2015年03月20日

平群谷のイエローダイヤモンド

 信貴山へ向かう奈良県道250号線の途中に福貴畑(ふきはた)の集落がある。標高200mから400mの間の尾根沿いの狭間に80数世帯の民家が隣合わせに点在する。3月15日、日曜日。時々雨のぱらつく空模様だが、しっとりとした空気は写真撮影に申し分ない。

 車で登って来る途中処々に見かけたのと同じ黄檗色(きはだいろ)の樹花が、この福貴畑のいまだ冬の気配の残る谷間をよりきらびやかに彩っている。絵筆で描き加えたみたいだ。この景色、今までに一度も見たことが無い。あの樹、なんて名前なのだろう。それよりも、もっと良く見える、異なるアングルから撮ってみたい、と思った。

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  「金色の樹影霞みて平群谷」 

 谷は見るからに深くまた急峻で、すぐ目の前に見えるあの黄檗色の樹に近づくには、U字状に迂回する山道を辿って行かざるを得ない。その山道も途中で別の方向へとそれてしまう。谷底に向かって開けた道を見つけては何度も降りてみたが、行き止まりだったり、路面が崩れ落ちたりしていて結局目指す場所に辿り着くことができなかった。
 信貴畑の集落も急速に高齢化が進んでいる。働き手を失った谷は荒れるに任せ、かつての里山は藪笹に覆われまた竹藪となり人の行く手を拒む。そんな放棄された谷間に限ってあの黄檗色の花の樹があるのだが。
思うにあの花は、実は集落のそんな状況を知らせる一つの旗印(サイン)なのかもしれない。「そこにはもうだれも住んでいないよ」って。
 
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 樹の名前は意外に早くに判った。生け花用に木枝の伐りだしに来ていた農家の女性と出会い、聞くことができたのだ。
「あれは青文字(あおもじ)よ、ひとりでに勝手に生えて来るの」と。つまり植樹したものではないということか。きっと野鳥が熟した実を食べては、あちこちに種を落としたのだろう。だが、その青文字の花は平群町のこの山中でよく目にしたものの、奈良の他の地域では見た記憶がない。福貴畑のこの辺りは造園用の庭木が多く植え育てられている。おそらく最初の一本の青文字はこの地区の造園業者が植えたものであろう、と思うのだが。

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 図鑑を見ると「青文字は台湾黒文字とも言い、原産地は台湾、マレーシア。クスノキ科の落葉小高木。中国・九州・沖縄などの山地に生える。雌雄異株。早春,雄花は濃黄色,雌花は淡黄色の花をつけ,のち黒紫色に熟する。材は芳香を持ち,楊枝(ようじ)などを作る。開花前の薄緑色の苞に包まれた状態のものが、生け花の材料に使われる。」とある。日本にいつ渡来したのかは分からない。
 それにしても、管理放棄され人の手の入らなくなった平群町の山林が、この黄檗色(きはだいろ)の青文字で覆われたなら、さぞ美しく壮観であろうことか。「黄金の山」あるいは平群町の「イエローダイヤモンド」と呼ばれそれそそれは評判になるかもね。
 ※
 
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2014年10月05日

吉野山黒門と銅鳥居

 初秋の吉野山、通りを行き交う人の姿もない。朝早いこともあってかおおかたの店は表戸を閉ざしたままだった。駐車場からここまで歩いて来たが1q弱の山道でだれに出会うことなく黒門に着いてしまった。
 門の脇に「吉野一山への総門」との説明書きがある。かつて空海も西行も義経も秀吉も吉野を目指した全ての人がこの道を通り過ぎたかと想像すると、不思議な気持ちになる。それにしてもこの黒い門、簡単に通り過ぎることのできない、そんな気配を漂わせている。 
 門の形は高麗門という近世以降(1590年代〜)にできた様式で、今でも城や寺院などでよく見る。特に珍しいものではない。するとこの無視できない雰囲気は黒い色のせいか。いや、それよりも何故ここにこんな門があるのかということの方が重要なことかもしれない。

