理由であろう。

 s-P9173363里芋葉.jpg

神社拝殿横に奉納されている鉢植えの里芋の薄緑の大きな葉に昼の太陽があたっていた。裏側に回て
見ると、
緞帳をき上げるときに出来る布のシワみたいな葉脈の影がなんとも不思議な線を見せている。
里芋の葉は映画「となりのトトロ」が雨傘代わりに使っているのを見て強く印象に残っているが、この葉
は最大直径が70cmくらいあり、銅色した太い茎の長さは1m以上あり写真を撮るには格好の大きさがある。
なんか面白い写真が撮れたと思う。
 
 s-P9173378絵馬独り占め.jpg

増尾子神社の絵馬掛けに巨大な絵馬が奉納されていた。普通のサイズの絵馬ならば45駒以上掛けられるところを、この一枚が独占している。一体¥おいくら支払ったのだろうか。
小さな絵馬に「祈る合格 看護学校 前向きな姿勢で勉強できますように」と願い事が書かれていた。
アノー・・・
どういうこと。つまり勉強嫌いを直してもらい、一気に合格をと・・・・。今年は諦めたほうが良いと思うよ。

 
posted by ハマー at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

大神神社・巫女たちの美しさは

大神神社では境内を足早に行き来する巫女をよく目にする。大神神社の場合、
拝殿を挟んで左側の勤番所と右側の社務所が離れて配置されているので、その
間の移動のために巫女も他神職等も境内を往来せざるを得ないからであろう。

 s-P9093213大神神社.jpg 

最近気がついたことであるが、大神神社の巫女の美しさは際立っている。
雪のような白い肌、秀麗な広い額、涼しげに澄んだ瞳、細面。まさに神がか
り的な美しさで、目を離せないというか心を奪われてしまう。
「羞月閉花(しゅうげつへいか)」とは彼女たちのために用意された言葉では
ないのか。月も恥じらい花も引け目を感じて閉じてしまうというこの言葉は、
彼女たちの美しさを表現するに実にふさわしい。


 s-P9093266巫女.jpg 

神社にあって巫女という職業は神職の娘・近親者など、その神社に縁のある
人がその仕事に就くことが多い。
調べてみると、大神神社の神職は実に二千年以上の伝承を持つ家系で、その
親族、近親者にも同じ血が流れる。
特に女性の場合は神代の昔から美形が嗜好選抜され続けた結果、究極のアジ
ア系美女として純粋培養されたのであろう。以上は学説でもなく確たる根拠
もない持論ではあるが・・・・まあそういうことであろうと思う。

 s-P1080338大神神社拝殿.jpg 
 09年1月撮影

ところで巫女は、穢れを払い神を鎮める様々な行為を補佐する為、未婚(つま
り処女)であり心身ともに健康な女性が求められた。もっとも真偽は本人が知
るのみであろうが、かつては血統正しい貴族の深窓の箱入り娘(姫)のみが巫女
に迎えられた。女性が巫女として奉仕できる年数は短く、義務教育終了後(現
実的には高等学校卒業)から勤務し、20代後半で定年を迎える例が多い。
そのため、巫女はみずみずしいというか麗しい若い女性に限られている訳だ。
定年以降に神社に勤務する場合は、神社指定の制服や(大神神社は)空色の袴を
履くなどして服装で区分されている。

参照 Wikipedia 巫女
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E5%A5%B3
posted by ハマー at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良のこといろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

奈良白毫寺あたりの夏景色

白毫寺から新薬師寺に向う能登川沿いの山の辺の道に赤乳(あかち)神社末社の小さな小さな祠が
夏草に隠れるようにある。そうと知らなければ見過ごしてしまいそうだ。
由緒によれば鎌倉時代(1192~1333年)以前から祀られているとある。
春日大社から新薬師寺、白毫寺へと続く祈りの道だが、大風が吹けば飛んでしまうような、増水
した能登川に流されてしまいそうな小さな祠が忘れられることもなく人々の信仰を集めてきたこ
とに驚かされる。同時に日本人の信仰心の篤さにも驚かされる。

