2010年05月29日

東大寺南大門再興

東大寺南大門は、歴史的建造物としてもっと注目を集めてもよさそうなものだが、大仏殿への通り
道にあるデカイ門くらいの評価しか得ていないようだ。世界遺産東大寺は、鹿や大仏さんの人気が
高く、「門」の認識が低くても大した問題ではないのかも知れない。

 東大寺南大門早朝.jpg

和辻哲郎が著書「古寺巡礼」の中に興味深い指摘を残している。
『まず南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のように狭隘なところに立って
いては、その大きさはほとんど殺されていると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門
を望んだ人は、ある距離を置いて見た時に初めて現れてくる異様な生気に気づいているだろう』

 望中門南大門.jpg 

異様な生気とはなんだろう。しかし言われるように遠くから南大門を見たいものだが、和辻哲郎が
東大寺を訪れた大正七年(1918)年とは違い、現在では伽藍周りは背高な樹木に覆い隠され、大仏殿
も南大門もかろうじて屋根が見えるばかりで、思うようには望めない。ただ、バス通りから参道に
入った土産物屋あたりで見る南大門の雄姿は壮観である。もっともこのポイントあたりは行き来す
る観光客でいつも大変な混雑で、遠くを眺めていると人と衝突しそうで、危なくてしょうがない。
また愛想の良い鹿のお出迎えに気をとられて、直前まで南大門があることに気付かないこともある。

 南大門円柱.jpg

このポイントを見つけたのは、『大華厳寺』の扁額に初めて気づいた時だった。松の枝葉に見え隠
れする南大門の二階部分に掲げられたこの額は、横4.5メートル、縦1.5メートルの総檜製の大きさ
のもので、旧家に上げられた真新しい表札のように目立っている。
この扁額は2006年10月13日「重源上人八百年御遠忌法要」にあわせて復元除幕された、ものであり
まだ年数もたっていないからだろう。
かつては弘法大師空海の筆による額が掲げられていたそうだが、わけあっていつの間にか下ろされ
たという。現在の扁額に書かれている「大華厳寺」の文字は聖武天皇の写経から集字したものである。

 南大門大仏様式.jpg
 

現在の南大門は鎌倉時代の正治元年(1199)に俊乗坊重源が復興したもので、その姿に鎌倉様式の大
仏殿を偲ぶことができるという。基壇上木造部分の高さだけで25.46mある。幅29m(五間三戸)あ
り、高さにおいてわが国最大の山門である。屋根裏まで達する大円柱18本は高さ21mあり、山口県
で伐採された木材は約一年かけて搬送された。

 南大門木組.jpg 

改めて南大門を見える限り観察して見たが、創建から800年以上経ている建物とはとても思えない。
鎌倉時代の風潮を汲んだ堅牢な力強さを感じさせる。質実剛健という印象である。

最初の東大寺南大門は平安時代962年(応和2年)8月台風で倒壊した。
現在の南大門は、東大寺再興の勧進職に選ばれた重源が、1180年に消失した大仏および大仏殿を含
めて再建復興させたものである。重源が勧進職に選ばれたのは61才の時(1181年)で、南大門の竣工
を見た時は84才(1203年)になっていた。現代流に言えば老後の23年間をボランティアで東大寺再
興に費やしたことになる。

 南大門重源風通.jpg
 

驚くべき粘り、驚くべき実行力である。役目を成し遂げたその僅か三年後に87才の生涯を閉じる。
南大門は重源が自らの人生を賭した、日本への遺産と言っても良いだろう。国家の権力ではなく、
個人の信念と知恵が創りあげた偉大な価値である。東大寺南大門を見るとき私たちは一人の重源を
知るべきと思う。

この日東大寺では、東塔の再建を願う新別当の「晋山式」がとりおこなわれていた。
南大門から大仏殿への参道を風に乗って吹き抜ける重源の魂を見た、そんな感じがした。
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2010年05月26日

矢田寺 あじさい一輪の花

別名「あじさい寺」と呼ばれる矢田寺は、日本でも一二の景観を誇るあじさい名所と言われている。
あじさいの花、今年は気温の低い日が多いせいか、少し色づくのが遅れているようだ。まだ花房も
小さいし、花色は白緑で、これが両手の平にも収めきれない鮮やか色の大輪になるとはとても思え
ない。

 矢田寺独紫陽花.jpg

昨年の六月は空梅雨と言っても良いほど晴れた日が多く、あじさいが今ひとつ冴えなかったことを
覚えている。今年はこれまでのところ雨の日が多いので、きっとすばらしい花を見せてくれるだろ
うと、今から楽しみだ。

