2009年11月29日

大和円照寺の紅葉

大和円照寺の紅葉

白洲正子の随筆集「かくれ里」を読み返したら、『山村の円照寺』の節に、開山の経緯を詳しく
書いていることに改めて気づいた。


 s-入り口付近の池.jpg  s-参道透かし紅葉.jpg



『ここで上のほうから来た山辺の道と旧道が一しょになるが、もうこの辺は奈良の郊外なので、
舗装した道路には、いわゆる「山辺の道」の情緒はない。が、円照寺の道標から、山へかかっ
たとたん景色は一変する。両側はのどかな桃畑で、その中に池があったり、古い社や古墳が点
在して、昔ながらの山中の景色となる。雑木林の山道を登って行くと、突き当たりに黒い山門
が見え、端正な敷石が真直ぐ玄関まで続いている。私がついた時は、山の端をはなれた月が白
々と境内を照らし、いかにも尼寺らしい清浄な空気に包まれていた』 書き出しに近いところ
の文章であるが、円照寺の風景をほんとうにうまく描ききっている。


県道188号高畑山線を円照寺の参道へ一歩踏み込んだ途端、たしかに景色は一変する。上空か
ら見るとよく分かるが、円照寺は複数の古墳の森の真中にある。深い森に阻まれ、西に傾いた
日のひかりはこの時間の参道には届かない。薄暗いトンネルの中を行くようだ。入り口から700m
ほど進むと、黒くどっしりとした山門にたどり着く。山門の向こうには、明るい光に満たさ
れた円照寺の境内が広がる。どこか別世界に迷い込んでしまったように、ここに来るといつ
も感じる。


 s-円照寺山門紅葉.jpg  s-京風円照寺境内.jpg 



随筆『山村の円照寺』は、開山の主、後水尾天皇の皇女、文智女王の生涯を記した物語。
『皇女が尼になるのは珍しいことではないが、文智女王の場合は、積極的に、自分の意志で出
家されたので、修行の厳しさも、一通りのものではなかったのである。寺にある宝物も、女王
の個人的な生活を伝えるものが多く,他寺の寺院のように、観光客に見せるものは一つもない』
円照寺が、一般拝観を許さないことに少なからず不満を抱いていた自分にとって、かなり手厳
しい言葉だ。


 円照寺から見た日没.jpg  s-夕月見えた.jpg 



円照寺の楓は、もう葉を半分ほど落としやや勢いに乏しい風情ではある。それでも、残すとこ
ろ幾日もない紅葉化粧、散り際の、はかない美しさを感じさせるに充分である。
4時40分、竹林の向こうに日は沈んだ。夕月が南の空に浮かんでいる。
消えた太陽、夕空に浮か
ぶ白い月。どこか輪廻を思わせるたそがれの時に自分がいる。

※ 白洲正子「かくれ里」講談社文芸文庫 2009年1月7日 第36刷

 
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長谷寺 残照と五木寛之「百寺巡礼」

前夜、宿の女将から、長谷寺では朝のお勤めのあることを聞いたので、私たちは早起きして、
七時ちょうどに仁王門をくぐり抜け、石の回廊を登った。昨年11月29日のことである。 


 朝日射す仁王門.jpg  舞台から見る初瀬の朝.jpg
 朝日を受けた仁王門のシルエットが美しい     朝七時、初瀬の街はまだ寝ているようだ



薄暗い本堂に足を踏み入れた途端、読経と連打される太鼓の重く低い響きに、金縛りにあった
ようにもう歩を進めることも、息をすることさえできない。読経の声が一瞬途絶えた時の暗闇
の中の静寂、そして再び始まる激しい太鼓の連打と僧侶たちの読経の声。あまりの息苦しさ
に私は、足音を聞かれないよう、本堂から逃げ出したのだった。


