2010年06月29日

伊射奈岐神社 祈りのパワー

伊射奈岐(いざなぎ)神社は崇神天皇陵の直ぐ西、国道169号線をはさんで向かいあっている。
かつては一続きの陵墓を構成していたことを容易に想像できる。
神社の境内の裏手の丘は全長113mの前方後円墳「天神山古墳」で、崇神天皇陵の陪塚の1つと
見られる。
しかし崇神天皇陵を訪れる人は多いが、伊射奈岐神社を訪れる人は稀だ。まるで別個の存在のよう
にして在る。

 s-P6220107伊射奈岐神社石鳥居.jpg

ここでお会いしたTさんのお話を簡単に記しておきたい。
五年前、医師から肺がんを告げられたTさんはその夜、伊邪那美命(いざなみのみこと)の夢を見た。
その日以後Tさんは自らの意志で伊射奈岐(いざなぎ)神社の宮守となり、境内の清掃、建物など
の整備、森の維持管理の労務に独り尽くしてきた。無償である。
一年後、再検査の結果、驚くことに肺にあったカゲはすっかり消えていた。癌が消えたのだ。

 s-P6290452伊射奈岐神社拝殿.jpg 

 なんの治療もせずに癌細胞が消滅することはありえないことではない。癌のことはよく知らないが、
遺伝子の中に癌を抑えるモノがあり、それが働いた結果ではないかと言われている。Tさんの場合は、
神に祈る強い気持ちと、余生全ての時間を伊邪那美への奉仕に当てるという強い意志が、眠ってい
た遺伝子を活性化させたのではないだろうか。Tさんは伊邪那美に救われたのだと信じている。

 s-P6290424伊射奈岐神社神殿.jpg
 
祈りのパワーは学術的に研究されている。それによると、祈りは、本人が本人のために祈るだけで
はなく、他者に祈ってもらうことによっても効力がある。
これまでこのような話を聞くとつい懐疑的になっていたが、先日二月堂で会った女性からも同様な話
を聞いた。そして今回またTさんから「癌が消えた」という話を聞いた。本当の話である。
祈りの力、これは信じるに値するかもしれない。

 s-P6290441稲荷神社.jpg
 
Tさんの奉仕のお陰で、境内はとても清浄で、普段は訪れる人もなく、静かなしずかな時が流れて
いる。巫女も、神主も居ない射奈岐神社は、大神神社や石上神宮のような大社の派手さはない。
ここに来て思うことは、人と自然との純粋なかかわりが得られるこの神社こそが、太古から伝わる
神社本来の姿なのだと。だからこそ、祈りが通じたのではないのかと。

 s-P6290523水田穴師山見.jpg s-P6290471渋谷町土倉水田.jpg

□渋谷町の水田と農家の景色
山の辺の道の中で、景行天皇陵と崇神天皇陵に挟まれた渋谷(しぶたに)町の農村風景が一番好きだ。
水田に機械が入るようになって、田んぼはどこも四角形の大きな形が当たり前になっている。
しかしこの渋谷町は今も集落の中に小さな水田が残る。この風景が昔の農村の景色なのだろうと思え
るからだ。この景色がいつまでも残っていて欲しいなと思っている。


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2010年06月27日

東大寺梅雨の午後戒壇院千手堂

東大寺戒壇院にある千手(せんじゅ)堂は、いつ見ても扉が閉まっていて得体が知れない。
この建物、周りの景色にしっかり溶け込みそれなりに落ち着きある佇まいを感じさせるが、 (以前の
ものが1998年に火災で消失した後)2002年に復元再建されごくごく新しいものだ。
千手堂そのものの歴史は東大寺の創建以前に及び、八世紀半ばにはすでに存在していた。僧侶・
玄ム(げんほう)の発願によるといわれる。

 s-P6260287千手堂雨線.jpg 
 戒壇院千手堂

千手堂の名称は千手観音菩薩が安置されていることに由来する、仏堂である。
建物内部も菩薩像も再建時に公開されたが、その後の公開予定はない。開かずの仏堂である。
戒壇院の中を北から南へ通り抜ける間道があるので院内の建物を見ることが出来るが、本来ならば
千手堂そのものも一般の人は目にするこのできないものなのだろう。

