2010年04月30日

東大寺の「月は東に日は西に」

『菜の花や月は東に日は西に』言わずと知れた与謝蕪村の名句。

満月のときは、日の入りと月の出の時間がほぼ同じになる。
菜の花が見事綺麗に咲くのは春のこと。蕪村がこの句を詠んだ時季は丁度今頃だろうか。
南面した見渡しの良い地平線もしくは水平線が見通せるようなかなり開けた場所で詠んだと推測
できる。


 道端に咲く菜の花.jpg


4月28日、奈良市の暦。
日の入り18時34分、月の出18時36分、月齢13.6
この日は、旧暦の三月十五日にあたり、当夜は十五夜に近い満月が上る。

18時34分、日の入りを東大寺二月堂裏参道で見届けた。ほぼ新聞で見た時刻と同じ。
しかし、月の出は、大幅に遅れ19時58分。予定した時刻から遅れること1時間22分。
どういうこと?


 二月堂参道松林夕日.jpg
 

自分は四月堂のすぐ前に三脚を立て、目の前の三月堂と上がってきた満月を撮ろうとスタンバイ。
19時58分。やっと上ってくる月の光を南東方向の空に捉えることができた。
国際天文台の「暦計算室」を利用して計算してみたら、
この時刻の月の高度は13.5°、方位は124.9°となった。

なるほど、写真を見てもその計算の正しいことがよくわかる。
しかも月は、東の方角からはあがらなかった。およそ南東の方角だった。 
「月は南東 日は西に」が正確な表現ということになる。


 東大寺三月堂朧月夜C.jpg


※ 国立天文台 暦計算室 
http://www.nao.ac.jp/koyomi/koyomix/koyomix.html


東大寺は若草山の麓にあり、しかも二月堂の背後は山頂まで特に急峻になっている。
月が若草山から顔を出す時刻は、平地と比較してかなり遅くなることは想定内のこと。
しかし周囲を500〜1000m級の山に囲まれた奈良市は、日の出、日の入りいずれも平地とは異なり、
かなりの時間差がある。しかも山裾にいると月の出は予想よりなお更に遅くなるわけだ。


若草山から奈良盆地.jpg
 09.05.02撮影 若草山の中腹(二重目)から奈良市街地を見下ろす。
  遠くに見えるのは生駒山



自分の住む名古屋市南部は海(伊勢湾、名古屋港)に近い平地なので、日の出、月の出ともに
新聞の暦どおり、ほぼ同じ時刻なのだ。ちょっと思慮不足だったか。
 

蕪村のあの名句を詠んだ日は、3月30日か今月4月28日と計算できる。
この句は蕪村が神戸六甲山脈の摩耶山を訪れたときのものといわれている。六甲山脈は海が近く、
見通し良好。また当時は、摩耶山麓には油を絞るための菜の花が見渡す限り咲いていたという
ことまでわかっている。

※菜の花と蕪村
http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/buson/NanohanaBuson3.html


 開山堂牡丹櫻夕日.jpg

□牡丹桜
「牡丹桜」は八重桜の別の呼び方で、花の形からそう呼ばれている。
山桜に対して人里に咲く桜ということで「里桜」とも言う。
丁度二月堂におまいりに来ていた土地の老婆が、開山堂の土塀からせり出した八重桜の花を見て、
『あれは牡丹桜だね』って言ってた。美しい呼び方だなぁ。八重というより上品そうに聞こえる。
実際に、西日を透して見る八重の花は、一重の山桜やソメイヨシノとは違う趣きを感じさせる。



※ 奈良八重桜
http://urano.org/kankou/topics/yae/index.html


 東大寺鏡池朧月夜.jpg


□東大寺 鏡池夜景
東大寺境内は日が暮れると巨大な闇と化す。所々に街路灯はあるものの、手向山八幡宮から
南大門あたりまでの一帯は、初めて訪れた人ならばあまりに濃い闇の深さに、歩を進めることを
躊躇するだろう。
大仏殿前の鏡池に、朧月がひとつ水面の闇に鈍く光っていた。
撮影をしている間、人一人通らない。池の鯉が身を翻すときに出す水音がすぐ近くで聞こえる。