 朝のお勤めを終えて.jpg   開山堂階段紅葉.jpg
下駄の音を響かせ駆け下る黒袈裟の修行僧   朝のお勤めを終えて階段を降る僧侶 



あの日から一年が過ぎた、今年11月28日、再び長谷寺を訪れた。昨年と比べ今年は早くに寒さが
来たせいか、紅葉祭りの期間中ではあるものの、残った楓も色あせ、すでにピークを過ぎている。
それでも境内に点在する紅葉の群照が、秋の名残を十分に感じさせてくれる。

 
 燃える開山堂.jpg   本堂から開山堂.jpg 
 開山堂周りの紅葉が一番美しい長谷寺




開門の20分前に入山。ゆっくりと回廊を登る。後から来た人たちが次々と私たちを追い越して
ゆく。静かだった山内はあっという間に喧騒と人並みに埋め尽くされた。寺は、瞬く間に観
光スポットと化す。

写真を撮るのも大儀だ。人通りの途切れる時を見計らって、大急ぎにシャッターを押す。とは
言うものの、構図を確定し、露出を考え、ピントを合わすまでに結構な時間がかかる。更に、
同じ場所で10枚近く取り続けるのだから、他の人には随分ご迷惑をかけていることだろう。
もっとも写真を撮っている間、通りすがりの人たちも、私の背後やすぐ横に並んで次から次へ
とシャッターを切って行かれるのだから、ビューポイントを知らせているということで、勘弁
していただけるかもと思ったりしてもいる。


 舞台から見る五重塔.jpg  紅葉五重塔.jpg 
 紅葉の海に浮かぶ五重塔       桧皮葺の屋根が上品な五重塔
 



五木寛之氏の「百寺巡礼」の第一巻奈良、長谷寺の書き出しの一節には「ざわめきのなかの信仰」
という見出しが付く。『どこから集まったのだろうと思うほど、大勢の参拝客であふれている。
中高年の女性グループや子供連れの家族もいれば、手をつないで歩く若いカップルもいる。カメ
ラと三脚をかかえたアマチュア写真家の姿も目立つ』『静寂でひっそりしている寺は、それはそ
れでいい。宗教とはそういう厳粛なものだ、という考え方もあるだろう。でも、この長谷寺の
ように、市井の喧騒を感じさせる寺もまたいい。私は、むしろこういう寺こそが、仏道の本道を
行くものではないかという気がしている。「俗っぽい」ということは、実に大事なことなのだ』
『長谷寺は生きている。市井の人びとの信仰心に支えられて生きている』


奈良市や県下の寺めぐりをしていると、参拝を許さない孤高の寺も数少ないがある。また、檀家
寺の多くは墓参以外の立ち入りを禁じている。また、美術館と大差ない寺院もある。はたして、
いずれの行き方に自分と仏教の接点を選択したものか、カメラを持って寺の周りをうろついて
いる自分にとって、悩みのつきないところである。



 撫で仏.jpg  舞台の紅葉.jpg
  撫仏びんずるさん         平安時代皇族・貴族が紅葉狩りを楽しんだ舞台


 
最後に五木寛之氏は、『花見(や紅葉)のシーズンに、長谷寺を参拝する人もこれほどたくさんい
る。それはやはり、なにか信仰というもの、目に見えないものへの信頼というものをもっていた
い、ということではなかろうか』と、この章を結んでいる。


私には明確な信仰心というものは持っていない。しかし、「寺」の領域や建物から受ける心静けさ
や安堵の気持ちが、原初的な日本人の信仰心というものなのかも知れない。

    
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2009年11月25日

東大寺大湯屋の公孫樹雄姿

東大寺大湯屋の公孫樹が、黄金色の見事な立ち姿を見せてくれている。公孫樹は、雄と雌で株が
異なるが、樹の姿にも明らかな違いがある。雄株はスクッと佇立したようなスマートな形。雌株
は、枝を横に大きく拡げた豊満な姿。二月堂の舞台からその雄姿を確認することができる。