 s-P6260262千手堂高野槙石灯籠.jpg
 千手堂前の高野槙と石灯籠
 
千手堂の右(北)に隣接する庫裡、脇玄関の梁に
「奉修不動明王護摩供廿一ヶ座院内安全如意満足祈攸也」
と書かれた十数枚の札木が掲げられている。火災除けの護符と思うが、一見近寄りがたい雰囲気を
醸している。
千手堂は、お水取りの時期は「別火坊」と呼ばれ、二月堂での本業の準備と声明の練習のための合宿
所となる。「この時の千手堂(戒壇院)は、普段の雰囲気とは全くちがっていて、何か緊張感というか
活気が感じられる(入江泰吉)」という。

 s-P6260230千手堂玄関.jpg s-P6260241千手堂花.jpg 
 千手堂庫裡玄関                   龍舌蘭、厚葉君が代蘭またユッカとも言う

梅雨の時期というのに東大寺は相変わらず大変な雑踏である。今年は特に平城京遷都1300年祭の
影響で賑わっているということだが、中でも修学旅行の生徒や外国からの観光客が目立つ。
鹿と大仏の偉力にほんとうに驚かされる。
梅雨の昼下がり、大仏殿の参道に色とりどりの傘の花が開き、日ごろの色味に乏しい道もなにか
コミカルな景色に様変わりしていた。
雨の日の撮影はちょっと気の重いものだが、目先も変りワクワクさせられるというか、結構新鮮な
ものである。新しいモチーフの発見もあり、悪くない。

 s-P6260331梅雨戒壇院.jpg s-P6260414大仏殿参道開傘花.jpg 
 戒壇院戒壇堂山門                   大仏殿参道傘の花

 
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2010年06月24日

山の辺の道 長岳寺周辺の石仏

意外なことに山の辺の道界隈で石仏に出会うことは少ない。
意外というのは、仏都奈良といわれる土地でもあり、歴史に残る最古の道である山の辺の道ならば、
当尾や柳生街道や春日山に見られるように、石仏がいくらあってもあたりまえという思い違いが自
分にはあった。
 
 s-P6220009長岳寺根上樹.jpg 

山の辺の道は、飛鳥時代に整備された新しい道(上街道)の登場により、奈良時代以降はその使命を
果たし終え徐々に廃れ、人々の記憶からも消えていったようだ。
また、石仏の興隆は鎌倉時代以後のことでもあり、往来のなくなった草深い山の辺の道に石仏が置
かれるはずはなかっただろう。

 s-P5217707苔生石仏小像.jpg
 
山の辺の道で石仏が見られないもう一つ大きな理由は、山の辺の道の南半分の地域は巨大古墳と無
数の墳墓の点在する地域であり、神社は今も多く存続しているが、(中山廃寺の他)元々古代寺院
がなかったことも関係している。
山の辺の道は昔も今も神々の宿る土地を繋ぐ道であり、そこに「仏」関係の出番はそうそうなかっ
たと考えられる。

 s-P6220033光蓮寺跡の石仏たち.jpg
 
ところが、天理市柳本町に建つ長岳(ちょうがく)寺を中心として、その周辺に限って中世のすぐれ
た石仏が集結している。
そのなかには、僧善教という石工がこの地に永住し、手がけたと思われる石仏も多くあり、古墳の
石材を転用した石仏など、特異な石仏の宝庫でもある。」(「石仏 庶民信仰のこころ」清水俊明著)

 s-P6220047光蓮寺跡石仏.jpg s-P6220076石棺仏善教作.jpg

JR柳本駅のすぐちかく光蓮寺跡に石仏が数十体集められている。寺跡には現在、町の公民館が建ち、
その横に一間四方程度の毘沙門堂があり、その軒下に石仏が安置されている。
初めから現在のように数多くあったわけではない。偶然用水路の工事現場から掘り出されたものや、
石垣の用材にされていたが不要になったもの、町中のあちこちに散在していたものが道路の整備を
する時に持ち込まれたものである。今でも時々担ぎ込まれるので、敷地に収まらず道路にまではみ
出してしまっているほどの数になった。

 s-P6220030柳本町五智堂.jpg s-P2160108笠堂石棺物.jpg 


光蓮寺跡から東に少し行くと、東西に走る県道51号と南北に通る上街道とが交差する四つ辻に、
大きな木造建築物の笠堂がある。
これが元来の長岳寺の入り口で、ほんとうの名は「五智堂」で、五智如来、つまり、大日如来の象
徴として建てられたものである。この五智堂の敷地の隅にも十体近くの石仏が安置されている。

