2010年07月31日

金屋「飾り馬伝説」の地

山の辺の基点桜井市金屋地区を流れる大和川の河川敷に、まるで児童公園のごとくコンクリート製の
10頭の馬が縦一列に並べ置かれている。
案内板によれば「飾り馬」と云う。
「遣隋使小野妹子が隋国の使いを伴って帰国したとき、飾り馬75頭遣わして出迎えた」と伝える。

 s-P7291574海石榴市飾り馬.jpg

当時の馬は、権威の象徴であり、実用的には現代でいえば自家用ジェット機に値する乗り物と考えて
も良いだろう。その意味で飾り馬75頭の勢ぞろいは熱烈な歓迎であったと窺われる。
『金屋の海石榴市(つばいち)は八十の衝(やそのちまた)とも称された場所で、道と道が交わる要衝の
地で、各種の施設があり、また定期的に市が立ってにぎわった。この場所はまた、大和川本流(初瀬川)
の水運を利用する河港があったから、文字通り、水陸交通の要衝であった。』
古代の金屋はハブ空港化した羽田空港のような場所だったのだろう。
※『 』「古代を考える 山の辺の道」和田萃 引用 
河川敷に置かれたコンクリート製の馬はまるでポニーのように見え、言い伝えを再現するにはコミカル
過ぎるように思えるが、それでも歴史を知る一つのきっかけになる。

 s-P7181505仏教伝来石碑.jpg

この飾り馬のすぐ近くに、第213世東大寺別当平岡定海氏の揮毫による仏教伝来の記念石碑がある。
黒御影石の鏡面に夏の青空と馬井手橋の欄干を写し、ハットさせられる美しさがある。
飛鳥王朝に正式に仏教の教えがもたらされたその事は、その後の日本の行く末を決定付けた記念すべき
出来事である。歴史におけるその重みをこの石碑を前にして思った。

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□雨の石上神宮にて
石上神宮の神宮外苑公園のすぐ東にある釣り池の蓮はすでに花盛りを過ぎたようで、枯れた葉は花の終
わった株なのだろう。
その茶色に変った葉の上にはいくつもの小さなガラス玉のような雨滴がキラリと光を放つ。 
こういうものに「美」を感じるようになったのは、年をとったせいか、あるいは日本人の遺伝子に刷り込ま
れた「さび」の感性故のことなのか。いずれにしろこれが自分の(写真の)スタイルなのかも知れない。

今月の後半は平城遷都1300年記念「入江泰吉賞」への応募写真の選定に時間を使った。
この賞の応募作業が終わったら僕の奈良写真紀行も一段落だ。
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2010年07月17日

山の辺の道 車谷梅雨に咲く花

梅雨の時季、山の辺の道は夏草に覆われ緑一色になる。道から少しでも外れると丈の高い草葉
に阻まれ先に行けない。
今年の梅雨は半ばから連日雨の日続きで、そのせいか野原は一層草深い印象を受ける。

 s-P7151167穴師川アガパンサス.jpg
 穴師川のアガパンサス

山の辺の道のいたる所でアガパンサスの淡い紫の花を見る。
この花は南アフリカ原産の多年草球根植物でアフリカンリリーともいう。日本では6月から7月
の梅雨期に花を咲かす。太陽が好きな性質で根の張りも旺盛で、広い場所では大型化する。

 s-P7151108車谷山百合.jpg
 桧原道山百合

南アフリカは年間降水量は500o前後と決して多くはない。
山の辺の道周辺地域は大和高原山麓にあたり、柿、桃などの果樹栽培が盛んな乾燥地帯にあたる。
それでも車谷のある奈良県桜井市の年間降水量は1364oで日本国内ランキング41位(奈良県)と
低位だが、南アフリカと比較すれば三倍の雨が降る。にもかかわらず外来種のアガパンサスが
加湿といえる日本各地でこれだけ定着したのは、休眠する球根植物の植生ならではの事であろう。

 s-P7151196雨花蓮田.jpg
 山の辺の道には珍しい蓮田

ちなみに年間降水量ランキング一位は高知県で3213mmもの雨が降る。私の住む愛知県は26位
1612o。最下位47位は山梨県で1112o。
※降水量ランキングHP
http://www.tonashiba.com/ranking/pref_country/weather_p/08020009