 二月堂大湯屋公孫樹.jpg



大湯屋の公孫樹は雄株。まるで「枝垂れイチョウ」と呼びたくなるように、枝が垂れ下がってい
る。実際は上を向いているのだが・・・。


湧き上がる黄金色の積乱雲のような公孫樹の巨樹を背景に、大湯屋の長く突き出した「ひさし」
の鬼瓦が面白い。鬼瓦は「厄除」の役割を持った装飾瓦だが、必ずしも鬼の顔をしている訳では
ない。鳩や鵜などの鳥。蓮の花型や抽象的な模様なども見たことがある。


 大湯屋公孫樹.jpg 大湯屋銀杏落葉.jpg
 


Wikipediaで見たのだが、狂言の演目のひとつに、「鬼瓦」をモチーフにしたものがある。
「ある大名が、仕事で滞留していた京都の寺で鬼瓦を見て、故郷に残した妻を(懐かしさのあま
り)思い出して泣いてしまった」というお話。

※「鬼瓦」 Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%93%A6
狂言っていうのは面白いね。是非この機会に見たいな。


 ススキの原大仏殿.jpg 大仏殿と残柿.jpg



今日(11/24)、奈良市は、前日の小春日和から一転、冷たい空気が流れ込み、朝から霧に覆われ
ていた。昼前には霧は消えたものの、うす曇の肌寒い一日だった。
撮影ポイントは、東大寺の裏山(若草山)の棚田跡。前回訪れた時に撮った、野仏と大仏殿がいま
ひとつだったので、撮り直し。「春日和になる」という天気予報ははずれたが、曇天ならではの
「写真日和」と思い直して、現場に向かった。



 棚田跡野仏.jpg


s-PB144458補整(2).jpg 


これまで何度も撮っている正倉院前の野仏たち、今日は赤い紅葉模様が季節感溢れる景色を見せ
てくれている。これはフロック。拾い物でだった。


 紅葉落葉野仏.jpg


東大寺は1300年の歴史を持つのに、広い境内で、野仏というか無縁仏を見ることはほとんどない。
大仏殿の西、勧進所の北東角、戒壇院に向かう道、大湯屋の入り口と、正倉院近くで見ることが
出来る。東大寺は「寺」というよりも、当時は皇室、貴族(藤原家)の聖域であり、国有寺院でも
あった。だから、むしろ、無縁仏の存在することのほうが不思議なのだ。境内に残された無縁
仏の墓石は、一体、どのようなストーリーを持っているのだろうか。


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2009年11月17日

東大寺の公孫樹黄葉三景

「公孫樹」とは銀杏(いちょう)の漢名。「公」は祖父の尊称で、祖父が種子をまいてから、実が
なるのは孫の代になることから、公孫樹と名づけられたという。中国の原産で、日本へは留学僧
が持ち帰って広まったらしい。とすると、飛鳥、奈良時代に、大和の地にもたらされたもの、と
言えないこともない、かな。

 正倉院前公孫樹落葉.jpg 三面僧房跡の公孫樹.jpg
 正倉院前の公孫樹                  僧坊跡の鹿の群れ 


銀杏の葉は、立冬を過ぎた頃、一気に、緑から黄色に変わる。木枯らしの吹いた翌朝、根元には
舞い落ちた葉が創った、黄金色のサークルができる。肉厚な葉なので、風にあおられてもそれほ
ど遠くまでは飛ばされることが無く、根元に厚く積み重なって行く。



正倉院の道.jpg
 正倉院の道


東大寺の楓は、イチョウの黄葉がすっかり散り落ちる頃、紅葉の盛りを迎えるという。


<追記>
東大寺大仏殿の北側「講堂跡」を囲む東・西・北の空き地が僧房の跡であったことは知っていた。
そこを指して「三面僧房」と言うようである。たまたま読んでいる上司海雲氏の共著「奈良 わ
がふるさとの・・」の一節、「知られざる東大寺・礎石」にそのように表現されている。