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 街道を跨いで立つ門。以前、箱根や碓氷峠の関所跡で同じような門を見たことがある。そうだこの黒門、ことによると関所の門だったのかもしれない。門番たちがここで通行手形を改めたり、入山者を誰何したり、或は通行税を徴収した。
 私たちはその時代に生きていたわけではないが、歴史教育やTVや映画、漫画や小説などを通して見て知った江戸時代の制度や文化をまるで目撃したことみたいに記憶している。だから黒く色づけされた高麗門を見た途端に記憶の再生スイッチがオンになり、あたかも江戸時代にタイムスリップしたような気分に陥る。初めて見たのに、黒門の前に立った時、なんだか身構えてしまったのは、そういう仕組みなのだ。

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※追記  黒門を入ってすぐの道端に「関屋桜跡」と墨書された石碑があった。昭和初年頃まで、老桜があった。大阪平野の豪商末吉勘兵衛(1526〜1607)が植えた桜といわれる。ここに関所があったことから付けられた名称である。またこのあたりの坂道を「関屋坂」というそうだ。

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 黒門から金峯山寺蔵王堂へ向かう坂の途中に、大きな鳥居がかかっている。「金峯山寺銅(からの)鳥居」という名称で、鳥居には珍しい銅製である。後で知ったことだが、初めて吉野山の修業に参加する行者は、鳥居に手を触れて『吉野なる銅(かね)の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞ嬉しき』と三度唱えるのが慣わしという。土産物屋に囲まれて立つブロンズの鳥居はオープンセットのようなちょっと大げさな感じがした。軽く見た訳ではないが、つい十五段の階段を登るのも億劫で鳥居の脇の車道を通り抜けて来てしまった。自分もあそこで修験者のようにやりたかったのに。残念ざんねん。

 





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2014年10月04日

花よりも濃き紅の茎秋海棠

 金峯山寺蔵王堂から400mほど南に上がった分かれ道のところに朝日館という和食の店がある。初秋のこの時季、店の向かいの切通しの斜面を秋海棠の薄紅色した可憐な花が覆い咲く。朝日館のおかみさんは接客の合間を見つけては花ガラを摘んだり、傷んだ葉を取り除いたりと道行く人の目を楽しませるべく手入に余念がない。

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 秋海棠の葉が左右対称じゃないことを教えてくれたのが朝日館のおかみさん。なるほど確かにハート型のひしゃげたようないびつなかたちをしている。今まで幾度も見たことのある秋海棠だが気が付かなかった。確かに非対称である。だけどちっとも不自然な感じがしない。
 よくよく見直してみると、右半分が大きい葉、左半分が大きい葉が交互に並んでいる。いびつと見えた秋海棠の葉、実は一対の葉でもって正しく対称をなしているのだ。例えば人間の手のひらの形が右と左では違うように。この葉の形、葉の並びが実に自然の摂理に適った姿であり、安定した「美」の形を持っていることに驚かされる。

 タイトルに借りた『花よりも濃き紅の茎秋海棠』は虚子の流れを汲む俳人阿部みどり女の一句。まるで血管の流れのような葉柄の赤い筋。秋海棠の花に翳りのある美しさを覚えるのはこの濃い紅色の葉柄のせいだろうか。 初めは、高浜虚子の次女・星野立子の『いびつなる秋海棠の広葉かな』をお借りするつもりだったが、みどり女の句が写真に合っているのでお借りした。

 朝日館のおかみさん、年の頃は自分と同じくらいか二つ三つ年下のような気がする。なかなかの美人である。花にたとえれば、開き始めの牡丹のような。『春の桜が有名すぎて紅葉の時季ですら人が少ない』とちょっと不満げに言った時の顔はキュートとだった。
 吉野山を訪れる楽しみが増えたかも。「七宝の花瓶に活けし牡丹かな」子規