なーにか嫌な感じがして来て、早々と三脚をたたんで、まさに逃げるように退散して来た。
鹿にね、後ろから頭突きされたら池にドボンだな、自分もカメラもお釈迦になってしまう。
いくらお寺でも洒落にならないではないか。あー怖かった。

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2010年04月29日

三輪から慈恩寺の道

□三輪から慈恩寺へ

奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社から金谷地区を経て慈恩寺まで写し歩いた。
三輪山を取りまくように走るこのルートは、山の辺の道から伊勢街道へとつながる。
伊勢街道というよりも初瀬(はせ)街道と言ったほうが地理的に馴染みやすい。
この道は長谷寺から伊賀に至りさらに、伊勢神宮へ向う歴史街道でもある。


 三輪市街大鳥居.jpg 三輪成願稲荷神社.jpg

 三輪子安地蔵尊.jpg 三輪素麺農家.jpg
 三輪の町は参道を挟んで南側が神社関係の建物や商家、
 北側が三輪素麺の生産農家の集落に分かれている。

 

コースの中ほど桜井市金谷あたりは(現在の)山の辺の道の基点として設定されており、
椿市観音堂がそのスタートの場所になる。
しかしこの観音堂、道から少し奥まったところにあり、また案内の標識もわかりづらいので、
それと知らずに通り過ぎる人も少なくない。


 海石榴市伊勢街道.jpg


そこから更に南へ2km下ったところに今日のゴールの慈恩寺地区がある。
慈恩寺はかつて、玉列(たまつら)神社の神宮寺であったが、今は衰退し、残る阿弥陀堂一宇を
若い僧侶夫婦が守っている。本堂はない。宗派は融通念仏宗と聞いた。

 
 玉列神社石段.jpg 
 

この慈恩寺阿弥陀堂は、写真家故入江泰吉氏の自選作品集「奈良大和路 春夏秋冬」のなかに
収められている写真を見て以来、一度は訪ねてみたいと思っていた場所である。
あの「阿弥陀堂道標」というタイトルのついた写真に見たその道標はあった。
しかし、どんなにアングル、構図を試してみてもどうも決まらない。
記憶していた写真の構図にすることができい。
しかし、これまで何度もなんども見た「道標」に間違いないのに。

 
慈恩寺阿弥陀堂道標.jpg


家に戻って、件の写真集を見直してビックリ。なんと道標の向きが変わっていた。
90度逆時計方向に回転していたのだった。
向きの変ったことで写真が撮れない(絵にならない)ということではないが、少なからず困惑した。
何故、向きを変えたのだろう。
尤も、本来道しるべのこの石仏が、庭の中にあるのも可笑しなことではあるけどね。


□椿山と上田重治郎じいさんのこと


 椿山落ち椿.jpg
 


慈恩寺の帰路、「椿山」に寄った。
「椿山」のことはこの春以来「椿」に関心を持つようになって、いろいろ資料を検索している時に
発見した、椿の名所だ。「椿山 山の辺」がこの椿の苑の正式な名称。


山の一角、北東の斜面3万3千uの場所に千品種1万本近くの椿が植栽されているという。
4月下旬のこの時期、椿の花はおおかた散っており、数本の遅咲きの木に花がチラホラと残って
いるだけだった。それでも山内を歩くと、目につくほとんどの木椿の木と言ってもよい。
これほど沢山の椿木が密集しているのに、人の手によるものという感じはしない。
椿の生育にあうようにもとからある桜やケヤキ、樫などの樹木をうまく残した、自然の山の景色
そのままなのだ。


 椿山上田重治郎じいさん.jpg


山桜の古木の枝に毛筆でしたためられた板が下がっていた。
『山櫻 上田重治郎じいさんが山に一本一本椿を植えていたのを見おろしていたのは私が
五十位かな六十才くらいかな』と記されている。
上田重治郎じいさんとはこの「椿山 山の辺」を開いた方で、残念なことに昨年なくなられたという。
この木札は、後を継いだご子息の上田隆司さん(61)と誠子さん(59)夫妻がお父さんを偲んで、
知り合いの地元の書道家に、板書してもらったそうだ。

s-P3261701.jpg s-P3261686.jpg

昭和26年、重治郎じいさんが雑木の山を切り開き最初の一本の椿を植えた時から59年がたった
ことになる。山桜の樹齢は160才か170才になった。
個人が独力で一万本の椿を植え育てそして今あるこの椿山をつくったのだ。その偉業に
ただただ敬服する。「来春必ず見に来ます」と上田隆司さんに約束をして、下山した。
今日、椿の花を見ることは出来なかったが、山を彩り飾る椿の花のイメージが眼に浮かぶ。