 s-P7151084石上神宮朝参道.jpg
 石上神宮朝の参道

■今朝は夜明け前に石上神宮に行った。
灯篭に明かりが入っている時間に写真を撮りたくてのこと。夜明け前の薄明かりの時が社殿と
参道を同時に写せるタイミングだが、灯篭の明かりは意外に早く消されてしまう。冬と違って
夏場は日の出が早く、時刻午前五時半くらいがリミットになる。朝二時過ぎに家を出る。
今日は偶然に神主が朝のお勤め(?)の後、門から社務所に戻るところに出くわした。
丁度撮影を切り上げた時だったので、慌てて三脚とカメラをセットしてシャッターを一度だけ
切ることが出来た。ピントも合っていないし、木の陰に白いポールが入ってしまった。しかし、
これはこれでけっこう幻想的な光景になった(と思う)。
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2010年07月13日

山の辺の道の石畳について

桜井市海石榴市(つばいち)から天理市石上神宮までの山の辺の道を歩くと、
石畳の区間が何箇所もあることに驚かされる。
日本最古の官道と考えられるこの古道が当時(四〜五世紀頃)、舗装されていた
かどうか知らないが、その可能性は十分に考えられる。

 s-P7121050杉木立山の辺の道.jpg
 大神神社から玄来賓庵へ向かう石畳の道

山の辺の道は、古代日本を代表する物部氏、秦氏他大部族の本拠地を結ぶ道で
あり、また陵墓、古墳の中を縫うように走る王道である。今でいうところの
幹線道であり産業道路にあたる。
その道を石で覆うことは当時の墳墓を造る土木技術力や経済力から考えて可能
なことであり、また人や牛馬の往来、荷車などの通行に舗装は必要であったは
ずだ。つまり、天候温順な奈良の土地は春から初冬まで野山は草木が生い茂り、
人の通行にも支障をきたす。道としての機能を維持するために、道路を石で
舗装するに思い至って当然であろう。

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 大神神社の巫女に注連縄

最も、これまで山の辺の道と想定される場所の発掘調査はされていない。
また現在の石畳は東海自然歩道として整備した時のものであろうことはその
形状仕上がりから見て容易に判断できる。
学術的な見解として山の辺の道は、人の往来により踏み固められた自然発生
的に出来た道であり、人為的に構築されたあるいは手を加えられた道とは考
えられていない。
それでも最古の官道である。軍事的な用途もあっただろう。
もし当時の石畳の遺構が見つかればこれは「道」の歴史を覆す大スクープに
なる。

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 天理市杣之内町石仏群
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2010年07月09日

大神神社の白蛇

神社の一日は掃除から始まる。
境内を掃き清めた後、砂熊手を使って砂地に直線を引く。この箒目が入ると、境内一円に清浄な気が満たされたように
感じる。

 s-P7080865神社の朝は.jpg
 狭井神社参道から拝殿を望む

この箒目は砂紋とも言われ、神社や寺院の境内では必ず目にする。
寺の場合は枯山水の庭園で「海」の波を表す装飾的なものだが、神社の場合はどのような意味があるのだろうか。
侵入者を退ける目的という解釈をする人もいるが、確かに足下に犯しがたい雰囲気の広がっている感覚はある。

 s-P7080918大神神社御神木.jpg s-P7121011.jpg
 大神神社「巳の神杉」 

拝殿の正面右手に「巳の神杉」と呼ばれるご神木が祀られている。
神社に神木はつき物で、神は天から木や磐に降り立つ。そして木陰や山の中に潜んでいるのか。巳は蛇のこと。
この神木の前にお供え物を置く台があり、いくつもの卵(生卵?)が供えられている。卵は蛇の大好物らしいが、この
「巳の神杉」の根元の洞は実際に白蛇の巣となっている。地下の水の道を通って表に出現する。2mもある白い蛇で
ある。
大神神社と蛇の関係は神話(説話)にも登場する深い因縁がある。

 s-P7080873狭井神社注連拝殿.jpg
 狭井神社注連縄拝殿千木 
大神(おおみわ)神社拝殿は三輪山の森の中にある。拝殿を正面にすると、三輪山の頂上は左斜め北東の方角にあたる。
そのため、大神神社からはご神体である三輪山の山容も稜線すら見ることはかなわない。
拝殿と三輪山をフレームに収めたかったのだが・・・思惑どおりには行かない。