 s-P2180356長岳寺参道石仏群.jpg  

ここより東へ続く道がかつての長岳寺の参道であるが、途中の水路脇にも数十体の石仏が安置され、
近在の人々の深い信仰を集めている。
この参道は柳本駅から少し離れているために、土地の人々が利用するだけの人通りの少ない道だ。
惜しいことに駅から山の辺の道に向うハイカーは別の道を行くので知らずに見逃してしまう。

 s-P2160126長岳寺参道石仏.jpg s-P2160125長岳寺参道石仏.jpg 


光蓮寺跡石仏群、五智堂、長岳寺参道石仏とともにもっともっとその存在を知られてしかるべき価
値のあるものであるのに

 s-P2160015念仏寺杖立迎地蔵.jpg 

長岳寺から山の辺の道を北に進むと、中山廃寺跡あたりに中山念仏寺がある。この念仏寺の創建は
定かではないが、15世紀まで存続した中山廃寺の一坊であったという。念仏寺の境内は奈良盆地で
も最大級の共同墓地(地域九町の郷墓)の一角にあり、どこまでが寺域なのか判然としない。
なんと山の辺の道はこの墓地の中を横断する。初めて来たときはちょっと不気味だった。
この墓地の西端に安置された「杖立迎地蔵」と小石仏群等は見ごたえがある。

奈良県下の墓地を持つ歴史ある寺院には鎌倉時代以後の石仏が必ずと言ってよいほど安置されてい
るが、路傍の石仏とはまた異なり地域との繋がり、時間や歴史との脈絡つまり現代へと連なる流れ、
仏教と人との関係を考えさせられ興味深いものがある

 s-P6229916素戔鳴神社石仏群.jpg 

「中山念仏寺から国道169号に出て、少し北に進む。
バス停大和神社前の辺りで、旧県道(旧上街道)が交差しており、旧道を少し北に入ると佐保之庄で
ある。この佐保之庄の素戔鳴(すさのお)神社境内には、等身大の頭部だけの地蔵石仏、阿弥陀と地
蔵二体を彫った室町後期の三体石仏、江戸時代の庚申像、南北朝時代の五重層塔が集められている。
近くの廃寺とな
った寺院の遺品である。」(「石仏 庶民信仰のこころ」清水俊明著)

 s-P6229934地蔵首.jpg 

素戔鳴神社は佐保之庄集落のほぼ中央にあり、車道からはここにこれほどの歴史的遺物があること
は全くうかがい知れない。また、神社のあることさ外からは分からない。
天理市が配布している「観光ガイド」の天理てくてくマップにも記載されていない。こんなところ
にも奈良の奥深さを思い知らされる。

 s-P6220082辻の石仏.jpg 

アメリカ合衆国出身の東洋文化研究者アレックス・カー氏がその著書「美しき日本の残像」の中
で、『しかし、奈良のロマンには難しいところがあります。自然の美が祖谷(いや・徳島県)のよう
に純粋に心に伝わってくるのではなく、歴史、文学、美術、宗教などが森と谷に相重なっています。
ですから肉眼で見ただけでは文化のベールに包まれている山の本当の姿は見えてきません。このベ
ールは何層にも重なっています。宗教心と詩的観念を持って、このベールを一枚また一枚とはがし
ても「秘密」は残ります。』『奥山(吉野山)の秘密を解くには大変な知識と磨かれた感性が必要で
すから、なかなか理解しきれない部分があって、普通の観光地に比べて「難しい」と思います。』
と嘆いている。

 s-P6229953神社神木.jpg

奈良県の高野山と徳島県の祖谷を比べた文章であるが、外国人ならずとも現代日本人にとっても
状況は変らないと思う。『そのため奈良の奥山は大阪、京都の大都会の近くでありながら、以外に
知られていない「秘密の国」として残っています。その秘密の国を探検しに行くのは僕の大きな楽
しみの一つです。』と文章は続く。

 s-P6229978長岳寺山門紫陽花.jpg 

自分にとっても「奈良」は「秘密の国」であり「歴史、文学、美術、宗教」を知ることによりすこ
しずつ何かが見えてくる、「自分にとっての奈良」が見えてくるとつくづくそう思う。今回山の辺
の道に石仏を探す旅のうちに、その思いはますます強くなったと感じている。
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2010年06月21日