※海石榴市の椿山
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/camellia3.html



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2010年04月24日

松尾寺 修験者の道

松尾寺境内の鐘楼脇に、輪径が1mになる山桜の古木がある。
春の花の盛りはとうに過ぎ、残花がちらほら見られる。
その古木の幹にとってつけたような、小さな花と葉の塊がくっついている。
珍しい光景ではないが、なにか不思議な、心引かれるものがある。
枝が伸び、その先に蕾がつき花開くのが普通の姿。それが太い幹の途中に唐突に花を咲かせ、
葉を開いているのだ。人間には例えようのない生命力というか神秘性さえも覚える。

 桜樹妖姿.jpg


松尾寺は矢田丘陵の中腹に位置し、すぐ背後には松尾山(標高315m)の急峻な森が広がる。
かつて室町時代には修験者の修業の場所であったと言われるだけあって、それなりの険しく
深い森の中にある。
竜田川の流れる谷を隔てた西向こうに生駒山系(623m)が屹立するのを見ると、この一帯は
かなり厳しい場であったと実感できる。
参道の途中、坂道で見た石仏群を思い出した。

 「石ぼとけ 誰に供えた 花と水」
 「無縁仏 行き倒れし 行者かな」


 観音堂と三重塔.jpg 松尾寺三重塔.jpg


寺の裏山から矢田丘陵の尾根を行く道につながる切り通しがあった。
その昔ここを、役行者や修験者たちが息を殺して通ったはずだ。
今日もシニアハイカーの一団がかしましく通過して行った。あの男や女たちは何を求めてこの
険しい道を越えて行くのだろうか。
否、自分は何故ここにいるかの。この切り通しの向こうに何かがあるのだろうか。
いつものように自問する自分がいた。


 切り通し.jpg 参道の石仏群.jpg


※松尾寺(まつのおてら)HP
http://www.matsuodera.com/index.html

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2010年04月22日

穀雨の頃 山の辺の道

今日は二十四節気のひとつ「穀雨」。
太陽黄経では4月20日、恒気法では4月22日がその日にあたる。
「田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降る頃」を云うと説明されている。


山の辺の道あたりでは、耕地の鍬入れや種まき、苗の植え付けに立ち働らく男たちの姿が処々に
見られる。今年は春も終わろうというこの時期まで厳しい寒さが残り、暦どおりとは行かない。
だけど、この時季、この雨の日の多さが、一つの節気を実感させてくれる。
雨の晴間の一日崇神天皇陵から景行天皇陵のあいだの山の辺の道を歩いた。


 景行陵南下山の辺の道.jpg


この時季の山の辺の道あたりの路傍や畑地、空き地などでも黄色の菜の花をよく目にする。
「菜の花」は、アブラナ科の植物を総称して呼ぶこことが多い。
油菜をはじめとして白菜、大根、キャベツ、カブ、小松菜、カリフラワーなども同じ科に属する。
野山や田の畦、川原でよく見かける黄色の菜の花はこれらが野生、自生化したものと考えられる。


日本では弥生時代以降から利用されたと見られ、菜、つまり葉もの野菜として利用されていたも
のという。菜の花咲く山の辺の道の春景色は、遠く奈良時代から続く風景なのだ。

 崇神陵濠新緑.jpg


水をたたえた濠に囲まれたちいさな島のような崇神天皇陵の所どころに、淡い色あいの山桜が
映える。
背後を墳墓の深い森に遮られているためだろう、花は打ち上げられた花火のように左右上下に
幾何学模様のごとく展開している。白にちかい淡い灰桜色の花の内側には枝分かれした太い幹を
透かし見ることができる。そこに桜の精が宿る幽玄の美を垣間見た気がした。


 崇神陵濠桜妖姿.jpg
 

崇神天皇陵の南方、農地を挟んだところに仄かに浮かび出た桜色した小山が見えた。
あそこは景行天皇倍塚あたりだ。近づいて見ると、陪塚の北一面が山桜に覆われている。
さかりを過ぎ散り始めた木や、まだ五分咲き程度の木まで微妙に花色を変えた五六本の山桜が
空を覆っている。