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2014年09月25日

万葉まほろば線、卑弥呼の眠る箸墓を行く


 JR桜井線は巻向駅と三輪駅の間で山裾に最も近いところを通る。宅地化の進む奈良盆地東域だがこの辺りに限っては目に見える変化を感じられない。
 今回選んだ撮影ポイントは天理市との市境に近い桜井市箸中。卑弥呼の墓と考えられている箸墓古墳のすぐ東側に広がる田圃の中。以前、彼岸花の咲く頃に行ったことのある場所だが、四年も前のこと。少し不安もあったが、訪れてみるとあの時の景色と少しも変わっていなかった。
 古墳と稲田、彼岸花は1700年前の景色と同じはずだ。違いといえばその景色を台無しにする? 105系の青い列車。今日初めて知ったことなのだがJR桜井線は平成22年3月13日よりJR「万葉まほろば線」という愛称に変わったらしい。それにしてもこの景色にピッタリなネーミングではないか。

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 最近、鉄道写真家中井精也氏の写真に心惹かれている。「ゆる鉄」と言うそうだが、これまでの鉄道写真には見られなかった個性的な表現は素直に共感できる。絵本の一頁を見るような夢想的(ファンタジック)な印象のものが多いが、作画の視点や構図はさすがプロと思わせる感性やカメラテクニックに裏打ちされている。とても真似のできない高いレベルにあるが、同じように撮ってみたいと思わせるそんな魅力に溢れている。今回撮った二枚の写真、TVで見た中井氏の写真を意識したものだが、「ゆる鉄」的に撮れただろうか。

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 巻向川の鉄橋を渡る万葉まほろば線105系列車

 万葉集第七巻柿本人麻呂歌集に巻向川を詠った歌がある。
「巻向の痛足(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む」
 万葉集で巻向川は「あなし川」と呼ばれていた。今でも上流に穴師(あなし)集落がある。にしてもそ、この小流が万葉集に詠われた「あなし川」と知る人は、どれほどいるだろうか。 "巻向の村を流れる穴師川の行く水が絶えることのないようにまた来てみるつもりだ" 旅人の胸にはジーンとくる一首。
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2014年07月14日

葛城古道 七月の棚田


 久しぶりに九品寺に来た。奈良へ移住した09年の後半、頻繁に葛城の地を訪れたがその後の五年間は(名古屋に戻ったこともあり)数度訪れたきりだった。

 葛城古道の中でも、九品寺と一言主神社の間の標高180mの山裾を南北に走る区間は道すがら奈良盆地南端を眼下に一望できる絶好のポイント。何度見ても飽きることのない情緒あふれる景色がある。
途中、綏靖(すいぜい)天皇高宮岳跡と言われる史跡がある。こんなところに?と思わせる山の斜面の狭小な場所である。

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 地図を見直してみるとこの一帯は、葛城川の支流である鎌田川と水越川にはさまれた扇状地で、高岳宮跡はその扇の要に当たる眺望に優れた小高い場所にある。
扇状地に展開する稲田を一望できるうえに、水浸の恐れのないまた背後を脅かされることのない安全な地形でもある。今は杉林のはずれのこれといった見どころのないしかも視界を木々に阻まれた最も見通しの悪い場所だが、葛城王国を統治するに最適な場所だったのかも知れない、と思える。

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 九品寺周辺の棚田は秋の彼岸花を見に訪れる人の多いよく知られた土地だが、境外の休耕田に咲く蓮の花も見事ですと(ご住職から)聞いたことがある。行ってみたが七月の初旬、花の時季にはまだまだ早すぎた。だけど、柔らかな緑色をした幼い蓮の丸葉と鉛筆で描きなぐったようなフトイ(太藺)の針葉の直線、鏡のように光る水面に落ちる蓮葉の黒い影の対比が見たことの無いデザインを作り出していた。
 枕草子に「はちす葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし」という一文があるが、確かに蓮の葉の特異なフォルムと色彩には他の草葉とは異なる際立った優雅さを感じる。最も、盛夏の重なり繁茂するさまにはなにか暑苦しくて「めでたし」とは思ったことはないが、早朝のキラリと輝く水玉を載せた薄緑色のビロードに似た蓮の葉には魅了されるものがある。清少納言譲もいいとこ見ています。