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2009年11月13日

「頭塔」の石仏

頭塔の石仏

高畑町からの帰り道(10/24)、高台にある天神社から、南東方向に、階段状になった建造物が見
えた。それは、暗緑色の吹き上がる煙の塊のような巨木の真下に、西日を受けて黄金色に輝く、
なにか異様な、周囲の景色から浮いた雑駁な感じを受けるものだった。


 天神社.jpg
 天神社 

             
破石(わりいし)町まで、探しながら戻ったが、なかなかそれを見つけることができない。交差点
のところ、ホテルウェルネス飛鳥路へ入る道路の切れ込みから、それは見えた。


 頭塔北東角.jpg
 頭塔北東角


そうか、頭塔だ」。 そのとき初めて、それが頭塔(ずとう)ということに気づいた。頭塔の事
は、本で読み、以前から知っていた。知っていたが、その形を記憶していなかったので、天神社
から見た時にすぐに思い出せなかったのだ。※ 岩波新書・奈良文化財研究所編「奈良の寺」



本によれば、頭塔は760年頃、光明皇太后の病気回復を祈って、娘の考謙太上天皇が造らせた土
製の塔。当初は二重だったが、767年に現状のような五重塔に大改造された、とある。

それにしても、塔を造るに際して、何故このような「土と石」という素材を用いたのだろう。何
故、従来のように、堂を建て、仏像を安置するという方法を選択しなかったのだろうか。しかも
古墳の上部を崩し、かなりの急ごしらえの雑な造りだったようだ。



塔は七段の階段状石積みからなる五重塔で、全高は10mもある。天神社から見えた最上段の様子
はここからは見えない。しかし、ホテルの部屋から見通せる事を、HPの写真で知った。
※ホテルウェルネス 
 http://www.hotel-wellness.jp/asukaji/up_fr/fr_sisetsu.html


 石仏名と配置図.jpg
 石仏名と配置図



史跡内の案内板によれば、頭塔には44基の石仏が配置され、そのうち28基が確認されている。初
段の石仏を見ると、「三尊像」の多いことに気づく。案内板にある16枚の写真も、半数の8枚に、
三尊像が写されている。


石仏は風雨、直射日光に晒れ、目鼻立ちも定かではない。しかし、よく見ると、如来像の腕の位
置、手指の形が微妙に異なる。
案内文によれば、東面は多宝仏浄土、南面は釈迦仏浄土、西面は阿弥陀仏浄土、北面は弥勒仏浄
土を表している。しからば、各面の三尊像をその姿により名づけてみる。

 如来三尊像東面.jpg 如来三尊像南面.jpg
 定印薬師如来座像              施無畏・与願印釈迦如来座像

 如来三尊像西面.jpg 如来三尊像北面.jpg
 転法輪印阿弥陀如来座像            施無畏・与願印弥勒如来像


この頭塔、間近から見ても、やはり異様な印象を受ける。日本人の美意識とはかけ離れた建造物
なのだ。何故このような形状の「塔」が造られたのだろう。思いは再びそこにたどり着く。
ことによると、「古墳」というものは、もともとこういう異様な姿、形のものだったのかも知れ
ない。


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2009年11月11日

東大寺を包む秋の色



東大寺秋景色

 きわみの朱色.jpg


「ナンキンハゼ」の紅葉は、今がピーク。緑から黄、赤へと色変わりして来た。今の色は、赤と
も紅とも朱とも異なる、血のような色。色見本に「しょうじょうひ(猩々緋)」という名称が
ある。能の演目のひとつの「猩々」。その扮装(出立)は、赤頭、赤地唐織、緋大口(または赤地
の半切)で、足袋以外はことごとく赤である。猩々緋の「緋」がその赤色を指す。ナンキンハゼ
は「猩々緋」の鮮やかな赤色。


 猩々・奈良人形.jpg


※ 「猩々」NICE-NARA 大和の工芸 よりコピー転載
http://www.nara-np.co.jp/graph/gra020101_craft.html