 景行陵陪塚桜.jpg 景行陪塚桜影.jpg
 

塚に登ってみた。
山の辺の道は奈良盆地を囲む山の斜面にあるが、更に高い陪塚からは、桜花を透した眼下に奈良の
家並みを見晴るかすことができる。吹き抜ける風が花びらをチラチラと散らす。
 

  山桜可憐花葉.jpg


山桜の花は小さい。3aにも満たない。同じ時に開いた葉は日々ぐんぐんと大きく成長する。
葉が花の軸より大きく広がった頃、花は一斉に散り始める。そして後に残した小さな果実の成長を、
葉に託して散り落ちてゆく。

午後になって雲は失せ、青空が広がった。急激に気温が上がり、暑い。
太陽が真上に来るとモノの影は消えてしまう。「影をひそめる」とはよく言ったもので、景色に
精彩さが薄れ、元気がなくなってしまう。

景行天皇陵の南面に桜樹の白い影が見えた。太陽の光を受け、きらきらと白く輝いている。
樹高は15m以上ありそうだ。奈良のすごいところは、こんな桜の巨木が当たり前のように、騒がれ
ることも無くそこに在ることなのだ。


 景行天皇陵濠白雪桜.jpg 景行陵白山桜巨木.jpg

穀雨の終わりごろに八十八夜がある。そしてすぐ「立夏」を迎える。春はもうすぐ終わる。


※ 黄道傾斜角:Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%81%93
※ アブラナ:Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8A
posted by ハマー at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

矢田寺 桜の花びらの上に落椿が

奈良大和郡山市の矢田寺といえば、梅雨の時季のアジサイの花でよく知られた寺だ。
一昨年転勤で関西の地に移って来たときに、TVニュースを見て、初めて行った寺が矢田寺だった。

緑濃い矢田丘陵の中腹にあるあの寺がこの時季、どんな景色を見せているのか知りたくて
再び訪ねてみた。 


 竹林とシャガの花.jpg


車を入れた駐車場の斜面に、点々と白い花が咲いている。近づいてみてすぐにわかった。
シャガの花だ。
そうか、シャガは、この仲春の頃に咲くのだ。

本来は山林に咲く花のはずだが、街中にあった子供のころ住んでいた家の北向きの庭に咲いて
いたので、よく見知っている。
あせたよな薄青い縮れた花びらが、なにかみすぼらしくて好きになれなかった。錆が浮かび出
たように感じられる黄色の斑紋が、花びらの涼しい色とアンバランスに感じられたのかもしれ
ない。
それが、今では子供の頃の思い出につながる、懐かしい花になっている。


 椿桜花埋もれ.jpg
  

車参詣道は、寺囲りの集落を通り抜けて、矢田寺本堂のごく近くにまで続く。
境内に入り南僧坊を過ぎた道の突き当たりに、無数の赤い落椿が見えた。
一本の椿樹の根元の地面は、散り積った桜の花びらに桜色に染まり、その上に、無数の真紅の
椿の花冠が、咲いている時と同じ形のままに転がっている。
こんな、絵のような景色、初めて見た。キレイだ、すごく綺麗だ。


 風ヤブツバキ揺らす.jpg 


物理学者寺田寅彦の随筆「思出草」の中に、
「椿の花が落ちるときに、たとえそれが落ち始める時には俯向きに落ち始めても、空中で回転
して仰向きになろうとするような傾向がある」
という考察が書かれている。
夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」という俳句に触発されて、椿の花の落花実験をした、
ということも書かれている。

この小文は「椿の花に宇宙を見る」という随筆集に収められているが、この本を読んで以来、
落ち椿を見るとつい寺田寅彦の名前とともにこの随筆集のタイトルを思い出す。


 落椿さくら小道.jpg 


たびたび落ち椿を見るようになって、あることに気づいた。
仰向けの花冠のほとんどが、木の中心とは逆方向、円周側に黄色の蕊(しべ)を見せて落ちる
ことを。
本当のところはわからないが、枝に付いていた時の向きそのままに、地面に落花するのだと思っ
ている。