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『余り苗いつまで待つも出番なし』 奈良県出身の俳人津田清子氏(1920.6.25-)の一句

 俳句集を読んでいるとよく自分の撮った写真と一致する情景を思い描かせる句に出会うことがある。その句を読むことにより、自分の感性(視点)が何に根差していたかを教えられる。最初の一枚は無心に撮るが、それ以降つい同じモチーフを意識的に追いかけてしまうことがよくあるが、最初の感動はもうそこにない。この写真は九品寺近くの水田で撮った、二作目だが、説明的写真になってしまった。
 ところで「余り苗」が夏の季語ということを今日初めて知った。 「季語」というものはその言葉を用いた優れた作品、いい句が作られると季語として定着するということを俳人金子兜太氏が言っていたけど、「余り苗」を季語にまでした句はこの津田氏の句に違いない、のでは?。余り苗、「捨て苗」ともいう。

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2014年07月04日

「茅の輪くぐり」 石上神宮・夏越の祓 2014


 石上神宮の社務所玄関に張られた紫色の神社幕は、この日、特別な祭礼がとり行われることを示している。「十六八重表菊」の白抜きの社紋が目に鮮やかだ。この菊の紋、天皇家以外の使用が禁止された特別な紋章のはずだが。ということは、現天皇家が石上神宮と深い係わりのあることを暗示するということになる、のか。
 
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 玄関の三和土に杉の葉を入れた「こぼし」と曲げわっぱの「手水桶」、柄杓がさりげなく置かれている。これも祭典の日ならではの品々だが、かつてはごく普通に使われていたものに違いない。今では神社など特別な場所でしか目にすることができなくなった和の工芸品としてある。
その奥、上がり框の前に浅沓(あさぐつ)が五足並ぶ。神職専用の履物だが、平安時代に男性貴族が庭歩きなどに使った木靴で、今でいえば高級な「つっかけ」のようなもの。底の部分は木製。上部、足の甲などを包む部分は和紙の張貫(はりぬき)という技法で作られている。見た目より軽い履物のようだ。今日の祭典に臨む五人の神職が使う。

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 6月30日、多くの神社で夏越の祓(なごしのはらえ)と呼ばれる除災行事が行われる。犯した罪や穢れを除き去るための神事である。
 四年前の7月1日偶然に訪れた石上神宮で「茅の輪」という名の不思議なオブジェを初めて見た。イネ科の植物、茅(ちがや)で造られた人が通り抜けできる直径2mくらいの太い草の輪で、この輪の中を8の字に三度くぐり抜けることにより、夏を無事に乗り切れる力を授かるといわれる。
あの日まだ夜も明けきらない薄明りの中で見た茅の輪のシルエットは際立った存在感を発していた。もう一度見たくてずっと気にしていたのだがその後奈良に住んだ二年の間にも「茅の輪くぐり」を見る機会は訪れず、やっとこの夏に実現した。

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 夏越の祓は、まず神職が捧げ持つ錦織の袋に包まれた神剣「七支刀」の入場から始まる。儀式の始まりを今や遅しと騒然と待っていた数百人の氏子や参拝者たちは、神剣が登場すると一瞬にして静まりかえり、右左に大きく道を開け、深く礼をして宮司・神職が通り過ぎるのを待つ。
その後、宮司による大祓の詞(おおはらえのことば)の奏上の数分の間も頭を上げることなくかしこみ聞き入る。なんとなんと多くのアマチュアカメラマン達までもがファインダーを覗くこともシャッターを切ることもなく首を垂れかしこまっているのだった。驚いたことに儀式に参加しているのだ。