すでに鮮やかな一輪の花を咲かせている一株がある。どういう訳でこの一輪だけが他の多くに先駆
けて咲くのか植物学的なことは知らないが、きっと、気の短い花見客をがっかりさせない花の精の
心遣いであろうか。

 北僧坊本堂屋根.jpg
 北僧坊から見る矢田寺本堂切妻屋根の「六葉懸魚」 

今日(6/26)北僧坊で開催された、手作り精進料理付きライブ「クリスタルボウル&ディリュジドウ
ヒーリング演奏会」に参加した。お寺で精進料理を頂くのは五十年前に岐阜の谷汲山華厳寺以来の
ことである。こちらのお庫裡は、大学名は忘れたが哲学科で学ばれ、卒業後に渡印して更に修学さ
れたという、仏教の造詣に深い魅力的な女性である。本日の料理は全てこの方の手作りで、すごく
美味しかった。できたら彼女の「お説教」を聞けたら良かったのだが・・・・。

 北僧坊大師像.jpg
 北僧坊前大師像 矢田寺は真言宗の古寺
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2010年05月24日

「麦の穂たつ頃」長岳寺点景

山の辺の道にある寺の中で長岳寺は最も整った境内・伽藍を持つ、また千二百の歴史を感じさせる
雰囲気のある寺である。
この寺は、奈良から京都への遷都間もない824年(天長元年)、淳和(じゅんな)天皇即位の時に、
国家鎮護・皇室繁栄を願って、弘法大師空海が大和神社の神宮寺として創建したとある。

 大師苔生立像.jpg
 境内を見下ろす弘法大師石像 
 
新たな寺を建てるのに際してこの土地を選んだ理由は、一つには京都に住む皇族・貴族にとっての
古里である藤原京や飛鳥に近い場所であったこと。もう一つの理由は、長岳寺の背後にそびえる
龍王山(586m)が、真言密教修験の場としてふさわしい山であったからと想像される。

 龍王山霧中(2).jpg
 この日近畿地方は深い霧につつまれた


今回5月21日に長岳寺を訪れたが、不思議なことに何故か偶然にもいつも21日にここに来てしまう。
21日は弘法大師の入寂した(死んだ)日にあたり、全国の真言宗の寺において毎月この日には何らか
の行事がとりおこなれる縁日なのだ。
空海が私を呼び寄せるに違いない。
『咄哉同志 何不優遊』 
どうしたのです、同志よ。どうしてゆったりと山に遊ばないのか。

 拝堂石段.jpg

調べてみると、二十四節気では5月21日は「小満(しょうまん)」とある。
小満とは、「秋に蒔いた麦などの穂がつく頃で、ほっと一安心(少し満足する)という意味です。
かつては農作物の収穫の有無は人の生死にかかわる問題でした。そのため、麦などに穂がつくと
『今のところは順調だ、よかった』と満足したことから小満という名前がついたようです。」と
説明されている。

 小満麦穂.jpg
 大麦の緑穂


今、宮崎県では家畜の口蹄疫感染が大変な問題になっている。
法律により感染した牛、豚、山羊などは伝染の拡大を防ぐために全頭殺処分にしなくてはならない。
畜産農家にとっても、また地域の人々にとっても、まさに生死にかかわる問題となっている。
「小満とは」などと悠長なことは言ってはいられない日々を送られていることであろう。
畜産農家が将来に向けて憂いのない日を迎えられるよう政府による細大の対応を願うばかりです。

楼門脇映白壁樹影.jpg
白壁に朝陽が樹影を映す


長岳寺にはもう何度も撮影に訪れているので、今更新に写真を撮れるものだろうかとつい逡巡して
しまう。しかし、長岳寺は山の辺の道にある寺の中ではもっとも絵になるし、まだ何か見落として
いるものがあるような気がする。それに、自分自身この一年の間にものの見方や写真のスタイルも
変って来ているので、これまでと違う新たな何かを撮ることができるような気がして、四季折々に
訪るのだ。

 放生池杜若.jpg
 放生池周り杜若の花が見頃


しかしこの日はなんと地元の小学校二校の写生会の予定が入っていたらしく、入山して撮影を始め
た直後から、境内は小学生の集団に完全占拠されてしまった。

写生に入る前に、美術の先生が子供たちに写生の方法をレクチャーしていたが、「本堂をバックに」
とか「池の鯉を入れて」とか、「鐘楼を中心にして」とか、かなり具体的な構図を指示しているのには
驚かされた。(もっと自由にさせたらいいのに)