 矢田寺車参詣道.jpg
 

車参詣道は矢田寺の境内に入った処から、地面が桜色に変った。
火曜日の嵐ですっかり散った桜の花びらが、びっしりと地面を覆っている。轍の濃淡が余計に
桜色を際立たせている。この寺の空は、つい先日まで桜の花に覆い閉ざされていたに違いない。
道は、更に今も舞い落ち続く花びらで桜色を深くして行く。


 矢田寺本堂照山桜.jpg

 

北僧坊のお庫裡の話では「最近高齢のハイカーの方々の間に、矢田寺は桜が綺麗だという、噂が
広まって、沢山の人が花見に訪れるようになりました。」という。花のピークは先の日曜日。 
花は火曜日の雨嵐ですっかり散り落ちてしまったのだった。


 石仏にシャガの花.jpg 石仏を囲む落椿.jpg



矢田寺は天武天皇2年(773)の開基と伝えられる。本堂は室町末期の創建だけあって、伽藍全体
も落ち着いた古寺の佇まいを見せる。秋の紅葉も見事という。
今日は花を中心に写真を撮ったが、お寺の建物を撮りに、もう一度来て見たいと強く思った。

 
 石畳に桜散る.jpg





「椿の花に宇宙を見る」 夏目書房 寺田寅彦ベストオブエッセイ

「思出草 四」
「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」漱石先生の句である。今から三十余年の昔、自分の高等学校学生時代に熊本から帰省の途次、門司の宿屋で、ある友人と一晩寝ないで語り明かしたときに、この句についてだいぶいろいろ論じあったことを記憶している。どんなことを論じたかは覚えていない。ところが二、三年前、偶然の機会から椿の花が落ちるときに、たとえそれが落ち始める時には俯(うつむ)きに落ち始めても、空中で回転して仰向(あおむ)きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察し、また実験をした結果、やはりそういう傾向のあることを確かめることができた。それで、樹が高いほど、俯向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い樹だと、俯向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないので、そのままに俯向きに落ち着くのが通例である。この空中反転作用は、花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。それで、もし虻が花の芯の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動し、その結果は、いくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるのであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。こんなことは右の句の鑑賞には大した関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的な考察をすることによって、この句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、したがってその詩の美しさが高まるような気がするのである。
 


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2010年04月12日

散る桜の哀しさは

奈良公園の桜の時季は長い。
3月20日の染井吉野の開花宣言からすでに三週間が過ぎたが、山八重桜は昨日あたり満開の時を
迎えたようだ。
一足速く散り始めた木もあるが、それがむしろ今咲き満ちる桜花の美しさを際立たすための演出
のようにさえ感じる。
これから四月の末まで花は続く。「残花」「余花」という言葉まで用意されている。


 咲き満ちる山八重桜.jpg



知事官舎のすぐ西にある「みとりゐ池」の水面は散り下りた花びらの白色で、一杯になっている。
かすかな風に流され緩やかにうごめく花びらが、水面に映った空の青、白い雲、薄紅色の桜樹の
景色を隠したり見せたり、刻々とその景色変えて見せてくれる。自然がつくる万華鏡のようだ。


 みどりゐ池桜浮かべる.jpg 花びらに埋まる苔.jpg




時おり雲に太陽が隠れる時に吹く風は、花びらを激しく散らす。驚くほどの量の花びらが数秒の
間降りしきる。緑色の芝草が瞬くうちに白い花びらに覆われた。
この調子では、木を覆う桜花も、明日を待たずに全て落ちてなくなってしまうのではと気に掛
かる、それほどに散り落ちる。


 花吹雪のじゅうたん.jpg 風が花びらを散らす.jpg 


新古今和歌集に『はなちらす風のやどりはたれかしる 我にをしへよいきてうらみむ』という歌が
ある。詠んだ人の気持ちがよくわかる。できたらもうしばらく咲いていて欲しい。
しかし、人は、散り行く桜にこそ、自分の生を実感することができる。それだからこそ逆に、
散り行く桜への哀歓を覚えるのではないのか。
喜びと哀しみを一時に感じる矛盾が、人をして散る桜に美しさを見るのだと思う。