東大寺二月堂の紅一点ザクロ花

東大寺二月堂の登廊下、参籠所前の石垣のザクロが目を惹く。花の朱赤が緑一色の初夏景色
の中にあって鮮やかに光る。
「紅一点」という言葉の由来は、中国の王安井氏が作った詞「万緑叢中紅一点」ある言葉で、
「草葉の緑の中に赤いザクロが一際鮮やか」ということを指していた。

 s-P6209815二月堂ザクロ.jpg

ザクロが日本に入ってきたのは平安時代で、主に花木として重用された。花はもちろん果実も熟
して割れるその美しさが鑑賞されてきた。
私が初めて見たザクロの絵は武者小路実篤の色紙絵であった。美術としてのザクロを見たのは
高校生の時だったがそれ以来、ザクロの赤い実を見るとその絵を思いだす。
しかし、タコウインナーのような形をした赤い花がザクロの花であることを知ったのはずっと後で、
多分50歳を過ぎていたと思う。

 
 s-P6209845二月道常夜灯.jpg s-P6209808二月堂湯屋ざくろ.jpg

二月堂で写真を撮っていると、参拝帰りの人々の多くが「これなんの花だろう」と口にする。実の
ザクロは知っていても、花の姿を知らない人は意外に多いのだ。
子供の頃は庭に植えられたザクロをよく目にしたものだが、近頃はあまり見かけなくなった。
庭木にも流行というものがあるのだろう。
 
仏教界では右手に吉祥花(ザクロ)を持ち懐に幼児を抱く「鬼子母神」の説話を通してザクロを知る
ことができる。
500人の子の母でありながら、常に人の子を捕えて食べてしまう鬼神「可梨帝母」に対して、釈迦は
彼女が最も愛していた末子を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。その際、
柘榴(ざくろ)の実を与え人肉を食べないように約束させた。以後、仏法の護法善神となり、子供と
安産の守り神、鬼子母神となったという。

 s-P6209848紅一点.jpg s-P6260361二月堂鬼子母神.jpg
                           二月堂鬼子母神

古代エジプト、ローマなどではザクロは神聖な植物とみなされ、初期のキリスト教美術ではエデン
の園の生命の木として描かれている。ザクロの実に種が多いことからそのような位置づけになった
と想像される。

 s-P6209850ザクロ.jpg 

ザクロの花を見て気づいたのだが、花と果実を同時期に見られるということだ。それだけ花期が長
いことに加え、実の生育が速いということだが、このようなことは木花では珍しいことではないだ
ろうか。実が赤く熟すのは九月下旬から十月頃。俳句では秋の季語になる。

石榴の実の 一粒だにも 惜しみ食ふ  山口誓子

ザクロの実は酸っぱくて種ばかりで果肉はほとんどない。全て食べつくしても満腹感はない。
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2010年06月12日

大神神社が最強パワースポットだって

大神(おおみわ)神社は日本最強の宗教系パワースポットと言われているらしい。
「らしい」というのはそもそも和製英語のパワースポットという言葉は、21世紀以降にはやり
始めた言葉であり概念であるが、一方この神社の起源は2000年以上前、紀元前の日本神話
の時代にさかのぼる。つまり今更何を言っているのというカンジである。
この「パワースポット」という取って付けたようなカタカナ言葉に、浅薄で作為的な擬態を見る
からである。

 s-P6109618大神神社神杉.jpg
 

しかし、改めて思うことは、日本人にとって「神社」という(「神」ではない場所のような)「存在」
が、心の奥深くに刷り込まれ、あたかも日本人のDNAになっているというその事実である。
パワースポットを喧伝する者も、それを受け入れる者も何の抵抗なく、恥ずかしげもなく、疑う
こともなく、喜んで、進んで、信じようとする行為に驚かされる。

 s-P6109383大直禰子神社磐座.jpg

自分は今も神仏を受け入れる心の余裕はないが、神社や寺院というものを強いて排しようという
か、埒外に置こうという気持ちはない。
宗教は人の心が生んだナニカというか、神仏の思想は人が人であろうとすることの証なのだと
考えている。パワーアイテムなのかも(紅顔低頭)。

 s-P6109591龍王池.jpg 

神社や寺院という場所は、人が日々の営みや日常の瑣末から一時だが離れられる空間であり、
自分の心と対峙しやすい舞台や装置のある場所なのだ。ことによるとヒーリングの場と言って
も良いかもしれない。