「烈布の儀式」、「人がた(形代)のお祓い」など大祓の祭典が終りいよいよクライマックス「茅の輪くぐり」が始まった。神職が詠みあげる古歌の唱え謌に続けて、参拝者たちの「みなづきのー なごしのはらえーするひとはー 」と一節ごとに唱和する低くくぐもった声が神宮の森を満たし消える。

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 先導神職に続き神剣、宮司、形代(かたしろ)を収めた大櫃を担いだ神職二人の順で茅の輪をくぐり抜ける。その後を背広姿の氏子総代、氏子、一般参拝客が続く。茅の輪を支点として祓所と大鳥居の間およそ百mあまりの距離を三、四百人が列をなしザクザク、ざくざくと進む。皆表情も無く「みなーづきーのー なごーしのーはらーえーするーひとはー ちとーせのーいのーちー のぶーとーいうーなりー」と口々に詠いながら茅の輪を三度くぐり抜け、そして本殿へと歩む。皆ただ無心に歩いているように見える。

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 茅の輪の横の八足(祭壇)に置かれた茅の束は夏越の祓を終えた参拝者たちが持ち帰り、家の門前に飾ったり厄除け用に小さな茅の輪を手作りすると聞いた。今では茅の輪を人が潜り抜けるが、鎌倉時代の頃は六月の晦日の前後に、疫病除けの小さな茅の輪を腰につけたという記録がある。茅の輪を人が潜るようになったのは(いつのことか定かではないが)後世江戸時代以後のことのようだ。

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  四年前の夏、未明の境内で見た「茅の輪」は未知の世界への入り口を思わせるなにか妖しげなものに感じたものだが、実は罪穢れを取り除く不思議のフィルターだった。「夏越の祓」は今どきの言葉で言えば行政主催の防災イベントのようなもので、奈良時代の法律(大宝律令)に定められた宮中行事に起源を持つ。1300年以上前に行われていた行事がなんの疑いもなく今も続いていることに正直驚かされるが、どんなに科学や技術が発達しても自然はそれらをいとも簡単に凌駕して見せる。侮れば自然はいつも人間の想像力を超えた破壊力を見せつける。人間が自然の前に無力であることを承知しているからこそ1300年もの間続けられている。尽きるところは未知の存在、神の力に頼らざるを得ないと諦念している。「茅の輪」はその象徴であるが故に底知れぬ霊力を秘め放ち、言いようのない畏れを自分に感じさせたのであろう。

 
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2014年04月24日

惜春・山の辺の道


奈良・山の辺の道をモチーフに写真を撮り始めて今年で六年目になる。小さな畑や田んぼ、果樹園、雑木林、野原、通り過ぎる集落、寄り添うように続く山並、そして広い空。古墳群と神社、仏閣を結ぶ一本の道。
この単調な景色の中を飽きることなく繰り返し繰りかえし歩き続ける理由は、夏の朝初めて訪れた日に感じた「ここがやまとの中のやまとなのだ」というときめきに似た想いが、今も一本の道のように続いているからなのだ。古代人の往来した幻の道。

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 桜井市と天理市の境 穴師町の一本の樹

四月中旬の奈良は大気が安定して春らしさが最もよく感じられる。「草木清明 風光明媚」道沿いに咲く山桜の白い花はいつか散り始め、惜春という言葉がいかにも心地よく響く時季。
毎年ちょうど春のこの頃、崇神天皇陵の後円部に、四角四面に花を咲かす一本の桜樹がある。濠端にひとり生えしたものだが、毎年上へうえへと立ちあがって行く姿は、過密都市のビル街に建築中のビルディングみたいでなにか可笑しい。陵墓の桜が持つべき幽玄なイメージを撮りたいと思うのだが、どうもこの桜樹を目の前にするとしっくり行かない。それにしてもこの桜樹、一体どこまで伸び上がって行くのだろう。