 桜の国.jpg 魂の花見.jpg

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2010年04月09日

山の辺の道井寺池の花

初めて山の辺の道を踏んだのは一年前のちょうど今頃だった。奈良の春を経験したのもその時が
初めてのことだった。

その頃、勤め先近く梅田ジュンク堂書店で偶然、入江泰吉氏の写真集「やまと余情」を見つけ
購入した。
その中に収められている二枚の写真「蒼古の色濃き玄賓庵への道」「山の辺の道檜原神社」に強
く惹かれ、休日を待って出かけた。檜原神社から玄賓庵への道を歩いたのが最初だった。


 三輪山と井寺池の桜.jpg



今年再び訪れたのは、去年とは違うものを見ることができるかも知れないという期待からだった。
檜原神社は三輪山の麓にあり、近くの井寺池まわり一帯には果樹畑が広がる。
早春の梅花、仲春の桃花、晩春には柿の花と次々に咲き続ける。
井寺池からの景色は、去年と少しも変らなかった。


 三輪桃源郷.jpg 


井寺池は土堤を挟んだ東西二つの池からなり、東の池の南と東側の道に沿って桜木が植えられて
いる。池の表に映った三輪山と桜木を入れた構図は、陳腐だし、去年も撮った。少し抵抗もあるが、
もう二度と見にこられないかも知れないからと思い、シャッターを押した。


 井寺池畔から神社鳥居遠望.jpg


桃は中国原産で日本にはすでに弥生時代に渡来していたらしい。中国では桃はただの果物ではなく、
桃源郷の不老不死の仙果(せんか)として考えられていた。
中国の文化、文明を国づくりのお手本として積極的に摂取していた奈良時代、その不老不死伝説
も当然その時に流入していたと考えても差し支えあるまい。
三輪山の麓に、幻の桃源郷を見たような気がした。※


 菜の花と桜.jpg


足元の土堤に黄色い菜の花が咲いている。
対岸の桜を入れた構図はこれも去年撮った。今回は、思い切って絞りを開き、桜を一杯に入れて
撮る。この一枚だけでは単なるイメージ写真になってしまうが、他の写真と組み合わせることに
より、活きることもある。


 花曇桃の花.jpg


桃の花は、梅や桜と比較して花弁が肉厚で皺がある。力強い輪郭をしている。桃の花は街中では
まず見ることの出来ない花。
自分自身こんなに間近に見たのは初めてだ。梅や桜とどうちがうのか。今日はもっとじっくりと
見せてもらおうじゃないか。

※〔10年9月18日 朝日新聞朝刊〕
「女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向遺跡(2世紀〜4世紀初め)で、
大型建物跡そばの穴から2千個を超す桃の種が出土した。(略)桃は古代、魔よけなどに使われたと
され、市教委は『祭祀に使った後に捨てた可能性がある』と見ている。」


posted by ハマー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 山の辺の道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月08日

桜色の路 円照寺参道

路が、桜色に、染まっていた。明け方の雨は僅かで、路を濡らす程度だったことが幸いしたのだ。
花びらに留まった雨滴は、花から滲みだした色と混じり、ポツリ、ポツリと落下して、路を桜色に
染めていったのだ。
雨滴が薄い桜色に変る様子が目に浮かぶ。
白いプラスチックのパレットに置いた絵の具に落とした水玉に、スッと色が滲み出てゆくあの感じ
に違いない。


 s-花露に染まる路.jpg


桜の枝が路に張り出しているところの地面だけが桜色に染まっている。
散り始めた少し白っぽい花びらがその上に点々と重なり落ちている。
もし強い雨だったら、砂と混じり、路を染めることなく流されてしまっていただろう。
天の気まぐれが、路を桜色に染めるという微妙な按配を見せてくれたのだ。


s-枯木に花を.jpg


円照寺参道の土堤の桜木は老木から最近植えられた幼木までいろいろ見ることが出来る。
参道入り口に近いところにある老桜、太い幹の途中で枯れ朽ちている。
樹齢百年に近い老木だ。
それでも数本の若い枝についた鮮やかな桜花が満開に咲き誇る。