 s-P6109417磯城瑞籬宮跡石積.jpg 

この大神神社には間違いなく二千年前の昔から伝わる「神秘」がある。二千年の間、伝えられ
信じられているものは、実は日本人のDNAに刷り込まれているのものではないかと、そんな
気がする。
あえてパワースポットというならば、そこに日本人のDNAを活性化させる何かがあるのだろう。

 s-P6109581ドクダミ.jpg 

石上神宮から大神神社に至る山の辺の道は、三輪山の麓の緑濃い林間を巡る。所々人の
行き違いもできない、人一人がやっと通れるような狭い道もある。
日が沈めばとても通る気になれない山道である。朝早い時間に野生の鹿や、猪に出くわしたこ
ともある。昼日中でも独りで進めば、モノの気配にドキッとさせられる怖れ道である。しかし、
その姿こそが太古の山の辺の道の姿なのだとも思う。

 s-P6109454大神神社笹百合.jpg 

この時季大三輪神社境内では「笹ゆり」が見頃を迎える。この花も1300年来の祭事とともに今に
伝わる神秘の花である。初代神武天皇の皇后五十鈴媛を慰めるために供えられる花である。
何を慰めるのか知らないが、この花には、女子を静めるパワーがあるようだ。
三輪山に、華やぐ夏を装おう五十鈴姫を思い浮かべることの出来る一瞬がある。

 s-P6109516がくあじさい.jpg
 アジサイを裏から見ると植物とは思えない、まるで「肺」

 
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2010年06月09日

山の辺の道「里を飾る初夏の花」

山の辺の道がとおる奈良盆地の山裾はすっかり淡い緑色の草木に覆われ、野も田畑も山も
みんな緑一色。後ろも、足下も目の届く限り空の境目までの緑。広いひろい緑の中に、小さ
く固まって建つ集落の影、それすら緑の中に埋もれてしまいそうだ。

 s-P5318879苗代.jpg
 苗代 中山町

季節は「芒種」。 暦便覧に「芒(のぎ)のある穀類、稼種する時なり」と記されている。
今のカレンダーでは6月6日、7日の頃にあたるが、実際の種まきはもっと早い。
この辺りほとんどの田んぼはまだ田植え前で、やっと水張りを終えたかあるいはこれから
というところが多い。田の隅や、農家の直ぐ横の苗代に、田植え間近の大きさに育った優
しい緑色の苗が、静かに出番を待っている。

 s-P6089352鮮映軒先花鉢.jpg
 ゼラニウム、シンビジュウム クンシラン フクシア ハルシャギク 渋谷町

この時季、自然の「野の花」を見つけることは難しい。今は、家の周りを飾る木花や庭先で
育てられる草花が里を飾る。
このあたりでも見ることの少なくなった旧い農家の玄関脇に、障子戸と板壁を背景にして咲
く鮮やかな赤や黄、ピンクの花が強く目を惹いた。家人に許しを得て写真を撮る。通りから
玄関までの路地はプランター植えの花や、木花に溢れている。

 s-P5318958真木葉ブラシ.jpg s-P6089322木堂町花と甍.jpg
 槙葉ブラッシ 萱生町                キンバイ 木堂町
おばあちゃんに思わず「たいへんでしょう」と言ったら、『好きでやっていることだから』
なんてことないよと言われてしまった。
『少し前のほうがもっときれいだった』と口惜しげに言う。ほんとうに「花」が好きなんだ
なぁ。ゼラニウム、シンビジュウム、君子蘭、ハルシャギク、フクシア。

 十三重塔合歓の赤い花.jpg s-P5318963水路にイヌビエ.jpg
 ねむのき 中山町                  イヌビエ 萱生町
奥のほうに隠れている「これ、なんと言ったかね、そうそう月下美人、これがもっと綺麗だ
よ」と一生懸命手前の鉢を全部どかして見せてくれる。赤い蕾が五つついている。『あと
二三日すると開く。咲いているのが短くて、明け方にしか見られないから』と、咲いたとき
の美しさを一生懸命言う。おじいちゃんも、おばあちゃんもほんとうに花が、好きですきで
たまらない、花一杯の家周りだった。

 s-P5258180渋谷町板塀シラン.jpg
 シラン 渋谷町
posted by ハマー at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月06日

「指図堂」は東大寺復興の現場事務所だった

東大寺指図(さしず)堂の創建年および開祖はよくわからないようだ。建築様式から推測するに、
正面左右に開かれた花頭窓は禅宗様といわれる、平安時代後期から鎌倉時代にかけて宋から
伝えられた様式であることから、この建物がその時代、12世紀終わり頃の建物と考えても良い
だろう。