奈良公園に「ナンキンハゼ」の樹を多く見るのは、公園樹として紅葉の美しいことにあるが、も
うひとつ鹿の食害にあわないからだ。 若草山でも「ナンキンハゼ」をよく見る。秋から冬にか
けて付く「実」は鳥たちの大好物。そして、鳥たちが運んだ種子から、若草山にナンキンハゼが
育った。十数年後の若草山は、全山なんきんはぜに覆われてしまっているかもしれない。

 
 若草山のなんきんはぜ.jpg 若草山北斜面.jpg



イチョウのこうよう(黄葉)も今が見ごろ。東大寺西大門跡に一本イチョウの大木がある。樹高は
20m近くある。正倉院交番前のイチョウの木は、パンフレットや写真でもよく紹介され有名だが、
こちらのイチョウは、誰に見られることもなく、ひっそりと立っている。


 東大寺西大門跡のイチョウ.jpg 樹間に大仏殿遠.jpg



西大門跡奥にある駐車場から、杜の中から覗く大仏殿の大屋根が見える。東大寺界隈の街道沿
いの町屋は、駐車場に変わっているところが所々にあり、そこから、普段とは違った景色を見る
ことが出来る。さすがに古都、庭木の高さも半端じゃない。しかし、後十年もしないうちに、更
に伸びた木々に覆われて見えなくなってしまうだろう。それもまた古都ならではのものかも知れ
ない。


 若草山北面の紅葉.jpg


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2009年11月08日

奈良飛鳥園のラングドン・ウォーナー博士

5月5日の日記に書いたラングドン・ウォーナー博士と、偶然目にした文庫本で再会した。
この本は、わからなかった博士の人となりを的確に教えてくれるものだった。
タイトル『奈良登大路町』著者は島村利政。島村氏は1980年(昭和55年)11月25日、69歳で逝去。
明治45年(大正元年)の生まれ。
※島村利正 講談社文芸文庫 『奈良の登大路町|妙高の秋』2004年1月10第一冊発行


本は、17歳の頃、島村氏が初めてウォーナー博士と会った時の印象を詳しく書いている。また、
その後、博士が占領軍の美術顧問として再来日した時までの事を、飛鳥園の当主小川晴暘氏か
ら聞かされる私小説の形をとっている。

※「飛鳥園」: 奈良市に現存する、若い頃著者が勤めていた古美術写真の老舗
http://www.askaen.co.jp/gallery/index.html


 飛鳥園.jpg
 国立博物館の前にある飛鳥園。平成13年に改築された


ラングドン・ウォーナー博士は、第二次大戦下、京都・奈良・鎌倉等日本の古都文化財を、人類
の共通財産と訴え、アメリカ軍の空爆から救った米国人として知られている。
その件についてインタビューを受けた博士は「私にそんな力は無かった」と話していたそうだ。
それはおそらく、リストに上げながら京都・奈良以外の多くの都市を戦禍から救えなかった心苦
しさ、無念さに溢れた心情の吐露だったのではなかったか。



『奈良登大路町』の中で、飛鳥園当主小川氏が講演会の席上「・・・このことはウォーナー博士
が、直接私にはなしてくれたのではありません。ウォーナー博士はそういう人柄ではないのです。
副官の人が法隆寺の管長や私に、アメリカ空軍の秘話として、ひそかにはなしてくれたのです」
という行がある。ウォーナー博士は、自分自身を語ることを、極めて欲しない人であったとも
言う。


 ウォーナー博士写真.jpg


青く澄んだあの眼のいろを、私はときどき思い出した。あの眼との出逢いは、随分昔のことに
なるが、私は何かの機会に、ふと、その眼のいろを思い出した」そういう書き出しで短編『奈良
登大路町』は、始まる。
鑑真和上像の撮影現場で、「私は(著者)ホッグ美術館の要職にあるウォーナー氏が、日本の専門
の美術研究家の仕事ぶりになんとなく反撥するのをみて、その青い眼のなかに潜んでいる、つよ
い、純粋な精神を、
はじめて見てとったような気持ちがした」とも書かれている。