 地蔵微笑.jpg
 お地蔵さんのアップもいいものだ

もっとビックリさせられたのは、小学生たちが鉛筆による「下描き」はせずにいきなり黒色のサイン
ペンで画用紙に描き始めたことだ。その後もずっと見ていたわけではないが、きっと「色」はカラー
ペンで着けるのだろう。場所柄水彩絵の具を使うことの出来ない理由があるとは思うが、せめてデッ
サンは鉛筆と消しゴムを使って欲しいなと、老婆心ながら言いたくなってしまう。
こんな時つくづくジェネレーションギャップを感じてしまう。
posted by ハマー at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

饅頭の神様 奈良林神社

「饅頭の神様」(ごとき)に驚いていては神社を語ることはできないが、改めて、日本の「神様」
とはナニモノであろうかと、少なからずカルチャーショックを受けている。 
「饅頭の神様」は、近鉄奈良駅から西に100mほど行ったやすらぎの道沿いにある漢國(かんごう)
神社の境内社として祀られている。

 漢国神社拝殿.jpg

この神様の誕生はそれほど古い話ではない。明治維新以来仏教に取って代わって日本宗教の表舞
台にあった神社は、第二次世界大戦後、国家の宗教(神道)から国の庇護を離れた宗教団体に変った。
神社の生き残りを模索していた漢國神社の故和田次郎宮司は、かつて神社の近くに住んで饅頭を
作っていた林浄因を饅頭の神様にしようと考えついた。そして饅頭業界や林家の関係者の賛同を得て、
昭和24年林浄因や子孫である宗二らを日本の饅頭の神様として祀ったのが始りである。

 饅頭塚.jpg


昭和31年に「林神社」として独立した。現在の社殿はその時に造営されたものである。
二段重ねの饅頭が狛犬に代わって(?)神様の林浄因を護る。

 林神社神様饅頭.jpg

林浄因は現在の中国・杭州の出身の禅僧で、日本の南北朝時代1349(貞和5)年に家族と一緒に
来日し漢國神社の前で中華饅頭を作って売っていた。しかし思うようには売れなかった。そこで、
禅寺でも食べられるようにひと工夫して、中に肉ではなく小豆を餡にして薄皮で包んだ饅頭を考案
して売り出した。これが大変な評判を得て「奈良饅頭」と呼ばれ、行列のできる饅頭屋として大繁
盛した。

 漢国神社拝殿釘隠.jpg 

この「奈良饅頭」は現在でも奈良の老舗和菓子店「千代の舎本家」で買い求めることができる。
この店のことは、この春、立杭焼でよく知られている兵庫県篠山市今田(こんだ)で知り合った、
旅館・立杭荘を管理しているオオガミさんから聞いた。オオガミさんの従兄弟が嫁いだ先がこの
「千代の舎」で、是非訪ねて行ってくださいと言われていたのだ。漢國神社から千代の舎を経て
立杭のオオガミさんにもどり着いた、不思議な縁である。

 
漢國神社で受けたカルチャーショックはともかく、日本の饅頭のルーツを知ったことはとても
意義あることであるが、「神様」が神社ビジネスのような経過で造られるとは、驚きである。
去年の夏、桜井市の大神神社で「辰五郎大明神」という大阪の豪商「淀屋」を祀った神社に迷い
込んだことがあったが、その時も日本の神様について考えさせられた。つまるところ、日本の神
様は「人間」を神格化したもの。そして神様はかなり狭い社会集団に属するというか、だれだれ
にとってのなになにの神様という身近な関係にあるものなのだ。そして、今後も神社には色々
な神様が誕生するに違いない。これまでも八百万(やおよろず)柱の神様がいたのだが、今では一
体どのくらいの神様がいるのだろうか。

 イメージ漢国神社.jpg
 

ある宗教人が言っていた。「キリスト教では神が人を創った。仏教は人が仏を創った」と。
この伝を借りるならば、日本では「神も人が造る」ということが言える。
では一人の人間が何柱の神様を持っているか。
学問の神様、小説の神様、エンタの神様、写真の神様、トイレの神様、小説の神様、風の神様、
演歌の神様、エレキの神様、我が家のかみさん・・・・
数え切れないくらい、神様は身の回りにおられます。

posted by ハマー at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月22日

東大寺大湯屋季節はずれの雪景色

東大寺大湯屋のすぐ南にある小さな丸い池のあたりが季節はずれの雪景色を見せている。
実は、淡雪のように降りしきるのはタチヤナギの種子を包んだ白い綿毛。
二株のタチヤナギから淡々と降り続く雪のような綿毛で、池の面は白いシーで覆ったみたいだ。
ほとりの地面もすっかりこの綿毛に覆われ、まるで淡雪が積もっているようだ。