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 崇神陵の桜樹 天理市柳本町

足下に「踊子草」の群生を見つけた。どこにでも見かける野草のはずだが、山の辺の道では珍しい。この道は東海自然歩道のルートでもありハイキングコースとして良く管理されている。都会人に愛好される山野草もここらでは雑草扱い。だから定期的に刈り取られ、目に触れる機会は滅多にない。踊子草を見つけたこの場所は崇神天皇陵と櫛山古墳が山の辺の道を隔てて接する斜面下にあり、人目にも付きにくく運よく?生きながらえているようだ。いやいや運がよかったのはこちら側だ。

 
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 踊り子草 天理市柳本町

道端や線路沿いでもよく見かける「ハナダイコン」も意外に目にすることがない。これもやはり畑の雑草に変わりない。放棄された柿畑で、毎年咲いている。正式名称は「ムラサキハナナ」。草花で○○ナとつく草は菜花として食用されると聞いている。だから刈り取らずに残しているのかもしれない。

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 ハナダイコン 桜井市穴師

渋谷の町を抜けて山の方へ上って行く農道脇に「泥小屋」と呼ばれる農機具を入れる簡素な小屋を見つけた。明らかに今も使われている。壁土のような篩(ふるい)を通した土ではなく、小石混じりの泥の塊を日干しレンガのように固めそれを積み上げて造った壁で屋根を支えた小屋。この辺りは壁土に使う良質の土が採れると聞いたことがある。この小屋を見ると古代の建物もこんな造りだったのではないかと想像させる。何度も通った道なのに今まで気が付かなかった。他にもこの地に残っているだろうか。

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 泥小屋 天理市柳本町

街中で土壁むき出しの家を目にすることは滅多にないが、奈良県下の町や村々では割とよく見かけたような気がする。中山町に面白い土壁の家がある。二軒とも農具小屋だが、家まわりに置いたU字溝をプランターにしてそこに咲き揃うピンクのチューリップの花が土壁と何か不釣り合いのような、逆にマッチしているようにも見え、なにか面白くて撮った。
もう一軒は、板戸の周りの土壁面に日章旗のような、自転車の車輪の上半分みたいな模様をいくつも刻みこんだ家。サイズの小さな画像では識別できないと思うが、このデザインは何かのおまじないなのだろうか。或は単なるいたずら描きなのか。いつか確かめてみたい。

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 チューリップ咲く          土壁の不思議な模様   天理市中山町

山の辺の道の魅力は訪れる季節ごとに、また通り過ぎるその日その時間ごとにいつもと違う姿を見せてくれることだ。長岳寺から山の辺の道を北に向かって中山大塚古墳の石畳を上って行くと、道端に安置された数十体の小さな石仏群が道行く人を出迎えるように並んでいる。だけどすぐ横にある小さな観音堂を訪れるハイカーは少ない。このお堂の周りにも数体の石仏を見られる。供えられた水仙の花が石仏たちをずいぶん惹きたてている。思わずシャッターを切った。4月17日 午後六時二十分、この日最後の一枚。

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 中山観音堂の石仏     菜の花畑の夕暮   天理市中山町

  
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2014年04月10日

法隆寺夢殿の枝垂れ桜

夢殿の在る法隆寺東院伽藍の桜をやっと見ることができた。これまで夢殿には桜花の時以外初夏や早春に訪れている。伽藍の北東隅のすでに古木の風格を備えたその枝垂れた姿をみるにつけいつも花の咲く様子を思い描いてみる。
一本桜ならば奈良の地には他にもっと見事な姿を見せてくれる名所がいくらでもある。だけど自分が夢殿の桜にこだわるのは、気持ちの中に法隆寺のもつ精神的な力、或は宗教的な力に強く感応する部分があるからだろう。この桜樹は奈良斑鳩の千数百年の歴史を養分として育った特別な一本なのだ。人がその出自や血統を云々するようにこの桜樹には語るべき高貴な歴史がある。