 s-P9053065百日紅祠.jpg
 百日紅咲く赤乳神社

私がこの赤乳神社を知ったのは、一昨年(‘08年)の9月に白毫寺を訪ねた朝、拝観時間前に近く
を散策していて、偶然、遠くに赤い百日紅の木を見つけた。そこまで行ってみて、この祠を発見
したのだ。
百日紅の木もさることながら、石造りの水船(手水鉢)を覆う赤い花に感動した。あれから二年、
この夏、百日紅の木も、水舟の花もあの時と同じ景色を見せてくれていた。

 s-P9053042手水鉢百日紅.jpg
 百日紅の落花に埋もれる水舟 

奈良高円山のふもとにある白毫寺は天智天皇の第七皇子志貴皇子(668~716年)の山荘(別荘)を寺
としたと伝えられる。寺を中心にして能登川の南に広がる白毫寺町、現在は新興住宅が点在する
田園地帯だが、なんと1300年以上の歴史を持つ土地である。

 s-P9052952白毫寺町辻の仏堂.jpg s-P9052993百豪町西勝寺.jpg 
 新しい住宅街に残された小さなお堂          西勝寺
 
町の中心にある宅春日神社では丁度朝市が開催されていた。毎月第一日曜日に開かれるらしい
この「たかまど朝市」について詳しいことは知らないが、地元の人々の町おこしイベントとして
行われているようだ。
若い人たちではなく中高年の男女が中心となっていて、(派手な音楽や騒々しさもなく)穏やかな
ローカル色豊かな朝市である。
なんと、鮎の塩焼きが提供されていた。焼きソバでもない、フランクフルトでもない、鮎の塩焼
きである。是非新しく住み着いた住民も巻き込んだ催事として定着発展していってもらいたいも
のだ。

 s-P9052989百豪寺町朝市.jpg s-P9052995たかまど朝市.jpg 
 宅春日神社たかまど朝市              炎天の鮎塩焼き


宅春日神社の「宅(たく)」という字は紀記に登場する、飛鳥・奈良時代のこの地域の古い呼称
「宅=やけ」を表しているのではないかと思う。
物部影媛を歌ったエレジーに、山の辺の道の道筋として「大宅」が登場する。山の辺の道がこの
あたりを通っていたと考えられているが、この神社の名称もそれを裏付ける(のではないか)。

※参考Web
奈良の寺社 赤乳神社
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2010/04/post-a834.html?no_prefetch=1
宅春日神社
http://www.7kamado.net/t_kasuga.html
白毫寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%AF%AB%E5%AF%BA

 s-P9053024白豪寺石標.jpg
 今日、参拝はやめた
posted by ハマー at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月04日

聖林寺十一面観音像到来由来

聖林寺を訪ねると思い浮かべずにはいられない絵がある。それはフェノロサが十一面観音を積んだ
大八車の後先になり聖林寺に向う絵である。そしてその大八車の後押しする小坊主の姿もである。
この私の想像の絵は、どうやら白州正子の『私の古寺巡礼』の一文の影響によるようだ。

 s-P9032911聖林寺山門百日紅.jpg 
 聖林寺石垣 今日住職不在のため吹流しは見えない

「老住職はその(十一面観音像)前に座って、十一面観音が聖林寺へこられた由来を語ってくださ
いました。フェノロサが、三輪神社の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでらともよむ)の床下に、
天平の仏像が放ってあるのを発見し、こんなことをしておいては勿体ないといって、荷車を 引い
て、聖林寺へ運んできた。その荷車の後押しを したのが、当時十二歳であった住職で、その仏像
がこの観音さまだと話してくださったのです。」白州昌子 『私の古寺巡礼』1932年(昭和七年)

 s-P6109381大神神社若宮社.jpg s-P9032848聖林寺山門三輪山遠望.jpg
 大神神社若宮社                   聖林寺山門からみる三輪山