 大湯屋降淡雪.jpg 降り続く綿毛.jpg 



マクロレンズを通して覗いて見ると、綿毛のような微細な短い糸であることがわかる。
その中に1o程の種子が黒ゴマを散らしたように点々と見える。
タチヤナギは子孫となる小さな種子を綿毛に包み、風に乗せて遠くへ遠くへと飛ばしているのだ。

 覆綿毛淡雪.jpg ムラサキサギゴケを包む綿毛.jpg 


風が吹くと、綿毛は大空に向って次々と飛び出して行く。地面に落ちた綿毛も僅かな風に煽られ
て上へ上へと舞い上がる。この日、広い東大寺の境内のどこででも、風に舞うタチヤナギの綿毛
を見た。

 綿毛風に乗る.jpg 


タチヤナギは日本在来種で、日本全土の丘陵地帯から山地帯の湿原や川原に分布する。
東大寺大湯屋前のこのタチヤナギも、どこかからか風に運ばれて来た綿毛が運よく舞い落ちたと
ころがこの池のはたで、陽もよくあたるここですくすくと育ったのであろう。

 タチヤナギ雄花綿毛.jpg


10〜15mに育つタチヤナギは、頭上はるか上の枝先に花がつくのでなかなか目に付かない。
しかし初夏のいっ時、地面を真っ白に覆う綿毛が、その存在を教えてくれる。
今日一ヶ月ぶりに東大寺に来たのは、鐘楼脇にある開基堂を見に来てのことだった。こういう偶然
になにか「縁」というものを感ぜざずにいられない。
posted by ハマー at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月21日

磐之媛陵の杜若

磐之媛命陵は平城京の北外に集中する古墳の一つだが、初夏の頃、濠に咲く杜若(かきつばた)の
花がこの陵墓を特別なものとして印象づけている。紫色の花に、磐之媛のイメージを重ね見てし
まうからだ。

 s-P5197514磐之媛命陵濠杜若.jpg


磐之媛は仁徳天皇の后だが、その晩年は必ずしも恵まれた境涯ではなかったようだ。
記紀の中では「嫉妬深い女」として決め付けられている。というのは、天皇(夫)が自分以外の女
と仲良くしていると地団太踏んで荒れ狂う、つまりヒステリー症の女として記されている。

 s-P5197598濠雨滴.jpg

 
晩年というのは磐之媛が后になってから28年後のことだが、彼女が公用で熊野旅行に出た隙を
狙って、仁徳天皇は、以前から目をつけていた黒日売(くろひめ)という土地の豪族の娘を宮中に
入れた。その事を旅先で知った磐之媛はそれに激怒して、宮廷(難波)には戻らず山城の筒城宮
(京都府京田辺市)に行き、五年後その地で生涯を閉じる。

 s-P5197587磐之媛命陵濠杜若.jpg


磐之媛を皇后に迎えたのは、仁徳天皇が57歳の時だった。そして別に黒日売を自分の女にしよう
とした時の年齢は85歳。いくら古代とはいえ、仁徳天皇の年齢を聞くと、自分にはなんか
破廉恥な感じがする。女性が政争の道具、あるいは性的対象に過ぎなかった時代であったとして
も、「人」としての当たり前の感覚を持ってしまった磐之媛が哀れに思えてくる。

 s-P5197573杜若雨降濠.jpg


雨が降り始めた。剣先のように尖った真っ直ぐな杜若の葉は、雨の滴の重さに垂れ下がり、優し
い曲線を見せている。雨に濡れて花も葉も深く濃い色に変ったようだ。陵墓の濠の水面を打つ
雨音が自分も景色も包み込む。




posted by ハマー at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐保路・西ノ京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月14日

桧原神社から玄賓庵の道

桧原神社から玄賓庵を通り大神神社へ続く山の辺の道は、この道筋の中で最も古代の面影を色濃く
感じさせる区間と思う。
禁足地である三輪山麓の森の中を通る、そこに人の住いはない。
いくつかの神社と一つの寺があるだけだ。
きびしい道ではない。しかし、仏教渡来以前の大和における根幹的交通路であり、現代人にとって
神代へ通じる道、「大和」への通路として今にある。
1500年間以上にわたり人が行き来し、踏み固められた一本の道としてある。