 ウォーナー像.jpg
 岡倉天心の教え子彫刻家平節田中氏のウォーナー像 


この短編を読んで私は、ウォーナー博士が、日本人の自認するところの「謙虚さ」という日本人
の資質あるいは気質を持った人だったのではないかと思った。東洋美術の研究家として岡倉天心
に師事し、日本文化に傾倒したウォーナー博士に、今さらに強い関心を抱き、改めて感謝の念を
強く覚える




※「ウォーナー先生像」 井原市立田中美術館よりコピー転載
http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/denchu_works/works/denchu_works_sculpture19.html
※「ウォーナー博士写真」 茨城大学五浦美術文化研究所よりコピー転載
http://www.ibaraki.ac.jp/izura/data_item4.html


ラングドン・ウォーナー(langdon Warner)は、1881年生まれ、ハーバード大学考古学科卒業後ボスト
ン美術館に入り、明治39年(1906年)7月、日本古美術研究のため来日、岡倉天心の指導を受けた。
五浦の天心邸に滞在し、また奈良の新納忠之介宅に寄寓して、日本古美術の研究にあたった。
帰国後は、クリーブランド美術館、ペンシルバニア美術館に勤務し、ハーバード大学附属フォッグ美術
館東洋部長となった。「不滅の日本芸術」「推古彫刻の研究」などを著した。

※以下の文章は井原市立田中美術館のHPより転載
人格清廉で、日本文化を救ってくれた恩人だとして礼を述べられると、「私が救ったのではない。岡倉
天心先生が救ったのだ」と語ったというエピソードがあります。田中はこれに深く感銘しました。この
像は、茨城大学内に設けられたウォーナー博士功績顕彰会の依頼によって作られたものです。

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2009年11月07日

若草山「はげ山」の謎

春日大社北端にある水谷神社と、東大寺の守護神手向山八幡宮を結ぶ間道に若草山の登山ゲート
がある。若草山は標高342m。高さ333mの東京タワーと大差は無いが、展望台としては若草山のほ
うが10m程高い。奈良盆地と周りの山を一望できる絶好の見晴らしを持つ。

 二段目辺りの眺望.jpg 二段目から奈良盆地を見渡す.jpg
 水平線に浮かぶ生駒山                金剛葛城の山並み遠望         


若草山の展望がすぐれているのは、この山が芝草に覆われた「はげ山」だからだ。登山口から山
頂までの尾根沿いの幅500m、奥行1000mの範囲に樹木は無く、視界を遮るものが無く実に見通し
が良い。 

 若草山地図.JPG 若草山航空写真.JPG 


しかし何故、若草山の山頂までの一部分に樹木が無いのだろう。
古文書によれば、奈良時代中期756年頃はまだ木の生い茂る山だったが、鎌倉時代(1185〜1333年)
にはすでに芝生の山になっていたようだ。 


若草山といえば、毎年成人の日に行われる「山焼き」がよく知られている。この山焼きに若草山
の禿山起源を求める説もあるが、冬の最中、休眠期の樹木が、芝草で焼かれる程度で死に絶える
ものではない。或ときから、意識的にかつ継続的に木々の伐採、排除が行われ、根絶やしされた
と断言しても良い。何故このような空間ができたか、史料による確証は無い。インターネット
「奈良歴史散歩」の「若草山山焼きの起源」に、「春日大社との境界争い」「迷信放火説」につ
いて詳しく書かれていて、参考になる。
※  http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html 


 山焼き東大寺境内から.jpg
 東大寺戒壇院から見た山焼き 09.01.15


若草山は1935年(昭和10年)まで「三笠山」いう名称であった。三笠山の形状(山容)が、笠を三重
に積み重ねたようになっていることに由来する。 若草山は、各重(段)を上るにつれ、見渡す景
観も変わって行く。麓の東大寺は二重目の山道の途中から見えなくなってしまう。