三輪神社の大御輪寺というのは大神神社二の鳥居のすぐ北にある若宮社(大直禰子神社)のことで
あり、神社と言っても大神神社の神宮寺であったのだからその佇まいは当然仏閣そのものである。
そこから聖林寺までは直線距離でおよそ4km。

 s-P9032866聖林寺本堂借景.jpg 
 聖林寺本堂借景

聖林寺の山門から目を北に転じるとすぐ真近に洗面器を伏せたような三輪山の姿を目にすることが
できる。意外に近くに感じる。フェノロサが何故聖林寺に十一面観音像を運んだのか本当の理由は
分からない。が、思うに、大御輪寺に修業に来ていた聖林寺の小坊主が、たまたまフェノロサとと
もに古寺宝物調査に来ていた助手の岡倉天心に対して、自分の寺に欲しいと少年の気安さで頼んだ
のではなかろうか。もともと聖林寺は大神神社 とも関係が深く神社関係者も特に異議を唱えること
もなく了承した。そこでフェノロサは、それではついでにその聖林寺の本尊子安延命地蔵菩薩を見
に行ってみるかと同行した。こんな話ではないだろうか。

 s-P9032876聖林寺子安延命地蔵菩薩.jpg
 子安延命地蔵菩薩像
 
何故小坊主は自分の寺に十一面観音像を欲しいと考えたのか。それは、十一面観音像に幼くして離
れ離れになった大好きな姉の面影を見ていたのではないか。だから・・・・と私は想像するのである。
今日改めて観音像を拝見してその勝手な想像はますます強くなったのである。
posted by ハマー at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺・初瀬 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

奈良栗塚古墳と北椿尾の棚田のこと

奈良の弘仁寺から正暦寺に向う国道187号線の途中の北椿尾町に小規模な棚田のあることを知り、
行ってみた。
近くの道路から見下ろしてみて唖然 ? アレ、もう稲刈り終わったの ?
そんなはずはない。奈良県下の刈り取り時期は10月から11月のはず。稲と思えたものはどうやら
雑草のようだ。
近くを通った女性に聞いてみると「5〜6年前から米作りは休んでいます」と言う。休耕田という
ことなのだ。それにしては田んぼが綺麗に見えるのは、麦でも育てているのだろうか。廃田とい
うことではないようだ。

 s-北椿尾町棚田.jpg
 Yahoo地図写真

折角だからと思い許可を得て棚田を下りて、写真を撮らせてもらう。手入れが行き届かないせい
か、土手が崩れている田もある。この棚田からはすぐ下の方に黄色く色づき始めた水田が見える。
ほんとならこの田んぼも今頃は穂を垂れた稲で色づいているはずだろうに。山裾のもっとも急な
斜面は50°近い勾配がある。これでは機械も入れられないだろう。
川もため池もないこのような山間地の棚田は、一つふたつの田んぼが米作りをやめたら、他の田
んぼに水が回らなくなり、米づくりはストップしてしまう。後継者がいない全国の中山間地の棚
田や谷地田にはこのような休耕田や放置された廃田が溢れている。

 s-P9012792棚田跡・奈良市椿尾町.jpg

平野部の水田でも休耕田が増えている。米価が低くて、手間と労力ばかりがかかるのに儲からな
いのが原因のようだ。ましてこのような急峻な棚田では余計に大変だろう。お米は自分で作るよ
りもスーパーマーケットで買ったほうが安あがりということなのだ。
棚田を「日本の原風景」とばかりに、単に美しい風景として眺めていられるほど農家の現実は楽
なものではない、甘くないのだ(反省しています)。

 s-P9012819古墳稲穂.jpg

栗塚古墳
奈良は古墳がいたるところにある。この栗塚古墳は棚田のある北椿尾町のすぐ隣の高樋町にある。
この古墳はいまだ発掘調査もされておらず当然被葬者も分からない。
全長60m高さ3mの前方後円墳だが、前方部は農地になってしまっているのでそれほど大きなもの
とは見えない。
それにしてもよくも1500〜1600年前の土饅頭(失礼)が残されているものだと感心させられる。
「栗塚」の名称は、後円部に栗の木が植えられていることから付けられと推測する。というわけ
で栗塚古墳の名前は全国いたるところにある(らしい)。
ところで、山の辺の道はこの古墳のすぐ東側を通っていたと考えられている。

 s-P9012773百日紅.jpg
 百日紅 花の少ない真夏に百日ものあいだ絶えることなく咲き続ける


posted by ハマー at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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