 玄賓庵へ向う道.jpg
 

桧原神社へはこれまでに何度も来ている。
写真家故入江泰吉氏の写真に魅せられて、何度も写真に撮った場所だ。
しかし、かつて見た入江氏の写真のイメージに捕らわれて、それから離れることができない。
自分の目で見たい。それが、何度もここに足を運ばせる理由なのだ。

 朝陽桧原神社.jpg 桧原神社結界(二).jpg

 
桧原神社の入り口には大きな注連縄(しめなわ)が掛かっている。
今日も、注連縄を支える二本の柱の間に遠く二上山が見える。足下に何かを感じた。見ると、朝陽
を受けた注連縄の影が色濃く映っている。「これだ!」この景色だ。

昨年この神社は、注連縄と柱が一新され、石段下の路面も一部自然石で舗装され、溝の蓋もステン
レス鋼の新しいものに変った。
太古のイメージは剥ぎ取られもうない。これまでならシャッターは押せなかっただろう。
だけど、自分は今、目の前の景色の中に、太陽の光が創った注連縄の影に、神を感じ見た。

 小林秀雄山の辺の道.jpg

 

桧原神社と玄賓庵の中ほどに、文芸評論家小林秀雄氏揮毫の石の道標「山邊道」が立っている。  
この石碑は山の辺の道に三基あるという。もう一基は金屋で見た。残る一基は穴師から車谷に向う
道筋にあるらしい。
しかし玄賓庵に向う林内に立つ一基が最もよく知られているのは、やはり入江泰吉氏の「蒼古の色
濃き玄賓庵への道」と題された一枚の写真に寄るところが大きいだろう。


書道家榊莫山の著書「大和千年の路」の中「山の辺の道」の章に、『ほんとにせまい道の傍らに、
小林秀雄の石の道標「山邊(辺)碑」が立っている。むかし、このあたりは蒼然たる松の林におお
われていた。 写真家ならずとも、誰もがシャッターを切りたくなる風景だった。それが、いまは明
るくなりすぎて、誰もシャッターをきろうとはしない風景になっている。松の大木がことごと
く枯れはてて、小林秀雄の小さな道標だけが淋しげに立っている。』と紹介されている。
しかし、榊莫山氏がなんと言おうと、ここに来れば、どうしてもカメラを向け構図を練りたくな
る。そして、今日もシャッターを押した。しかし、あの入江氏の写真とは違うアングルを見つけるこ
とはできなかった。

 玄賓庵山の辺の道.jpg
  

玄賓庵に着く。
木々に覆われ黒く光る石畳の道と白壁土塀という門前の雰囲気は、山の辺の道の中でも特に趣の
ある場所で、今日も写生する一団に出会った。人気のスポットなのだ。
玄賓庵(げんぴんあん)の由緒は旧く、平安初期の時代に遡る。もと三輪山桧原の谷にあったもの
を、明治初年にこの地に移した。今ある本堂はその後新しくされたようだ。

 s-P5127331玄賓庵築地石畳.jpg 玄賓庵黄菖蒲.jpg 


境内は本堂のほか石仏参拝の池泉回遊式庭園もあるが、この時季は少し荒んだ感じを受けた。
檀家のいない寺は、住職次第でその景色印象は全く違ったものになる。しかもここは今、無住の寺
なのではなかろうか。


 藤天昇.jpg
 

□山の辺の道を飾る花木
玄賓庵を後にして、大神神社へ向う。今朝はこのところの暑さと打って変わって、寒い。暦の上で
は立夏を過ぎたが、まるで冬に逆戻りしたようだ。
それでも植物にとって季節は間違いなく初夏のもの。藤の花は今が見ごろ。

 春紫苑.jpg
 

野には春紫苑(はるじおん)が柔らかなピンクの花を咲かせている。
この花の繊細な花びらの数は200枚以上あるという。以前、花の時季が終わる頃、小さな小さな
パラシュートのような種が風に流されて一斉に舞い上がる光景に出会ったことがある。呆然とその
壮観さを見守ってしまった。カメラを構えたその後風は吹かなかった。