 指図堂石段.jpg

 
東大寺は平安時代末1180年12月28日(治承4年)兵火の為に、大仏殿をはじめ伽藍の大半を
焼失した。今の指図堂のあるあたりは大仏殿を含めて一番被害の甚だしい場所であったはずだ。

焼け野原となったその場所に、復興のための基地となる建物が徐々に建てられてた。その一つに、
その後指図堂となる建物があったと考えても良い。重源が勧進職についた1181年と大きく離れては
いないはずだ。

 指図堂窓.jpg

指図堂の名前の由来は、東大寺再建の時に用いられた建築設計図などを収めたことからつけら
れた名称というのが一般的であるが、東大寺鎌倉再建時の勧進役であった重源がこの堂に泊り込
んで、建設工事の指図をしたことから指図堂と呼ばれるようになったという人もいる。
現在の指図堂は、江戸時代の1791年に台風で倒壊した後、1852年に再建されたものである。

 勧進所角窪石仏.jpg

この指図堂は大仏殿の西、勧進所(龍松院)との間にあるが、なにか影が薄い。このあたりにある
堂宇としては珍しく周りに塀がなく、門構えもない。ちょっと物足りないような違和感がある。

しかし南と東の道から建物に直ぐに入ることが出来る簡便さは、大仏殿再建工事の現場事務所と
して使われていたと考えれば納得できる。大仏殿寺再建のあとも南大門をはじめ境内の堂宇の復
興工事は続けられる。指図堂はその後も東大寺再興の総合建設事務所として機能していたのだろう。

 朝勧進所赤門.jpg

この寺の名前は、写真家故入江泰吉氏の写真集「奈良大和路春夏秋冬」の中で「東大寺指図堂春日」
として収められているので前から知っていた。
撮影日は’79年4月8日。雨上がりの濡れた芝生と石段。椿と桜が前後に重なるように写しこまれ、
九段ある石の階段には赤い落ち椿が散らばっている。
本堂は写っていない。灯篭と手水場の屋根瓦が木陰に隠れているという構図である。この春、指図
堂にこの椿を探したが、なかった。30年も前の写真である。無理もない。しかし、一本の木のこ
とではあるが、せっかく早春の指図堂を奥床しくも華やかに飾っていたのに残念である。

 朝陽指図堂.jpg


□二月堂のザクロ
柘榴(ざくろ)の花は写真にするのが意外に難しい(と思う)。朱に近い赤色は良く目立つが、ひとつ
ひとつの花は小さくて、開いても咲いたと言うよりは「裂けた」と言ってやりたくなるような、かわ
いげのない花なのだ。しかし、肉厚なプラスチックのような質感や単純な形に不思議な魅力も感じ
る。タコウインナーと表した俳人がいたが、そうそう滑稽なコミカルな花なのだ。

 二月堂湯屋ザクロ.jpg

それよりも二月堂のザクロは、土地が痩せているからだろう、一つ一つの花が小さいし、木も小ぶ
りで痩せている。一度土を起こして、堆肥をすきこんでやれば見違えるように花が咲くのだが・・・
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2010年06月04日

葛城古道 棚田の橋本院

葛城古道を高天彦神社から高天の集落を抜けて400mほど行ったところに高天寺橋本院がある。
院公式HPの縁起を見ると、養老二年(718年)高天山(金剛山)への登拝に訪れた僧行基が開いた
一精舎(建物)が始まりとされる。由緒正しい古寺ではあるが、南北朝時代に戦乱により消滅した。
橋本院は江戸時代延宝5年(1677年)に高天寺の子院として復興された寺だが、現在の堂宇は
全て最近建てられたもののように見える。

 金剛山麓橋本院.jpg

 
しかし、旧い由緒より、橋本院のある場所の方が自分にはもっとこの寺を魅力あるものにして
いるように、感じる。
寺の西側すぐそこに迫るように聳え立つ標高1125mの霊峰金剛山。東側の深く険しい谷。
北に向う葛城古道が谷に駆け落ちる寸前の棚田の端に寺はある。今でこそ葛城古道という名称が
与えられ、休日ともなればハイカーも行き来するが、恐らく半世紀前までは、墓場を訪れる村人
か、僅かな修験者が迷い込むような秘境、或いは隠れ寺であったにちがいない。そんな秘められ
た雰囲気の場所なのだ。行基でなくとも、だれだって霊地と感じるような、特異な場所なのだ。