 s-P7080927橋樹影.jpg
 木橋に落ちる樹影もなにか神秘的で 

「なにごとの おわしますとは 知らねども かたじけなさに 涙ながるる」
西行が伊勢神宮に参拝して詠んだ歌だが、さすが歌聖、神社の雰囲気をたくみに詠えるものだと感心させられる。
西行のこの心境にたどり着くことが出来れば、自分の写真も今少しましなものになるのかもしれない。
「神様、西行様、お願いします。その域に達することが出来ますよう」
posted by ハマー at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月02日

山の辺の道 穴師の古民家

今日は山の辺の道から少し外れて、穴師の町を訪ね歩いた。
昨年初秋10月に一度来ているが、雨のその日と違い、今はあちこちに夏の花を見ることができ、
すこし明るい印象だった。
町の農家は古い江戸時代のものもあり、写真を撮らせていただいた屋敷は、現在の当主で11代目に
なる。300年くらい前までの家系は確かであるとのことだった。

 s-P7020770穴師古民家紫陽花.jpg s-P7020783穴師農家内庭.jpg 

山の辺の道は今より2000年以上前に利用されていた道であり、あたかも古墳と古墳を結ぶ道のよう
だ。しかし、現代の山の辺の道には目に見える形で江戸時代や明治以後近代の文化遺産も多く残さ
れている。

 s-P7020717穴師土塀夏花.jpg s-P7020732穴師路地古民家.jpg

山の辺の道の写真をとり始めてから一年にしかならないが、この短い期間にも景色は随分変った。
もう十年もしないうちに、今の景色は完全に消えてしまうのではないかとさえ思える。
消えてゆくものは惜しい。

自分にとって「山の辺の道」って何だろう。
何故ここで写真を撮っているのだろう。
答えが見つかるその日まで、僕はこの道を彷徨い続ける。


posted by ハマー at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月01日

夏越の「茅の輪」石上神宮

「夏越(なごし)」は6月の晦日(30日)に行われる神社の儀式。
大晦日(12月31日)の年越しについては知っていたが、夏越という名称も、またその行事がある
ことも奈良で初めて知った。
「夏越の祓(はら)え」は全国各地の神社で行われているそうだから、神社近くに住む人や、同じ土
地に何代も続く家柄ならば知っていることなのかもしれない。

 s-P7010587茅の輪.jpg 

夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。
今日(7月1日)天理市にある石上神宮を撮影に訪れたが、昨日の行事の名残であろう「茅の輪」が
残されていた。茅の輪を見るのはこれが初めてのことだった。
この茅の輪を8の字に潜り抜けることにより、疫病や罪穢が祓われ、そうして心身ともに清らかに
なって、あとの半年間を新たな気持ちで迎えるというものだ。

何故「夏越」の行事は一般化しなかったのだろう。
江戸時代には広く行われていた夏越の神事は、明治維新後、政府によりその名称使用が禁止され
変って「大祓え」という奈良時代の旧称で継続された。明治、大正、昭和の時代に百年以上もの間、
神社が国家神道のもとに政府に管理・利用され、そこで行われる行事が強制的ものであったので、
大晦日の行事のようには一般家庭にまで浸透定着しなかったのであろう。
戦後に再び夏越神事は復活し、今に至っている。

 s-P7010641石灯篭尾根棚田.jpg 
 石上神宮の北にある棚田にて

一年の半分六ヶ月を過ごし、そしてまた新たな気持ちで半年を迎えるという気持ちの切り替えは、
ストレスの多い現代にあってこそ必要なことだと思える。
会社勤務の頃は、下半期(十月)を迎えるに際して、(打ち上げコンパなので)それなりのお祓いをし
てメリハリを付けていたことを思い出す。
六月はカレンダーに祝祭日がないから、6月30日を「夏越の日」とか「健康の日」にして国民の休日
にしたらいい。

京都では夏越に「水無月」という和菓子を食べる習慣がある。水無月は白のういろう生地に小豆を
乗せ、三角形に切り分けられた菓子である。水無月の上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、
三角の形は暑気を払う氷を表していると云われている。京都というところはさすが風流なものだなぁ。


posted by ハマー at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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