 桐落花.jpg 桐の花.jpg 
 

桐の花をよく目にする。遠くから見ると木に絡み付いた藤の花と見間違えそうだが、扇形に広がる
樹形にその違いがわかる。
この春初めてその落花を見た。桐といえばまず箪笥や下駄をイメージしてしまうし、花札の桐のデ
ザインイメージが強すぎた。だが、紫色のこの花を見て全く心象が変った。桐は高木になり過ぎる
ためか花を観賞する習慣はないようだが、一度花瓶に活けてみたい花でもある。

 初夏竹林.jpg
 竹はこの頃黄葉し、古い葉を一斉に落とす
posted by ハマー at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月11日

奈良町のサクランボ

「奈良町」でサクランボのなっている木を見られるなんて思いもよらなかった。
そもそも木になっている本物のサクランボを見たのが初めてのことだと思う。

最初にサクランボを見つけたのは、近鉄奈良駅前、高天の交差点から南に下るやすらぎの道
沿いにある伝香寺の前を通り過ぎようとした時だった。
白壁土塀の屋根瓦越しに無数の赤い小さな点々が目についた。葉の形や樹皮から判断するに、
どうやら桜の木の実らしい。
「桜の実ってこんなにキレイなものなんだ!」「これまでどうして桜の木にこんなにきれい
な実がつくことに気がつかなかったのだろう」と思わず考えてしまう。


伝香寺白壁土塀屋根サクランボ.jpg 
 

「サクランボ?」なのではと思い至ったのは、再びその赤い実を別の場所で発見した時だった。
「奈良町」西新屋町にある元興寺小塔院跡で、今度は、手の届くところにある赤い実を見た。
サクランボと思わなかったのは、その実が、店頭で売られているモノに比べて、ひと回りも
ふた回りも小さかったからなのだ。
近くの椅子に腰掛けていた男性に「食べてもいいかな」って断り、赤くよく色づいた一粒を
選んで食べてみた。やや酸っぱいこのみずみずしい食感は、サクランボと同じだ。


 サクランボ.jpg
 

『朝、日が昇るとヒヨドリがサクランボを食べに飛んで来るよ。オババが鉦をチーンと鳴らすと
ビックリして一斉に飛び立つのさ。夕方また食べに飛んで来るよ。』

元興寺小塔院跡を守っているオババが言うには、このサクランボの木は今より40年前に本人が
買い求めて植樹したという。
年を経ているそのわりに幹は細くて直径20cmくらいだろうか。
実をつける果樹というものは樹齢を重ねても他の木に比べて太くなれないのだろうか。

 
元興寺小塔院跡サクランボ.jpg 


調べてみると、サクランボの木は花を鑑賞する桜のそれとは異なる。
ミザクラ(実桜)の実であり、日本で食用にされるサクランボはほとんどがセイヨウミザクラの
仲間に属する。
桜の代名詞のようになっているソメイヨシノどうしでは結実しない。実をつけることも少ない
のだが、もし実が付いたならそれは別の桜、山桜や大島桜とかの雑種ということになる。
サクランボは「桜桃」ともいうが、19世紀初頭まで日本では「ユスラウメ」と読んでいたそう
だ。「ユスラウメ」という言葉もなかなか美しい響きだ。


 御霊神社黄色牡丹.jpg 


元興寺小塔院跡には江戸時代に建てられた虚空蔵堂がある。ただ一宇のみだ。
境内は小公園のようになっている。牡丹の花が終わり、ちょうど今は端境期だが、もうしばらく
するとシャクヤクの花が開くと言う。おばばはちょうど今、葉が枯れはじめたスイセンの球根を
掘り出しているところだ。

『今朝最後の黄色い牡丹の花を摘んだところさ。実をつけると株が弱るからね。それはきれいな
花だったけど、(見れなくて)残念だったね。もうしばらくするとシャクヤクが咲くからまた
見においで』


おばばに別れを告げて次の目的地に向う。偶然にもすぐ近くの御霊神社で黄色の牡丹を見ること
が出来た。黄色というよりクリーム色で、ほんとに優しい美しい花だった。

posted by ハマー at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月10日

圧巻 奈良称名寺の石仏群

奈良・称名寺の石仏群がすごい。
本堂の右手に、無縁仏2000体が、隙間なくすし詰め状態に展開する。
称名(しょうみょう)寺は茶道の開祖村田珠光ゆかりの寺としてよく知られる。それに反してこの
千体仏のことはあまり知られていないようだ。寺のHPでもその説明は十数行にとどめられている。
※称名寺HP
http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/index.html