 二重目最後の大仏殿眺望.jpg
 若草山は東大寺の旧境内にある

二重目から三重目にいたる尾根道は、極端に幅が狭まり、三重目にある料金所あたりでは、道幅
は2m以下になる。足下に深い谷が広がり、山上のスペクタルとも言える景色が展開する。山肌は
このところの寒さですっかり晩秋の色あいに変わり、羊歯の葉は霜に会いすっかり枯れ、見渡す
限り枯れ葉色に変わり、晩秋の山という印象だ。

 二段目の山容と春日山.jpg
 山頂は晩秋の色あい


山頂に、古墳がある。「鶯塚」といわれる四世紀末頃に造営された前方後円墳。日本で最も高い
ところに築造された、前方後円墳だという。自然の造形を利用した墳墓であろうが、よくもこれ
ほど高い山頂に造営したものだと、古代人の死生観というか、神への想いに驚かされる。


 若草山山頂.jpg 史跡鶯塚古墳.jpg
 若草山山頂を望む                史跡鶯塚古墳


山頂に、「鶯陵」と彫られた石碑が建っている。これは古墳の前方部にあたるが、驚くことに、
手前の後円部からこの石碑を目指して、陵墓の上を、歩いて行けるのだ。被葬者の判らない
古代の古墳とは言え、墓の上をまさに、土足で踏み荒らすということになる。史跡として指定さ
れた墳墓の上を、自由に歩き回らせるなんてことは、他に例の無いことではないのか。
 

 「鶯陵」芝生養生中.jpg 史跡「鶯陵」前方後援円墳.jpg 
グリーンのネット「芝生養生中」           足下にある「前方後円墳」



若草山への登山ルートは、南側から逆時計回りに行く道と、北側から時計回りに樹間のジグザク
階段を登り一重目に入るルートがある。眺望の点で比較すれば、逆時計コースがベストだろう。
若草山の急斜面を「足」と、「目」で実感できる。春日大社のご神体、春日山(御蓋山)を眼下に
一望できる。この山、都市部では目にすることの難しい原始の山。日本の原風景を目の当たりに
できる、神秘の山なのだ。


 若草山斜面の向こうに大仏殿.jpg 春日山.jpg
 若草山の急斜面の向こうに大仏殿が見える           原始の山「春日山」



若草山の登山口、今年は11月23日で閉じられる。その後は若草奥山ドライブウエイの若草山の
山頂から、若しくは春日山との間を縫って上がる登山道から入山することができる。


<追記/09.11.12>

「鶯陵」に関して興味深い文献を見つけた。伊達宗奉著「大和考古学散歩」昭和43年2月10日発行。
(15頁) 『昭和八年の奈良県史跡名勝天然記念物調査委員会でその保存設備が議題となり、外形
実測などが行われ、昭和11年史跡に指定されている。(中略)戦後は柵がつくられて墳頂への登山
が禁止されるようになった』



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2009年11月03日

白色裸形女身阿弥陀仏と奈良町の小寺 

通称「奈良町」南東の道を一本隔てた所にl城寺(れんじょうじ)はある。由緒ある古寺だが、
知る人は少ない。『寺は表通りより奥まった所に、檀家寺風の門がある。(中略)ここが紀寺
かと少々疑いたくなる。(奈良の小寺 小林月史著)』


 l城寺山門から.jpg
 山門からl城寺本堂を望む

 
檀家寺(だんかでら)」。そういう言い方があることを、奈良町の、ある店で初めて知った。
東大寺、興福寺、元興寺などいわゆる南都七大寺にモノを納める商家が、檀家を持つ寺、境内
に墓地を持つ寺、つまり葬式を生業とする寺に対した見下した言い方のようだ。菩提寺と同じ意
味を持つが、檀家寺という言い方は、一部の、古くからある商家の優越感が生み出した差別の言
葉。