「花咲か爺」の昔話を思い出した。
この老木、きっとどこかの爺さんが、枯れた桜木を見て哀れみ、パッと灰を撒いて、パッと花を
咲かせたに違いない。
ここ円照寺は尼寺だから、新「花咲か婆」伝説というこにして、話を創ってはどうか・・・


 s-竹を照らす花桜.jpg


円照寺に来た時は必ず、回り道でも必ず竹林を通るようにしている。以前展覧会で見た日本画を
忘れられない。多分中島千波か川端龍子の画だった思う。
孟宗竹の林、差し込む金色の朝陽、竹の葉を透かして見える背景の花。
今日見た竹林の景色は求めているイメージには遠いが、いい感じに撮れたと思う。
これから夏までの若竹の時季にめぐり会えたら良いのだけれど。


posted by ハマー at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良市南郊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月07日

東大寺東塔跡「桜窪」

東大寺東塔跡 窪地の花桜木


東大寺東塔跡は、大仏殿中門より右の方に手向山八幡宮の参道を200mほど東に行った中程、
道から少し下ったところ、すぐ北側の高台にある鐘楼と白蛇川の間の窪地に塔の基壇が残る。


 綿雲流れる桜模様.jpg


この時季、山桜がこの窪地一面を雲海のように覆う。朝陽受けた桜花の塊は冬の玉雪の輝き。
四囲を常緑樹に包まれた森の真ん中にある東塔跡の桜を見に訪れる人の数は少ない。
奈良公園と二月堂は押し寄せる花見客で賑わうが、ここは秘境の静けさに覆われている。
ただ鋭い鳥の鳴き声がかしましく響く。


 東塔跡桜窪.jpg


奈良と桜の歴史について詳しくは知らないが、1300年前の平城京造営の時に柳や桜の木を街路樹
として植栽することを奨励した記録が残されている。
また江戸時代明暦と寛政の頃の「奈良の千本桜」「花の中道」などの記録もあるが、いずれも
興福寺を中心としたお話。
東大寺の桜については、幕末寛政年間の奈良奉行川路聖謨が、奈良が桜の名所として復活する
ことを願って、興福寺、「東大寺の境内」、佐保山、高円山のほとりまで、千株の桜を植えたと
いう話の中、東大寺の名前は登場した。


 桜と金の鴟尾.jpg 二月堂と桜.jpg
 


東塔跡窪地の桜はすでに十分古木の雰囲気を感じさせるが、名奉行川路聖謨が植栽した当時の木
はもう残っていないだろう。
多分戦後の一時期盛んだった植樹運動の頃の木で、それでも樹齢60年以上になる。


 荘厳山桜の老木.jpg 



東塔跡の窪地は降雨の後に小さな池を造る。普段でも周囲の高台から流れ込む水でぬかるんで
いるこの場所は、桜や杉のように水を好む樹木にとってふさわしい環境といえる。
また人の訪れることが稀で、根周りを踏み固め傷められることも無い。
秋の落ち葉が取り除かれることも無く堆積し腐葉土に覆われた肥えた土になっていること等、
この窪地の桜が樹齢を更に重ね、100年を超える大木に育つ条件が揃っている。


 東塔跡幻池と神鹿.jpg



最も、残念なことにその経過を見届けることは遠来の自分には難しい事だし、それよりも、自分
の命は木と競いあうには残り少なすぎる。


 照明灯に浮かぶ桜.jpg



興福寺猿沢池に下りる階段下に残る川路聖謨が記した「植桜楓之碑」から一部分抜粋

『是に於て靡然として風を仰ぎて、之を倣らう者相継ぎ、遂に蔚然として林を成す矣。
花時玉雪の艶、霜後酣紅の美、みな以て、遊人を娯しませて心目をよろこばすに足る。
況んや今此の挙あるや、唯に都人の楽しみを得るのみならずして、四方の来遊者も
また相ともに其の楽しみを享(う)く。 然れども歳月の久しき、桜や楓の枯槁の憂い
無きあたわず。後人の若し能く之を補わば、即ち今日遊観の楽しき、以て百世を閲み
して替えざるべし。此れ又、余の後人に望む所なり。』

川路聖謨の賢者ぶり、100年先の時を見据えた深遠な思想をうかがい知ることが出来る。

※『』内、「奈良の昔ばなし」からコピー抜粋させていただきました。

posted by ハマー at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 東大寺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月06日

奈良「たかばたけ茶論」と洋画家中村一雄氏のこと

奈良高畑町にある「たかばたけ茶論」の前を車で通過した時、土塀におおいかぶさるように咲く
赤い椿の花が目についた。
欧風なつくりの土塀と椿樹の組み合わせがとても魅力的だった。