 首折地蔵石仏群.jpg 無縁仏群六地蔵.jpg


千体仏と呼ばれるこの石仏群は、称名寺境内裏手の墓地に向う手前の通路脇にあり、現檀家の
ご先祖様より優遇?されている。「厄除千体地蔵」として広く信仰を集めている(らしい)。


 称名寺地蔵石棺仏.jpg


称名(しょうみう)寺は近鉄奈良駅にすぐ近い、旧くからの住宅街の只中にある。
奈良の古寺は門前に旗指物を掲げてその存在をアピール喧伝していることが多いのに、この
称名寺は茶道・村田珠光ゆかりの寺としてのプライドのせいか、あるいは檀家や信徒の家々に
遠慮してか、それとは目立たない。奥床しく上品な佇まいである。

鎌倉時代1265年創立の古寺であるが、堂宇は1802年の再建で、山門や本堂正面の扉はごく
最近に誂えたようで、旧さ古色はない。


 日輪山称名寺山門.jpg
 


二千体の無縁仏は室町期のもので、東大寺大仏殿を放火消失させたことで悪名高い戦国武将
松永久秀が、多聞城を築く時(1560)、近在の石仏1900体余りを石垣造りに用いたもの。
その後、落城・破却(1576)のため散乱した石仏を、称名寺第19世の観阿上人が蒐集し、合祀した
と伝えられる。多聞城跡は現在奈良市立若草中学の校舎に変り、校門の脇に、今でも数十体の
石仏と多くの小墓石が取り残されている。
※ 多聞城は’09年8月1日既訪
 http://naranokoto.seesaa.net/article/124729118.html

称名寺には、無縁仏以外に、地蔵菩薩石像他多くの石仏がある。簡素なお堂に釘打ちされた木札に
墨書された名称を見ると「歯痒地蔵」、「腰痛地蔵」と解読できる。
三体が祀られたお堂の木札の墨書は読み取ることが出来ない。中央は梵天像、左が笠地蔵、右は
半跏思惟像の三尊と思うが、正しいかどうかわからない。


 称名寺歯痒・腰痛地蔵.jpg 称名寺石像三体仏.jpg 


コンクリート壁の覆屋に安置された四体の大きな石仏、一番右手のモノは高さ2m位ある。
左の2体の地蔵菩薩は、称名寺HPに記述されている『この地蔵石像は、大和盆地特有のもので
笠を被っておられるのが本来のお姿であるが、城壁(石垣)に使用するために取外して集められた
と考えられる』という文言の地蔵石像を指していると思う。
漆喰で補修してまで石像を元のお姿に戻された寺僧の篤い信仰心に心打たれる。「本来のお姿」
というのは、上の三尊像の左端の小ぶりの地蔵のお姿がそれであろう。


 称名寺石祠地蔵菩薩.jpg 無縁仏守護三体.jpg


称名寺の2000体の石仏、元はといえば人の墓石である。無縁仏となり、城の土台として流用され、
また突き崩され散乱する。無名の人々の過酷な運命を象徴する話である。そしてそれを哀れみ、
一体一体拾い上げ、寺に運び集め供養する観阿上人の物言わぬ憤りを感じる。


 紫露草咲石仏群.jpg
 

石仏群の中に紫露草が咲いていた。ツユクサの仲間で原産地は北米、日本には明治初期に渡来した、
帰化植物。背高な姿に風雅な感じを受ける。 花言葉は「尊厳」。
紫の小さな花とその意味が無縁仏たちにとてもふさわしく感じるのだった。
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2010年05月08日

勘違い雨後のたけのこ

つい昨日まで「雨後のたけのこ」の意味を取り違えていた。
なぜ間違えて覚えていたかと考えてみると、小学校三年の時、国語の時間に先生が
「雨後のたけのこというのは、成長が早いということです」
と教えてくれたこと以来なのだ。それでこの歳になるまで50年以上のあいだ「成長の早いことの
例えなのだ」とそう思っていた。それが実は、「同じようなことが次々と起こったり、表れたり
すること」という意味だったとは、・・・少しショック。


竹くらべ.jpg


取り違えていた諺といえば「情けは人のためならず」もその一つ。
「自分のためだと思い、人にはやさしくしろ」という意味と知ったのは、これもそれほどの
昔ではない。
ずっと「人に手を貸してやるのはその人のため喜ばしくない、迷惑なこと」と理解していた。


 春竹林.jpg


文字を取り違えていた諺もある。「そで振りあうも他生の縁」の「他生」を「多少」と思って
いた。「人との出会いを大事にしなくてはならない」という意味は、おおよそ理解していたが、
とはいえ「他生」と「多少」ではその重みがというか諺の次元が違う。