 棚田前橋本院本堂.jpg


今日は紫陽花を撮りに来たのだが、まだまだだった。この高天の自然は、平地より一か月遅
れで季節が移る。田植もこれからのところが多い。

 夏紅葉.jpg 
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2010年06月02日

山の辺の道 初夏赤い花

長岳寺から衾田陵に向う道沿いの畑に赤色のかたまりが見えた。
赤い色は山の辺の道のこの時季に珍しい。
なんの花だろう。
近づいてみると芥子の群生だった。
紙のように薄い花びらは、
龍王山の頂から届く朝の光を透して、赤色を更に赤くしている。
赤い色は人を強くひきつける。

龍王山と芥子の花.jpg 

 
朝一歩この道を踏む
この道の先に何かある
わらない
考えずに歩く
前に向って歩く
見えてくるものに向って歩く

 鳥居の影つくる.jpg 
 石仏十一面観音像.jpg
 
萱生町の天満宮まで来た。
古墳に造られた神社。かつては寺のあったことがわかる。
小さな境内のあちこちに散らばる石仏がそれを教えてくれる。
十一面観音石像。いつも柔らかな笑顔を絶やさない。
この町に住む誰よりも長くそこに居て、訪れる人に、変らない優しい気持を与えてくれる。
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2010年06月01日

初夏柳生街道

初夏と言うには肌寒い曇り空、5月27日、円成寺(えんじょうじ)から大柳生口に至る柳生街道を
往復。僅か片道2q足らずの道のり・・・・

 円成寺拝殿夏紅葉.jpg

子供の頃は「柳生」って言えば、必ず「じゅうべえ」って続けるものだったけど、この頃はタマネギ
頭の柳生博さんを連想してしまう。がしかし、あの柳生さん、実は柳生一族の末裔だという。
ちょっと驚き。

 谷田独田植.jpg
 

この5月のはじめに円成寺から柳生の里までを歩いた。その途中で見て気になっている棚田のそ
の後を見たくてまたやって来た。
棚田は、田植え後のまだ水面が目立つ頃が絵になる、と思う。水を張った田の面に、山影や、朝陽
や夕日、ことによると「田毎の月」を見ることができるかもしれなから。

 道標.jpg

しかし、今朝見たこの田んぼはまだあたかも田植えが終わったばかりのように見える。多分、この
五月というものは冷たい日が多かったからだろうか。いや、ことによると少し早く来すぎたのかも
知れない。

 柳生街道石灯篭.jpg

 
柳生街道は奈良春日の杜から柳生の里までのおよそ20kmの道のりを言うが、今日歩いた円成寺
から大柳生口までの2kmは、これと言った見所のないトレッキングコースに過ぎない。東海自然
歩道の一部なのだ。
歴史街道たって必ず史跡を見られる訳ではない。それでも草木や花など四季折々の景色を楽しむ
ことは出来る。

 山ツツジ.jpg 田跡杜若.jpg

しかし、前回見つけた「稚児百合」の群生はどんなに探しても見つからなかった。
この道は農道でもある。私にとっては貴重に思える草花も田舎に住む人々にとって、はびこるばか
りの山野草は単なる「雑草」に過ぎないのだろう。
最近草刈をした後のようで、道はきれいさっぱりと姿を変えていた。

 峠道祠有.jpg

円成寺から山道に入ったすぐのところに、小さなほんとに小さな祠がある。
山道を歩いていると、思いがけず神様を祀る祠に出会う。この祠、峠のような坂の頂上に唐突に置か
れているように思えた。
往路ではそこに置かれているわけが解らなかったが、帰り道にその理由が解った。
その祠の置かれた道のがけ下に、取水口があったのだった。
一筋の流れも、溜池もない山上(のように見える)田んぼに水を引くための、取り入れ口が崖下にあっ
たのだった。

 初夏野山奔放.jpg 

農業に携わる土地の人々にとって、山や川は、生活を安堵する水を生む神聖な場所なのだ。
そういえば、祠に向って一拝してから通り過ぎて行く土地の男や女をよく見かける。平穏に過ごせる
感謝の気持ちこそが信仰の基本なのだ。
今日初めて腑に落ちた。
posted by ハマー at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市東郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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