紀寺(きてら)」の創建は飛鳥時代。平城遷都とともに、平城京外京に移転した、古代豪族
「紀氏」の氏寺である。「平城京外京」とは、平城京の北東の四角く出っ張った地区を指す。
興福寺や元興寺のあるこの地域は藤原氏のための都であったと、千田稔氏の著書「平城京遷都」
に書かれている。


 s-平城京地図.jpg  平城京外京地図.JPG
 平城京地図                    平城京外京MAP


由緒ある紀寺が、何故、別院のl城寺を残すのみになってしまったのかその理由は知らない。
寺にも盛衰がある。地域社会とのかかわりが薄れたり、後援者の勢力が低下したりする中で、
衰退、隠滅して行く。かつての豪族「紀氏」も政治の主流から外れ、その勢力を失い、紀氏の
氏寺であったl城寺も、いつの間にか藤原家のもち寺となってしまったのだろう。

 
 観音地蔵菩薩石像.jpg 



『表門と一線上に小さい中門があり、この中門を越して堂が見える。中門は左右に土塀をめぐら
し、その土塀を背にして鎮(しず)もる石地蔵数体が吾々を迎えてくれる。こんな風景も奈良ら
しき古寺情緒である



 l城寺菩薩石像.jpg

今、境内のあちこちに千両の実が赤く色づき、石の仏を引き立てる。足元の紫色の葉は十二単
(じゅうにひとえ)のロゼットだろう。来春、紫の花の咲く時にもう一度見に来られたらいいの
だが。


 l城寺仏塔.jpg
 仏塔


お堂を囲む土塀の南側の墓所に仏塔がある。一基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を中心に、
船形光背の石碑、地蔵菩薩石像、夫婦墓石などが百本以上居並ぶ。風雨に晒され、石の表は摩
滅し、文字も読みづらい。寺の永いながい歴史を感じる。


 
l城寺には「白色裸形女身阿弥陀仏」なるものがある。『光明皇后のお姿を写したというだけに、
慈悲に満ちた女人仏で、顔、両手足共に精密に彫られ全体として立派なできである。上半身はそ
れに比して力が抜かれている。特に下半身は貧弱である。この様な像は作者が既に衣を着せるこ
とを前提に於いて彫ったものである。衣で隠せる部分は写実性に欠けていることがそれを物語っ
ている。』

 
 イベントポスター.jpg


山門の扉に、女身像をデザインした講演会のポスターが貼られていた。『l城寺の裸形女身阿弥
陀仏如来像とその周辺』がそのタイトル。参加特典として、毎年5月にしか公開されない、この寺
秘仏の女身像を特別に拝観できるという。これもなにかのご縁。申し込みをしてみようと考えて
いる。



ポスターには、「l城寺(紀寺)」と書かれているが、正しくは(紀寺別院)。奈良町にある元興
寺も、少し前までは「極楽院」と呼ばれていたそうだ。今でも境内の奥に「極楽院」と彫られ
た石碑が立っている。※1962年、昭和37年11月17日以降は、「元興寺―極楽坊」と名乗っていた。
1977年以降、「元興寺」と改名。

 
 元興寺山門.jpg 元興寺東塔跡.jpg 
 芝新屋町「元興寺」                  元興寺東塔跡

  

元興寺極楽坊のすぐ南20m足らずのところに、芝突抜町を挟んだ芝新屋町に、もう一つの「
興寺
」がある。表通りの石碑には「史跡元興寺塔跡」と彫られている。しかし、寺町を巡る観光
客の多くは、ここを通り過ぎてしまう。そうなんだ、元興寺の「塔跡」は元興寺の「極楽坊」と
同じ空気の中で、同じ境内にあってこそ、その価値が活かされるのだが。今のままの同名別寺
では、惜しい。実に惜しい。惜しすぎる。


 仏足石.jpg 地蔵堂の無縁仏.jpg
 仏足石

 元興寺本堂前.jpg
 小堂前の石畳


posted by ハマー at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良公園周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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