朝筍.jpg


たけのこが、雨後に一際多く生え出てくるのがほんとかどうかは知らないが、この時季の竹林を
歩いてみると、次々と地中から顔を出しているたけのこに驚かされる。
農家もあまりにも次々と出てくるたけのこには困っているようだ。全て掘り起こして市場に「筍」
として出荷することも出来ないのだろう。
伸びるがままにしておくわけには行かないので、20cmから30cmくらいの大きさのたけのこを、
根元から切り倒して、その場に捨てておく。かたちの良い筍を来春も収穫するために、親竹の数
を制限しているのだ。
竹林の中を「番傘をさして通り抜けられる」くらいの竹と竹との間隔がベストという。
※番傘の直径は約110cm。


寺荒廃竹林.jpg
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2010年05月05日

明日香村岡寺のシャクナゲ

明日香村の集落から山林に入った山の斜面に岡寺はある。
仁王門を抜け、急な石段を上がる。伽藍の石畳が途切れた先、檜や杉の樹木に覆われた薄暗い
森の奥一面にシャクナゲが静かに咲いていた。尾根の谷間に白や薄桃色の淡い花色の帯が、
流れ下るように溢れていた。


 石楠花流下.jpg


5月4日、シャクナゲの花を見るために、奈良県明日香村の岡寺を訪ねた。
一昨年の12月、この寺に参拝したとき、寺の奥の小道の両脇が、石楠花の細い葉に覆われて
いるのを見た。そのときに、シャクナゲの花に覆いつくされたこの景色を思い描いていた。
この暗い森が、赤や白の石楠花の光に満たされる光景を思い描いた。今日見たこの景色は、
まさに思ったとおりの景色だった。


 樹幹石楠花.jpg
 

シャクナゲは山地や渓流のほとりなど高湿地の土地に自生するとある。
岡寺のある所は、奈良盆地の南端、明日香村集落東縁の急勾配の山内になる。伽藍は山の
尾根と尾根の間の谷間にあり、山に降った雨はこの谷間に集まり流れ下るだろう。
このところは晴れの日がつづいているが、山奥から下りてくる細い流れから、かすかな水音が
聞こえてくる。


 鳥居坐像石仏.jpg 石仏羊歯野草.jpg
  


森の地面は見渡す限り羊歯やコケに覆われ、山道に祀られた石仏にも、緑色のコケがついて
いる。ここが、シャクナゲの木の好む、高い湿度の空気に満たされていることがわかる。
山内には3000株ものシャクナゲがあるそうだが、ここまでの大群落にするにはかなりの年月と
努力があってのことと思う。


 岡寺花シャクナゲ.jpg

 
桜、シャクナゲと続く花景色は、これから夏に向ってツツジ、紫陽花と絶えることがないという。

岡寺HP
http://www4.kcn.ne.jp/~balance/index.html


山内の所々に石仏が祀られている。石に彫られたごく小ぶりの半跏思惟像、なんてかわいい
お顔だろう。また、風雨に晒され色褪せた涎掛けもいい。
この石仏、これまで見たものの中で一番キュートに感じる。誰の手になるものか判らないが、
岡寺界隈に必ず同じ作者の他の石仏があるはずだ。一度、明日香村をくまなく歩いて探して
みたい。

 岡寺半跏思惟石造.jpg


岡寺の弘法大師空海石像は他所でよく見かけるものよりもやけ人間くさい。太い眉と額や目じり
に刻まれた深いシワが目立つ。大人の弘法大師空海に涎掛けは不適当ではないかな。
弘法大師空海の石像ほど、全国の各地で容易に見られる像は他に無いだろう。寺院のみならず
空海所縁の土地にもあるし、異なる宗派の寺院の庭先にもまるで信楽焼きの狸みたい置かれて
いたりする。だけど、容貌、立ち姿にけっこう違いがある。いったい、もと絵はどこのもの
だったのだろうか。


 石楠花の谷大師像.jpg


各地の大師像を比べてみると容貌はおおよそ共通していて、あごの骨の張ったほぼ丸顔と
言ってもよい。なんだか苦労知らずのどこにでもありそな柔和なお顔が、日本人共通の
弘法大師像なのかもしれない。
しかし、シャクナゲの花に埋もれて立つ弘法大師像は、ここ岡寺だけだろう。

※弘法大師像あれこれ
http://www.ukima.info/feature/daisi/kobodaisi.htm

posted by ハマー at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 飛鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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