 土塀と椿部分.jpg 


写真を撮っていたら、鉄扉があいて、廃材を積んだ一輪車(猫車)を押したこの館のご主人らしき
男性が出てきた。
「こんにちは。写真撮らせてもらっています。椿、綺麗ですね」、とご挨拶をしたら、
『どうぞ撮って行ってください。・・・・庭の中で撮りますか』と言ってくれたんだ。
なんてラッキー。その男性が画家中村一雄氏だった。


 椿樹と土塀.jpg 


志賀直哉旧宅と道を隔てたすぐ隣にある「たかばたけ茶論」のことは、これまでに何度もその前を
通ったことがあり、気にはなっていた建物だった・・・・


 素焼の屋根瓦に落椿.jpg
 


敷地を囲む和洋折衷の土塀が印象的で、ことに勝手口の波打ったような形状の瓦屋根を見るのは
初めてのことだった。「たかばたけ茶論」の赤土色の土塀に、南欧やスペインの景色を描いた
洋画を連想したことを覚えている。
オープンカフェにしている樹影深い雑木林風の庭園と、その奥の涼しげな洋館は、その日巡った
奈良の寺院とは全く趣を異にしていて、少し抵抗感があり、門をくぐることに躊躇してしまった。
二年前の奈良への夏休み旅行に、新薬師寺を訪れ時の帰り道の思い出。


 志賀直哉旧宅白壁.jpg 


高い木立に覆われた薄くらい庭園に招き入れられた。
椿樹を前にして、『この椿は相当に古い木ですよ』 『どういう風に撮るのですか』とご主人。
「椿の花は下向きに咲くので、いつも内側に回って撮ります。この白い幹の色が好きで・・・・」
と私は答える。
『なるほど。丁度ね、次の作品展に何を描こうか迷っていたところなので、いいヒントになりま
したよ』とご主人。 
ええっ! 職業画家?  そういえばなんとなく文化人の雰囲気を漂わせる容姿風貌、垢抜けた着こな
しスタイル。
『名古屋の高島屋でも個展をやったことがあります』
『この土塀は』と、洋館及び土塀を、国に文化財指定の申請をした意義をお話してくれた。 
 

 たかばた茶論の花椿.jpg


その時まで、この男性の名前も、画家であるということも全く知らずに話していたのだ。
最後に『なかむらかずお、と申します。どうぞお見知りおきを』と自ら名乗られる。 陽のあたる外には鮮やかに、内に回っては静かに頭を垂れる椿花のようなお人柄。

「中村一雄氏、75歳 洋画家 ラテン系奈良人」帰宅後早速インターネットで調べた。
中村氏は、志賀直哉旧宅が取り壊されようとしていたとき、その保存運動に一人立ち上がり、そして
成し遂げた偉大な人物でもある。


 石組と落椿.jpg



ラテン系? 彫りの深い目鼻立ちは、あの映画ゴッドファーザーで観た南欧イタリアの男たちわ連想
させるが。
気さくで礼儀正しく親切な中村一雄氏のファンになってしまった。
是非次回作品展を見たい、と思っている。


 たかばたけ茶論.jpg


カフェ側入り口(勝手口)からではなく、いつもは閉ざされている正門からしかも当主の中村氏に
邸内に招じ入れられてのことは、すばらしい思い出、誰かに自慢したい話になった。
中村氏も『ほんとうに幸運でしたね』と強調、連発されていたことなのです。




※「たかばたけ茶論」
http://takabatake-salon.jp/top.html
HP 「About Salon」のコピー。

昭和の初め、志賀直哉を中心とした白樺派の文人や画家が集い、「高畑サロン」と称しました。私たちは此処に高畑サロンの復活を願い、現代人のゆとりある交流の場にしたいと考えます。高畑族の一員であった足立源一郎画伯が大正八年、南仏プロバンスの田舎屋を模して志賀邸隣に建てた洋館は、その後、洋画家・中村義夫が引き継ぎ、現在、そこに住む
洋画家・中村一雄夫妻が昭和56年11月(1981年)にガーデンを開放しカフェにしたものです。平成12年、その洋館及び土塀が、国の登録有形文化財に指定されています。


posted by ハマー at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良のこといろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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