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法隆寺を訪れた人ならばだれもが感じると思うが、この寺には他の寺にはない特有な気が流れている。静謐と言ったらよいだろうか。奈良の他の寺が持つような俗っぽさというか人臭さがない。参道を夢殿に向かって西大門から東大門に進んで行く間に知らずしらず心が洗われるというか穏やかな安らぎに似た心持に満たされる。 

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夢殿の枝垂れ桜は想像していたものと違った。もっと違う能舞台さながらの幽玄美を思い描いていたのだが。朝日を受け活きいきと輝く生気に溢れていた。自分はその溢れるばかりの勢いに圧倒されどう撮ったら良いのか決められずに右往左往するばかりだった。
まっ、今回はこれでいい。初めて出会ったのだから。次回はもっと落ち着いてゆったりとした気持ちで見ることができると思うから。(平成26年4月1日撮影)

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2014年04月06日

奈良 石上神宮の桜

石上神宮のある天理市杣之内(そまのうち)あたりは山の辺の道のなかでも最も豊かな自然が残る。神宮の背後の山は神域として立ち入ることが禁止されていて、太古から続く自然の姿が今に保たれている。千数百年もの年月、人と神の接点の地として守り続けられた森が放つ霊気は確かに人の侵入を強く拒んでいる、ように感じさせる。
 
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この日は午前中まで前夜からの雨が残る天気で、晴れの日なら花見会場の神宮記念公園は人でごった返し喧騒に溢れているだろうに、ぼんぼりに灯の入る時分になっても人の姿はなくただ静けさだけが漂う夕暮れ。人気のない花見の場はただただ寂しい。

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神宮のすぐ前を走る奈良県道51号線の西側の地域には幼稚園から大学まで天理教会が経営する文教地区が南は旧国道25号まで拡がる。布留川を挟んだ北側の地域は教会本部や病院、付属する組織の建物群が分散し、さらにそれの周りを統一されたデザインの住宅や宿舎ビルが取り囲む。学園都市というより完全なる宗教都市の様相だ。

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二連煙突が印象的な天理大学の建物を撮っていると、先刻公園で声をかけてきた青年が「この景色大好きなんです」とまた話しかけてきた。「遠くに見える山並が故郷の熊本の景色とそっくりなんです」と。熊本へは行ったことがないので彼が見ている景色がどんな感じのものなのかその時は想像できなかった。改めて地図をみると、熊本市は西、北、東の三方をなだらかな山々に囲まれ、確かに奈良盆地から見る山並に似ているように思える。奈良の山並を見るにつけ五百q以上も離れた故郷を思う気持ちとはどんなものなのだろう。きっと彼の眼には熊本の山並に沈む夕日が見えているのだろう。なんだか無性に熊本へ行ってみたくなった。
(平成26年3月31日撮影)

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 天理市街を臨む
 


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2013年12月23日

奈良の冬 写真俳句(2)

森村誠一「写真俳句の愉しみ」から
『写真は読んで字のごとく、被写体の情報を忠実に写し取ってくれる。芸術写真には感性が求められるが、俳句写真には情報が欲しい。特に俳句には、一瞥しただけでは隠れている情報が写真には写し取られる。写真の情報から俳句を創造することによって、感性の出番となる。一見平凡な写真を俳句と結び付けることによって、非凡な表現世界を創造することが可能となる。(森村誠一「写真俳句の愉しみ」五頁)』

一瞥しただけでは隠れている情報とはなんだろうか。単に撮影時に見落としただけというものではあるまい。見えているものが持つ、被写体の多面性ということなのか。「感性の出番」とは、自己の美意識、価値観などの多様性ということなのだろうか。

本郷の又兵衛桜で良く知られた奈良県宇陀市(旧大宇陀町)と桜井市の市境に位置する音羽三山の上空は、関空と羽田・成田、中部の国際空港を結ぶ航路に当たりひっきりなしに大型ジェット機が飛来する。写真は日没直後、すれ違った時を撮った一枚。

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 冬の空 航路まじわる ことはなく

長い時間見ていたが、意外なことに上空で機体が交差する瞬間はこの二機以外には無かった。衝突するんじゃないかと心配したが両機は何事もなく飛び去って行った。ジェット機の速度は時速800kmから一千kmを超えると聞くから、通過時の両機間の速度は瞬間時速二千km近くになる。地上から見ていてもあっと言う間のことだった。
 
 防空の 刃まじえる 今日の空

写真を前にして思い浮かんだ言葉は「防空識別圏」だった。今だにニュースなどで報じられるが、尖閣諸島を巡る領土問題に端を発していることであり、2010年9月に海上保安庁巡視船と中国漁船海上衝突以後の緊張がついに空域までに拡大した訳で更なる不安を煽る。かの国は機会を見つけ旗を立てに上陸するだろうか?。かつて大韓航空機がミグ戦闘機のミサイル攻撃で撃墜されたたことを思い起こす。絶対に刃(やいば)をまじえる事態に発展しないことをただただ祈る。

 飛ぶ夢を 今も見ている 冬の空

いつの頃からか覚えていないが晴れた日にはつい空を見渡してしまう。空港が常滑の中部国際空港に移る以前は、家の上空が小牧空港に離発着する飛行機の航路になっていたので見上げればほぼ確実に機体を見ることができた。小学校に上がる頃から兄達の影響で零戦や隼などの戦闘機に興味を持ち続け還暦を過ぎた今も変わらない。パイロットになりたいと思った。今でも、もし「一日署長」みたいにどんな仕事にでも就かせてもらえるという機会があれば、戦闘機の操縦士を経験したいと思っている。

次の写真は大神神社近くの四世紀末頃に築造された茅原大墓古墳の上から丸池を撮った一枚。池は墳墓の周濠の一部と考えられる。日射しのせいかあまり寒さは感じなかったが、風が吹いていたようだ。撮影時には気がつかなかったが画面の右隅に二羽の水鳥が写りこんでいた。平板になりがちなところを風の起こす波紋がキラキラと光り救ってくれている。

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 冬木立水面に青の讃えおり

  
山の辺の道筋に、近現代の著名人が揮毫した38基の万葉歌碑が建てられている。歌人、俳人、画家、茶人、作家ほか奈良縁の人たちである。そのうちの一基、柿本人麻呂の歌を棟方志功の版画に収めた画賛を彫った石碑が桧原神社に向かう桜井市穴師の車谷にある。1200年以上の時を隔て万葉歌人と版画家のまさに夢のコラボレーションである。

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しかしこの石碑、道路から一段と低く、道行く人も見過ごしてしまう場所にある。これは県道改修の際、路面が50cmほど嵩上げされてそのようになってしまったようだ。多くの歴史的文化財が道路工事の末に損なわれたり消失して行く不幸な例の一つに近い。思わず絶叫!

 歌碑を見よ 山の辺の道に 歌碑を見よ
 万葉と 昭和偉ならび 山辺道
 山辺道 万葉昭和 枯れ薄

 写真を見て創る俳句に挑戦してみた。思いついた言葉を五七五に並べることはさして難しくないし興味深い。しかし創った俳句を読み返してみても、俳人の創った句を読んだ時のような感動はない。そもそもボキャブラリーが全く足りない。こればかりは学習を続ける他に方法はないのかも。

 写真俳句に挑戦とりあえず終了

音羽三山 音羽山(851m)、経ケ塚山(889m)、熊ケ岳(904m)奈良盆地南東側の山並


posted by ハマー at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 奈良のこといろいろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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